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川柳的逍遥 人の世の一家言
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文明にさらして吊るして腐らせて  山口ろっぱ




飯田町中坂九段・火付盗賊改の役宅があった周辺図


長谷川平蔵は、寛政7年4月、とつぜん病に倒れた。病気が何かは不明
だが、病勢は日ごとに重くなった。このことは将軍家斉の耳にも達し、
5月6日に、将軍家秘蔵の高貴薬・「乩瓊玉膏」(けいぎょくこう)が届
けられた。しかし、快方に向かうことなく、4日後の5月10日に死去
した。
平蔵の死があまりに急であったために、長谷川家では、家督継承を無事
にすませるため、その死を秘匿し、5月14日になって「大病に相成り
候につき御加役御免」を願い出た。16日に辞職が聞き届けられるとと
もに、永年の勤続に対して、金3枚と時服二領が下賜された。
嫡男の辰蔵宣義が父の「死亡届」を若年寄・京極高久に差し出したのは
5月20日で、その届には、「寛政七年五月十九日病死」とあった。
 

 枯れ蓮の侘びは輪廻を知っている  美馬りゅうこ
 
 
平蔵の死を受けて、その一年後の寛政8年6月に「火付盗賊改」の役に
付いたのが、森山源五郎孝盛である。この森山は、平蔵のことが嫌いの
ようで、何かあると悪口を吹聴し、自著『蜑の焼藻』(あまのたくも)
に平蔵の悪口を書きのこしている。
『(長谷川平蔵は)八年が間、さまざまの奇計をめぐらしたるにより、
世上にては、口々に長谷川がことを批判したりけり。元来、御制禁の目
明・岡引というものを専ら使いたるゆえに、差し掛かりたる大盗・強盗
なんどは、忽ち召し捕って手柄を顕わあしたれども、世上は却って穏や
かならず。大火も年々絶えずけり…中略…然るに翁(森山自身)思いよ
らず、捜捕の職を命ぜられければ、つくづくと考うるに…』と、。


煎餅が薄くなったと奈良の鹿  嶋田捨一



役人は奉行所から両国橋を渡り八丁堀へ通った
長さ94間(約170m)、幅4間(約7m)



「両国橋・納涼」 広重

千人が手を欄干やはしすずみ  其角
このあたり目に見ゆるものみなすずし  芭蕉



「京橋 広重」

 
 この橋の袂から八丁堀がのぞめる。


  「火付盗賊改」 森山孝盛の肝っ玉


長谷川平蔵ののち、対照的な2人の先手頭が相次いで「火付盗賊改」
なった。森山源五郎孝盛、次いで池田雅次郎政貞である。
平蔵と森山・池田の3人は、いずれも10代将軍・家治のお目見をはた
し、田沼意次から松平定信へ移った両政権下で、番方の役人として役目
を競い合って昇進してきた。
平蔵と森山の家禄は、ほぼ同じ400石。ただし家祖の活躍からすると
長谷川家が格上であった。森山家は甲斐武田氏の家来であったが、武田
勝頼の死後に家康に臣従した。この家格の差は、旗本の子息が最初につ
く役目に直結する。平蔵のスタートが書院番士であったのに対し、森山
は大蕃士であり、その後の出世・昇進のコースとスピードで差が広がる。


鰓呼吸はじめました夕まぐれ  酒井かがり


平蔵の出世がずば抜けて早いのは、父の平蔵宣雄の余慶で、松平武元
田沼意次という2人の有力な老中の信任が厚かったせいである。森山も
全盛期の田沼意次の屋敷へ熱心に挨拶に伺っているが、いっこうに要職
にめぐまれなかった。松平定信が老中になってから、ようやく芽が出た
のである。そして、普通ならば、隠居してもいい58歳という高齢で、
しかも平蔵の後任として「火付盗賊改」に就任したのである。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子


『寛政7年5月、加役つとめ居たりし長谷川平蔵重病にかかりて、危う
かりければ、翁(森山自身)を召して捜捕の役を命じられぬ。彼長谷川、
小ざかしき性質にて、8年の間、加役勤めるうち、さまざまの計をめぐ
らしけり…森山がいう平蔵の「小賢しい』とは、何のことを言うのか。
『火事現場に、長谷川平蔵組の高張提灯が、いち早く掲げられたのを、
「愚かなるものの目には、はた長谷川の出馬せらたると、驚き思わせる
ためなり』…、『奸計だ』と、言うのである。
しかし、混乱と雑踏の火事場に火盗改めの提灯を立て、同心が見張って
いれば、犯罪や事故の防止になる、のだが。


啄木鳥の巣に不都合をひとつ置く  くんじろう


さらに平蔵は、自分が刑死させた罪人については、寺に墓塔をたてて菩
提を弔ったり、また、路上に物乞いに銭をめぐんだりもしたが、このこ
とも森山の目には、「小賢しい奸計」と映って、悪口を浴びせている。
森山は、そんな風に勘ぐる肝っ玉の小さい、性格の人物であった


つぶやきは第2犬歯に絡ませて  井上一筒
 



森山孝盛の日記


森山孝盛「火付盗賊改」として盗賊・火付けなどの凶悪犯と対決したり、
市中に屯する無宿者の取り締まりを、率先して行うタイプではなかった。
和歌を京都の冷泉家に学び、自ら歌人・和学者としてふるまい、日記も含
め大量の著述を遺した。松平定信は、森山が武人というより、文人肌のと
ころを評価して抜擢したのである。森山は、平蔵を書くとき、平常心を失
って過激に非難してしまい、そのため独りよがりの自慢と自己弁護を書き
連ねることになる。


切れ味の鈍いナイフがよく馴染む  成田智子


森山平蔵が世間から批判されていたように書いているが、一部の幕臣
の間では平蔵の批判はあっても、「世上」では、むしろ逆の評価をされ
ていた。平蔵の悪評を「よしの冊子」に表した定信の側近・水野為永
さえ『殊に町方にでも一統相服し、本所辺りにては、将来は本所の御町
奉行になられそうな、どうぞしたい』と、町人から町奉行への就任が期
待されるほど、人望があったことを伝えている。一方、為永は森山孝盛
については『いずれ一体根生むずかしき男のよし』と、根性が曲がって
いる男といっており、旗本屋敷の隣人間で、トラブルメーカーであると
書いている。


完璧のはずへまさかの平手打ち  西尾芙紗子


森山が老中に上申した「御仕置伺い」は18件あるが、彼が行ったこと
で重要なのは、犯罪の取り締まりや、犯人の捕縛・裁判よりも、後任の
ために火盗改めの職務内容を書きまとめたり、職務上備えるべき物品を
リストアップした「控帳」を整理・記録したことである。火付盗賊改の
役宅内に設ける仮牢や白洲の仕様も、書き残している。
こうした記録がこれまでなかったので、自分は現場の仕事に取り掛かれ
なかったと、前任者の平蔵への非難も忘れずに書いている。
(因みに、平蔵の「御仕置伺い」は8年間で201件)


