川柳的逍遥 人の世の一家言
半日は黒幕半日は人間椅子 くんじろう
阿闍梨公暁 VS 二代将軍・源実朝 「実朝暗殺、黒幕は誰か」 実朝は右大臣就任の儀式が終わった帰りがけに、鶴岡八幡宮の石段の大
銀杏のある辺りで、僧の姿をしたの刺客に殺されたことになっている。
頼家の子・公暁が「父の仇を討ったぞー」と叫び声を上げ、
それを聞いた人がいることから、犯人は公暁である…とされている…。 だが、しかし当日、実朝は、大勢の兵士を引き連れて、鶴岡八幡宮に来
ている。もし石段で事件が起ったのなら、護衛兵の目前で暗殺が簡単に 遂行されること自体、きわめて不自然ではないのか。 まさに雪中の惨劇であった「実朝暗殺事件」は、犯人の公暁が殺された
ことによって、その背景は謎に包まれている。 直角が三角形を離脱する 加納美津子
「三浦義村ー黒幕説」
義村の妻は、公暁の乳母であった。当時、乳母と子の関係は密接であり、
公暁が将軍になれば、義村は幕府の権力を手中にできる。 そこで彼は公暁を唆かして、実朝と義時を暗殺するクーデターを企てる。
が、義時を討ち損じてしまう。 やむなく義村は公暁を殺し、彼の単独犯に仕立てたというものである。
そして、下手人の公暁をいちはやく捕え、討伐したことから義村は、
その功により駿河守に任官している。 だが公暁の乳母は義村の妻で、息子の駒若丸が公暁の門弟であること、
実朝殺害後、公暁は義村を頼っていることから、この事件の黒幕が義村 であるとする疑惑は根強い。 私から何を引いても私です 雨森茂樹
「北条義時ー黒幕説」
その日、儀式で実朝に従っていた義時は、突如、「気分が悪い」と言い、
姿を消した。代役を務めた実朝側近の源仲章が、義時に間違われて殺害 されていることから、義時のグッドタイミングすぎる退出に疑惑の目が 向けられているのである。 しかし事件後、義時と三浦義村は互いに遺恨ははなく争っている様子も
ない、などのことから、両者の共犯ではないかとする説もある。 さらには、実朝に不安を抱く鎌倉武士団が、共謀して暗殺を実行したと
するものもある。 ここからは「駄馬の如く」で、事件の真相を探索している永井路子氏に
ご登場をねがう。
取り敢えずコンマを打って時間置く 小林すみえ
VS 北条義時 三浦義村 「鎌倉殿の13人」 実朝暗殺の真相・永井路子の推理
三浦義村が再度戦いを挑んだのは、6年後の建保7年(1219)
1月27日、鶴岡八幡宮の社頭であった。 この日、実朝はそこで甥の公暁に暗殺されている。
<はて、それが何で三浦の挑戦か?>
と、不審に思う向きもあるかもしれない。
が、この公暁―つまり頼家の忘れ形見の背後にはー、三浦義村が控えて
いるのだ。実朝の乳母が北条氏であるように、義村の妻もまた、公暁の 乳母だったのである。 (図式的にいえば、この事件は、実朝・北条組と公暁・三浦組のタグマ
ッチ・プレーである) 三浦側は幸先よく実朝を誅殺するが、ここから事件は、複雑な屈折を見 せはじめる。むしろ実朝以上に本命だった義時が、するりと逃げだして しまうのだ。つまり、公暁・実朝戦には決着がついたが、義時・義村は 勝負がつけられなかったのである。 うなずいてはみたがどこかに刺ひとつ 荒井加寿
「―逃げられたか、無念!」
変り身の早い三浦義村は口を拭って、
「俺は知らない」
あれは公暁の単独犯行だ、と頬かぶりをきめこむ。
辛うじて体勢を立て直した義時は、義村のしらの切り方につけこむ。
「知らない? じゃ公暁を探しだして殺してしまえ。あいつは将軍を
