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川柳的逍遥 人の世の一家言
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カラスならカアで終わりにする悩み  山下炊煙



フランスのマルセイユにて撮影された徳川昭武一行
中央に昭武、後列左端に渋沢栄一(篤太夫)


「青天を衝け」大沢事件と徳川昭武とパリへ 


慶應2年7月20日、第二次長州征伐失敗のあと、14代将軍・徳川家
が亡くなった。幕閣には人材がおらず、慶喜に将軍の座が回ってきた。
篤太夫は、慶喜の将軍継承を猛烈に反対したが、引き受けるしかなかっ
た。おのずから篤太夫も成一郎も幕臣に格上げになった。倒幕は非現実
的になり、もはや幕府内部から体制を大転換をして、新しい世界を切り
開くしかない。しかし、幕府という巨大組織の中に組み込まれると、篤
太夫は動きがとれなくなった。周囲は、保守派ばかりで、何かというと
「農家の出」と軽んじられる。苛立ちのあまり、もはや浪人にもなるか、
いつそ割腹して相果てようかとまでに一時は思ひ詰めもしたが、それで
は犬死になるからと、暫く苦痛を忍んで幕府の「陸軍奉行支配調役」
いふものに仕官した。


床から入り煙突を出るはめに  森田律子
 


 
徳川昭武
 

そんな矢先、慶喜の側近のひとり、原市之進から渡欧を打診された。
パリで開催される万国博覧会に幕府が出展し、慶喜の弟・徳川昭武が使
節団を率いていくことになった。万博閉会後も、見聞を広めるために長
く滞在するという。その会計担当として随行し、篤太夫自身も日本が学
ぶべき点を探ってこいと、慶喜からの命令だった。


秘書は有能水増しを匙加減  山口ろっぱ   


篤太夫の苦しい立場を見かねて、慶喜が新しい分野へと仕向けてくれた
のだ。確かに、使節団のような小さな集団の方が、篤太夫の能力は発揮
しやすい。そんな配慮に頭が下がった。
当初は平岡円四郎に誘われるまま、行きがかり上、一橋家の家臣になっ
ただけだったが、これほど目をかけてもらえるとは身に余る光栄だった。


花びらを数えて一日を終える  竹内ゆみこ


「渋沢栄一の処世談ゟ」
其のころはもう、幕府の前途も六ケ敷(むつかしい)と云ふ時で、今迄、
幕府の家臣であつたものは、誰も彼も、一種悲痛な気分に掩はれて居た。
恰も此の幕府の前途の困難なる時に当つて、私共の今迄仕へて居た慶喜
公が、一橋家を去つて将軍となられると云ふことになり、私共は非常に
心配したのである。何故なれば、斯うした場合であるから、政府側から
、「国賊のやうに」云はれ、幕府方からは、「亡国の君」と云はれる
ことは到底免れぬことである。寧ろ将軍職につかれるよりも、一橋家に
居られた方が何れ丈け無難であるか知れぬ。


直線ごときに翻弄されている  雨森茂樹


と、斯う思うた私共は、是非ともお諫めしたいと思ふことは屡〻(しば
しば)あつたが、既に一橋家を去られた後のことであつて、今迄のやう
に容易にお目に懸ることも出来ず、又私自身二君に仕へると言ふことは、
甚だ心よからぬことで、殆んど嘆息の余り、昔の浪人にでもならうかと
思ふに至つたのである。丁度其時、「民部大輔が仏蘭西にお出でになる
につき、私も共をして行け」と云ふ命が出たのである。


誘われて明日の台詞を口ごもる  皆本 雅


私は此際ほど困つたことはない。これまで、倒さう〳〵と心懸けて来た
幕府であるから、仮令(たとえ)是まで仕えて来た君――君というのは
少し穏かでないかも知らぬが――が将軍になられたからとて、オメ〳〵
幕府に仕へて幕吏となるわけにもゆかず、さればとて、今更、浪人して
見たところで仕方が無いのみならず、甚だ危険である。
…中略…その中、仏蘭西留学を仰付かる事になつたが、此時ほど、又私
の嬉しく感じたことは無い。これで、進退維に谷まる(しんたいこれに
きわまる)憂いも、先づ無くなつたと思ふと、実に嬉しかつたのである。
慶応3年の正月3日に京都を出発し、仏蘭西郵便船のアルヘー号で横浜
を出帆したのが、正月の11日である。


人恋しくてたそがれの髭を剃る   西山春日子



新選組副長・町田啓太


「大沢源次郎事件」
パリへ旅立つ前年の9月頃のこと。
「京都見廻組の者、300から400人が徒党を組み、謀叛を企んでい
るらしい」と京都町奉行所から陸軍奉行に御書院番士・大沢源次郎が、
「不定浪士と共謀して、兵器を集め、容易ならざることを企てている」
という連絡があった。やむなく幕府は朝廷に働きかけ、「将軍の喪中」
であることを理由に、長州藩と休戦協定を結んだ。喪中休戦は口実にし
て、幕府の失態を繕ったことは明白で、幕府の威信は、ここに地に墜ち
たものである。そんな矢先に、京都で不穏な噂が流れた。


さもしくて一気飲みするホテルバー  ふじのひろし


大沢の肩書きは、禁裏御警衛番士で陸軍奉行・溝口伊勢守の配下となる。
即ち、大沢の捕縛は、篤太夫の所属する陸軍奉行方務めのこととなった。
しかし、大沢は剣の腕もめっぽう立つという、ことで皆、尻込みをして、
だれもやりたがらない。そこで篤太夫が適任ではないかという、ことで
お鉢が回ってきた。「どうだ篤太夫、行ってはくれぬか。いや無論、貴
公一人でかせるわけではない。護衛に新選組をつける。なあに、造作も
ないことだ」と組長は、たまたま「陸軍奉行支配調役所属」の篤太夫に
押し付けてきた。


重力の悪さなんでしょ秋の鬱  銭谷まさひろ


ーーーーーーーーー


「大沢源次郎の捕縛」(栄一の処世談ゟ)
慶応2年、私が27歳の時であつたと思うが、麾下で禁裡番士を勤め京
都に駐在して居つた大沢源次郎といふ男が、薩州の者と手紙を往復した
とかで、当時、非常に薩摩を怖がつてた幕府から、不軌を企てるものと
見做され、その頃、大阪に政庁を置いてた幕府の陸軍奉行より、同人へ
御不審の廉(かど)あるに付、江戸へ護送して吟味致すべき旨、申渡し、
其場で同人を召捕ることになつたが、その時の陸軍奉行調役組頭は臆病
な男で、大沢が撃剣に達して居るといふ事を耳にし、自ら出かけるだけ
の勇気無く、私へ其の役を転嫁して来た。私が新撰組の者数人と共に、
大沢の寓居であつた紫野大徳寺の境内へ、陸軍奉行からの申渡状を持参
して赴く事になつたのは此の時である。
 
 
 どっしりとそれが一番むつかしい  後藤宏之
 
 
その際、近藤勇、「本来ならば自分で同道する筈だが、所用の為同道
し得られぬから、代理として土方歳三を遣はす」とのことで、同人は四
人ばかりの壮士を率いて、私の護衛に来たのである。同日午後、探偵を
放つて大沢源次郎の動静を窺はせると、まだ寓居へは帰つて居らぬとの
事で、一同は晩餐の為、小さな飲食店に立寄り弁当を食べてから、大沢
の帰宅を確めて、紫野大徳寺境内なる同人の寓居へ赴いたのだが、「私
が申渡しをしてから同人を縛るか、縛つてから私が申渡しをするか」
就て、私と新撰組の壮士との間に意見を異にし、遂に、私の意見に従ひ、
私が陸軍奉行よりの命を伝へてから後に、大沢の大小を取り上げ、同人
を新撰組壮士の手に引渡すやうにしたのである。