鏡を見ない一日だった独り部屋  瀬川瑞紀



日本橋の賑わいの様子

日本橋はこの混雑を利用して、盗人が大きな顔をして、入り込み
また仕事を終えて逃亡を助ける、大都会の玄関口なのである。


森山は寛政8年6月、1年で役替えになったが、これが余程悔しかった
ようで、自分に取って代わった後任の塩入利恭(しおいりとしのり)を
老中・戸田氏教のコネで火盗改めになった『大兵にて無芸無学」(大男
の大バカ)と口をきわめて、罵詈を浴びせている。その塩入は、7ヶ月
後に病死し、後任になったのが池田雅次郎である。


木枯らしがこの一年を問うてくる  靏田寿子

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ピース缶開けたらベルが鳴り響く  酒井かがり
 


幡随院長兵衛を襲う旗奴。旗本奴の傾奇者で初代福山藩主・水野勝成
の孫である水野成之は大小神祇組を束ねた。


「火付盗賊改」 中山勘解由 & 八百屋お七


明暦3年(1657)「明暦の大火」は、江戸の町が、火事とそのさな
かに跳梁跋扈する盗賊に、まったく無防備であることを露呈した。
幕府は火事に対しては、翌年の万治元年、4代将軍・家綱のとき旗本4
人に火消し役を命じて「定火消」を設けた。「町火消」が組織されるの
はさらに60年後、8代将軍・吉宗のときである。


あれこれと出来ない儘の走馬灯  西陣五朗


一方、「強盗・放火」といった凶悪犯罪に対しては、既にある南北の町
奉行所だけでは手に負えないことが明らかとなり、寛文5年(1665)
「盗賊改」が新設された。放火犯を取り締まる「火付改」「盗賊改」
に加えて置かれたのは「盗賊改」から18年後、明暦の大火からは26
年も過ぎた、天和元年(1683)1月である。


今生のまだ染み抜きが終わらない  清水すみれ



 捕縛の図 撃ちこみ 寄せ棒 鉤縄
 
 
「中山勘解由」
このころ江戸では、押込み強盗の前後に放火する凶悪な犯行が頻発した。
「町奉行所」「盗賊改」が取り締まったが、犯行に追いつけない状態
で、ついに、放火を取り締まる専任の役職を設けることになった。
最初の「火付改」には3千石の旗本、先手筒頭の中山勘解由直守が命じ
られた。徳川綱吉が5代将軍になって2年後である。これによって江戸
の治安警備体制は南北の町奉行、盗賊改、それに火付改の4人となった。
本来ならば総合に連携し合って、江戸の平安を実現するところなのだが、
中山勘解由は独り突出して取り締まりを行い、江戸庶民だけでなく武士
にも恐れられた。


ゴマ塩がそれぞれ歌うローレライ  井上一筒


中山勘解由は、仏心の篤い男であったが、火付改を命じられると、2人
の息子を前に、「今日からは慈悲では治まらぬ!」と、父祖代々の位牌
をまつる仏壇を叩き壊したという。そして、配下の与力・同心・目明ら
総勢50人余りを様々に変装させ、江戸市中に潜行させた。いわゆる後
の鬼の平蔵の変装での町散策の先駆けである。
『中山組の与力・同心は火事場で捕えるだけでなく、江戸中で怪しい者
とみれば捕まえ、「誤認逮捕」がおびただしい。そして尋問(拷問)が
きびしく死ぬまで攻めるゆえ、火付をしていない者も苦痛を逃れるため
「火付けした」と言い、科人でないのに処刑される者が数多いというこ
とである』(『御当代記』)


無農薬野菜食べてもいつか死ぬ  くんじろう





勘解由の詮議には、犯罪人を無理やり作りだすところがあった。しかも
見込み逮捕や誤認逮捕と拷問によるでっち上げが多く、人々は、中山勘
解由を「鬼勘解由」「鬼勘」と呼んで恐れた。中山組の与力・同心は怪
しいとみるや、町人・無宿者に限らず武士も捕えて詮議した。
普通ならば、管轄違いで、役所間の縄張り争いになるのだが、勘解由に
対しては、町奉行も勘定奉行も目付も恐れて、異議を唱える度胸はなか
ったという。このため町奉行も勘定奉行らの火付改に対する反感が鬱積
していって、中山退任後には、火付改に対する町奉行らの逆襲があって、
「火付改」は一時廃止されるのだが、のちの話である。


身のうちの角を落として春を待つ  津田照子


  
男の中の男・幡随院長兵衛       水野十郎左衛門
 
 
「勘解由、市中の旗本奴ら二百数十人を処刑」
貞享3年(1686)、勘解由「火付け改」に就いて4年目に入って
いた。綱吉の初政は「天和の治」と呼ばれる文治政治で「町奉行」には、
北条氏平甲斐庄正親という穏健な名奉行が勤め、助役の「盗賊改」
能吏の山岡十兵衛であった。
そのため、江戸の火付け、盗賊さらに傾奇者(かぶきもの)と呼ばれる
無法者の取り締まりは、勘解由がおのずと一手に引き受ける形となった。


出し抜いて四月の馬鹿という眺め  岩田多佳子


これまで旗本奴は、鶺鴒組(せきれい)・吉屋組・山手組・大小神祇組
などの徒党を組み、町奴も唐犬組・笊籬組(いかき)を組織して対抗し
ていた。勘解由の使っていた手下には、やきもち九兵衛・なんぴん四郎
右衛門といった異名もちの者がおり、江戸のあぶれ者たちの動静をぬか
りなく掴んでいた。貞享の9月、勘解由は奴連中の一斉検挙を断行した。


一発で天狗の鼻を叩き折る  池部龍一


大小神祇組は、町奴の幡随院長兵衛を殺した3千石の旗本・水野十郎左
衛門が首領だった旗本奴の徒党である。水野は22年前に切腹させられ
ていたが、徒党はまだ残っていたのである。勘解由は神祇組にかぎらず、
旗本奴、町奴をとわず、配下の与力・同心に捕縛を命じて、片っ端から
しょっ引いた。リーダー各の11人を斬罪にしたという。


胸底のドカンドカンが鳴り止まぬ  山本昌乃


家康のときから百年近く一掃できなかった傾奇者・旗本奴・町奴の首を
勘解由はポンポン斬って落としたのは、貞享3年9月。そして三か月後
に勘解由は、火付改を退任した。その10ヶ月後の7月2日、55歳で
没している。鬼より恐ろしい勘解由にして「火付盗賊改」の役職は、重
く、厳しいものであったようだ。
 その後、「盗賊改」「火付改」「博打改」の三者が合体して、正式に
「火付盗賊改」となる。先にも述べたが、八代将軍・吉宗のときである。


遺言を書いてはまたもシュレッダー  下谷憲子
 



 
(※1, 中山勘解由は容疑者をかなり厳しく取り調べ、勘解由が着任
している間は、放火の罪で処刑される人数が増加している。「海老責」
という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは冤罪も
多かったであろうと推定されている。
しかし、史実とは反対に「八百屋お七」の事件では、お七の命を何とか
救おうと努力する奉行として登場する。
狩野文庫『恋蛍夜話』では、奉行の勘解由がお七に「お前は15歳だな」
と聞き、もしもお七が「はい」と答えれば、助けられたものを、奉行の
真意が読めないお七は、正直に「いいえ」と答えてしまった。そのため
お七は定法に則り「火炙りの刑」宣告することになってしまった。