殺した大犯罪人だ」 やむを得ず義村は、直接の部下でない武士を派遣して、公暁を殺させ
ることにする。 そうとも知らず、義村との同盟を信じて、その邸に行こうとしていた 公暁は、実にあっけなく殺され、哀れな最期を遂げるのである。 裏切りの金平糖を踏みつぶす 合田瑠美子
結果的には、北条側は貴重なかけがえのない実朝という旗を失い、
義村は、養君殺しの汚名を着せられたわけだ。 そして <クーデターは、まことに中途半端な形で終ってしまう―> というのが私のこの事件に対する判断である。 思い合う心あるのに擦れ違う 津田照子
4代将軍の地位をという甘言に乗った公暁 北条氏が、<公暁をそそのかして実朝を殺させた>という、
これまでの説から見れば大分違う。 しかし自慢するわけではないが、 いま学界でもほぼこの見解が認められている。 (これは単なる肉親の私怨からの凶行ではない) 鎌倉の実力者が「ナンバー2の座を賭けて争った」ことがそのポイント なのだ。 もともと、北条氏が実朝を殺そうとした、というのがその時代の歴史を
解さない考え方だというべきかもしれない。 乳母である北条氏と実朝の緊密な関係を思いおこしていただきたい。 また実朝が天皇、北条氏が藤原氏の関係にあること、同じ派閥の将軍と
執権が手を組んでこそ<幕政の運営がスムーズにゆく>ことなどを考え れば、実朝が北条氏にとっていかに大切な存在だったか察しがつく。 カジュアルなこむらがえりで浅葱色 井上一筒
また義時が、この修羅場を抜けだせたことを、事前に計画を知っていた
からだという説がある。 が、これは事件の全貌に対する認識不足からである。 この事件は、公暁の単独犯行でもなければ、義村と公暁だけの秘密計画 でもない。 もっと規模の大きいクーデターであって、当時の史料を見ても、八幡宮 の僧兵などが多数動いている。ということは、すなわち、義時側に味方 する僧侶も何人かいたということでもある。 義時は、 <そこから情報を耳打ちされ、危うく身を躱したものの、大事な実朝を
救うところまでは手が及ばなかった> と、いうのが真相ではあるまいか。 黙るしかない笑わないコンマ以下 岡内知香
権謀の人、義時としては珍しい大ミスだ。
いや、ここでは北条義時の手落ちを責めるよりも、彼を上廻る三浦義村
の怪物ぶりを賞賛すべきかもしれない。 この二人に比べれば、実朝・公暁は、黒子に操られた人形にすぎない。 むしろ「将軍殺しの惨劇」の終った後の、両者の駆引きこそが、 見ものなのである。 べりべりと絆を剥がすガムテープ 寺川弘一
友ではあるが仲間ではない2人 もし、二人が血気にはやる人間だったら、ここで血みどろの果しあいを
するところである。 義時は、 「実朝公が居られぬなら生きている甲斐もない。む、む、弔い合戦だ」
とばかり殴りこみをかけたかもしれず、一方の義村が、
「義時に逃げられたとは、わが一世一代の計画も水の泡……」
「かくなる上は…」 と、決戦を挑んでもふしぎはない。
ところがどうだろう。
義時は後、義村に公暁を殺させ、
「さ、これで五分五分だな」
といわんばかりに、それ以上深い追及はしなかった。
切り取り線にアロンアルフアをつけました 大内せつ子
これを中途半端な妥協と見るのは、政治を知らない連中である。
彼ら二人はお互い傷つきながらも、お互いに貸しを作って手を打った。
<―なあに、勝負どころはまだあるさ>
それぞれ口の中で呟いていたかもしれない。
