川柳的逍遥 人の世の一家言
せかんでもいいよと言ってくれる坂 笠嶋恵美子
駿府城 (東照社縁起絵巻)
家康が大御所として政治を行っていた駿府は、首都機能の一翼を担う
国際都市として栄え、また家康晩年の居城・駿府城はさほど大きな城で はないが、天守台は、江戸城をしのぐ規模だった。 そして、当時、来日したスペイン人たちが駿府城を訪れ、
「その美しさに驚いた」、と記録に残されている。
駿府城 「家康の駿府までの道程」 今川氏は駿河・遠江・三河を治め、有力な戦国大名だった。
しかし「桶狭間の戦い」で信長に敗れ、三河を奪い独立した家康は、
今川氏真の治政で力が弱っていた今川氏を、甲斐の信玄と連携して、 駿河へ侵攻、今川氏を滅亡させた。
1560年(永禄3)、駿河は信玄のものになった。
が、1568年(永禄11)の信玄の駿河侵入に際し、家康は大井川を
境に信玄と宿命的な対立を引き起こした。 大井川以西の遠江を押さえた家康と信玄の間では、両者の遠江争奪戦が
「高天神城争奪戦」として本格的に始まった。 あの時の偶然実は狙ってた 鳴子百合
駿河城のシャチホコ
1575年(天正3)、「長篠の合戦」で武田が壊滅的打撃を受けると 家康は再び遠江を奪回し、駿河支配を有利に進めた。 1582年(天正10)3月11日、武田勝頼の率いる武田氏が天目山
に滅びると、駿河は家康の領国となる。 その後、家康は、「三河・遠江・駿河・甲斐」の四か国の支配者となっ
たが、信長が武田滅亡の時を同じくして、本能寺で倒れたため、信濃国 は領主不在となり、家康が代わって領国とした。 つまり五ヵ国の支配者となった。
それはもう言いようのない馬鹿笑い 木戸利枝
「家康」 駿河城を愛した大御所 (画像と共に) 幻の川辺城 (東海道駿府城下町)
駿府城の天守閣は「汐見櫓」とも呼ばれ、天守閣からは富士山や駿河湾 が遠望できる。駿府城天守は、「日本最初の金瓦」を使用し、また天守 の重要な場所には、金銀がふんだんに使用していたことも調査で明らか になった。 この時家康は、これら五ヵ国の城下町を岡崎・浜松を駿府へと移した。
居城としていた浜松城から、幼少期義元の居館に人質として過ごして
いた駿府城へと移り、今川氏の館跡に新しい駿府城の築城を開始した。 家康が駿府に来たのは、正式には天正13年7月19日であった。
この時の駿府城下とは、果たしてどんな町であったのだろうか。 駿府城下といっても城主はおらず、武田・徳川の戦乱の後遺症から立ち
直るゆとりもなく、かなり荒れ果てていた、と想像される。 当時の記録もほとんどなく、その心境を知ることはできないが、家康が
精力的に駿府城下町を整備し、築城に際し、家康は自分が思い描いてき た夢をところどころに設計した。 夢という薬を飲んで生きてゆく 広森多美子
伝統的工法で復元された坤櫓~
梁や床下までの構造を見ることが出来るように各階の床板と天井板が外
されている。 駿河城築城工事は、天正15年1月26日から天正17年5月25日に
ほぼ完了した。規模は今川時代の構造をはるかに超えるもので、新しい
駿府の出発ということになる。 この駿河城は「大天守」だけでなく「小天守」も造られた。
家康の築城時に土木工事を多く担当した家臣・松平家忠が記した「家忠
日記」に、「この駿府城の築城に関するところに石垣造りの曲輪を備え、 大天守と小天守からなる見事な連結式天守だった」という、記述が残る。 (最近の発掘調査によって、さらにこの天守台の付近から金箔が付いた
瓦が発見されている) 文房具屋の息子背骨は三角定規 酒井かがり
駿河古城図 (大坂城天守閣蔵) 町割り図 「天正期の駿府城」はこうして完成を見た。
ところが、小田原の北条征伐が秀吉によって行われると、家康もまた先
鋒隊として参戦した。この戦いに勝利すると秀吉は、駿河を領国とし、
家臣の中村一氏を城主として着任させ、替わって家康の東海五ヵ国を取
り上げ、関東に国替えを命じた。
この国替えの発令は、天正17年3月12日のことであったので、家康
は駿河城の完成を間近にしながら、入城することはならなかった。 日本の中心部に位置する「五ヵ国」を支配する家康が、軍事力や経済力
においても目覚ましく向上していたことに、秀吉はそれを極度に恐れ、 警戒したためといわれている。 寝返りをひとつ気がかり消しておく 津田照子
駿府城縄張り図
家康が関東へ移った後、秀吉の三中老の中村一氏が城主に着任すると、
秀吉は、即座に駿河城の天守を金箔にするよう命じた。 駿府城の天守を金箔瓦を使った城にすることで、家康を威圧し、自ら
を誇示するためのものと、いわれる。 江戸を本拠地に移された家康が、京都・大坂にいる秀吉のもとへ向う
途次には、弥が上にも、金箔の天守の駿府城を見ることになるのだ。 家康は、自身の思い深い駿河城が完成しても入ることが出来ず、江戸
に移って、太田道灌が築城した「江戸城の修復と江戸の町」を拵える ことに気持ちを切り替えた。 神様がくれた時間だ焦らない 山本昌乃
駿府城・城下町と富士山
「慶長期の駿府城」
1600年(慶長5)、家康は「関ヶ原の戦い」に勝利し天下の事情が
一変する。 家康の時代になると、駿府城主を身内の内藤三左衛門に与え、豊臣家臣
であった中村氏(一氏はすでに没し城主は息子の忠一)と交代させた。 内藤三左衛門は韮山城主から抜擢され駿府城主となったが、1606年
(慶長11)駿府城を家康に明け渡し、大御所として家康が駿府城主と なった。 翌日の指に残っている火照り きゅういち
大御所の駿府城
大御所家康が駿府に住むとなると、大々的な駿府城下の土木工事を実施
し、全く新しい大御所の都「駿府城とその城下町」が誕生する。 駿府城下町こそ「日本に初めて誕生した江戸時代最初の城下町」という
ことになる。 それまでも城下町はあったが、それらの城下町は、中世の色彩を色濃く
残した閉鎖的な町であったのに対して、開放的で士農工商の考え方を反 映していたため、農民は広大な畑作の地に居住し、戦国時代は武士と農 民の区別がなかったのだが、江戸時代になると完全な「士農工商」が成 立する。その魁の町の誕生が「駿府」といわれている。 ここが好きリッチな街の裏通り 内田志津子
焼失前の宝台院 (東京国立博物館蔵)
新駿府城は、慶長12年7月3日に完成。
家康はこの日に入城したことが当代記に記されている。
そして駿府は、以後10年余りの間、つまり家康の存命中は「大御所の
御座所」として、ここ駿府が大御所政治の檜舞台となった。 ところが、城の完成から5が月後の12月22日に大事が起る。
大奥の局の物置で使用していた手燭の火が原因で出火して、御殿や天守
閣まで燃え広がり大火災に発展し、駿府城の主要な建物を全焼失してし まったのだ。 家康は、江戸の事業ををさしおいても、駿府の再建を急がせた。
そして、火災を恐れた家康は、駿府城内に鉛御殿(シェルター)を建設
したという記述が「名乎離曽の記」に記している。 切れそうな糸で平和が揺れている 樫村 日華
駿河城天守台の発掘調査がはじまる
修復を急がせ慶長13年に完成した駿府城も、今度は家康没後の163
5年(寛永12)11月、茶町からの出火が原因で、城下にまで飛び火 して豪華な天守や御殿をまた失ってしまった。 駿府城の天守は、1635年の焼失後、再建されることはなく明治29
