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川柳的逍遥 人の世の一家言
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泣き場所を探すはぐれ雲を探す  森田律子

「十返舎一九」 伝説の一九




十返舎一九肖像画 (歌川国貞画)
まず、十返舎一九は「じっぺんしゃいっく」と読む。
「十返」を「じゅっぺん」と読むとパソコンは変換拒否するし、
答案用紙に書くと、バツをもらうことになる。



誤字脱字生きる形は問われない  佐藤正昭



一九は天保2年(1831)、67歳で亡くなったが、死に際に門人を枕元に
呼び「これからあの世に行くが、俺が死んでも湯灌などするんじゃない。
このまま棺桶にいれて焼き場に運んでくれ」とと遺言をした。
門人は師の言葉を忠実に守り、一九の遺体をそのまま棺に入れて火葬場
へ運んだ。ところが、えらい騒ぎになった。
竈に点火したとたん、耳をつんだく爆発音とともに、一九を納めた棺桶
から凄まじい火柱がたち上ったのだ、人々は驚きとともに腰を抜かした。
「何の落もつけないで死ぬのも自分らしくない」と、考えたのか自分の
体に花火を巻きつけていたのだった。そしておどけ一九が遺した辞世は、
「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに 灰さようなら」
というものであった。



淋しくてまた死んだフリしてしまう  高橋レニ
 



 
         江戸の道中記・金の草鞋 (十返舎一九)


 
一九の伝説には、真偽を別にして次のようなものもある。
 室内の調度や盂蘭盆の棚、正月の鏡餅、門口、などを壁紙に画いて
すませた。
 年始の礼に来た質屋・近江屋の主人に入浴を勧めて羽織を無断借用
して年礼した。
 近江屋へ借金の証文を質草に入れて金を借り、その金で酒と鰹を求
めて、近江屋の主人と盃を酌み交わして、座興に狂歌を詠んだ。
 ある日、柳原の知人のところへ遊びに行き、背の高い一九は歳徳神
の棚に頭をぶつけ、即興で狂歌を詠み、その隣家の酒屋の主人が、この
一九の機転を喜び一九をもてなし、一九は再び狂歌を詠んで、酒屋より
酔って湯櫓を借り被って帰った。など。



そんなことあったかなあと卵とじ  みつ木もも花



ところが、こんなふざけた一九を知る人は、次のように語っている。
「一九は、旅をしていても、のべつ書きものをしていて寡黙な男だった」
(柴井竹有)
「一九は、楽天的で呑気で剽軽な弥次、喜多のようなズッコケた人物で
なかった」(『膝栗毛論講』(共古))
「一九には、両三度も出会いしが、膝栗毛など戯作せし人とは見えず、
立派な男ぶりにて、いささかも滑稽など綴る人体とも思われず」
(『随聞積草』南方径方)
「一九は気さくで、酒を嗜むこと甚だしく、やりきれないものを紛らせ
ようとして飲み、飲むほどに一層心が憂いて、滅入ってゆく酔いを潰す
ためにまた飲む…陰のある感があった」(笹川臨風)
「生涯言行を屑(いさぎよし)とせず、浮薄の浮世人にて、文人墨客の
ごとくならざれば…」(『江戸作者部類』滝沢馬琴)
酒のまぬ人に見せばやこの景色徳利の鶴に日の出盃


二合飲む二合分だけ酔うてくる  雨森茂樹



「どんな人だった・一九」

「一九子、姓は重田、字は貞一、駿府(静岡)の産なり幼名を市九(又
は与七)云う。弱冠の頃より小田切土佐守直年に仕えて
都にあり
其後、摂州大坂に移住して志野流の香道に称(な)あり。
今子細あってみずからその道を禁ず。寛政6年、ふたたび東都に来りて
はじめて『心学時計草』を著す」
 
 

 
 (拡大してご覧ください)
       心学時計草



一九は明和2年(1765)駿河の府中の千人同心の子として生まれた。
名貞一、通称重田与七、幼名幾五郎とあって「幾」から「一九」という
雅号にしたという説がある。一九を根本作り上げた大切な時期でもある
彼の幼少時代、また、どのような環境に育ったか詳細を示す資料はない。
ただ、武士の子として生まれて、文武両道厳しく育てられたことだろう。



