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川柳的逍遥 人の世の一家言
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帆をあげよ鼻腔に南風のいい薫り  くんじろう



「渋沢栄一」 『論語と算盤』漫画と名言


「論語」は、孔子が残した言葉を弟子たちがまとめたものである。
それは儒学となり、そこから朱子学も派生して、徳川幕府の支配思想と
なった。徳川幕府が倒れ、明治になると、朱子学は廃れ、何もかもが西
欧風に変わっていった。渋沢は明治政府に仕えながらも、こうした時代
風潮に違和感を覚えていたのだろう。論語を道しるべに生きた渋沢イズ
ムを『論語と算盤』に書かれた名言を、通して渋沢栄一に触れてみる。


引導を渡す間合いの最初はグー  中 博司


     














 





 

















 







 















 







 「民、信なくば立たず」


「子貢 政を問ふ」 子貢が孔子に政治の要諦を問うた。
子曰く「足食、足兵、民信之矣」
孔子は、まず第一に食生活の充実をはかってやること。次に軍備をとと
のえること、そして、民の信頼を得ること、と答えた。
子貢が問うた 「必不得已而去、於斯二者何先」
子貢は、ではその三つのうち、止む得ずして一つを除くとしたら、
どれを除きますか、と尋ねた。
孔子は言下に「軍備を捨てよ」と答えた。
子貢は続けて「その二つとも保持し得ない事態が到来した場合、どちら
を捨てますか」と聞いた。
孔子曰く「食を去らん。古よりみな死あり、民信なくんば立たず」
つまり、食を過大視してはならぬ。道が信じられず、道がすたれるよう
ではおしまいだ、というのである。


カンガルーの最短距離のジャブ  井上一筒









 


渋沢 「私が考え実践してきた合本主義は、単に私利お追及資本主義と
は異なり…私利と公益の合一を考えるものです」
「仁義礼智信」
「孔子を始祖とする儒学の五つの項目は、ここに『信』がありますが…
もう一つ『義』がありますね」
孔子が言ってます「行動に際して義を優先させるのは、小人である」
「私も、事業に関して利を優先せず、義お優先してきました。
『義』とは世のため人のためになること…公益だと言い換えられます。
社会・国・世界…公(益)私(利)お合一させること、つまり合本主義
です」
「国家社会の助けがあって初めて自分でも利益があげられ、安全に生き
ていくことができる。私が常に希望しているのは<物事を進展させたい>
<モノの豊かさを実現したい>という希望をまず人は、心に抱き続ける
一方で…その欲望を実践に移していくために『道理』お持って欲しいと
いうことなのです」
「その『道理』とは、社会の基本的な道徳を、バランスよく推し進めて
いくことにほかなりません」
「道理と欲望とがピッタリくっついていないと国や社会は衰えていくで
しょう」
「一方、欲望がいかに洗練されようと、道理に背いてしまえば、いつま
でも<人から欲しいものを奪い取らないと、満足できなくなる>という
不幸を招いてしまう」


ニッポンと叫ぶ時だけ日本人  一階八斗醁


 

 


「孔門十哲の一人・子貢(しこう)が孔子を語る」
孔子「言語は子貢」と称するように、子貢は雄弁な人物であった。
子貢の雄弁さは、孔子に限らず多くの人が褒めそやしており、人から
「孔子よりも君の方が優れているよ」と言われることも多々あったが、
子貢は奢ることなく、孔子の方が素晴らしいことを弁舌爽やかに一人
一人に諭した。という。


あんた何時から味醂になりはった  山口ろっぱ


「告げ口好きな魯の子服景伯(しふくけいはく)へ説得する場合」
「屋敷の塀にたとえれば、私の家の塀は肩くらいの高さですから、
家の中が小奇麗であることが窺うかがえるでしょう。
しかし、先生の家の塀は、優に背丈以上の高さがありますから、
門を叩いて中に入らなければ、その宗廟の美しさや役人たちの元気な様
子を見ることができません。その上、敷地が広大すぎて、その門を見つ
けることができる人が少ないようですから、子服景伯殿が「私を先生よ
り優れている」
と言われたのも仕方のないことです」
(ともかく孔子とその弟子の言行録である「論語」の中に子貢は、最も
多く登場してくる人物である)


曇天を切り取り血豆をひとつ  酒井かがり


「斉の26代君主・景公と子貢との孔子についてのやりとり」
景公「あなたは誰を師となさっているのか」
子貢「仲尼(孔子)が私の師です」
景公「仲尼は賢いですか」
子貢「賢いです」
景公「どのように賢いのですか」
子貢「存じません」
この子貢の答えに景公は、訝しんだ。
景公「貴方は仲尼は賢いと言いながら、その賢さが、どのようなもので
あるのかは知らないという。それでよろしいのですか」

それに対して、子貢は、
「人は誰でも、皆天が高いことを知っておりますが、では、天の高さは
どのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたし
は仲尼(孔子)の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなもの
であるのかは知らないのです」

と、子貢は孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。


忖度の胃もたれに効くパンシロン  中野六助


「渋沢栄一・名言」


名言 ①
「金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。
しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。
金儲けにも品位を忘れぬようにしたい」


エレベーターの十八階で肩がこる  森 茂俊


名言②
「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論である
が、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済
の上から自滅を招くようになる。ゆえに、士魂にして商才がなければな
らぬ。その士魂を養うには、書物という上からはたくさんあるけれども、
やはり「論語」は、最も士魂養成の根底となると思う。


音のない日暮れに愛は育たない  森田律子


それならば商才はどうかというに、商才も、論語において充分養えると
いうのである。道徳上の書物と商才とは何の関係が無いようであるけれ
ども、その商才というものも、もともと「道徳」をもって根底としたも
のであって、道徳と離れた不道徳、詐瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆ
る小才子(こざいし)小悧口(こりこう)であって、決して真の商才で
はない。ゆえに商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書た
る論語によって養える訳である」


無駄縒りは1本もない蜘蛛の糸  新家完司


大正3~7年(1914-1918)の間、第一次世界大戦が繰り広げられた。
それをきっかけに空前の好況を迎え、「大戦景気」と呼ばれるバブルが
始まった。世界的に船舶が不足したことから「船成金」と呼ばれる大金
持ちが続出し、財閥も力を強めていった。工業生産額は農業生産額を追
い越し、求人率が増え、仕事をもとめて人が都市へと集まる結果を生む。
急速に近代化がすすむと、若者の間にも「立身出世、金儲け」が注目さ
れる時代となった。
しかし、大正7年、終戦にともなって「戦後恐慌」が起き、さらには、
大正12年に「関東大震災」が発生し長期間の不景気に陥ることとなる。
そうした時代の中の大正5年、渋沢栄一『論語と算盤』を出版した。


