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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ばらんすとふらんす美しい日暮れ  柴田比呂志



日本銀行業の原点
明治6年6月11日、日本初の銀行である第一国立銀行が設立された。
当時、大蔵少輔の栄一が、三井組・小野組などから出資を募って設立
準備を進め、官職を辞したのち、自身が頭取に就任した。


「青天を衝け」 渋沢栄一、欧州に学ぶ


ナポレオン三世の近習に、経済学者のミッシェル・シュバリエ・社会学
者のフレデリック・プレーらのブレーンがいる。彼らが理想としたのは、
「サン=シモンド主義」といわれるものだ。
当時「社会主義者は、金持ちをなくし、その金を貧乏人に配る」という
平等分割を目指していた。しかし、サン=シモンド主義者は、「それで
はあダメだ」と訴えた。
なぜなら、「パイをできる限り均等に分けるのでは、世界を貧しくする
だけだ」と、説く。


贅沢を透けて見せてるゴミ袋  穐山常男


サン=シモンド主義が言うのは、「まずパイ自体を大きくして、1人当
たりの分配量を増やさないと、社会は豊かにならない。パイを大きくす
ると同時に、できる限り不公平のないよう、個々の働きに応じて、均等
に分ける」というものである。
そこで「鍵」となるのがサーキュレーション(循環)だった。工業にし
ても、農業にしても、それ自体で富が増えるわけではない。金と物とア
イデア、すべてを流通・循環させることで富は生まれるというのだ。


天秤の支点あやつる助詞一字  徳山泰子


「万国博覧会を真似たオリンピックの金・銀・銅」
サン=シモンド主義を支持するナポレオン三世は、まず、金銭の流通を
促す「銀行と株式会社」を作るところから改革を始め、次に、物と人の
流通のため、「鉄道と運河」を整備した。その上で、彼らが取り組んだ
のが、「アイデアの循環」で、そのための「万国博覧会」であった。
世界中から、創意工夫に満ちたものを集め、審査委員の公正な判断によ
って順位をつけ、金・銀、銅のメダルを与える。賞金はないが、メダ
ルによって、商品の価値が高まるため、出展者たちは、切磋琢磨する。
この競争が、さらなるアイデアを生み、総じてアイデアの循環を図る。


渋柿も垣根を越えてワンチーム  山本早苗
 
 

セーヌ川河岸に建てられた楕円形の万博会場


「渋沢が目を丸くした ①」
「アイデアの循環」というサン=シモンド主義の理念は、パリ万博の会
場そのものにも非常によく表れていた。パリ万博の巨大な会場は、楕円
形で中央に温室庭園、その周りを7つの回廊が、同心円に広がる構造だ
った。それぞれの回廊は、芸術作品、家具、鉄鋼業関連というジャンル
で分かれており、ひとつの回廊を巡ると、世界中の同ジャンルのものが
見られる仕組みとなっていた。さらに、円の中心から放射状にも道が作
られており、この道を歩くとひとつの国の産業を、まとめて見ることが
できた。そしてメイン会場の外周には100軒を超える各国の展示会場、
売店や遊園地、レストランなどが立ち並び、人気を博した。


落ち着きのない魂ですみません  竹内ゆみこ



パリ博の目玉になったエッフェル塔


さらに、開催国として多くの参加国を募る為、呼び物になる展示やモニ
ュメントが必要であった。そこで、シャン・ド・マルスに約312mに
達するエッフェル塔が建設された。塔は、700近くの設計案から選ば
れたエッフェル社に発注された。そして会場内ではシャン・ド・マルス
から小型電車が10分おきに発車し、周辺約3キロの会場を電車から見
て回ることができるようにした。塔は夜には、三色のサーチライトでラ
イトアップされ、会場内は、白熱電灯が照らし、万博史上初の夜間開場
が実現した。栄一の驚きはまだまだつづく。


真ん丸を歩いて過呼吸になった  森井克子
 


 「渋沢が目を丸くした②」
篤太夫のパリ道中の記録に『航西日記』がある。
その中で、篤太夫が強い印象を受け、ノートにしたのがアラビア半島と
アフリカ大陸の狭間、「スエズ運河の開削工事」についてであった。
スエズ海峡を開削して、地中海と紅海を結び、ヨーロッパとアジアを最
短距離で連結する巨大工事。2年前に始まり、45年後の完成を目指し
ているとの説明を聞き、留学生たちはその規模に驚いた。
が、篤太夫は少し違った。


この釘を抜いても何も変わらない  吉川幸子
 
 
 
イスマイリアのスエズ運河
 

篤太夫、「これだけ巨大な土木工事をやるのに、資金は一体どこから
出てくるのか?」、そこに疑問を持ったのだった。
カイロの元領事・レセップスというフランス人が起こした、スエズ運河
会社が工事を担っていると聞き、篤太夫は、さらに大きなショックを受
ける。「会社とは一体何だ」とこれが篤太夫の「株式会社」とのファー
ストコンタクトだった。事業をやるという会社の仕組みを知り、篤太夫
は目の覚めるような思いを抱いた、のである。


おまへんか よう切れる縁切り鋏  高野末次



ポール・フリュリ=エラール
パリ出身の資本家。日仏の貿易関係拡大に尽力し、昭武の遣欧使節団を
名誉日本総領事として歓待した。栄一は、このエラールから、経済学や
金融を学んだ。また商人のエラールが陸軍大佐と対等に接しているのを
見た栄一は、日本の「官尊民卑」の打破を考えるようになった。


パリ道中で見聞きしたことの多くに、篤太夫は、カルチャーショックを
受けるが、それは必ずしもヨーロッパ産業社会の事物そのものに対して
ではなかった。篤太夫に大きな影響を与えたのは、むしろ、産業社会に
おける人々、とりわけ「官と民」の関係だった。
昭武一行には、フランスからの世話係として、政府の役人・ヴィレット
フリュリ・エラールという銀行家が付いていた。この2人のフランク
な関係に、篤太夫は大いに驚くのであった。


名は知らぬが酒の好みは知っている  橋倉久美子


日本風にいえば、ヴィレットであって、エラール両替屋である。
武士と町人が、なぜ対等に接しているのか、このとき篤太夫、「そも
そもなぜ、日本において商人は、社会的評価が低いのか」を考えた。
昭武一行が、パリ滞在のための借家を探し始めたときのことである。
適当な賃貸住宅があるというので、篤太夫は通訳の山内文次郎を連れて、
下検分に行った。
この時、篤太夫は先方の提示した家賃が少し高すぎると思い、値下げの
交渉をするよう山内に頼んだ。しかし「そんな失礼なことを話せるもの
ですか」と断られてしまう。「商取引と同じようなものだから、失礼で
はない」と、いくら力説しても、結局、山内は頑として譲らなかった。


