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川柳的逍遥 人の世の一家言
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きゅうりならとうに曲がっているころだ  米山明日歌





        「織田信長公相撲観覧之図」
1578年(天正6)信長が安土城にて相撲を観戦する。



「本当の織田信長とは」
「尾張の大うつけ」といえば、織田信長のこととすぐわかる。
「「尊大・厳格・短気・せっかち・神仏を信じない・造反は許さない・
天辺志向・大胆不敵」のイメージがつきまとう。
だが本当の信長はどうなんだろう。
彼がまだ10代のころのこと。普通よりも長い槍をつくり、新しい戦法
を発明した。これは、信長が天才だからできたのだろうといわれてきた。
しかし、実際は信長は、寝る時間や食べる時間を惜しんで研究し、周囲
からうつけ(からっぽ)といわれても我慢し、この長い槍の戦法を完成
させている。実は、信長はとても真面目で、研究熱心で我慢強い努力家
だったのである。 加えて私的な時間をみれば、
① 睡眠時間は短く、早朝に起床。② 酒は飲まず、食事は控えめ。
③ 極めて綺麗好き。④ ユーモア性も慈悲の心をも持ち、信頼をした
  友や部下には、とことん信を貫くことで応えた…。
それは家康と信長の長い協力関係が証明している。
反面、裏切りや立てつく者に対しては、断固冷酷になれる人物だった。


黒は黒と言い切る男の太い眉  山崎武彦





   三方ヶ原の戦いに向け鎧をつけた家康



「家康の壮年時代」 家康と信長 & 信玄


徳川家康は生涯に3度「もう死にたい」と考えたことがあるというのが、
今回の大河ドラマの主テーマ「どうする? 家康」である。
その一つが「三方ヶ原の戦い」だ。
1560年(永禄3)家康19歳のとき、ついに転機が訪れた。
今川家の総帥・義元桶狭間の合戦で尾張の信長に討ち取られてしまっ
たのである。
今川家の軛(くびき)を離れた家康は、故郷三河に戻り松平の惣領とし
て統治を開始した。
信長とは、同盟を結んで背後を固め、勢力を東のと遠江にまで広げた。
そして1570(元亀元)家康は、ここに移り住み堅固な城を築いた。
漸くにして、一国の主となり、我がものとすることができた城である。


八起き目の風にゆっくり立ち上がる  宮原せつ


ところが…。そんな家康を脅かす巨大な影が現れようとしていた。
戦国一の智略と武勇をもつと恐れられた武田信玄である。
信玄の所領は、甲斐・信濃・駿河あわせて百万石。
『人は城 人は石垣 人は堀』
その言葉通り、城や石垣に頼らず、ただその人望と統率力によってのみ
幾多の戦いを勝ち抜いてきた名将・武田信玄。
その旗印は「風林火山」である。
  疾(はや)きこと風の如く 
  徐(しず)かなること林の如く
  侵掠(しんらやく)すること火の如く
  動かざること山の如し
百戦錬磨の騎馬武者たちを主力とする武田軍団は、戦国最強の名をほし
いままにしていた。


人間が来るとざわめく山の木々  新家完司





      武 田 信 玄



この年、将軍・足利義昭の要請を受けた信玄は、京の都に上り、当時、
畿内を支配していた信長を打ち砕くべく行動を開始した。
信玄が京へ上ろうとする途上には、信長の同盟者・家康の領土が邪魔
な小石のように立ち塞がっている。
<まずは、この目障りな家康を叩きつぶす>
それが信玄の当面の目標となった。
家康は同盟者の信長に相談をした。
勇猛果敢な信玄の行動を、信長は家康より知っていた。
大井川を渡って堂々と遠江に侵入する信玄に対し、信長は家康に
「危険だから岡崎に退くように」勧めた。
<家康が信玄にかなうはずはないから、浜松を捨て三河に引き籠って時
 期を待て> と、いうのである。


紙を切るだけにしときやそのナイフ  高野末次





        浜 松 城



<やっとの思いで得た遠江国を捨ててなるものか>
そう思った家康は、信長の忠告を無視した。
<浜松を捨てるならば、刀を踏み折って武士を止める>
しかし、信玄は、家康の想像をはるかに上回る恐ろしい敵だった。
家康が従わないとみるや、無理攻めはせずに時間をかけて、家康方の武
将たちの切り崩しにかかったのである。
信玄は、家康の配下にある武将たちに次々と書状を送って、領地を与え
ることを約束し、自分の味方になるよう誘いをかけた。
「我らも信玄に属し、一族郎党の命をまっとうすべし」
と、家康の領土だった奥三河の武将・奥平家の記録に書かれている。
信玄の名声に靡いた武将たちは、若輩の家康を見限って相次ぎ離反した。
1572年(元亀3)を迎えるころには、家康の領土のおよそ二割が、
信玄に奪われ、兵力差は開く一方となった。


晴れと呼び曇りと返す磨りガラス  高橋 蘭


家康はこのころ領内の神社・小国神社に次のような願文をだしていた。
「敵は多勢 我は無勢」
ーかくなるうえは、この社の神力に頼るのみである。
兵力に劣ると知りながら、信玄を迎え撃たなければならない家康。
戦う前から、すでに家康は、信玄に追い詰められていたのである。
1572年(元亀3)10月3日、信玄は麾下の全兵力をあげて甲府を
出発。家康の領土に向け、進軍を開始した。
「ついに来た!」
浜松の城に緊張が漲った。