年(1896)には、石垣が崩され、堀も埋められてしまった。 それから120年、2016年8月になって、その全容を明らかにする
「駿府城跡天守台発掘調査」が開始された。 (現在では、二の丸堀より内側が駿府公園になっており、宝暦年間の修
復記録に基づいて、東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園などが復元公開
されている) 詰め放題の袋はすでに裂けている 平井美智子
家康の「夢の一つ」は、城が海から繋がっていることであった。
駿府城から清水港まで通じている水路は、遺構として現存している。
東 御 門
東御門と枡形門 (船の出入をした枡形門)
船の水路
二の丸と繋がる水路
二の丸へ繋がる堀 この水路の先に清水港がある
「水を巧みに活かした家康の偉業」
① 暴れ川「安治川」の驚異を最小限にし、城下町の安全を確保した。
② 安治川の水、または、その伏流水を城下に引き入れ生活用水とし
て活用した。 ③ 用水の流れを巧みに操り、町の浄化や消火、職人たちの糧に役立
てた。 ④ 川や水路は、時として敵からの攻撃や侵攻を防ぐ要塞として活か
された。 ⑤ 海、川、水路と繋げた運河で、物資の運搬や外国船の出入りを可
能にした。 いい町だなと思わせる春霞 新家完司 PR スクランブルの雨は切なく恋しくて 市井美春
城と城下町 (静岡美術館)
2022年10月、全国の20~59歳の男女を対象に、 「自県を代表すると思う歴史上の人物は誰か?」という調査が行われた。
結果は次の通り
「織田信長」は、岐阜県、愛知県、滋賀県の3県で、
「豊臣秀吉」は、大阪府で、
「徳川家康」は、栃木県、東京都、静岡県の3県で、選ばれた。
秀吉を別にして面白いのは3県の人が、信長・家康を地元の人物として
選んでいることだ。その考え方を承認するのなら、家康は愛知県でなけ ればならないはずだが。 剥製として曖昧に生きている 青砥英規 「家康ー小さなちいさな戦国時代」
焼失前名古屋城
「ともに愛知県なのに」 150年も前のことである。
愛知県は昔「尾張」と「三河」という2つの地域に分かれていた。
時代が慶応から明治へと移り「愛知県」となった。
ところが今も愛知県内では「尾張と三河の軋轢」なるものが存在する。
これは戊辰戦争から150年会津が、長州になお遺恨が存在するように
割り切れない、また許せない愛県心なのだろう。
根気よく胸板ぐるり巻く昆布 山本早苗
名古屋城
「金鯱城」「金城」の異名を持つ、国の特別史跡。伊勢音頭では、 「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」
と詠われている。 大天守に上げられた金鯱は、城だけでなく名古屋の街の象徴である。
「名古屋城は尾張に」
家康が天下普請によって築城した名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋(愛
知県名古屋市中区本丸・北区名城)にある。 尾張地方は、名古屋城築城までは「清須」が中心だった。
しかし、家康は尾張徳川家の拠点として名古屋の地を選び、名古屋城の
築城と同時に「清須越し」(清須の街ごと引越すこと)を行った。 清須の街に住んでいた武士や町人・職人などをすべて名古屋へ呼び寄せる
ため、城を起点として、逆三角形の城下町造を計画したのである。 正解の一つと思う前を向く 津田照子
元々は名古屋城の二之丸付近には、信長の父・信秀が当時の城主・今川
氏豊から那古野城を奪取し、それを譲り受けた信長の居城だったが、 その縄張りに囚われず、家康は自身の強い意志の下に、新たに名古屋城
と碁盤割の城下町をつくり上げたのである 1616年(元和2)に名古屋城が完成すると、家康自らは住まず、
初代藩主として9男「徳川義直」が初代藩主として入城させた。 以後、御三家の一つとして、尾張徳川が明治に入るまで尾張を守った。
たて糸に理性 横糸に本能 石塚芳華
旧・岡崎城
岡崎城は天下人を生んだ出世城として人気も高く今川義元、信長、家康
へと引き継がれてきた歴史のある城で、史料的にも高い評価を得ている。 天守は家康時代に建てられたもので、シャチホコもあったが、その当時、
許可を得ずに金を施すことは許されていなかったため、瓦造りになった。 が、岡崎は、春は桜の名所としても知られており、それが逆に美しく城 を引き立たせている。 今・岡崎城 「岡崎城は三河に」 岡崎城は、三河国岡崎藩(愛知県岡崎市康生町)にあり、1542年
(天文11)に家康が生まれた城である。 当時の岡崎城は、櫓や門の屋根も茅葺で、石の産でありながら石垣など
もなく、ただ堀を掘ったその土をかきあげて、芝を植えただけの土塁が めぐっていた。 7年後に父・松平広忠が死去すると岡崎城は今川家支配下の城となった。
1560年(永禄3)桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康
(家康)は、岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。 1590年(天正18)家康が関東に移封となり、豊臣家臣の田中吉政
が入る。家康に対する抑えの拠点の一つとして、吉政は城を拡張し強固 な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。また、城下町の整備も 積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を、岡崎城下町の中心を 通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道 に整備され、現在の岡崎城の原型を造った。 闘いに行けと心に触れてくる 阪本きりり
「応仁の乱からの因縁が現代に!」
尾張と三河がお互いを牽制しあっている理由については、諸説ある。
足利家の後継者争いを発端として起こった「応仁の乱」説。
三河国仁木氏の守護代であった西郷氏は、永享年間(1429~1441)に、
菅生川南岸の明大寺付近に居館を構えた。居館は「平岩城」と呼ばれた。 位置は、岡崎市上明大寺町2丁目のペデストリアンデッキの徳川家康像
が置かれた広場辺りであることが判明している。 握りしめた愛を必死で守りぬく 柴辻踈星
ペデストリアンデッキの徳川家康像 「尾張」は、足利義尚率いる西軍、「三河」は足利義視サイドの東軍に
付き戦ったことで、両者の間には大きな溝が生じた。 のち、戦国時代にこの地を治めていたのは、尾張は織田家、三河は松平
家(徳川家)であった。 しかし思いがけない裏切りにあい、幼いながら三河地の当主になるはず であった家康は、織田家に囚われ、人質となってしまう。 精強で家康への忠義が強いと言われる三河武士団が、家康を人質に取っ
た織田家に、ただならぬ恨みを抱いたことは、いうまでもない。 このような積年の怨みつらみが重なってか……、尾張と三河には、今だ 戦国時代の戦火(遺恨)が残っている、 一房の葡萄家族であった頃 平井美智子
「尾張と三河は本当に仲が悪いの?」
尾張・三河出身者に聞いてみると…。
両地域の関係性について愛知県民は、どう思っているのか?