※ 馬場文耕の『近世江戸著聞集』のなかでも、お七の年齢をごまかし
助けようとする奉行・中山殿の名前が出てくる。
余談だが、勘解由とお七は、「お隣りさん」というほど、互いの家は、
近かった(歩いて5分)ことを書き加えておく。


飛び込みの下手な蛙の水の音  宇都宮かずこ


(※2 「天和の大火」で、八百屋お七が焼け出されたのは、天和2年
(1683)12月28日の火事で、勘解由が火付改を命じられる一か
月前、そして、お七が捕まったのは、2か月後の翌年3月2日で、勘解
由は火付改になったばかり。鬼と化して、放火犯を追っていたさなかで
ある。この日、勘解由が「放火の賊あまた捕えしをもって金五枚給う」
(『徳川実紀』)とあり、逮捕者の中には、お七もいた、のだろう。)


愚かさの先で待ってる蜘蛛の糸  岸井ふさゑ


(※3 幕府の公式記録には、「八百屋お七」の名はどこにもないが、
「駒込お七付け火の事、この三月の事にて二十日時分より晒されしなり」
『御当代記』と書き加えている。
また、お七の恋を仲立ちした遊び人の吉三郎(喜三郎)が3月29日に
火罪になった判決記録『御仕置裁許帳』は残っている。)


悔い残し余白残して綴ず暦  上田 仁


(※4 「八百屋お七の物語」は、恋人の名や登場人物、寺の名やスト
ーリーなど設定はさまざまで、井原西鶴『好色五人女』で八百屋お七
の物語を取り上げており、また、江戸で頻発した大火の見聞記『天和笑
委集』では、お七処刑の天和3年(1683)のわずか数年後に出され
た実録体小説としてお七事件も取り扱っている。それが、これ!と ↓ )


マッチ一本月下美人の乱れ跡  山口ろっぱ



お七と庄之助


『天和笑委集』(お七事件)
江戸は本郷森川宿の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は、
小さい頃から勉強ができ、色白の美人である。両親は、身分の高い男と
結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日の火事で、八百屋市左
衛門は、家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17
歳の美少年がいた。庄之介は、お七を見て心ひかれ、お七の家の下女の
ゆきに文を託して、それから2人は手紙のやり取りをする。やがてゆき
の仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋に
ゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせて同衾させると引き
下がった。


相聞の愛は中心まで赤い  秋田あかり


翌朝、ゆきはまだ早い時間に、眠る両親の部屋にお七をこっそり帰した
ので、この密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を
重ねるが、やがて正月中旬新宅ができると、お七一家は、森川宿に帰る
ことになった。お七は庄之介との別れを惜しむが、25日ついに森川宿
に帰る。帰ったあとも、ゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄
之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれ、お七の思いは強く
なるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日に
お七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、家の近くの商家の軒の板間
の空いたところに炭火とともに入れて、放火に及ぶが、近所の人が気が
付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだ
ったのでその場で捕まった。


マッチ擦る十五の夜の路地裏で  河村啓子


奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火
などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身
で誰を恨んで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?
正直に白状すれば、場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うが、お
七は、庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず、「恐ろしい
男達が来て、得物を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば
害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく
尋ねると、要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ない
とお七は、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑が決まる。


好奇心忘れることに忙しい  美馬りゅうこ



鈴ヵ森にひかれるお七

 
お七は3月18日から、他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装
は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ、蒔絵のついた玳瑁の櫛
で押えた髪で、これは多くの人目に恥ずかしくないように、せめてもと
下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪に
なる6人は、3月28日、やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り
囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。
大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎は、おとなしく
処刑されている。お七の家族は、縁者を頼って甲州に行きそこで農民と
なり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は、4月13日夜にま
ぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている。
(※5 「天和笑委集」柳亭種彦豊芥子などの評論などによって、
各種の作品の中では、事実に近いであろう物として評価されている。)


紫の雲に隠れた夜半の月  宇都宮かずこ
 


お七と吉三郎


『好色五人女』八百屋お七物語
元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は、類の無い美人
であった。天和元年、丸山本妙寺から出火した火事で、八百屋太郎兵衛
一家も焼け出され、小石川円乗寺に避難する。円乗寺には、継母との間
柄が悪く、実家にいられない旗本の次男で、美男の山田左兵衛が滞在し
ていた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲
になっていた。


愛憎のその真ん中は震度三  中島 華


焼け跡に新宅が建ち、一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていた
あぶれ者で、素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、
自分が博打に使う金銀を要求する代わりに、二人の間の手紙の仲立ちを
していた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して、吉三郎は、
「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす。
吉三郎はお七に火事をおこさせて、自分は火事場泥棒をする気でいる。


火を借りて口説き文句を考える  中村幸彦


お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する
気になったお七吉三郎、「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、
恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。
風の強い日にお七は、自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚き
お七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけて
きた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は、
「火を付けたのは自分では無く、八百屋太郎兵衛の娘お七だ」という。


ひだりむねの肋骨辺りから失火  清水すみれ



土井利勝


中山勘解由が、お七を召しだして尋ねると「確かに自分が火をつけた」
と自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。
そのときに幕府の賢人・土井利勝、「悲しきかな。罪人が多いのは政
治が悪いからだ」とも言い、又「放火は大罪で火あぶりにするべきだが、
か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろ
しい国だと笑われるだろう」と言い、中山勘解由に「15歳以下なら
ば罪を一段引き下げて遠島(島流し)にできるではないか。もう一度調
べよ」と命ずる。


逃げ道をそっと残して責めてやる  奥野健一郎


井大炊頭の意を汲んで勘解由は、お七が14歳だということにして牢を出
し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は、自分だけが処刑さ
れるのを妬み、奉行中山を糾弾する。中山は怒り吉三郎と口論するが、吉
三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺
の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので、中山も仕方なく天和
2年2月、吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする。


今ならば助けてやれた深い悔い  細見さちこ


  
     井原西鶴              馬場文耕
 
 
実は古来より、お七の実説として、『天和笑委集』『近世江戸著聞集』
(馬場文耕)が、「恋のために放火し、火あぶりにされた八百屋の娘」
伝えて
いるが、実は、お七の史実はほとんどわかっていない。
お七時代の江戸幕
府の処罰の記録『御仕置裁許帳』には、西鶴の好色五人
女が書かれた貞享
3年(1686)以前の記録には、お七の名を見つける
ことができない。

「お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も」事実として知る事はできず、
それどころか「お七の家が八百屋だったのか」すらも、それを裏付ける確
実な史料はない。真相は「闇」の中、いや「炎」のなかなのである。


千の葉の千の散り方秋深む  合田留美子

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二条城の鶯張りは江戸訛り  岸井ふさゑ



『子供遊世直し祭り』 (慶応4年・作者不明)