融通のきかぬ男の小引出し  嶋沢喜八郎


日本の武士は、金銭交渉を卑しいことだと考える。それはもとを辿れば、
商人が儲けのために、高値で売り付けたり、騙したりすることにも原因
があった。篤太夫「日本がフランスと同じようになるには、商人が誠
実さを最大の売りにするように、変わらないといけない」と考えるのだ
った。篤太夫は、パリ道中の一年半で吸収した様々なことを、日本で大
いに役立てることになる。


ぼくの知らないぼくをGAFAは知っている  落合正子


【蘊蓄 余談】
万国博覧会の始まりは、嘉永4年(1851)のロンドン万博で、パリ
万国博覧会は、安政2年(1855)に初めて開かれ、昭武一行が参加
したパリ博は、フランスが主催する2度目のもの。


空なんてこれだけのものか井のカワズ  松浦英夫

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生きてゆく重さ海月にある重さ  前中知栄



目黒行人坂之図 広重
行人坂を登りきったところに富士を眺める茶屋がある。


「江戸っ子のわらんじ(草鞋)をはくらんがしさ(騒がしい)」
江戸っ子とは、江戸ことばを話す根生い(江戸生まれで江戸育ち)の
人々のことで、明和8年(1771)この川柳に詠まれた「江戸っ子」
が最初とされている。句は江戸の男が旅立つとき、やたら大騒ぎする
のを皮肉ったもの。
この年は60年ぶりに「お蔭詣り」が流行した年でもあり、4月から
8月までの四ヶ月間に、諸国から200万をこえる人が、伊勢神宮へ
おしかけた。
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、「火付盗賊改」を命じられたのは、
この狂熱がようやく沈静へむかったころ、同年10月17日である。
53歳であった。


ペアルックでした魔法が解けるまで  三浦蒼鬼
 

「火付盗賊改」 長谷川平蔵宣雄


 
目黒行人坂之図 
<目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建
立し、大円寺と号す>
富士見茶屋(左上)から行人坂を下って太鼓橋(中央下)までの中ほど
に、木々に囲まれた「大円寺」がある。


明和9年2月29日、江戸には南西の寒風が吹く荒んでいた。
午後1時を過ぎたとき、江戸郊外の目黒行人坂の大円寺から出火した。
折からの強風に煽られて猛火は、麻布・芝・桜田へと広がり、和田倉・
馬場先から江戸城曲輪内の評定所や、老中らの屋敷が並ぶ大名小路をも
襲った。さらに火勢は、日本橋から神田・下谷・浅草・千住にまで燃え
広がり、ようやく翌日夕刻にいたって、鎮火したのも束の間、新たに本
郷菊坂から出火があり、この火は駒込・千駄木・谷中、そして寛永寺も
焼き尽くして、夜半に鎮火した。「目黒行人坂の大火」と呼ばれ、明和
の大火に匹敵するものだった。しかし、明暦の大火のときにはなかった
「火付盗賊改」が生れており、その役にあったのは就任間もない長谷川
平蔵宣雄、つまり平蔵宜以(のぶため)の父親であった。


チャンネルを回すと死者が増えてゆく  河村啓子


平蔵宣雄は、この大火は付け火とみて、大円寺一帯の聞き込みに与力・
同心を投入した。すぐに同心の1人が、大円寺周辺をうろついている武
蔵熊谷無宿・潮五郎を捕らえ、追及すると、放火を白状した。潮五郎は
真秀と名乗る願人坊主であった。ところで火付け犯が、火盗改の同心に
早々に捕まることはよくあることだった。疑わしい者を片っ端から捕縛
するからで、中山勘解由山川安左衛門のように、十分な取り調べをせ
ずに拷問をして、早々に自白で決着をつける乱暴な火盗改が少なくなか
った。かなりの数の者が冤罪で火あぶりになっていた。
しかし、平蔵宣雄は違っていた。


何処となく秋風に舞うクエスチョン  渡邊真由美



太鼓橋



真秀の自白を聞くと、真偽を確かめるために大円寺へ連行して現場検証
をした。境内へはどの道から入ったのか、付け火をしたのは何処かなど、
詳しく実地で尋問したのである。宣雄は、自供だけで火罪にすることを
ためらい、老中・松平武元に町奉行の判断を願い出ている。宣雄の一連
の取り調べには、優れた配慮があり、事実認定に並々ならぬ真摯さがあ
るとして、武元は、町奉行に判断を求める必要はないとした。
結果、真秀は町中引き廻し、5カ所に科書・捨札を建て浅草において、
火罪の判決が下された。


形式の鎖を根気よく解く  下谷憲子


この目黒行人坂の大火」「明暦の振袖火事」文化期の「車町火事」
とともに「江戸の三大火事」と呼ばれるが、火事の原因がはっきりして
いて、しかも犯人が捕らえられた唯一の大火である。おのずから火付盗
賊改・平蔵宣雄の評判は高くなった、が、平蔵は淡々としていた。


金太郎飴は依怙贔屓をしない  平井美智子



京都町西町奉行所跡
江戸時代、千本通押小路東入ル北側一帯西町奉行所があった。


幕府は11月16日、人心を一新するため、「明和」「安永」と改元
した。この改元が行われる1ヵ月前の10月15日、平蔵宣雄は「火付
盗賊改」を免じられ、京都町奉行に抜擢された。この父に従い、京都に
暮らした宣雄の嫡男・平蔵宜以が、のちに火付盗賊改として活躍するが、
京都町奉行としての父の姿を、つぶさに見ていたことが役立っている。
京都には東西の両町奉行所があったが、平蔵宣雄が就任をした西町奉行
所は、東町奉行所よりも格上と見られていた。ともに、市政全般を担当
しているが、京都特有の門跡寺院や古い寺社がかかわる訴訟は、西町奉
行所が専管することになっていた。


それとなく線が一本引いてある  嶋沢喜八郎


由緒のある係争者は、平安・鎌倉時代からの権利書や慣習を持ち出して
きたりして、裁きには難題が多かった。しかも寺社には、弁論・口論の
達者がおおく、日頃から自己の利益・理屈を押し通すのに熟達している。
平蔵宣雄の行き届いた取り調べぶりをよく知っていた老中・松平武元が、
適任者とみて白羽の矢を立てたのだろう。宣雄は従5位下・備中守とい
う大名並みの官位を与えられて赴任した。


