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川柳的逍遥 人の世の一家言
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蔦もみじ秋一切を深くする  前中知栄




      「真柴久吉武智主従之首実検之図」(月岡芳年画)
戦いに勝った側は、負けた側の大将の首を使って「首実検」を行う。
首実検とは、文字通り、その首が本人のものかどうか吟味すること。



蓮咲いて俄に浄土近くなる  合田瑠美子



「麒麟がくる」 光秀激動の15年②



「元亀年間の補足」
元亀元年(1570)4月。光秀43歳。信長は越前後略を目前に妹の
お市の方を嫁がせ、同盟関係を結んでいた浅井長政の裏切りの報を受け
取った。この後、3年におよぶ近江諸勢力との戦い。元亀争乱の始まり
である。
6月に浅井・朝倉連合軍を破った信長は、9月には、「打倒信長」の兵
を挙げた大坂本願寺を攻撃するため、大坂に出陣する。その間隙を突い
て浅井・朝倉連合軍は、京を目指し湖西路を南下し、坂本で宇佐山城を
守る信長の家臣・森可成(森蘭丸の父)と戦ってこれを敗死させた。
対して信長も、大坂から取って返し、京を離れて比叡の山々に立て籠も
った浅井・朝倉勢と対峙する。「志賀の陣」である。山上・山下で両軍
が睨み合う膠着状態は、その後3ヶ月に及び、同年12月、信長は義昭
の斡旋により、浅井・朝倉と講和を結んだ。



寄り添っていよう残り火尽きるまで  平井美智子



元亀2年(1571)9月12日、光秀44歳。信長「延暦寺焼打ち」
を敢行する。志賀の陣で浅井・朝倉に味方したことに対する報復である。
 ところで光秀は、延暦寺焼打ちに、どの程度関わってたのだろうか。
延暦寺焼打ち後、光秀が志賀郡を拝領し、比叡山山麓である坂本に城を
築いている。ということは、延暦寺焼打ちの戦功によるものと考えられ、
積極的に光秀が、延暦寺焼打ちに参加したことは間違いないだろう。



月光に白クマの胃を縫い合わす  井上一筒



元亀3年(1572)光秀45歳。『兼見卿記』に元亀三年閏正月六日
条に「明十坂本において普請なり見廻りのため下向しおもわぬ」とあり、
光秀は志賀郡を与えられてほどなく、築城を開始している。



燃やしてみるか才能の残りカス  森田律子



元亀4年(1573)光秀46歳。また『兼見卿記』に元亀四年六月二
十八日の条には「明智十兵衛見廻りのため坂本に下向せしめ、果李の文
台、東門三十、持参しおわんぬ、天守の下に小座敷を立て、移徒(わた
まし)の折節、下向祝着の由機嫌がなり」とあり、この年天守に移った
ことがわかる。(「移徙」=貴人の転居)



謁見の間でサロンパス貼り替える  くんじろう




      坂本城跡発掘調査区全景
焼土層からは礎石跡、石組み井戸跡と思われる遺構が出土している。



「坂本城」
光秀の死後に、城は徹底的に破却されたため、地上に「坂本城」の痕跡
は一切残っていない。現在では、琵琶湖が渇水した際に姿を見せる石垣
の底部だけが、ここに城が存在したことを示している。
「幻の城」となった坂本城だが、実際は、総石垣の大規模な城郭であり、
天守が存在したことが分っている。
つまり信長の安土城に4年も早く、光秀は天守建造を始めたことになる。
(坂本城は天正10年6月、本能寺の変の後、光秀が「山崎の合戦」で
秀吉に敗れると、城に籠っていた光秀の妻子一族とともに焼失している)



帰り道省みるもの捨てるもの  新保芳明



天正元年(1573)、光秀46歳。元亀4年7月3日、義昭は反信長
の兵を挙げて宇治の槇島城に立て籠ったものの、織田の大軍に包囲され
てなす術もなく、同月18日、嫡子を人質として差し出して信長に降伏。
これを受けて信長は、義昭を河内に追放し、「元亀から天正へ」の改元
を実現した。
信長は将軍義昭の追放ののち、信玄が死去すると、間髪を入れずに朝倉
義景と裏切り者の浅井久政・長政攻めの挙に出た。講和中ではあったが、
越前は、織田領である美濃と京都間に突き出された槍、という位置から、
義景を服属させる必要があったため、いずれは刃を交える敵に、先制攻
撃を仕掛けたのであった。



猜疑心メガネ曇っていませんか  上田 仁



 
   朝倉義景         浅井長政
 
 

「越前から小谷城陥落中継」
信長軍は3万の兵をもって小谷城を攻撃。刀根坂で朝倉軍を破り、越前
に侵攻、一乗谷を焼き払い、義景は大野に落ち延びようとするところを、
朝倉景鏡の裏切りにあい、自刃に追い込まれる。
一方、小谷城を包囲した秀吉軍は、清水谷から小谷城京極丸を陥落させ、
本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させ、長政を窮地に
追い込んでいた。信長の妹・お市は、兄・信長に夫の助命を嘆願すると、
信長は「袂を分かったとはいえ、義弟である長政への最後の情け」とし
て、大和一国を与える事を条件に降伏・再従順するよう勧告した。
しかし長政は降伏を拒絶し、その後、2日に渡り徹底抗戦を続けた。が
意地も尽き、赤尾屋敷で重臣・赤尾清綱、弟・政元らと共に、自害して
果て、浅井は三代で滅びた。



線の通り歩くと三途の川がある  田中博造



 信長の語録に次のようなものがある。
『愚かな間違いを犯したら、たとえ生きて帰ってきてもワシの目の前に
姿を見せるな』
これを具現するように、戦後処理において、信長の浅井氏への仕置きは
苛烈を窮めた。浅井久政・長政親子の首は京で獄門にされ、長政嫡男の
万福丸は、敦賀に潜伏していたところを捕らえられた後、関ヶ原で磔に
され、親族の浅井亮親、浅井井規、家臣の大野木秀俊も処刑された。
信長の浅井や朝倉への怨み、怒りは収まらず、翌年の正月には、信長の
残忍性の一面を象徴する、饗宴が催された。



その時間なら罵っておりました  竹内ゆみこ




 
金箔の長政義景久政髑髏盃


 
天正2年(1574)正月、 光秀47歳。岐阜の信長のもとへ挨拶に
きた他国の諸将らをもてなすため、酒宴が開かれた。そして彼らが退出
後、信長は、今度は馬廻り衆と酒宴を行なったが、このときの肴は浅井
久政、浅井長政、朝倉義景の3人の首(頭蓋骨)に金箔と漆を塗ったも
のだった。(『信長公記』)
光秀はこの時、大和・河内へ参陣中だったため、宴には参加していない。



悪党の一人もいないまずい酒  松田俊彦




       武智道秀ー明智光秀と家臣の笑い首

 
            
天正2年1月1日の『信長公記』にはこうある。
『朝倉義景、浅井久政、浅井長政、三人が首、御肴の事。正月朔日、
京都隣国の面々等、在岐阜にて御出仕あり、各々三献召し出だしの御酒
あり、他国衆退出の巳後、御馬廻りばかりにて、古今に参り、及ばざる
珍奇の出で候て、又、御酒あり。去年北国にて討ち取らせられ候。
一、朝倉左京太夫義景首。
一、浅井下野首。浅井備前首。
巳上三ツ、薄濃(箔濃=はくだみ)にして公卿に据え置き、御肴に出だ
され候て、御酒宴。各御謡・御遊興、千々万々。目出たく、御存分に任
せられ、御悦びなり』と。
(薄濃とは、頭蓋骨に漆を塗り、金粉をまぶすこと)



