忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45]

二条城の鶯張りは江戸訛り  岸井ふさゑ



『子供遊世直し祭り』 (慶応4年・作者不明)

と書かれた酒樽の横で子供が天子の菊紋の扇子を広げ踊る、その神輿
を担いでいるのは「丸に十の字紋」の薩摩と「一文字三星紋」の長州。
先頭
の衣冠束帯の子は有栖川宮。その後ろでたじろいでいるのが和宮
篤姫
オレンジの腹がけの子は、徳川慶喜という設定。


渋沢篤太夫たちがパリへ旅立った後も、引き続き徳川慶喜は、幕府の立
て直しに取り組んでいたが、長州藩の処分や兵庫開港などの問題を巡り、
薩摩藩と対立する。西郷大久保が主導権を握っていた薩摩では、慶喜
を将軍の座から引きずり下ろし、天皇をトップとする政体の樹立を目指
そうという声が日増しに大きくなった。そのためなら慶喜との武力対決
も辞さないという気運も高まる。


正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝



慶喜の処遇で会談する勝海舟と西郷隆盛

 
「青天を衝け」 慶喜、その後


「鳥羽・伏見の戦い~」
西郷隆盛たちは天皇による政治、つまり、王政復古の実現を唱える公家
岩倉具視とはかり、「慶喜追討」の天皇の命令書の交付を朝廷に願い
出る。慶応3年10月14日薩摩・長州藩主宛に倒幕の密勅が下ったが、
同じ14日に慶喜が「大政奉還」の上表を提出、すなわち政権を朝廷に
返上したことで、西郷たちが打倒を目指していた幕府は倒れた。24日
に慶喜は将軍職を表明し、諸侯の列に下りた。260年余、政権の頂点
にあった徳川は、一介の大名になったのである。


甘い夢すてよとドクダミの臭気  銭谷まさひろ


むろん慶喜は、転んでもただで起きるつもりはない。慶喜は幕府をみず
から消滅させるという奇策により、政局の主導権を握ろうと企んだので
ある。「長らく政権から離れている朝廷に政治は行えず、自分(慶喜)
を頼って来るだろう」という算段があったのだ。
こうした意を受けて親幕派から、慶喜を新政府のリーダとして、擁立し
ようとする動きが盛んになりつつあった。「倒幕はなったが、徳川政権
が形を変え存続しかねない」という、討幕派の思惑とは異なる事態を受
けて、西郷らは、危機感を覚え、慶喜をはじめ親幕派の会津藩を排除し
ようという計画が企てられる。


正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝


以後1ヶ月近く、双方は睨み合いを続けるが、翌4年1月3日、京都南
郊の「鳥羽と伏見で開戦」となる。はからずも慶喜はこの戦いに敗れて
しまい、「朝敵」に転落した。禁門の変での長州藩の立場となったのだ。
形成を展望していた諸藩は雪崩を打って、朝廷軍の旗印「錦の御旗」
掲げられ、今や官軍となった薩摩・長州藩の側に付いた。
ここに相次ぐ敗報、さらには朝敵とされたことで、慶喜は戦意を失う。
6日夜、密かに大坂城を脱出すると、海路江戸に向かった。7日、朝廷
、「慶喜追討令」を発した。


人波に漂いたいと思う今  石橋直子
 

ーーー


大坂城を脱出した慶喜が、江戸城に戻ってきたのが同4年1月12日の
ことである。それから約1ヵ月、徳川家では和戦をめぐって激烈な議論
が交わされるが、慶喜は諸般の情勢を分析した結果、新政府に反省の意
を示すことで、寛大な処置を願う恭順路線を選択する。
以後、勝海舟をして新政府との交渉にあたらせた。


如才なく凍土に埋めておきました  加納美津子



弘道館 至善堂


2月12日、慶喜は、江戸城を出て徳川家菩提寺の上野・寛永寺に入り、
子院大寺院の一室に謹慎した。身をもって恭順の姿勢を示したが、これ
に反発する幕臣は多かった。そうした反発が「彰義隊」の結成へとつな
がっていく。慶喜が寛永寺に入って1ヵ月後の3月13日、江戸の薩摩
藩高輪屋敷で総督府参謀の西郷勝海舟との会談が始まる。14日の再
会談で15日に予定されていた「江戸城総攻撃」は延期され、慶喜の助
命も決まる。4月11日、「江戸城明け渡し」が行われ、その日、慶喜
は寛永寺を出て水戸へ向かい、今度は水戸・弘道館 至善堂での謹慎生活
が始まる。


転がっていった淋しい音だった  居谷真理子


 一方、パリにいる篤太夫は、フランスの新聞記事で、慶喜が鳥羽・伏見
の戦いで敗れて、江戸城に逃げ戻ったことが書かれていたが、篤太夫は、
<虚説であろう>と言って、一向に信じなかった、と、使節団の世話役
をしていたビレット中佐が語っているが、3月16日到着の御用状には、
フランス新聞と同じことが書かれていた。この時、慶喜が朝敵になった
ことも知った。篤太夫たちが、徳川家や慶喜の有様に嘆き悲しんだのは、
言うまでもない。そして自軍への怒りも隠そうとはしなかった。


生真面目な方の自分が邪魔をする  中村幸彦


その篤太夫の悲憤慷慨は、昭武信書の名目で慶喜に送った書状でわかる。
 『殿下がさきに大坂を御立退になって関東へ御帰城になったのは実に
頼もしくない思し召しである。また、たとえ御帰東なされたとて、なぜ
速やかに兵を挙げて京都に向かう御手配はなされぬのであるか、今日の
朝廷というは、つまり薩長二藩であるから、これを討滅するにおいてさ
まで困難ということもあるまい、もし、また最初から真に<朝意を遵奉
して恭順を事とする>の思召しならば、何故、伏見下鳥羽の戦争を開か
れしや、既に先端を開いた以上は、万やむを得ざることであるから…、
いわゆる<強き者の申分は、いつも好くなるもの>というフランスの諺
に従って断行したならば、勝遂げぬということはあるまい』『雨夜譚』


スッポンに噛みついたまま9秒9  宮井元伸
 


弘道館 至善堂で謹慎中の慶喜
 

「要約」
大坂城を退いて江戸に戻ったのは、実によくないことである。大坂城を
動かずに薩長両藩と戦うべきであった。たとえ、江戸に戻ったとしても、
兵備を整えて京都へ攻めのぼるべきである。朝廷を奉じて官軍を名乗っ
ているとはいえ、薩長両藩の討滅など、さほど難しくないだろう。すで
に開戦となったのであるから、今さら恭順の姿勢など取るべきではない。
「強者の言い分はいつもよくなる」勝てば官軍)というフランスの諺
も引用し、篤太夫、「戦い抜けば勝てないはずはない」のだと、決戦
を迫った。