雨を編む何か信じていなければ  赤石ゆう


このとき信玄はすでに家康の領土の地形を知り尽くしていた。
もはや家康の領土は、信玄にとって勝手知ったる自分の庭のようなもの
であった。
11日、只来城陥落。
12日、天方城・飯田城・各和城陥落。
その矛先は、家康の居城・浜松とは目と鼻の先にある二俣城へと向けら
れた。二俣城が信玄の手に落ちてしまえば、家康の本拠・浜松城は支え
となる城を失って、裸同然になってしまう。
まもなく<二俣城危うし>との報が届くと家康は
「信長の援軍はまだ来ないのか」と、喚き続けた。
だが信長は信長で、おいそれと家康に援軍を送れない事情があった。
古い室町幕府に代わる「新たな政治体制」を築き上げようとする信長に
対し、将軍足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次つぎに
挙兵。四面楚歌となった信長は、合戦に明け暮れ、家康を省みる余裕は
なかったのである。


追伸に次つぎ雲を生んでいる  太田のりこ





           三方ヶ原の戦い図 (歌川芳虎)
左・黒馬に家康 中央・栗毛に松平忠次 互いに槍を交わしての決戦図



「三方ヶ原の合戦ー本番」




元亀3年12月22日午後2時。
家康軍1万1千と信玄2万5千遠江三方ヶ原の台地で対峙していた。
もはや蛇に睨まれた蛙も同然の家康だった。
睨みあうこと、およそ2時間。
元亀3年12月22日午後4時。三方ヶ原合戦の幕が開いた。
しかしその勝敗は、戦いがはじまる前に決していたも同然であった。
信玄はーー、
『きびしく陣を整えて、鼓を鳴らし、旗を揚げ、堂々正々として大山の
 圧すがごとく静々と進み来たる』 『武徳大成記』
一方、家康はーー、
『神君歯を切(くいしば)り、沫(あわ)を噴き、衆士を激励して騎を
 廻して反撃たもうこと三,四度、吾衆戦い疲れて支うべからず』
と武徳大成記の見聞にあるように、奮闘むなしく、家康軍は総崩れにな
っていった。
午後6時、戦いは終わった。 結果は家康軍の惨敗である。


空き缶のところどころに負傷兵  峯島 妙


あまりといえば、あまりにも惨めな敗北である。
信長の予想は的中した。
死を覚悟した家康に家臣たちは、主君を死なせるわけにはいかないと、
夏目次郎左衛門が家康の身代わりとなって、無理やり家康の乗った馬
を浜松城に蹴飛ばしたという。
馬は家康を乗せて、無事浜松城に向かったが、身代わりの夏目次郎左
衛門は討ち取られた。


いつだって身代わりになる落ち椿  村山浩吉




      家康のしかめ面
「三方ヶ原で負けた時のこの儂の姿、信玄に対する恐怖に震える体、
 歪んだ顔を、絵に写しとっておけ」




その4か月後の1573年(天正元)突如信玄は、伊那の駒場で倒れた。
信玄53歳である。家康は32歳だった。
しかし家康は、それを喜んではいなかった。
ーーあの、三方ヶ原での屈辱、そして恐怖。
負けた自分の愚かさ、そして甘さ。それをもう一度噛みしめておかない
限り、自分はまた同じ失敗をする……。
「三方ヶ原の合戦」の敗北で家康は多くのことを学んだ。
「勝つことばかり知って 負けることを知らないのは身の破滅である」
この理を肝に命じた家康は絵師を呼んだ。
絵師に家康は「屈辱と恐怖の瞬間を忘れないようにとしかめ面の表情」
の絵を描かせたのである。


言い訳はしない男の意地がある  楠本晃朗


「その後」


信玄の後を継いだ武田勝頼は、家康の遠州高天神城を奪った。
その代わりに家康は、、東三河の長篠城を攻略した。
1575年(天正3)5月、「長篠の戦い」では、織田・徳川の連合軍
が3千挺の鉄砲を用意し武田の騎馬軍団を殲滅した。
その後、遠州や駿河に入った家康は、武田支配の駿河にも侵入し駿府を
無抵抗のまま占領した。
信長の協力がなかったら、おそらく家康は、勝頼との抗争すら不可能だ
ったであろう。
三方ヶ原の戦いから10年後、武田家は滅亡した。
この時、家康は禄を失った武田家の家臣たちをそっくり召し抱えた。
「人は城 人は石垣 人は堀」
その信玄のやりかたを学ぶには、信玄を知る家臣たちを自分のものにし
てしまうのが早い。そう思ったからであった。


お手玉で遊ぶ十指の笑い声  柴辻踈星




        餅 を 搗 く 信 長




こうした強力な軍事同盟があったから、信長の命令で1579(天正7)
8月29日、武田と内通していたといわれる正妻築山殿を遠江の高塚で
殺害し、同年9月15日には、家康がことのほか愛していた息子信康
切腹自害させなければならなかったわけである。
家康38歳の時であった。
それから3年後の1582年(天正10)本能寺にて織田信長が没した。
これをもって23年に亘る家康と信長の友好関係はおわり、
この後の家康の運命も変わった。


明日という強い味方がいてくれる  津田照子

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「目的地周辺」ですって言ったよね  須藤しんのすけ





            天 下 餅


「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して食らうは徳川家康」
天保8年(1837)「道外武者御代の若餅」として
浮世絵師・歌川芳虎が描いた風刺絵。

先人が苦労して築いたものを、家康がやすやすと手に入れた経緯を風刺
したものである。
この絵は、幕府に対してきわめて不遜な意思表示として、芳虎と版元は
手鎖50日の刑罰を受け、さらに版木は焼却処分とされたが、この一枚
の絵「道外武者御代の若餅」は、密かに残された。