過去帳が湿る少しの悔いがある  西澤知子


名言③
「算盤は論語によってできている。論語はまた算盤によって本当の富が
活動されるものである。ゆえに「論語と算盤」は、甚だ遠くして、甚だ
近いものである」
「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。 正しい道理の富でなければ、
その富は完全に永続することはできぬ。 ここにおいて論語と算盤という
懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考え
ている」と説き、論語(道徳)と算盤(経済)との一致を試みるのだ。


じいちゃんの一喝満月が上がる  和田洋子


名言④
「そのため仁義道徳によって利用厚生の道を進めていくという方針を取り、
「義理合一」の信念を確立するように勉めなくてはならぬ」と説く。この
義理合一こそ孔子の、すなわち論語と、算盤を一致させる精神なのだ」


煙突を抜けると美しい敬語  山本早苗


名言⑤
「道徳を論じている書物と商才とは、何の関係もないようだが、商才と
いうものは、もともと道徳を基盤としているもの。道徳から外れたり、
嘘やうわべだけの軽薄な才覚は、いわゆる小才子や小利口ではあっても、
決して本当の商才ではない。したがって、商才は道徳と一体であること
が望ましい」
すなわち渋沢は「事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、
多数社会を益していくのでなければならぬ」と言い「多く社会を益する
ことでなくては、正経な事業とは言わない」と断言する。


度の合わぬメガネと遊ぶおぼろ月  田村ひろ子


名言⑥
「道理は天における日月の如く、終始昭々乎(しょうしょうこ)として
毫も昧(くら)まさざるものであるから、道理に伴って事をなす者は必
ず栄え、道理に悖(もと)って事を計る者は、必ず亡ぶることと思う。
一時の成敗は長い人生、価値の多い生涯における泡沫の如きものである」


引き際を探しあぐねている蚯蚓  河村啓子 


名言⑦
「いやしくも正しい道をあくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを
避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうと
すれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようにな
ってしまう」


明日を語る資格などありません 雨森茂樹    


「子貢が孔子に言った。それに対して孔子は何と言った」
子貢曰「他人からされては嫌だと思うことを、自分も他人にはしない。
私は、こういう人間になりたいと思います」

孔子曰「それは、とても難しいことだ。お前にできるか?」
普通の人なら「いいことだ。おおいに頑張れよ」
と言うところだが、孔子はそうは言わなかった。
孔子は子貢が日ごろ、口先が達者で、実行が伴わないことが多かったので、
嗜めたのである。


鑑みる右脳辺りの二毛作  蟹口和枝
 

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テロップのニュースへリンゴ剥きながら  山本昌乃


             
               読売は読んで売るから読み売り屋

「青柳たたくあだ口の波 読売の双帋の名 残雁鳴いて」
双帋=草紙・半紙
「読み売り」は、かわら版を面白おかしい呼び声で売り歩きます。
「黒船来る」など、時事問題からうわさ話や、全くのウソ話まで、
口先ひと
つで売れ行きが決まります。
また幕末には長編の事件物も売られ明治の演歌師に引き継がれた。

「新米の 歌も出来秋 よみうりの くちに年貢も いらず儲ける」


帽子から仏像を出す象も出す  嶋沢喜八郎


「読み売り」 ー瓦版


「読み売り」とは、江戸時代、世間の出来事を摺り物とした瓦版を面白
おかしく読み聞かせながら街を売り歩くこと。また、その瓦版やそれを
売り歩く人を言った。
「きのう、芝居で、大きな喧嘩があった」
「ムム、それは、どうした」
「いやも、大乱(大騒ぎ)よ。相手はひとりじゃが、強い奴さ。
大勢かかるところを取って投げる。踏みつける。桟敷へほうりあげるや
ら、ぱらりぱらりと人つぶて。これは叶わぬと、舞台へ逃げ上がるとこ
ろを、足を取って引っ張ると、ぐっと足が抜けた」
ーなんともオーバーな報告だが、こういう巷の噂話を、瓦版に摺って売
り歩いたのが「瓦版」だった。(安永二年四月序『芳野山』)


年収は讃岐うどんが五本ほど  中野六助


ー読み売りというものに数種あり、三、四人より六、七人づつ伍をなし
て、時の出来事を探り、公に関せざる珍しき事ある時は、善悪とも即時
に印版に起し、駿河半紙という紙に摺り立てたるを、互いに珍しそうに
呼びつつ歩く。これは、この度世にも珍しき次第は、高田の馬場の仇討
ちなどと言いて売り歩くなり。
 大火ある時は、焼場所を図面に起し、焼失したる戸数、屋敷、寺社、
町名、町数、火消しの消し止めより、死傷の次第を明細に記して売る。
地震、暴風、天変地異ある時も同じく印して売るなり。
また、敷き物を路傍に敷きて店を張り、坐して売るものは、大火の記事
を面白く読み聞かせつつ売るなり。
また、路傍に立ちて、図面を手に持ちて売るあり。焼け場、方角、場所
付けを御覧なさいと言いながら売るあり。(『絵本江戸風俗往来』)


捨てても捨てても正直には遠い  山口ろっぱ


ーこの種の読み売りばかりでなく、世上の事件を節付けして歌い歩く者
もいた。世上にあらゆる変わったる沙汰、人の身の上の悪事、万人のさ
し合い(さしさわり)をかえりみず、小歌に作り、浄瑠璃に節付けて、
つれぶし(連節)にて読み売るなり。愚かなる男女、老若の分かちなく、
辰巳あがりそそりもの。これを買い取りて楽しみとす。
(つれぶし=他の人と節を合わせてうたうこと) (『遊笑覧』)


棺桶が軽い中味はいれたかい  中村幸彦



葛飾北斎画、瓦版を売る読売の姿。
 江戸時代、瓦版の配布は禁止されており、時代劇などでは、左側の姿で
しばしば登場するが、このように顔を露わにするのは明治維新直前まで
無く、右のように編笠を被って、顔がわからないように売った。


瓦版の売り子を「読み売り」と呼ぶ。江戸時代、先にも書いたが、読み
売りの実際にしていた格好は、多くの場合「深い編み笠で顔を隠す」
いうものだった。瓦版販売は、幕府によって禁止されていたので、上の
絵のように二人は顔を隠して瓦版を売り歩いた。大体、二人一組で活動
し、一人が販売し、もう一人が見張り役をした。
【知恵袋】 瓦版が世に出はじめるのは、天和年間(1682~83)頃から
で大量に出版されるようになるのは、天保期(1831-45)以降とされる。