日本がアルカリ性に変わるまで  田久保亜蘭



弘道館至善堂二の間・三の間で謹慎する慶喜の下絵
 羽石光志が慶喜の肖像画制作のために描いた構想下絵


パリで歯噛みしていた篤太夫たちに、新政府から帰国命令が下ったのは、
3月21日のことである。慶喜が恭順の姿勢を示すため、江戸城を出て
寛永寺に入ったことを、篤太夫たちが知ったのは、4月13日である。
帰国の命令書が届いたのは、5月15日だが、慶喜の処遇が決まった旨
が記された御用状もこの日に着く。江戸城開城と引き換えに助命され、
水戸での謹慎となった。遠くから何を言っても「今は信じるしかない」
フランスの新聞記事で、17日に、慶喜が水戸へ向かったことも知る。
江戸城も明け渡された。7月15日には、江戸で彰義隊の戦いが起き、
18日には、敗北も知った。9月4日、昭武一行はフランスを離れる。
一行を乗せた船・アルフェー号が横浜港に入ったのは11月3日のこと
だが、篤太夫は、日本不在中に起きていた衝撃の事実に茫然自失となる
のであった。


にんげんをジワリ崩してゆく月日  新家完司


「慌ただしい慶応4年の出来事をまとめてみると」
慶応3年1月11日 昭武一行パリへ立つ。
10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古
慶応4年 / 明治元年(1868)
1月03日 鳥羽・伏見の戦い
1月12日 慶喜江戸城に帰城
2月12日 慶喜、寛永寺の子院大慈院の一室で謹慎
2月15日 東征軍、京都を進発
2月23日 彰義隊誕生
3月14日 江戸城総攻撃中止(海舟、西郷会談)
4月03日 彰義隊、寛永寺に移る
4月11日 江戸城開城
4月19日 振武軍、田無村駐屯(隊長・成一郎)
5月15日 彰義隊の戦い
5月23日 振武軍、飯能で壊滅(渋沢平九郎、自刃)
5月24日 徳川家が静岡70万石に封ぜられる。
9月04日 昭武一行、帰国の途へ
9月22日 会津藩降伏
10月13日 明治天皇、東京に入る
11月03日 昭武一行、帰国
「帰国後の篤太夫の行動」
12月01日 血洗島村に帰郷
12月23日 静岡・宝台院で慶喜に拝謁
12月27日 静岡藩勘定組頭格御勝手懸りに


海側の一面 山側の三面  くんじろう

拍手[5回]

PR

干し大根祈りになってゆく途中  河村啓子



各国からパリ博へ来た人々を歓迎するナポレオン三世


「ナポレオン三世のパリ博における演説」
「この大博覧会には、世界各国より出品があって、太古の時代の事物よ
り最も進歩せる現代の事物に至る迄、一目瞭然と、之を識別することが
できる。加うるに各国の風俗習慣を知ることが出来る故、此の大博覧会
は、実に世界知識を向上せしむるものである」『青淵回顧録』渋沢栄一
(渋沢栄一は、フランス語がままならない中で、まさに万博の理念その
ものを理解できていた如に、要約した)


叫んでも鼻がこそばいフランス語  中村幸彦
 


1867年東京ドーム14個分のパリ博会場


「青天を衝け」 パリ大博覧会へ


慶応2年11月29日、渋沢篤太夫は原一之進から呼び出され、慶喜
内意として渡仏が打診された。君命とはいえ、外国人に激しい憎悪を持
っている篤太夫が、「このフランス派遣に果たして承知するだろうか」
と、原は不安を抱いていた。
将軍名代として14歳の徳川昭武に従って、水戸藩から御付きの7人の
藩士が随行するのだが、彼らはまた攘夷論者たちで、昭武を渡仏させる
ことに強い抵抗感を持っていた。幕府としては、御付きの水戸藩士たち
がフランスで問題を起こすのを危惧し、彼らを宥める役回りの者が必要
と考え、篤太夫を渡仏の一員に加えたのであった。


「できます」と言えばその気になる頭脳  川島良子


「栄一の処世談」
『私は夫れ迄と言ふものは、攘夷論者であつたが、然し四囲の状勢から
して、何時迄も鎖国主義を採つて居ることの不可能を知り、機会があら
ば西洋の事情も知りたいと思ふやうになつて居たからして、遂に意を決
してお供をすることになつたのである。…中略…一橋慶喜公に仕へた時
には、所謂、主従三世の誓ひを心に立て、飽くまで慶喜公と生死を共に
する決心であつたのだが、御令弟の民部公子が、仏蘭西に洋行せらるる
やうになるや、多少、私を用ふるに足ると思召されたものか、<今後の
時勢は如何変るか、逆睹し得るものでないから、渋沢の如き男をつけて
やれば心配で無い>といふので、私が民部公子に御供を致すことになっ
たのである。然し、当時、私の身分は極低かつたので、「御傅役」とい
ふわけに参らず、単に随従の名義で御供を致したのである』


鼻の穴広げて道の真ん中に  酒井かがり



パリ博日本館


このパリ万博に出展することになった日本だが、当然、彼らはその背景
など全く知らないまま参加した。駐日公使のレオン・ロッシュを通じて、
パリ万博への招聘が届いたのは、慶応元年(1865)のことである。
当時の幕府は、いずれ薩長と一戦交えるかもしれないという、危機感を
抱いていた。戦のためにはお金が必要だ。ロッシュは万国博覧会に参加
して日本の製品を展示すれば、商売につながると助言した。有田焼など、
日本の物が海外でも人気だ、と聞いた幕府は考えた末、大名や豪商らに
万博への参加を呼びかけた。これに応じたのが佐賀藩・薩摩藩と江戸の
商人だった。


乗り換えの耳にふわりと鼻濁音  加藤ゆみ子
 
 
 
スエズ運河開通
 
東洋と西洋の結婚式とも呼ばれる、地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、
明治 2 年(1869)11 月 17 日、開通した。


慶応3年(1867)1月11日、昭武一行(総勢29名)を乗せたフ
ランス郵船「アルフェー号」で横浜港を出港しヨーロッパへと旅立った。
海路→スエズ運河開削工事のため、途中陸路に変え→海路と繋いで、フ
ランスのマルセイユに到着したのは2月29日、そして3月7日にパリ
に入った。篤太夫に与えられた具体的な任務は、昭武の事務官としての
庶務・会計と書記だった。昭武の信書の代筆もし、御付きの幕臣や水戸
藩士への月給の支給、あるいは雑品の購入なども、篤太夫の担当だった。


開拓者たらんと挑む試験管  土方かつ子 


長旅にも、地中海と紅海を結び、ヨーロッパとアジアを最短距離で連結
するという「スエズ運河開削の巨大工事」を目の当たりにして、篤太夫
は、その技術と規模の大きさに最大級の関心を持った。
これだけ巨大な土木工事をするのに、資金は一体どこからでてくるのか
さらにスエズ運河会社が工事を担っていると聞き、篤太夫はさらに大き
なショックを受ける。会社とは何だ、これが渋沢の「株式会社」とのフ
ァーストコンタクトだった。
 
 
今日からは春だ私がそう決めた  居谷真理子 


船上では、フランス語の習得に勤しんだが、船酔いがひどく、思い通り
にはいかなかったようだ。しかし適応能力に優れていたため、西洋式に
全く馴染めない者たちをよそに、船で出されるヨーロッパスタイルの食
事にも早くから興味を持ち、受け入れることができた。


漂っているだけなのに腹が減る  橋倉久美子



渋沢が妻千代から顰蹙を買ったスタイル


渡仏中、故郷の父や妻・千代、成一郎惇忠とも書状を交わしているが、
千代には自分の写真を送っている。羽織袴で草履を履き、腰には両刀を
帯びた姿でフランスへ向かったものの、フランスでは髷を切って洋服姿
となり靴を履くようになった。郷に入れば郷に従ったのだが、篤太夫は、
写真館で西洋式の正装姿を撮らせている。フランスの散髪屋で髷を切り、
シルクハットをかぶり、燕尾服を着て、手には、ステッキを持つ姿だっ
たが、この写真が大顰蹙を買う。「こんな情けない姿はやめてほしい」
と、妻の千代が手紙で訴えてきたほどである。


