忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49]

思い出し笑いをすると追加税  美馬りゅうこ
  
  
  
        
      吉沢亮            渋沢栄一
  NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役・渋沢栄一を演じる吉沢亮と
パリに滞在する総髪の渋沢栄一

 
栄一の古郷・血洗島村(埼玉県深谷市)は、利根川の南岸に位置する、
寒暖差に富む農村だった。物騒な村名は太古の神々の戦い、もしくは
平安の戦にちなむともいう。血洗いは「地洗い」に通じ利根川の氾濫
に際し、島のように残される村という由来もある。
この村に渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日に生まれた。
そして栄一が産声をあげた翌日・14日から、栄一主役の大河ドラマ
「青天を衝け」が始まる。脚本がどのように展開するか知りませんが、
栄一の為人を学習しておくと、ドラマが分り易く、面白くなるとおも
いますので、ここにざっと渋沢ストーリーを紹介したいと思います。



それは鼻スイッチではありません  河村啓子




          旧渋沢邸「中の家」主屋


「はじめに」
武蔵国血洗島村の農家に生まれた栄一は、人一倍おしゃべりで、幼い頃
から家業の「藍玉づくり」を手伝い、思わぬ商才を発揮する。
青年期には、従兄の喜作(高良健吾)らと「尊王攘夷」に傾倒、外国人
襲撃を計画するも断念する。逃亡先の京で徳川慶喜(草薙剛)の側近・
平岡円四郎(堤真一)に助けられ、思いがけず幕臣となる。
パリ渡航中に幕府が倒れ、その後も慶喜への思いを抱きつつ明治政府の
役人となり、租税や貨幣などの改革に携わる。33歳で明治政府を辞め、
民間人として数多くの事業を手掛けていく。



空が見えないA級の付けまつ毛  井上一筒



「渋沢栄一とはどんな人」 (栄一の少年期)
 
 
 

         「中の家」の正門
現存する東門と同じ、薬医(やくい)門の形式で建てられている・


血洗島村には、十数軒の渋沢家があり「前の家(まえんち)」「遠前の
家(とおまえんち)」「遠西の家(とおにしんち)」といった呼び名に
区別されていた。栄一の家は宗家にあたる「中の家」である。
中の家は、藍の他、麦と養蚕も手掛ける豪農だった。ことに藍葉は他の
農家からも買い付け、発酵・熟成の後、突き固めて愛玉に加工し、信州
や上州に販売する。加えて父の代から荒物(家庭用雑貨類等)も商い、
入った現金は質草をとって村人に貸した。栄一の生家は農工商をかねて
いた。



日に三度銭勘定をして暮らす  中村幸彦




帯刀した侍姿の渋沢栄一 (栄一17歳)
慶応3年(1867)フランス・パリで撮影。


栄一は中の家の三男に生まれた。幼名は市三郎。後に栄次郎、栄一郎、
栄一と改める。兄弟姉妹は十数人あったが、早世を免れたのは姉一人
と妹一人、それに栄一の三人のみ。そのため栄一は、長男として育てら
れた。
父の市郎右衛門は、村一番の富家で同族の東の家(ひがしんち)からの
入り婿だった。方正厳直ながら俳諧も嗜む風流人で、質素倹約を常とし
つつも慈善には熱心。傾いた宗家を村で二番目の富家に立て直した。
村内の信望も篤く、名字帯刀を許され、名主見習役になっている。



合掌の指の先から芽吹くもの  斉藤和子



母のゑいは、湯屋でハンセン病患者の背中を流すような、情の深い人だ
った。満五歳から父の指導で四書を読み『大学』『中庸』をわずか一年
程で読了。翌年、父の姉の息子で17歳の秀才、隣村の尾高惇忠(おだ
かっじゅんちゅう)の私塾に入門する。惇忠は、四書五経の暗記にはこ
だわらず、多読を推奨し、机上に限らず耕作の合間でも歩きながらでも、
気の向いたときに読むよう教えた。



昼は賢者で夜は過敏な幻燈屋  山口ろっぱ



栄一は『史記』『十八史略』『日本外史』を通読。また『南総里見八犬
伝』のような小説も大いに好んだ。年始回りの道すがらも、本から顔を
上げず、晴れ着のまま溝に落ちた年もあったという。
剣術は、満11歳になった嘉永4年(1851)3月、父の兄の息子、
渋沢新三郎に入門。力の剣法として知られた神道無念流を学ぶ。維新三
傑の一人である桂小五郎、新選組の芹沢鴨永倉新八と同流である。
家業の手が空く春、秋、冬には、10日ばかりかけて下野国(栃木)や
上野国(群馬)あたりを剣術修行で廻った。免許皆伝の記録はないが、
25歳の折、備中(岡山)で剣術師範を打ち負かした話は残っている。



時々は心に風を通さねば  靏田寿子
 

 
 
            藍玉通
父の代から藍葉を加工して紺屋に売る商売をしていた。


        藍 玉


満13歳のころからは農商業が生活の中心となる。藍葉の買い付けでは、
名人と呼ばれた父を真似て肥料の甲乙から刈り方の良し悪しまで的確に
寸評。面白い子だと感心され、買い占めに成功するなど商才の片鱗をみ
せた。17歳ころからは、藍玉代の集金やr注文取りで年に4回は信州や
上州、武州(埼玉)秩父の得意先を回った。農閑期に入ると藍葉農家を
招待して宴席を設け、作柄に応じた番付けを発表。番付の順に席次を決
め競争心を煽る。本場、四国は阿波の品質を追い抜くための工夫だった。



鞄からチラリあしたのはかりごと  宮井元伸
 
 
 
  「栄一誕生時の社会情勢」
栄一誕生の天保11年頃の日本は、7年前に始った「天保の大飢饉」
らようやく脱したところ。前年には長州の高杉晋作が、翌年には、伊藤
博文が生れ、同年には、チャイコフスキーや画家のモネ、彫刻家のロダ
が生れている。隣国の清では、2年いおよぶ「アヘン戦争」が始まろ
うとしていた。栄一誕生の4年後にはオランダ軍艦が長崎で開国を迫り、
9年後には英国船が「江戸湾の測量」を断行。ペリーの「黒船来航」
日本が幕末に突入するのは13年後に迫っていた。



信号がずっと黄色のままである  杉山ひさゆき
 
 


      渋沢邸「中の家」の十畳間


栄一が16歳のとき、血洗島村は、武州岡部藩・阿部摂津守信宝(のぶ
たか)の領だった。姫の嫁入りや若殿の元服など物入りの際、領主は有
力村民に融資を命じる。東の家が千両、中の家が五百両といった具合で
ある。その日、栄一が父の名代として、他の有力村民2人と陣屋に出向
いたのも、融資の命令を受けるためだった。父からは「御用の趣を聞い
てこい」とだけ言われていた。