 その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子


封建制を敷く江戸幕府は、瓦版のような世間の出来事を広報する庶民の
メディアを良く思ったはずはなく、貞享元年(1684)には、報道を制限
する「読売禁止令」を出した。とはいえ、江戸時代の「お触れ」という
のは、ノルマのようなものがあり、適当なもので、役人も余程のことが
ない限り、読み売りを捕えたりはしなかった。互いに「空気」を読んで
いたのだろう。なお、当時は「われわれが瓦版と呼ぶ刷り物」「瓦版
の販売者」も、ともに読み売りと呼ぶ。


少しだけ飾りつけてる舌の先  原 洋志


瓦版は、時事問題を伝えることが使命だが、商売だから、売れなければ
成り立っていかない。だから、取り上げるニュースは「社会的に意義が
あるかどうか」というよりも「庶民が興味をもってくれるかどうか」
いうものだった。当時、瓦版の売り上げがよかったナンバー1、2位は、
やはり「黒船来航と安政江戸地震」だった。驚きと信じられない情報で
庶民は、「何事!?」と、瓦版を買い漁ったものだった。


瓦版めくってブランデーちびり  新家完司



          「黒船来航の瓦版」


嘉永6年(1853)6月3日、アメリカのペリー提督が率いた黒船四隻が
神奈川県浦賀沖にやってきた。彼らは幕府に、開国を要求しに来たわけ
だが、庶民は、そのような交渉よりも黒船自体に興味があった。
(何!あれ何?何で、何しに来たん、という感じ程度のものだった、か)
右上には、「長サ 三十八間、巾 十五間、帆柱 三本、石火矢 六挺、
大筒 十八挺、煙出長 一丈八尺、水車丸サ 四間半、人数 三百六十
人乗」と、黒船の詳細なデータが記されている。
(因みに、黒船来航のニュースは瓦版史上最大のヒットになった)
 
 
三日月の顎で刈り取る虚栄心  斎藤和子



    「蒸気機関車が描かれた瓦版」


 ここにも詳細なデータがあり、左上に主にアメリカという国について
の説明があり「アメリカの首都はワシントンである」という情報までが
書き込まれている。当時、日本は、オランダ、中国、朝鮮、琉球の四ヶ
国としか国交がないところへ、アメリカが割り込んできた格好であり、
続いてロシア・イギリスも加わり、開国の波が押し寄せ、日本の危機を
報せるニュースであったが、庶民は、この後、結ばれる日米和親条約が
何であろうと、また開国の何たるかは知らず、関心ごとは、アメリカ側
の贈り物である蒸気機関車の模型などにあった。


二度三度聞き直してもカタカナ語  美馬りゅうこ



「米俵を船まで運ぶ要員として集めた力士を報じる瓦版」


日本政府はアメリカに沢山の米俵を贈り、それを運ぶため力士を雇った。
アメリカ人は背丈が高い。180㎝を超える巨漢のアメリカ人が多くい
たのに対し、日本人男性の平均身長は、155㎝ほどだった。こういう
対抗策として弱味を見せたくない日本は「日本にも大きな人間がいるぞ」
ということを見せたかったのだろう、力士はそういう要員としてかりだ
された。


ほんものの馬鹿になれたら強いもの  奥野健一郎



    「安政江戸地震の瓦版」
安政江戸地震の直後に出た瓦版「関東江戸大地震井大火方角場所附」は、
被害状況や幕府が被災者のために作った「お救小屋」の位置などが書か
れている。


安政2年(1855)10月10日、江戸で起きた直下型地震。震度は
6以上だったと言われ、木造ばかりだった江戸の建築物は、ほとんどが
被害を受けた。死者は、江戸府内に限っても、一万人前後と推察され、
この地震の被害状況を伝える瓦版は、600種以上発行されたという。


神様もリセットしたい過去がある  前中
 


「ゆるがぬ御代要之石寿栄(みよかなめのいしづえ)」


ここに地震の被害状況が詳細に書かれている。記事のはじめの方を要約
すると「結婚や仕事で地方から江戸に出てきている人々は、一刻も早く
故郷の両親に『私は無事でした』と知らせて安心させてあげなさい」と
ある。瓦版製作者の優しい気遣いが感じられる、記事もあった。


巡りくる春へと命立ち上がる  平井美智子



 「妖怪アマビエのニュースを伝える瓦版」


令和の時代にも登場するアマビエは、弘化3年(1846)4月、現在
の熊本の肥後国の海に夜ごと光り物が起こったため、土地の役人が赴い
たところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6
ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。ただし、同時に疫病が流行するから、
私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ
て海の中へと帰って行った。当時も拝んだ、神様仏様アマビエ様~だ。


他人事と厚意は高い棚に置く  有田一央
 

 「遠くの出来事をどのようにして取材をした?」
幕府や大名、役人の書状を運んだ「飛脚」は、命ぜられて火災や洪水の
取材をして、情報を伝える役割を担った。江戸の中期以降は、飛脚屋が
公式の災害通信を扱うようになり、大地震や大火事が起きたときには、
めざましい活躍をみせている。飛脚は各地のニュースを集めるだけでな
く、その情報を手書きや印刷して、関係方面にも届けた。かわら版を取
り扱う書店なども、飛脚をニュースソースにして江戸時代における通信
社的な役割を担った。


セミが鳴く生保の額を調べてる  靏田寿子


 

「瓦版はなんぼ」
瓦版は、戦争の陣地の様子や火事・地震や火山の噴火など、災害の報道、
心中や敵討ちなどの人情話やゴシップから、徳川家と天皇家の動きなど
の報道まで、人々が知りたがる情報を1ー2枚ほどの紙に刷り、読み聞
かせたりしながら売った。瓦版の値段は、江戸時代を通じて3-4文。
当時のかけそばの値段は16文だから、庶民が気軽に買える値段だった。


やわらかいティッシュは名刺がわりです  森田律子


しかし、瓦版は心中事件などをセンセーショナルに書き立てて煽った為、
時には「人心を惑わすべからず」と幕府に取り締まられるようになった。
ペリーの黒船が来航したときなどは、幕府は「異国船について書くこと
ならず」と厳しいお触れを発した。が、したたかに瓦版の商売人は、使
命感?というものか、今、起こっている事実(情報)を書いた。
それにより庶民は、黒船の来航や地震のことを知ることができた。
やがて幕府が揺らぎだすと、政治の動きを伝える瓦版は、「新聞」とい
う名で明治3年、発行されるまで、庶民の知る権利という、大きな役目
を果たてきたのである。