事実、両者の戦いはまだ何度も続く。 九回の表裏が終るのは、彼らの子供や孫の代になってからのことなのだ。 それにしても、実朝暗殺後の数時間は、義時の正念場だった。
戦場で白刃をくぐるよりもすさまじい義村との対決はー、
一世一代の大勝負だといっていい。 身のほどを知っているから迷わない 橋倉久美子 PR 紫陽花の芯まで濡れている挽歌 笠嶋恵美子
右大臣拝賀の儀式を終えた実朝が鶴岡八幡宮の石段を下りていた。 この時、石段脇の根元に若い僧侶が、じっと潜んでいたことを実朝は もちろん、警護の人々も知らなかった。 「鎌倉殿の13人」 実朝暗殺 承久元年(1219)1月27日、白雪山に満ち、地に積もる…。 その日、夜になってまた降りはじめ、二尺余になった。 雪のなか、実朝は、一千の兵を従えて鶴岡八幡宮に向かった。
実朝の傍らには、太刀持ちとして執権・北条義時の姿があった。
午後六時、一行は八幡宮の入口に到着した。
この時、太刀持ちの役を務めていた義時が、急に「気分が悪い」と訴え
出ている。 そして義時は、太刀持ちの役を実朝の側近、源仲章に託し、館へと引き
返してしまったのである。 ときどきは引き算をして身を軽く 津田照子 仲章を従え八幡宮の階段を下りる実朝 実朝と対立する北条義時が去り、代わりに、実朝が信頼する公家の源仲
章が付き従うことになった。 やがて社殿で儀式がはじまった。
実朝とともに社殿に入ったのは、源仲章と都から参列した朝廷の公家た
ちだ。 そして儀式を執り行う僧侶で、実朝以外、武士の姿はなかった。 夜八時、儀式が終わった。
拝殿を出た実朝一行は、護衛の武士たちの待つ方向に進んだ。
雪がしんしん降りかかるなか、実朝は「理想の将軍となるための第一歩」
を記そうとしていた。 結び目の少し緩んだ祭りあと 山本早苗
大木の陰に潜む公暁 「実朝・仲章瞬時の暗殺劇」 将軍に執着した三代将軍・実朝は、父・頼朝をしのぐ右大臣の官位を得、
望みを達したかに見えたのだが…。
石段脇の大銀杏の樹の根元に若い僧侶が三人、じっと潜んでいたことを
実朝はもちろん、警護の人々も知らなかった。
その中の一人が、実朝の装束の裾を踏みつけると、逃げる術を失った実
朝めがけ、太刀を一閃させた。 瞬時の暗殺劇だった。
実朝の理想の将軍への夢は、ここに無惨にも絶たれたのである。
続けて僧は、実朝の傍らに立つ太刀持ちの、源仲章につかと向かった。
終章が割れる守りを見せてから 上田 仁 禅師公暁実朝公と仲章を討つ 「獅子身中の虫義時!義時覚悟!」
「ま、ま、待て…私は仲章だ。右京兆ではない」
「黙れ!」
源仲章にも僧の刃は、躊躇もなく振り下ろされた。
朝廷とつながる将軍と、その側近が殺されたのである。
直後、討ち取った実朝の首を高々と挙げ、僧が叫んだ。
「八幡宮別当阿闍梨公暁 父の敵実朝を討ち取った」
犯人は二代将軍・頼家の息子・公暁だった。
(「愚管抄」では、公暁は父・頼家に代わって将軍となった実朝を敵と
恨み討ったとされている。 快哉を叫ぶ判決台の文鎮 山口ろっぱ
鶴岡八幡宮の大銀杏
「鶴岡八幡宮」といえば、鎌倉幕府の象徴である。
頼朝がこの地に幕府を創設して以来、御家人の心の拠り所でもあった。
しかし、そんな八幡宮で、最も悲惨で皮肉な事件が、起きてしまった。
(「吾妻鏡」によると、右大臣就任の儀式が終わった帰りがけに石段の
大銀杏のある辺りで、僧の姿をした3人の僧に殺されたーことになっ
ている。 2代将軍・頼家の子・公暁が「父の仇を討ったぞー」と、 叫び声を上げ、犯人は公暁とされている) 実朝は頼家の実の弟だから、甥にやられたことになる。