気位の褪せないように青を足す  美馬りゅうこ


宣雄は審理のとき両者の言い分を十分に言わせ、無言で耳を傾けている。
双方の弁論が終わると、争論の筋道を整理し、証拠の品を一つづつ道理
をもって検証し、その日のうちに毅然と裁決した。
その裁きぶりは快刀乱麻を断つごとくで、東町奉行所が4,5件の事件
を処理する間に、西町奉行所は20件も裁くと評判になった。


まあるい人だ寒さを知っている人だ  徳山泰子


また宣雄は、質素な暮らしが身についており、これは、京都でも変わる
ことなく、地付きの与力・同心は、宣雄に心服・感化されて奉行所内の
奢侈の風が改まった。ところが、赴任8カ月後、安永2年(1772)
6月22日、宣雄は病を得て、突然亡くなる。病が何だったのかは不明
である。55歳であった。
宣雄は、「客死をしていなければ、江戸の町奉行に進んでいただろう」
と囁かれる痛い死であった。(客死=旅先での死)


般若心経左折する赤トンボ  藤本鈴菜


宣雄の急死で、嫡男・平蔵宜以への家督相続の末期願いについては、
京都東町奉行だった酒井善左衛門忠高が円滑に処置してくれた。
酒井は宣雄より10年先に「火付盗賊改」を務めあげ、奈良奉行を経て
3年前から京都東町奉行に就いていた。30歳年下の平蔵宜以のために
「判元見届」を無事にすませている。宣雄の後任の京都西町奉行には、
山村良旺(たかあきら)が決まり、平蔵宜以は妻子・家臣を引き連れて
江戸に戻ることになった。
(判元見届=武家から、末期養子(後継者)の申請が出された際、幕府
の役人が派遣されて行う確認作業)


ためらった父の仕事を歩む今  本田智彦


いよいよ西町奉行所を立ち去るというとき、与力・同心らが見送りに出
たところ、先輩でもある彼らに平蔵は、面と向かって演説をした。
『各々方(おのおのがた) 御堅固に御在勤あるべし。後年、長谷川平
蔵と呼ばれては、当世の英傑と世に言われんことを思う。…中略…。
各々方御用として参府あらば、必ず訪わせらるべく候、と、暇乞いいた
しける』
京兆府尹記事』(けいちょうふしん)』


鶏頭は空の高さへ背伸びする  くんじろう


奉行の平蔵宣雄には敬服していたものの、28歳の若造といってもよい
息子から別れ際にいきなり、「わしはいずれ当代の英雄豪傑となるから
、江戸に来たときは、屋敷に参られよ」
と言われたので見送る者たちは、
あっけにとられた。
平蔵宜以が京都町奉行所に暮らしたのは、わずか8カ月だったが、大き
「自負」を言い放つほどに成長して江戸へもどった。
尚、平蔵宣雄の「火付盗賊改」退任から、子の平蔵宜以の火盗改(助役)
就任の間には、15年の間がある。この館、延べにして26人の火盗改
が次々と入れ替わった。


京都から歩いて帰ることはない  森本高明


【余談】
 
 
  
目黒行人坂の火事
 
 

  <火事と喧嘩は江戸の華> 江戸は火事が多く、ほとんど毎日のように
発生していた。そして、江戸三大大火と呼ばれる一つに、「目黒行人坂
の火事」
がある。真秀という願人坊主が、盗み目的で目黒行人坂の大円
に、明和9年2月29日正午過ぎに、忍び込み放火したのである。
火は西南の強風にあおられ、千住まで、江戸の三分の一を焼き尽くし、
翌日の午後になってようやく鎮火した。死者1万5千人にもおよんだと
いう。(真秀は、間もなく火付盗賊改方に捕縛され、小塚原で火刑に処
せられた)



あかんから生まれて僕がいてあかん  藤井孝作
 


「行人坂の中途の大円寺に慰霊の五百羅漢石像」
 
 
目黒行人坂の火事の折、大圓寺の仏像は、坂の下を流れる目黒川に沈め
て無事であったが、幕府は、火元である大円寺の再建を嘉永元年(18
48)まで許可しなかった。その間、仏像の類は隣の明王院(雅叙園)
に仮安置され、大圓寺の焼け跡には、大火で犠牲になった人々の霊を鎮
めるために、五百羅漢像が石彫で造られ、並べられた。羅漢像は、石工
が2代3代と継いで、50年の歳月をかけて完成したといわれている。


愛憎の絵文字が宙をとんでいる  木戸利枝

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6Bの一色で描く童話  くんじろう
 
 

火付盗賊改方の与力・同心


 「名奉行」と「名火付盗賊改」
火付盗賊改は、寛文期(1661-73)の水野小左衛門にはじまって、
幕末(1860)まで、約200年の間に、延べ248人が就任した。
それに対して、町奉行は、江戸時代260年を通じて95人にすぎない。
ところで「名奉行」といえば、すぐに名があがるのは、大岡忠相遠山
景元であろう。もう一人加えて「三名奉行」を選ぼうとすると根岸鎮衛、
筒井政德、矢部定謙など、意見が分かれる。「火付盗賊改」も同じで、
中山勘解由長谷川平蔵の二人は、衆目の一致するところだが、第三の
男となると、248人もいる中で、適切な人物がみつからない。


ええ、あの子は乾燥機の中よ  山口ろっぱ


国学者の大野権之丞は、第三の男として幕臣の執務上必携の『青標紙』
に於いて矢部彦五郎をあげている。青標紙は、天保11年(1840)
に300部出版された。しかし『武家諸法度』『御定書百箇条』など
の禁令を載せていたため「発禁処分」を受け、大野は流罪となった。
ところが、青標紙は300部限定ではなく、実際には、もっと多く刷ら
れて、幕臣は、役目でミスを犯さないために密かに熟読した。その中に
名高い「三人の火盗改」として、伝説的な中山勘解由長谷川平蔵と並
んで、身近な同僚である矢部謙彦彦五郎の名があり、幕臣たちは驚いた。


「ねばならぬ」重さに耐えている家紋  靏田寿子


「火付盗賊改」 矢部謙彦(さだのり)彦五郎


矢部が先手筒頭に任命されたのは、文政11年(1828)8月で10
月には「火付盗賊改」助役を命じられた。矢部が御頭になった先手組は
中山勘解由(かげゆ)が率いた「先手筒組五番組」であるが、すでに1
40年も過ぎていて中山勘解由の名残りはない。
矢部が大手柄をあげるのは、天保元年末に「火付盗賊改」に再々任され
たときである。腐りきっていた前任の火盗改の御頭・与力・同心を一掃
するのである。