ふるさとの駅にむかしの風の音  みぎわはな

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なんとなく非常階段になっている  河村啓子



御開港横浜之全図 (五雲亭貞秀画)
安政6年6月2日に開港した、浜全域を描いた3枚続きの錦絵。


「渋沢栄一」 横浜焼き討ち計画


安政5年(1858)12月。18歳の栄一は、学問の師匠、尾高惇忠
の妹と結婚した。栄一より一歳下の千代である。尾高家と栄一の関係は、
さらに強固になった。
半年後の安政6年6月、横浜港が正式に開港し、貿易が始まる。以後、
武士たちの間で「尊王討幕運動」が急速に激化した。
開港にともなう輸出の激増で、国内物資が品薄になり物価が高騰、下級
武士の生活を直撃し、その恨みが外国人と開港を許した幕府へ向かった
のだ。


カタカナ語お湯で戻してから喋る  森田律子



海保漁村自画像
上総出身の儒学者。江戸で太田錦城に学び天保元年(1830)に塾を開いた。


栄一は、藍玉の商略や作物の改良に、強いやりがいを感じながらも「木
っ端役人にも軽蔑される農民や商人はつまらぬ」という気持ちも抱いて
いた。つまらなさの源が、幕府が作った世にあるとするなら、栄一も、
また「憂世の情」を抱く当時の若者の一人であった。そんな栄一に江戸
から友人連れで憂世の情を運んできては、さかんに談論を繰り広げる人
物があった。尊王攘夷派の惇忠の弟で、妻・千代の兄、栄一より2歳年
上の尾高長七郎である。体格と撃剣の才に恵まれた長七郎は、以前より
江戸に出て、儒学者・海保漁村の塾と伊庭秀業の道場に在籍。討幕派の
長州や水戸、宇都宮藩の志士とも親交があった。


はにかんだホタルは出番模索する  山口ろっぱ



千葉周作
千葉周作は栄一が通った千葉道場・玄武館の創始者。栄一が通ったころ
は周作の三男・道三郎が道場主だった。
 
 
長七郎から刺激を受けた栄一は、江戸への思いを募らせる。強く反対す
る父を「ならば農閑期の2カ月だけ」と説得し、出郷を果したのは開港
から2年後の文久元年(1861)3月。桜田門外の変の翌年のことだ。
江戸での栄一は、海保の塾に籍を置き、北辰一刀流の千葉道場に通った。
 自伝『雨夜譚』では「書物を十分に読もう、また剣術を上達しようと
いう目的でない。ただ天下の有志に交際して、才能・芸術のあるものを
己れの味方に引き入れようという考えで…中略…抜群の人を撰んで、つ
いに己れの友達にして、ソウシテ何か事ある時にその用にあてるために、
今日から用意して置く」ためだと語っている。


あと一枚めくればきっと喜望峰  宮井元信
 
 
5月に帰郷した栄一は、家業に戻る。が、以前のようには身が入らなか
った。父は気を揉んだが、どうしようもない。文久3年(1863)8月、長
女が誕生。この月、栄一は妻子を郷里に置いたまま、ふたたび江戸に向
かう。2年前に世話になった海保の塾に身を寄せ、千葉道場に再入門し、
今回は郷里と行ったり来たりしながらの、4ヵ月ばかりの在府だった。
 
 
雲はいつもかならず話しかけてくる  田中博造
 
 
その間に栄一は、従兄の惇忠や、同じく従兄の渋沢喜作と密談し、大規
模テロを企てる。幕府には攘夷を行う気も力もないようなので、自分た
ちで幕府が倒れるくらいの大騒動を起こそう。まずは血洗島から遠から
ぬ高崎城を襲い、武器を奪って軍容を整え、高崎からは鎌倉街道を経て
横浜へ入り、市街に火を放ち、外国人を片っ端から斬り殺す。
そんな荒唐無稽な「横浜焼き討ち計画」を書を読み、剣も学び、算盤や
農作の経験もある青年たちは、大真面目に決行しようとした。
 
 
大ぼらを吹いて地球を裏返す  靏田寿子



高崎城古写真



遠からず、腐敗する幕府は滅亡する。農民であっても一個の国民であり、
日本が滅亡するのを座して見ているわけにはいかない。攘夷を断行する
には先ず軍備を整えねばならない。そのためには手近で調達するほかあ
るまい。白羽の矢が立ったのが血洗島からほど近い高崎城であった。
高崎城は烏川に沿って築城された平城、周囲は土塁で囲まれているだけ
だった。攻め落とすのは、さほど難しいとも思えなかった。
 
 
一波乱起きそうな絵手紙のドリアン  笠嶋恵美子
 
 
刀は惇忠が六十腰、栄一が四十腰、あちらこちらで買っては、そこここ
の蔵に隠した。防具や提灯の類いも揃えた。同志は海保の塾や千葉道場、
郷里の一族郎党などから70人ばかり集め、資金は藍玉商売から横領し
た。その額は百五、六十両。今なら6、70万円くらい、呆れた行動力
である。決行は冬至の11月23日と決めた。もとより、命があるとは
思っていない。9月、栄一は郷里の父に「国事に身を委ねたい」と告げ、
言外に勘当を求めた。実家に累が及ぶことを怖れたのである。
 
 
逃げるなら空一枚とすべり台  郷田みや
 
 
10月、かねてより京に行っていた惇忠の弟・長七郎が、栄一の手紙を
読み大慌てで戻ってきた。暴挙を止めるためだ。惇忠の家では、夜を徹
して激論が交わされた。
「烏合の兵などすぐ討滅されるぞ」と、長七郎が言えば、「それを見た
天下の同志が立てば本望」と栄一が返し「なに、百姓一揆と見做されて
仕舞だ」と長七郎が抑える。栄一は、長七郎を刺してでも阻止すると言
って退かない。ならばと栄一が、少し退いてよくよく考えてみたところ、
なるほど長七郎の言い分が道理だと気がついた。少し退けるところが栄
一の栄一たるところである。集めた同志には手当を渡し中止を告げた。
 
 
踏み切りは開かずマスクが捨ててある  桑原伸吉
 
 

欧州視察旅行帰りのスーツが似合っている渋沢喜作35歳。
喜作は25歳のとき、栄一とともに京に出、戊辰戦争では彰義隊の隊長
となり、後に振武軍を組織するも敗北。五稜郭でも敗北。新政府に捕縛
されるが特赦されて大蔵省に入る。海外視察は外国の生糸事情を調べる
ため、イタリア、スイス、フランスを巡歴した。
 
 
だが、この後、話が捕吏の耳に入らぬとも限らない。栄一喜作と共に、
しばらく身を隠すことにした。11月8日、2人は、故郷を後にする。
栄一23歳。目指すは京であった。


季は巡りあの日の正義裏返る  渡辺信也

拍手[3回]

蹴り上げた楕円は神の領域へ  斉藤和子
 
 