いつもより近くの蝉とテレワーク  山口美千代



青年武士貞一は、天明元年(1781)、駿府町奉行であった小田切土佐守
注簿の役として仕えた。父親が千人同心であったことから、もっと早く
見習いのような形で勤めていたかもしれない。がいずれにしろ天明3年、
土佐守が大坂町奉行に任ぜられると、同年8月に彼もまた摂津大坂に移
住した。
だが一九は、まもなく土佐守のもとを致仕した。致仕とは、老齢のため
に辞職することで、70歳の異称として用いられるコトバである。20
歳そこそこの青年が致仕したというのは、いささか怪異な印象を与える。
のちに、戯作者の道を歩むことになるのだが、この頃から遁世者に心が
向かっていたのかもしれない。



くさってる場合じゃないと背中押す  吉岡 民



一九こと重田貞一は、あまりまじめな勤め人ではなかったようである。
その後の大坂における一九の行状がそれを語っている。彼は義太夫語り
の家の居候になったり、材木商の家に入婿して、離縁されたりしている。
離縁の原因は、大坂大福町のえびすやへ40歳で入婿となったけれども、
娘が50歳なので逃げ出したという話を、一九が書いている。(『両説
娵入談』)しかし、大坂という商都の材木商には役にも立たぬ、香道に
うつつをぬかし、義太夫を唸るのでは、隠居じみており、入婿としては
グウタラ過ぎるのではないか。こちらが離縁の真の理由かもしれない。



風のやむときふと我に返るとき  竹内ゆみこ








しかし結婚生活には躓いたが、彼は大坂在住の期間に初めて筆を持った。
25歳のとき、若竹笛躬・並木千柳とともに、近松与七の名で『木下蔭
狭間合戦』という浄瑠璃を合作したのである。この作品は、寛政元年2
月21日に、道頓堀大西芝居興行で上演された実績を持ち、さらに独学
で黄表紙のほか、洒落本、人情本、読本、合巻、狂歌集、教科書的な文
例集まで書いた。筆耕・版下書き・挿絵描きなど、自作以外の出版の手
伝いも続けた。寛政から文化期に自ら「行列奴図」や、遣唐使の吉備真
を描いた「吉備大臣図」などの、肉筆浮世絵を残している。
水上は 雲より出て 鱗ほど なみのさかまく 天龍の川



窓際で空を睨んでいる机  上田 仁
 
 
 

       耕書堂・蔦屋重四郎



 寛政6年(1794)一九は、本格的な作家をこころざし、漂泊の人となり、
30歳にして、10年ぶりに、ふたたび江戸に出た。
「わたしは、他人を笑わせ、他人に笑われ、それで最後にちょっぴり奉
られもしてみたい」と願い「死ぬほど絵草紙の作者になりたい」と思い
つめた材木問屋の若旦那・栄次郎の狂言回しとして登場「ひと月前、大
坂から出て来た」近松与七
…」と、作家を目指す十返舎一九を題材に
上ひさしが『手鎖心中』に書いている。
江戸に着いた一九は、どのような縁があったのか、通油町の地本問屋耕
書堂・蔦屋重三郎の食客なり、いちおう浄瑠璃作家としての待遇を受け
ることになった。(寛政6年は、馬琴がおと結婚し作家として蔦重か
ら独立したときで、一九と入れ替わりに蔦重に入った年である)
さつさつとあゆむにつれて旅衣ふきつけられしはままつの風



落ちそうな吊り橋ですが行きまひょか  吉川幸子



さて逸話について
花火仕掛けの葬式や書割の家財道具など、また辞世にしても、疑いを持
つ人も多い。一九が滑稽本作者であることから、一九らしく伝説を作り
上げたのではないかというのである。
「書割の家財道具」の話は『狂歌現在奇人譚』にあり「仕掛け葬儀」
落語家・林家正蔵の葬儀始末と間違われたのではないかといわれている。
天保13年、死を前にした正蔵は家人を呼び寄せると「わしが死んだら、
そのまま火葬にしてくれよ」と遺言をした。家人は、正蔵のいう通りに
したのだが、その結果は一九と同じだった。
名物をあがりなされとたび人にくちをあかするはまぐりの茶屋



摩訶不思議火のないところから炎  津田照子

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ギラギラと敵も味方も紙魚になる  蟹口和枝
 
 