飲みながら言うけど奢りでっしゃろな  一階八斗醁



大政奉還図 (邨田丹陵)


「将軍継承そして大政奉還へ」
徳川昭武に随行して、パリ万国博覧会へ出発をして、まもなくの10月
14日に、慶喜は政権を朝廷に返上した。「大政奉還」である。
それにより、徳川幕府は260年続いた歴史の幕を閉じ、鎌倉幕府が開
かれ約700年続いた武士による政治は終わりを告げた。


純粋の純を捩ると鈍になる  新家完司


「篤太夫、述懐する」
慶喜公が一旦将軍に御成りになつてしまへば、幕府が倒れた時に如何とも、
天下の政治に志の叙べようが無くなつてしまう。そこで私は飽くまで、慶
喜公を一橋家に引き留めて置いて、将軍職には、御就かせ申すまいとした
のである。
しかし、これは後年に至り、御面会を致した際に、始めて承つて知つた事
であるが、慶喜公には、此時既に大勢の赴く所を御察知あらせられ、当時、
私共の想い及ばなかつた御深慮を御持ちになり、大政を奉還して御親政の
道を開きたいとの御志望から愈々、将軍職に御就きになることになつたの
である。


別宅に馬本宅に牛を置く  井上一筒

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D O N Q のパンがあるハルカスの奈落 井上一筒



白波五人男
左~日本駄右衛門、赤星十三郎、南郷力丸、忠信利平、弁天小僧菊之助


「白波」とは、盗賊のこと。後漢の末期(184年)、黄巾賊の余党が
西河の白波谷に隠れて、財宝略奪を働いた集団を、「白波賊」と呼んだ
ことから歌舞伎作者・河竹黙阿弥が『青砥稿花紅彩画』の劇中で引用し
「白波」呼称した。
『白浪五人男』と呼ぶ方が「泥棒五人男」と呼ぶより様になっている。
「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとのしら浪」
沙弥満誓(さみのまんぜい)拾遺和歌集


天守閣見つめ続けている歴史  前岡由美子


火付盗賊改・徳山五兵衛 VS 大盗賊・日本左衛門
 
 
「悪党・日本左衛門」ー人間像
日本左衛門と申す者は、悪党大勢の棟梁と申しながら知恵深く、威勢
強く、力業、剣術早業の達者にて常に大小を指し…大勢の者をよく手な
け…武家の方も恐れず、昼夜はいかい仕候」…また、『窓のすさみ』
には、「率いる強盗の人数は、従う者五、六百」と統率力の凄さを記し
ている。         (『浜島竹枝記』)


トンネルの中で大きくなっていた  中前 棋人


「この人、盗みせし初念は、不義にして富める者の財物は、盗み取ると
も咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人、その家をはか
りて、盗み入りしとぞ」とあり日本左衛門は、箱を砕いて包みから、
<難儀な者に施し>とか<<盗みはすれど非道はせず>など盗みの哲学
手下に説いた」とされている。           
            (『甲子夜話ゟ』(肥前平戸藩主・松浦静山)


努力目標背を丸めずに歩くこと  吉田 陽子


寛保3年(1743)、駿府の夜の町で役人と斬り合いになり、手下に
命じて役人を縛り上げると、「役目がらとはいえ、命を捨てて闘うとは
健気である」
と、頭領らしく、悠然と姿を消したという逸話もある。
大掛かりで派手な義賊の姿は、伝えられるごとに脚色され「恰好良い大
泥棒」
になっていったようだ。が三右衛門の訴状では、娘の婚家に日本
左衛門一味40名が押し入り、金千両、衣類60点を盗まれた上、嫁や
下女たちまでが狼藉されたとあることから、実像は、かなり荒っぽい盗
賊だったようである。


痛むのは自分自身についた嘘  立蔵信子
 


忠信利平


「その手口」
日本左衛門一味の強奪の手口は、記録によるとかなり大掛かりなもので
「盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を配置
して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃走する」と記録に
ある。「いつも若党や草履取を連れ歩き、押込む時には5~60人余り
を使い、提灯30張を灯し、近所の家の門口には抜刀を持った子分が5、
6人ずつ見張りに立つ。押し入ると家族を縛り上げ、金の置き場所を案
内させて強奪する」
と記している。
                     (「『浜島竹枝記』)


辻斬りでなければかまいたちだろう  清水久美子


静山『甲子夜話ゟ』には、「この人、盗みせし初念は、不義にして富
める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟
して、その人、その家をはかりて、盗み入りしとぞ」
とあり、
「日本左衛門は、箱を砕いて包みから、<難儀な者に施し>とか<盗
みはすれど非道はせず>など盗みの哲学を手下に説いた」
とされ『浜島竹枝記』と少し違った見解を記している。


胸の火でリンゴの歌を焼きましょう  岡田幸男



赤星十三


「被害者訴える」
駿河豊田郡大池村の庄屋宗右衛門は、2度にわたって日本左衛門一味に
襲われ、千両箱をいくつも盗まれた。宗右衛門は、日本左衛門の悪事を
詳細に渡って調べあげ、延享3年(1746)8月、江戸の北町奉行所
に日本左衛門逮捕を直訴した。その後も、さらに、同年、掛川藩領の大
池村や駿河府中の民家に押し入り、二千両を奪っている。


キンメダイの目の回りまで食べてやる  宮井いずみ


一味の狼藉は天領、旗本領、藩領が入り組んだ治安の弱い地域を狙った。
地元の代官所では手に負えず、向笠村の豪農三右衛門が直訴して、幕府
が乗り出すことになった。それに伴い,
白波の五人男に弄ばれるばかりであった地元の掛川城主・小笠原長恭
責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相良藩の本多忠如も福島県の泉に
移された。


意気地なし甲斐性梨無しのろくでなし  両澤行兵衛


「さてこの悪党、五右衛門と対決するのが徳山五兵衛である」
五兵衛は、江戸時代中期から後期の旗本寄合席。諱は秀栄、通称は五兵

衛、または又兵衛という。元禄3年(1690)生まれ。「寛政重修諸
家譜」
では、母は某氏とされる一方、父・重俊の正室は、神尾守勝の養

女であり、庶出であったとされる。又兵衛と称していた時期に、徳川綱
の従兄弟にあたる藤枝方教の娘を正室に迎えるが、のちに離婚する。
元禄8年、兄の重朝の死去とともに、元禄13年、将軍徳川綱吉に初御
目見えを済ませ、正徳3年、24歳で父の家督を継ぎ小普請となる。
享保9年(1724)35歳の時に新設された「本所深川火事場見廻役」
の御役目に就いている。


段取りがよすぎて妙に落ち着かぬ  吉岡 民


「火事場見廻役」とは,寄合席から選ばれる若年寄配下の幕府の役職で、
江戸に火災の発生した際、風下にあたる武家屋敷、また寺社、町方へも
出役し、消火の指揮をとるとともに、焼け跡を見回り、出火原因、被害
状況を調査報告し、定火消しの火事場での勤務状況を監察するのが、主
な仕事で、五兵衛はその「火」にかかわる役職を務めたが、この時点で
はまだ、「盗」の役目は入っていない。
五兵衛は、54歳になったばかりの寛保4年(1744)1月、「御先
鉄砲頭」となり、2年後の延享3年(1746)7月には、盗賊追捕の
命を受けて、御先鉄砲頭の加役である「火付盗賊改」となった。