おめでたいことなどないがおめでとう  宮井 智


「青春時代の家康」 家康と今川義元




     25歳時の青年家康の像

肥満気味のこれまでの家康像を一新する、きりっと引き締まった家康
は馬上で首をちょっと右に向けて、眼光鋭く見つめるその双眸の先は、
自らが生れた実家がある岡崎城である。
(とても25歳には見えませんが…)
三河は、今川、武田織田に囲まれて相当な緊張状態にあった。
こうした中で、家康の父・松平広忠は一族の安寧を願って、今川の傘下
に入ることを決意した。
となると、真っ先にせねばならぬことがあった。
それは「妻・於大を離縁すること」であった。
妻・於大の実兄が織田方に帰属していたためである。
この時、わずか2歳の竹千代は、最愛の母と生き別れになった。
さらに6歳の時には、「三河松平一族」の将来を堅固にするため、
父の考えで今川の「人質」となった。


世の常と思えば風も穏やかに  津田照子


ところが、その今川への移送の途中で竹千代は、父の後妻の父・戸田康
の謀で織田方にさらわれてしまった。
そんな状況の時に、父・広忠は24歳の若さで死去する。(死因は不明)
竹千代が人質交換で「今川に」戻るのはその2年後。今川・織田両家の
抗争で今川に捕まった、信長の兄・信広との交換によってであった。
今川に竹千代は、そのまま8歳から20歳までの12年間、今川の人質
として駿府で過ごしたのだった。
だが人質とはいえ今川義元は、竹千代を大切に扱った。
逼塞生活を強要・強制せず、学問、読書も自由にさせた。
食事も粗末なものではなかった。
竹千代の元服時には、烏帽子親にもなった。
この時、竹千代は義元の「元」の字をもらって「元信」と名乗った。




ひとり身の淋しい分は自由です 油谷克己




         今 川 義 元




「家康と今川義元」


竹千代今川義元の駿府に人質として来たのは8歳の時。
駿府に来た竹千代は、大変病弱であったために祖母が付き添って面倒を
見た。祖母とは、竹千代の母・於大の方の母・源応尼(華陽院)だ。
勉学のため祖母は娘に代わって竹千代の面倒を見た。
竹千代に源応尼は、智源院の智短和尚に手習いを学ばせた。
またある時は、大岩臨済宗の今川家軍師太原雪斎からも、勉学の手ほど
きを受けさせた。


生い立ちの一部を仕舞うペンケース  清水すみれ


竹千代は、母親とは3歳で生き別れ、父親とは8裁で死別。
物心ついてから竹千代の苦難が始まったが、人質としてきた竹千代には、
じめじめとした、暗い人質のイメージはない。
今川家軍師の臨済宗・雪斎和尚からも、勉学指導を受けるなど、通常の
人質とは大きく違った。
一般的に人質という暗い座敷牢の感覚であるが、痩せても枯れても竹千
代は岡崎のプリンスである。
(歴史家は竹千代を人質と言うよりは岡崎から来た『政務見習』として
 駿府に預けられたという見方をしている)
とは言っても、竹千代が人質の身分であったことには、間違いない。


ややこしくする舌がいてややこしい  森井克子


「里帰り」
1555年(弘治元年)今川義元は、「元」の一字を竹千代に与え14
歳で元服させた。「松平次郎三郎元信」の誕生だ。
元服した翌年に元信は、岡崎へ里帰りを許された。
祖先の法要と墓参が目的である。
元信は8歳の時に父・松平広忠を失ったが、このとき初めて亡き父親へ
の墓参を果たした。
岡崎城では、城を守る鳥居忠吉(80歳)から密かに場内を案内された。
元信がやがて岡崎城に帰国したときに困らないように、軍資金や兵糧米
を蓄えていたのを見せられたという。このとき
「食う物も食わずに苦労しながらも、家臣たちは元信に夢を託している」
ことを元信は知った。
これに励まされた元信は、この時に将来の自立を誓ったという。


私からたまった水を抜いてます  柳本恵子





    桶狭間の戦いー今川義元沈没の図 (芳年画)



「結婚と初陣」
1557年(弘治3年)正月15日、元信「蔵人元康」と改名した。
義元の勧めで元康は、16歳で義元の姪である瀬名姫と結婚した。
後の築山殿である。
一人前となった元康は、その直後に西三河攻めを義元に命じられ初陣を
飾った。 それから2年後、
義元は、戦国乱世をまとめるため、京都上洛を目指して大軍を動かした。
そしてまた一年、1560(永禄3)5月19日、信玄の陣営に思いも
かけない知らせが来た。長年にわたって同盟を結んでいた今川義元が
尾張侵攻の途上、「信長の奇襲にあい戦死」したというのである。
「桶狭間の戦い」である。
義元は、雄図(ゆうと)むなしく、信長に敗れ戦国の均衡は崩れた。


信長の花押は文に収まらぬ  新川弘子




       天下餅を搗く信長




替わって織田信長の登場である。
元康は上洛軍の先鋒隊であったが、義元の戦死を境に今川家と決別し
岡崎城に戻った。
今川家を捨て信長と結んだ家康は、軍事同盟と姻戚関係を結んで信長
との絆を強くした。
ところが、敵国の武田と築山殿が内通した事件で、元康は多くの試練
を味わった。元康には、数々の難問が容赦なく降り注いだ。
1564年(永禄7)の2月には、三河の一向一揆が元康を襲い三河
領国を揺さぶった。家康23歳の時である。
家康は三河軍団を組織し、1566年(永禄9)には松平姓を捨てて
「徳川」を名乗った。徳川家康の誕生である。