尾張・三河出身者の人たち数十名に訊いた。
「 尾張と三河は仲が悪いと思いますか?」
30代尾張出身者の男性の答え、
「そんな風に考えたことはないですね。でも、三河人は尾張の人が好き
じゃないというのは確かによく聞きます」 40代女性の答え、
「三河の人は、尾張を敵視していると聞いたことはあります。
でも尾張出身者の私は、そんな風に三河の人を嫌ったことはないです」
尾張の人の反応は、
「(自分たちはそうでもないが)三河の人はあまり友好的ではない」
というイメージを持ったようだ。
ガーグルベースンに溜まっていく吐息 みつ木もも花
名古屋城・本丸御殿 次に三河出身者の人たちに同じ質問をしてみると、
「三河を田舎だと軽視しているな…と思うことがたまにあります」
と、30代男性は答え、20代女性は、
「仲が悪いというよりも、見下されてるのかな?と感じたことは多々
ある」と、答えた。 さらに、30代・男性の答えに次のような人も、
「尾張出身の人が名古屋を地元みたいに考えているのが、なぜか癪に
さわってしまいます」 どうやら、三河よりも尾張の方が「都会」だという上目目線が、敵対意
識の中に根づいているようだ。 上からの目線に耐えている稲穂 松山和代
岡崎城・内部 尾張出身者と三河出身者の違いは他にも。 特に面白い違いの一つが「出身地」の答え方である。 「出身地ですか? ええっと…名古屋出身です」
と、間をおいて語ってしまう尾張の出身者たち…
尾張出身者の10人に出身地を聞いたところ、8人が「名古屋出身」と
回答し、残り2名からは「愛知県出身」という答えがかえってきた。 ただ「名古屋出身」と答えた人のうち、本当に名古屋市出身の人は、
4人だけで、それ以外の人は、正確には他の住所なのにも関わらず
「名古屋出身」を答えるのだそうだ。
何もかも過ぎ去るまではダンゴムシ 中岡千代美
対して三河出身者の人たちに「出身地どこですか?」と訊くと、10人
中9人が「愛知県出身と答える」と、回答。 「名古屋を出身として語るのは『身売り』してる感じがして、抵抗感が
あるんですよね」 と、40代女性は答え、30代男性は、
名古屋に対する独立意識なのか、名古屋出身と言われると、
「カチンとくるし、違います!と言いたくなる」
と、答えが返ってきた。 三河出身の人は意地でも「名古屋出身」と、言いたくない意識が際立っ
ていた。 レタス裂くわたしの嫉妬これぐらい 河相美代子
「ホトトギスの句は地域性をよく表現している?」
尾張出身者と三河出身者の性格については、信長・家康を前面に詠った
「ホトトギスの句」に例えられる。 信長と家康。この2人に、尾張・三河の人口の性格を確定されるなども
ってのほか、堪ったものではないが……。 尾張の人は、信長の「鳴かぬなら殺してしまえ…」の句から、信長がそ
うであったから、そこに生まれ育った人も同様に、気の短い人が多いの ではないかと決めつける人が多い。 一方、三河に生まれた家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とう…」の句のイ
メージから忍耐強い性格の持ち主として、三河に育つ人にも受け継がれ ているとみている人が結構いる。 人間を切り裂く人間の刃 もりともみち
岐阜・織田信長の銅像
「ホトトギスの俳句」の例えについて、訊くと…。
先ほどの尾張出身の40代男性は、
「基本的にはプライドが強くて気の短い人が多いかもしれません」
と答え、先ほどの三河出身の30代女性は、
「信長が冷たいイメージで、家康はふくよかで豊かなイメージだから、
確かにホトトギスの句は、それぞれの尾張と三河の地域性を上手く
表現しているかも」 と答えた。続き、三河出身30代男姓は、
「確かに家康の考えかたや、生き方にシンパシーを感じることは多いで
す。辛抱強く物事を我慢することもあるかな」 と答え…他にも約半数の人が
「ホトトギスの句は、地域性をよく表現している」
と、コメントしてくれた。 (まいどなニュース参照ゟ)
正直に生きると他人を傷つける 宗 和夫
「最後に」
応仁の乱から550年以上もの月日が経っても、三河の確執、因縁が、
いまでも存在するとは…、感慨深く、人間の不思議を実感させられる。 ついでながら、会津と長州の150年の遺恨については、
「会津と長州は仲直りはできないが、仲良くはできる、のでは」と、
歴史家がコメントする。
アンケートのその他、一部をご紹介。
神奈川は「源頼朝」、山梨は「武田信玄」京都は「足利義満」、
広島は「毛利元就」、高知は「坂本龍馬」
福岡は「黒田官兵衛」、鹿児島は「西郷隆盛」
そこはそこ大人ですもの握手する 岡田良子 人生の今四コマ目仕上げ中 広瀬勝博
三河一向一揆 (月岡芳年画) 「どうする家康」ー 俺は腹を切る!