と書かれた酒樽の横で子供が天子の菊紋の扇子を広げ踊る、その神輿
を担いでいるのは「丸に十の字紋」の薩摩と「一文字三星紋」の長州。
先頭
の衣冠束帯の子は有栖川宮。その後ろでたじろいでいるのが和宮
篤姫
オレンジの腹がけの子は、徳川慶喜という設定。


渋沢篤太夫たちがパリへ旅立った後も、引き続き徳川慶喜は、幕府の立
て直しに取り組んでいたが、長州藩の処分や兵庫開港などの問題を巡り、
薩摩藩と対立する。西郷大久保が主導権を握っていた薩摩では、慶喜
を将軍の座から引きずり下ろし、天皇をトップとする政体の樹立を目指
そうという声が日増しに大きくなった。そのためなら慶喜との武力対決
も辞さないという気運も高まる。


正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝



慶喜の処遇で会談する勝海舟と西郷隆盛

 
「青天を衝け」 慶喜、その後


「鳥羽・伏見の戦い~」
西郷隆盛たちは天皇による政治、つまり、王政復古の実現を唱える公家
岩倉具視とはかり、「慶喜追討」の天皇の命令書の交付を朝廷に願い
出る。慶応3年10月14日薩摩・長州藩主宛に倒幕の密勅が下ったが、
同じ14日に慶喜が「大政奉還」の上表を提出、すなわち政権を朝廷に
返上したことで、西郷たちが打倒を目指していた幕府は倒れた。24日
に慶喜は将軍職を表明し、諸侯の列に下りた。260年余、政権の頂点
にあった徳川は、一介の大名になったのである。


甘い夢すてよとドクダミの臭気  銭谷まさひろ


むろん慶喜は、転んでもただで起きるつもりはない。慶喜は幕府をみず
から消滅させるという奇策により、政局の主導権を握ろうと企んだので
ある。「長らく政権から離れている朝廷に政治は行えず、自分(慶喜)
を頼って来るだろう」という算段があったのだ。
こうした意を受けて親幕派から、慶喜を新政府のリーダとして、擁立し
ようとする動きが盛んになりつつあった。「倒幕はなったが、徳川政権
が形を変え存続しかねない」という、討幕派の思惑とは異なる事態を受
けて、西郷らは、危機感を覚え、慶喜をはじめ親幕派の会津藩を排除し
ようという計画が企てられる。


正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝


以後1ヶ月近く、双方は睨み合いを続けるが、翌4年1月3日、京都南
郊の「鳥羽と伏見で開戦」となる。はからずも慶喜はこの戦いに敗れて
しまい、「朝敵」に転落した。禁門の変での長州藩の立場となったのだ。
形成を展望していた諸藩は雪崩を打って、朝廷軍の旗印「錦の御旗」
掲げられ、今や官軍となった薩摩・長州藩の側に付いた。
ここに相次ぐ敗報、さらには朝敵とされたことで、慶喜は戦意を失う。
6日夜、密かに大坂城を脱出すると、海路江戸に向かった。7日、朝廷
、「慶喜追討令」を発した。


人波に漂いたいと思う今  石橋直子
 

ーーー


大坂城を脱出した慶喜が、江戸城に戻ってきたのが同4年1月12日の
ことである。それから約1ヵ月、徳川家では和戦をめぐって激烈な議論
が交わされるが、慶喜は諸般の情勢を分析した結果、新政府に反省の意
を示すことで、寛大な処置を願う恭順路線を選択する。
以後、勝海舟をして新政府との交渉にあたらせた。


如才なく凍土に埋めておきました  加納美津子



弘道館 至善堂


2月12日、慶喜は、江戸城を出て徳川家菩提寺の上野・寛永寺に入り、
子院大寺院の一室に謹慎した。身をもって恭順の姿勢を示したが、これ
に反発する幕臣は多かった。そうした反発が「彰義隊」の結成へとつな
がっていく。慶喜が寛永寺に入って1ヵ月後の3月13日、江戸の薩摩
藩高輪屋敷で総督府参謀の西郷勝海舟との会談が始まる。14日の再
会談で15日に予定されていた「江戸城総攻撃」は延期され、慶喜の助
命も決まる。4月11日、「江戸城明け渡し」が行われ、その日、慶喜
は寛永寺を出て水戸へ向かい、今度は水戸・弘道館 至善堂での謹慎生活
が始まる。


転がっていった淋しい音だった  居谷真理子


 一方、パリにいる篤太夫は、フランスの新聞記事で、慶喜が鳥羽・伏見
の戦いで敗れて、江戸城に逃げ戻ったことが書かれていたが、篤太夫は、
<虚説であろう>と言って、一向に信じなかった、と、使節団の世話役
をしていたビレット中佐が語っているが、3月16日到着の御用状には、
フランス新聞と同じことが書かれていた。この時、慶喜が朝敵になった
ことも知った。篤太夫たちが、徳川家や慶喜の有様に嘆き悲しんだのは、
言うまでもない。そして自軍への怒りも隠そうとはしなかった。


生真面目な方の自分が邪魔をする  中村幸彦


その篤太夫の悲憤慷慨は、昭武信書の名目で慶喜に送った書状でわかる。
 『殿下がさきに大坂を御立退になって関東へ御帰城になったのは実に
頼もしくない思し召しである。また、たとえ御帰東なされたとて、なぜ
速やかに兵を挙げて京都に向かう御手配はなされぬのであるか、今日の
朝廷というは、つまり薩長二藩であるから、これを討滅するにおいてさ
まで困難ということもあるまい、もし、また最初から真に<朝意を遵奉
して恭順を事とする>の思召しならば、何故、伏見下鳥羽の戦争を開か
れしや、既に先端を開いた以上は、万やむを得ざることであるから…、
いわゆる<強き者の申分は、いつも好くなるもの>というフランスの諺
に従って断行したならば、勝遂げぬということはあるまい』『雨夜譚』


スッポンに噛みついたまま9秒9  宮井元伸
 


弘道館 至善堂で謹慎中の慶喜
 

「要約」
大坂城を退いて江戸に戻ったのは、実によくないことである。大坂城を
動かずに薩長両藩と戦うべきであった。たとえ、江戸に戻ったとしても、
兵備を整えて京都へ攻めのぼるべきである。朝廷を奉じて官軍を名乗っ
ているとはいえ、薩長両藩の討滅など、さほど難しくないだろう。すで
に開戦となったのであるから、今さら恭順の姿勢など取るべきではない。
「強者の言い分はいつもよくなる」勝てば官軍)というフランスの諺
も引用し、篤太夫、「戦い抜けば勝てないはずはない」のだと、決戦
を迫った。


日本がアルカリ性に変わるまで  田久保亜蘭



弘道館至善堂二の間・三の間で謹慎する慶喜の下絵
 羽石光志が慶喜の肖像画制作のために描いた構想下絵


パリで歯噛みしていた篤太夫たちに、新政府から帰国命令が下ったのは、
3月21日のことである。慶喜が恭順の姿勢を示すため、江戸城を出て
寛永寺に入ったことを、篤太夫たちが知ったのは、4月13日である。
帰国の命令書が届いたのは、5月15日だが、慶喜の処遇が決まった旨
が記された御用状もこの日に着く。江戸城開城と引き換えに助命され、
水戸での謹慎となった。遠くから何を言っても「今は信じるしかない」
フランスの新聞記事で、17日に、慶喜が水戸へ向かったことも知る。
江戸城も明け渡された。7月15日には、江戸で彰義隊の戦いが起き、
18日には、敗北も知った。9月4日、昭武一行はフランスを離れる。
一行を乗せた船・アルフェー号が横浜港に入ったのは11月3日のこと
だが、篤太夫は、日本不在中に起きていた衝撃の事実に茫然自失となる
のであった。