ついさっきまではこの世の人でした 岡内知香
しかし、当日、実朝は、大勢の兵士を引き連れて鶴岡八幡宮に来ている。
もし石段で事件が起ったのなら、護衛兵の目前で暗殺が遂行されたので ある。不自然である。 八幡宮で代々警護を務めてきた石井家には、実朝は、「社殿で殺された」
と伝承されているという。 「吾妻鏡」は、北条氏が編纂したものだから、事件直前の義時の発病な
ど内容を充分疑ってかかる必要があるだろう。 そうなると、公暁犯人説も怪しくなってくるが…。
(現在、鎌倉随一の観光名所として多くの人が訪れる鶴岡八幡宮。
約800年前にここで起きた暗殺事件の真相は未だに闇のままである。
石段の大銀杏は、このとき何を見たのであろうか)
サヨナラの手が裏向きでございます きゅういち
「吾妻鏡」によると、公暁はこの直後に意外な人物に手紙を出している。
侍所次官・三浦義村宛である。 「今、将軍の位が空いた。次の将軍となるべきは私である。
早く自分を将軍職に就けるよう取りはからえ」
義村の妻は、公暁の乳母だった。
義村と公暁は、親子同然の間柄だったのである。
実朝を殺した公暁が将軍になれば、三浦義村は、北条氏以上の力を持つ
ことができる。 しかも義村は、なぜか参列すべき儀式に姿を見せていなかった。
このことから、義村が「実朝暗殺」の黒幕の一人として疑いが出てきた。
黒幕の裾のほつれにみる毛脛 宮井元伸
ところが、三浦義村は、公暁からの手紙を受け取ると、即座に意外な人
物に連絡を取った。 執権・北条義時である。
義村は、対立していたはずの義時に、真っ先に公卿の居所を知らせた。
義時は、「公暁を討つよう」に命じている。
義村は、すぐさま兵を公暁のもとに差し向けた。
そして、「実朝暗殺」から数時間後、公暁は、三浦義村の家来によって、
討ち取られた。 (朝廷と深い関わりを持とうとした実朝、朝廷との連絡役を務めた側近
源仲章、そして源氏の直系・公暁。 実朝が朝廷と結びつくことを、何より恐れた北条氏と鎌倉武士団の敵は、 ここに一人残らず姿を消したのである) 今は昔にならない闇の河 峯島 妙
暗殺の数時間前。鶴岡八幡宮に着く実朝 「実朝エピソード」
幕府の実権を握っていく北条氏に頭が上がらなかった観がある実朝だが
「吾妻鏡」ではそうそう北条氏の言いなりになっていない。
「承元3年11月14日、相州、年来の郎従のうち功ある者をもって、
侍に准ずべきの旨、仰せ下さるべきの由、これを望み申さる。
内々その沙汰ありて、御許容なし。そのことを聴かさるるにおいては、
然るごときの輩、子孫の時に及びて、定めて以往の由緒を忘れ誤りて 幕府参昇を企てんか、御難を招くべきの因縁なり。
永く御免あるべからざるの趣、厳密に仰せ出さる…と云々」
叔父の義時が、「功績のある自分の家来を御家人の列に加えて欲しい」
と願い出たのを、実朝はそれを許さなかったというもの。
「御家人に引き立てれば、本人たちは特例であったことをわきまえても、
子孫の代にはそんなことをすっかり忘れ、後々争いのタネになりかねない」
と、実朝はそう厳しく言い渡している。
「実朝暗殺」の8年前、実朝18歳、義時との関係もまだ良好だった。
兆しあり壊れた脳の目覚める日 安土理恵 二枚重ねの下から顔を出す 酒井かがり 人間が乗る一枚の磁気カード 猫田千恵子 右向けば黒ヤギさん左向けば白ヤギさん 酒井かがり |
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