「名将言行録」より。
秀吉は家柄の低いことをコンプレックスにするのではなく、有効に利用 している。1586年(天正14)対立していた家康をとうとう大坂へ ひきだすことに成功した秀吉は、宿舎となった弟の羽柴秀長邸に家康を ひそかに訪ねた。そして 「自分の家柄の低いことは世間周知だから、大名どもは本気で心服して
くれない。そこで徳川殿の協力が欲しい。 明日は私の前に平伏してくれないか」 と、頼みこむ。 さてここで「家康 どうする?」ということになるが、こう言われては
家康も断れない。 大名たちの前で「臣下の礼」をとることを約束した。 その決意を聞いた家康の家臣は、敵対する相手が相手だけに、罠ではな
いかと家康の身を案じた。その時家康は、家来たちにこう言ったという。 「われ一人腹を切りて、万民を助くべし」
「俺は腹を切る」といったのである。
ここに一つ、やたら腹を切りたがる家康のエピソードとして残る。
急ぐ事ない人生は長いんだ 青木公輔
家康が江戸に幕府を開くまでに「家康、どうする」の状況が数個ある。
① 桶狭間の戦い
家康初陣で味方の大将がヤラレタラあなたならどうする?
② 三河一向一揆 (第一幕・三大危機)
③ 三方原の戦い (第二幕・三大危機)
家康、戦いで死ぬほど怖いおもいをしたらどうする?
④ 姉川の戦い
家康、敗戦色の濃い戦いで殿を頼まれたら…どうする?
⑤ 築山殿・信康の処分
信長にこの二人を殺せといわれたら…どうする?
⑥ 伊賀越え (第三幕・三大危機)
⑦ 石川数正、秀吉方へ出奔
家康、最も信頼していた家臣に裏切られ、どうする?
⑧ 関東移封
家康、秀吉からど田舎に行ってくれと言われ、どうする?
⑨ 関ヶ原合戦・真田幸村の追撃に家康は肝を冷やした、などである。
物干しにライトアップの雪明り 市井美春
家康(松本潤) VS 本田正信 (松山ケンイチ)
「第一幕・三河一向一揆」 1563(永禄6)7月、今川方の諸城を落とし、西三河の制圧に成功
した松平元康は、晴れて今川氏のくびきから脱しようと、今川義元から もらった「元」の字を捨て「家康」と名乗るようになった。 しかし、安心したのも束の間、同年9月5日、国内から新たな敵が発生
する。 「三河一向一揆」が蜂起したのである。 家康の生誕地・岡崎は、本願寺門徒の多い土地柄で、本願寺一族の本宗
寺や本証寺、勝鬘寺、上宮寺の三河四寺を中心に強い勢力を保っていた。 こうした寺は、その権限を保つため、寺の持つ諸権利について部外者が 容喙することを一切許さないと決めていた。 これを「寺内不入権」という。
昔からあるので誰も抜かぬ釘 有澤嘉月
ところが、三河全土の掌握をもくろむ家康にしてみれば、所もあろうに、
「わが領国の三河域内に、自分の勢力が及ばないところが、1カ所でも あっては沽券にかかわる」 家康は、この「寺内不入権」を断固無視し、一向宗の影響力が強い寺内
にも入ることを強行した。 西三河は、もともと旧領主の今川氏が一向宗(浄土真宗)寺院を優遇し
たこともあり、北陸とならんで、一向宗が盛んな土地柄であった。 ところが家康は、急速な富国強兵策をとらなければならない事情もあっ
た。 これに一向宗門徒は猛然と反発した。
免罪符どこの店でも売り切れだ 川嶋 翔
一向宗門徒と三河武士の壮絶な戦闘模様 本願寺宗派の独立性が保たれ、一向宗門徒たちの団結力は強かった。
家康の家臣には、一向宗門徒が少なくなく、一揆方についた者も少なく
なかった。家康に取って代わろうという国内の有力武将も何人か一揆勢 に加わったことで、鎮圧はさらに容易でなくなる。
門徒たちは、4カ寺に立てこもり、家康側と激しい戦闘状態になった。
攻めても、攻められても家康軍は疲弊する。
このままでは家康軍は分裂、弱体化するのは目に見えている。
洗っても削っても金太郎飴 森井克子
結局、家康は一時追放した4カ寺側の勢力の復帰、復活を許し。
さらに、一揆側に参加した「家臣たち」をも許した。
一時は、家康の身の危険も間近にあった戦闘状況だったが、この「戦後
裁定」であの結束力の堅い三河武士の本領が復活、永禄7年2月28日、 形の上で家康方の勝利として、半年かけた三河一向一揆は終焉をみた。
家康が一揆に勝ったのをみた東三河の今川方諸武将が続々と降り、
「三河統一」がなされたのだが、これでようやく一国。 以後、4年間ほど家康は、国内統治に専念せざるを得なくなる。
(三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大
危機とされる。 家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろ しさをまざまざと見せつける事となった) 涙目でジッと見つめて許される 近藤北舟
三河一向一揆を主導した空聖上人 「一揆側に参加した家臣たちのその後」
本多正信=戦後は出奔。松永久秀に仕えるなど諸国を流浪し、
のち大久保忠世の執り成しで帰参し重用される。
本多正重=滝川一益、前田利家、蒲生氏郷に仕えたのち帰参。
渡辺守綱 = 赦免帰参。のち徳川義直の附家老となる。
蜂屋貞次=永禄7年に降伏帰参。
夏目吉信=野羽城陥落の際、松平伊忠の嘆願により赦免帰参。
内藤清長=蟄居処分。子の家長は父から離反し家康方として勤めた。
加藤教明=戦後出奔。室町将軍足利義昭に仕えた後、秀吉に仕える。
酒井忠尚=一向一揆収束後も抵抗したとあるが詳細不明。
石川康正=父・清兼は三河の本願寺の信徒総代で宗徒との関係は続く。
複眼で見れば許せることばかり 原 洋志
伊賀越えルート 「第三幕・伊賀越え」
伊賀越えを無事にはたし安堵の表情の家康
「神君、よくぞ御無事で! あの伊賀を越えられてお戻りになった とはスゴイ」
「本能寺の変」で信長が、「まさかの死」に遭ったとき、
信長の4人の師団長は、京都に誰もいなかった。
筆頭師団長・柴田勝家は、北陸で上杉を監視し、
丹羽長秀は、長曾我部対策に四国に渡る最中――、
滝川一益は、関東の相模に張り付き北条対策――、
羽柴秀吉は、中国で毛利と奮戦中といった案配だ――。
で、家康はそんな時、軍隊も連れずに、堺の町をふらついていた。
他国の空で明智光秀勢に捕まって辱めを受けて殺されるなら、
「今ここで潔く死ぬことを選ぶことこそ、武人」と、
家康は一人、うなずいて「追い腹を切る」と側近に伝えた。
それはもう棺の中に入れました 柴田桂子
突然の決意表明に驚いた重臣の本多忠勝らは、必死に説得する。
「こんな所で客死するのは、それこそ末代までの恥。
とにかく、この際、とりあえず、三河に帰りましょう。
すべてはそこから!」
家康もようやく、その場での切腹は翻意した。
ただ、街道筋は光秀軍が全部抑えているだろうからと、一行はまだ
誰も通ったことのない伊勢志摩半島を縦断するコースを選んだ。
何とか伊勢に出て、そこから海路、三河に帰るしか方法はない!