夕凪の裏に罵詈雑言の立つ  酒井かがり 



「反撃の二百挺ー通説では千挺、又は三千挺」
天正3年(1575)5月、光秀48歳。信長は、豊富な資金と流通経
路の確保で、千挺もの鉄砲を準備した。その威力は、早速、天正3年の
「長篠の戦い」で発揮された。長篠の戦いは、同年5月、織田・徳川連
合軍3万8千が1万5千の武田勝頼の軍勢と戦った合戦で、
「織田方が三千挺もの鉄砲隊を組織して、三段撃ちで矢継ぎ早に銃火を
浴びせ、武田騎馬軍団をせん滅した」という戦である。
(『信長公記』には、三千挺とあるが、有力な説として実際は、千挺で
あり、千挺という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって、馬の冷静
さを失わせ、武田騎馬隊の大混乱を誘ったのでは、というのである)



笑うしかない犬にくらった猫パンチ  田口和代
 



          黒井城空撮



「丹波攻め敗北と自身の病いと愛妻・煕子の死」
天正4年(1576)1月、光秀49歳。時期は少し戻るが、天正3年
6月、信長は光秀に、「明智十兵衛尉」から「惟任日向守」を名乗らせ、
丹波攻略を命じた。11月ころには、光秀は、丹波国衆の大半を従えて、
黒井城の荻野直正を攻撃した。この時、光秀の勢いからほぼ落城は免れ
ないと認識されていた。
ところが、翌4年正月、突然織田方についていた八上城の波多野秀治
敵方に寝返ったため。光秀は京都まで退却し、丹波攻めは一旦、頓挫す
ることになった。丹波攻めが中断されても、光秀に休みはなかった。
5月には、大坂の本願寺と戦ったが、ここで光秀は、病に倒れてしまう。
さらに11月に、妻の煕子(ひろこ)が亡くなるなど、光秀にとっては、
生涯最も辛い日々が続いた。



あなたより先に電車が来てしまう  河村啓子



天正5年(1577)10月、光秀50歳。それでも休む間もなく光秀
に、戦いの日々が続く。光秀は丹波攻めを再開し、波多野方の籾井氏が
籠る籾井城を攻撃した。だが光秀自身は、松永久秀や大坂の本願寺など
織田方の勢力と戦い、また羽柴秀吉の援軍として播磨へと派遣される
など、多忙を極め、妻の死を悲しんでいる暇は、与えられなかった。



底に着いたら挑戦状を突きつける 立蔵信子  

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有情無情流し心に句読点  須磨活恵



 


「麒麟がくる」



 本来、足利義昭の側近であるはずの光秀が、どうして信長にも仕える
ようになったのか。時期は厳密には、不明である。事実『信長公記』
永禄11年9月の義昭・信長の上洛の箇所に光秀の名は記されていない。
だが、光秀は、細川藤孝に「我等、彼の室家に縁ありて、頻りに招かれ」
と語ったとされる細川家の史料から、両者の血縁性濃関係も浮び上がっ
ており、信長が光秀の才能を買ったのではないかとされている。そして
永禄12年頃から光秀は、その才能を発揮し始める。
(「彼の室家」の彼は信長、室は濃姫。濃姫の母・小見の方は、光秀の
叔母とされる)



尻尾からぞろぞろ喋りだしそうだ 谷口 義






「目まぐるしい明智光秀激動の15年」 -①


【光秀、いよいよ歴史の表舞台に登場」
永禄11年(1568)光秀41歳。足利義昭の側近となった光秀は、
周辺の些細な出来事まで信長に報じている。
こうした光秀の尽力が功を奏したのか、義昭は、7月に信長の元に迎え
られ、9月には、上洛に向け信長は、義昭を奉じて軍事行動を開始する。
いわゆる、この時期の光秀は、義昭の側近筆頭として、周囲から認知さ
れた証しである。


能のある蟻だときどき跳ねている  福尾圭司



 
信長上洛の図


【信長、上洛】
室町幕府の再興を唱え、足利義昭を迎えて上洛。15代将軍の座につい
た義昭は、恩賞として、副将軍の地位を与えようとするが、信長は拒否。
次第に将軍義昭をないがしろにし、権勢を振るい始める。京に上った
は諸国の武士に、天皇や将軍に挨拶をするために、京に馳せ参じるこ
とを命令するが、越前国を支配する朝倉義景は、信長の命令を無視する。
【信長、エピソード】
  あるとき、丹波の長谷川城主・内藤備前守の与力である赤沢加賀守
信長に面会し「熊鷹2羽のうちのいずれか1羽を献上する」と申し出た。
すると信長は「お心はありがたいが、いずれ(自分が)天下を取るであ
ろうから、それまでそのほうに預けておく。大事に飼ってくれ」と言っ
たという。赤沢加賀守は帰って、皆にこのことを伝えたところ「国を隔
てた遠国からの望みで実現しまい」と大笑いしたという。しかし、それ
から信長が足利義昭を奉じて上洛するのに10年もかからなかった。
                        (『信長公記』)


欲が出て神のしっぽを踏んじゃった 岡田 淳

【光秀の働き】
永禄12年1月4日の「本圀寺の戦」を皮切りに、翌元亀元年(157
0)4月の「越前征伐」、6月の「姉川の戦」、9月からの「志賀の陣」
に従事する。このうち越前征伐では、金ヶ崎城に残留し、秀吉とともに
浅井・朝倉方の追撃を撃退した。
実は「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」と呼ばれるこの戦いでは、秀吉の
活躍が強調されることが多いが、これは秀吉の軍功を過剰に強調するべ
『太閤記』などの著者が、光秀の働きを削ったからである。実際には、
光秀も浅井・朝倉方の撃退に軍功を挙げている。さらに、若狭の諸城を
無力化させるといった、手際の良い手腕をみせた。


受けて立つ覚悟が出来た武士の顔  槙坂政子


【信長に非凡の才能を認められた光秀】
永禄12年(1569)春、光秀42歳。信長は、明智光秀、木下秀吉、
丹羽長秀、中川重政、の4人に京都や周辺の政務を担当させた。光秀ら
4人による活動で特筆すべきは、同年4月に禁裏御料(朝廷の直轄領)
山国荘の違乱停止を命じている点である。信長は以上の4人と別の5人
(佐久間信盛、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚)とを、交代で
政務を担当させていたことが判明している。いずれにしても、本来は
の側近であり、信長の家臣として、まだ数年の新参者・光秀が信長の
重臣である長秀らと肩を並べて、重要な職務を任されているのだ。
(違乱停止=法に違反し秩序を乱すこと)
『人を用ふる者は、能否を採択すべし、何ぞ新故を論ぜん』
                        (『信長名言』)

法の番人忖度仕事にしています  向井 清


【信長、越前に侵攻】
永禄13年(1570)4月20日、光秀43歳。信長は、3万の軍勢
を率い越前に侵攻。先陣を木下秀吉、信長盟友の徳川家康がつとめる。
不意を打たれた朝倉勢は壊滅状態となるが、浅井長政が朝倉方について
信長に叛旗を翻したため、信長の大軍は補給路を断たれて孤立する。
「その時、信長の行動」
4月28日、信長は軍勢を残し、戦場から姿を消す。2日後、京の都に
姿を現し、かねてより命じていた御所の修理のようすを視察。その後、
本拠地岐阜へ舞い戻り、長政討伐の大号令を発して、軍勢を招集する。
「その時、織田軍の行動」
取り残された織田軍に朝倉軍は、逆襲を開始、織田軍の殿(しんがり)
となった木下秀吉、徳川家康、明智光秀の3武将が一致団結、朝倉軍の
追撃をかわして、撤退の道を切り開く。