指名手配を飛び六法で追っかける  山本早苗


「火付盗賊改方」としての役目は、日本左衛門率いる盗賊団を追捕する
こと。三河・遠江一帯を傍若無人に荒しまわる盗賊で尾張家のはみ出し
者らしい…。五兵衛57歳にして、重たい役を任されることとなり、ま
だまだ安堵の時間は与えられなかった。早速、五兵衛は、同心22名を
卒いて、延享3年9月に江戸を発ち、地元の捕り方の応援を得て、金谷、
掛川、浜松に大捜査網が敷かれた。しかし、手下は捕まっても、頭目の
日本左衛門は一向に捕まらない。ために、全国に「人相書き」を高札に
張り付けることにした。


注射打つどうなるやろと言いながら  宮井元伸





「日本左衛門の姿について」
手配書の人相書きから伺うことができるが、目撃者の語るところでは、
洒落だったようだ。黒皮の兜頭巾に、薄金の面頬、黒羅紗、
金筋入りの半纏に、黒縮緬の小袖を着、黒繻子の小手、脛当てをつけ、
銀造りの太刀を佩き、手には神棒という六尺余りの棒を持ち、
腰に早縄をさげた立ち…だったという。


鼻筋の黒子は無添加の印  酒井かがり
 
 
 
日本左衛門手配書控(袋井市可睡齋蔵)


一方の日本左衛門は、支配者の異なる旗本知行地を転々とし、見附から
美濃、大阪へと逃走、舟で安芸の国へとしぶとく且つ巧妙に逃げ回った。
しかし行くところ行くところに、自分の似顔絵と手配書が貼られている。
これでは逃げ場もない、匿ってくれるところもない、日本左衛門は、
兵衛の天網の追及に、これでは捕まるのも時間の問題と悟り、延享4年、
明けて7日、みっともなく逃げ回るよりも、潔く京町奉行所へ自首する
決意をした。日本左衛門が自首した日、奉行・牧野信貞「今日は休日
だから、明日に出直してこい」といわれて、その通り翌日に自首をした
という嘘でしょうといいたい逸話がある。尤も、牧野信貞は、大坂町奉
行だから、日本左衛門が自首出頭したのは、京都だったのか、大坂だっ
たのか、このあたりにも嘘っぽく疑問が残る。


 吊り橋でたじろぎ野鼠にびびる   新家完司
 
 
そして同年3月11日、日本左衛門は江戸に送られ、市中引き回しの上、
獄門の刑に処せらて、首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は、
遠州鈴ヶ森刑場とも、江戸伝馬町刑場とも言われる。尚、日本左衛門を
徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことはないかと尋ねると、「日光を
見たことがない」というので処刑前に、日光参拝を許したという。
これは徳山五兵衛の人となりを後世に見せるための、これまた作り話だ
ろう。日本左衛門、享年29。
その後五兵衛は、火付盗賊改方を延享4年12月までの1年4か月、務め
た後「西の丸持筒頭」の役職をこなして宝暦7年7月18日に死去する。
享年68歳だった。
鬼の長谷川平蔵は、延享2年(1745)の生まれだから、この事件は、
13年前のこ
とで、平蔵は13歳であった。ついでながら、火盗改として、
五兵衛は89代、平蔵の父・長谷川宣雄 は139代、平蔵は165代
で、
二人の間に74人の頭領が移り変わっている。

 
 
盗まれる予感を秘めた鍵一つ  高野末次



 
二幕目第一場 浜松屋

 
「『弁天娘女男白浪』を盗む」
二幕目第一場・「白浪五人男」と呼ばれる盗賊の弁天小僧菊之助と南郷
力丸は、呉服屋「浜松屋」に武家の娘と若党を装い、騙り目的でやって
来る場面。
 鎌倉雪の下の浜松屋に、若党四十八(よそはち)を供に連れた美しい
武家娘が現れる。早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の買い物をす
る彼女は、品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐中した。
帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出した浜松屋の番頭は、万引
きと思い込み、怒って娘の額を算盤で打つ。しかし若党の話から、鹿子
は、他の店、山形屋の品であったことが分かる。


巻尺で測るソーシャルディスタンス  竹内ゆみこ


取り返しのつかない過失に、青褪める店の者たち。若旦那の宗之助
十八に詫びるが、四十八は店主・浜松屋幸兵衛を相手取る。お浪につけ
られた額の傷を言い立て、法外な金を要求する四十八に対し、浜松屋に
呼ばれた鳶頭も憤慨して啖呵を切る。しかし幸兵衛は、事を穏便に済ま
せるため、四十八の言うとおり、百両を出して詫びるのであった。


少しずつ黄ばむ障子もわたくしも  門脇かずお


金を受け取り帰りかかるお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当
(たましまいっとう)という侍が呼び止めた。逸当は二人を、騙りと見
抜き、さらに、ちらりと見えた腕の刺青を証拠に、お浪を男と見破る。
図星をさされた二人は、急に伝法なその正体を現すのだった。
(伝法=粗暴で無法な振る舞い)


木漏れ日にうっかり暴かれた忍者  一階八斗醵




弁天小僧菊之助


「知らざあ言って聞かせやしょうー」
知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!


だまってい‼ アロンアロファつけたろか‼  くんじろう
 


南郷力丸


「さてどん尻の控えしは」
   さてどん尻の控えしは、汐風荒き小動の、
磯馴の松の曲りなり 、人となった浜育ち、任儀の道も白河の、
夜船へ乗り込む船盗人 、浪にきらめく稲妻の、白刃で脅す人殺し、
背負って立たれぬ罪科は、其の身に重き虎が石、
悪事千里と云うからは、何うで仕舞 は木の空と、
覚悟はかねて鴫立尺、しかし哀れは身にしらぬ、
念仏嫌えな南郷力丸!


梅雨前線通過中です揉めてます  美馬りゅうこ


女装の盗賊は、江ノ島の稚児上がりの弁天小僧菊之助四十八と偽って
いたのは、その兄貴分である南郷力丸であった。「名を明かした二人」
が、ここから突き出せと居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は、弁天
が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き
伏せ、二人はようやく腰を上げる。


すっぴんがハニートラップだったとは  森田律子
 


日本駄衛門


浜松屋を出た二人は、今日の稼ぎを山分けして悦に入る。道々、騙りの

道具として使った重い武家の衣裳を持つのを厭い、二人は坊主が来たら
交互に持ちっこする「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。
いっぽう、浜松屋では逸当を奥座敷へ案内し、もてなしの支度にかかる
のだった。しかしこの玉島逸当こそ、実は弁天南郷の頭である大盗賊
日本駄右衛門だった。彼らを捕えようとしている捕手たちは、迷子を
捜すさまに見せかけ、稲瀬川で秘かに待ち伏せをしていた。


独房にごろん夜中を刻む音  岡田陽一



日本左衛門首洗い井戸跡石碑


「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」がある。日本左衛門は本名を浜島庄兵
といい、元文永享年間(1736-47)に横行した大盗賊で、延享
4年(1747)に処刑されている。その捜査に当たったのが、当時、
「火付盗賊改の役」にあった徳山五兵衛秀栄である。
稲荷社は、一説にこの秀栄が祭ったものともいわれている。また、境内
には、日本左衛門の供養碑や首洗い井戸があったと伝えられているが、
後に河竹黙阿弥や歌舞伎狂言『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』の中に、
日本左衛門を模した日本駄右衛門を登場させたこともあずかって、後世
に造立された。          (「墨田区史」)


樹齢かな馬齢かな指のささくれ  中野六助

拍手[3回]