燃やしてみるか才能の残りカス  森田律子



現れた代官は果たして五百両の融資を申し付ける。同行の2人は一家の
当主だったから、すぐに「承知」の返答が出来た。が栄一は名代である。
「御用金の高はかしこまりましたが、一応、父に申し聞かせ改めてお受
けにまかりでます」と答えるしかない。(渋沢自伝『雨夜譚』)



Y字路に来るたびサイコロを投げる  岸田万彩



「貴様は何歳になるか」
「ヘイ私は17歳でござります」(この時代の年齢は数え歳)
「17にもなっておるなら、もう女郎でも買うであろう。してみれば三
百両や五百両は何でもないこと。いったん帰ってまた来るというような
手ぬるいことは承知せぬ。直に承知したとという挨拶をしろ」
それでも栄一は
「父からただ御用を伺って来いと申し付けられたばかりだから」
と即答を避け、代官は
「貴様はつまらぬ男だ」
と栄一を叱り、嘲弄し、そしてついには折れた。



ほんのハナウタ渦を背中であやしつつ  酒井かがり



帰り道、栄一は考えた。
「領主は年貢を取りながら、返しもせぬ融資まで命じ、そのうえ人を軽
蔑嘲弄する。あんな無教養の代官でも、人を軽蔑できるのは、官職を世
襲する徳川政治のせいだ。自分も百姓のままでは、あんな虫けら同様の
人間にまで軽蔑されなければならぬ。さてさて、残念千万のことである」
栄一の怒りがすぐ幕政批判に結びついたのは、黒船に押し切られてしま
うような幕府への不信感が、すでに庶民の間にも広まっていたからだ。
わが身に降りかかった具体例が、それを実感させた。
この後、栄一は、晩年に至るまで官尊民卑の風潮を憎んだ。そして栄一
が抱いた不満は、やがて「尊王攘夷思想」へと育ってゆく。



忘れよう象に踏まれたことなんか  笠嶋恵美子

拍手[4回]

PR

たばこはくらげくらげはたこにあこがれる 藤本秋声
  
  
  
     
  豊国似顔絵(国貞)         武者絵(国芳)             景色絵(広重)

国貞は師・豊国のにがおえを、国芳は馬琴の挿絵で武者絵を広重は景色
絵で葛飾北斎の向こうをはった。
江戸寿那古細撰記』には、

「国貞にがおえ国芳むしゃ広重けしき」と、当時の名人を並記している。

 
 
文政13年(1830)、日本全国から500万人もの人が「伊勢参り」に出
かけたという報告がある。困難はあったであろうが、江戸時代の人々は、
予想外に自由にしかも安全に旅をすることが出来たのであった。
参勤交
代の制度は、早くから街道や宿場の整備を促し、18世紀になる
と、ど
のような山奥でも道が通じ、いかなる小島でも舟の便があり、あ
らゆる
階層の人々が頻繁に旅をするようになっていた。



地球という花器に明日を活けてみる  船木しげ子



さまざまな理由による旅があったが、庶民の旅といえば「金毘羅参り、
勢参り、富士登山」などの信仰の旅が中心であった。
しかし、その目的は
純粋な信仰であれ「弥次喜多道中」に典型的にみら
れるように、途中の
移動の間も実は大きな楽しみがあった。各地の名物
に舌鼓をうち、名所
旧跡は必ず訪れながら、のんびりと旅程をこなすの
である。旅行案内が
出版され、北斎や広重の「街道絵や風景画」が人気
を博すというのも、
当然のことなのである。



     東海道五拾三次之内  (日本橋 朝之景 広重)
西へ行くのも、東へ行くのも、ここからはじまる。




月と歩くあなたも休めないんだね  市井美春



「歌川広重」



歌川広重は、幕府の定火消同心安藤家に生まれた。つまり武士である。
本名は重右衛門。早くに父母を亡くした広重は、15歳のとき、浮世絵
師を目指して、歌川豊広の門に入った。翌年16歳で、師匠の画号の一
字である「広」と、本名の「重」の字をとって「広重」の画号を師から
命名されている。将来を嘱望されてのことである。しかし、21歳を過
ぎた頃から役者絵・美人画や合巻の挿絵などにかなりの数の作品を残し
ているが、特にヒット作もみられず、浮世絵師としては、ごく常識的な
活動範囲にとどまっていた。



ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて 太田のりこ



その広重が風景画家としての力量を発揮するのは、35歳(天保2年)
の頃に出された「東都名所」という風景版画においてである。事実上、
これが広重の風景絵師としての出発点となるが、広重は北斎を私淑して
いるところもあり、図柄の点で北斎の「富士三十六景」との影響関係が
かれた。
しかし続いて天保4年頃に保永堂から出された「東海道五十
三次之内」
では、北斎色は払拭され、広重独自の抒情的な風景画の世界
が展開して
いる。これが大成功をおさめると、広重は、押しも押されもし
ない風景
版画の第一人者として、浮世絵界の最前線に躍り出たのであった。




花は無臭にピエロは愛を待つのです 山口ろっぱ



東海道五十三次 亀山
別名・雪晴。
雪の降った翌朝、空気は冷たく限りなく透明であり、
大気は輝いている。
右上がりの斜線を基調とする手法をとった。




北斎(1760-1849)と広重(1797-1858)は、風景画家として一括りにされる
ことがよくある。美術愛好家の間では「北斎の力強い絵画世界と、抒情
的な広重の世界」のどちらを評価するかという議論がしばしばあるが、
容的には、はっきりと異なっているのである。
広重の場合に注目すべき
点は、季節、天候、時間といった自然の属性
さまざまに変化させて、各
宿場に配する、その仕方の巧妙さにある。



縦のものむりやり横にして遊ぶ 下谷憲子



東海道五十三次・庄野 白雨



例えば、天候である。
雨雪霧、そして晴天。それに時刻の別や昼夜の別
が重ねられる。
雨にしても、さまざまなシチュエーションの雨が用意さ
れている。
その他、月、風など自然のさまざまな要素を要所要所に取り
込み、
55枚という大部な揃物を変化に富んだものとしているのである。




富嶽三十六景  常州牛堀



広重の風景画作品は、彼が幕府の一行に従って東海道を旅行、京に上っ
た経験を生かして作画にあたったもの、といわれることがある。しかし、
秋から冬にかけての、この旅行の季節に符合しない、情景があったり、
ほと
んど雪の降らない静岡の蒲原を雪の景にしたり、別の出版物から図
柄を
借用していることも事実である。
これは北斎もおなじこと、名所でもなく、北斎が訪れた記録がない場所 
「常州牛堀」のように。作品のすべてについて、彼が実際の風景を見て
描いたわけではない。