死に神よなんでおまえがそこに立つ  藤村亜成




        五 カ 条 の 条 書


「五カ条の条書」
義昭が将軍になって、2年後の永禄13年4月(元亀に改元)正月23
日の日付で、信長は義昭に1通の条書を出した。
、「御下知の儀、皆以て御棄破あり」
(これまで義昭が出した命令はすべて破棄すること)
、「天下の儀、何様にも信長に被任置」
(天下のことは、すべて信長にまかせること)
 要するに、義昭の行動を監督下に置こうとしたものである。
諸国へ御内書を以て、仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞かせら
れ、書状を添え申すべきこと。
(諸国への御内書を送る場合は、信長の添状を副えること)
公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞、御褒美を加えられたく候と
雖も、領中等之なきに於いては、信長分領の内を以ても、上意次第に申
し付くべきのこと。
(忠節の者に恩賞を出すにも所領のない場合は、信長が提供する)
天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるのこと。
(禁中のことは、丁重にしなければならない)


舞台反転捺印を押すたびに  赤松ますみ


信長義昭の政治行動を制限する「五カ条の条書」を突き付けたとき、
光秀は、朝山日乗とともに証人として名を連ねている。
「天下の儀」を信長に任せることを義昭に誓わせた文書に、光秀が署名
したということは、とりもなおさず、光秀が信長の天下取りを支持する
立場を、明確にしたことを意味する。
さらに、翌2年末頃と推定される自筆消息で、光秀は義昭に「御暇を賜
りたい」旨を申し出ている。この直前、光秀は、信長から近江坂本城主
に任じられており、織田家中でも別格の扱いを受け始めていた。ここに
至って光秀は、将来性の乏しい義昭と訣別し、信長の将来にかけること
を決意したと思われる。


満開へ約束はせぬ落椿  松山和代



 
       姉 川 の 戦 い


元亀元年(1570)6月1日、光秀43歳。浅井・朝倉軍との攻防に参陣。
「金ヶ崎の戦い」信長浅井長政の裏切りにあい撤退。その時、羽柴
秀吉とともに殿を務める。
6月3日 、 丹羽長秀とともに若狭へ参陣。武藤友益の城館を破壊。
9月には、志賀の陣に兵力400人の兵をを率いて参戦。
森可成の戦死後、宇佐山城を任される。近江国志賀郡周辺の土豪の懐柔
を担当。


騒乱に泳ぐワラにすがりながら  山口ろっぱ


【信玄、足利義昭の要請を受ける】
義昭武田・浅井・朝倉など他の有力大名に呼びかけ、反信長包囲網を
形成し、覇権を目指し始めた信長を牽制。義昭の要請を受けた信玄は、
京の都に上り、当時、畿内を制していた信長を打ち砕くべく行動を起す。
【姉川で合戦】
北近江の姉川で織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉景健の同
盟軍が衝突。浅井・朝倉軍の大敗に終わるが、戦いに呼応して各地に信
長に敵対する大名が決起。本願寺の顕如も、全国の信者に向けて信長
戦うよう檄文を送る。


大甕の底に信玄の股引き  井上一筒


【信長、小谷城に迫る】
元亀元年 (1570)6月19日、信長は近江に攻め込み、長政の居
城・小谷城に迫る。
6月21日。信長は小谷城の寸前で軍勢を止め、陣を敷く。浅井軍を城
から引きずり出すため、信長は、小谷城の城下町に火を放たせた。町に
火をかけられても長政が動かないとみるや、信長は小谷城の向かい側に
ある浅井家の城、横山城を取り囲む。
【長政軍,大依山へ移動】
6月25日夕刻。長政は軍勢を大依山へと移し、信長の本陣まで姉川を
挟んでわずかな距離となる。26日、援軍の朝倉軍が到着。
【姉川両岸を挟み対峙】
6月28日早朝、姉川両岸を挟み、南には織田・徳川連合軍、総力3万
8千。北には、浅井・朝倉同盟軍、1万8千が布陣。
【徳川軍、朝倉軍に突撃】
一方、6月28日午前6時ごろ、徳川軍5千の軍勢が川を渡り、8千の
朝倉軍に突撃。浅井軍は織田軍に向けて突進し、織田軍は、徐々に後退。
総崩れ直前まで追い詰められたところを、横山城の側にいた織田軍前衛
部隊3千の兵が駆け付け、浅井軍の側面に攻撃して逆転。浅井・朝倉軍
は敗走する。


砂嵐と根気比べをする駱駝  高島啓子



        比叡山焼き討ち


【石山合戦はじまる】
元亀元年(1570)9月12日夜半。光秀43歳。大坂本願寺で早鐘
が打たれ、蜂起した門徒たちは、天満森の信長の陣所へ向けて鉄砲を打
ち込む。本願寺と信長との10年におよぶ「石山合戦」がはじまる。
【大坂本願寺を中心とした寺内町】
一向宗の本山・大坂本願寺には、寺を中心とした巨大な町(寺内町)が
つくられていた。免税などの経済的特権があるため、信者だけでなく商
人も集まり、防御のために塀も設けられ、独立した都市国家の様相を呈
した。


勢いは鍾乳石になっている  岩根彰子


【信長、比叡山延暦寺を焼く】
元亀2年(1571)9月、光秀44歳。信長は、比叡山延暦寺の焼討
を敢行。浅井・朝倉軍との戦いの際、中立を守るように申し入れたにも
関わらず無視したことに信長は憤慨。僧侶だけでなく、寺に逃げ込んだ
男女3千~4千人が死去。
「その時 顕如の動き」
顕如は反信長勢の結集に向かう。武田信玄に書状を送り味方に引き込む
ことに成功。元亀3年には、本願寺、浅井、朝倉、武田などの反信長同
盟が成立。信玄軍は上洛に向けて動き始め、三方ヶ原の合戦で、信長
同盟する家康軍を蹴散らして圧勝する。
「坂本城在住」
『信長公記』によると、延暦寺を攻め落としたその日のうちに、信長
比叡山のお膝元である近江志賀郡を光秀に与えた。この新領地に築かれ
たのが「坂本城」である。


手を打つと怪しい雲がやってくる  森 茂俊


【光秀の苦悶】
元亀3年(1572)4月、光秀45歳。
河内出兵の際の軍事編制では、信長方の佐久間信盛・柴田勝家らと別に
光秀の名が「公方衆」としてあげられている。信長と義昭の2人の主君
を持つところに、他の織田家臣とは、異なる光秀の特殊な立場があった。


流れる雲と反省会をしています  西澤知子





   足利幕府最後の将軍


【義昭のあがき】
元亀4年2月、光秀46歳。、義昭は陰に陽に、信長に敵対するように
なり、義昭が挙兵すると光秀は、公方衆の拠る近江石山城・今堅田城を
攻撃して、反義昭の姿勢を明確にした。そして同年7月、義昭は「槙島
城の戦い」
に敗れ「室町幕府は滅亡」。光秀はようやく、両属関係に終
止符を打った。一方、義昭は復讐心に燃え、全国の大名「信長打倒」
呼びかけた。義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名
が連携して信長包囲網を形成。3年に亘り各地で激しい合戦が相次いだ。
4月、信玄が突如死去、信長は上京し、義昭を京都から追放。室町幕府
を滅ぼした信長は、7月に元号を「天正」と改める。
「恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる」
(『信長の名言』)