天秤が息を殺しているようだ  河村啓子
 
 

江戸めいしょ判じ絵
17個の絵の意味の解明は、当頁の末段に。


 「青天を衝け」ー「実験論語処世談ゟ」


「処世談ー①」
平岡円四郎と云ふ人は、今になつて考へて見ても、実に親切な人物であ
つたと思ふ。…中略…。私を一橋家に推薦して慶喜公に御仕へ申すやう
にして呉れた人は、平岡円四郎であるが、この人は全く以て一を聞いて
十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事
で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。平岡が水戸浪士の為
に暗殺せられてしまうやうになつたのも、「一を聞いて十を知る」能力
のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では、無からう
かとも思ふ…。


さっぱりと爽やかな人早く逝く  新家完司


「処世談ー②」
私の関東滞在中、平岡円四郎は、六月十七日京都の一橋邸附近で水戸藩
士の為に暗殺されてしまつたのであるが、平岡の死後、用人として一橋
家の政務を掌つた黒川嘉兵衛といふ人が、幸に、私と喜作とを重用して
呉れたものだから、九月の末には、身分が「御徒士」に進み、食禄八石
二人扶持、滞京手当月六両になつたのである。翌けて慶応元年二月には、
私も「小十人」といふ身分に進み、十七石五人扶持、滞京手当当月十三
両二分となつたが、その頃一橋家の兵備といふものは、極手薄で、幕府
より何時なんどき引揚げらるゝやも測り難い、幕府より借し与へられた
二小隊の御客兵が主である。


知らぬ間に大きな顔になっている  小林すみえ



徳川将軍15代
中央に、初代家康、その下2代秀忠・3代家光・4代家綱、5代綱吉
右に、10代家治・11代家斉・9代家重・8代吉宗・7代家継(子供)
6代家宣(子供)左に、12代家慶・13代家定・14代家茂・15代代慶喜



慶応2年7月、14代将軍・家茂が薨去した。まだ世継ぎもおらず、

に将軍の座が回ってきた。貧乏籤なのはわかっていたが、慶喜は引き
受けるしかなかった。おのずから篤太夫成一郎も一橋家家臣から幕臣
となった。


冗談が当り哀しいのに笑う  佐藤正昭


「処世談ー③」
然るに茲に一つ困つたのは、徳川十四代の将軍・家茂公が慶応二年八月
二日薨去になつたので、慶喜公が一橋家より宗家に入られて、徳川十五
代の将軍にならせらるゝといふ事である。之れには、私は大反対であつ
たのである。…中略…。私は、この時とても、依然徳川幕府は倒してし
まはねばならぬもので、又、天下の大勢から察しても倒るべきものであ
ると考へてたのであるが、若し、これまで君公として仕へ奉つた慶喜公
に、一度将軍になられてしまひ申すと、情誼の上から私は幕府を倒す為
に力を尽すわけには参らぬ事情に陥つてしまふ…。


たらればを引きずり隅で飲んでいる  杉山ひさゆき


---------------------------
最後の将軍・徳川慶喜


「処世談ー④」
…斯う考へて徳川一門を見渡すと、尾州公でも水戸公でも、豪族政治の
仲間入が出来さうな人傑では無い、たゞ一橋慶喜公だけは人傑であらせ
られるから、公を推し立てゝ行きさへすれば豪族政治の仲に割り込んで、
我が志も行へるといふものだが、慶喜公が、一旦、将軍に御成りになつ
てしまへば、幕府が倒れた時に、如何とも天下の政治に志の叙べようが
無くなつてしまふ。そこで私は、飽くまで慶喜公を一橋家に引き留めて
置いて、将軍職には御就かせ申すまいとしたのである。


ブラックホールの傍にインターホンがある 岩田多佳子


「処世談ー⑤」
それでは一橋家が一朝有事の日に、「禁裡御守衛総督」の大任を尽すわ
けにもゆかぬと私は考へたので、「農民募兵」の儀を慶喜公に謁見して
言上し、遂に建言が容れられて私は『歩兵取立御用掛』といふものにな
つたのである。かくて私は「兵隊組立御用」を仰付かつて、一橋家の領
地を巡回し居るうち、領内の産米と木綿とが、他領のものに比し値段が
安くなつてる事や、硝石の産出が比較的領内に多いにも拘らず、大規模
の製造所が無い為に頗る不利を蒙つてる事に気が付き、種々と建言する
処があつたので、私は遂に、食禄二十五石七人扶持、滞京手当月二十一
両の『一橋家御勘定組頭』を仰付かり、種々と財政上の案を立て、会計
専務を取扱ふ事になつたのである。


翻訳は出来ないウボポイのこころ  合田留美子


「処世談ー⑥」
勘定奉行というのは、今でいえば大蔵大臣の格で、次に「勘定組頭」が
あつたのだから、一橋家に於ける大蔵次官の格になつたのである。
篤太夫は「歩兵取立御用掛」として、まず阪谷朗盧(さかたにろうろ)
に会うために井原に向かった。篤太夫は朗廬を「自らの主義を貫いた、
先見の明のある人」と高く評価していた人である。一度は会っておくべ
しと考えた。


納豆はいつも私の共犯者  佐藤正昭



興譲館・校門 (扁額は栄一の揮毫)
渋沢栄一は、一橋家仕官時代に備中を訪れ、漢学者・阪谷朗廬(娘婿・
 阪谷芳郎の父)を訪ねて時勢談などを交した。その時の朗廬の印象を
「攘夷派ばかりの漢学者の中で、断固として開港主義を貫き、反対攻撃
を受けても自説を変えなかった、真に先見の明ある人」と賞讃した。


いるのいねえのってそんなものじゃない  雨森茂樹


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     阪谷朗盧


「阪谷朗盧に会う」

阪谷朗盧は、文政5年(1822)岡山の井原に生まれた。6歳の時、
大坂で大潮平八郎に、江戸に出て昌谷精渓・古賀侗庵に、学び17歳
で幕府の昌平黌の塾頭にまでなった秀才である。嘉永6年(1853)
一橋家の代官・友山勝次によって開設された郷校「興譲館」の初代館
長として招かれた人物である。近隣はもとより遠くからも朗廬の名声
を慕って入塾者があり、寄宿生は多いときで百人を超えたという。


目分量ですが青空を一枚  吉松澄子


こうした評判を聞き篤太夫は、慶応元年の春、農兵を集めるため、長棒
の籠に乗り兵士らを従え、備中国西江原村(井原)を訪れた。
到着すると代官や庄屋たちが平伏して、篤太夫を迎えた。丁重に迎えら
れた中で、篤太夫は、募兵の必要性を丁寧に説き、代官や庄屋たちに申
し付けた。返ってきた返事は、「自ら勧誘しなされ」というものだった。
あちこち出向いて募兵の趣旨を説明して回っても、誰ひとり応募してく
るものがいない。これを不自然と感じた篤太夫は、農民を一同に集めて、
次のようにぶった。


矢面に立っているのは影でした  柳田かおる


「不思議千番なこともあるものだ。拙者の宿に兵士に応募したいという
若者が来て、志願書をおいていった。なのに、そちらの紹介では誰一人
も応募がない。拙者は、一橋公の命でここに来ている以上、もし裏で、
志願者を止めるようなことをしているのであれば、不届き者として斬り
殺すことも辞さない」と。