解凍の途中で山が動き出す  中林典子

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欠点が少しあるのも隠し味  東 定生




「家康 どうする!?」
はてさて困った と表情豊かな家康像



天下取りに恵まれたのは1530年代生まれの世代だった。
国際情勢にまで目を配る広い視野を持ち、新しい政治と領国支配の手法
を基盤にできた者が、天下を我が物にしたのである。
それにライバルが「ちょうどよい時期」舞台から消えてくれる運に恵ま
れる必要もあった。運も実力のうちなのだ。
徳川家康は辛抱の人でもあるが、最後に幸運も呼び込んだ英雄でもあった。
天下取りにノミネートしたのは、1530年代生まれの世代だった。
今川義元  1519-1560
武田信玄  1521-1573
明智光秀  1528ー1582
上杉謙信  1530ー1578
織田信長  1534ー1582
豊臣秀吉  1536ー1598
徳川家康  1542ー1616
義元の生年から家康没年までざっと100年。
日本の統一に向かって歴史の流れが大きく回転した年だった。


狼煙へ武士の血が騒ぎだす  笠嶋恵美子








「どうする家康」 家康ってどんな人?


「家康誕生」
天文11年(1542)12月26日 、60年に一度しか訪れない壬寅
(寅年の寅の刻)に徳川家康は三河岡崎城主・松平広忠於大(伝通院)
の間に生まれた。幼名・竹千代。通称・次郎三郎、後に蔵人佐。
壬寅生まれは、ゆったり、どっしりとして「強運の人」といわれる。
今川義元の生年から家康没年までざっと100年。
日本の統一に向かって歴史の流れが大きく回転した年だった。
国際情勢にまで目を配る広い視野を持ち、新しい政治と領国支配
の手法を基盤にできた者が、天下を我が物にしたのである。
それにライバルが「ちょうどよい時期」舞台から消えてくれる
運に恵まれる必要もあった。運も実力のうちなのだ。
家康は辛抱の人でもあるが、「最後に幸運も呼び込んだ英雄」
でもあった。


小吉を大吉にするその笑窪  古崎徳造


「家康の外貌」 
「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち太子(秀忠)のように、
 色黒くなく、肥っていた」又「下腹が膨れており、自ら下帯を締める
 ことができず、侍女に結ばせていた。偉人でありながらも、多面的な
 性格を持つ、人間味あふれる人物だった』
(『ドン・ロドリゴ日本見聞録』) 1609年謁見した家康の印象ゟ
身長159cm (当時の平均身長155㎝) 
血液型はA型。 (手形などから採取)
因みに家康の周りの人の身長はというと。
武田信玄…153cm
上杉謙信…156cm
明智光秀…156cm
徳川家康…159cm
豊臣秀吉…127cm
伊達政宗…160cm
加藤清正…161cm
織田信長…170cm
前田利家…182cm


見えすぎる鏡に笑うしかないね  靏田寿子


「趣味・興味」
家康はどんな鍛錬をした? 
家康の老人と思えぬがっちりした 体躯は日ごろの鍛錬の賜である。
剣術・馬術・水泳・鷹狩りと多岐に渡る。
剣術は奥山流と柳生新陰流の免許皆伝、馬術は大坪流でよく遠乗りに出
かけた。なかでも、水泳と鷹狩りを好み、63歳で隅田川を泳いだ。
 死の直前の75歳で、田中城外へ鷹狩りに出かけたなどの記録がある。
「鷹狩りは手足を達者にし、健康な体をつくるので、朝飯がうまく
よく眠れて夜遊びや女遊びをしなくなる」と、述べ、
生涯に千回以上も鷹狩りをしたという。
なお、囲碁・将棋は趣味を超えた人並み以上の実力だったそうだ。


思い切り右脳で煎餅をかじる  郷田みや




        精力増強剤・保命酒
保命酒を入れた備前焼の器は、現在では骨董店の店先を飾る逸品だ。


「健康オタク」
家康は、健康オタクであったことでも知られている。
医療技術が発達していない戦国時代において、武田信玄をはじめ多くの
武将が病に倒れていったなか、家康は健康に気を使い70歳を過ぎても
溌溂としていた。
健康維持のための鷹狩りや・乗馬、水泳などのほかに、食事は贅沢な物
を避け、煮物や焼き物、麦飯などを好んで食べていたという。
又、自ら漢方薬を調剤し、「万病丹」「銀液丹」と名前を付けて小さな
入れ物で携帯し常服。
のちに江戸幕府3代将軍となる孫の徳川家光が病に罹ったときも、家康
が直々に薬を調合して飲ませたと伝えられ健康に留意したことで、当時
の平均寿命が40歳であった時代に、家康は75歳まで生きたのである。


月食のディナーに菜園のレタス  前中知栄




             吾 妻 鏡




「愛読書・出版事業」
家康は好学の士として知られ『吾妻鏡』を愛読していた。
吾妻鏡以外でも『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』を好
んで読んだといわれる。
家康が尊敬する源頼朝から武士の道理や治世の術を学んでいたのである。
家康が尊敬していた人物はほかに、劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、
太公望、文王、武王、周公らが並ぶ。
面白いことに、施政・軍事・部下教育など武田家を手本にしたものが多
く、家康を苦しめた宿敵武田信玄を尊敬していた様子もある。
施政・軍事・部下教育など武田家を手本にしたものが多い。 
さらに「伏見版」と呼ばれる木版による歴史書や儒書を刊行しているし、
林羅山金地院崇伝伝に命じて銅活字による「大蔵一覧集」を125部
制作一冊ごとに朱印を押して、全国の寺に寄進している。
出版事業にも興味をしめしている。