 
 
右が弥次郎兵衛、左が喜多八
身なりの他、丸顔の弥次郎、面長の喜多八の特徴は、

以後の多くの2人の肖像画で踏襲され、定形化する。

「東海道中膝栗毛」 十返舎一九



『東海道中膝栗毛』弥次さん喜多さん道中は、品川から箱根であった。
「神風や伊勢神宮より、足引きの大和巡りして、花の都に梅の浪花へと、
こころざして出で行くほどに」と本文は始るけれど、本の売れる確証も
あるわけではないから、とりあえず「箱根まで」のつもりで書き始めた
とされる。というのも、その表紙には「浮世道中膝栗毛 完』と刷られ
たとされる。




捨てられる一瞬空を見るティッシュ 田村ひろ子





東海道中膝栗毛・表紙 (明治13年3月)文事堂



ところが予想に反し好評を得て、続きが書かれることになり、享和3年
に、後編二冊が出た。箱根から大井川まで書かれた。これも後編とある
ことから、ここで終わるつもりであった。
しかし、またまた好評を得た。続けて読んでくれる読者をかかえること
さえ出来れば、シリーズは続くのである。
文化元年(1804)3編上下を出版、岡部から荒井までである。残り二編で
終了とし、四編で舞阪から四日市まで五編で伊勢から大坂まで記す。と
している。しかし本が売れれば、少しでも続いたほうがいいので、実際
はその通りにはなっていない。



耕せばコツンとあたる鰯雲  くんじろう



ともかくも弥次さんと喜多さんの掛け合いは、際限なく駄洒落を飛ばし、
狂歌を詠み、テンポのいいしゃべくりを続け。お上品とは言い難い低俗、
猥雑、無責任な話を、飽きもしないで繰り返す。町の人はあきれ顔で2
人を非難するけれども、どんなひどい目にあって醜態をさらしても、決
して懲りることはない。ひたすら悪ふざけをすることが、自分たちの使
命なのだといわんばかりに、軽薄を演じることに徹するのだ。どういう
わけか分からないが、こうした男に共感をして、膝栗毛は売れまくった。



立ち読みの袋とじからぬっと足  森田律子





「書画五拾三駅 川崎」 左・弥次郎 右・喜多八。
口の周りに濃い髭が見られ、野卑な感じがする。ものを
食べながら女性を見ている姿は、2人の性質を表している。
明治5年、暁斎・若虎画



あの堅物で、お堅い本しか読まない滝沢馬琴が「膝栗毛」を読んで…、
「十二編は新案を旨とせしが、編の累(かさなる)まゝに、古き落し話
などもまじえ、且、相似たること共、多けれども、看るものはそこらに
気をとどめず、ただ笑いを催すを愛(めで)たしとして、飽くことなか
りし…」盗作(伊勢物語)気味の部分もあるが、飽くことがない面白い
本で「笑った笑った」と、あの馬琴が評し、褒めているのである。
結果、『東海道中膝栗毛』の初編は、享和2年(1802)に出版され、文政
5年(1822)に終了するまで、21年にも及ぶ長編小説になったのである。
というわけで、本来、本の始まりにあるべき「発端」は、5編に置かれ
ている。



あんた何時から味醂になりはった  山口ろっぱ
  
  
 
 
膝栗毛マップ
上右から ① 借金を踏み倒して出立 ② 女の尻を見て臼になった
③ 留め女につかまる   ④ 五右衛門風呂を壊す~



「発端」
弥次さんの本名は、栃面屋弥治郎兵衛とちめんややじろべえ)。生国
は十返舎一九と同じく駿州府中。「親の代より相応の商人として、百二
百の小判には、何度でも困らぬほどの身代なりしが」とあるから、裕福
な家の若旦那だったが、酒や女にはまった挙げ句、旅役者、華水多羅四
(はなみずたらしろう)一座の役者、陰間(かげま)の鼻之助に夢中
になる。陰間とは、男色を売る人・いわゆるお釜。鼻之助は後の喜多八。
弥次さんは、鼻之助と戯気(たわけ)のありたけをつくし、「はては身
代にまで途方もない穴を掘りあけて」その借金の始末がつけられぬまま
に鼻之助と「尻に帆かけて」江戸に夜逃げをした。というのが、膝栗毛
VOL5にでてくる弥次喜多道中話の始まり(発端)である。
そこで弥次さんが詠んだ狂歌を一首。
「借金は富士の山ほどあるゆえにそこで夜逃げを駿河ものかな」