          楽屋之図
 歌舞伎役者の舞台裏の様子を描いた図。 裃を身に付ける役者やカツラ
をかぶる役者、芝居関係者など、役者絵が得意な歌川国貞は芝居の楽屋
にまで入り込み、舞台の上では見られない、舞台裏を細やかに描いた。

 
 
江戸後期から明治へと長期にわたって、浮世絵画壇の覇者として君臨し
続けたのは「歌川派」であり、その礎を築いたのは、歌川豊国である。
豊国によって平明な作品たちは、より多くのファンを獲得することにな
ると同時に作品の様式化は数多くの門人を生み出すもととなった。ここ
にその豊国門下の俊才たちを紹介しておこう。そして、やはり殿に歌川
派の天才・歌川国貞をとりあげる。


浮世絵に潜んでいるのはゴッホです 木口雅裕


「豊国一門と年齢と夫々の絵師の冠」

万民のスター
歌川豊国 明和6年 (1769ー1825)
師豊国を凌ぐ実力派
歌川国政 安永2年 (1773-1810)
温雅な個性派
歌川豊広 安永3年 (1774-1830)
歌川派の総帥・三代豊国 役者絵の国貞
歌川国貞 天明6年 (1786-1864)
合巻から浮世絵までの正統派
歌川国安 寛政6年  (1794-1832)
「国安」「国丸」とともに豊国門人三羽烏
歌川国直 寛政7年 (1795-1854)
風景画の奇才
歌川国虎 (生年不詳)
風景版画の第一人者 けしきえの広重
歌川広重 寛政9年 (1797-1858)
国貞の向こうを張った武者の国芳
歌川国芳 寛政9年 (1797-1861)
初代豊国の養子・二代豊国
歌川豊重 享和2年 (1802-1835)


前略、娑婆は暑いだけです かしこ  河村啓子


「にがおえの国貞」 歌川国貞



         市村羽左衛門と尾上菊五郎  


歌川国貞は、初代・豊国が築き上げた歌川派を継承し、長期にわたって
活躍した浮世絵師である。
国貞は天明6年(1786)本所渡船場を経営するに生まれた。ちゃき
ちゃきの下町っ子である。絵の勉強は、初めは独学であった。国貞の少
年期はちょうど浮世絵界の最盛期にあたるため、手本となる浮世絵が、
たくさん手に入ったのである。とりわけ役者絵を好んだ国貞少年にとっ
ての憧れの絵師は、初代・歌川豊国であった。そこで思い切って入門を
願い出た。


宿命へ畳鰯の独り言  中村幸彦


このとき豊国が、国貞の実力試しに、手本を見せて写し描きをさせたと
ころ、仕上がりがあまりにも巧みで驚いたという。入門の許しを得て、
師匠の信頼を得た国貞は、すぐに細々とした仕事を任されるようになり、
22歳のときに絵草子の挿絵でデビューを果たす。これが大当たりを取
って、歌川派の次代を担う若手絵師として、その名を世間に轟かせた。
因みに、この年に歌川派に入門をして来たのが国芳である。国貞は、弟
弟子として国芳を「芳、芳」と呼んでかわいがったが、国芳は、この上
から目線が気にくわず、生涯国貞を煙たがったらしい。


陰と陽リバーシブルの帽子です  合田瑠美子



  国貞の描く美女にじゃれる猫


対する国貞はというと、柔和温順で人の気持ちをよく考え、自己主張を
好まない人格者だった。そんな性格を反映するように作風も明るく率直
で安心して見られるのが特徴である。下町に育ったせいか庶民的な親し
みやすさも抜群で、大衆受けする絵が自然に描けた。


花も葉も水に流して現在地  佐藤正昭



「滝夜叉姫 尾上菊次郎 梅花」
最晩年の作。鉱物性顔料を大胆に使い、迫力に満ちた画面を作り出した。


国貞が最も得意としたのは「役者の似顔絵」である。普段は冗談を言わ
ない真面目な性格だったが、役者絵のモデルになる役者と話すときは別。
現代のベテラン・カメラマンのように、冗談を言って相手の気持ちをほ
ぐしながら、いろいろな表情を引き出し、ウイークポイントを捉え、そ
の人の顔の中でいちばん魅力のあるところを似顔絵に反映させた。
役者からの信頼も厚く、家には役者からの付け届けが山のように届き、
なかなか豊かな暮らしぶりであったという。こうした人付き合いの丁寧
さが、国貞の評判をさらに上げていった。


冷やかして景気をつけて盛り上げて  田口和代



 当世美人合 身じまい芸者


「国貞の美人画」
国貞は役者絵だけではなく、「美人画」にも優れていた。むしろ下町の
庶民は絵師としての本領は、こちらの分野に発揮されたといっても過言
ではない。清長美人や歌麿美人のような、理想化された美人像とは違う
親しみやすさがった。



         「国貞の挿絵」
 さらに戯作者・柳亭種彦とタッグを組んで挿絵を描いた合巻本『偽紫田
舎源氏』が大ヒットし、これ以降、錦絵業界で源氏絵がブームになるな
ど後続の絵師たちに多大な影響を与えた。


キャンパスの龍が飛び立つ筆づかい 佐々木満作



天保14年(1843)9月、水野忠邦の失脚後、国貞は忠邦改革の的にな
って低迷する浮世絵界の巻き返しを図り、自身の二代目・歌川豊国襲名
披露の書画会を開催した。しかし、この襲名が大スキャンダルとなる。
実は国貞は正式には三代目なのだ。二代目は初代・豊国の弟子で豊国の
養子に入った豊重といううだつの上がらない絵師で、これには師匠の娘,
もしくは嫁に取り入ったらしいという裏事情があった。真面目な国貞は
これを「よし」とせず、また「人気・実力ともに十分な自分こそが、正
統な後継者だ」という自負もあったのだろう。


二週間前のトマトと高飛車と  宮井いずみ


二代豊国は、文政年間初めに初代豊国の門に入り、やがて養子となった。
初め豊重と名乗り、師風を受け継いだ堅実な作品を描いていた。文政8
年(1825)初代の没後、二代を継いだとされる。天保5年頃までの
作が確認され、「名勝八景」という風景版画の注目すべきシリーズを描
いているものの、全体としては、師の作風を墨守するところから脱しき
れなかった。