紆余曲折をただ真っ直ぐに突き進む  蟹口和枝


犯罪を取り締まるはずの組織の根幹が、犯罪に汚染されていることは、
古今、珍しいことではない。火付盗賊改では、8代将軍・吉宗のとき、
山川安左衛門組の与力・同心が、目明しの鬼子儀兵衛に汚染され、鬼子
と与力2人、同心5人が死罪になった。しかし、文政・天保期(181
8-44)に警察組織を汚染した部屋頭・三之助の仕掛けは、幕府にと
って、はるかに重大・深刻で、鬼子儀兵衛の比ではなかった。


満腹の腰の刀が錆びている  上嶋幸雀 



口入屋


「部屋頭・三之助」
三之助は、表向きは、商家や武家に奉公人を斡旋する口入屋(人宿)を
営む主人であるが、実状は、武家屋敷の中間部屋を博打場にしている元
締めであった。「人宿」の経営者なので、いつでも求人に応じられるよ
うに「寄子」をたくさん抱えているが、ほとんどが子分とか義弟と呼ば
れる男たちで、奉公先はもっぱら武家、それも大名・旗本屋敷へ中間・
小者を周旋するのを生業にしていた。特に慢性的に家計に苦しんでいた
旗本は、三之助が屋敷内に博打場をひらいて、多額の礼金を納めてくれ
るのを喜んだのである。


北風も音符に変えるミュージシャン  奥山節子


三之助は、人宿の主人だから本来は、町方に居住しなければならないの
だが、奉公人の周旋より博打の胴元で稼いでいたから、自身も武家屋敷
に住みついていた。それが常に、火盗改めの屋敷であった。悪党の親玉
ともなると、ふつう異名があるが、三之助にはそれらしい通り名はなく、
旗本屋敷の中間部屋の頭を隠れ蓑にしていたので、「部屋頭三之助」
呼ばれていた。


ちゃんと名はあります花も咲かせます  八田灯子


博打を取り締まる役所を根城にして、博打をやっていたのだから、これ
ほど安全な賭場はない。三之助は、火付盗賊改のお頭はもちろん、その
用人、また与力・同心に至るまで、寺銭をたっぷりと贈った。付け届け
は町奉行所の内与力や廻り方の同心にも渡されていて、町奉行所と火付
盗賊改という江戸の警察組織の一部は、遅くとも、矢部が火盗改に就く
10年ほど前には、三之助の手に握られていた。火付盗賊改の頭が交代
すると、三之助は前任者に紹介されて、新任者に大金を持って顔つなぎ
の挨拶に訪れ、その中間部屋の頭におさまってしまう。ところが、矢部
彦五郎が就任したときは危険だと感じたのか、近づかなかった。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子
 


捕り手


老中・大久保忠真は、町奉行と火付盗賊改が、三之助に汚染されている
のを憂え、火盗改に再々任になった矢部を呼んで、内々に三之助の捕縛
を命じた。ふつう老中の命令は、「御下知」となり、命じられた役人は
張り切って大々的に捕物にするのだが、「御内意」となると誰にも知ら
れぬように事を仕遂げなければならない。配下の与力・同心の中には、
三之助に通じている者がいるので、捕える前に逃がしてしまいかねない。
おびき出して捕まえるしかない。


物隠す神は眼鏡が好きらしい  前中一晃


「まずは三之助がどこに潜んでいるのか」、腹心の同心を使って前任者
たちの屋敷を探らせてみると、6代前の火盗改・松浦忠右衛門の屋敷内
に住んでいることがわかった。矢部は一計を案じ、支配の若年寄に病気
と届け出て、屋敷から一歩も出なかった。
時の火付盗賊改がまったく外に出ないので、「役立たず」と市中の噂に
なった。一方、配下の与力・同心は、御頭が病気といいながら、医者が
一人として往診に来ないのを不審に思った。


出来すぎた話に塩のひと握り  安土理恵


矢部はある日、三之助と結託している与力2人を居室に呼び寄せ、
「わしは長病なれば、お役を辞すべきかと思っておる。されど皆も知っ
ての通り、医者も医薬も用いずにいる。病は四百四病の外にあり、お役
を退くのが無念でならぬ」
与力は畏まって、「お頭 病気は何でしょうか」と、障子越しに尋ねた。
「恥ずべきことながら、貧の病だ。札差(蔵宿)からもほかからも借り
つくして、もはやわしに金を貸す者がない。聞くところによると、部屋
頭の三之助なる者はすこぶる金満家の由。内々に借用できぬものか」
聞き取りづらく、いかにも、か細い声で、矢部は答えた。


なまの声忘れてしまいそう あなた  下谷憲子


与力らは驚いたが、念を入れて、お頭のいかにも心なげな話し声を聞き、
「三之助にお話を伝えましょう」という。
三之助は、かねてから矢部を取り込みたいと思いながら、近づけずにい
たので喜んだ。火盗改のお頭・与力・同心の関係は、一体と思われるが、
与力・同心は、お頭しだいで勝手にふるまう。三之助は、
「貴公らを疑うわけではないが、願わくば殿様にじかにお会いして話を
承りたい」という。


野心家のヒゲは左にカールする  上田 仁



三之助逮捕


日ならず、与力は三之助の返事を持って、お頭の座敷前の縁に座し、
「三之助は、借金に応じるが、さきに面会を願っている」ことを伝えた。
「相分かった。ただ面会は苦しくないが、座敷に通すわけにゆかないの
で、庭先で会おう」矢部は応えた。
当日、矢部は、奥座敷に出ると三之助が庭前に畏まって頭を下げている。
矢部が縁先に出て二言三言何か言うと、手筈しておいた同心たちが駆け
寄って捕縛した。どこからも邪魔の入る暇のない電光石火の逮捕劇であ
った。


逃げ道をふさぎ昨日を帰さない  中野六助



高山陣屋
本来は与力が犯罪者の取り調べ・拷問などをここで行った。
 

早々に、はじめられた三之助の取り調べは、町奉行も火付盗賊改も担当
から外し、公事方の勘定奉行・曽我助弼(すけまさ)が受け持った。
判決は次の通り。
『この日、先手頭・松浦忠右衛門、その忠僕・三之助はじめ家人ら罰せ
らるるにより、咎められて職解かれ、御前をとどめらるる。
先手頭・奥山主税助(ちからのすけ)その前の従僕・三之助が事により、
その家人ら同じく罰せらるるにより、咎められて御前をとどめらる』
(御前をとどめる=出仕をも許さず)