にんげんをジワリ崩してゆく月日  新家完司


「慌ただしい慶応4年の出来事をまとめてみると」
慶応3年1月11日 昭武一行パリへ立つ。
10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古
慶応4年 / 明治元年(1868)
1月03日 鳥羽・伏見の戦い
1月12日 慶喜江戸城に帰城
2月12日 慶喜、寛永寺の子院大慈院の一室で謹慎
2月15日 東征軍、京都を進発
2月23日 彰義隊誕生
3月14日 江戸城総攻撃中止(海舟、西郷会談)
4月03日 彰義隊、寛永寺に移る
4月11日 江戸城開城
4月19日 振武軍、田無村駐屯(隊長・成一郎)
5月15日 彰義隊の戦い
5月23日 振武軍、飯能で壊滅(渋沢平九郎、自刃)
5月24日 徳川家が静岡70万石に封ぜられる。
9月04日 昭武一行、帰国の途へ
9月22日 会津藩降伏
10月13日 明治天皇、東京に入る
11月03日 昭武一行、帰国
「帰国後の篤太夫の行動」
12月01日 血洗島村に帰郷
12月23日 静岡・宝台院で慶喜に拝謁
12月27日 静岡藩勘定組頭格御勝手懸りに


海側の一面 山側の三面  くんじろう

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干し大根祈りになってゆく途中  河村啓子



各国からパリ博へ来た人々を歓迎するナポレオン三世


「ナポレオン三世のパリ博における演説」
「この大博覧会には、世界各国より出品があって、太古の時代の事物よ
り最も進歩せる現代の事物に至る迄、一目瞭然と、之を識別することが
できる。加うるに各国の風俗習慣を知ることが出来る故、此の大博覧会
は、実に世界知識を向上せしむるものである」『青淵回顧録』渋沢栄一
(渋沢栄一は、フランス語がままならない中で、まさに万博の理念その
ものを理解できていた如に、要約した)


叫んでも鼻がこそばいフランス語  中村幸彦
 


1867年東京ドーム14個分のパリ博会場


「青天を衝け」 パリ大博覧会へ


慶応2年11月29日、渋沢篤太夫は原一之進から呼び出され、慶喜
内意として渡仏が打診された。君命とはいえ、外国人に激しい憎悪を持
っている篤太夫が、「このフランス派遣に果たして承知するだろうか」
と、原は不安を抱いていた。
将軍名代として14歳の徳川昭武に従って、水戸藩から御付きの7人の
藩士が随行するのだが、彼らはまた攘夷論者たちで、昭武を渡仏させる
ことに強い抵抗感を持っていた。幕府としては、御付きの水戸藩士たち
がフランスで問題を起こすのを危惧し、彼らを宥める役回りの者が必要
と考え、篤太夫を渡仏の一員に加えたのであった。


「できます」と言えばその気になる頭脳  川島良子


「栄一の処世談」
『私は夫れ迄と言ふものは、攘夷論者であつたが、然し四囲の状勢から
して、何時迄も鎖国主義を採つて居ることの不可能を知り、機会があら
ば西洋の事情も知りたいと思ふやうになつて居たからして、遂に意を決
してお供をすることになつたのである。…中略…一橋慶喜公に仕へた時
には、所謂、主従三世の誓ひを心に立て、飽くまで慶喜公と生死を共に
する決心であつたのだが、御令弟の民部公子が、仏蘭西に洋行せらるる
やうになるや、多少、私を用ふるに足ると思召されたものか、<今後の
時勢は如何変るか、逆睹し得るものでないから、渋沢の如き男をつけて
やれば心配で無い>といふので、私が民部公子に御供を致すことになっ
たのである。然し、当時、私の身分は極低かつたので、「御傅役」とい
ふわけに参らず、単に随従の名義で御供を致したのである』


鼻の穴広げて道の真ん中に  酒井かがり



パリ博日本館


このパリ万博に出展することになった日本だが、当然、彼らはその背景
など全く知らないまま参加した。駐日公使のレオン・ロッシュを通じて、
パリ万博への招聘が届いたのは、慶応元年(1865)のことである。
当時の幕府は、いずれ薩長と一戦交えるかもしれないという、危機感を
抱いていた。戦のためにはお金が必要だ。ロッシュは万国博覧会に参加
して日本の製品を展示すれば、商売につながると助言した。有田焼など、
日本の物が海外でも人気だ、と聞いた幕府は考えた末、大名や豪商らに
万博への参加を呼びかけた。これに応じたのが佐賀藩・薩摩藩と江戸の
商人だった。


乗り換えの耳にふわりと鼻濁音  加藤ゆみ子
 
 
 
スエズ運河開通
 
東洋と西洋の結婚式とも呼ばれる、地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、
明治 2 年(1869)11 月 17 日、開通した。


慶応3年(1867)1月11日、昭武一行(総勢29名)を乗せたフ
ランス郵船「アルフェー号」で横浜港を出港しヨーロッパへと旅立った。
海路→スエズ運河開削工事のため、途中陸路に変え→海路と繋いで、フ
ランスのマルセイユに到着したのは2月29日、そして3月7日にパリ
に入った。篤太夫に与えられた具体的な任務は、昭武の事務官としての
庶務・会計と書記だった。昭武の信書の代筆もし、御付きの幕臣や水戸
藩士への月給の支給、あるいは雑品の購入なども、篤太夫の担当だった。


開拓者たらんと挑む試験管  土方かつ子 


長旅にも、地中海と紅海を結び、ヨーロッパとアジアを最短距離で連結
するという「スエズ運河開削の巨大工事」を目の当たりにして、篤太夫
は、その技術と規模の大きさに最大級の関心を持った。
これだけ巨大な土木工事をするのに、資金は一体どこからでてくるのか
さらにスエズ運河会社が工事を担っていると聞き、篤太夫はさらに大き
なショックを受ける。会社とは何だ、これが渋沢の「株式会社」とのフ
ァーストコンタクトだった。
 
 
今日からは春だ私がそう決めた  居谷真理子 


船上では、フランス語の習得に勤しんだが、船酔いがひどく、思い通り
にはいかなかったようだ。しかし適応能力に優れていたため、西洋式に
全く馴染めない者たちをよそに、船で出されるヨーロッパスタイルの食
事にも早くから興味を持ち、受け入れることができた。