出た釘を何度打ったか痩せた槌  西陣五朗



  オレがあ豊国二代目よ


「歌川を疑わしくもなのりゐて二世の豊国にせの豊国」
文政8年に師・豊国が没したのちは、実質的な歌川派の棟梁として君臨
するにいたる。そして弘化元年(1844)には、師の豊国号を継いで
二代を名乗り、名実ともに歌川派の総帥となった。しかし、豊国の没後
間もなく養子の豊重が二代を名乗っており、実質は三代目にあたる。
それでもなお国貞が二代目を名乗ることができた裏には、初代の複雑な
家庭事情と、腕のたつ国貞を、豊国の正当な後継者とみなす勢力の優勢
であったことを示すものであろう。


不条理にさからう渦を巻きながら  笠嶋恵美子


豊国を襲名してからの国貞には、門人も増え、版元からの注文も殺到し、
作画量はこの時期にピークに達するが、さすがに濫作による価格の低下
は隠すことができない。とはいえ、人物が映えるように画面全体を整理
する構成力には相変わらず非凡なものを見せている。


斜めから吹く風斜めから躱す  岸井ふさゑ



星の霜・当世風俗 蚊帳

幕末には「もっとも人気のある絵師」であった国貞だが、現代の知名度
は今一。なぜなら、彼が描いていたのは「当時最新の流行や風俗」であ
って、当時のことを知らなければ何のことだか解らないものが大半であ
ったからである。
 「星の霜当世風俗・蚊帳」では、蚊帳の中で紙縒りを使って害虫を焼く
庶民的美人と、蚊帳の下から覗いている団扇にさりげなく、当時の人気
役者・尾上菊五郎の似顔絵が描かれている。似顔絵は、国貞の最も得意
分野で面目をはたしている。


だとしても諦めきれずにいる思い  川畑まゆみ



  星の霜・当世風俗 行灯


幕末の浮世絵界で庶民から圧倒的な支持を受けた浮世絵師は、前にも述
べるように広重でも国芳でもなく、歌川国貞だった。国貞は初代・歌川
豊国の正当な継承者として、人気流派歌川派を率いて浮世絵界に君臨し、
生涯に一万点の作品を世に送り続けた。というのも、彼の絵はとにかく
よく売れたのだ。「広重が風景画、国芳が武者絵」を得意として売れた
とはいえ、国貞が美人画・役者絵という王道二大ジャンルを制しており、
そこに割って入る隙がなかったからである。22歳のでビューから元治
元年(1864)79歳で永眠するまで、国貞は、半世紀に亘って第一
線の人気を保ち続けた。


口よりも確かなことを目が語る  ふじのひろし



      国貞自画像


順風満帆な国貞の人生にも一時、影がおちる。天保の改革の野忠邦
失脚して間もなく、国貞は、二代目・歌川豊国襲名披露の書画会を開催
した。この襲名披露が、大スキャンダルとなったのである。実は国貞は、
正式には三代目なのだ。二代目は初代・豊国の弟子で豊国の養子に入っ
豊重といううだつの上がらない絵師で、これには師匠の娘,、もしくは
嫁に取り入ったらしいという裏事情があった。世間ではこの騒動を皮肉
った上記の「偽の豊国」のように狂歌が生まれた。しかし、もって生ま
れた運の強さか、その騒動によりさらに注目が集まった。あまりの発注
の多さに版下絵の制作が追いつかず「三代豊国」というだけで売れ続け
たという。


聞えないふりして今日は切り抜けた  山口ろっぱ

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道形に歩く自然体のわたし  荻野浩子


           


「顔」
「一万円札の顔」はどのようにして選ばれるのだろうか。
選考基準を一般人の我々が知るものではないが、なぜ「その人なのか」の
理由はあるはず。当時の世相事情から推測することぐらいはできる。
1958年12月1日、初代の一万円札の「顔」「聖徳太子」だった。
「岩戸景気と呼ばれるものが始まった年」で以降、18年間、日本は高度
経済成長期の波に乗り、五輪、万博などを成功させ、世界の主要国の仲間
入りを果たした。いわば「聖徳太子」推古天皇の摂政として政治・法律
の整備をし、隋など他国との交流と文化導入にも努め、当時の日本文化を
大きく発展させた人であった。


日本の男のかたち田に力  伊藤のぶよし 


1984年11月1日、一万円札の「顔」聖徳太子から「福沢諭吉」
交代する。高度成長を成し遂げたので、次は「文化立国」を目指したのか。
残念ながら福沢時代は「バブル崩壊や数々の大きな災害」に直面し、その
復興にみるように、日本の経済は低迷期に入ってしまった。文化国家を目
指すためには、経済的にも豊かでないとどうにもならない。しかし、低成
長のお蔭で、日本は、世界の成長から取り残されつつあることは否めない。
「このままではいけない。文化国家よりは、やはり経済国家だ」と考えた
政府は、一万円札の顔を福沢諭吉から「日本資本主義の父」と尊称される
渋沢栄一に代える結論をだした。
 
 
軽い財布には動かない自動ドア 高野末次


「渋沢栄一」「近代日本経済」の礎を築いた大実業家で、第一国立銀行、
東京海上日動火災保険、東京電力、東京ガス、J R 東海、日本郵船、キリ
ンビールなど約500社もの企業の設立・育成に携わった。約六百の社会
公共事業に携わったといわれる。また実績だけではなく、経営理念でも高
く評価されている。1916年に書籍化された著書・「論語と算盤」では
一見かけ離れた道徳(論語)と経済(算盤)は、表裏一体だとする「道徳
経済合一説」
を唱え、これは「現代に通じる考え」とされる。こうしたこ
とから2014年を目途に刷新される新一万円札の「顔」に選ばれた。
そして今「青天を衝け」の題もよろしくドラマで日本のあるべき道を指す。


自分史の余白は風の通り道  嶋沢喜八郎


「渋沢山脈」 ①-渋沢家人物相関図


====== 
  

渋沢栄一
渋沢栄一は21年度の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公。
栄一を吉沢亮が演じる。「亮は ワシによう似とる美男子だからな。
頑張って
ほしい」と、渋沢栄一が言ったかどうかは、知らない。
実際に栄一が言った言葉には、次のようなものがある。
「さあ、クヨクヨしよう。クヨクヨすることをバネにしよう。今、クヨ
クヨすることは将来のためなら大丈夫」(栄一・一言集)。渋沢栄一は
身長150cmと躰は小さいがやることはでっかい人だった。栄一の好物は、
深谷の名物「煮ぼうとう」で栄一が詰まっているような料理である。


鉛筆を倒して聞いた天の声  近藤北舟
  
 
 
  
渋沢市郎右衛門(元助) 厳格な栄一の実父 (小林薫)
武蔵野国榛沢郡地洗島村の豪農・渋沢家の分家「東の家」の出。分家の
一つ「中の家」のゑいと結婚し、婿養子となった。骨身を惜しまず働く
勤勉家で、家業の研究に余念がなく、家業の藍作りや藍玉の製造販売な
どで財を成し、没落気味の同家の再興に尽くした。
世話好きで学問を好み、風流をよく解したという。四角四面で厳格な父
だが、破天荒な栄一の生き方を、誰よりも支援した。
 