パレットの真っ赤な嘘が溶けにくい 木村良一



富嶽三十六景 甲州石斑沢 
  
  
  
  「広重と北斎」 
自尊心の高い、そのくせ貧乏な孤高の年老いた絵師・葛飾北斎が37歳
も年下の歌川広重にメラメラと対抗意識を燃やす、といった面白い小説
がある。藤沢周平「溟い海」である。ざっとさわりを紹介しよう。


「シーン1」
「東都名所(一幽斎書き東都名所)」を出し、広重が売れっ子の出発点
となったのは、天保2年のことである。
その2年前、北斎は、広重のその「東都名所」という作品を見ていて
「非常に平凡で自分の座を脅かす存在になることはないだろう」と想っ
ていたことを思い出していた。そして、あの「東都名所」という凡庸な
絵を描いた広重が、町のチンピラにでさえ名前を知られるほどの評判に
なっているのは「何故だろう、東都名所から天保4年に出した『東海道
五十三次』はどう変わったのか」広重が少し気になり始めるのだった。



浮き雲の裏でゲリラを産みおとす  堀口雅乃



天保5年 。この時、北斎は73歳のとき、37歳も年下の広重を、多少
ながらも、意識したものか「画狂老人」「卍」の号を用いはじめ、次の
ような言葉を吐いている。
「私は6歳のころ物の形状を写し取る癖があり、50歳ころから数々の
図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足ら
ぬものばかりである。(そのような私であるが)73歳になってさまざ
まな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた」
 『己六才より物の形状を写の癖ありて半百の此より数々画図を顕す
といえども七十年前画く所は実に取るに足ものなし七十三才にして、稍 
禽獣虫魚の骨格 草木の出生を悟し得たり』



リンゴ落ちてから転がる道さがす 石橋能里子



北斎が版元・崇山房の主人小林新兵衛を訪ねた時、そこでも広重の「東
海道五十三次」の話が出た。
北斎は「どんな絵かいね」と尋ねた。
「風景に違いないのだが、先生のおっしゃる風景と、多分、少し違うと
思います」と言う。その言葉の中に、顔には出さないが、自分に対する
軽い嘲りが含まれているように感じたのだった。



ジョーカーのように扱われている黒  下谷憲子



広重が気になる北斎は、その足で版元・永寿堂を尋ねた。やはりそこで
も広重の話題につきた。やがてあって帰宅してみると、弟子たちが集ま
っており、広重の「東海道五十三次」のことでもちきりではないか。
そこで北斎は会話の中にあって、皆の意見を尋いてみた。
一人は
「平凡だ」と言い、一人は「先生の富獄のような、前人未踏とい
った感じののものは、一枚もない」と言う。
だが、一人の弟子は「平凡と言えば平凡です。先生の風景とは、また違

った、別の風景画を見たような気がした」と言う。
永寿堂の主人と同じ感想を述べたのだ。只、この時点で、北斎だけが、
広重の「東海道五十三次」を見ていなかった。



そういうことらしいがそれがどうしたの  安土理恵



崇山房から北斎、「貸していた東海道の絵が戻ってきた」と、連絡が
入り、早速出かけると、そこに崇山房の主の前に先客が来ていた。
主から紹介をされた男は、「歌川広重」と名乗った。
初対面同士である。
37歳も年下の広重は、少し躰を後ろに下げ、丁重に挨拶した。
その挨拶を受けた時、北斎は右の耳の下に、普通見かけないほど大きな
黒子を見つけてしまった。北斎はその時、彼の柔らかい物腰とは逆に、
放漫さを垣間見た気がしたのだった。



入道雲の真下にいると自覚する  山口美代子



それから崇山房の主人は
「これが広重さんの東海道の絵ですといって
北斎の前に絵を置いた。
北斎が見てみたいと思った絵である。
北斎は、一枚一枚を見た、どれもごく平明な絵。
さらりと描き上げられている。
『東都名所』と『東海道五十三次』を峻別するものはどこにあるだろう、
この平凡な絵の中に広重は、何かを隠していないかと探した。
やはり何もないと手を休めたとき、突然、鱗が落ちた。
霧が晴れたように東海道の平凡さの全貌が、浮かび上がってきたのだ。



座ったら針のムシロに変わる椅子  ふじのひろし



東海道五十三次 蒲原



広重の絵は、風景を切り取ったものだが、それは北斎も同じ。
北斎「三十六景」は、風景を画材として切りとったのに対して、広重
は無数にある風景の中から、人間の哀歓が息づく風景、人生の一部を切
り取り、それを描いている、ではないか。
北斎は恐ろしいものを見るように、広重の「東海道」のうち「蒲原」
いう絵を見続けた。



収まりは付かず抜き身のままである  石橋芳山  



一面静寂の中にシンシンと雪が降り続いていて、北斎はその雪の音を聞
いたような気がした。その秘かな音に重なって、巨匠と言われていた自
分の姿が地鳴りのように崩れていくのを感じ、思わず目をつむった。
北斎は丁度、黒々と身構える一羽の海鵜の背景を描いていて、初めは蒼
黒くうねる海を描いたが、やがてそれらの線を塗りつぶし、漠とした暗
いもの、深く「溟い海」のようなものを、黙然と書け続けるのである。



メビウスの輪に円周率をかいている  木村宥子



  名所江戸景 駒形堂吾嬬橋



「広重の進化」
広重は、天保期(1830-44)の前期に「東都名所(東海道五十三次)」のシ
リーズで、名所絵師としての地位を不動のものとし、その後も、多くの
名所絵を刊行したが、そのほとんどは「横長の大判」であった。その広
重が竪大判の名所シリーズに挑んだのが、嘉永6年(1853)から刊行を開
始した「六十余州名所図会」である。
「六十余州名所図会」は安政3年の春に69枚で完結するが、その後も
受ける形で安政3年(1856)2月に刊行を開始したのが「名所江戸百景」
である。



夕暮れは明日のために忙しい  柴本ばっは
 
 

大きな梅の枝ごしに梅園とそこに集う人々
 
 
  「名所江戸百景」もはじめは「六十余州」と同様の鳥瞰図的構図で、
図柄も天保5年(1834)刊の『江戸名所図会』に依拠したものが多かっ
たが、安政3年7,8月ごろから近景を拡大した「誇張描法」即ち、
「近景の一部を極端に拡大誇張して前景とし、その近景ごしに遠景の
風物を眺める構図」が多くなる。この近景拡大構図と鳥瞰図ながら空
間の広闊感を表現した作に魅力あるものが多く、本シリーズの声価を
高めている。