フラスコに罪を8割 水2割  みつ木もも花  


約10年前、火付盗賊改の屋敷を根城にして、町奉行所と火付盗賊改の
役人をカネで牛耳っていた部屋頭・三之助が遠島になった。
当然、八丈島へ送られると思いきや、新島であった。賭博の胴元の刑は
ふつう八丈島へ流される。三之助の場合は、火盗改の屋敷内で賭場を開
帳していたのだから、死罪でもおかしくないと思うのだが新島であった。
幕府内部の与力・同心の腐敗をさらけだすのを避けるため、三之助の処
罰に手心を加えたのだろうか。
三之助は、新島に流されて15年後、弘化3年(1846)に病死する。


サンダルを洗う潮騒きいている  三村一子   


一方、松浦奥山の先手頭2人が罷免・出仕差控の処罰を受け、このほ
か、処分を受けた先手組の同心と町奉行所の同心は、28人に及んだ。
火付盗賊改の矢部彦五郎は、三之助捕縛が評価されて、この年10月、
43歳で堺奉行の転役した。この後の栄進はめざましく、45歳で大坂
西町奉行、48歳で江戸に戻って勘定奉行、53歳で南町奉行に就任し、
北町奉行の遠山の金四郎は、相役であった。しかし、最後は老中・水野
忠邦に反目し、約8か月で罷免された。主因は、水野と対立したために
目付・鳥居耀蔵(ようぞう)の策謀により罷免されたとみられている。
 矢部は、その処分を不服として絶食し、それが原因で死去した。
54歳だった。


いろいろとあって迷子になる時間  清水すみれ


エピソード・「新参者いじめ」 
矢部彦五郎は、剛直な性格で、新参のころ、先輩が定謙をいじめようと
弁当の残りで、お粥を作ることを命じた。彦五郎は、鍋を火にのせたが、
そのままほったらかしにしていた。そのうち焦げ臭くなった。
「小僧、粥が焦げているのがわからぬか。早く何かでかきまぜろ!」と、
偉そうなことをいう。腹を立てた彦五郎は大きな声で、
「それがし小身とはいえ、飯炊きなんぞをしたことがない、火加減など
わからぬ!」と言い、怒りにまかせ、かたわらの大ロウソクを握ると、
力任せに鍋をかき混ぜた。古参の者たちは驚き慌てた。
咎めるものがなかったのは、この新参の若者に怖れを感じたからだろう。
このことが上司に知れて、彦五郎は辞表を出したが、かえってその態度
が立派であるとして許され、先輩の方が処罰された。
老中・水野忠邦との喧嘩も、こうした若いころの性格が、老いても健在
であったことの現れだろう。それにしても、水野は相手が悪かったか。


忘れぬようトゲは刺さったままである  雨森茂樹

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終わる旅はじまる旅の影絵かな  前田扶巳代



小枝橋にて激突する幕府軍と新政府軍。
 幕府陸軍の日の丸と桑名藩の九曜紋。


右側に薩摩藩の旗  右下に長州藩の旗 。


「青天を衝け」 帰国それから


「振武軍」「東征軍」の攻撃を受けて壊滅した翌日にあたる慶応4年
(1868)5月24日、新政府は、懸案だった徳川家への処分を公表
する。その処分内容とは、
慶喜の水戸での謹慎・隠居を受けて、徳川宗家の16代目を継いでいた
田安徳川家の亀之助(徳川家達)に、駿府城と駿河・遠江国70万石を
与えるというものだった。ここに「静岡藩」が誕生する。
だが、徳川家からすると江戸城は取り上げられた上に、それまでの身上
からすると大減封を強いられるものだった。天領とも称された徳川家の
所領は400万石である。旗本に与えた所領を含めれば、約800万石
にも達するとされた。駿河・遠江70万石への移封とは、10分の1以
下の大減封である。5月15日、一日も要さずに、彰義隊を壊滅させた
ことで徳川家は完全に牙を抜かれた格好である。徳川家は、この処分を
甘受したが、徳川家家臣にとっては、転落への始まりであった。


腹切る時はゴボ天で一文字  井上一筒
 


 
箱館五稜郭の戦い (幕府、新政府、最後の戦争)

5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河・遠江70万石への減封
というものであった。これにより、約3万人の幕臣を養うことは困難と
なり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、
蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の開拓にあたらせようと画策した。
 
旗本が約6千人、御家人が2万6千人で、幕臣の数は優に3万人を超え
ていたが、70万石の大名が抱えることが出来る可能な数は、5千人と
見積もられた。徳川家は2万人以上のリストラせざるを得ず、同年6月、
家臣に対して3つの選択肢を提示した。

① 新政府に出仕する。
② 徳川家にお暇願いを出し、新たに農業や商売を始める。
③ 無禄覚悟で徳川家達とともに静岡に移住する。
藩としては、①か②の新しい自活の道を探ってほしいとの願望があった
が、無禄でも静岡藩氏であることを望むものが多く、5千人をはるかに
超えるものだった。(『静岡県史』)


その中の一葉は踏絵かも知れぬ  笠嶋恵美子


 そして8月9日、徳川家達は、江戸改め、東京を出発して静岡に向かう。
入れ替わるように、9月20日、明治天皇一行が京都を出発して、東京
に向かう。10月13日に天皇一行は、江戸城改め、東京城に入城した。
以後、東京城は、皇居と定められ、11月3日には、慶応から明治へと
元号が変えられた。


分かった振りするしかない地動説  三宅保州
 


家康、江戸を建築する
以後、江戸は260年続いた。


一方、篤太夫昭武一行は、新政府から帰国命令を受け、慶応4年9月
4日、マルセイユ港でベリューズ号に乗り、フランスに別れを告げた。
そしてベリューズ号が香港・上海に寄港してのち、横浜港に入ったのは、
明治に改号された11月3日のことである。11年と10ヶ月ぶりの日本
だった。
篤太夫は、上陸して横浜にいた友人に函館の様子を尋ねた。が、なんと
成一郎が、榎本武揚艦隊に身を投じて、函館へ向かったという。大いに
失望した篤太夫は、成一郎に向けて書状を送った。
「そんな烏合の衆に加わっても、先は見えている。もはや、生きて会う
ことはないだろう」という趣旨であった。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子