伝えたいことがたくさんある無口  高橋レナ


「新しい物好き」
晩年の家康は、何故か時計が好きだった。
南蛮時計、日時計、砂時計などを蒐集しており、又、けひきばし(コン
パス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が遺品として現存する。


オードリーヘップバーンの指サック置いてまっせ 
                    酒井かがり


「艶福家」
信長、秀吉、家康のうち、一般に一番の女好きは秀吉、逆に信長は女に
ほとんど興味がないとか、女嫌いと評される。
では家康は、ごく平凡な女性関係だったかのかと思うととんでもない。
そもそも家康の生まれた松平家は、精力旺盛な家系だったといわれ、
3代信光はなんと48人もの子を設けている。
家康もその血筋を引いていたようで、記録に残るだけでも、正室2人、
側室15人との間に、19人の子をつくっている。
これは家斉・家慶についで歴代将軍第3位の数である。


ブランコのゆれにまかせている余生  青木敏子





         築山御前



「家康の女性の好み」
家康が好きな女性のタイプは、秀吉「血統書」つきブランド女を求め
たのに対し、もっぱら後家を好んだ。
それも身体の丈夫な、子を生むのに適した女を選んだという。
家康自身、子作りにはかなりの執着をみせたらしく、自前の薬草園で精
力増強のための薬草を育てさせたとか…。
家康は「英雄色を好む」の格言を実践した一人であった。


雑学が音符に変わる雨の午後  高野末次


「倹約家」
徳川家康は贅沢を嫌い、質素倹約を心掛けた生活をしていたという逸話
が多数残されている。
倹約家であったことを示す有名な逸話は、以下のようなものがある。
① 着物はほとんど新調せず、ぼろぼろになるまで着ていた。
 洗濯の回数を減らすため、汚れが目立たない「浅黄色」のふんどし
  を好んで着けていた。
 女中の食費が嵩むのが気になり、お代わりをさせないように漬物の
  味をものすごく塩辛くした。
 手洗いのための懐紙が風で飛ばされた際、新しい懐紙を出さず、飛
  ばされた懐紙を取りに行き家臣に笑われるが、これに対し徳川家康
  は、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言った。


つつましく生きる人込み避けている  杉本克子


「ケチ」
 家臣が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った。
② 代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、
  残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた。
 三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。
家康が倹約家でケチあった理由の一つに、幼い頃の人質生活の経験から
培われたものという。人質は決して贅沢はできない。
私生活だけでなく政治においても倹約家ぶりを発揮した家康は、最終的
に直轄領だけで400万石を手に入れながらも、譜代の筆頭家臣に与え
たのは、その1割にも満たない30万石のみ。
しかし、この徹底的な家康のケチ・倹約の精神が江戸幕府存続の礎にな
ったことは間違いない、と家康は自負をしている。
「おまけ」
こんなケチな家康を、蒲生氏郷は、秀吉の後に天下を取れる人物として
前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので、
「人心を得られず、天下人にはなれないだろう」と評している。


煎餅割って小さい方を孫にやる  新家完司

拍手[5回]

有刺鉄線越えるかキミと抱き合うか  酒井かがり




                     歌川国貞「仮名手本忠臣蔵十一段目」

赤穂浪士討入事件は、直後から浄瑠璃・歌舞伎の格好の題材となり、
「仮名手本忠臣蔵」というタイトルで大ヒットした。
胸のすく勧善懲悪劇ー自己犠牲の美学が庶民の心を打ち、その人気は現
在も継続。赤穂浪士のドラマは時代劇の中の時代劇として愛されている。



おやあなた尻尾に蝶がとまっている  くんじろう


「江戸の出来事」 「赤穂浪士討入事件」



『時は元禄15年、極月(12月)14日、所は江戸・本所松坂町』

これは吉良邸討入りの講談の枕コトバである。
しかし、旧暦の12月14日はー新暦では(1703年)1月30日ーで、
ーー現在の暦とは37日ズレる。
明治6年1月1日に和暦から西洋暦への改暦の正式な発表は、天保暦の
明治5年11月9日にあった。
「天保暦の12月3日を太陽暦の明治6年の1月1日とする」
というものである。
「何てことをするんだ!」
準備期間も短く、12月は、わずか2日しかなくなってしまった。
12月3日から大晦日までの誕生日が消えてしまったばかりか、
浅野内匠頭の刃傷があった元禄14年3月14日も4月21日となる。
12月といえば「四十七士討入り」で親しまれてきた物語りもある。
大石以下46士は、主君の命日14日に仇討ちを決行するから、
気概も奮起するのであって、筋書きも少し萎んでしまう…ではないか。



この国を嫌いにさせるなと叫ぶ  山田こいし




                                  殿中刃傷の様子
殿中松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつける場面。
内匠頭の後ろから慌てた様子で駆け寄るのは、梶川与惣兵衛。



元禄15年(1702)12月に起った「赤穂浪士の仇討」は、江戸の
庶民のみならず、将軍幕閣をも驚愕させる重大事件だった。
事件は、前年の元禄14年に赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が
高家旗本の吉良上野介義央(よしたか)に遺恨を持ち、江戸城松の廊下
で吉良を斬りつけ、切腹・改易に処された、ことを発端とする。
赤穂藩国家老・大石内蔵助ら47人の赤穂浪士は1年9カ月の雌伏の末
本所の吉良邸に侵入し、上野介を討って主君の無念を見事はらした。