瞑想の形で咲いた冬すみれ  合田瑠美子
 
 

万年橋の欄干と放生会用の亀
 
 
近景拡大構図の例では、大きな梅の枝ごしに梅園とそこに集う人々を
描いた「亀戸梅屋敷」万年橋の欄干と放生会用の亀が吊り下げられ
た桶ごしにみる富士と墨田川を描いた「深川万年橋」。空間の広闊感
をみせた例としては、暗い雨雲から篠突く雨が、橋と江戸の町を襲う
「大はしあたけの夕立」、秋空に浮かぶ花火が祝祭のように隅田川を
彩る表題にあげた「両国花火」、巧みなぼかし摺の雲の間を飛ぶほと
とぎすから初
夏の風を感じさせる「駒形堂吾嬬橋(あずまばし)」
どがある。

 
 
 
  平凡な街を極彩色で描く くんじろう
 
 

   大はしあたけの夕立
 
 
広重は北斎と対抗するように花鳥画の制作にも力を入れた。



  北斎「桜花に鷹図」
 
   広重「冬椿に雀」
 
 
発想の煌めき脳は多面体 森井克子


次に、北斎と広重の作品を並べてみました。
どれが北斎で、どれが広重かわかりますか。
三枚づつあります。



① 駿府江尻


② 佐夜の中山


③ 信州諏訪湖


④ 湖水


⑤ 東海道坂ノ下観音


⑥ 薩垂

拍手[5回]

迂回路閉鎖 人生なんてこんなもの  雨森茂樹




       「麒麟がくる」ザ・ラスト



「迂闊を招いた愛宕百韻」
豊臣秀吉「中国大返し」と称される尋常ならざるスピードで備中高松
城から上洛し、同年6月13日の「山崎の戦い」明智光秀を討った。
所要日数10日。距離200㌔。重装備の大軍団。この悪条件の中、
光秀のいる現場へ戻るのには、どのように計算をしても、秀吉が事前に
光秀の計画を知っていないと不可能である。すなわち「愛宕百韻の連歌
の会」の内容が秀吉の耳に入ったのではないか、参加した紹巴、昌叱、
兼如、心前、仰佑、宿源、行澄らさえも光秀の句意から、信長打倒の執
念を察知したのである。狡猾で知栄者の秀吉である。本能寺から6日前
に行われた連歌会の歌内容が耳に入っていたとしたら…、
「中国大返し」脱兎の勢いの説明がつく。



愚かさを自分探しの旅で知る  ふじのひろし




   山城小栗栖月(月岡芳年画)



「麒麟がくる」 山崎の戦



本能寺の変の三日後の天正10年6月5日、光秀は安土城に入城した。
そして各地に古い領主を呼び戻し、室町幕府体制を復活させようと動き、
9日には、光秀は、朝廷や洛中の主要寺院へ銀子を贈り、自身の行動へ
の理解を求めた。まもなく朝廷は、光秀の行動を認めた。
しかし、事前に光秀から全く相談がなかったとして、娘婿(お玉)細川
忠興、その父・藤孝は関りを嫌い、髻(もとどり)を切って主君・信長
への弔意を表した。やむなく、光秀は細川邸へ「天下を嫡子・明智十五
郎と忠興とに譲る」という書状を送り参陣を促すが、父子は変心しなか
った。一方。「都の公家たちは、たびたび宴を開き、大酒を飲み、信長
の死を祝うかのような行動をとっていた」『勧修寺晴豊の日記』があ
かしている。



社会的距離であなたが遠くなる  村山浩吉



一方、信長に追放されていた室町将軍・足利義昭、「本能寺の変」
知るや、各地の大名に書状(御内書)を送っている。
6月13日付けの乃美宗勝(小早川家臣)宛の御内書では「信長を討ち
果たしたうえは、急いで京の都へ上るための援助をせよ」と記し、あた
かも自ら信長を討ったかのような態度で、上洛援助を要請している。
朝廷・公家・将軍ら信長に反対していた勢力のいずれもが、光秀の行動
を支持していて、光秀が構想する「古い時代の秩序と伝統の復活」は、
成し遂げられたかのように見えた。



深鍋で男料理がぐらり煮え  柴本ばっは
 
 


 小泉川を挟み左・天王山下に秀吉本陣、右・勝竜寺城下に光秀本陣。



「解説」
 
 

 
しかし、光秀が予想だにしなかったことが起こった。
中国地方で毛利氏と戦い、当分は釘付けになっているはずの羽柴秀吉
「軍勢を引き連れて京の都に迫ろうとしている」という知らせが入った
のである。その動きを察知した光秀は、山崎・八幡・洞ヶ峠に軍勢を派
遣した。さらに、11日には、淀川船運の要港である淀の城を修築した。
目的は、秀吉軍による山城盆地への侵入を食い止めること、首都防衛を
強く意識していたからである。ただ光秀の重臣・斉藤利三は秀吉方との
兵力差を鑑み、光秀に「籠城を勧めた。(『新撰豊臣実録』)



同時通訳ロシア語のべらんめい  井上一筒



しかし、光秀は、これを却下し首都防衛に執着した。
公家や権門の支持を受けたことを強く見ていたのである。合戦前々日の
11日にも、光秀は、筒井順慶に来援を打診したが、同意は得られなか
った。その前に順慶は、秀吉に誓詞を遣わし「光秀に抵抗する」意思を
明確にしていたのである。



私も地球も水でできている  井丸昌紀



12日、秀吉方は、兵庫の池田恒興、茨木の中川清秀、高槻の高山右近
と合流し、西国街道のみに軍勢を集約させて進軍した。
翌13日の昼には、大坂から参着した織田信孝と会った。涙を流した信
孝を見て秀吉も「ほへた」と本人が記している。(『金井文書』)
秀吉方は、信孝、丹羽長秀と糾合し総勢4万人に達した。(『太閤記』)



錆びついた非常階段に置く明日  木口雅裕
 
 
 「解説2」
 


 一方、軍勢を分散させていた光秀方は、作戦の計画を改めざるをえなく
なった。12日には山崎、八幡の兵を後退させた。軍事拠点としていた
西国街道沿いの勝龍寺域周辺に軍勢を集め、迎撃態勢を整えた。
この同日、勝龍寺域の西で光秀、秀吉両軍の前衛部隊が衝突した。
すなわち「日向守敵歟(かたきか)」とする軍勢が大山崎から出勢した
ため、勝竜寺城の西で足軽達が出合い、鉄砲戦と放火がなされ、小さく
も戦いが始まったのである。(『兼見卿記』)