だとしても納得いかぬ春帽子  靏田寿子


この脅しともとれる言葉に庄屋は驚いて、「実は代官から内々に言われ
ていたことがある」と白状した。
「一橋家の役人の申す事を、いちいち聞いていると、領民も難儀するだ
けだ。今回も志願者は誰もいないと言えばよい」と言ったと言うのだ。
これを聞いた篤太夫は、代官の陣屋に乗り込み、
「今度の使命は一橋公直々の命であり、非常に重大な役目である。この
まま、庄屋からの志願者の申し出がないようであれば、その原因を究明
する必要がある。拙者はもちろん、代官である貴殿にも、職務怠慢の責
めが問われるのは必定」と責めた。


シュレッダーに証拠食わして卑怯者  森本義一


しばらくの沈思をして篤太夫は、言葉をつづけた。「そこで改めて貴殿
から、庄屋たちに話をし、役目が果たせるよう尽力してはくれまいか」
代官は裏で動いていたことが、ばれていると感じ取り、恐縮して徴兵に
舵をきりかえた。結果、備中後月郡井原村で200人前後、その他の領
地からの募兵を合わせると、450人ほどを集めることに成功した。江
戸に戻った篤太夫は、井原での様子などを慶喜に報告すると同時に、郷
里の子弟教育に熱心な者、親孝行な者、農業に秀でた者たちに報償を与
えるようにしてほしいと提案した。


言い訳が多い男のかゆみ止め  月波与生


こうした一悶着のあと、篤太夫はもう一つの目的である、阪谷朗盧の家
を訪れた。そこで篤大夫は、朗廬と酒を酌み交わし、国家のことを論じ
合った。西欧文化に明るい阪谷は「開国」を主張し、篤太夫は、日本が
欧米列強に並ぶ力をつけてから「開国すべし」と自身の意見を述べた。
意見が違っても、平岡に会って身に付けた「人の意見を聞き、理解する」
というスタンスで、決して、自分の意見のみをごり押ししない。こうし
た篤太夫に朗盧も好意を持った。それからも2人は大いに飲み、意見を
交わし、笑い合い、楽しい時間を重ねた。


今日の日を特別にするいいお酒  ふじのひろし


2人が盛り上がり、対話する中で、地元の剣豪の話になった。
「阪谷の近くに関根という地元では名の知れた剣術家がいるが、一度手
合わせをしてみたらどうか」というので、話の行きがかり上、手合わせ
をすることになった。多くの見物人が見守る中で、竹刀をあわせると、
何とあっさり篤太夫が勝ってしまった。地元一番の剣豪も形無しだ。
これが噂となり、「今度のお役人は学問にも武芸にも優れた凄い人だ」
という噂が流れ始めた。


表情の豊かさ自他の心地よさ  椿 洋子


この阪谷朗盧についても、篤太夫は詳細に慶喜に報告した。
慶喜は、阪谷を京に呼び功績を称えて、「銀5枚を与えたい」と言うと、
朗盧は「そういうものが頂けるなら、興譲館の教師たちにやってほしい」
と個人的なものは一切断った。さらに「文武館の教授に」という申し出も
朗盧は「在野の人材を育てる事が自分の使命」という理由を語り、それも
断った。
その後、明朗盧は、治元年11月、興譲館を甥の坂田警軒に譲り、広島浅
野侯の賓師となり。明治4年秋頃には、東京に転居、廃藩後維新新政府の
官吏として出仕した。


類語辞典引く何をする訳もなく  山口ろっぱ


表絵の「えどめいしょはんじもの」(江戸名所判じもの)を解明すると、
左上から時計回りで
① 鵜と絵の具の看板上部で「う・えの」=上野
② 傘に「あ」と「か」の文字で「あ・かさ・か」=赤坂
③ 四本の矢で「よつ・や」=四谷
④ 目が黒い男で「め・ぐろ」=目黒
⑤ 「あ」の男、尻から「さ」と臭い屁をひって=浅草
⑥ 矢を煎る様子で「いり・や」=入谷
⑦ 火が憎い→ひにくらしい→ひくらし=日暮里
⑧ 梅の紋、輪、蚊で「うめ・わ・か」=梅若
⑨ 大きな琴柱〈ことじ〉で「おお・じ」=王子
⑩ 本を読む錠で「ほん・じょう」=本所
⑪ 火の番をする帳面で「ばん・ちょう」=本所
⑫ 上半分の鶴と雉で「つ・きじ」=築地
⑬ 鷹が縄をくわえているため「たか・なわ」=高輪
⑭ 本と鵜が碁をうつから「ほん・ご・う」=本郷
⑮ 蜘蛛の巣と阿弥陀様 「す・みだ」=墨田
⑯ 四枚の葉に濁点 「し・ば」=芝
⑰ ひらがなで書いた「すぎ」=金杉


意地悪はもう飽きました爪を切る  高橋レニ

拍手[4回]

そうはいっても見事な黒でございます  田口和代


「鼠小僧」 鼠と滝沢馬琴



鼠小紋東君新形(三代目・豊国〔似顔絵の元国貞〕)
 
左から、与惣兵衛忰与吉(稲葉幸蔵<小僧>)/市川小団次
 松葉屋傾城松山(幸蔵女房)/尾上菊五郎
 松葉屋息子文三/河原崎権十郎
 
河竹黙阿弥作の歌舞伎演目『鼠小紋東君新形』ねずみこもんはるのしんがた)は、
賊・鼠小僧が活躍する内容で、江戸庶民の大人気を博し、安政の初演
から最も多く上演された。(稲葉幸蔵<幸蔵><小僧>のもじり)
 
 
  鼠小僧ウイキペディアにも潜り  通利一辺
 
 
 鼠小僧次郎吉は、文化文政時代に活動した実在の盗賊。
歌舞伎芝居小屋の出方兼大道具係の父・貞次郎(定治郎)の子として、
寛政9年(1797)に元吉原に生まれる。本名は次郎吉。10歳の頃、
父の見様見真似で覚えた知識を活かして、木具職人の家へ奉公に入る。
16歳で職人が肌に合わず、親の元へ戻る。その後は鳶人足となったが、
五尺足らずの小柄であまり役にもたたず、25歳で鳶職を飛び出した為、
父から父子の縁を切られる。そこからはお決まりの身を持ち崩し、博打
に嵌り、その資金稼ぎのために、盗人稼業に手を染めるようになった、
と伝わる。


ジョーカーとわかってからの処世術  木口雅裕
 


『鼠小僧実記』 (鶴声社 国立国会図書)


五尺の小柄が今度は役にたつことになった。小さな体でちょろちょろと
身軽に動き回る身のこなしは、盗人には、向いていたのかもしれない。
文政 4年(1821)父に勘当されて、間もなく、某大名・武家屋敷に
忍びこみ、誰も傷付けることなく、金だけを盗んだのが、泥棒稼業の初
仕事であった。以後、文政8年に捕縛されるまで、武家屋敷ばかりを狙
って、盗むこと28箇所32回に及んだ、という。武家屋敷は盗難があ
っても、泥棒に入られることを恥とし、奉行所には届けないから、現場
で捕まらない以上、気楽な稼業だったようだ。


軽かったんだねあの日のサヨウナラ  赤松蛍子


盗っ人というのは、すたすたと屋根から屋根を走り、塀を乗り越え、抜
き足・差し足・忍び足で忍び込み…というのが映画などでお馴染みだが、
次郎吉の場合、「だれそれに面会の用事がある」と御用を繕って、脇門
から屋敷内に入り、堂々と盗みをして帰る、などの手際をも駆使した。
被害にあった大名には、美濃大垣藩・戸田采女正の屋敷のように、一度
に424両の大金を盗られた大名もある。会津若松の松平肥後守の屋敷
のように、1年おきに、数回も度重なり盗まれた大名もいた。これらは
次郎吉が供述した、屋敷の内情を細かく調べたうえでの犯行だった。