 
世渡りのこつをラップの芯に聞く  宮いいずみ
 

 
 
渋沢ゑい 慈悲深い栄一の母。 (和久井映見)
渋沢家の分家「中の家」の娘。慈悲深い女性で数々の逸話が遺されている。
後年、栄一が社会福祉や医療事業に尽くすことになるのも、そんな母の影
響を受けたのだろう。お人よしで、情け深く「みんながうれしいのが一番」
の精神を幼い栄一に教えた。
「ゑいの慈愛のエピソード」
栄一の母・ゑいは、栄一と千代の結婚式に出席していない。近くに眼病を
病むりんという貧しい中年女が居り、そちらへ様子を見に行っていたため
という。恐い伝染病なので誰も近寄らなかったが、ゑいは気にせず、親し
く付き合い、いつもりんを気にかけていたのである。


抜け道は猫が教えてくれました  中岡千代美


 

渋沢なか 栄一の姉。 (村川絵梨)
優しい母・ゑいとは打って変わり、歯に衣着せぬ物言いで、栄一にとっ
てはおっかない姉だ。


 
  
渋沢てい 栄一の妹。 (藤野涼子)
年の離れているだけ栄一ていが可愛くて、かわいがった。天真爛漫に
育ち、栄一の生涯においても気のおけない家族であり、やがて栄一の妻
となる千代の心の友にもなる。

===========  
 
渋沢千代 栄一の最初の妻。 (橋本愛)
尾高惇忠の妹。18歳で従兄にあたる栄一と結婚。長男の篤二など二男
三女をもうけた。口数は少ないが芯は強い。コレラに罹患し早世する。


チコちゃんを連れて娘が里帰り  岸田万彩

         

 尾高篤二 廃嫡された長男。
  栄一千代の長男。幼少期に母を亡くしたため、姉の歌子夫婦のもとで
養育された。やがて渋沢倉庫社長などを務めるが、趣味人ゆえ実業界に
なじまず、不行跡もあって廃嫡された。もう一人の姉は渋沢琴子


          =====
 
渋沢兼子 鹿鳴館の華と謳われた後妻。 (未定)
貸金業で儲けた江戸の豪商・伊藤八兵衛の次女。美人姉妹と謳われた四
人姉妹の一人で第一銀行頭取・栄一の後妻になる。栄一との間に五男一
女をもうけるが、前妻の産んだ子どもと分け隔てなく育て栄一を支えた。


語尾に付く笑いはきっと護身術  下谷憲子
 
 
===========
 
 渋沢喜作 栄一の従兄。若き日の栄一の相棒。 (高良健吾)
父の文左衛門は、栄一の父・市郎右衛門の実兄。従弟の栄一と行動をと
もにし、一橋家に出仕し、以降慶喜のもとで活動したとされる。やがて
彰義隊を結成して頭取となり、戊辰戦争では幕府方として戦った。
維新後は大蔵省入りし、のちに実業家へ転身するも、度々投機に失敗し
て大損害を出し、その都度、栄一の後援を受けた。


幸せにきっとなれると鬼笑う  岡谷 樹




渋沢よし 喜作の妻。 (成海璃子)
情熱的な喜作にひと目惚れし、自らアプローチ。結婚後は、喜作をしっ
かり尻に敷く。栄一と喜作が京へ旅立ってからは、千代のよき相談相手
となって、共に夫の留守を支える。


 
 
渋沢宗助 栄一の伯父。 (平泉成)
「東の家」の当主。血洗島村の名主として、栄一の父・市郎右衛門と共
に村をまとめる顔役のような存在。甥である栄一には、時に口うるさく
小言を言う。


 
 
渋沢まさ 宗助の妻・栄一の伯母。 (朝加真由美)
人はいいが少々おせっかいな性格で、親戚である「中の家」でも何かに
つけて世話を焼きたがる。宗助との遣り取りが絶妙で、おしどり夫婦ぶ
りが、何とも憎めない。


定位置に今日も故郷は居てくれる  加藤ゆみ子


          

渋沢敬三 栄一の嫡孫 
栄一の長男・篤二の子。生物学者を目指していたものの、栄一の懇願を受
けて東京帝国大学卒業後に、栄一関連の会社や団体の役員に就任。栄一の
没後は子爵家を襲名し、名実ともに栄一の後継者となる。


 
 
尾高やへ 栄一の伯母 (手塚里美)
惇忠、長七郎、千代、平九郎の兄妹を育てた。やがて惇忠たちは尊王攘夷
の思想に突き進んでいく。いやおうなく幕末の動乱に巻き込まれていく子
どもたちを心配しつつも温かく見守る。


人間を絞れば白し胡蝶蘭  河村啓子
 
===== === 
 
尾高惇忠 栄一の従兄・学問の師 (田辺誠一)
武蔵国榛沢郡下手計村(ばかむら)の名主・尾高勝五郎の三男。学問を修
めて私塾を開き、隣村・地洗島村に住む従兄の栄一に、漢籍を教えるなど、
大きな影響を与えた。幕末には渋沢喜作とともに、最後まで新政府軍と戦
った。維新後は実業家に転身し、富岡製糸場の初代工場長を務めた。
深谷にある惇忠の墓碑には、栄一の手により「学あり行いあり君子の器。
われまた誰をか頼らん。何ぞわれを捨てて逝けるや」
と記されている。


 

尾高きせ (手塚真生)
惇忠の妻。各地から草もうの志士が訪れるほど、文武に精通した人格者の
夫を寡黙に支える。長男の務めがあるため、家を出ることができない惇忠
の歯がゆさを、言葉にはしないがひそかに感じている。
 
 
剃刀にときどき顎が引っかかる  桑原伸吉


 

尾高長七郎 栄一の従兄 (満島真之介)
惇忠の弟。長身で堂々たる体躯の長七郎は、神道無念流の剣豪として名を
とどろかせるようになり、栄一の憧れの存在になる。兄・惇忠に代わって
江戸や京へ遊学に行き、世情を栄一らに伝える。

=========== 

尾高平九郎 栄一の従弟 (岡田健史)
末子である平九郎は、偉大な兄の背中を追いかけ、姉の千代を心から慕い、
文武両道で心優しい青年に育つ。栄一のパリ行きに伴い、見立て養子とな
るが、そのことがきっかけとなり幕府崩壊の動乱に巻き込まれる。