昭武らと別れた篤太夫は、横浜で帰国事務に忙殺されるが、11月7日
には、東京へ向かう。東京では、日本不在中の様々な出来事を知る至る。
見るもの聞くもの、すべたが不愉快であった。ヨーロッパ諸国を歴訪し
たものの、フランスでの留学は中止となり、満足に学ぶことも出来ずに
帰国を強いられた。帰国すると、親友たちの多くが、命を落としたか、
離散したかのどちらかであることを知った。有為転変の世の中であると
嘆息せざるを得なかったのである。


引っ張ればずるずる解けるクモの糸  宮井いずみ


中でも、兄貴分だった尾高長七郎の死は痛恨の極みであった。この年に
ようやく出獄したものの、4年にも及ぶ牢内の生活は長七郎の体を蝕み、
情緒不安定に陥っていた。自由の身となった後は、故郷で療養したが、
11月18日に悲運の生涯を終える篤太夫は、帰国していたが、再開
をはたすことはできなかった。長七郎は、横浜焼き討ちを主張する自分
を、必死の思いで諫めてくれた命の恩人であった。文武両道に優れた偉
丈夫が郷里に埋もれたまま、生涯を終えたのは、何とも痛ましいことだ
った。それも幕府が倒れて新時代が到来した年なのにである。


葬式と墓のCM目立ちすぎ   村上玄也



栄一の血洗島村の実家


篤太夫は、文久3年(1863)冬に故郷を出て以来、領主安部家との
関係がこじれたこともあって、帰郷を躊躇していたが、もうほとぼりも
覚めたことで、血洗島村に帰郷しようと考えていた。篤太夫は、帰郷の
予定を知らせる書状を実家に送ったが、父・市郎右衛門のほうから上京
してきた。当時、篤太夫は、神田明神下に住んでいたが、11月23日
に、神田向柳原町で武具問屋を営む横浜焼き討ち計画以来の友人である
梅田慎之助から、父・市郎右衛門が来ている、と報せが届いたのである。
篤太夫は、父と6年ぶりに対面する。市郎右衛門は、息子の無事な姿を
喜ぶとともに、亡国の遺臣となった篤太夫に身の振り方について尋ねた。
「お前は、これからどうするつもりなのか」と。


型崩れしてもでっかい父の背な  高東八千代


勘当を申し出た時に言われた言葉と同じ切り出しだ。それに答えて。
『今から函館へいって脱走の兵に加わる望みもなければ、また新政府に
媚びを呈して仕官の途を求める意念もありません。せめてこれから駿河
へ移住して、前将軍家が御隠棲の傍らにて、生涯を送ろうかと考えます。
それとても、彼の無禄移住といって、その実は静岡藩の哀憐を乞い願う
旧旗本連の真似は必ず致しませぬ。何か生計の途を得て、その業に安ん
じて余所ながら旧君の御前途を見奉ろうという一心である』と、言った。
                         (『雨夜譚』)


跳んでみて年相応の水溜り  下林正夫



静岡城

篤太夫は、新政府に仕える気はなかった。幕臣の大半が選択した静岡藩
氏への道を選ぶつもりもなかった。静岡に移住して、新たに農業や商売
を始める決意だった。静岡藩の禄を食まず、あくまでも自活するという
もので、静岡に移住すると決めたのは、恩寵を受けた慶喜様の行く末を、
近くで見守りたいという信念からだった。静岡に行けば何か仕事がある
かもしれない。何もすることがなければ、農業をするまでのことと割り
切っていた。


言い訳が済むまで生きることにする    いわさき楊子


27日、篤太夫の父・市郎右衛門は、血洗島村に戻る為東京を離れたが、
篤太夫が帰郷したのは、12月1日夜のことである。篤太夫が帰ってき
たのを知ると、親戚縁者や知り合いが次々と集まり、篤太夫は、久々に
我が子を胸に抱き、悲喜こもごものことを千代や母、尾高惇忠ら皆と朝
まで語り明かした。こうした久方ぶりの故郷を堪能すると、7日朝、家
族たちの見送りを受けて、血洗島村を出立した。この後、篤太夫は、東
京で残務整理したのち、慶喜のいる静岡に向かった。


ふるさとは僕の漬け物石である  岩崎雪洲  

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後戻り出来ぬ思いのひとり言  靏田寿子
 
 
 
上野戦争
徳川家の菩提寺・寛永寺に集まった彰義隊は、大村益次郎の作戦により、
わずか一日で壊滅した。
 
 
「青天を衝け」 彰義隊


「篤太夫がフランスへ出発する直前、友へ」
篤太夫は、渡仏の前に会っておきたい者がいた。
文久3年(1863)に血洗島村をともに出た渋沢成一郎である。
従兄弟である以上に、死生ををともにしようと約束した友人だった。
『自分は幸に、この命を受けたから誠に幸運だが、それについても貴契
の身上が思い遣られる。…中略…それにしても、ただ末路に不体裁な事
がないようにしたい。僕は海外に居り、貴契は御国に居て、その居所は
隔絶することになったが、この末路に関しては、共に能く注意して、恥
ずかしからぬ挙動をして、いかにも有志の丈夫らしく、死ぬべき時には
死恥を残さぬようにしたいものだ』と決別した。(『雨夜譚』ゟ)


百均の雑巾掛けの拭き残し  中岡千代美


フランスに向かう篤太夫にとり、心残りは、国内に残る成一郎のことだ。
最初は幕府を倒すため、故郷を出たはずだったが、運命のいたずらか、
その幕府に仕えることになった。
しかし、幕府の命運は尽きており、長くはもたないだろう。「互いに亡
国の臣となることは、覚悟しなければならないが、恥ずかしくない行動
をとり、死後に恥じだけは残さないようにしたいものだ」と述べ、篤太
夫は成一郎に別れを告げた。篤太夫は、3歳年上の成一郎のことを非常
に心配していたが、「これが現実のもの」となる。


2人分作ってしまう さみしいね  北原照子


「彰義隊・頭取・渋沢成一郎」
慶応3年(1867)2月11日、徳川慶喜が寛永寺の一室に謹慎した
前日のことである。
「慶喜公は尊王のために誠忠を尽くし、去年冬には、大政を朝廷に奉還
された。しかるに、奸徒どもの策謀に堕ちて、朝敵に転落したことは切
歯に耐えない。君辱められれば臣死する時である。一致団結して多年の
御恩に報いるのはこの時だ。ついては百般ご相談申し上げたくお集まり
いただいた」
慶喜の汚名をそそぐ意をもって、江戸郊外の鬼子母神の門前茶屋「茗荷
屋」に陸軍付調役並の本多敏三郎や同役の伴門五郎たちが、この「廻状」
の呼びかけに応じて集まった。この呼びかけに応じて集まった者たちが
「彰義隊」の始まりだった。