番犬は寝てるし窓は開いてるし  雨森茂樹
 


歌川豊国、鼠小僧の捕縛の図


それでも次郎吉は、一度捕縛されたことがある、文政8年(1825)、
土浦藩上屋敷に忍び込んだときのことである。その時は、与力の詮議に
おいて初犯と嘯き、入墨・追放の刑止まりで、定法の死罪は、まんまと
免れることができた。
(江戸時代の罰則では、十両の金を盗むと「死罪」と決まっていた。
そこで九両二分三朱まで盗んで、あとの一朱をとらないという、法律
通の泥棒もいたという、ずる賢い次郎吉もその手を使った、のかも)


ペラペラの嘘を束ねた置き土産  高野末次


次郎吉は、大名屋敷のみを狙って盗みに入り、貧しい人達にそれを施し
たとされる事から、後世に「義賊」として伝説化されている。
その「義賊伝説」は、処刑直後から語られ、広まったようだ。曲亭馬琴
が見聞録『兎園小説余禄』に書き留めている。
『此のもの、元来、木挽町の船宿某甲が子なりとぞ、いとはやくより、
放蕩無頼なりけるにや。家を逐れて (勘当されて)…中略…処々の武家
の渡り奉公したり。依之(これより)武家の案内(内情)に熟したるか
といふ一説あり。…中略…盗みとりあい、金子都合、三千百八十三両余、
是、白状の趣なりとぞ聞えける』
この金額は、ざっと今の五億円前後と算盤が弾き出す。


憚りながら裏街道の海月です  太田のりこ
 
 
 
 歌川豊国、捕り手と奮戦の図


 泥棒は一度やると止められない。一度捕まって性懲りもなく、また盗み
をはじめ、天保3年(1832)5月、日本橋浜町の松平宮内少輔邸に
忍び込んだところを、北町奉行所の同心・大八木七兵衛に捕縛された。
「捕まるときの有様について、馬琴は」
『浜町なる松平宮内小輔屋敷へ忍び入り、納戸金(手許金)を盗みとら
んとて、主侯の臥戸(寝室}の襖戸をあけし折、宮内殿目を覚まして、
頻(しきり)に宿直の近習を呼覚して…中略…是より家中迄さわぎ立て、
残す隈なくあさりしかば、鼠小僧庭に走り出で、塀を乗て屋敷外へ堂と
飛びをりし折、町方定廻り役・榊原組同心・大谷木七兵衛、夜回りの為、
はからずもその処へ通りかかりけり、深夜に武家の塀を乗て、飛びおり
たるものなれば、子細を問うに及ばず、立ち処に搦め捕えたり』


爆睡はネズミが走ってからにする  岩根彰子


次郎吉は捕まって、同心の大谷にこんなことを言った。
「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受け
てから処刑されたい」理由に「俺が盗みに入った屋敷では、その責任を
とって切腹した人もいる。金銀が紛失したので、疑われている人も多い。
奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい」
時の奉行は、北町の榊原忠之。芝居小屋育ちの次郎吉得意の芝居っけの
ある供述は名奉行には通じず、奉行は、次郎吉に死罪を求めた。
そして獄門、市中引き回し時には、奉行の配慮で薄化粧の口紅を許され、
悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えた
という。やがて次郎吉が日本橋3丁目あたりへ差し掛かった時、二人の
女が目礼をした。次郎吉に深い恩を受けた情婦だったのだろう。


二メートル先には地続きのあの世  和田洋子


牢獄での取り調べの後の8月19日、市中引き回しの上、千住小塚原
(一説-品川鈴ヶ森)で磔、獄門に処された。
「この日の様子について、馬琴は」
『この者、悪党ながら、人の難儀を救ひし事、しばしば也ければ、恩を
受けたる悪党(仲間)おのおの牢見舞いを遺したる。いく度といふこと
を知らず、刑せらるる日は、紺の越後縮の帷子を着て、下には、白練の
ひとへを重ね、襟に長房の数珠をかけたり。歳は36、丸顔にて小太り
也。馬に乗せらるるときも、役人中へ丁寧に時宜(お辞儀)をして、悪
びれざりしと、見つるものの話也。この日、見物の群衆、堵(垣)の如
し、伝馬町より日本橋辺は、爪もたたざりし程也しとぞ』


真っ先に鼻の形を思い出す  高橋レニ



  歌川国貞の描く鼠小僧


馬琴は、教養人としての自負があってか、記事を「虚実はしらねど風聞
のまま記すのみ」と結んでいる。
『世に様々な風聞風説が流れ、それが読書に記されている。たとえば、
捕らわれてしまう失策は、『自々録』によると、大きな鼾のせいだ』
という。
「松平宮内小輔の深殿の天井に、『日ごろの大胆をもて、深更をまつ
うち、眠りにつき、大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者
や有りけん、搦め捕られたり』と、まことに無様である」


目を開けたら既に三日がたっていた  寺島洋子


「盗み取った金額について」
「『天言筆記』には、盗賊に押し入りしは、大抵諸侯にして、七拾軒、
盗みし金額は、凡そ二万二千両なり」とある。
今のざっと35億円前後である。
この金高について『巷街贅説』(こうがいぜいせつ)には、
『大名方九十五ヶ所、右の内には、三十四度も忍入り候所も有之(これ
あり)、度数の儀は、八百三十九ヶ所程と相覚へ、諸所にての盗金相覚
候分、凡三千三百六十両余迄は、覚候由申し立て候』


見えぬことだけで溢れる空の箱  山口美代子


…中略…『しかとは申し立て難き候得共、盗み相働き初めより当時まで、
凡そ一万二千両余と覚え申し候由、右盗金悉く悪所盛り場等にて、遣ひ
捨て候事之由』とある。
さらに、九十五ヶ所の氏名と、被害の金高を逐一列記している。
『その屋敷には、尾張、紀伊、水戸の御三家や、田安・一橋・清水の御
三卿まであり、盗人ながら見上げたものである。金額が最も大きいのは、
戸田采女正の四百二十両(6500万円前後)である』


三度目は許さぬよりも慣れてくる  深尾圭司



   歌川国周の描く鼠小僧


「義賊ということについて」
学芸大名として名高い松浦静山が、鼠小僧について
「『金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け
与えた』という伝説がある。この噂は、彼が捕縛される9年も前から流
れていた。事実、彼が捕縛された後に、役人による家宅捜索が行われた
が、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると、彼の
生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから、盗んだ金の
行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる」


とりあえず空っぽになってみようかな  山口美代子


「だが、現実の鼠小僧の記録を見ると、このような事実はどこにも記さ
れておらず、現在の研究家の間では『盗んだ金のほとんどは博打と女と
飲酒に浪費した』という説が定着している。
鼠小僧は、武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門
に徒党を組むことなく、一人で盗みに入ったことから、江戸時代におけ
る反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使わ
れることが多い。 しかし、これについて、資料が残されていない中で、
鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測もある。


伏せ字には発情しないお約束  木口雅裕


「鼠小僧が大名屋敷を専門に狙った理由について」
敷地面積が非常に広く、一旦、中に入れば警備が手薄であったことや、
男性が住んでいる表と、女性が住んでいる奥が、はっきりと区別されて
おり、金がある奥で発見されても、女性ばかりで、逃亡しやすいという
理由が挙げられている。
また、町人長屋に大金は無く、商家は逆に、金にあかせて警備を厳重に
していた。大名屋敷は、謀反の疑いを、幕府に抱かせるおそれがあると
いう理由で、警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体
面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。