明日には明日のケチがつくだろう  木口雅裕





⑤ 箱根で「初篇」終了 ⑥ スッポンにくいつかれる
⑦ 夜這いにあう    ⑧ とろろまみれの夫婦喧嘩



江戸では神田八丁堀の借家に住んだが、少しの蓄えさえたちまち使い果
たし、仕方なしに鼻之助を喜多八と名乗らせて、商家に奉公させ、自ら
は、国元で習い覚えた密陀絵を描いてその日暮らしをするようになった。
その後、弥次さん、酒のみ友だちの世話でさるお屋敷に奉公していた
年上の女と夫婦になるが、相変わらずの性格で、おのれの家を悪友たち
の遊び場所として貧乏暮しは変らない。喜多八も喜多八で奉公先でしく
じり「十五両の金が必要になった」と弥次さんに泣きついてくる始末。



終活のザンゲで満ちるゴミ袋  上田 仁
  
  
  
 
 
⑨ 幽霊騒動に腰を抜かす ⑩ 比丘尼を口説いて振られる
⑪ 名物の餅を前に値切り ⑫ 焼き蛤が股間に



そこでひと芝居たくらんだ弥次さんは、我が女房を追い出し、十五両の
持参金つき孕み女を嫁にして、その金を喜多さん用立てようと、実行
する。ところが、その女というのがなんと、喜多さんのいわくつきの相
手だったと判明し、すったもんだの大喧嘩を男同士がするうちに、産気
づいた女は苦しがった挙げ句に命を落してしまう。喜多八は、せっかく
勤めた奉公先から追い出され、弥次さんも、せっかくつれ添った女房を
冷たく離縁してしまう。ヘタな芝居で元も子もなくしてしまった弥次さ
ん喜多さんは、地方にも江戸にも、住処をなくし「たがひにつまらぬ身
のうへにあきはてて」「お伊勢参りへでも行ってみるか」と2人の旅が
始ったのである。



よろしくと交わし二人は照れている  徳山泰子




⑬ 間違えて地蔵に夜鷹  ⑭ 難所の鈴鹿越え
⑮ 餅がつかえてさあ大変 ⑯ 京都にまで失言




戻るに戻れないふたりの旅。お伊勢参りというよりは、流浪の旅。それ
を当人たちは心の底では感じている。感じてはいるが負け惜しみから、
口には出さない。そのかわり、その不安な気持ちをおのれにも誤魔化す
ために、彼らはくだらぬ狂歌を詠み、むやみと洒落のめし、江戸っ子ぶ
って行く先々で威張り、法螺を吹く。「笑いを催す」ようなこの半可通
のふたりの心情の底には、流浪者のさびしさが含まれているのである。



どの風に乗ったのだろう逃亡者  合田瑠美子



「すでに夜もいたく更けわたれば、みな〳〵やうやく一睡の夢をむすぶ。
あかつきの風、樹木をならし、浪の音、枕にひびきて、つきいだす鐘に、
目さめてみれば、はや明方の烏『カアカア』馬のいななき『ヒインヒイ
ン』長もち人足のうた『さかはなァてる〳〵ナアエ、すゞかはくもる
(ナアンアエ)どっこい〳〵』出舟をよぶこえ『舟が出るヤアイ〳〵』」
朝の街道宿場の寂しげな情景は。弥次さん喜多さんの心象風景でもある。



前頭葉はデコボコ脳は壊れぎみ  山本昌乃



「雨はしきりにふり続き、いつこう洒落も無駄も出でばこそ、たゞとぼ
〳〵と歩みなやみ」これは江尻の宿にさしかかったときの姿である。
あるいは府中近くでは「洒落と無駄もどこへやら、たゞうか〳〵と た
どりながら」
弥次「きたや、俺ァもう、坊主にでもなりてい」
喜多「おめえ、とんだことをいふ」
弥次「いっそ江戸へかへろうか」
喜多「なにさ、けえることがあるもんだ。柄杓をふっても、お伊勢さま
まで行ってこにゃあ、外聞がわりい」
江戸に戻りたくても戻れないのは、彼らがともに生活破綻者だったから
である。乞食同然でも、せめて伊勢参りだけは果たさねば、その江戸に
も戻れぬ事情がこの2人の江戸生活にはあった。