漂っているだけなのに腹が減る  橋倉久美子



渋沢が妻千代から顰蹙を買ったスタイル


渡仏中、故郷の父や妻・千代、成一郎惇忠とも書状を交わしているが、
千代には自分の写真を送っている。羽織袴で草履を履き、腰には両刀を
帯びた姿でフランスへ向かったものの、フランスでは髷を切って洋服姿
となり靴を履くようになった。郷に入れば郷に従ったのだが、篤太夫は、
写真館で西洋式の正装姿を撮らせている。フランスの散髪屋で髷を切り、
シルクハットをかぶり、燕尾服を着て、手には、ステッキを持つ姿だっ
たが、この写真が大顰蹙を買う。「こんな情けない姿はやめてほしい」
と、妻の千代が手紙で訴えてきたほどである。


雲ぷかり私もぷかり梅雨晴れ間  雨森茂樹



世界の驚愕の展示品


パリ滞在中は式典に出席し、各国の出展品を見学する一方で、凱旋門な
どパリ市街の様々な施設を視察した。フランス政府の賓客として、皇帝
主催の舞踏会にも出席し、皇帝からの招待を受けオペラ座で観劇もした。
外務大臣官邸で開催された舞踏会に招待されたときのことである。
そこで大胆に肌を露出したドレス姿で華やかに踊る女性に、一同は驚愕
する。「けしからん」と侍たちは眉をひそめたが、篤太夫だけは、なぜ
彼女たちがこのような格好をするのか、疑問に思った。舞踏会だけでな
く、篤太夫は「社交」の目的について、深く理解していた。
例えば、万博の時にナポレオン三世とロシア皇帝が、競馬で賭けをする
場面があった。普通なら皇帝が賭け事なんて思うところだが、篤太夫は、
これも一つの社交場の嗜みなのだろうと理解した。


そういえばそうねとしっぽ揺れている  宮井いずみ



フランスの床屋で髷を落とした渋沢


さて、昭武の留学期間は5年の予定であり、篤太夫のフランス滞在も数
年に及ぶはずだったが、本国の情勢は、それを許さない大変動があった。
「大政奉還」である。この衝撃的な情報をパリにいる渋沢たちが目にし
たのは、慶応4年正月ことだった。日本から船便で送られてきた幕府の
御用状に、慶喜「大政奉還」したことが書かれていた。
御用状とは幕府や藩が発した公的な書状のことだが、日本との書状のや
り取りはどうしても、2ヵ月ぐらいの月日がかかった。


カンガルーの最短距離のジャブ  井上一筒


「栄一の処世談」
 『然るに、彼地に着いてから幾何も無く日本には、愈々、大変動が行は
れ、殆ど凡ての人が呼び返される、と云ふことになつたので、期せずし
て私一人が、民部大輔の百事のお世話をする、と云ふことになつたので
ある。斯に於て私は、恰も六尺の孤(りくせきのこ)を託されたやうな
気分で、其命を全うすることに努めたのである』
(六尺の孤=誰からも助けられることなく、一人で事に当たること)


十字架の形の飴をなめている  くんじろう


しかし、渋沢たちは、その情報はすでに知っていた。フランスの新聞に
掲載されていたからで、続報も掲載中だった。
江戸には、各国の公使館があり、横浜や長崎などの開港場には領事館も
あり、外国商人たちも大勢いる。公使館、領事館、外国商人からもたら
された情報が先行し、新聞記事になったわけである。
渋沢たちは日本から御用状が届く前に新聞で日本の情勢を知ったものの、
虚脱して誰も記事を信じなかった。確報を得たのが、皮肉なことに故国
からの懐かしい知らせだった。大政奉還から二ヵ月以上も経過した慶応
4年1月2日の夕刻に御用状が届いたのだ。知っていたとはいえ、改め
て知らされた真実は、青天の霹靂であった。


生臭いものは新聞紙で包む  森田律子


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日本へ帰る数日前に昭武に贈呈されたスイスの時計


この翌日の3日に「鳥羽伏見の戦い」が始まった。
政権返上から、「鳥羽伏見の戦」で幕府が薩長に敗れ、敗軍の将となっ
徳川慶喜は、朝敵に転落、亡国の臣となってしまったのである。
昭武一行の留学期間は、5年の予定であり、篤太夫のパリ滞在も数年に
及ぶはずだったが、本国の情勢がそれを許さない。留学など続けられる
状況ではなく、パリ滞在はおよそ1年半で突如、終わりを迎える。
そして、慶応4年9月4日、昭武一行はマルセイユから、来た時と同じ
ベリューズ号に乗り、フランスに別れを告げた。


ミカン剥きながら別れのタイミング  真島美智子


「栄一の処世談」
私が初め出発に際しては、少くとも五ケ年位は彼地に留つて大いに勉学
するつもりであつたが、国元に於ける幕府の変動からして費用も途絶え、
実家の方から取り寄せようとして居ると、遂に帰国せよとの命があつた
ものであるから、初志を果たさずして僅か一年余りで帰国したのである。


お祭りに迷彩服は似合わない  菊地良雄

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本物の大御所今日も野良仕事  新家完司
 
 

目黒行人坂の火事  (武士と市民が力を合わせ消火にあたっている)

江戸の街は、窮民が増え、盗人や物取り目的の放火や衝動的な放火が相
次いだ。これは僧の真秀が起こした放火で即時、捕らえられ市中引き回
しののち、小塚原で火刑に処された。


「松平定信」
松平定信は、八代将軍・吉宗の孫。天明3年(1783)26歳で白河
藩主になり。天明7年、松平定信が老中首座へと抜擢されると、天明の
江戸打壊しを頂点とする深刻な幕政批判に対処すべく、「寛政の改革」
を断行。新政権の陣容をがらりと入れ替えた。
田沼派の大老・田沼直幸・松平康福・水野忠友らは追い出され、定信に
忠実な松平信明・松平乗完・本多忠壽を老中に据えた。諸奉行も田沼色
に染まっていない「清廉潔白」を目安にして選ばれた。
そのため多くの役職で、清潔だが仕事が出来ない役人が生まれた。
その分、江戸は無政府状態に陥り、札差・米屋・酒屋・質屋・など暴利
を貪っていた豪商・商家約8千軒が襲撃された。江戸は悪党が好き放題
にできる無法の町になった。


真夜中のアッで始まる無神論  森田律子


「火付盗賊改」 よしの冊子&堀帯刀秀隆
 

 
 奢侈禁止令に抗う「よし」


寛政の改革を断行した老中・松平定信が城中・市中の動静をつかむため、
隠密を用いて情報を収集した『よしの冊子』という記録がある。
定信が老中を勤めた天明7年~寛政5年まで、定信の家臣・水野為長
統括役になり、定信の老中首座就任と同時に「諸役人の人物柄から勤務
ぶり、同僚間の評判、また、市中の動静を見聞、探索させた」。為永は
三日から十数日ずつ、隠密の報告をまとめて筆記し、主人の定信が上覧
できるようにした。一段落ごとに「そのようだ」という伝聞を意味する
「よし(由)」とあることから「よしの冊子」と呼ばれるようになった。


辞書は字が本屋は本が多すぎる  中野六助


定信は30歳という若さで老中になり、その翌年には、幼い将軍家斉
補佐として政務を執り仕切ることになる。多くの場合、京都所司代や若
年寄などの要職を経た人が、老中になるのが筋道だが、田沼意次の穢れ
た賄賂時代許せなかったこともあり、それまで政府の要職に就いたこと
がない、それだけに清廉潔白な人物であり、8代将軍吉宗の孫にも当る
ことから、老中の首座に担ぎ上げられた。
しかし、裏を返すと、政府の内部事情をほとんど知らなかった。
ゆえに「よしの冊子」というものを必要とした。