遠眼鏡虹の向こうを追いかける  藤村タダシ


この最初の集りには17人の参加だったが、三回目の集まりには、渋沢
成一郎天野八郎も参加した。当時、成一郎は奥祐筆格に昇格していた。
奥祐筆とは、幕府の機密書類を預かる重職であり、慶喜の信頼の厚さが
わかる人事だ。まさに慶喜側近の1人になっていた。成一郎は、慶喜の
後を追いかける形で、江戸に戻るが、本多たちの強い要請を受け、21
日の会合に参加したのである。当初、成一郎は渋っていたものの、江戸
に出てきていた尾高惇忠の勧めもあって参加を決めた。


しっかりと踵下ろして見る視線  津田照子


ーーーーーー
天野八郎             天野の恰好よすぎる錦絵


一方、天野八郎は、群馬県南牧村の名主・大井田家に生まれ、幼名を
井田林太郎といった。江戸に出て、学問や剣術に勤しんだが、慶応元年
に与力・広浜利喜之進の養子となって八郎と名乗り、幕臣となる。幕臣
といっても、その出自は多種多様だが、三河譜代の旗本などは、新参者
の幕臣に好感を持ち得なかったことは想像がつく。幕末には武士の身分
を買い、農民から武士になる裕福な農家もあったのだ。こうした「にわ
か幕臣」にすぎない者たちが、慶喜を奉じて「彰義隊結成」のレールを
敷いたのである。


決心のついた玉子を裏返す  下戸松子


3回目の会合に成一郎が参加したことで、同志の結集には弾みがついた。
初回からみて4倍に増えた同志は、次回の会合の参加者はかなり増える
とみて、本多たちは場所を浅草本願寺に変更する。実際、さらに2倍の
130名にまで増えた。この日、会合名が「尊王恭順有志会」と名付け
られる。尊王の志が厚い慶喜が、恭順の意を示していることを踏まえた
名称であったが、隊の名前も付けることにした。そして試行錯誤の結果、
「彰義隊」と決まる。頭取、副頭取、幹事も決まる。成一郎が頭取に、
天野八郎が副頭取におされた。彰義隊は「同盟哀訴申合書」を作成して
徳川家に提出したが、こうした一連の幕臣たちの間で広まったことで、
彰義隊への参加者が急速に増え、たちまち千人ほどに達した。


止まぬ激論びっくり水を注いでやる  柳川平太
 
 
 
東叡山文珠楼焼打之図(横浜市歴史博物館)

 慶応4年2月に結成された彰義隊は、5月15日に2千名程が上野の山
にたてこもり、約2万の薩長連合軍と戦った。朝から昼過ぎまで砲撃を
受け、その砲声は、江戸市中にとどろいたといわれる。

 
彰義隊が寛永寺に移ってきたのは、4月3日のことである。当所に謹慎
する慶喜にとり、その存在はあまり好ましいものではなかった。
当時、境内には、徳川家の指示を受けて、護衛の幕臣たちが、多数駐屯
していた。護衛の幕臣の数は、千5百から千6百。境内が広大とはいえ、
彰義隊が寛永寺に移ることで、慶喜護衛の幕臣たちとトラブルが起きる
恐れがあった。彰義隊が徳川家の命を受けて駐屯したわけではなかった
からだ。


その辺に私の声が落ちている  高田佳代子


「成一郎が晩年に語ったところによれば」
彰義隊が千人以上にも膨れ上がったことで、隊内の規律が乱れ、統制し
きれなくなったという。東征軍に反感を抱く血気盛な幕臣たちが次々と
加わり、過激な言動に及んだという。過激な言動とは、「東征軍との戦
いも辞さない」という主張だ。恭順路線を強いられた幕臣たちの不満の
表れであり、いつ暴発するかもわからなかった。江戸城開城に先立って、
東征軍の兵士が続々と江戸に進駐しており、市中は、一触即発の状況に
あった。


吠えまくる奴が一匹輪の中に  相田みちる


しかし慶喜の懸念は杞憂に終わる。4月11日、江戸城開城の日、実家
水戸藩のお預けの身となった慶喜は、粛々と水戸へ向かった。寛永寺で
護衛していた幕臣のうち500人が水戸までお供をした。彰義隊も見送
りの形で、千住まで御供したが、成一郎は、さらに松戸まで慶喜を見送
っている。15日、慶喜は水戸に到着し、藩校・弘道館での謹慎生活に
入る。

ひっそりと生きる余生の持ち時間  佐藤后子


「彰義隊分裂」
慶喜の寛永寺退去を受けて、今後どうするのかが、彰義隊の課題となる。
慶喜を守護する目的だけならば、もはや寛永寺に駐屯する理由はない。
成一郎は寛永寺を退去し、別の場所に移ることを幹部に提案した。慶喜
から「くれぐれも軽挙妄動しないように」と懇論されており、隊員が暴
発して、東征軍と戦争になるのを恐れたからだ。しかし、成一郎の江戸
退去の提案は、隊内から猛反発を買う。


その辺に私の声が落ちている  高田佳代子


成一郎への反発が強まる中、対照的に副頭取の天野が支持を集めていく。
天野は、学問も武術も秀でていたが、もともとは農民出自であるために、
武士であることに強いこだわりを持っている。義を重んじ、直情怪行な
性格の持ち主でもあった。
「男なら決して横にそれず、ただ前進あるのみ」と言って、将棋の駒の
香車を好んだという。武士であることに誇りを持つ天野にしてみると、
成一郎の言動や行動は反発せざるを得なかった。さらに、2人は慶喜
対する思い入れがまったく違っていた。ついには渋沢派の隊士は、天野
派の隊士と決別。渋沢派の隊士は寛永寺を去った。


ためらえば過去も未来も黄昏れる  平尾もも子


寛永寺を出た成一郎は、栄一の従兄弟である須永伝蔵、尾高淳忠、養子
渋沢平九郎ら、渋沢派の隊士を伴い西へ向かい、多摩郡田無村に拠点
を置いた。田無村は、江戸から5里ほどの距離にあったが、成一郎たち
が本拠を置くと、人数もおいおい集まり始める。彰義隊を抜けた隊士や
水戸藩士などで300~400人にまで増えた。成一郎は、彰義隊から
分派した部隊を「振武軍」と名付け、大寄隼人(おおきはやと)という
名で隊長となる。振武軍は、前軍、中軍、後軍の三隊から構成されたが、
中軍頭取の下で組頭を務めたのが渋沢平九郎だった。実兄でもある淳忠
榛沢新六郎と名乗り、会計頭取を務めた。