カオスから届くカシオの腕時計  田久保亜蘭





金毘羅参詣膝栗毛(口絵)高峰虎次郎・芳洲画 明治19年



だがその伊勢参りをすませたあとも、この2人は真っ直ぐに江戸には帰
らない。一九は彼らに終わることのない旅を強いるのである。『金毘羅
参詣膝栗毛』『宮島参詣膝栗毛』そして『木曽街道膝栗毛』へと続くの
である。その事情はおそらく『東海道中膝栗毛』の好評に出版元の欲が
働いたのだろう。そういう事情を、百も承知の上でもなお、この終わり
なき旅は、弥次さん喜多さんにとって、人生の宿命であったように読者
に感じさせるのだ。



オハナシはまだ終わっていませんの  高野末次



「雨はいよいよ降りしきりて、桐油を通し、骨までくさるばかりに、方
言も洒落も出でばこそ、やうやく草津の姥が餅屋にいたりける」時折、
2人がうち沈むこうした姿を一九は間に挟み込む、あるいはまた、みじ
めな街道の旅籠の寂しい朝がたの描写も忘れない。「ほどなく寺々の鐘
のひびきもあけがた近く、はや表には、すけがうの馬のいななく声『ヒ
イン〳〵〳〵〳〵』人足のうた『よせばよか」ったにナアンアエ、長もち
やおウもいナアンアエヨウさうだぞ〳〵』」
一九は季節感も佳景の描写も城の威容もわざと無視するくせに、街の朝
がたの哀愁ある様子だけは、きっちり描いている。それを一九この道中
記におけるリズムとしたのである。

        十返舎一九ー次へ続くかも知れない。



イージーに死にたくないと伊勢うどん  中村幸彦

拍手[4回]

花の手錠と薄桃色の砂糖菓子  高野末次





 笑いの角には、福助来たる



落語の神様・古今亭志ん生は、川柳を愛していた。彼が川柳を愛する理
由は、「川柳ぐらい安くて人に迷惑をかけず、腹が減らなくて、こんな
いい道楽はない。それに落語にも役立ちますから。第一、『女房の焼く
ほど亭主持てもせず』なんて川柳は、『五人廻し』にはこれからすぐに
咄に入れます。だから私は、川柳を覚えておけというのですが、今の若
い者はタロ(金)のことばかり言って、川柳なんか上の空なんです」と、
川柳の師匠である坊野寿山にこんなことを言っていた。
金がかからず腹も減らない。それほど安直にできる上に、本業の落語に
もメリットがあるのだから「やらなきゃ損」というのである。


干物では秋刀魚は鯵にかなわない 古今亭志ん生



これぞ志ん生自然流川柳。同人一同、大爆笑の中「おかしいね…。しか
し本当にうまいよね」三遊亭圓生が呟いていたという。みたまま感じ
たままだけで面白いのなら、誰でも名句ができるはず、それを見て感じ
た志ん生という人間自体が面白くなければ、天下の名人たちを呆れさせ、
感心させる句など、できはしない、のだ。



矢印を手折ってからの素面  木口雅裕



「神様の川柳」 古今亭志ん生




鹿連会は末廣亭でも開かれました。
志ん生、円生、文楽、小さんの名が並びます。



昭和5、6年ごろに五代目円生や四代目小さんたちと始めた「鹿連会」
という川柳句会があった。これは2年ほどで消滅した。それから20年
後の昭和28年6月24日、池之端寿山宅に結集し「第二次鹿連会」
復活した。初回の席題は「たいこもち」「弁当」だった。
同年8月18日の第二回。お題は「パナマ」「ビール」「チンドン屋」
である。この会には新メンバーが顔を見せた。
貧乏とは縁を切った古今亭志ん生。「お結構の勝ちゃん」こと八代目の
春風亭柳枝。志ん生の長男・馬生。さらに1年後には二代目・三遊亭圓
も加わって、結局、第二次鹿連会の噺家は11人になった。第二次鹿
連会はこのメンバーで定着し、辞めるときは30万円払うという約束も
あり、10年以上にわたって続いた。