   吉良上野介は屋敷裏の炭小屋に隠れていた
真っ白な夜に真っ黒な所へ逃げ  江戸川柳



浅野でも忠義は深き国家老  江戸川柳



「お家断絶から討入りまで家臣団は一丸ではなかった」
とりわけ弟・大学による浅野家再興を第一に考える大石内蔵助らと江戸
在住で仇討決行を急ぐ堀部安兵衛らは、戦術をめぐって対立する。
ここで重要な役割を果たしたのが吉田忠左衛門だ。
吉田は堀部らに自重を求めるため大石の意を受け、一足先の元禄15年
3月には江戸に入り、芝松本町の前川忠太夫店に身を寄せた。
ここには前年11月に大石が最初に江戸入りした時も投宿している。
吉田は7月に新麹町6丁目に転居し、ここが次々と江戸入りする
同志の取り敢えずの落ち着き先となる。


人と人つなぐ絆が調味料  都 武志





    大石の目くらまし (一力茶屋)
大石の中に軽石一つあり  江戸川柳


「彼らの江戸での主な潜伏先を見てみよう」
吉良邸に一番近い本所相生町には、前原伊助(変名/小豆屋五兵衛)と
神崎与五郎、本所林町には、堀部安兵衛(長江長左衛門)の道場、
本所徳右衛門町には杉野十平次ら、両国橋を渡った西側の米沢町
堀部弥兵衛、新麹町6丁目には吉田忠左衛門(篠崎太郎兵衛ー田口一
ら新麹町5丁目には富森助右衛門(山本長左衛門)一家、
新麹町4丁目には中村勘助(山彦嘉兵衛)ら、南八丁堀湊町には片岡
源五右衛門ら。
そして日本橋石町に大石内蔵助(垣見五郎兵衛)らが変名を使って
隠れ住んでいた。
こうして商人に化けたり、公事(訴訟)での長期滞在を装いながらの
潜伏は、本当にうまくいったのか。
8月に同志を離れた酒寄作右衛門の大名宛の手紙によると、
吉田忠左衛門のいた柴松本町には、上杉家の忍びもいたという。


ぶりかれん知らぬ家中気がつかず  江戸川柳
(ぶりかれん=行商人 家中=吉良の家人)


「仇討決行前へ話を転じる」
大石が求めたのは、このころ上杉邸にいることが多かった吉良義央
在宅情報である。
やがてお茶会が催される日には、本所の屋敷に戻ってくることがわかる。
お茶会の宗匠は山田宗徧で吉良義央とは茶の師匠を共にする間柄である。
宗徧は老中・小笠原長重に仕えていて、この小笠原家と吉良家も礼法を
司る家同士で交流があった。
宗徧には中島五郎作という町人の弟子がいたが、中嶋の借家には羽倉斎
荷田春満)という国学者が住んでおり、羽倉は和歌の添削で吉良家に
出入りしていた。
こうした吉良人脈に大石三平大高源五という浅野人脈が繋がってくる。
大石三平は大石一族の一人で、中嶋五郎作の友人であり、羽倉とも交流
があった。また大高源五は、宗徧の弟子になっていた。


人と人つなぐ絆が調味料  都 武志




     大高源五と宝井其角
「年の瀬や水の流れと人の身は」 其角
      明日またるる宝船」 源吾




最初のお茶会の情報は12月5日だったが、これは将軍の柳沢邸御成り
に重なって直前に中止される。
しかし次の情報はすぐ来た。
14日の昼、大石三平が羽倉の手紙に
「彼の方の儀は十四日の様にちらと承り候」
とあったことを伝える。
また大高源五も吉良がお茶会開催の準備に帰宅するとの情報をもたらす。
大石内蔵助は2つの情報から判断して、14日夜の討入りを決断した。
と思われる。

あくる日は夜討ちと知らず煤を取り  江戸川柳
(江戸時代の煤払いは12月14日におこなった)




       討入り絵馬
事件の13年後の正徳5年(1715) 、但馬の織物屋たちが天橋立にある
知恩寺に奉納した絵馬。討入りの様子が生々しく描かれている。

「討入りは成功した」
吉良邸を出た46人(寺坂吉右衛門は除く)無縁寺(回向院)に入る
ことも船に乗ることも断られ、武装したまま、しばらく両国橋東詰に
屯する。
このとき最も警戒したのは上杉家による反撃だった。
ところが上杉軍は来なかった。
後にお預けになった細川家から出した大石の書状(細井広沢宛)がある。
そこで大石は、半弓など大勢の相手をする武器を用意したのに、無益に
なったのはおかしい、と書いた後、
「覚悟したほどには濡れぬ時雨かな」という句を詠んでいる。
切腹の2日前であった。
生死を賭けた大仕事を時雨に喩える…大石の器の大きさである。



目印は殿が額につけておき  江戸川柳
余は上野介でない。人違いでござる、と言い張ったけれど…)




          「泉岳寺引き揚げ」



その途中、吉田忠左衛門富森助右衛門の2名が別行動をとって、
大目付仙石伯耆守久尚に自訴し、幕府の処分を待つこととなった。
幕府は評議の結果、大石内蔵助以下17名を、熊本藩・細川綱利へ、
大石主税以下10名を伊予松山藩松平定直へ、
岡島八十右衛門以下10名を長府藩毛利綱元へ、
間十次郎以下9名を岡崎藩水野忠之へ、当分の間預けることとした。
なお、細川家には、大石内蔵助が含まれており、藩主・綱利自ら引き
取りに行くつもりでいたが、家老の三宅藤兵衛が家来とともに、
大石以下17名を迎えにいった。
一行が柴白金の細川藩邸に帰ると、綱利は早速、一同に対面した。
(毛利藩では駕籠に網をかぶせで護送した後、窓を閉めて長屋に押し込
 むなど、まるで罪人扱いだった。が毛利藩は細川藩での待遇を聞いて
 処遇を改めたという)