雲ぷかり私もぷかり梅雨晴れ間  雨森茂樹



世界の驚愕の展示品


パリ滞在中は式典に出席し、各国の出展品を見学する一方で、凱旋門な
どパリ市街の様々な施設を視察した。フランス政府の賓客として、皇帝
主催の舞踏会にも出席し、皇帝からの招待を受けオペラ座で観劇もした。
外務大臣官邸で開催された舞踏会に招待されたときのことである。
そこで大胆に肌を露出したドレス姿で華やかに踊る女性に、一同は驚愕
する。「けしからん」と侍たちは眉をひそめたが、篤太夫だけは、なぜ
彼女たちがこのような格好をするのか、疑問に思った。舞踏会だけでな
く、篤太夫は「社交」の目的について、深く理解していた。
例えば、万博の時にナポレオン三世とロシア皇帝が、競馬で賭けをする
場面があった。普通なら皇帝が賭け事なんて思うところだが、篤太夫は、
これも一つの社交場の嗜みなのだろうと理解した。


そういえばそうねとしっぽ揺れている  宮井いずみ



フランスの床屋で髷を落とした渋沢


さて、昭武の留学期間は5年の予定であり、篤太夫のフランス滞在も数
年に及ぶはずだったが、本国の情勢は、それを許さない大変動があった。
「大政奉還」である。この衝撃的な情報をパリにいる渋沢たちが目にし
たのは、慶応4年正月ことだった。日本から船便で送られてきた幕府の
御用状に、慶喜「大政奉還」したことが書かれていた。
御用状とは幕府や藩が発した公的な書状のことだが、日本との書状のや
り取りはどうしても、2ヵ月ぐらいの月日がかかった。


カンガルーの最短距離のジャブ  井上一筒


「栄一の処世談」
 『然るに、彼地に着いてから幾何も無く日本には、愈々、大変動が行は
れ、殆ど凡ての人が呼び返される、と云ふことになつたので、期せずし
て私一人が、民部大輔の百事のお世話をする、と云ふことになつたので
ある。斯に於て私は、恰も六尺の孤(りくせきのこ)を託されたやうな
気分で、其命を全うすることに努めたのである』
(六尺の孤=誰からも助けられることなく、一人で事に当たること)


十字架の形の飴をなめている  くんじろう


しかし、渋沢たちは、その情報はすでに知っていた。フランスの新聞に
掲載されていたからで、続報も掲載中だった。
江戸には、各国の公使館があり、横浜や長崎などの開港場には領事館も
あり、外国商人たちも大勢いる。公使館、領事館、外国商人からもたら
された情報が先行し、新聞記事になったわけである。
渋沢たちは日本から御用状が届く前に新聞で日本の情勢を知ったものの、
虚脱して誰も記事を信じなかった。確報を得たのが、皮肉なことに故国
からの懐かしい知らせだった。大政奉還から二ヵ月以上も経過した慶応
4年1月2日の夕刻に御用状が届いたのだ。知っていたとはいえ、改め
て知らされた真実は、青天の霹靂であった。


生臭いものは新聞紙で包む  森田律子


ーーーーーーーーー
日本へ帰る数日前に昭武に贈呈されたスイスの時計


この翌日の3日に「鳥羽伏見の戦い」が始まった。
政権返上から、「鳥羽伏見の戦」で幕府が薩長に敗れ、敗軍の将となっ
徳川慶喜は、朝敵に転落、亡国の臣となってしまったのである。
昭武一行の留学期間は、5年の予定であり、篤太夫のパリ滞在も数年に
及ぶはずだったが、本国の情勢がそれを許さない。留学など続けられる
状況ではなく、パリ滞在はおよそ1年半で突如、終わりを迎える。
そして、慶応4年9月4日、昭武一行はマルセイユから、来た時と同じ
ベリューズ号に乗り、フランスに別れを告げた。


ミカン剥きながら別れのタイミング  真島美智子


「栄一の処世談」
私が初め出発に際しては、少くとも五ケ年位は彼地に留つて大いに勉学
するつもりであつたが、国元に於ける幕府の変動からして費用も途絶え、
実家の方から取り寄せようとして居ると、遂に帰国せよとの命があつた
ものであるから、初志を果たさずして僅か一年余りで帰国したのである。


お祭りに迷彩服は似合わない  菊地良雄

拍手[5回]

本物の大御所今日も野良仕事  新家完司
 
 

目黒行人坂の火事  (武士と市民が力を合わせ消火にあたっている)

江戸の街は、窮民が増え、盗人や物取り目的の放火や衝動的な放火が相
次いだ。これは僧の真秀が起こした放火で即時、捕らえられ市中引き回
しののち、小塚原で火刑に処された。


「松平定信」
松平定信は、八代将軍・吉宗の孫。天明3年(1783)26歳で白河
藩主になり。天明7年、松平定信が老中首座へと抜擢されると、天明の
江戸打壊しを頂点とする深刻な幕政批判に対処すべく、「寛政の改革」
を断行。新政権の陣容をがらりと入れ替えた。
田沼派の大老・田沼直幸・松平康福・水野忠友らは追い出され、定信に
忠実な松平信明・松平乗完・本多忠壽を老中に据えた。諸奉行も田沼色
に染まっていない「清廉潔白」を目安にして選ばれた。
そのため多くの役職で、清潔だが仕事が出来ない役人が生まれた。
その分、江戸は無政府状態に陥り、札差・米屋・酒屋・質屋・など暴利
を貪っていた豪商・商家約8千軒が襲撃された。江戸は悪党が好き放題
にできる無法の町になった。


真夜中のアッで始まる無神論  森田律子


「火付盗賊改」 よしの冊子&堀帯刀秀隆
 

 
 奢侈禁止令に抗う「よし」


寛政の改革を断行した老中・松平定信が城中・市中の動静をつかむため、
隠密を用いて情報を収集した『よしの冊子』という記録がある。
定信が老中を勤めた天明7年~寛政5年まで、定信の家臣・水野為長
統括役になり、定信の老中首座就任と同時に「諸役人の人物柄から勤務
ぶり、同僚間の評判、また、市中の動静を見聞、探索させた」。為永は
三日から十数日ずつ、隠密の報告をまとめて筆記し、主人の定信が上覧
できるようにした。一段落ごとに「そのようだ」という伝聞を意味する
「よし(由)」とあることから「よしの冊子」と呼ばれるようになった。


辞書は字が本屋は本が多すぎる  中野六助


定信は30歳という若さで老中になり、その翌年には、幼い将軍家斉
補佐として政務を執り仕切ることになる。多くの場合、京都所司代や若
年寄などの要職を経た人が、老中になるのが筋道だが、田沼意次の穢れ
た賄賂時代許せなかったこともあり、それまで政府の要職に就いたこと
がない、それだけに清廉潔白な人物であり、8代将軍吉宗の孫にも当る
ことから、老中の首座に担ぎ上げられた。
しかし、裏を返すと、政府の内部事情をほとんど知らなかった。
ゆえに「よしの冊子」というものを必要とした。