ふくらはぎだけが眠っている童話  くんじろう


「松浦静山『甲子夜話』」
幕政での栄達という青雲の夢破れ、47歳で平戸藩主を隠退した静山は、
以後、82歳で没するまで、学芸に親しみ、怪談奇談に耳をそばだて、
隠居仲間やお抱え相撲取り・弓職人など多彩な人々との交流を楽しんだ。
本所下屋敷で隠居暮らしを堪能しつつ、鼠小僧の評判に興味をもち、そ
の名の由来について、『甲子夜話』に書き記している。
「或人言ふ。このごろ都下に盗ありて、貴族の第(屋敷)より始め、国
主の邸にも処々入りたりと云ふ。然れども人の疵つくること無く、一切
器物の類を取らず、唯、金銀のみ取去ると。されども、何れより入ると
云ふこと、曽(かつ)て知る者なし。因て人、「鼠小僧」と呼ぶ」と。


くずかごにまじめをぽいっと捨てぬよう  岡田幸男

 
 
鼠小僧こと稲葉幸蔵・松山・二人の娘・みどり
 
 
「鼠小僧の母」
江戸の末期、天保(1831~)のころ、西の郡と呼ばれていた蒲郡に、
江戸から一人の老婦人が、ひっそりと帰ってきて暮らしはじめた。35、
6年ぶりのことだ。家の裏手には、鬱蒼とした藪が広がっていた。その
藪の中に、名前も戒名も書かれていない粗末な墓らしきものがある。と、
近くの住民が気づいたのは、それからしばらくたってからのことだった。
老婦人の名を「かん」といった。ある日のこと、道でかんとすれ違った
住民が尋ねた。「藪の中にある墓は、どなたをご供養なさっているんで
すか」 かんは一瞬、驚いた様子を見せ、顔をくもらせた。


知り合いではないが知らないでもない  佐藤正昭


暫くたって小さな声で「倅の」とだけ、言って立ち去った。
『がまごおり風土記』(伊藤天章著)には、文政期に江戸市中の大名屋
敷に忍び込み、天保3年に38歳で処刑された鼠小僧次郎吉は、蒲郡の
生まれだと書かれている。母親のかんは、処刑のあと一握りの遺髪を手
に蒲形村に帰り、墓をつくり冥福を祈った。
この墓が後に委空寺(神明町)に移されたという。 次郎吉の生家は現在
の神明町。生後間もなく、父の定七は江戸に旅立ってしまう。1、2年
後、母のかんは、定七を追って、幼い次郎吉を背負い上京した。お墓の
いわれとともに、このような話も代々語り伝えられている。
真実はともかく鼠小僧は歌舞伎や小説、映画に義賊として描かれている。
地元の人たちには、ちょっぴり自慢だったに違いない。                        
 
 
正座して一身上の話きく  都司 豊


「次郎吉は用心深い」
必要以上の大金を盗まなかったのは、捕まったときの用心で、金がなく
なるまで盗みを働かなかった。不自然な大金が見つかると、証拠になる
からである。当然、深い付き合いもできるだけ避けて、プライバシーを
守った。親しい仲間ができ、棲家が知られ、家に遊びにくるようになる
と棲家を変えた。女房だって四人いて、その家を転々としていたのだ。
それも金で買った飲屋の女である。名前も治三郎、次兵衛などと使い分
けていた。


路地裏をうまく泳いでいるルパン  岡内知香
 


浅草胡蝶の屋根に現れた鼠小僧(18代目・勘三郎)


次郎吉の墓は、本所回向院にあり、戒名は「教覚速善居士」俗名・中村
次良吉とある。戒名の教覚速善とは、頭脳よく、記憶力もよく、素早い、
が次郎吉の持っていた印象で、とは何を表したものか、義賊であった
ことを示したものなのだろうか。
「鼠小僧の辞世」
「天が下古き例(ためし)はしら波の 身にぞ鼠とあらわれにけり」
「ウン? なんとなく聞いたことがある、ってか」
「やっぱり、黙阿弥の作品だから白波五人男に似てしまうんですな」


前略と書いたが闇の中にいる  山本昌乃


「鼠小僧に死刑を宣告した奉行・榊原忠之」
北町奉行としての忠之は、迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民か
ら人気があった。北町奉行在任は17年に及び、これは歴代江戸町奉行
中でも長期にわたる。『想古録』では、「前任者が7,8年、時に10
年以上掛かっていた採決を、2,3日で行ってしまう」ほどのスピード
裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で、訴訟費用に苦しんで
いた江戸庶民から歓迎された。また在任中に、鼠小僧次郎吉、相馬大作、
木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。


闘って大きいコブの二つ三つ  佐々木雀区

拍手[4回]

葉を落とすたびに大きくなる欅  米山明日歌
 


仁と義の狭間で生き悲しき刺客

この有名な人斬りは誰?
ヒント=土佐藩郷士。天誅の名人と言われ、最も怖れられた。
慶応元年5月11日打ち首、獄門。享年28歳。
辞世の句があまりにも悲しい。
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空」

 
  「青天を衝け」平岡円四郎の死
 

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円四郎の父・岡本花亭              堤 真一
円四郎には肖像画がない。この父から円四郎の顔を想像したい。

 
平岡円四郎は、文政5年(1822)岡本忠次郎の四男として生まれた。
父は勘定奉行まで勤めた後、鑓奉行に転じ、諸大夫(しょだいぶ-位階)
を仰せ付けられ、また近江守に任ぜられている。なお優れた漢詩を詠む
ことで、岡本花亭という名でも知られた文化人である。その後、17歳
の時、円四郎は、切手番頭を努める旗本・平岡文次郎の養子となり平岡
姓を名乗る。やがて家を継ぐ身となり、学問にも励み、昌平坂学問所の
寄宿中頭に就任する。


肩甲骨きっと大きな羽だった  高橋くるみ


聡明叡智で特異な才能を持つ円四郎を、世間は放ってはおくわけがなく、
水戸藩の藤田東湖や幕臣・川路聖謨らは、「諤諤の臣」を求める一橋家
慶喜に推挙した。そして慶喜は、東湖や聖謨の薦めに従い、円四郎を雇
小性として雇うことにした。
(「諤諤の臣」=正しいと思うことを直言する人のこと)


ぴったりの甲羅磨いているところ  津田照子


当時の一橋家の家老は、慶喜の教育係をも務める中根長十郎であった。
慶喜は、御側用人の中根に対して、不満を感じていた。確かに中根は能吏
ではあったものの、水戸家から入った慶喜に対して、相当、遠慮していた
のかもしれない。が、慶喜は、中根を始めとする側近のイエスマンぶりに、
物足りなさを強く感じていた。そのため、嘉永6年(1853)に至り、
水戸藩からの「直言の士」、すなわち、<物おじせずに慶喜に諫言してく
れる>、頼りがいのある家臣を派遣してくれるよう、懇請する書簡を実父
徳川斉昭に送っていた。そして、白羽の矢が立ったのが、平岡円四郎
あった。(能吏=事務処理に優れた才能を示す役人)


面白い手術になるという外科医  山田恭正
 
 
川路聖謨は、平岡円四郎が非凡で「直言の士」であることを見込んで、
日ごろから水戸藩の藤田東湖戸田忠太夫に対して、平岡の能力や人
となりを吹聴していたらしい。ちょうど慶喜、「直言の士」斉昭
に求めていた時でもあり、東湖は、斉昭に平岡を推薦した。斉昭は、
その提案を受け入れ、平岡を慶喜の小姓とすることに決めた。
平岡もそうそう遊んでいるわけにもいかず、取りあえずその申し出を
受けることにした。