夕焼けにアホがひとりで泣いている  くんじろう


【義昭の無能ぶりを揶揄した逸話】
「ある日何者かの手によって、義昭の邸の前に貝が9枚並べられていた。
しかも、9枚の貝はいずれも割られていた」
9枚の貝は、公界という言葉に通じさせる判じ物である。
公界とは、公の仕事を意味する。その貝が悉く割られていたということ
は、つまりは「義昭には、公の仕事は何もできない」ということを、都
の人々が痛烈に当てこすったのであった。
信長の強力な軍事力と政治力は、新しい秩序をもたらす有力者にふさわ
しいと映ったに違いない。(光秀、天正時代の10年へ続く)


今を押し込んで亀甲透かし編み  森田律子

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活きのいい入道雲はいらんかえ  吉川幸子


 

   浪人の姿(江戸時代初期から左半分・中期)

 


「江戸時代のちょっとした知識」 口入屋



「口入屋」

江戸幕府は口入屋を「人宿」と呼んでおり、これが正式な呼称だったが、
俗称としては「口入、入口、愛人宿、肝煎、桂庵、慶安、慶庵」など、
さまざまな呼び名がある。今でいえば、人材派遣業である。
因みに、口入屋を「慶安」と称するのは、江戸木挽町(こびきちょう)
に住んでいた医師の大和慶安という人が、医業のかたわら、多数の縁談
を取り持ったことから、人の媒酌や周旋をするのを慶安と称するように
なった、のだといわれる。



献立を巡らす日々を愛おしむ  森地豊子



 
口 入 屋


江戸に於いて、13組からなる人宿組合が幕府に認可されたのは、宝永
7年(1710)のこと。口入屋は、武家から求人の注文を受けるのが一般的
で。武士には、その家格に応じて、徒(かち)や足軽、中間といった武
家奉公人を常駐させておく義務があった。しかし、物価高や俸禄の減少
などにより、多くの武家が奉公人を代々抱え、彼らに給金を払い続ける
のは経済的に困難になった。そこで必要に応じて「口入屋」に依頼し、
安い奉公人を短期契約で雇い入れるようになった。



月曜始まりのカレンダーゲット  下谷憲子



口入屋は、相手の注文に応じて必要な人数を揃えて、奉公人として武家
屋敷へ送ったが、そのさい、請負先と奉公人双方から周旋料をもらった。
藤沢周平用心棒日月抄の主人公・青江又八郎の場合はいつも、任務を
終えてから雇い主より金を貰っているが、実際には、多くの場合、奉公
人は、雇用先から前払いで給金を受け取った。その賃金は、口入屋を通
じて手渡された。だが、こうした前払いシステムを取った場合、奉公人
が金だけを受け取って奉公先から姿をけしてしまうケースが多々あった。


小さめに刻むそういう思いやり  高橋レニ
 



浪人の姿(江戸時代中期から・左半分・後期へ)
 
 

奉公人の多くは、農村からあぶれて都市に来た人たちで、極貧の上素行
のよくない者が多く、契約期間が済まないうちに逃亡してしまうケース
は後を絶たなかった。もし、そうした事態が発生したときは、口入屋が
すべての責任を負った。人の斡旋する際に、口入屋は、先方に人物の保
証書(請状)を差し出し、奉公先でのトラブルの解決や処理にあたる義
務を有した。



目を逸らす間の出来ごとの後始末  宮内泉都



因みに、口入屋とひとくちにいっても、その店の規模や門構えは、まち
まちだった。家持・家主といった家屋敷を有する者もいれば、地借、店
借もいた。小説・日月抄の相模屋吉蔵は、古びたしもた屋を借りて細々
と商売する設定になっているが、実在した平松屋源兵衛という口入屋は、
60以上の武家屋敷に出入りしていた。平松屋のように規模の大きい口
入屋は、小規模な口入屋を幾人も配下に起き、多数の奉公人を集めてい
たようだ。おそらく又八郎が世話になる吉蔵も、大店の口入屋の下請け
をしながら、一方で独自の家業も展開していた部類だろう。
注)口入屋が浪人を用心棒として、派遣したという記録はない。
(因みに、用心棒日月抄は享保年間(1716-1736)の話)



自分史を刻む記憶のあるうちに  若林くに彦









「ということで小説「用心棒日月抄」のさわりを読む」
(主人公・青江又八郎は色んな派遣先を経験していく…これは杉良太郎
と竜雷太で映画にもなった、藤沢周平小説である)


「用心棒日月抄」の主人公青江又八郎は、脱藩して江戸に住む浪人者で
ある。それゆえ主家からの俸禄は途絶え、用心棒稼業をしながら、なん
とかその日の糊口をしのいでいる。そんな又八郎にいつも用心棒の世話
をしてやるのが、相模屋吉蔵であった。吉蔵は、なにも慈善事業や親切
心又八郎に仕事を紹介しているのではない。江戸時代には、人に仕事を
斡旋する「口入屋」という商売が存在し、吉蔵もそれを生業としていた。



錆びついた非常階段に置く明日  木口雅裕



吉蔵は帳面をとりあげて、ぺらぺらとめくり指でさしながら詠みあげる。
「番町の斉藤さま。これはお旗本の斉藤さまですが、お屋敷の普請手伝
いというのがありますな。これは細谷さまのような具合になりますかな」
「・・・・」
「神田永富町の本田さま。ここは道場稽古のお手伝いですな。一刀流に
覚えのあるかた…」
「親父。その口をおれがもらおう」
不意に細谷源太夫(竜雷太)という浪人者が言った。もう立ち上がって
いる。又八郎も唖然としたが、吉蔵も渋い顔をした。
「しかし…」
「しかしもへちまもあるか」
細谷は乱暴な口をきいた。
「前には土方人足の口を回した。今度はきちんとした仕事をよこすべき
だ。ともかく行ってみる。雇われると決まったらまた来る。永富町の本
田ともうしたな」
細谷はそう言うと、勢いよく戸を開けたてして出ていった。
「攫われたな」
と又八郎は言った。道場の手伝いならうってつけの仕事だと、思ったの
だが、髭男がよこどりして行った。さすがに江戸は油断できない土地だ
と思った。



刻のない街が濡れてる通り雨  嶋沢喜八郎



「青江さまは、こちら相当おやりで」
吉蔵は丸く太った指をかざして、撃剣の真似をして見せた。
「自信はある。これは帳面につけておいてもらおう」
「それは惜しゅうございましたな」
と吉蔵は言った。
「本田さまのところは、頼まれますがお手当がなかなかいいのですよ。
しかしさっきの細谷さまは、お子が五人もおられましてな」
「・・・・」
それにご新造さまと六人の口を養うわけですから、大変でございますな。
それであのように大わらわで働いておられるわけで」
「さようか」
又八郎は、風を巻いて出て行った細谷の、雲つくほどの巨体を思い返し
ていた。
「それでは止むを得んな」
「しかし、どうなさいますか」
吉蔵の声が、又八郎の一瞬の感傷を吹きとばすように、無慈悲に響いた。
「あとは犬の番しか残っていませんが」