世界一内気だと思う・・たぶん  河村啓子


「よしの冊子」が執筆された期間、世情の真っただ中にいたのが火盗改
長谷川平蔵であり堀帯刀であった。ゆえに平蔵については、比較的多
くの記述がある。が、定信も為永も、反田沼意次が政治的出発点だった
ので、意次に近かった平蔵に対しては、過度な敵意と中傷から始まって
いる。その後、頻繁に届く平蔵の日々の活動振りを知るにつれ、為永は、
平蔵に対する悪感情を強めていった。しかし、8代将軍の孫である定信
には、そんな気遣いはなく、正確な情報は届かない。


ブルータスあんたも海鼠型の耳  井上一筒


「よしの冊子」は、長谷川平蔵を次のように書いている。
「長谷川は山師・利口者謀計ものの由。当春御加役中も、すわ浅草辺出
火と申し候えば、筋違御門近辺にも、自分定紋の高張提灯二帳に、馬上
提灯四、五帳も持たせ人を差し出し、浅草御門近辺にも、同様にいたし
…中略…金銀の入り候事は何とも存ぜず、人が提灯三十帳拵え候えば、
自分は五十も六十も拵え申し候よし、甚ださえ過ぎた事をいたし申し候
ゆえ、危なきと申し候ものも御座候よし」


猫の目の義眼を入れた狙撃兵  宮井いずみ



奢侈禁止令に抗う 「猫のせかい」(歌川芳艶)


為永は、大量の提灯を買い付ける平蔵の金の出所を「やばく(危く)な
いか」と見当違いの邪推をし、こんな風に、平蔵の悪評を定信にインプ
ットしているのだ。これにより定信は、平蔵に対して、最後まで嫌悪感
を持ち続けた。為永の記す「よしの冊子」では、平蔵に対して、「山師」
「姦物」「術者」「利口者」「謀計者」「追従者」などと口汚く悪評し
ており、定信のプライベートの記録文書だけに、一度吹き込まれた下僚
の旗本に対する偏見は、権力のトップにある者にとって、修正されるこ
とはない。田沼意次に近かったこともあるが、根も葉もないことを書か
れて、定信に嫌われるのだから、心の広い平蔵とはいえ、たまったもの
ではない。


右の頬ぶたれ左の頬を出す  中村秀夫


「よしの冊子には、寛政元年の夏の噂として、こんな話も。
「将軍家斉にお姫様が生れたのを祝って、178歳の男が137歳の妻
とともに、自分の白髪を献上したよし」
というのである。どう考えてもホラ話である。こんな情報をなんの衒い
もなく流す「よしの冊子」は、いい加減度もかなりのものがあった 由。


思い切り顔を拭いたらずんべらぼん  木本朱夏  
 


横田松房の取り調べ方


「火付盗賊改」 堀帯刀
火付盗賊改は、役高1500石、役料40人扶持であるが、出費が多い
役目なので、2~3年も務めると実入りのよい遠国奉行に役替えになる
のが通例であった。
長谷川平蔵から三代前の贄正寿(にえまさひさ)は、堺奉行に転出した。
この堺奉行への出世は、彼の職務における評判の良さと「火盗改」とし
ての活躍が評価されものであった。贄が堺奉行に転任後に「火付盗賊改」
の本役を任されたのは、贄とは対照的な「荒者」として名高い横田松房、
通称源太郎である。「火盗改」には、中山勘解由山川安左衛門・藤懸
伊織など名高い猛者が何人もいるが、横田は彼らとは異質の苛烈な取り
調べで恐れられた。この横田松房の助役を務めたのが、堀帯刀である。


あんな奴の吐いた空気を吸うている  居谷真理子


「十一月十五日先手組頭・堀帯刀秀隆盗賊考察の事承る」
横田松房に代わって火付盗賊改に就いた堀帯刀は、4年前に冬季の助役
(補佐役)を務めたことがあり、再任して天明5年11月から同8年9
月までの2年10 ケ 月と比較的長い間、本役に就いた。「火盗改メ」
いうと江戸市中では「泣く子も黙る」と恐れられた猛者揃いであったが、
数多い火盗改の中には、先祖の武勇は薄れ、凶悪な悪党と渡り合う気迫
に欠ける者もいた。
「帯刀は寒中に綿入れを着てコタツで震えているのに、用人は身代豊か
で女を囲っている。帯刀はひたすら気がよくて、用人が私腹を肥やして
いるとは思いもよらない」よしの冊子)


影がないクリームソーダ飲んでから  酒井かがり



代官所執務風景


堀帯刀の火盗改メ・本役就任を知った長谷川平蔵は、2年後に自分が堀
本役とともに火盗改メ・助役を務めることになろうとはおもいもしなか
った。というのも、火盗改は、先手組頭から選抜されるしきたりで、平
蔵は西丸・徒頭に抜擢されてまだ1年経っていなかったからだ。


内臓にドン・キホーテがもう一人  通利一辺


「肌はあさぐろくずんぐり、声のみが高かった、無遠慮な、あのご仁が
なあ」平蔵は4年前、九段坂東の中坂下の席亭・美濃屋で、火盗改本役
に就任した贄正寿の傍らにいた助役・堀帯刀秀隆の印象を思いうかべな
がら細く呟いた。とりもなおさず、贄正寿の引きあわせで面識ができて
いた堀帯刀が、先手頭に指名されたというので、平蔵は、酒の角樽を用
意して祝辞をのべに裏猿楽町の屋敷を訪れた。玄関の式台に用人と名乗
った貧相な男があらわれ、角樽を受けとり、「主人がよろしくと申して
おります」と、挨拶もなく不愛想な表情を残して、立ち去った。


言う人を間違ったようですかしこ  宮井元伸


「なんですね、あの態度は!」
 門を出たところで平蔵の付き人の松造が、唾をはきながら呟くほど礼儀
を知らない用人だった。
「松、言葉をつつしめ。まあ、ああいうのを虎の威を借りるやからとい
うのだ」
 「しかし、殿。堀さまは、殿の先達でもなければ、引き立て人でもあり
ません」
「そう、怒るな。腹を立てた分だけ腹が減って、損をみるのはこっちだ。
もっとも、堀様は家禄が1500石、先手組頭の格も1500石だから、
足高なしの持ち高勤めで、足が出ているのがご不満なのであろうよ」


いつだって敵の一人として愛す  相田みちる


帯刀は家禄1500石で、平蔵の400石よりはるかに多いが、同僚の
間では、極貧として名高かった。それというのも、家政を取り仕切って
いる用人に、家禄の多くを横領されていたからである。このような帯刀
の日常に、「よしの冊子」
「堀帯刀は先手の組頭たちの中でも一体に正直者だが、用人が悪いから、
自然と世評も悪くなっている。解任されても仕方がないのに、お役を続
けていられるのは、ありがたいことと思わねば、との評判が立っている
よし」と書いている。