そして、本多や茶屋四郎次郎、服部半蔵らの必死の働きで、
ようよう三河にたどりついた。
ご葬儀はなかったことにして笑う 井上一筒
大坂夏の陣・家康大仁村難戦之図 (楊斎延一図)
真田と家康の戦績はなんと真田の3勝1敗の記録が残る。
「第四幕・大坂の陣」
家康の「死に急ぎ癖」はまだある。
「大坂夏の陣」でのこと。戦況は家康軍の圧倒的優勢。
そんな時、敵騎一騎。家康の本陣に向かって疾駆してきた。
真田幸村である。彼が狙うは家康の首だ。
幸村のこの遮二無二の気迫に、家康陣営は旗本たちが慌てふためき、
旗を捨て幟を捨てて、我先にと家康を残して本陣を離れてしまった。
一人残された家康は、幸村たった一人に、
「天下人が斬られたとあっては末代の恥。
その恥をさらす前に自決する他はない」
この時も真剣にそう思った。
しかし、ようやくわれに返った家康警護が役目の旗本たちは、
また家康の周りに集まってきた。
幸村はすんでのところで長蛇を逸した。
生きている証薬が溜まりだす 靏田寿子 金出した分は口かて出しまっせ 藤原一志
徳川15代勢揃い 中央家康から時計回りに(家康右横)2代秀忠→6代家宣→9代家重→
11代家斉→10代家治→7代家継→8代吉宗→4代家綱→5代綱吉→ 15代慶喜→14代家茂→12代家慶→13代家定 秀忠の治世は、1616年(元和2)家康が没してから、病気のために
1623年(元和9)に息子の家光に将軍職を譲るまで7年と短い。
その間に入内した和子が産んだ興子内親王(のちの明正天皇)が女性の
身で、異例の即位を行い、秀忠は、天皇の外祖父にのしあがっている、 など、この7年間で幕府を盤石なものにする仕事を成している。 ここに徳川15代将軍の、政治力・知力・外交力・カリスマ性を評価
基準に採点し「最強の将軍は誰」と、ランキングした本がある。 一位は家康、二位は吉宗と慶喜、三位は秀忠。5位以降は、家光、家宣、
綱吉と続いている。
秀忠が家康生存中におけるいろいろな失敗を払拭し、3位に挙げられた
のは徳川一族を含む諸大名を次々と改易し将軍の権威を不動にし、幕府 の長期政権への礎を確かなものにしたことなどが評価される。 悔し涙流した数で強くなる 柳川平太
徳川秀忠 家康ー永井路子、秀忠の凄を読み解く。
秀忠は法を守り、組織を守るためにはかなり冷酷なこともやっている。
弟の松平忠輝や松平忠直といった一門の改易がそれである。
わが子家光の前途を守るためともいえるが、同族会社の安定の為には、
時にはこうした荒療治も必要なのだ。
長い目でみれば、これも幕府を長持ちさせる秘訣である。
また秀忠は、キリシタンを大量に処刑したり、外国貿易に制限を加えた
りしている。 次の三代家光の時に行われた「鎖国・島原の合戦」は、いわば秀忠路線
の総仕上げともいえるのだ。 こうしてみると、秀忠の政治姿勢はかなり厳しい。
それでいながら、彼自身、冷酷な政治家というイメージを与えていない
のはなぜか。それは彼らしい細かい配慮を常に怠っていないからだった と思われる。
大丈夫大人のキミが決めたこと 大久保真澄
たとえば、彼が江戸城近郊に鷹狩りに行ったときなど、必ず獲物を佐竹
義宜に贈っている。 それは東国の名門である外様大名に対するゼスチャーではないか。 また九州の有力大名には、時折、自筆の手紙を書き送っている、
鳥とか手紙とか、考えてみれば、それをやったところで、秀忠の身代が
へこむわけでも何でもない。 領土などをやる代わりに、こんなことで義理を果たす。
なかなかの気配りであり、要領もいいのだ。
忖度を散りばめ薬の盛り合わせ 通利一遍
徳川和子(東福門院) 「episode」 前代未聞を演出
秀忠の本領を遺憾なく発揮したのは、娘の和子の入内問題である。
彼女を後水尾天皇の許に輿入れさせるという内約は、すでに家康在世時
代に交わされていたのだが、「大坂の陣」に続く家康の死によって実現 の運びにいたらなかった。 秀忠は父の死、東照宮造営などが一段落すると上洛して、天皇に銀子千
枚を献じたほか女院、天皇の生母、関白、宮家などにもふんだんに銀を ばらまいた。 和子入内のための懐柔策である。 が、 その直後、後陽成天皇が世を去ったので、この時も入内は延期になった。
がらくたと言いつつ戻す元の棚 津田照子
その数年後、秀忠は再び上洛する。
それまでに和子の輿入れの準備は着々進行していた。
ある公家の日記に、「和子や侍女たちの衣装が作られていた」とあるの
をみてもそれがわかる。 ところが、秀忠の上洛中、突如、 「女御サマノ御供ノ衆ノキヌ調マジキ由」
という命令が伝えられる。
この公家はびっくり仰天するが、どうやら支払の方は、幕府が引き受ける
と知って胸を撫でおろす。 では、なぜ衣装の調整は中止されたのか。
秀忠が「今度の縁談はやめにしよう」と言い出したのだ。 理由はひとつ、後水尾天皇が、側近に仕えるおようという侍女に、去年と
今年にわたって子供を産ませたからである。 たんこぶを三つ上皇に送信 井上一筒
「うちの娘の輿入れの矢先、そういうことをさせるとは、不謹慎極まる。
そんなところに嫁にはやれぬ」
と秀忠は開き直ったのだ。
その強硬な態度に、驚き慌てた後水尾天皇の書簡が残っている。
「さだめて我等行跡、秀忠公心にあひ候わぬ故とすいりゃう申し候。
さように候へば、入内遅々候事、公家、武家共以て、面目しかるべか らざる事に候条…」 <自分の行跡が、秀忠の癇に障ったのだろう>と言い、