世界一内気だと思う・・たぶん  河村啓子


「よしの冊子」が執筆された期間、世情の真っただ中にいたのが火盗改
長谷川平蔵であり堀帯刀であった。ゆえに平蔵については、比較的多
くの記述がある。が、定信も為永も、反田沼意次が政治的出発点だった
ので、意次に近かった平蔵に対しては、過度な敵意と中傷から始まって
いる。その後、頻繁に届く平蔵の日々の活動振りを知るにつれ、為永は、
平蔵に対する悪感情を強めていった。しかし、8代将軍の孫である定信
には、そんな気遣いはなく、正確な情報は届かない。


ブルータスあんたも海鼠型の耳  井上一筒


「よしの冊子」は、長谷川平蔵を次のように書いている。
「長谷川は山師・利口者謀計ものの由。当春御加役中も、すわ浅草辺出
火と申し候えば、筋違御門近辺にも、自分定紋の高張提灯二帳に、馬上
提灯四、五帳も持たせ人を差し出し、浅草御門近辺にも、同様にいたし
…中略…金銀の入り候事は何とも存ぜず、人が提灯三十帳拵え候えば、
自分は五十も六十も拵え申し候よし、甚ださえ過ぎた事をいたし申し候
ゆえ、危なきと申し候ものも御座候よし」


猫の目の義眼を入れた狙撃兵  宮井いずみ



奢侈禁止令に抗う 「猫のせかい」(歌川芳艶)


為永は、大量の提灯を買い付ける平蔵の金の出所を「やばく(危く)な
いか」と見当違いの邪推をし、こんな風に、平蔵の悪評を定信にインプ
ットしているのだ。これにより定信は、平蔵に対して、最後まで嫌悪感
を持ち続けた。為永の記す「よしの冊子」では、平蔵に対して、「山師」
「姦物」「術者」「利口者」「謀計者」「追従者」などと口汚く悪評し
ており、定信のプライベートの記録文書だけに、一度吹き込まれた下僚
の旗本に対する偏見は、権力のトップにある者にとって、修正されるこ
とはない。田沼意次に近かったこともあるが、根も葉もないことを書か
れて、定信に嫌われるのだから、心の広い平蔵とはいえ、たまったもの
ではない。


右の頬ぶたれ左の頬を出す  中村秀夫


「よしの冊子には、寛政元年の夏の噂として、こんな話も。
「将軍家斉にお姫様が生れたのを祝って、178歳の男が137歳の妻
とともに、自分の白髪を献上したよし」
というのである。どう考えてもホラ話である。こんな情報をなんの衒い
もなく流す「よしの冊子」は、いい加減度もかなりのものがあった 由。


思い切り顔を拭いたらずんべらぼん  木本朱夏  
 


横田松房の取り調べ方


「火付盗賊改」 堀帯刀
火付盗賊改は、役高1500石、役料40人扶持であるが、出費が多い
役目なので、2~3年も務めると実入りのよい遠国奉行に役替えになる
のが通例であった。
長谷川平蔵から三代前の贄正寿(にえまさひさ)は、堺奉行に転出した。
この堺奉行への出世は、彼の職務における評判の良さと「火盗改」とし
ての活躍が評価されものであった。贄が堺奉行に転任後に「火付盗賊改」
の本役を任されたのは、贄とは対照的な「荒者」として名高い横田松房、
通称源太郎である。「火盗改」には、中山勘解由山川安左衛門・藤懸
伊織など名高い猛者が何人もいるが、横田は彼らとは異質の苛烈な取り
調べで恐れられた。この横田松房の助役を務めたのが、堀帯刀である。


あんな奴の吐いた空気を吸うている  居谷真理子


「十一月十五日先手組頭・堀帯刀秀隆盗賊考察の事承る」
横田松房に代わって火付盗賊改に就いた堀帯刀は、4年前に冬季の助役
(補佐役)を務めたことがあり、再任して天明5年11月から同8年9
月までの2年10 ケ 月と比較的長い間、本役に就いた。「火盗改メ」
いうと江戸市中では「泣く子も黙る」と恐れられた猛者揃いであったが、
数多い火盗改の中には、先祖の武勇は薄れ、凶悪な悪党と渡り合う気迫
に欠ける者もいた。
「帯刀は寒中に綿入れを着てコタツで震えているのに、用人は身代豊か
で女を囲っている。帯刀はひたすら気がよくて、用人が私腹を肥やして
いるとは思いもよらない」よしの冊子)


影がないクリームソーダ飲んでから  酒井かがり



代官所執務風景


堀帯刀の火盗改メ・本役就任を知った長谷川平蔵は、2年後に自分が堀
本役とともに火盗改メ・助役を務めることになろうとはおもいもしなか
った。というのも、火盗改は、先手組頭から選抜されるしきたりで、平
蔵は西丸・徒頭に抜擢されてまだ1年経っていなかったからだ。


内臓にドン・キホーテがもう一人  通利一辺


「肌はあさぐろくずんぐり、声のみが高かった、無遠慮な、あのご仁が
なあ」平蔵は4年前、九段坂東の中坂下の席亭・美濃屋で、火盗改本役
に就任した贄正寿の傍らにいた助役・堀帯刀秀隆の印象を思いうかべな
がら細く呟いた。とりもなおさず、贄正寿の引きあわせで面識ができて
いた堀帯刀が、先手頭に指名されたというので、平蔵は、酒の角樽を用
意して祝辞をのべに裏猿楽町の屋敷を訪れた。玄関の式台に用人と名乗
った貧相な男があらわれ、角樽を受けとり、「主人がよろしくと申して
おります」と、挨拶もなく不愛想な表情を残して、立ち去った。


言う人を間違ったようですかしこ  宮井元伸


「なんですね、あの態度は!」
 門を出たところで平蔵の付き人の松造が、唾をはきながら呟くほど礼儀
を知らない用人だった。
「松、言葉をつつしめ。まあ、ああいうのを虎の威を借りるやからとい
うのだ」
 「しかし、殿。堀さまは、殿の先達でもなければ、引き立て人でもあり
ません」
「そう、怒るな。腹を立てた分だけ腹が減って、損をみるのはこっちだ。
もっとも、堀様は家禄が1500石、先手組頭の格も1500石だから、
足高なしの持ち高勤めで、足が出ているのがご不満なのであろうよ」


いつだって敵の一人として愛す  相田みちる


帯刀は家禄1500石で、平蔵の400石よりはるかに多いが、同僚の
間では、極貧として名高かった。それというのも、家政を取り仕切って
いる用人に、家禄の多くを横領されていたからである。このような帯刀
の日常に、「よしの冊子」
「堀帯刀は先手の組頭たちの中でも一体に正直者だが、用人が悪いから、
自然と世評も悪くなっている。解任されても仕方がないのに、お役を続
けていられるのは、ありがたいことと思わねば、との評判が立っている
よし」と書いている。


底のない財布が悲鳴上げている  菱木 誠
 
 
「強将の下に弱卒なし」というが、こんな頭だったから帯刀の先手弓組
一番組は、士気があがらなかった。あるとき、堀組の同心が麹町の路上
で無法な陸尺(駕籠かき)を縛ろうとしたが、逆に押さえつけられて縛
れなかった。同心はこのことが表沙汰になるのを恐れ、謝った上に詫び
証文を書いた。が、この同心後にこのことが知れて入牢されている。
 「帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいい
よし。だから用人や組下の者にもいいように利用されているよし」
                          (よしの冊子)