優しさも怒りも伝染するらしい  西尾芙紗子



② 愛犬まるの護衛
回向院裏の本所一つ目にある雪駄問屋・田倉屋徳兵衛の妾おとよの家で
犬のまるに毒餌が投げ込まれた。「生類憐みの令」により、飼い犬に万
が一のことがあっては大変と、又八郎は犬の護衛を頼まれる。
(報酬 不明)


犬のことを考えているうちに又八郎は、釣りこまれたようにうとうとと
眠くなった。いい陽気で、暑くも寒くもない。そういう季節に、するこ
ともなければ、犬も人も眠くなるのである。犬を笑えぬな、と又八郎が
思ったとき、その犬が物凄い声を出した。一挙動で刀を掴み、はねおき
ると又八郎は部屋を走り出た。みると潜り戸に近い地面に、犬がへたり
こんでいる。犬の首に荒縄が巻きつけてあり、潜り戸が少し開いている
のを、又八郎は一瞬のうちに見た。道には物憂いような日暮れの光が漂
っているばかりで、人影は見えなかった。おそらく犯人は、女達が湯屋
に出かけるのを見とどけ、留守だと思って入り込んだが、人が飛び出し
てくる気配に驚いて逃げ去ったものらいかった。犬の番が、はじめて役
にたったわけである。



懸命に生きる一回きりの旅  山谷町子



「だいじょうぶか」
珍しく心細げなからだを摺り寄せてくる犬に、又八郎は、声をかけて首
を撫でた。すると犬は思い出したように、二、三度咳をした。見たとこ
ろ傷もなく、それほど弱ったところも見えないが、忍び込んだ者は、犬
を絞め殺そうとした形跡があった。荒縄は、端がしまるように輪につく
ってあり、又八郎が見たとき、それは三重に犬の首に巻きついていたの
である。
-すばやい奴だー。
又八郎は犬を玄関脇に連れてくると、自分もそばにある石に腰をおろし
て腕を組んだ。外をのぞいたときには、もう姿が見えなかった犯人のこ
とを考えたのである。犬を見ると、犬も又八郎を見ていた。横着げな犬
だが、さすがに居眠りどころではないらしい。又八郎を見て、喉の奥に
微かに甘えるような声を立てた。



今日の物干しは幸せに乾いてる  市井美春



③ 「小唄稽古通いの油屋娘おようの送り迎え」
娘が消えた。神田駿河町の油屋清水屋の娘・おようが小唄の稽古に行き
帰りに怪しい人影が…。護衛を引き受けた又八郎の目の前に、折悪しく
国許からの刺客が現われ、おようは何者かに連れ去られてしまった。
(報酬 三日で一両)


悪夢のような死闘が続いた。彼らは低く声をかけあい、欄干に飛び上が
って、そこから飛び下りざまに斬りかけてきたり、逃げるとみせてすぐ
に反転して、鋭く匕首を突きかけてきたりする。目まぐるしく飛び交う
彼らの動きに幻惑されて、又八郎の刀は何度か空を斬った。若い男がま
た欄干に飛び上がった。目の端でその動きをとらえると、又八郎は向き
合っている痩せた男を捨てて欄干に駆け寄った。若い男は、鳥のように
欄干の上を走った。又八郎も走る。そして足を薙ぎ払った。男の身体が
少し傾いて橋の飛び下りた場所に、又八郎は、一瞬早く殺到すると頭上
から斬りさげた。すさまじい悲鳴をあげると、男の身体は一回転して、
橋板に倒れた。又八郎の刀から逃げようと身体を傾けた、その首すじを
切先が切り裂いたのだった。



お早くどうぞと葬儀屋のアドバルーン  上田 仁



又八郎が向き直ったのと、もう一人の男が、身をぶちあてるように飛び
こんでくるのが、ほとんど同時だった。刀を構える暇もなく又八郎は、
左の二の腕を刺されていた。そのまま男の腕を抱えこみ、男に背を向け
た姿勢のまま満身の力をこめて逆手に絞りあげる。ぽきっと腕が折れる
音がした。だが男は声をあげなかった。刀を持ち直して、又八郎は男の
脇腹を後ろ手に刺し、抉った。男は膝を折り、又八郎が腕を離して刀を
引き抜くとゆっくり倒れた。最後まで苦痛の声をあげなかった。又八郎
は蛇を殺したような気がした。
 
 
 
 身のほどを知って翼が開かない  村山和子
 
 
 
ー今日は満身創痍だ。
思いながら又八郎は思わず橋の上に膝をついた。そのときになって、眼が
くらむほどの疲労が全身を包んでいるのを知った。身体が石のように重く、
それでいてどこかに頼りなく浮揚して行くような感覚があった。
「大丈夫ですか、青江さま」
駆け寄ってきた喜八がそう言い、又八郎の脇の下に身体を入れて立たせ
た。するとおようももう一方の脇の下にもぐりこみ、又八郎の腕を肩に
かけた。そうしながら、おようはまだ泣きじゃくっている。十七の小娘
の顔になっていた。
ーそういえば、飯を喰っていなかった。
それにしては働きが過ぎた。用心棒としては、やや不甲斐ない姿勢で、
二人に助けられて歩きながら、又八郎はそう思った。



黙り込む眉間のあたりから悟る  山本昌乃



④ 「夜鷹の夜道の送り」
神田川河岸柳原で、又八郎は呼び止められる。女は同じ裏店に住むおさ
だった。変な男に見張られているという。又八郎は夜道の送りを引き
受けるが、迎えが遅れた夜、おさきは殺されてしまう。
(報酬 毎日の晩飯)


「ちょいと旦那」
豊島町の角を、俗に柳原と呼ぶ神田川の河岸に出たとき、不意に呼ばれ
た。見ると女が一人立っていた。黑っぽい着物に白帯、頭を白手ぬぐい
で包んだ女だった。又八郎は一瞬ギョッとしたが、すぐに女の正体に思
い当たった。
ーははあ、これが夜鷹と申す女か。
白塗りの化粧に顔を隠し、手拭いをかぶり、手に茣蓙を抱えて辻に立ち、
袖を引く女たちのことは聞いていた。そういう女たちが、夜の町にひっ
そりと立つようになったのは去年あたりからだという。噂には聞いてい
たが、見るのは初めてだった。又八郎は苦笑して、ほっそりした身体つ
きの眺めながら言った。
「遊んでやりたいが、生憎金の持ち合わせがない。勘弁してもらおう」
「待ってください、旦那」
女はすばやく又八郎に擦り寄ってくると、腕にすがって囁いた。
「助けてくださいな。変な奴に追われているんです」
 
 
 
おぼろ夜にひょっこりと紫の女  徳山泰子



⑤ 「老中小笠原佐渡守の夜歩きの護衛」
怪我した細谷原太夫の後釜として、老中・小笠原佐渡守の屋敷に雇われ
又八郎の役目は、老中の夜歩きに付き添うこと、同道して訪れた屋敷
で話を盗み聞いた又八郎は、それが浅野浪人の援護者たちによる会合と
知る。(報酬 一日二分、飯付きで十日間、計五両)



⑥ 「呉服問屋備前屋の内儀おちせの護衛」
神谷町の大養寺へ出かけて会ったのは浅野浪人吉田忠左衛門。
備前屋は資金援助をしていたのだ。町で同郷の土屋清之進に会った又八
郎は、藩主壱岐守が死んだこと、又八郎の元婚約者の由亀が又八郎の
帰りを待っていること
を知る。(報酬 一日二分)