「自分は弟もたくさんいるから、それを即位させ、自分は出家する」 とまで言っている。 後水尾としても、多少ふてくされ
「出家するぞ、それでいいな」
と、凄んでいるが、何と言っても面目を失うのは、不行跡を天下に公表
される後水尾である。 和解するまで天使のラッパお蔵入り 山口ろっぱ
後水尾天皇 天皇ともあろうものが、将軍から縁談を破棄されるなど前代未聞である。
結局、後水尾は譲位を思い止まり、和子入内は先約通りになるのだが、 秀忠はこのとき、凄みを利かせた強硬な条件を持ち出す。
「こうした宮中の風紀紊乱は、周囲の公家たちの不行跡にある」
として、数人の公家の配流や出仕停止を要求したのだ。
その中には、もちろん、おようの実家である四辻家の季継(としつぐ)
も入っている。 つまり、天皇個人の不行跡ではなく、公家たちに責任転嫁したわけだが
このときも秀忠が、根拠としたのは「公家法度の違反」であった。
落ち込んだ穴から今日も出られない 勝又恭子 「法度の前では、天皇も公家も例外は許されない」
ということを彼は天下に公表したのだ。結局、和子入内は、
その後に行われるのだが、ここでも後水尾は抵抗を見せる。
「先に処罰された公家を赦免すること、それが行われなければ、
入内させない」
幕府はこれを受け付けなかった。
「すべては将軍姫君の御入内後ということにいたしましょう」
その方針通り、公家たちが許されたのは和子の入内が実現した
後であった。家康も「公家法度」を作って宮廷の動きに枠をはめたが、
秀忠はこれを楯に、具体的に宮廷勢力を捻じ伏せたのである。
どの色を塗れど違憲は許されぬ 稲垣のぶ久
それにしても……この大業は秀忠にして成し得ることである。
もし家康だったら、女にはかなりだらしない彼は、かくまで正面切って
後水尾から一本とることは出来なかったに違いない。
秀忠は自分の身辺の「御清潔」を売物にした。
しかし、秀忠とて木石ではない。
実をいうと二度ほど側近の侍女に子を産ませているのだ。
前の一人は早逝したようだが、後の男の子は保科氏に預けられて
ひそかに養育された。
これが後に会津藩主になる保科正之であるが、秀忠は正室のお江を
憚って、彼女の生前は、この脇腹の子と対面しなかったという。
それで彼については恐妻家というレッテルを貼られているのだが、
真相はむしろ<御清潔ムードの秀忠>というイメージに傷がつくのを
恐れたからではないだろうか。
それにしても、側室腹の子が二人というのはいかにも少ない。
歴代将軍の中では謹直な方であることは確かである。
しかしこれは、彼が噴き上げる欲望を抑え込んでストイックに生きた
、というのではなさそうだ。
マナーモードにしてから人間に戻る 谷口 義
もしかすると、秀忠は政治がメシよりも好きだったのではないだろうか
そういえば、和子の事件の折でも、上洛中に実に秀忠はさまざまの手を
打っている。
一つはキリシタンを処刑している。
これはキリシタン弾圧の見せしめである。
あるいは天台宗の僧を招いて論議を行わせている。
天台宗の教義を聞くとは殊勝だが、これは宗教工作の一つである。
朝廷が比叡山と歴史的な密接なつながりを持ち、その宗教的権威を
利用したのと同じ狙いを抱いてのことであろう。
その趣旨に沿って東叡山寛永寺が江戸に建立されるのは、秀忠の死後で
あるが、構想はすでに彼の時代に始っていたと思われる。 また朝廷工作の一貫として、九条忠栄が関白に再任されているが
この忠栄は、秀忠の妻・お江が先夫・羽柴秀勝との間に設けた
女の子の夫である。
この娘はお江が秀忠と結婚するにあたって、淀殿の手許にひきとられ
成人して忠栄の妻となったのだ。
秀忠は公家の処罰に先立ち、お江ゆかりの忠栄を起用した。
まさに彼の手にかかっては廃りものはない、という感じである。
四股を踏む切り取り線の真ん中で 菊池 京
興子内親王(のちの明正天皇) 「紫衣事件」
当時、名門の寺院の住持になるには、勅許を得る必要があった。
勅許があって後、はじめて紫の衣を着ることが許されるのであるが幕府
はこの制度にも歯止めをかけ、勅許を得る前に幕府の承認を得なければ ならない、という「法度」を作っていた。
ところが、後水尾時代、法度を無視して勅許を願い、紫衣を着る僧が現
れたというので幕府はこれに文句をつけ、元和以降の勅許を無効とした
ーこれが「紫衣事件」である。
秀忠はここでも「法度」を持ちだす姿勢を貫いている。
しかも後水尾の勅許を取り消させたのだから、天皇の勅許よりも「法度」
が優先するという考え方であり、あきらかに後水尾への挑発である。
アンダーライン生きた証を残さねば 古久保和子
この事件は大波瀾を巻き起こした。
有名な沢庵宗彭(そうほう)が出羽に流されたのもその一つである。
しかし、幕府の狙いは宗教界を統制するだけでなく、もう一つの狙いが
あった。 後水尾が怒って「退位するぞ」というのを待っていたのだ。
そうすれば、ただちに高仁即位ーという計画だったが、これは見事に外
れた。 肝心の高仁が早逝してしまったのである。 (秀忠の娘・和子は、興子の前に後水尾との間に、高仁という息子を設
けていた。秀忠はこの皇子を即位させるべく、後水尾にかなりの圧力を かけていたのだ) 全方位矢が向いている光の字 村上蝸風
これを機に、逆転攻勢に出たのは後水尾である。
幕府の手詰まりを見越して「退位する」と言い出したのだ。
「興子内親王を即位させれば文句あるまい」
というのが、その言い分である。
奈良時代の称徳女帝を最後に歴史から姿を消していた女帝の出現に秀忠