小栗栖を通る時分に丹波色  江戸川柳
 

「解説3」



この合戦前夜、光秀は部下の松田太郎左衛門に「汝は山崎の案内を能智」
っているとして、大山崎の背後にある天王山占拠を指令した、という。
これに対し、秀吉も部下の堀尾吉晴に天王山占拠を命じた。両者は競合
したが、結果として吉晴が先んじて、占拠した。「これによって秀吉軍
は安心して戦うことができた」という。(『太閤記』)
さらに『太閤記』には他に、先陣高山右近が大山崎に入った後、その西
黒門を閉めて、後続部隊を入れなかったとも記す。
これは「右近の手柄独り占め」という武勇談の一つになっている。



この辺でご破算空が青いうち  津田照子



(拡大してご覧ください)
 「山崎合戦図屏風」
左隻ー秀吉を中心に描かれている。
西国街道沿いの高山右近隊、「南の手」(淀川沿い)の
池田恒興隊、山の手沿い(天王山麓)羽柴秀長隊が三手
から進軍している。左下赤丸が西黒門(大坂城天守閣蔵)




というのも、この右近の武勇談で後続の池田恒興は門内に入れず、仕方
なく大山崎の「惣構」の外の脇を通って、淀川沿いを進軍せざるを得な
かった、という。この門は「街道の門」とも記され、江戸時代後期の
「山崎合戦図屏風」にも描かれている。
一方、フロイス『日本史』では、右近が大山崎に入ると「村の門」
閉めて光秀に対峙したとある。ここでは、右近は、なかなか来着しない
後続部隊を待ち続け、出来る限り門を開けなかったという。
『太閤記』『日本史』が、ともに大山崎の黒門の開閉を記している点
が面白い。後の秀吉書状では、「軍勢を高山右近らの西国街道沿いと、
池田恒興らの「南の手」、羽柴秀吉らの「山の手」に分けて進軍した」
と記しており、基本的には矛盾しない。



ちぎれ雲に魔法かけてはいけません  郷田みや



(拡大してご覧ください)
 「山崎合戦図屏風」
右隻ー明智方を中心に描かれている。
南東から見た構図で手前に流れているのが淀川


光秀軍は「先手」松田太郎左衛門、丹波衆の並河掃部、山城衆の伊勢
氏らで構成され、総勢1万5~6千で秀吉方は、4万人越え。両軍は小
泉川沿いで激突した、と推定される。
戦いは申刻(午後4時)頃に「鉄放(鉄砲)之音数刻止まず」という、
状態であり、本格的な主戦は夕刻からであった。
13日早朝光秀は、前線の御坊塚(おんぼうつか)まで本陣を移し、味
方を鼓舞しようと努めたが衆寡敵せず、申の刻(午後4時)、兵力に勝
る秀吉方が、なんなく押し切った。光秀は御坊塚を放棄して、勝竜寺城
へ入り、籠城するが、その日の深夜には逃亡し、坂本城を目指した。
しかし、山科で百姓らに殺害された。



藪からは棒よりひどい槍が出る  古川柳




      「明智藪の碑」
光秀は坂本城へ敗走中に小栗栖(京都伏見)で
農民の落武者狩りにあって落命したとされる。



光秀の首は、本能寺に晒され、同月24日に京都粟田口に首塚が築かれ
たが(『兼見卿記』)光秀の墓は複数ある。
一つ目は真言宗寺院・谷性寺(亀岡氏)である。光秀の家臣・溝尾庄兵
衛が光秀の首を隠しておき、のちに谷性寺に懇ろに葬ったという。そこ
に建立されたのが、「光秀公首塚」という供養塔である。
二つ目は天台宗寺院・西教寺(大津市)である。同寺は、光秀が近江を
支配した際、総門や庫裏を寄進した関係から、光秀だけではなく、妻・
煕子や明智一族の供養塔が建立された。光秀の墓は高野山にもある。
「いずれが本物なのか」と問われれば答えに窮するが、それぞれの所縁
の地で、光秀を慕う人々が菩提を弔いたいと願い、供養塔を建立したと
いうものであろう。



四日目は早い因果の巡りよう  江戸川柳



「光秀伝説」
明智光秀は本能寺の変から11日後の天正10年6月13日に落首した
ことは事実である。ところが、実は光秀は殺されることなく生き延び、
何と南光坊天海になったというのである。
天海は、徳川家康の側近として活躍した天台宗の僧侶である。天海の生
年は、天文5年(1536)で亡くなったのは寛永20年(1643)
と百歳を超える長命であった。ちなみにおこでは享禄3年(1538)
としており、少しの差はあるが、時代的なことで、さほど取り立てるほ
どのものではない。



清水の舞台棚引く弥陀の雲  みぎわはな
 
 


日光東照宮の随身像に使われている明智家の家紋の桔梗



さて何故光秀=天海説が唱えられたのだろうか。
江戸幕府の二代将軍・徳川秀忠「秀」字は光秀の「秀」を採用したと
いう。また三代将軍・家光「光」も同じように語られるが、いずれに
しろ単なるこじつけに過ぎず、光秀=天海が関与したものではない。
次に日光東照宮陽明門の随身像の袴などには、明智家の家紋・桔梗が
用いられているという、が、これは織田家の家紋、木瓜紋であり、
やはり光秀=天海は関係がないようだ。
 天台宗の比叡山・松禅寺に「慶長二十年二月一七日 奉寄進願主光秀」
と刻まれた石灯篭があることから、この「光秀」「明智光秀」であり、
天台宗の僧侶・天海が関わっていたのではないかという説がある。
しかし、光秀はありふれた名前であり、必ずしも明智光秀と同一人物で
あるとはいえない。
「ついでに」
徳川三代に仕えた春日の局は、光秀の重臣・斎藤利三の娘。
その春日局が、ある日、天海と会った時に「お久しぶりで
ございます」と挨拶したということが文献に残っている。
 
 
 
馬の背の透けて遥かな旅終る  笠嶋恵美子

拍手[2回]

蝶番のわたしとドアノブのあなた  くんじろう




堪忍袋緒〆善玉(かんにんぶくろおじめのぜんだま・山東京伝黄表紙)
 
 
絵師であり、後に戯作者としても名声を得た山東京伝のもとを、執筆の
依頼に訪れている蔦屋重三郎の様子。
 左の机に座っているのが京伝、まん中でお茶を出しているのが京伝の妻
お菊。右に座る重三郎「たとえ足を擂粉木(すりこぎ)にしても通
ってきて、声をからし味噌にしても…先生の悪玉の作を願わねばならぬ」
と催促している様子。(寛政5年刊)