実線も破線も べた凪の内に  山本早苗

=========== 
 
徳川慶喜 一橋斉昭の七男 (草薙剛)
栄一にとって慶喜は、誰よりも特別な存在であった。栄一は24歳の時、
慶喜に仕え一橋領内の産業奨励や財政強化などに力を尽くす。慶喜が徳川
宗家を継いだ後も、幕臣として仕え、フランス行きや、明治新政府に命じ
られ帰国した後に、謹慎中の慶喜がいる静岡に留まった背景には慶喜の配
慮があった。その後、栄一がビジネスで多忙になっても、慶喜の恩を忘れ
ることなく、大坂方面へ出張があるときは、静岡にいる慶喜を訪問し土産
物を持って行ったり、時には落語家を連れて行ったりして、慶喜を慰めた。
こうした付合いから慶喜の真意を後世に伝えるべく、熱い思いをこめ25
年の歳月をかけて、慶喜の伝記を編纂する。


夕暮れは明日のために忙しい  柴本ばっは


=========== 
 
徳信院 慶喜の養祖母 (美村里江)
一橋家当主・徳川慶寿の正室となるも、若くして死別し徳信院と名乗る。
慶寿の後継も亡くなり、慶喜が次いで後継となったため、わずかな年齢
差で養祖母となる。


=========== 

美賀子君  慶喜の正室。 (川栄李奈)
病にかかった慶喜の婚約者の代わりとして正室になる。一橋家の未亡人
である徳信院と慶喜の仲を疑い、自殺未遂の騒動を起こす。付かず離れ
ずの夫婦であるが、やがて慶喜のよき理解者となる。


=========== 
 
吉子(登美宮) 慶喜の母。 (原日出子)
水戸藩藩主・徳川斉昭の正妻。夫の斉昭は非常に気性の荒い人で、阿部
正弘
などから誤解を受け、波乱の水戸家を演出するが吉子は、そんな水
戸藩を見守り、内助の功を発揮する。


抽き出しは一つ伏せたい愛二つ  上田 仁


 

平岡円四郎 慶喜の側近。 (堤真一)
栄一の才能を認め、栄一の運命の人となる慶喜に引き合わせたのが円四
である。旗本でご時世、不甲斐ない日々を送っていたが、縁あって
の小姓となる。慶喜からの信頼を厚くし、筆頭クラスの用人にまで昇
進する。攘夷の志士を目指していた栄一は、円四郎と出会ってから人生
が動きだす。


 
 
平岡やす 円四郎の妻。 (木村佳乃)
吉原の売芸者。放蕩生活を送っていた平岡円四郎に見初められ妻となる。
美人だが気はめっぽう強く、粗野で破天荒な円四郎もやすには頭が上がら
ない。


二番線ホームで待っているチャンス  本多洋子   


=========== 

徳川斉昭 水戸藩主 (竹中直人)
水戸徳川家第9代藩主。先進的で、実行力に富み、気性の激しさもあっ
て、のちに「烈公」と呼ばれる。それゆえに敵は多い。栄一の主君とな
る慶喜の父でもあり、幼少期から慶喜の才に期待し、暑苦しいほどの愛
情深さで育てた。



   
 
藤田東湖 斉昭の側近 (渡辺いっけい)
水戸藩主就任から支えた斉昭の腹心。斉昭が隠居謹慎処分を受けると、
東湖も蟄居を命じられるが、やがて斉昭と共に復活。「回天詩史」など
数々の著作が尊攘志士に愛読され、信望を集めた。安政の大地震で非業
の死を遂げる。
 
武田耕雲斎 斉昭の側近。 (津田寛治)
藤田東湖と共に藩主・斉昭を支えた、尊攘派の水戸藩士。やがて東湖の
息子・藤田小四郎が起こした「天狗党の乱」をいさめる立場に立つも、
小四郎に懇願されて総大将となり悲惨な最期を遂げる。


頷いただけでひまわり枯れてゆく  森田律子



 
 
井伊直弼 大老。 (岸谷五朗)
彦根藩主の14男として不遇な人生を送るが、兄の病死により藩主に就任。
さらに大老となり、幕府の実権を握ったことで運命は180度転換する。
「安政の大獄」を断行して、慶喜らに非情な制裁を下す。
 
阿部正弘 老中。 (大谷亮平)
弱冠25歳で老中職を務める。ペリー来航後の国難に立ち向かうため、
水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に登用するなど手腕を発揮。開国か鎖国
かに揺れる幕府の舵取りに、心労を重ねていく。


権力が時に政論ねじ曲げる  水野黒兎



 

松平慶永(春嶽) 福井藩主。 (要 潤)
「才ある美しいものを好む」という気質からか、慶喜の英邁さをいち早
く見抜いてすっかり心酔。慶喜を次期将軍に押し上げるべく奔走する。
安政の大獄で隠居した後、慶喜と共に京へ上り、政界に復帰する。
 
橋本佐内 福井藩士。小池徹平)
藩主の慶永に才能を見いだされ、藩医の立場から側近へ。将軍継嗣運動
の中心となり、慶喜の側近・平岡円四郎を巻き込んで、慶喜の英邁(えい
まい)さを伝える文書を完成させる。安政の大獄により若き命を散らす。


繭吐いたあとが大きな穴になる  赤松ますみ


 
  
 
高島秋帆 洋式砲術家。 (玉木宏)
国兵制改革の急務を幕府に上申するも、秋帆は、無実の罪で武蔵野国の
岡部藩の獄に投ぜられる。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導
した。秋帆の門人たちは、幕府に願い赦免に尽力。12年の受牢の後に、
ペリー来航の脅威に幕府は、近代兵学の必要性に迫られたことから急遽
秋帆は赦免される。

永井尚志 海防参与 (中村晴日)
ペリー来航後、海防掛に就任。海防参与となった徳川斉昭の過激な言動
に振り回される。将軍継嗣問題では、一橋派に属していたため、安政の
大獄にて罷免された。やがて慶喜を補佐する立場となる。
 
 
アンコウのような暮らしがまだ続く  指方宏子

 
 
大橋訥庵 儒学者。 (山崎銀之丞)
「思誠塾」を開き尊王攘夷を唱え、多くの塾生に影響を与える。栄一
従兄である尾高長七郎も塾生の一人であり、大橋の思想に傾倒。大橋の
旗振りによって老中・安藤信正の暗殺計画を企てる。 
 
利根吉春 岡部藩代官。 (酒向芳)
栄一が暮らす血洗島村を治めている岡部藩の代官。時折、中の家にやっ
てきては横柄な態度で馳走をむさぼり、宗助市郎右衛門に莫大な御用
金や人足を求める。やがて大人になった栄一も対立することになる。


神様の気まぐれだろうもんじゃ焼き  雨森茂樹

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