は難色を示すが、後水尾はかまわず退位を強行してしまう。 実は、後水尾の狙いは院政の開始にあった。
当時の興子は七歳未満の童女である。
政治が行えないのがわかり切っている。
だから上皇として後水尾が実権を握り、平安末期の「院政」を復活させよ
うという計画だったのだ。 事実後水尾は、幕府に相談もなしに、院の別当を任命したりして着々その
準備を進めはじめた。 くすぶった不満が出口探してる 相田みちる
秀忠と家光は、ここで素早い対抗策に出る。
興子の即位を認めた上で、後水尾の待遇については、「万事後陽成院の
通り」とした。 院領は三千石、大名にも及ばない少額である。 これでは膨大な院の所領をふまえた平安末期のような院政をおこなえる
わけがない。 一方では、興子の周辺に眼を光らせ、何事も幕府の許可なしに公家たち
が独断で行えないように厳重な枠をはめてしまった。 期待せざる興子の即位であったにもかかわらず、この時点で幕府の朝廷
に対する統制は強化されている。 損して得を取った秀忠は、やはりしたたかというほかはない。
まさに虚々実々の駆け引きだ。
これだけ見ると、後水尾の抵抗もなかなかしぶといが、しかし、その過
程で、実は、秀忠は家康の成し得なかったこと、いや初代の征夷大将軍・ 源頼朝以来の重要な課題を一気に解決しているのだ。 スゴイッと言われて凄くなってきた 下谷憲子
公家を抑え込む秀忠 「狙いあやまたず」
画期的な課題の解決ー武家の官位の叙任、昇進についての権利をすべて
幕府が掌握してしまったことだ。 逆にいえば、朝廷は公家の官位についてだけしかタッチできなくなった。 権限の大幅縮小である。 これまでは、たとえば秀吉が関白になったときは、公家社会の序列の中
に組み込まれる形をとった。 もちろん、秀吉自身の権力にものをいわせての割り込みであり、家康が
征夷大将軍になったのも、内大臣になったのもすべて同じ形である。 しかし、秀吉も家康も天下の実力者ではあるが、形だけは公家秩序の中
に入った、ということになる。 つまり、官位の任免は、天皇を頂点とする公家的な序列に一本化されて
いたのだ。 結論を髪のにおいが惑わせる 宮井元伸
それが今度は、公家は公家、武家は武家の二本立てになった。
武家は、公家社会の序列や定員制に関係なく、幕府の権限で任命できる
ことになったのである。 例を現代にとってみよう。 春秋に行われる大量叙勲ーーこれは政府が内定し、天皇が勲一等なり何
なりを授ける、という形をとる。 ともかく叙勲は国家、すなわち政府の手で一本化されている。
それが、たとえば労働者には労働団体が、政府に断りなしに、独自に同
じ勲一等を授けられる、ということになったらどうであろう。 幕府がこれを打ち出したのは、いわばこういうことなのだ。
政府がかりに誰かを勲四等にしたい、と思っているところを労働団体が
さっさと勲一等を授けてしまったら、政府のお値打ちはガタ落ちだ。 A4でなくても僕に陽が昇る 三浦蒼鬼
日本の歴史はじまって以来、天皇と朝廷が握り続けていたこの権利は、
大きく制限される。
もちろん形の上では従来通り、朝廷から任命される形をとるが、幕府は 割り込み制をやめて独立性をとったのだ。 これは朝廷の権威・権力を制限するとともに、もう一つの意味がある。
たとえば、朝廷が有力な西国大名に官位を与えて、何かを企もうとする
ことは、もう不可能になったのだ。
その意味で、これは幕府の有力大名への牽制球でもあり、福島正則の改
易と表裏一体をなす政策であった。
このあたりに、秀忠の政策の凄みがある。
週末になると赤鉛筆が減る 中村幸彦
たしかに幕府は一応の安定期に入った。
その次に行うべきは、心の許せない外様大名と朝廷に睨みを、きかせる
こと、それ以外はない。 わが娘の入内という、見かけは平安朝を復活させるような大時代な行為
の蔭で、秀忠は<狙いあやまたず>この両者を押さえ込んだのである。 その意味で秀忠は優れた政策マンである。
にもかかわらず、秀忠が正当な評価を得ていないのはなぜか。
それは、誰にも気づかれず、こっそりと大仕事をやってのけることこそ
秀忠のナンバー2的精神の真髄なのだから、はじめは父家康を、ついで
は息子の家光を表面に押し出して、でき得る限り最小の名声で我慢する。 これこそ秀忠の望むところだったのだ。
音も匂いも位置もあの日のままの部屋 藤本鈴菜
「ナンバー2」は名声をほしがってはいけない。これは鉄則である。
ー名もなく、したたか、狡猾にー秀忠はその見本のような存在だった。
<あるいは、有名にならなくては何の生き甲斐があるか、という向きも
あるかもしれない> が、こういう目立ちたがりやには、ナンバー2はつとまらない。
ましてナンバー1を出し抜いて檜舞台で踊ってみたいといようなタイプ
は失格である。 ーじゃあ、何を生き甲斐にー
歴史というものは、史上の有名人ではなく、秀忠のようなナンバー2に
甘んじられる人間によって作られ、動かされていくのである。
そして秀忠が、「幕藩体制固め」という大仕事をやりぬけたのも、ナン
バー2時代の我慢と、その間に事態を見極め、あらかじめ独自の組織作 りを行い、緻密な現状分析を怠らなかったためなのである。 戦場に角を失くしたカタツムリ 湊 圭伍 二代目の振る舞い方は方は鷹だけど 新海信二
女性を遠ざけてみる秀忠 家康は1603年(慶長8)に征夷大将軍となってからたったの2年で 将軍職を嫡子・秀忠に譲った。どうしてなのか?