耳鳴りが客の顔してやってくる  森田律子




   歌麿の代表作「寛政三美人」



「蔦屋重三郎と歌麿・写楽」ー浮世絵ギャラリー



江戸の特色ある文化のうち、戯作や浮世絵は、多くの庶民たちの娯楽に
供するものとして生み出された。これら庶民の娯楽を世に送り出すメカ
ニズムとしては、当時の版元の役割も非常に大きかった。
彼らは出版の企画から実際の版行、そして販売までを一手にこなすジェ
ネラリストで、その成功には、商才に長けているのみならず、アイデア
マンであることも必須条件であった。もちろん、新たな人材の発掘や、
作家たちとの良好な人間関係も同時に求められた。



ゆったりがいいね流れも人生も  橋本征介 



18世紀の末、天明~寛政期の江戸は、浮世絵や黄表紙・洒落本・狂歌
などの大衆文化が一頂点を迎えたときであった。そうしたなかで、これ
らの出版文化の創造に大きく貢献し「江戸文化の演出者」と称すべき役
割を演じたのが版元・蔦屋重三郎 (1750-97) である。その人となりは、
墓碑銘にもあるように「其の巧思妙算、他人の能く及ぶところにあらざ
る也。ついに大賈(たいこ、大きな商店)と為る」と称賛され、作品の
企画力や経営手腕、そして人の能力を見抜く眼力に人並み外れた才能を
発揮する稀にみる逸材だった。



皮肉屋が僕を巨匠と持ち上げる  新家完司




        鳥居清長ー品川沖の潮干狩



初期の喜多川歌麿に作品出版の機会を与えたのは、江戸版元界の老舗・
西村屋与八だったが、ここには、歌麿より一歳年上の鳥居清長がいた。
清長は早熟の天才画家で、早くから、希望の星として西村屋の熱い期待
を集めており、歌麿は、自然とその後塵を拝する形とならざるを得なか
った。そんな失意の青年に手を差し伸べたのが、蔦屋重三郎である。
重三郎の炯眼は、歌麿の天分と将来性を透視したようで、その才能が大
輪の花を咲かせるまで、時間をかけて育てるという方針をとる。
天明期に全盛を迎えていた清長の美人画と、未完の段階にある歌麿を重
三郎はあえて競わせようとはせず、狂歌絵本の挿絵という別の世界で絵
その非凡な天性を生き生きと、飛翔させるのである。



絶景ロードサザンの曲が流れだす  熱田熊四郎
  
  
 
 
「婦人相学十躰」ポッピンを吹く娘



寛政3年(1791)、山東京伝作の洒落本三部作が幕府の出版禁止令に抵触
して重三郎は、財産の半分を没収され、順風満帆だった蔦屋の看板にも
翳りが現われ始める。これを乗り越えるべく重三郎は、あえて浮世絵出
版の比重を高めていくのだが、この熱意に応え歌麿は「婦人相学十躰」
「歌撰恋之部」など、従来の美人画の枠を破る傑作を次々と生み出し、
あらためて蔦屋重三郎の名前を世間に知らしめることになる。



わたくしのこだわり石鹸は固形  黒田茂代
  
  
 

 「歌撰恋之部」深く忍恋



その相乗効果もあり、美人画家としての歌麿の名声は、これらの作品に
よって一挙に高まり、名実ともに浮世絵界の第一人者として君臨するこ
とになる。一方、重三郎も歌麿美人画の大成功によって、財産没収の痛
手からある程度回復ができたのと同時に、歌麿を擁する立場から、美人
画出版界の覇権をも手中とするに至るのである。



ビードロを吹く浮世絵に魅せられて  小林満寿夫



「歌麿から写楽へ」



しかし、人間の欲望には限りがない。美人画出版で大当たりをとった
三郎が、浮世絵界で美人画と並ぶ代表的なジャンルの「役者絵」を次の
目標に定め、その野心を強めていったのは、当然なのかも知れない。
ちょうどこの寛政初期は、役者絵界で新旧交代の動きが強まっていた時
である。大衆はそれまでの勝川派の役者絵に代わる新しい作品の描ける
絵師を求めており、その動きを感じ取った版元たちは、新進の歌川豊国
をめぐる争奪戦をくりひろげていた。



綱引きの真ん中にあるbe動詞  小池正博
 
 
 

  「市川鰕蔵の竹村定之進」



  「市川高麗蔵の志賀大八」



 「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」



これに対して、蔦屋重三郎は、豊国にはあまり関心を示す様子はなく、
別の役者絵師を探すことに熱心になっていた。そして寛政5年ごろ、
三郎はついに、その眼にかなう人物に出会うことになる。それが東洲斎
写楽である。早速、重三郎は、写楽による画期的な役者絵出版の準備に
とりかかった。この企画は第一回は28点、2回目は38点の作品を一
挙に売り出そうという内容で、歌麿の場合を大きく上回る規模だった。



しかるべく位置に満月置き直す  村山浩吉




    「高島おひさ」歌麿



      「虫籠」歌麿



だが、こうなると収まらないのは歌麿である。長年にわたり重三郎とパ
ートナーとしての信頼関係を築き、さらには、先のようにその作品の大
成功により、美人画界の帝王の地位を獲得して、蔦屋の経営にも多大な
貢献ができたということに、強い自負心と誇りを抱いていた歌麿からす
れば、自分以上の存在が蔦屋にあることなど、絶対に容認できなかった。
ましてや、それが新人の絵師ときては…。



薄皮饅頭の薄皮に惚れる  中村幸彦



こうして、2人の間には冷たい風が吹き始め、ついには歌麿は、写楽
蔦屋による役者絵出版に対する対抗心をむき出しにしながら、他の版元
と提携して「当時全盛美人揃」(若狭屋版)などの力作を発表すること
になる。「当時全盛美人揃」は下段に掲載
 
 
 
人形の家の芝居はエンドレス  山口ろっぱ 




   蔦屋重三郎
蔦唐丸(つたのからまる)は蔦屋重三郎の狂歌名)

 
 
「大腹中の男子」と称され、ものに動じない性格の重三郎であれば、歌
麿の大人げない行動にもおそらくは冷静に対処し、新たな企画の実現に
向け着々と段取りを進めていたと思われる。
寛政6年5月から翌年正月までの間に4回にわたって発表された写楽の
役者絵作品は、その意外性に満ちた前衛的表現によって、江戸市民に賛
否両論の大きな渦を巻き起こすことになった。しかし、第三・四期に入
ると様相は一変する。



神様を跨いで運を取り逃がす  平井美智子




   大童山土俵入り(写楽)