首筋が四捨五入の四の位置  ふじのひろし


「浪士の処遇について」

幕府の評定所から、「お預けのままで置き、後年に裁決すべき」
との意見でまとまりかけていたが、翌年、幕府から公儀を恐れざる行為
として、切腹の沙汰が下された。荻生徂徠
「ちやほやされると、間違いを起こす者が現れる」
と切腹を支持している。
吉良邸討入りから約1ヶ月半後の元禄16年2月4日、赤穂浪士に切腹の
裁定が下された。
斬首などではなく切腹に処したのは、武士としての名誉を保つ措置であっ
た。この日、浪士たちはそれぞれお預けの大名家で切腹して果てた。

化けてでる予定のリスク抱いている  平井美智子





     泉岳寺にて本懐の報告をする浪士



「幕府はなぜ、赤穂浪士を切腹させた?」

将軍のお膝元である江戸市中を騒がせ、松の廊下事件についての幕府の
裁定に異を唱えた、などと理解されている。
しかし、このとき幕府が問題視したのは、47名もの浪人が武器を携え
て集まり、大石内蔵助の指揮で組織的に行動した点にある。
江戸の治安機構で、大名や高家の監督役は大目付であった。
討入り後、赤穂浪士は、内匠頭の墓がある高輪・泉岳寺へ向かう途中
2名が隊を離れて大目付の仙石伯耆守久尚の元へ報告に向かっている。
仕組みと手続きを十分承知していた大石の差配である。
仇討ちは儒教道徳にかない賛美できる一挙だったが、
先に「浅野切腹、吉良お咎めなし」という処分を下した手前、
死刑か助命か幕府は頭を悩ませた。
結局仇討は認めなかったが、浪士に配慮した切腹に落ち着いたのである。

化けてでる予定のリスク抱いている  平井美智子

「討入当日、南北の松前嘉広・保田宗郷の両奉行は何をしていたのか?」

実は傍観するだけだった。
事件は一見、徒党を組んだ浪人たちの押込み殺人であり、浪人は取り締ま
り対象のはずだ。
だが大石らが標榜したのは「仇討ち」であり、天一坊事件の丸橋忠弥のよ
うな謀反ではないうえ、忠弥と赤穂藩元家老では、格が違っていた。
さらに事件が起ったのは、町奉行の治外法権区域である旗本吉良家の屋敷、
しかも朝廷との諸礼を司るVIPの高家であり、町奉行がおいそれと手を
出せる事件ではなかった。

もう一度引っくり返す砂時計  井本健治





大石の遺書


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さりげなく話しておこうあれやこれ  津田照子



 

         江戸で生まれたかわら版屋




100万都市江戸で交通事故も深刻は、社会問題だった。
当時のクルマは大八車や牛車で、車引きの不注意や牛の暴走による惨事
もあった。8代将軍・吉宗の治世下享保13年(1728)新宿で少年
が大八車に轢き殺されるという事件が起った。
 幕府は何度か、車間距離の設定・積載量の制限・狭い路地での駐車禁止
などの現代そのものの交通ルールを定めた。しかし、大八車の交通事故は
減ることは無く、ついに第8代将軍吉宗は新に「公事方御定書」を定めた。
当時、大八車は2人で乱暴に引かれており、採決は、事故を起こした側の
1人は死罪、もう一人は遠島という厳しい断を下した。
 江戸の町が混雑していたとはいえ現代の車のように猛スピードで走って
いるわけではないのに、なぜ轢かれてしまう人がいたのか?
実は、大八車による事故は坂道で起こることが多かった。
江戸という町は、非常に坂が多かったため、加速のついた大八車を歩いて
いる人がよけ切れず、轢かれて死ぬというケースが多発した、ことらしい。
こういう事故また事件を庶民の知る権利としてかわら版が報道した。


むかしなら煽り過疎への島流し  通利一遍




「江戸のあれこれ」 かわら版





       かわら版・第一号

この「大坂安部之合戦之図」は、上段に大坂城内、中断に東西両軍
の合戦、下段に将軍(秀忠)、宰相(徳川義直)、御所(家康)、常陸(徳川
頼宣)らの東軍の陣容を刻した。

かわら版の第1号は、慶長20年(1615)大坂落城時の「大坂安部
之合戦之図」「大坂卯年図」とされているが、実際にかわら版が江戸の
町で明確に刷られ盛んに出回りだしたのは、天和(1681)の頃から
らしい。
「赤穂事件」『八百屋お七放火事件』が話題になった頃。
新聞もテレビもない時代、かわら版は読んで売るから「読売・かわら版」
と呼ばれた。羽織を着、編み笠で顔を隠し、指揮棒のようなもので紙面を
叩きながら、講釈の上手い兄ちゃんが、買い気をそそるように囃すものだ
から、江戸の野次馬に大人気を博したものである。



深呼吸しながらそっと風を聞く  上坊幹子




       かわら版売りを囲む庶民




ところが、庶民がかわら版で世の動きを知ることをよしとしない幕府の
官僚は、幕府批判を助長するものとして、貞享元年(1684)事件を
速報する「印刷物の発行を禁止する」お触れを出したのである。
そのため当時のかわら版屋は、映画などで見るものとは違い、編み笠を
口だけ見える程度に深くかぶり、必ず2人以上で売り歩いた。
1人は講釈の上手い売り手、1人は警備役として…。