ひとりにはひとりのドラマ枯葉舞う  佐藤正昭



⑦ 「代稽古」
道場主は、つい先ごろ迄城勤めをしていたらしい30代半ばの長江長左
衛門。道場には素性の一定しない客の出入りが多い。ある日細谷が、客
の中に浅野家に仕官した神崎与五郎を見かけたという。実は長江道場は
浅野浪人の素窟、長江は堀部安兵衛その人であった。ある夜、又八郎と
細谷は飲み屋で小唄の師匠おりんと知り合う。おりんは浅野浪人の動き
を探っていた。(報酬 三日で一分二食付き 約ひと月で二両二分)
 
 

⑧ 「内蔵助の身辺護衛」
川崎宿の北、平間村に垣見五郎兵衛と名乗って、滞在する大石内蔵助。
平間村にある山本長左衛門の隠宅に集まった男たちの中に、聞き覚えの
ある声が…浅野浪人、吉田忠左衛門だ。又八郎は垣見が大石内蔵助だと
知る。ある夜、賊が侵入してきた。一人はおりんだ。又八郎は怪我をし
たおりんを逃がしてやる。大石が日本橋石町の小田屋に移り、仕事を
える。(
二日で一両十日間計五両)



思い切って白いカラスになりました  靏田寿子





     酒を飲みかわし蕎麦屋で談笑する又八郎と細谷



 ⑨ 「吉良邸の用心棒」
師走、吉良邸の用心棒を引き受けることになった又八郎。ある日、土屋
が知らせを持ってきた。一つは由亀の手紙と間宮中老からの帰藩の命令。
もう一つは、十四日の晩に吉良邸が襲撃されるという伝言。又八郎は、
喧嘩を口実に細谷とともに吉良邸を脱出。十四日の夜、又八郎と細谷は
吉良邸の門の外に佇み、浅野浪人による討入の様子を見守っていた。
(報酬 一日一分)


邸の中に異常なことが起こっていることは確かだった。それは吉良家と
境を接している旗本の土屋家の塀内に、高張提灯が三つ、赤々と立てら
れていることでわかった。
「喧嘩かの」
土屋家と吉良家の境目の塀ぎわに集まっている人々の中で、首に襟巻を
巻いた年寄の武家がそう言った。火事ではありませんか、と中年の町人
風の男が言った。集まっているのは十人ばかりの人だった。又八郎
も、その中にいた。二人は昨夜誘い合わせて東両国で落ち合い、深夜
までそば屋で時を過ごしたあと、このあたりをうろついていたのである。
中で何が行われているかを、正確に知っているのは、又八郎たちだけだ
った。二人はおよそ一刻前、闇の中をしのびやかに来た浅野浪人の群が、
一気に吉良邸に押し入ったのを見ている。



鬼さんこちら騙しつづけて内蔵助  岩城富美代



「長いの」
細谷が言ったとき、不意に邸内の物音がぴたりと止んだ。そして次に大
勢の男たちが泣くと思われる、異様な声がわっと上がった。又八郎と細
谷は顔を見合わせた。
「仕とげたらしい」
と又八郎がささやいた。邸内にふたたび微かなざわめきが戻った。その
中で誰かがりんりんと声を張って、何かの口上のようなものを述べ、そ
の声が終ると、土屋家の高張提灯がするするとおろされるのが見えた。
まったく突然に、吉良家の裏門が内側から開き、そこから切れ目なく人
が出て来た。おびただしい数に見えた。黒い人影は、一様に火事装束を
身につけているようだった。門前に出て来た人数は、およそ五、六十人
はいると思われたが、きわめて静かに、黒々と隊列を組み終ると、やが
て又八郎たちに背をむけて、ゆっくり歩き出した。元禄十五年十二月十
五日の夜があけようとしていた。そのかすかな光の中に、隊列から突き
出ている槍の穂が鈍く光って遠ざかっていった。



望み叶って針穴を通る糸  藤本鈴菜



「あの中に神崎も茅野もいるかの」
細谷が言った。細谷は潰れたような声を出した。又八郎が見ると、細
谷は頬に涙をしたらせていた。細谷は鼻みずをすすった。又八郎も胸が
熱くなった。―堀部も、岡野もいるだろう。そしてやはり一党を指揮し
たのは、あの大石なのだろう。堀部にしろ、大石にしろ、ただの男たち
だったと思い返すと、命をかけて、復讐ということを仕とげた男たちの
健気さが胸に迫ってくるようだった。中に知人がいる細谷が感動するの
は当然だと思った。



嘘のつける相手がいなくなっていく  高野末次



➉ 「最後の用心棒」
細谷吉蔵に見送られ、又八郎は国元へ向かう。途中、佐久間山宿の北の
街道で女刺客の襲撃を受ける。佐知との出会いである。大富家老の甥、
とも剣を交える。家に戻った又八郎は、由亀と祖母に再会。間宮中老
会い、馬廻り組百石に復帰した又八郎は、藩主暗殺の陰謀が露見した大富
家老の処分に立ち会う。細谷からの手紙で浅野浪人たちが切腹をしたこと
を知った又八郎は、武家勤めの辛さを噛みしめつつ、用心棒暮らしの気楽
さを懐かしむのだった。



迂回路閉鎖 人生ってこんなもの  雨森茂樹

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庭にいる石灯籠はお爺さん  新家完司


「北斎娘・応為(お栄)」 美人画







上「新聞記事」
江戸時代の天才浮世絵師・葛飾北斎の三女・お栄が画いたと思われる美
人絵の「下絵」がこのほど、小布施町伊勢町の旧家で見つかった。
下絵は、北斎の日課獅子図などと共に、貼りまぜの屏風に貼られている。
卓越した技量で、北斎の代作者との説もあるお栄が、小布施と関わった
ことを示す資料として注目される。
お栄作とされる根拠として、お栄の手紙2通が同じ旧家にあり、そのう
ち1通には「一緒に美人画の下絵を送る」と綴られている。北斎・お栄
に詳しい久保田一洋さんは「下絵は、衣や髪型、かんざしの描き方まで
お栄の特徴が出ている。また指先を細く、足の爪を細かく描く繊細さ、
ほつれ髪を出す部分はお栄と思われる」と話す。



お互いの隙間に入れる接続詞  みつ木もも花




 
 
 
 
お栄は、北斎から「美人画はお栄にかなわない」と評され助手を務めた
という。屏風には、北斎が描いたと思われる日課獅子図もある。北斎は
日課獅子を83歳から描き始めたとされるが、久保田さんは「この獅子
図は、北斎が江戸から信州に向かった86歳の作品と考えられ、小布施
で描いたのでは」と推測する。
またもう一つの屏風には、お栄作と思われる「百合図」もある。
久保田さんは「これらの資料は、お栄の人物像や業績、小布施での交友
関係などを探るきっかけになる」と期待する。



新聞の奥から氷河割れる音  下谷憲子





         朝 顔 美 人 図



「朝顔美人図」
肉筆で朝顔をめづる美女の図がある。「北斎娘辰女」と落款が入ってい
る。団扇を片手に半ば物恥じらう顔を傾げた風情。えもいわれぬ云われ
ぬ艶美な匂いが漂うている。衣紋も北斎ほど癖が露骨でなく、なかなか
技巧がしっかりした点がみられ、傍らの皿鉢に盛られた数輪の朝顔は、
この美女に話しかけているかのように、よく融合っている。
吹き出しには、長高亭雲道「垣根より取りゑしままの朝顔に露もたる
かと思ふたをやめ」と書き、負けず嫌いの北斎も「美人画だけはお栄に
かなわない」と折り紙をつけているほど、お栄の「美人画」はうまい。