第一・二期の出版を通じて重三郎は、江戸の人々からある程度の手ごた
えを感じていたのだろう。彼はこの判断をもとにしながら第三期の企画
を立案したが、それは、一度に70点にも及ぶ作品を出版するという、
常識を超えた内容で、このすべてが写楽に依頼されることになったわけ
である。第三期の大胆な企画には、圧倒的多数の写楽作品によって「役
者絵市場を一挙に独占・支配してしまおう」という狙いがあったと推察
されるが、その裏に、切り札の歌麿を失い、美人画での利益獲得が難し
くなってしまった重三郎の、焦りにも似た気持ちが強く作用していたこ
とは否定できないだろう。



痛い目に合わねば醒めぬ欲の夢  伊達郁夫 



この蔦屋のあまりの性急さは、写楽にとっては、過剰な負担以外の何物
でもなかった。それはプレッシャーとなって、彼の創造意欲を削ぎ取り、
作品の芸術性も喪失させる結果を招いてしまったのである。
あれだけ精彩を放っていた絵師の魂は光を失い、抜け殻としての写楽の
姿を見るだけである。結局、重三郎と写楽の蜜月期間は10カ月という
短い月日で終局となり、その結果、重三郎は歌麿のみならず写楽までも
失い、美人画と役者絵出版の覇権を同時に獲得するという夢も泡のよう
に消えてしまったのである。



しかるべくしかるべくして見る夕陽  土井直子



「写楽の評言」(大田南畝『浮世絵類考』より)

「当時の大方の世評を代弁するものとして傾聴に値するが、写楽の役者
似顔絵の逸格ぶりぶりは、確かに江戸っ子たちには一時的にしか受け容
れられず、役者絵界の革命児は、予定調和の上に理想化された似顔絵を
好む保守的な伝統の前にあえなく敗退した。
あの歌麿までにも<悪癖を似せたる似ずら絵>と酷評されたこの写楽の
出現こそが、間違いなく浮世絵そのものが大きな転換点にあるというこ
とを示している」と南畝は書いている。



ワコールを外すとわたしクラゲです 美馬りゅうこ



「当時全盛美人揃」


   若松屋・花妻


   
越前屋・唐士
  

 
    若松屋・花紫



    扇屋・滝川


   玉屋・小紫


     扇屋・花扇


     扇屋・花


   松葉屋・染之助



婦人相学十躰 


   指折り数える女


   面白き相


   臼をひく女


覗き眼鏡・かわゆらしき相


    浮気の相


 団扇を逆さに持つ女


    かねつけ


    顔を剃る女


   艶書に妬む女


    風車を吹く女


  ポッピンを吹く女

蔦屋重三郎の歌麿への思い込み、きつい一言
「顔が同じなんですよ。どの女も…」 
「重三郎は、思っていたのではないですかね」 藤沢周平


そっとそっと目薬さして小休止  山本昌乃

拍手[4回]

神代にもだます工面は酒が入り  万句合




                                            伊丹酒合戦の図
 
 
酒の良し悪しを語るのは人の常、江戸時代でも変わりはない。
江戸の人々も好みの銘柄や産地の酒を語り、楽しんだことであろう。
その江戸の酒を語るとき「下り酒」は、避けて通ることのできない話題
である。
 
 
世の中に酒というもの無かりせば  何に左の手を使うべき  蜀山人



「江戸の暮らし」 酒の話

 
 
「下り酒」
江戸時代初頭より、酒に限らず塩、醤油、油、呉服をはじめとする商品
のうち、品質のよい上等なものは、京・大坂を中心とした上方からもた
らされており、それらを総称して「下り物」と呼んだ。
江戸を中心とした関東で作られたものは「くだらない」ものなのである。
しかし、時代とともに、関東産の商品にも品質のよいものがあらわれて、
下り物を駆逐していった。その最たるものが醤油で、江戸時代中期以降、
下総(千葉)の銚子や野田をはじめとして醤油製造業が発展して、幕末
には上方醤油は、江戸市場から姿を消している。
 
 
から樽をみんなおろすと馬になり  万句合
 

 
酒の場合は、江戸時代を通じて下り酒の優位が続き、寛政年間(178
9-1800)には、幕府が政治的介入して、下り酒の江戸流入押え、
関東の製造業を保護する政策をとったほどである。
しかし、良質の酒を生産することが出来ず、結局は失敗して関東の酒は
「地廻り悪酒」などと呼ばれた。
 
 

から樽に馬の尻尾のはえたよう  玉柳
 
 


         「摂津国伊丹酒造之図」 
 
 
 
「灘の生一本」
下り酒は、年間60万から70万樽が、江戸にもたらされ、19世紀に
は100万樽にも及んだ。ただ、一口に下り酒といっても、産地などに
消長が見られた。17世紀以降、摂津(大阪府)の池田や伊丹の製造業
が発展しており、池田酒は甘口、伊丹酒は強い辛口であり「剣菱」ほか
の銘柄が好まれた。池田も伊丹も猪名川沿いの内陸に位置しているため、
より輸送に便利な条件を備えた灘が醸造地として発展して、江戸市場に
おける優位性を勝ち得ている。
灘では、冬にじっくりと作る寒造りの製法を確立し、18世紀以降には、
水車によって、米の精白度が飛躍的に向上して、有名な「灘の生一本」
が生まれている。
(※上方の醸造が江戸でもてはやされたのは、輸送の便だけではない。
かつて夏が酒造りの季節であり、雑菌のために酸味のある酒が出来るこ
とがあった)



我も迷うやさまざまの利き酒   新編柳多留
 
 
 

                                   新酒番船入津繁栄図 
その年の新酒を積み、西宮から江戸まで運ぶ早さを競う新酒番船は、
江戸の風物詩となっていた。
文久三年の番船が江戸に到着した様子。
 
 

「新酒番船」
その年の新酒を運ぶレースが「新酒番船」であった。西宮から江戸まで
「樽回船」に酒を積んで、その速さを競ったもので江戸の風物詩となっ
ていた。一着の船は、江戸酒問屋たちの盛大な出迎えを受け、この時の
新酒値段によって、その酒値段が決まった。新酒番船に勝つことは回船
問屋にとっては非常な名誉となった。当時、一隻の回船には290トン
の荷物が積まれたといい、通常江戸ー大坂間で10日から14日ほどを
要したが、新酒番船は3、4日で江戸に着いており、中には2日ほどで
到着した船もあった。
 
 

二日酔い飲んだところをかんがえる  柳多留




                                             銚釐で酒を飲む図
居酒屋では、框や椅子に腰かけて談笑しながら酒を酌み交す。
燗をつける小僧や、銚釐から直接注ぐ客の姿が見られる。
 
 