関節を外して入る砂時計  月波与生


円四郎慶喜の近侍になった時、慶喜は16歳。円四郎は32歳だった。
円四郎は、名家の一橋に仕官するというのに、服装はだらしない、礼儀
作法はまるでなっていない。円四郎は、豪放磊落な性格で、堅苦しいこ
とは大の苦手だったから、常に、一橋の家人たちから顰蹙を買っていた。
近侍として「これでは拙い」と考えた慶喜は、箸の持ち方、飯の食い方、
言葉の使い方などまで、細かく教えることにした。慶喜の教育係である
べき円四郎が、慶喜に教育される逆転現象が生じた。それでも、慶喜が
円四郎を側に置き信頼したのは、気さくで、言いたいことをずばずばと
言い、聡明で機転が利き、先が読める人物、と認めたからである。


捩じれてもなお直線の夢を追う  大西將文
 




 
 
  平岡円四郎は、幕末史の基礎的史料『維新史料綱要』に何度か登場する。
初登場は安政5年(1858)3月のこと。慶喜が将軍家の養子となる
ことを固辞していることについて、福井藩士の中根雪江と水戸藩士の
島帯刀らが、円四郎の屋敷に集い、密議したということが載っている。
慶喜は、「お飾りの将軍になどなる気はさらさらない」、が、この密儀
で何らかの妥協をみせたのだろうか…。


臍の緒がそんなに高く売れるのか  井上敏一


ゆくゆくは慶喜に、将軍職を嗣がせる含みを持たせながら一橋家の養子
とした12代将軍の家慶は、後継問題を曖昧にしたまま病没した。13
代将軍の座についたのは、家慶の実子の家定だった。しかし、家定は、
病弱なため次の将軍となる実子をもうけることが期待できない。このた
め、譜代の彦根藩主の井伊直弼、会津藩主・松平容保ら、紀州徳川家の
慶福を将軍に据えようとする南紀派と、外様の薩摩藩主・島津斉彬、宇
和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信ら、一橋家の慶喜を将軍に据
えようとする一橋派とが、次期将軍の座を巡る争いを起こす。


2丁目より暗い3丁目の闇  雨森茂樹


やがて、井伊直弼を幕府の大老に擁立した南紀派は、家茂を将軍とする
継嗣をめぐる争いに勝利し、一橋派に対する弾圧を始めた。いわゆる、
「安政の大獄」である。安政6年(1859)9月には、一橋派に属し
た藩主たちが、隠居・謹慎させられ、平岡円四郎もまた、井伊直弼から
一橋派の危険人物として処分され、甲府勝手小普請にされた。
ところが翌安政7年3月、桜田門外で井伊直弼が殺害されるという変が
起こると、時代はまた違った方向へ動き出す。


大変があるかないかは明日の闇  佐藤近義


文久2年(1862)、勅使として公卿の大原重徳が江戸へ向かうとき、
島津久光が兵を率いて随行した。久光は薩摩藩主の実父で、薩摩藩の実
権を握っているが、本来なら幕閣に意見を言える立場ではない。しかし、
勅使の随行者として幕府も、無視するわけにも行かず、久光が要求する
改革路線に政治の舵をきることになる。そこから旧一橋派の巻き返しが
始る。いまさら、将軍の座についた家茂を、引きずり下ろすことは出来
ないが、安政の大獄で処分を受けた人々を、復権させた上、慶喜「将
軍後見職」に越前福井藩の前藩主・松平春嶽を「政事総裁職」に、それ
ぞれ就任させることにした。


くるぶしのあたりに灯す常夜灯  笠嶋恵美子


その年の12月、慶喜「将軍後見職」に就任すると、円四郎も甲府か
ら呼び戻され、江戸に戻る。そして、文久3年4月、「勘定奉行所留役
当分助」となり、翌月一橋家用人として復帰する。そして、この年、慶
喜の上洛にも随行する。京都で慶喜は、公武合体派諸侯の中心となる。
こうした背景に、ごそごそ裏で動いているのは、平岡と用人の黒川嘉兵
と見なされた。この頃、円四郎は、ますます慶喜からの信任は厚く、
元治元年(1864)2月、「側用人番頭」を兼務、5月に「一橋家家
老並」に任命され。6月2日には、慶喜の請願により「諸大夫となり、
近江守」に叙任される。四男坊の遊人が、42歳で父と同じ位置に昇っ
たのである。攘夷派の志士として、破壊活動を企てていた渋沢栄一を、
一橋家に仕官させたのもこの頃である。


木に登ると花を咲かせてみたくなる  神野節子


この2週間後の6月14日、円四郎は、水戸藩士江幡広光、林忠五郎
らにより京都町奉行所与力長屋外で襲撃され、斬殺される。円四郎の
側にいた川村惠十郎は、傷を負いながらも必死の反撃をし、江幡広光、
林忠五郎を斬り捨てている。慶喜も円四郎も、外国人を今すぐ日本か
ら閉め出すことはしないでも、攘夷は、日本の自主独立を守るという
形でのものでいいのではないかと考えていた。しかし、攘夷に奔る士
たちは、「尊皇攘夷」という考え方の元祖である水戸藩に生まれた
、「なかなか攘夷を実行しようとしないのは、平岡円四郎ら側近
が悪い考え方を吹き込んでいるのに相違ない…」と、考えた。
現に、慶喜の側近・中根長十郎は、円四郎より先に殺され、円四郎の
後で慶喜を支えた原市之進も暗殺されている。盲目的に慶喜の側近た
ちを狙ったのだ。
 
 
刺し口は中央分離帯の中  平尾正人
 
 





『維新史料綱要』
には、安政5年6月に、時勢を慨嘆する水戸藩士ら
が幕府の要人に対して「除奸」を計画しているとの情報を、円四郎が
中根雪江に伝えていることが記されている。
円四郎は前もって、危険な同胞の動きを察知していたにもかかわらず、
その刃に43年の、まだまだやることのある命を散らすのは、やはり、
持って生まれた円四郎の磊落な性格が災いのもとになってしまった。


理不尽をいさめる言葉見つからぬ  合田留美子


「除奸(奸を除く)の計画」とは、平たく言えば、「要人を暗殺する
こと」で、まさに暴挙。水戸藩といえば慶喜の実家なのだが、味方に
はしたくない危険な存在になり果てていた。安政二年の大地震で藤田
東湖という指導者を失ってから、水戸藩は、迷走を始めていたのであ
る…。栄一喜作は、そのとき、江戸におり恩人の死を知るのは、半
月後だが、その訃報に驚き悲しみ、号泣した。

 
雲を見ている隅っこのパイプ椅子  新家完司
  
 
 
 
 
「渋沢栄一ー円四郎を語る」

『是まで申述べたうちにもある如く、私を一橋家に推薦して慶喜公に
御仕へ申すやうにして呉れた人は、平岡円四郎であるが、この人は全
く以て一を聞いて十を知るといふ質」で、客が来ると其顔色を見た
丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであ
つた。然し、かかる性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角、他
人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往
々にして、非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪
士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る
能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無か
らうかとも思ふ。

平岡円四郎の外に、私の知つてる人々のうちでは、藤田東湖の子の
田小四郎といふのが、「一を聞いて十を知る」とは、斯る人のことで
あらうかと、私をして思はしめたほどに、他人に問はれぬうちから、
前途へ前途へと話を運んでゆく人であつた。
藤田小四郎・辞世
兼て与梨 思ひ初にし 真心を けふ大君に 徒希てうれしき
 
 
しあわせの窓からふいに波しぶき  清水すみれ

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