蒟蒻の裏と表の間柄  新海信二


とにかく堀帯刀は、やる気がなかった。
労多くして得るところは少なく、そればかりか、私財を投入しなくては、
とても務まらない役職である。
「このお頭は、盗賊改方の特別手当として、幕府から支給される役料ま
でも、<あわよくば、己の懐へ>という人物であり、平蔵のように私財
を投げだしてまで、お努めする気などさらさら感じられないよし」
帯刀は最初の夫人(松平正淳の次女)は、1女1男を産んあとまなく亡
くなり、後妻をつぎつぎと4人も迎えている。「秀隆(帯刀)は、自分
の人生のはかなさ、家族との縁の薄さ、ツキのなさに嫌気がさしていた
のではないだろうか」と、こんな同情の声もなくはない。


コンニャクに似た悪友の立ち姿  大下和子



奢侈禁止令に反骨精神で挑んだ浮世絵「猫の戯れ」 歌川国芳


帯刀は天明8年9月、三年近く務めた「火付盗賊改」を役替えになった。
ふつう次には、家計がうるおう遠国奉行、なかでも、堺奉行や奈良奉行
などや役得の多いポストに任命される。帯刀も奈良奉行への転役を打診
されたが、「江戸を離れては、年老いた母が嘆く」と辞退して、先手頭
から「持筒頭」を命じられた。火盗改から持筒頭に昇進しても、
 「堀帯刀は、組下が差しだした願い書なども、上へ取りつがない。とに
かく世話をやくのが嫌いらしい。与力たちが、頭の帯刀へ願いを差しだ
しても上へ進達しないので、この三、四年が間、与力たちは帯刀を恨ん
でいるよし」よしの冊子)と、悪口が書かれている。


もうすでに尻尾は北の枯れ芒  井上一筒


この役替えの時に、漸く、横領を続けていた用人に暇を出した。
「なんでもっと早く解雇しなかった」のかと、同僚は他人事ながら悔し
がっている。
「堀帯刀はいたって貧窮のよし。御先手から持筒頭になったので、幕だ
けでなく他にも物入りが増え、その幕もつくりかねているほどに極貧の
よし。先手組頭時代の用人は、悪者だったのでこの際、暇をだしたよし。
惜しいことだ、もうすこし早く暇をだしていたら、新番頭か遠国奉行に
なれたものを、といわれているよし」 よしの冊子)


左脳だけ使って錆びて来た右脳  伊藤良一


解雇された用人とは、別の用人の証言によると。
「思いもかけず持筒頭を拝命しましたが、これはありがたいことです。
それゆえ、主人もどんなことがあっても、2、3年はこの役をつづけた
いものだと申しております。せっかく任命されたのだから、「どんなに
貧乏をしようとありがたいご処置を忘れないように勤める」と私どもへ
も話しております。まことに主人は加役中、先の用人が心掛けが悪かっ
たために、周囲での帯刀の評判を損なっていました。しかし、主人帯刀
はそんな人物ではございません」


悲しいのに笑う悔しいのに笑う  日下部敦世



平蔵の市中見回りのスタイル


堀帯刀に代わって火付盗賊改の本役に就いたのが、それまで帯刀の助役
を務めていた長谷川平蔵であり、代わって平蔵の助役になるのが、上役
の平蔵より5割ほど多く給料を取っていて、ちょっと変り者の松平左金
である。ここからの平蔵の主な活躍の一部は、先に書いたので、ここ
では割愛する。


歴戦を語ることなき火縄銃  木口雅裕


「長谷川平蔵の役替えについて」
寛政3年12月ころ長谷川平蔵の役替えについては、町奉行就任の話が
幕閣で議論された。
「大阪(町奉行)へは是非平蔵が行きそうなものだ。アレもせめて大坂
へでも行かずば腰が抜けようときた仕り候よし」 (よしの冊子)
抜けるとは、火盗改役を真面目に勤めれば役高・役料以上の出費が嵩み、
「腰が抜ける」即ち、貧窮する役職と言われた。そのため2~3年勤め
たら、余禄の多い堺奉行や大阪町奉行などの遠国奉行に転任させること
が普通は行われた。が平蔵の場合には、そうした配慮が一度もとられな
かった。


パーフェクトに咲いて散れなくなりました 岩田多佳子


幕閣の議論の中で最も可能性の高い候補として、空席になった大坂町奉
行に、平蔵が任命されるかと見られたが、この転役もなかった。
転役・栄進の話がいつも立ち消えになるのには、平蔵を強力に推薦する
人物がいなかったからである。大坂町奉行は、無論のこと、町奉行への
抜擢も決まったであろう。
定信自伝『宇下人言』に平蔵を「左計の人(山師的)にあらざれば」
「長谷川何がし」のように冷たく記すところに、定信の清廉な性格にみ
る平蔵を忌避する気持ちが表れている。
「長谷川平蔵転役も仕らず、いか程出情仕り候ても何の御さた、これ無
く候に付き、大いに嘆息いたし、もうおれも力が抜け果てた。しかし、
越中殿(定信)の御詞が、涙のこぼれるほど忝(かたじけ)ないから、
そればかりを力に勤める外には何の目当もない。是ではもう酒ばかりを
呑死であろうと、大いに嘆息、同役などへ咄合い候よしのさた」 
                         (よしの冊子)


吊るされてドライフラワー夢を見る  合田留美子



奢侈禁止令に反骨精神で挑んだ浮世絵 ・「亀喜妙々」歌川国芳
 

最後の「よしの冊子」
「長谷川平蔵は、いついつ迄も御役仰せ付けられ、さぞ困り申すべくと
取り沙汰仕り候由。一説に、他の加役は勤め候と身代を微塵に致し候え
ども、平蔵ばかりは身代をよく致し候に付き、身上の悪くなる迄御遣い
成される思召しだ。と取り沙汰仕り候ものも御座候よし」
ほかの旗本は火盗改を勤めると家産が逼迫・困窮するが、長谷川平蔵
金策の能力に長けていて、使い減りしないので、転役・昇進が行われな
かったというのである。上がこんな考えでは、従う者は報われない。
平蔵にとって、定信の傍に水野為永のような男がいたことが不幸だった。

この記録が「最後」になったのは、定信が失脚(寛政5年7月23日)
して老中を解任されたからである。そして同時に、密偵の探索も悪意の
ある水野為永の筆記も終わった。
                    「火付盗賊改の正体」参照
 
 
  お待ちくださいと忘れられたままで  岡谷 樹

拍手[3回]

カラスならカアで終わりにする悩み  山下炊煙



フランスのマルセイユにて撮影された徳川昭武一行
中央に昭武、後列左端に渋沢栄一(篤太夫)


「青天を衝け」大沢事件と徳川昭武とパリへ 


慶應2年7月20日、第二次長州征伐失敗のあと、14代将軍・徳川家
が亡くなった。幕閣には人材がおらず、慶喜に将軍の座が回ってきた。
篤太夫は、慶喜の将軍継承を猛烈に反対したが、引き受けるしかなかっ
た。おのずから篤太夫も成一郎も幕臣に格上げになった。倒幕は非現実
的になり、もはや幕府内部から体制を大転換をして、新しい世界を切り
開くしかない。しかし、幕府という巨大組織の中に組み込まれると、篤
太夫は動きがとれなくなった。周囲は、保守派ばかりで、何かというと
「農家の出」と軽んじられる。苛立ちのあまり、もはや浪人にもなるか、
いつそ割腹して相果てようかとまでに一時は思ひ詰めもしたが、それで
は犬死になるからと、暫く苦痛を忍んで幕府の「陸軍奉行支配調役」
いふものに仕官した。