底のない財布が悲鳴上げている  菱木 誠
 
 
「強将の下に弱卒なし」というが、こんな頭だったから帯刀の先手弓組
一番組は、士気があがらなかった。あるとき、堀組の同心が麹町の路上
で無法な陸尺(駕籠かき)を縛ろうとしたが、逆に押さえつけられて縛
れなかった。同心はこのことが表沙汰になるのを恐れ、謝った上に詫び
証文を書いた。が、この同心後にこのことが知れて入牢されている。
 「帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいい
よし。だから用人や組下の者にもいいように利用されているよし」
                          (よしの冊子)


蒟蒻の裏と表の間柄  新海信二


とにかく堀帯刀は、やる気がなかった。
労多くして得るところは少なく、そればかりか、私財を投入しなくては、
とても務まらない役職である。
「このお頭は、盗賊改方の特別手当として、幕府から支給される役料ま
でも、<あわよくば、己の懐へ>という人物であり、平蔵のように私財
を投げだしてまで、お努めする気などさらさら感じられないよし」
帯刀は最初の夫人(松平正淳の次女)は、1女1男を産んあとまなく亡
くなり、後妻をつぎつぎと4人も迎えている。「秀隆(帯刀)は、自分
の人生のはかなさ、家族との縁の薄さ、ツキのなさに嫌気がさしていた
のではないだろうか」と、こんな同情の声もなくはない。


コンニャクに似た悪友の立ち姿  大下和子



奢侈禁止令に反骨精神で挑んだ浮世絵「猫の戯れ」 歌川国芳


帯刀は天明8年9月、三年近く務めた「火付盗賊改」を役替えになった。
ふつう次には、家計がうるおう遠国奉行、なかでも、堺奉行や奈良奉行
などや役得の多いポストに任命される。帯刀も奈良奉行への転役を打診
されたが、「江戸を離れては、年老いた母が嘆く」と辞退して、先手頭
から「持筒頭」を命じられた。火盗改から持筒頭に昇進しても、
 「堀帯刀は、組下が差しだした願い書なども、上へ取りつがない。とに
かく世話をやくのが嫌いらしい。与力たちが、頭の帯刀へ願いを差しだ
しても上へ進達しないので、この三、四年が間、与力たちは帯刀を恨ん
でいるよし」よしの冊子)と、悪口が書かれている。


もうすでに尻尾は北の枯れ芒  井上一筒


この役替えの時に、漸く、横領を続けていた用人に暇を出した。
「なんでもっと早く解雇しなかった」のかと、同僚は他人事ながら悔し
がっている。
「堀帯刀はいたって貧窮のよし。御先手から持筒頭になったので、幕だ
けでなく他にも物入りが増え、その幕もつくりかねているほどに極貧の
よし。先手組頭時代の用人は、悪者だったのでこの際、暇をだしたよし。
惜しいことだ、もうすこし早く暇をだしていたら、新番頭か遠国奉行に
なれたものを、といわれているよし」 よしの冊子)


左脳だけ使って錆びて来た右脳  伊藤良一


解雇された用人とは、別の用人の証言によると。
「思いもかけず持筒頭を拝命しましたが、これはありがたいことです。
それゆえ、主人もどんなことがあっても、2、3年はこの役をつづけた
いものだと申しております。せっかく任命されたのだから、「どんなに
貧乏をしようとありがたいご処置を忘れないように勤める」と私どもへ
も話しております。まことに主人は加役中、先の用人が心掛けが悪かっ
たために、周囲での帯刀の評判を損なっていました。しかし、主人帯刀
はそんな人物ではございません」


悲しいのに笑う悔しいのに笑う  日下部敦世



平蔵の市中見回りのスタイル


堀帯刀に代わって火付盗賊改の本役に就いたのが、それまで帯刀の助役
を務めていた長谷川平蔵であり、代わって平蔵の助役になるのが、上役
の平蔵より5割ほど多く給料を取っていて、ちょっと変り者の松平左金
である。ここからの平蔵の主な活躍の一部は、先に書いたので、ここ
では割愛する。


歴戦を語ることなき火縄銃  木口雅裕


「長谷川平蔵の役替えについて」
寛政3年12月ころ長谷川平蔵の役替えについては、町奉行就任の話が
幕閣で議論された。
「大阪(町奉行)へは是非平蔵が行きそうなものだ。アレもせめて大坂
へでも行かずば腰が抜けようときた仕り候よし」 (よしの冊子)
抜けるとは、火盗改役を真面目に勤めれば役高・役料以上の出費が嵩み、
「腰が抜ける」即ち、貧窮する役職と言われた。そのため2~3年勤め
たら、余禄の多い堺奉行や大阪町奉行などの遠国奉行に転任させること
が普通は行われた。が平蔵の場合には、そうした配慮が一度もとられな
かった。


パーフェクトに咲いて散れなくなりました 岩田多佳子


幕閣の議論の中で最も可能性の高い候補として、空席になった大坂町奉
行に、平蔵が任命されるかと見られたが、この転役もなかった。
転役・栄進の話がいつも立ち消えになるのには、平蔵を強力に推薦する
人物がいなかったからである。大坂町奉行は、無論のこと、町奉行への
抜擢も決まったであろう。
定信自伝『宇下人言』に平蔵を「左計の人(山師的)にあらざれば」
「長谷川何がし」のように冷たく記すところに、定信の清廉な性格にみ
る平蔵を忌避する気持ちが表れている。
「長谷川平蔵転役も仕らず、いか程出情仕り候ても何の御さた、これ無
く候に付き、大いに嘆息いたし、もうおれも力が抜け果てた。しかし、
越中殿(定信)の御詞が、涙のこぼれるほど忝(かたじけ)ないから、
そればかりを力に勤める外には何の目当もない。是ではもう酒ばかりを
呑死であろうと、大いに嘆息、同役などへ咄合い候よしのさた」 
                         (よしの冊子)


吊るされてドライフラワー夢を見る  合田留美子



奢侈禁止令に反骨精神で挑んだ浮世絵 ・「亀喜妙々」歌川国芳
 

最後の「よしの冊子」
「長谷川平蔵は、いついつ迄も御役仰せ付けられ、さぞ困り申すべくと
取り沙汰仕り候由。一説に、他の加役は勤め候と身代を微塵に致し候え
ども、平蔵ばかりは身代をよく致し候に付き、身上の悪くなる迄御遣い
成される思召しだ。と取り沙汰仕り候ものも御座候よし」
ほかの旗本は火盗改を勤めると家産が逼迫・困窮するが、長谷川平蔵
金策の能力に長けていて、使い減りしないので、転役・昇進が行われな
かったというのである。上がこんな考えでは、従う者は報われない。
平蔵にとって、定信の傍に水野為永のような男がいたことが不幸だった。

この記録が「最後」になったのは、定信が失脚(寛政5年7月23日)
して老中を解任されたからである。そして同時に、密偵の探索も悪意の
ある水野為永の筆記も終わった。
                    「火付盗賊改の正体」参照
 
 
  お待ちくださいと忘れられたままで  岡谷 樹

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