床の間に置くと黙ってしまう壺  桑原伸吉 





     夜桜美人図
 
                                                           

「夜桜美人図」「眩」(くらら)ものがたり
お栄は木枠にピンと張った絹布の前で大きく息を吸い、吐いた。滲み止
めの礬水(どうさ)はもうひいてある。左膝の脇に置いた下絵を目の前
に掲げ、もう一度見直した。善次郎(渓斎英泉)が訪れてから五日とい
うもの、納期が急く仕事をこなしてから、一日に五枚、六枚と違う設定
の下絵を描き続けてきた。井戸の釣瓶に朝顔を這わせてみようかと思っ
たが、桜と季節が合わない。井戸をやめて軒先にしてもみたが、すると
善次郎から教えられた句がたちまち蘇る。
「井のはたの 桜あぶなし 酒の酔い」いったん知ってしまうと、その
響きはどんどん大きくなる。お栄はさんざん迷い、惑った。三十枚ほど
描き上げて、今日は朝からそれを並べてみた。違うと思うものを外して
いく。すると残ったのは、やはり夜桜の景だったのだ。



トナリから攻め寄るたとえばの話  山口ろっぱ 
 
 
  
何日も費やして回り道をして、結局、元の案が手許に残った。この娘が
歌人の秋色を想起させようがさせまいが、今はどうでもいいような気が
している。観る人が、思い思いに捉えてくれたら、それでいい。むしろ
夜の座敷の床の間にこの夜桜の絵があることで、その場の興趣を誘いた
い。百組の酔客のうち、たった一組でいい。娘が短冊に何を記そうとし
ているのか、思いを馳せてくれる人らもいてくれるのではないか。そん
な夢想を始めると、躰の中から沸々と湧くものがある。



にじいろの影の持ち主いませんか  中野六助



彩色を初めて三日目の夕暮れに、十八屋の小僧が訪ねてきた。信州に滞
在中の父・北斎からの手紙と味噌や粕漬けと共に、折り畳んだ半紙が、
油紙に包まれていた。父のことに思いを馳せつつ、お栄は善次郎が届け
たという包みを解いた。やはり厚みのある紙が入っていて、けれど何も
記されていない。と、上の紙がずれて奇麗な朱色が見えた。絵だ。中央
に描いてあるのは、髷簪の形からして上級の遊女で、鳳凰の羽を描いた
朱色の襠(うちかけ)を纏っている。画面の右上には、桜が何本もの枝
を伸ばし、遊女の足許には大きな塗り提灯が置いてあるので、この絵も
夜桜のつもりであるらしい。



僭越な箸でゲテモノをまさぐる  美馬りゅうこ





       手許に注目



「俺ならこう描くって腕自慢だ、これは。ほんと、負けず嫌いだねぇ」
呆れて文句をつけた。お栄は絵を手にしたまま立ち上がり、己の下絵の
前で腰を下ろした。二枚の絵を並べてみる。ああやっぱりそうだ。お栄
の描いた娘は筆を持ち、燈籠の灯を頼りに今、何かを書こうとしている
図だ。そして善次郎の描いた遊女は、提灯の灯を求めて身を屈め、文を
読んでいる図である。「お栄、お前ぇが描いたものを、こうして受けと
める者がいるってことさ」善次郎の絵は、そんなふうに告げているよう
な気がした。



他人からもらう時間はあかね色  清水すみれ 



 



とんだ独りよがりかもしれないけれど、こんな返し方をしてきてくれた、
そのことが嬉しかった。「嬉しいってことは、いいもんだな、善さん」
そう呼びかけながら、善次郎の絵を文机の上に置いて、お栄は胡粉を溶
いた皿を指をもう一度混ぜた。極細の面相筆の穂先をほんの少し浸して
皿の縁でしごいてから、夜空に星を描き入れる。一つ、二つと小さな瞬
きを増やしていく。この白の上に、青や赤を挿していこうと思いついた。
光にはいろんな色がある。身を起こして立ち上がり、数歩退がって絵の
全体を見返した。「うん、やっぱりあたしの方が巧いわ。断然」また独
り言がでた。
 
 
「女子栄女 画ヲ善ス、父ニ随テ今専画師ヲナス 名手ナリ」

渓斎英泉が天保四年『无名翁随筆』に記している。



振り向くとみんな大きな愛でした  牧渕富喜子





         女重宝記・習い事


        
「女重宝記」
「お栄は美人画に長じ、筆意或は、父に優れる所あり、かの高井蘭山
の『女重宝記』の画のごとき、よく当時の風俗を写して、妙なりといふ
べし。弘化4年出版の「女重宝記」応為栄女筆と記され、15、6図の
挿絵を描いている」(葛飾北斎伝)



   (拡大してご覧ください)
       女重宝記・習い事



 女重宝記とは、江戸中期に婦女子の啓蒙教化、実用日益を主として刊
行された。この書物は、世の推移につれ、流行を追い、補足訂正されて
いったものでー、『絵入日用女重宝記』には、一之巻に、女風俗の評判、
言葉遣い、化粧、衣服のこと、二之巻には、祝言に関すること、三之巻
懐妊中の心得、四之巻には、女の学ぶべき諸芸(手習い、和歌、箏、
かるた、聞香(ぶんこう)等)、五之巻には、女節用字尽くし、女用器財、
衣服、絹布、染色の諸名、などが載せられている。



清流で洗うこころのかすり傷    三井良子 

拍手[5回]

アンタッチャブルそこは私のコンセント  笠嶋恵美子







「北斎と馬琴」 別れの真相



葛飾北斎が「北斎」の画号を使い始めたきっかけ。
北斎は寛政9年39歳のとき、曲亭馬琴から「北斗七星は、星の中で最
も光の強い大物の星であり、かつまた、天上での最高が北斗だ」
と教え
られた。中国山東省の泰安市にある地上で、最も高い山を「泰山」と呼
ぶということも教示され、現世の権威者を「泰斗」ということなどから
「北斎辰政」という号が生れた。北斎が生涯、30数回改号したなかで、
「北斎」「辰政」「辰斎」「雷斗」「雷震」などは、そこから由来して
いる。飯島虚心の『北斎伝』には、次のような書かれている。
「…北斎辰政と号す。妙見は北斗星、即ち、北辰星なり、その祠、今、
本所柳島にあり。又、かつて、柳島妙見に賽せし途中、大雷のおつるに
遇いて、堤下の田圃に陥りたり、その頃より名を著したたりとて雷斗と
名づけ、また、雷震という」
と。


立つ時に雀大きな羽音させ  萬二






そんなことがあって北斎は、7つ年下ながら物知りの馬琴を尊敬し先生
と呼ぶようになった。その後も正反対の性格だが『椿説弓張月』『水
滸伝』
など挿絵と著作でふたりの良好な関係は続いた。そもそも北斎が
信仰する「妙見信仰」とは、北の空で輝く北極星と、その周りを一日で
一周する北斗七星を神格化させ、仏教、道教とを習合させた妙見菩薩を
祀った信仰である。海上の安全・五穀豊穣・商売繁盛・安産・良縁など
の御利益があるといわれ、庶民層に幅広く支持されていた。
(北極星は一年中動かず、同じ位置に座している。航海人は、北極星と
その周りを回転する北斗七星の柄杓の部分の動きで、現在位置を確認し
たという)