床から入り煙突を出るはめに  森田律子
 


 
徳川昭武
 

そんな矢先、慶喜の側近のひとり、原市之進から渡欧を打診された。
パリで開催される万国博覧会に幕府が出展し、慶喜の弟・徳川昭武が使
節団を率いていくことになった。万博閉会後も、見聞を広めるために長
く滞在するという。その会計担当として随行し、篤太夫自身も日本が学
ぶべき点を探ってこいと、慶喜からの命令だった。


秘書は有能水増しを匙加減  山口ろっぱ   


篤太夫の苦しい立場を見かねて、慶喜が新しい分野へと仕向けてくれた
のだ。確かに、使節団のような小さな集団の方が、篤太夫の能力は発揮
しやすい。そんな配慮に頭が下がった。
当初は平岡円四郎に誘われるまま、行きがかり上、一橋家の家臣になっ
ただけだったが、これほど目をかけてもらえるとは身に余る光栄だった。


花びらを数えて一日を終える  竹内ゆみこ


「渋沢栄一の処世談ゟ」
其のころはもう、幕府の前途も六ケ敷(むつかしい)と云ふ時で、今迄、
幕府の家臣であつたものは、誰も彼も、一種悲痛な気分に掩はれて居た。
恰も此の幕府の前途の困難なる時に当つて、私共の今迄仕へて居た慶喜
公が、一橋家を去つて将軍となられると云ふことになり、私共は非常に
心配したのである。何故なれば、斯うした場合であるから、政府側から
、「国賊のやうに」云はれ、幕府方からは、「亡国の君」と云はれる
ことは到底免れぬことである。寧ろ将軍職につかれるよりも、一橋家に
居られた方が何れ丈け無難であるか知れぬ。


直線ごときに翻弄されている  雨森茂樹


と、斯う思うた私共は、是非ともお諫めしたいと思ふことは屡〻(しば
しば)あつたが、既に一橋家を去られた後のことであつて、今迄のやう
に容易にお目に懸ることも出来ず、又私自身二君に仕へると言ふことは、
甚だ心よからぬことで、殆んど嘆息の余り、昔の浪人にでもならうかと
思ふに至つたのである。丁度其時、「民部大輔が仏蘭西にお出でになる
につき、私も共をして行け」と云ふ命が出たのである。


誘われて明日の台詞を口ごもる  皆本 雅


私は此際ほど困つたことはない。これまで、倒さう〳〵と心懸けて来た
幕府であるから、仮令(たとえ)是まで仕えて来た君――君というのは
少し穏かでないかも知らぬが――が将軍になられたからとて、オメ〳〵
幕府に仕へて幕吏となるわけにもゆかず、さればとて、今更、浪人して
見たところで仕方が無いのみならず、甚だ危険である。
…中略…その中、仏蘭西留学を仰付かる事になつたが、此時ほど、又私
の嬉しく感じたことは無い。これで、進退維に谷まる(しんたいこれに
きわまる)憂いも、先づ無くなつたと思ふと、実に嬉しかつたのである。
慶応3年の正月3日に京都を出発し、仏蘭西郵便船のアルヘー号で横浜
を出帆したのが、正月の11日である。


人恋しくてたそがれの髭を剃る   西山春日子



新選組副長・町田啓太


「大沢源次郎事件」
パリへ旅立つ前年の9月頃のこと。
「京都見廻組の者、300から400人が徒党を組み、謀叛を企んでい
るらしい」と京都町奉行所から陸軍奉行に御書院番士・大沢源次郎が、
「不定浪士と共謀して、兵器を集め、容易ならざることを企てている」
という連絡があった。やむなく幕府は朝廷に働きかけ、「将軍の喪中」
であることを理由に、長州藩と休戦協定を結んだ。喪中休戦は口実にし
て、幕府の失態を繕ったことは明白で、幕府の威信は、ここに地に墜ち
たものである。そんな矢先に、京都で不穏な噂が流れた。


さもしくて一気飲みするホテルバー  ふじのひろし


大沢の肩書きは、禁裏御警衛番士で陸軍奉行・溝口伊勢守の配下となる。
即ち、大沢の捕縛は、篤太夫の所属する陸軍奉行方務めのこととなった。
しかし、大沢は剣の腕もめっぽう立つという、ことで皆、尻込みをして、
だれもやりたがらない。そこで篤太夫が適任ではないかという、ことで
お鉢が回ってきた。「どうだ篤太夫、行ってはくれぬか。いや無論、貴
公一人でかせるわけではない。護衛に新選組をつける。なあに、造作も
ないことだ」と組長は、たまたま「陸軍奉行支配調役所属」の篤太夫に
押し付けてきた。


重力の悪さなんでしょ秋の鬱  銭谷まさひろ


ーーーーーーーーー


「大沢源次郎の捕縛」(栄一の処世談ゟ)
慶応2年、私が27歳の時であつたと思うが、麾下で禁裡番士を勤め京
都に駐在して居つた大沢源次郎といふ男が、薩州の者と手紙を往復した
とかで、当時、非常に薩摩を怖がつてた幕府から、不軌を企てるものと
見做され、その頃、大阪に政庁を置いてた幕府の陸軍奉行より、同人へ
御不審の廉(かど)あるに付、江戸へ護送して吟味致すべき旨、申渡し、
其場で同人を召捕ることになつたが、その時の陸軍奉行調役組頭は臆病
な男で、大沢が撃剣に達して居るといふ事を耳にし、自ら出かけるだけ
の勇気無く、私へ其の役を転嫁して来た。私が新撰組の者数人と共に、
大沢の寓居であつた紫野大徳寺の境内へ、陸軍奉行からの申渡状を持参
して赴く事になつたのは此の時である。
 
 
 どっしりとそれが一番むつかしい  後藤宏之
 
 
その際、近藤勇、「本来ならば自分で同道する筈だが、所用の為同道
し得られぬから、代理として土方歳三を遣はす」とのことで、同人は四
人ばかりの壮士を率いて、私の護衛に来たのである。同日午後、探偵を
放つて大沢源次郎の動静を窺はせると、まだ寓居へは帰つて居らぬとの
事で、一同は晩餐の為、小さな飲食店に立寄り弁当を食べてから、大沢
の帰宅を確めて、紫野大徳寺境内なる同人の寓居へ赴いたのだが、「私
が申渡しをしてから同人を縛るか、縛つてから私が申渡しをするか」
就て、私と新撰組の壮士との間に意見を異にし、遂に、私の意見に従ひ、
私が陸軍奉行よりの命を伝へてから後に、大沢の大小を取り上げ、同人
を新撰組壮士の手に引渡すやうにしたのである。


飲みながら言うけど奢りでっしゃろな  一階八斗醁



大政奉還図 (邨田丹陵)