継続は力手のまめ足のまめ  山口文生




         かわら版が報じた大地震




徳川家康が拵えた江戸の260年。
その間には仇討事件から謀反や放火事件や天災までさまざまな大事件が
勃発している。 

「どんなものがあったのだろうか?」
① 由比正雪の乱 1651年
②  明暦の大火  1657年
   江戸の大半が焼失した大火災。世界三大大火・江戸三大大火の一つ。
   死者10万人を超える大災害であった。
③ 明暦の大火における石出帯刀の美談 1657年
④ 振袖お七放火事件 1683年
⑤ 元禄赤穂浪士討入 1702年
⑥ 天一坊事件 1728年
  8代将軍・吉宗のご落胤と称する若者が将軍に謁見しようとした。
  しかし、大岡越前が嘘を見破り天一坊を捕らえた。

生き様を皺の深さに漂わす  小原敏照



⑦ 明和の大火 1772年
  江戸三大大火の一つ。「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。
⑧ シーボルト事件  1828年
  シーボルトが帰国する時に持ち出し禁止であった日本地図を持ち出そ
  うとして、シーボルト以下多くの関係者が処罰された出来事。
⑨ 天保の大飢饉  1833~1839年
⑩ 大塩平八郎の乱  1837年
⑪ 国貞忠治捕縛・処刑 1850年
⑫ 品川沖黒船来 1853年
  アメリカ東インド艦隊のペリー提督(黒船)が開港を迫り浦賀に来航、
⑬ 桜田門・井伊直弼事件 1860年



明日という浮き輪を投げる夜の海  ふじのひろし





松の廊下で吉良刃傷に及んだ内匠頭を羽交い絞めする梶川与惣兵衛


「松の廊下 刃傷事件」  詳報
元禄14年(1701)3月14日は、5代将軍綱吉が勅使、院使に対
し勅答する日であった。午前10時頃から午前11時過ぎに、勅使接伴
役の赤穂浅野藩5万石城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義
を殿中松の廊下でいきなり小サ刀で背後から切りつけ重傷を負わせる
事件が発生した。
この日は幕府にとって大切な日であったこと、江戸城内での刃傷であっ
たことから五代将軍・綱吉が激怒した。



御気は短いに袴は長い也  江戸川柳



「斬りつけの様子ー梶川与惣兵衛筆記によれば」
「誰やらん吉良殿の後より、『此間の遺恨覚えたるか』と声を掛け切付
 け
申候。その太刀音は強く聞こえ候えども、後にて承わり候えば、
 存じ
のほか切れ申さず浅手にてこれあり候。われらも驚き見候へば、
 ごち
そう人の浅野内匠頭殿なり。
 上野介殿、これはとて後の方へ振り向き申され候ところを、また切付
 られ候ゆえ、われらの方へ向きて、逃げんとせられしところをまた二
 太刀ほど切られ申候」



浅からぬ恨み額に傷をつけ  江戸川柳


「 傷の程度は?」
「此間の遺恨覚えたるか」と、叫んでいきなり背中から切りつけた。
驚いた上野介が振り向いたところを更に額に一太刀きりつける。
烏帽子の金具で止まった額の傷は3寸5分から6分(約11センチ)背中
の傷は三針縫う程度。
討ち入りの時には、額の傷痕は残っておらず、背中の傷が本人確認の決
め手となる。 栗崎道有のカルテ(外科医で幕府典医)によれば、
『ヒタイ スジカイ マミヤイノ上ノ 骨切レル 疵ノ長サ三寸五分 
 六針縫フ。背疵浅シ 然トモ 三針縫フ』とある。

目印は殿が額につけておき  江戸川柳



「五万石の大名の扱いではなかった!」
式服の大紋を脱いだ浅野内匠頭は、ノシ目小袖のままの姿で出された一
汁五菜の食事は、茶漬け二杯を食べただけ。酒、煙草も許されず、遺言
を書くことも許されなかった。
「浅野内匠頭の言葉」
内匠頭『自分は元来不肖の生まれなる上、持病のせん気があり、
心を鎮めることもならずして場所柄もわきまえず不調法仕った』
と述懐したとある。



今さらを五言絶句でものをいい  江戸川柳





風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせむ





「将軍綱吉の判断」
午後1時頃に側用人の柳沢出羽守保明が綱吉に事件を伝えると、激怒し
た将軍は、始祖・徳川家康以来の喧嘩両成敗の不文律を破って浅野内匠
には、田村右京太夫にお預けの上「即日の切腹」吉良上野介には
「お構いなし」を即断した。
不公平な裁きが、武士の面目をかけた「赤穂浪士討ち入り事件」を惹起
する発端となった。
機敏、迅速であり過ぎたこと、喧嘩両成敗でなかったこと、即日の切腹
と、お家断絶は幕府裁定の三つの異常とされる。
額に斬りつけた処を、大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照が羽交い締めに
して取り押さえる。
当時55歳で7百石取り。功により5百石の加増を受ける。
「抱きとめた片手が二百五十石」
と、世間は武士の情けを知らぬ仕打ちと非難した。



5万石捨てては5百石拾い  江戸川柳








NHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」が終わって令和5年1月8日
から徳川家康主人公の「どうする家康」へと、バトンチェンジされます。
「鎌倉殿の13人」の脚本担当の三谷幸喜さんは、僕が描きたかったこ
との随筆で「このドラマは結局は家族の話なんだと」と述べています。
その見方で行くと大変な家族であったように思いますが…。
さて次の家康の物語は、「どうなります」ことやら…。
さてこのブログも、その辺に興味を持ちながら鎌倉から江戸へ、家康が
拵えた江戸の260年のあれこれを追いかけていこうと考えております。
よろしくお願いいたします。

アフターコロナへ骨の手入れする  井上恵津子

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