頬寄せる為に覚えた星座の名  伊藤良一




 
        風流東都方角 柳島法性寺妙見堂図


北斎がまだ春朗を名乗っていた頃「柳島法性寺妙見堂図」という版下絵
を残している。上記の絵にあるように、俯瞰構図で描かれ、左方に北辰
妙見菩薩を祀った妙見堂があり、右方の北極星が臨降したという影向松
(ようごのまつ)が描かれている。妙見堂のかたわらの縁台に、芸者と
歌舞伎役者が、北の空を見上げている図柄である。妙見は神秘を表し、
正しい見解、中立的立場を意味するという。(また妙齢な外見の意味に
も解せられるから、役者や花柳界から絶大な信仰を集めていたという)


じっと見つめる首筋の曲がり角  青木公輔






「さて、北斎との馬琴との交わりである)
北斎が馬琴と初めてコンビを組んだのは、黄表紙『花春虱道行』(はな
のはるしらみのみちゆき)読本『小節比翼文』からであり『椿説弓張月』
以降、『敵討裏見葛葉』(かたきうちうらみのくずは)『そののゆき』
『三七全伝南柯無』(さんしちぜんでんなんかのゆめ)『皿皿郷談』
ど十数種類に及ぶ『椿説弓張月』は28冊にも及ぶ大河小説で、波乱
万丈、破天荒なストーリーの面白さに加えて、ドラマチックな画面構成、
残酷・怪奇の挿絵に読者は酔いしれ、大人気になった。
しかし、2人が人気者になるに従い、個性の強い2人の間に激しい芸術
論争がはじまる。2人は共に、双方の才能・芸術性を強く認めていたが、
ついに大喧嘩となり、文化元年より続いた11年のコンビは解消される。


植木鋏で切り離すまでは雲  井上一筒


2人の中が険悪になった原因をあげてみると、
馬琴があまりにも小うるさく注文や要求を出すので、北斎はいたずら
心で、馬琴の下絵に、右方に置かれた人物を、絵の具合によって、勝手
に左に画いた。これに馬琴は、手を焼き、この後、北斎に画かせる場合
には、人物を右に画かせようとする時には、下絵の時点で、左に画いて
置いた。すると馬琴思い通りの絵となったとか。
ある日『三七全伝南柯夢』では、馬琴が書いた話に関係なく、北斎が
勝手に狐の絵を描くので「これじゃあ狐にだまされてるみたいだ」と馬
琴が言い喧嘩になった。
ある時、馬琴が「草履を口にくわえた絵を描いてくれ」というと北斎
「そんな汚ねえ絵がかけるか、だったらてめえでくわえてみやがれ」
と北斎が言い、喧嘩になった。というぐあいである。

わたくしの三分の二が拒まれる  徳山泰子

北斎の弟子の露木氏の話によれば、
「北斎馬琴の家に食客たりしころは、恰も門弟のごとく、共に他に出づ
る時は、北斎は、麻裏草履をはき、後へにつきて歩きたりと。かれこれ
考えれば、かの挿画などのことにつき、激しき議論もなしたらんが、こ
の故に、交わり絶つほどのことはあるまじとおもはる。また北斎が馬琴
と深く
交わりしは、文化5年のころよりなるべし」しかし、馬琴が
滸伝に書肆また北斎子とよし。予も一面の交わりあれば、やがて彼人に
就いて、巻のところどころに、其像を出だし、もて水滸伝の模様に擬す
云々〉」というように
馬琴は、ことのいきがかりで北斎と喧嘩をしたが、
また共に仕事をしたいと考えていたようである。

だからって炎を消しちゃいけません  清水すみれ



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  椿説弓張月より

かつて北斎の春朗時代における挿絵は、黄表紙、洒落本、噺本、談義本
ほかがあったが、一例を除き、そのいずれも墨一色の黒刷本であった。
当然、そこで求められるのは、墨と薄墨のみの不利な条件下で、いかに
作者の意図を汲み、読者を惹きつけられるかが、挿絵の評価となる。
北斎の読本挿絵の絶大な評価は、筋立て以上に雄大、怪異、残虐、情緒
的など、各場面を臨場感豊かに表出しているのである。だから馬琴とし
ては、北斎と喧嘩わかれなどしたくはなかった、のだが、双方のプライ
ドが邪魔をして、どちらから折れることもせず、むやみに数年が経った。
それでも馬琴は、仕事仲間で喧嘩友達の北斎を求めた。

ちぎれ雲追って追われてオニヤンマ  森田律子

それが証拠に、馬琴が北斎のお見舞いに現れた。
またまた北斎の弟子・露木氏の話から。
「かつて北斎が母の年回に、馬琴その困窮を察し、香典許干(わずかば
かり)の金を紙に包んで与えたり。其の夕、北斎帰り来りて談笑の間、
袂より紙を出だし、鼻をかみて投げ出だたるを、馬琴見て大いに憤りて
曰く〈これは今朝与えし、香典包みの紙にあらずや、此の中にありし金
円は、かならず仏事に供せずして、他に消費せしならん。不幸の奴め〉
と罵りかれば、北斎笑うて〈君の言のごとく、賜るところの金は、我れ
口中にせり、かの精進物を仏前に供し、僧侶を雇い、読経せしむるが如
きは、これ世俗の虚礼なり、しかず父母の遺体、即ち、我が一身を養は
んには、一身を養い、百歳の寿を有つは、是れ父母に孝なるにあらずや〉
という。馬琴、黙然たりし」
。またここで二人は諍ってしまった。

静止画のままでひと日が暮れて行く  中野六助

「これ親密なる朋友間の一時の戯言にして、交情の厚さは却って、この
一条にて知らるゝなり。何ぞ瑣々たる挿画より、交わりを絶つの裡あら
んや。馬琴或は絶交せんを欲するも、北斎は自ら進みて交わりを絶つ如
き人にあらざるなり。これかつて馬琴の恩恵を蒙ること、すくなからざ
ればなり。また按ずるに、北斎は、かならず馬琴と絶交するの意なかる
べし。されど、馬琴の人となり、謹厳にして、胸中寛活ならざる所ある
をもって察すれば、馬琴或は実に怒りて、絶交せしものか」
ああどちらに非があるのか、折角の仲直りの機会も無にして、以来40
数年、2人は二度として合おうとはなかった。


二の足を踏んで出口を見失う  上田 仁



嘉永元年(1848)馬琴は82歳で死去する。娘のお栄は北斎に「葬式に
行かなくていいのかい?」というと、本当は、行ってやりたい気持ちが
ありありながら、北斎は黙々と『富嶽36景』の富士山を描くことに執
念するのだった。
その日本一高い頂上を中腹から仰ぎ見たとき、それよりもなお高い空の
彼方に広がる天上界に思いを馳せるのは、ごく自然であり夜ともなれば、
満天にさざめく星のうち、北の空でひときわ輝きを放つ北極星や北斗七
星を追い求め、祈りを捧げる気持ちになるのは、想像に難くはない。
北斎は、星空について語っている遠い日の、馬琴を偲びながら、迷いは
一気に突き抜けた。北極星や北斗七星に思いを託そう。それをこれから
も生きる指針にしよう。北斎の心は「人の世の出来事」よりも天上界に
向いていったのである。
この翌年に仕上った絵が、薄藍色に霞む富士の頂きより、なお高く黒煙
をあげ、天空めがけ、龍の姿を描いた「富士越龍図」であった。

来た道が見えるところで一休み  新家完司

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