「将軍継承そして大政奉還へ」
徳川昭武に随行して、パリ万国博覧会へ出発をして、まもなくの10月
14日に、慶喜は政権を朝廷に返上した。「大政奉還」である。
それにより、徳川幕府は260年続いた歴史の幕を閉じ、鎌倉幕府が開
かれ約700年続いた武士による政治は終わりを告げた。


純粋の純を捩ると鈍になる  新家完司


「篤太夫、述懐する」
慶喜公が一旦将軍に御成りになつてしまへば、幕府が倒れた時に如何とも、
天下の政治に志の叙べようが無くなつてしまう。そこで私は飽くまで、慶
喜公を一橋家に引き留めて置いて、将軍職には、御就かせ申すまいとした
のである。
しかし、これは後年に至り、御面会を致した際に、始めて承つて知つた事
であるが、慶喜公には、此時既に大勢の赴く所を御察知あらせられ、当時、
私共の想い及ばなかつた御深慮を御持ちになり、大政を奉還して御親政の
道を開きたいとの御志望から愈々、将軍職に御就きになることになつたの
である。


別宅に馬本宅に牛を置く  井上一筒

拍手[5回]

D O N Q のパンがあるハルカスの奈落 井上一筒



白波五人男
左~日本駄右衛門、赤星十三郎、南郷力丸、忠信利平、弁天小僧菊之助


「白波」とは、盗賊のこと。後漢の末期(184年)、黄巾賊の余党が
西河の白波谷に隠れて、財宝略奪を働いた集団を、「白波賊」と呼んだ
ことから歌舞伎作者・河竹黙阿弥が『青砥稿花紅彩画』の劇中で引用し
「白波」呼称した。
『白浪五人男』と呼ぶ方が「泥棒五人男」と呼ぶより様になっている。
「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとのしら浪」
沙弥満誓(さみのまんぜい)拾遺和歌集


天守閣見つめ続けている歴史  前岡由美子


火付盗賊改・徳山五兵衛 VS 大盗賊・日本左衛門
 
 
「悪党・日本左衛門」ー人間像
日本左衛門と申す者は、悪党大勢の棟梁と申しながら知恵深く、威勢
強く、力業、剣術早業の達者にて常に大小を指し…大勢の者をよく手な
け…武家の方も恐れず、昼夜はいかい仕候」…また、『窓のすさみ』
には、「率いる強盗の人数は、従う者五、六百」と統率力の凄さを記し
ている。         (『浜島竹枝記』)


トンネルの中で大きくなっていた  中前 棋人


「この人、盗みせし初念は、不義にして富める者の財物は、盗み取ると
も咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人、その家をはか
りて、盗み入りしとぞ」とあり日本左衛門は、箱を砕いて包みから、
<難儀な者に施し>とか<<盗みはすれど非道はせず>など盗みの哲学
手下に説いた」とされている。           
            (『甲子夜話ゟ』(肥前平戸藩主・松浦静山)


努力目標背を丸めずに歩くこと  吉田 陽子


寛保3年(1743)、駿府の夜の町で役人と斬り合いになり、手下に
命じて役人を縛り上げると、「役目がらとはいえ、命を捨てて闘うとは
健気である」
と、頭領らしく、悠然と姿を消したという逸話もある。
大掛かりで派手な義賊の姿は、伝えられるごとに脚色され「恰好良い大
泥棒」
になっていったようだ。が三右衛門の訴状では、娘の婚家に日本
左衛門一味40名が押し入り、金千両、衣類60点を盗まれた上、嫁や
下女たちまでが狼藉されたとあることから、実像は、かなり荒っぽい盗
賊だったようである。


痛むのは自分自身についた嘘  立蔵信子
 


忠信利平


「その手口」
日本左衛門一味の強奪の手口は、記録によるとかなり大掛かりなもので
「盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を配置
して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃走する」と記録に
ある。「いつも若党や草履取を連れ歩き、押込む時には5~60人余り
を使い、提灯30張を灯し、近所の家の門口には抜刀を持った子分が5、
6人ずつ見張りに立つ。押し入ると家族を縛り上げ、金の置き場所を案
内させて強奪する」
と記している。
                     (「『浜島竹枝記』)


辻斬りでなければかまいたちだろう  清水久美子


静山『甲子夜話ゟ』には、「この人、盗みせし初念は、不義にして富
める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟
して、その人、その家をはかりて、盗み入りしとぞ」
とあり、
「日本左衛門は、箱を砕いて包みから、<難儀な者に施し>とか<盗
みはすれど非道はせず>など盗みの哲学を手下に説いた」
とされ『浜島竹枝記』と少し違った見解を記している。


胸の火でリンゴの歌を焼きましょう  岡田幸男



赤星十三


「被害者訴える」
駿河豊田郡大池村の庄屋宗右衛門は、2度にわたって日本左衛門一味に
襲われ、千両箱をいくつも盗まれた。宗右衛門は、日本左衛門の悪事を
詳細に渡って調べあげ、延享3年(1746)8月、江戸の北町奉行所
に日本左衛門逮捕を直訴した。その後も、さらに、同年、掛川藩領の大
池村や駿河府中の民家に押し入り、二千両を奪っている。


キンメダイの目の回りまで食べてやる  宮井いずみ


一味の狼藉は天領、旗本領、藩領が入り組んだ治安の弱い地域を狙った。
地元の代官所では手に負えず、向笠村の豪農三右衛門が直訴して、幕府
が乗り出すことになった。それに伴い,
白波の五人男に弄ばれるばかりであった地元の掛川城主・小笠原長恭
責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相良藩の本多忠如も福島県の泉に
移された。


意気地なし甲斐性梨無しのろくでなし  両澤行兵衛


「さてこの悪党、五右衛門と対決するのが徳山五兵衛である」
五兵衛は、江戸時代中期から後期の旗本寄合席。諱は秀栄、通称は五兵

衛、または又兵衛という。元禄3年(1690)生まれ。「寛政重修諸
家譜」
では、母は某氏とされる一方、父・重俊の正室は、神尾守勝の養

女であり、庶出であったとされる。又兵衛と称していた時期に、徳川綱
の従兄弟にあたる藤枝方教の娘を正室に迎えるが、のちに離婚する。
元禄8年、兄の重朝の死去とともに、元禄13年、将軍徳川綱吉に初御
目見えを済ませ、正徳3年、24歳で父の家督を継ぎ小普請となる。
享保9年(1724)35歳の時に新設された「本所深川火事場見廻役」
の御役目に就いている。


段取りがよすぎて妙に落ち着かぬ  吉岡 民


「火事場見廻役」とは,寄合席から選ばれる若年寄配下の幕府の役職で、
江戸に火災の発生した際、風下にあたる武家屋敷、また寺社、町方へも
出役し、消火の指揮をとるとともに、焼け跡を見回り、出火原因、被害
状況を調査報告し、定火消しの火事場での勤務状況を監察するのが、主
な仕事で、五兵衛はその「火」にかかわる役職を務めたが、この時点で
はまだ、「盗」の役目は入っていない。
五兵衛は、54歳になったばかりの寛保4年(1744)1月、「御先
鉄砲頭」となり、2年後の延享3年(1746)7月には、盗賊追捕の
命を受けて、御先鉄砲頭の加役である「火付盗賊改」となった。