つまづいた石を布石に立ち直る  高矢芳加津


振武軍は、田無村から東征軍の動静を展望することにしたが、軍資金や
兵糧が足りなくなる。そこで振武軍は、田無地域のほか、府中・日野・
拝島、所沢、扇町谷地域の村々に対し、御用の筋があるとして、田無村
西光寺への出頭を命じた。御用の筋こそ軍資金調達の要請であった。
ミニエー銃を装備した振武軍の軍事力に恐れをなした格好で、多摩郡の
村々は合わせて三千六百~三千八百両もの大金を献納する。軍資金を手
に入れた振武軍は、さらに田無村から西へ5里離れた箱根ヶ崎村へ移動
を決める。東征軍の奇襲を避ける距離を考えたものである。


運も又運次第だと運が言う  下林正夫



彰義隊の戦い①
右端下、戦の様子を見る天野八郎



一方、天野率いる彰義隊への参加者は、最盛期には2千人とも3千人に
とも膨れ上がった。譜代大名の家臣たちも加勢した。
越後高田藩の「神木隊」若狭小浜藩「浩気隊」などである。彼らは新政
府に帰順した主家に反発し、脱藩して馳せ参じてきた面々だった。徳川
家内部の抵抗勢力が彰義隊として結集し、有栖川を戴く東征大総督府が
入城した江戸城に、東から威圧をかける形であった。


風の音なのか大地が軋むのか  新家完司



彰義隊の戦い②
 
 
危機感を強めた新政府は兵力不足に悩みながらも、彰義隊の武力鎮圧を
決意する。その勢いで、徳川家への過酷な処分を公表することも決める。
5月15日朝、東征軍は寛永寺に籠る彰義隊に総攻撃を開始。午前中の
戦況は一進一退だったが、午後に入り、佐賀藩砲兵隊が最大な射程を持
つアームストロング砲で、寛永寺の堂社の数々を焼き討ちにすると、彰
義隊は浮足立つ。これを機に形勢は一気に東征軍に傾き、勝敗は決した。
上野戦争ともいう彰義隊の戦いは、一日もかからず終わった。


ひとりずつこの世を抜ける喪の知らせ  梶原邦夫



彰義隊の戦い③
 
 
振武軍に「彰義隊開戦」の一報が入ったのは、その日の夜のことである。
開戦の折には、別動隊として東征軍との戦いに参戦するつもりで、振武
軍は、彰義隊の助勢に向かったが、朝も明けるころ、高円寺村まできた
ところで、彰義隊の敗北を知る。振武軍は、そのまま引き揚げてきた田
無村には、敗走した彰義隊の残兵が続々と集まってきた。今となっては、
破れかぶれで江戸に突入しても仕方がなかった。成一郎は箱根ヶ崎から
2里ほど北に位置する一橋家の領地があった飯能村へ転陣し、能仁寺に
本営を構え、ほか四ヶ寺に兵士を駐屯させ、追撃にくるだろう東征軍を
迎え撃つことにした。


百鬼夜行見張りの役はろくろ首  前中一晃


一方、彰義隊の戦いの前から振武軍の動向をキャッチしていた東征軍は、
彰義隊の残敵掃蕩もかねて、討伐軍を派遣することを決める。振武軍は、
東征軍の一隊が迫ることを知り、迎え撃つため出陣、両軍は同日夕方、
入間川で小競り合いが始まった。そして、飯能を戦場とした振武軍は、
彰義隊を破ったばかりで勢いに乗る東征軍のもはや敵ではない。
数時間の激戦の末、振武軍は、東征軍の前に敗れる。


雑草に残る轍の後を追い  宇都宮かずこ


勝敗が決すると、生き残った振武軍の面々は、血路を開き、戦場を次々
と脱出していく。成一郎淳忠は北に向かう。上野国まで落ち延び、伊
香保や草津に潜んだ。その後、淳忠は故郷へ戻るが、成一郎は榎本武揚
率いる徳川家の軍艦に乗って蝦夷地へ向かう。翌明治2年(1869)
まで、新政府への抗戦を続けた後、みずから軍門に降り、東京へと護送
された。


災の字を思う見たくない忘れない  市井美春
 


振武軍のイケメン・渋沢平九郎


 「渋沢平九郎の最期」
さて、篤太夫のもう一人の従兄弟、平九郎である。
飯能での乱戦の中、平九郎は成一郎惇忠とはぐれ、山中に逃げ、越生
(おごせ)の境にある顔振峠(こうぶうりとうげ)に辿りついた。
峠の茶屋の女主人は、すぐに平九郎が、旧幕府軍の隊士であると見抜き、
新政府軍の目の届かない秩父へ抜ける道を教えた。それなら農民に変装
して落ち延びようと、平九郎は、大刀を茶屋の女主人に預け、何か考え
があってのことなのか、茶屋の女主人に、逃げ道を指南されたものの…
平九郎は別の道、越生方面へと下りていった。


道しるべ判別できず赤トンボ  山本早苗
 


越生にて激闘する平九郎。
中央の平九郎、広島の斥候と刀を交わすも銃弾に倒れる。
 
 
越生町黒山村に下った平九郎は、新政府方の広島藩・神機隊四番小隊の
藤田高之一隊の斥候と遭遇する。平九郎は、腰に一本だけ手挟んでいた
脇差で斬り結ぶことになった。敵方3人に小刀で応戦し、1人の腕を切
り落し、1人にも傷を負わせたが、右肩を斬られ、足には銃弾を受けた。
平九郎の気魄に恐れをなした斥候隊の一人が、仲間を呼び戻ってくると、
平九郎は川岸の岩に座して、観念の自刃を遂げていた。東征軍の兵士た
ちは、すでにこと切れている平九郎に向けて、銃を乱射した後、その首
を刀で打ち落としたという。5月23日午後4時だった。
首は越生の法恩寺門前に晒され、その後、境内裏の林の中に埋められた。
 その後、遺骸は黒山村・全洞院に葬られる。享年22歳だった。



全洞院黒山・平九郎の墓参に訪れた渋沢家一家
 明治7年年12月、渋沢平九郎の骸は、法恩寺に埋葬されていた首と
ともに、東京谷中の渋沢家墓地に改葬されて、栄一は2度参っている。
 
 
四季おりの便りは枯れ葉にてかしこ  山本昌乃

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