「関ケ原の戦い」の後、豊臣家は領地を削減されて約60万石の一大名
となったが、秀頼を主君と仰ぐ大名は少なからずいた。 早期に将軍職を自らの嫡子に継承することで、家康は、日本の統治者が
徳川家であることを天下に示そうとしたのである。 1611年には、二条城で「三カ条の法度」を発し、諸大名に幕府法へ
の遵守を誓わせて、幕府が最高権力機関であることを示した。 1615年には「大坂の陣」によって豊臣家を滅ぼした家康は、諸大名
を伏見城に集め、「徳川秀忠の命」という形で、諸大名統制のための全 13ヶ条の法令を発布した。 いわゆる「武家諸法度」である。 秀忠は、凡庸な2代目とされ、家臣の人望やカリスマ性はなかったが、
知力・政治力は家康も認めるところであり、幕府の礎づくりを任せた形
である。 豹変して、秀忠は家康の期待に応えて、強権政治を行った。 色落ちしてはならぬと武家諸法度 酒井かがり
甘える女性にご満悦の家康 家康ー永井路子さんが語る秀忠 「親父殿も女に目がなかったが、息子も…というのは芸がなさすぎる」
秀忠はどうやらこれの逆手を使ったらしい。
どうやら、こうしたマジメ人間秀忠の話は、彼自身の演出によるところ
も多いらしい。 (秀忠の)マジメ人間が定着したころ、家康が 「ああ、律儀でも困ったものだ。世の中律儀だけではいかぬからな」
と、側近の本田正信に洩らしたという。正信が秀忠に
「ですから、たまにはウソを仰ったほうがいいのでは」
と、すすめると秀忠は大マジメに答えた。
「父君の空言なら買う者もあろうが、俺のウソなど誰が買うものか」
が、これで見る限り、秀忠は全くのクソマジメ人間ではなく、なかなか
ユーモアに富んだ人物ではなかったか。
ともあれ、秀忠は密かに父と違う自分を印象づけるのに成功した。
快晴の笑いを放つメロンパン 川畑まゆみ
女性には興味のない家光
秀忠はあまり趣味のない男だが、「鼓」を打つことだけは好きだった。 が、家康が死ぬと、その楽しみもぴたりとやめてしまった。
側近が見かねて
「何もそこまでなさらぬとも…お道楽とてなさらぬ上様、せめて鼓ぐら
いのお楽しみはお続けになったら」 というと、彼はきっぱり答えた。
「いや、これまで自分は大御所さまの蔭に隠れていたから、何をしよう
とも世間の注目をあびなかった。しかしこれからは違う、世の耳目は 自分に集まる。自分が鼓好きとわかれば、ゴマを擂ろうとして、天下 の者みな鼓打ちになってしまうだろう」 よく読めば、彼がかなり意識して、家康の蔭に隠れていたことがわかる。
またそれが彼のゼスチャーだったということを人々に分からせるために
彼は鼓という絶妙な小道具を使ったのである。
海老反りで小股掬いをしのぎ切る 宮井元伸
しかも秀忠の言葉は、意味深長でもある。
鼓を愛すれば大名もこの真似をする。
いやそれだけではない。 鼓打ちが政治的にチョロチョロしはじめる。
秀吉が「茶」が好きだったのにつけこんで、茶堂の利休が政治的に暗躍
したこともある. 秀吉もはじめは茶を政治に利用しようとした。 ここでは身分の違う者が、かなり自由に顔をあわせることができる。
たとえば、武士と町人が政治がらみの密談をするには、絶好のチャンス
であり、事実、利休やそれ以前の茶人たちも、こうしたフィクサー役に はうってつけだった。こうして利休は私設官房長官的存在になってゆく。 が、秀吉が博多商人と接触し、次の膨張策を考え出したとき…、
利休は<小うるさい存在>になってしまったのだ。 誰もいなくなるあさってのニュース 森田律子
「今まではオヤジ(家康)に従っていた、が、もうこれからの俺はこれ
までの俺ではないぞ」 こうして、秀忠は、二代目将軍として腕を揮い始める。
そして、その一つ一つが、実は、徳川幕藩体制を固めるための重要施策
ばかりだった。 この秀忠時代こそ幕府の基礎を固めた時代ともいえる。 もし彼が、世評のように凡庸な二代目だったら、たちまちに徳川政権は
崩壊してしまったろう。 しかもそれらの施策は、実は秀忠がナンバー2時代に温めてきたもので
あり、それが実現できたのは、彼の握った人脈のお蔭である。 二度とない今生きていく骨密度 靏田寿子
秀忠がもっとも力を入れたのは、大名の転封、改易、つまり人員の配置
転換と人事掌握である。 江戸時代大名は、将軍が変わるたびに、改めて朱印状をもらわなければ
ならない。 このしきたり元祖が秀忠なのである。 これによって、秀忠と大名との主従関係が再確認される。
とりわけ領地が増えるわけではないが、朱印状を頂いたというだけで、
<ありがたきしあわせ> なのである。
同時に効果的な配置転換や加増も行われた。
大坂の陣などの論巧行賞も含んでいる。
とりわけ近畿の場合は、京都及び西国大名に眼を光らせるために、拠点
を信頼できる譜代の連中に守らせた。 <そなたたちを頼みに思うぞ>という意思表示であったえ、彼らは秀忠
への恩義を感じ、忠誠を誓ったはずである。 猫の肉球ネットワークができましいた 市井美春
「宇都宮釣天井事件」
なかでも注目すべきは、福島正則と本田正純の「改易」である。
広島の大名・福島正則は、周知のとおり秀吉の子飼いである。
が、関ヶ原の合戦にあたっても、いち早く徳川支持を打ち出した正則に
ついては、家康もさすがに手を伸ばしかねてかねていた。
その大物を、秀忠はついに改易してしまった。
理由は、幕府の許可を得ずに広島城の修築を行ったからである。
そして、もう一人の本田正純の改易も、それを理由にしている。
つまり「法度違反」である。
こうして改易させられた二人だが、正則と正純の場合はいささか事情が
違っている。 出し抜いたのは鴨ですか葱ですか 田口和代
福島正則 福島正則の場合は、あきらかに秀吉系の大名の取潰しであり、西国九州
筋の有力大名への見せしめだった。 <いかなる大身でも容赦はしないぞ> というゼスチャーなのだ。
一方の本多正純の事件は、「宇都宮釣天井事件」として有名である。
<正純が釣天井という怪しげな仕掛けをつくり、日光東照宮参拝のため
にここに泊った秀忠を亡き者にしようとした>、というのだが、 これはもちろん作り話である。 真相は<秀忠宿泊の折に手落ちがあっては>、と正純が密かに城の防備
を手直ししたということらしいのだが、この時も秀忠は、 「動機は何であれ、無断修築は法度違反」
として正純を改易してしまった。
張り紙は禁止と書いてある背中 笠嶋恵美子
本多正純
正純は父・本多正信とともに、亡き家康の側近だった。 若年ながら、幕閣の最高機密にタッチし、人から一目おかれていた。
諸大名も、何かといえば、正純に、<取りなしを頼む>、というような
ことが多かったらしい。 こうした先代の側近という人間くらい扱い難いものはない。
<少しはウソをつきなさい>と進めたのは、正純の父・本田正信である。
このような調子で、<正純にも人生の指南役などされてたまるか>
というのが、秀忠の本心であったのではなかろうか。
父に似た信楽焼をなでてみる 宮原せつ
秀忠がこれだけ思い切った手を打てたのは、もちろん彼の周囲によき側近
がいたからである。 ただし彼らは、いわゆる怪物的な側近ではない。 年寄衆と呼ばれ、のちに老中にあたる。
安藤重信、酒井忠世、土井利勝、酒井忠利らがそれで、つまり彼らが一つ
の組織として機能し、秀忠を支えたのである。 <俺が乗り出せば、社長もいやとはいえない>といった類の、得体のしれ
ない人物をのさばらせるのではなくて、組織による運営、合議による決定 という合理性を打ち出したのだ。 家康もその方向に向かって進みつつあったが、その形を強化・固定させた
のは秀忠なのだ。 人様に知られていない腹黒さ 大高正和 「宇都宮釣天井7コマ解説」 箇条書きすると私が見えてくる 津田照子 |
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