「江戸で飲む酒は冷やよりも燗」
江戸時代、濁り酒は別にして清酒の場合は、冷やよりも燗酒が主に飲ま
れていた。「鉄や銅鍋」に直接酒を温めたが、江戸時代中頃からチロリ
(銚釐)と呼ばれる取っ手のついた金属製の容器があらわれ、酒を温め
て柄のついた銚子に移して飲んだ。また、当時の居酒屋の情景を描いた
絵には、チロリから直接酒を注ぐ場面も見られる。
幕末には、小さな陶器製の器に入れて湯煎して、直接盃に注ぐ燗徳利が
生まれた。本来、銚子と徳利は別物なのである。
 
 

ちりぐるみ吸うはこぼした琥珀酒  新編柳多留



(拡大してご覧ください)
   酒器の絵
 
 
江戸時代の人々は想像以上に酒を飲んだようである。
仕事の帰り、居酒屋の店先に仕事道具の天秤棒を置いて、一杯飲む庶民
の姿も多く見られたことであろう。生活レベルは庶民と変わらない下級
武士の場合もよく酒を飲んでいる。
①燗鍋:かつては銅製の鍋に酒を入れて火にかけ燗をつけた。
②銚釐:酒を入れて湯煎して燗酒にした。
③銚子:銚釐で温めた酒を移した。
④燗徳利:幕末には陶器製の徳利に酒を入れて温めた。
(※ 幕末の江戸では、格式ある宴席のみに銚子を使い、他は燗徳利を
直接宴席に出した。宴席や料理屋などでも銚子を用いた)
 
 
なあるほどみの一つだになあるほど  新編柳多留
 
 
 
「酒は、愚痴の聞き役、色恋話の語り役」
儀礼に忙しい殿様は、品行方正で酒はあまり呑まず、ストレス発散に酒
の力を借りていたのは、大名の参勤交代について江戸詰めとなった中・
下級の武士たち。江戸の武家人口約50万のうち、大半が中・下級武士
で。一般の町人と比べて、広い屋敷の中に住まいを構えているものの、
その実態は、庶民とあまり変わらぬ長屋暮らし。違いといえば、屋敷内
には樹木や泉池があり、前庭で蔬菜(そさい)の自家栽培ができたこと
くらい。非番の日は役職によって3日から10日に1度程度、住まいは
狭く、単身赴任の寂しさもある。



何か物たらぬ雨夜のひとり酒  柳多留



そんな彼らの息抜きのひとつが酒である。日常的に酒を呑んでいたのは
もちろん、国元に帰れると喜んでは、酒を呑み、殿様の江戸滞在期間が
突然延長されたと聞けば、それを嘆いて、ヤケ酒を呑み、荒れに荒れ…
…。実際の記録にはこんなのがある。万延元年(1860)から江戸に
単身赴任となった紀州藩下級藩士・酒井伴四郎の場合、藩邸の長屋や銭
湯の二階で酒盛りを始め、蕎麦屋や料理屋に入って昼間から酒を飲み、
風邪薬と称して酒を飲む。江戸詰めの武士や庶民にとって、酒は生活に
なくてはならないものであった。



百毒の長だとおもう二日酔い  柳多留




         江戸一番の酒処ー豊島屋



「江戸の人々は酒豪だったというが」
江戸に運ばれてきた酒の量を江戸の全人口で割ると、1人あたり1日2
合の酒を飲んでいた計算になる。この計算で行くと、確かに江戸の人々
は酒をよく呑んだようだ。先に書いたように、上方から大きな樽を積ん
だ樽廻船で運ばれてきた、その量は年間90万樽にもなった。船に揺ら
れて運ばれる間に杉樽の中で酒と空気が程よく触れ合い、味がまろやか
になった。



としまやで通うちろりのなく聲は  柳多留



しかし、そのまろやかな酒も、そのまま庶民の口に入るかというと、そ
うではない。当時の酒は現在のアルコール度数の半分くらいで、安い酒
はそれをさらに水で薄めていたともいう。水で薄まった度数の低い酒を
飲んで『昨日は一升呑んだ』なんて豪語している酒豪が、江戸には数多
あったようだ。



いそがしさ浮世袋の酒びたし  柳多留



「酒の味」
下の句は、江戸の後期、4斗樽2本を馬の背に載せ、上方から江戸まで
運ぶ様を描いた句である。140里(560㌔)を超える道のりを10
日以上をかけて運ばれた樽の中の酒は、馬の背で揺られ、揉まれ続けて
熟成が進み、味が増したという。



酒十駄ゆりもて行くや夏木立  柳多留




   菱垣廻船        樽廻船



馬の背で運んだ酒は「樽廻船」に取って代わるが、4斗樽に詰められた
酒は、やはり船の上でもずっと揺られて熟成が進み、江戸へ着く頃には
柔らかく旨みのある酒となる。上方から波に揺られ、左手に富士山を見
ながら江戸に下ってきた酒を江戸の酒好きたちは「富士見酒」と呼んで、
親しんだという。



一軒でよべばすだれが皆うごき  万句合



また、上方から江戸まで運んだ「下り酒」を再び、上方までそのまま、
持って帰ってきた酒のことを「戻り酒」という。船に揺られる時間が
倍となって熟成が進み、酒がさらに旨くなって珍重された。
幕末に田辺藩藩医原田某が勤番侍の江戸生活マニュアルとして書いた
(※『江戸自慢』には、下り酒でなくとも、上等なものは口当たりも
よいと記している。しかし、値段が非常に高く、酔いが醒めるのもい
たって早いとあり、大酒飲みはたちまち財布が空になって、借金の淵
に沈むと書いている。)



女房はぬかに釘だと古事をいい  柳多留
 
 
 

           酒飲み合戦
 
 
 
「千住・酒飲み合戦」
江戸の酒食文化が爛熟に達した文化・文政期(1804ー30)それを
象徴するのが酒量を競う大酒会である。
文化12年の11月、千住の中屋六右衛門の還暦記念に催された、人
気の文人・亀田鵬斎と画人の谷文晁が、検分役として迎えられ、大田
南畝(蜀山人)酒井抱一も同席した。
南畝は参加者の酔態など、酒合戦の模様を『後水鳥記』に記し、狂歌
も詠んでいる。



はかりなき大盃のたたかいは  いくら飲みても乱に及ばず  蜀山人
 

 
(拡大してご覧ください)
    緑毛亀杯



大盃にはそれぞれ呼び名があり、市兵衛なる人は、一升五合入の「万
寿無量杯」を三杯、作兵衛なる者は二升五合入の「緑毛亀杯」を三杯
も飲み干したという。ちなみに2年後の文化14年3月には、両国柳
橋の料亭万八楼で、大酒大食会が行われ、これも大評判になった。
 


世の中は色と酒とがかたきなり どうぞ敵にめぐりあいたい  蜀山人

拍手[2回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開