指名手配を飛び六法で追っかける  山本早苗


「火付盗賊改方」としての役目は、日本左衛門率いる盗賊団を追捕する
こと。三河・遠江一帯を傍若無人に荒しまわる盗賊で尾張家のはみ出し
者らしい…。五兵衛57歳にして、重たい役を任されることとなり、ま
だまだ安堵の時間は与えられなかった。早速、五兵衛は、同心22名を
卒いて、延享3年9月に江戸を発ち、地元の捕り方の応援を得て、金谷、
掛川、浜松に大捜査網が敷かれた。しかし、手下は捕まっても、頭目の
日本左衛門は一向に捕まらない。ために、全国に「人相書き」を高札に
張り付けることにした。


注射打つどうなるやろと言いながら  宮井元伸





「日本左衛門の姿について」
手配書の人相書きから伺うことができるが、目撃者の語るところでは、
洒落だったようだ。黒皮の兜頭巾に、薄金の面頬、黒羅紗、
金筋入りの半纏に、黒縮緬の小袖を着、黒繻子の小手、脛当てをつけ、
銀造りの太刀を佩き、手には神棒という六尺余りの棒を持ち、
腰に早縄をさげた立ち…だったという。


鼻筋の黒子は無添加の印  酒井かがり
 
 
 
日本左衛門手配書控(袋井市可睡齋蔵)


一方の日本左衛門は、支配者の異なる旗本知行地を転々とし、見附から
美濃、大阪へと逃走、舟で安芸の国へとしぶとく且つ巧妙に逃げ回った。
しかし行くところ行くところに、自分の似顔絵と手配書が貼られている。
これでは逃げ場もない、匿ってくれるところもない、日本左衛門は、
兵衛の天網の追及に、これでは捕まるのも時間の問題と悟り、延享4年、
明けて7日、みっともなく逃げ回るよりも、潔く京町奉行所へ自首する
決意をした。日本左衛門が自首した日、奉行・牧野信貞「今日は休日
だから、明日に出直してこい」といわれて、その通り翌日に自首をした
という嘘でしょうといいたい逸話がある。尤も、牧野信貞は、大坂町奉
行だから、日本左衛門が自首出頭したのは、京都だったのか、大坂だっ
たのか、このあたりにも嘘っぽく疑問が残る。


 吊り橋でたじろぎ野鼠にびびる   新家完司
 
 
そして同年3月11日、日本左衛門は江戸に送られ、市中引き回しの上、
獄門の刑に処せらて、首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は、
遠州鈴ヶ森刑場とも、江戸伝馬町刑場とも言われる。尚、日本左衛門を
徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことはないかと尋ねると、「日光を
見たことがない」というので処刑前に、日光参拝を許したという。
これは徳山五兵衛の人となりを後世に見せるための、これまた作り話だ
ろう。日本左衛門、享年29。
その後五兵衛は、火付盗賊改方を延享4年12月までの1年4か月、務め
た後「西の丸持筒頭」の役職をこなして宝暦7年7月18日に死去する。
享年68歳だった。
鬼の長谷川平蔵は、延享2年(1745)の生まれだから、この事件は、
13年前のこ
とで、平蔵は13歳であった。ついでながら、火盗改として、
五兵衛は89代、平蔵の父・長谷川宣雄 は139代、平蔵は165代
で、
二人の間に74人の頭領が移り変わっている。

 
 
盗まれる予感を秘めた鍵一つ  高野末次



 
二幕目第一場 浜松屋

 
「『弁天娘女男白浪』を盗む」
二幕目第一場・「白浪五人男」と呼ばれる盗賊の弁天小僧菊之助と南郷
力丸は、呉服屋「浜松屋」に武家の娘と若党を装い、騙り目的でやって
来る場面。
 鎌倉雪の下の浜松屋に、若党四十八(よそはち)を供に連れた美しい
武家娘が現れる。早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の買い物をす
る彼女は、品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐中した。
帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出した浜松屋の番頭は、万引
きと思い込み、怒って娘の額を算盤で打つ。しかし若党の話から、鹿子
は、他の店、山形屋の品であったことが分かる。


巻尺で測るソーシャルディスタンス  竹内ゆみこ


取り返しのつかない過失に、青褪める店の者たち。若旦那の宗之助
十八に詫びるが、四十八は店主・浜松屋幸兵衛を相手取る。お浪につけ
られた額の傷を言い立て、法外な金を要求する四十八に対し、浜松屋に
呼ばれた鳶頭も憤慨して啖呵を切る。しかし幸兵衛は、事を穏便に済ま
せるため、四十八の言うとおり、百両を出して詫びるのであった。


少しずつ黄ばむ障子もわたくしも  門脇かずお


金を受け取り帰りかかるお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当
(たましまいっとう)という侍が呼び止めた。逸当は二人を、騙りと見
抜き、さらに、ちらりと見えた腕の刺青を証拠に、お浪を男と見破る。
図星をさされた二人は、急に伝法なその正体を現すのだった。
(伝法=粗暴で無法な振る舞い)


木漏れ日にうっかり暴かれた忍者  一階八斗醵




弁天小僧菊之助


「知らざあ言って聞かせやしょうー」
知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!


だまってい‼ アロンアロファつけたろか‼  くんじろう
 


南郷力丸


「さてどん尻の控えしは」
   さてどん尻の控えしは、汐風荒き小動の、
磯馴の松の曲りなり 、人となった浜育ち、任儀の道も白河の、
夜船へ乗り込む船盗人 、浪にきらめく稲妻の、白刃で脅す人殺し、
背負って立たれぬ罪科は、其の身に重き虎が石、
悪事千里と云うからは、何うで仕舞 は木の空と、
覚悟はかねて鴫立尺、しかし哀れは身にしらぬ、
念仏嫌えな南郷力丸!


梅雨前線通過中です揉めてます  美馬りゅうこ


女装の盗賊は、江ノ島の稚児上がりの弁天小僧菊之助四十八と偽って
いたのは、その兄貴分である南郷力丸であった。「名を明かした二人」
が、ここから突き出せと居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は、弁天
が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き
伏せ、二人はようやく腰を上げる。


すっぴんがハニートラップだったとは  森田律子
 


日本駄衛門


浜松屋を出た二人は、今日の稼ぎを山分けして悦に入る。道々、騙りの

道具として使った重い武家の衣裳を持つのを厭い、二人は坊主が来たら
交互に持ちっこする「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。
いっぽう、浜松屋では逸当を奥座敷へ案内し、もてなしの支度にかかる
のだった。しかしこの玉島逸当こそ、実は弁天南郷の頭である大盗賊
日本駄右衛門だった。彼らを捕えようとしている捕手たちは、迷子を
捜すさまに見せかけ、稲瀬川で秘かに待ち伏せをしていた。


独房にごろん夜中を刻む音  岡田陽一



日本左衛門首洗い井戸跡石碑


「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」がある。日本左衛門は本名を浜島庄兵
といい、元文永享年間(1736-47)に横行した大盗賊で、延享
4年(1747)に処刑されている。その捜査に当たったのが、当時、
「火付盗賊改の役」にあった徳山五兵衛秀栄である。
稲荷社は、一説にこの秀栄が祭ったものともいわれている。また、境内
には、日本左衛門の供養碑や首洗い井戸があったと伝えられているが、
後に河竹黙阿弥や歌舞伎狂言『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』の中に、
日本左衛門を模した日本駄右衛門を登場させたこともあずかって、後世
に造立された。          (「墨田区史」)


樹齢かな馬齢かな指のささくれ  中野六助

拍手[3回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開