笑い泣き傘のしずくが切れるまで  佐藤正昭



昭和31年6月19日、寿山宅で開かれた句会は、東京放送が録音し、
2日後に放送された。
同年7月には、志ん生宅で「茶の湯川柳会」を開催。
その年の暮には、人形町末廣亭で「川柳鹿連会」を開き、即席川柳を
披露してやんやの喝采を浴びた。この会の後、同人達は忘年会を開き、
芸者を呼んで騒いだらしい。この頃をピークに順調に鹿連会は句会を
開催した。



ピリオドの刺をきれいに抜いておく  みつ木もも花




 六代目圓生



昭和39年8月、東京日暮里の志ん生宅で「鹿連会同人座談会」が開催
された。その時の模様は次の通り。
圓生「この会では、自ら作って自ら上手がる自己陶酔性があり、それを
見ていても、何ともいえない風情がありますね。特に、志ん生さんには
「秋刀魚」の句で秀逸なものがあります。
焼きたての秋刀魚に客が来たつらさ
煮てみれば秋刀魚の姿哀れなり
寿山「煮てはいけませんが、兵隊の時、田舎で秋刀魚のフライを食べた
ことがあった。それ以来見たことはないですが…。」
死神と相談をする風の神
はばかりで電話の鈴が気にかかり



そう言えばそうねとしっぽ揺れている  宮井いずみ



正楽「これは一般普通の川柳家では作らぬものです」
酒飲みを友達にもつ大根おろし
スのあるが大根仲間の不良なり
ビフテキで酒を飲むのは忙しい
恵比寿様鯛を逃がして夜にげをし
 (正楽は紙切りの初代林家正楽)
寿山「皆なを喜ばせた句で、〇丸和尚も腹をかかえてましたね」
サンマをアンマが食うをおかしがり



どの皴も喜怒哀楽の喜の皴よ  原 茂幸





 古今亭志ん生

志ん生「自然流」の面目躍如といった名句・連句が並んでいる。座談
会の会場を提供してもらった恩義のためか、参加者たちは、かなり志ん
生をヨイショした発言をしている。中には、褒めようのない句もあるよ
うで、苦し紛れの論評も混じっている。
選者の寿山は、さすがにその辺は心得ており、句の巧拙に触れぬよう、
話題を変えたり、細部にこだわったりしながら、当り障りのない感想を
述べている。ただ、
サンマをばアンマが食うをおかしがり
という希代の珍句には、進退窮まったようだ。
「普通の川柳と非常に違った趣がある。ちょっと判らぬような、いわば
語呂合わせ的な味でおかしみを誘うところに、この句の良さが生きてい
るわけでしょう」志ん生の機嫌を損ねぬように発言をした寿山の心境は
いかばかり…だったか。



へたれらよ進めラッパを吹き鳴らし  きゅういち



寿山の発言の間、志ん生がまったく一言も喋っていないのが、面白い。
参加者がコメントに四苦八苦している様子に気づいたのか、まったく
知らなかったのか。作者はこんなとき黙っていることが風格と考えた
のだろうか…。



サイダーの泡弾けずに騒がずに  くんじろう




親子三人揃った笑顔の写真
「落語の神様」志ん生。「苦労人」馬生。「天才」志ん朝。



「志ん生の素顔が川柳を通して垣間見ることができる」
戦前の「第一次鹿連会」で志ん生の句が残っている。
甘鯛の味思い出す詫住居
表札のない質屋に時間すぎ
この頃の句には「詫住居」という言葉が何度も登場する。柳家甚五郎
名乗り、くすぶっていた昭和ひと桁時代、行間を読まずとも、当時の貧
乏生活が滲み出てしまうのだろう。
おばさんは買ったときだけいうお世辞
気前よく金を使った夢を見る
耐乏時代のなかでも、余分な金が入ると、志ん生は、骨董品や古書など、
欲しいものをひょいと買ってしまう。だが、それほど執着していた道具
類でも、暫くするとポイと売ってしまうのだ。苦しい家計の足しにした
こともあるだろうが、大概はすぐに飽きてしまったようだ。



以下省略 欲を見せないのが美徳  安土理恵



「息子の持っていた『圓朝全集』をそっくり売ってしまった話」
一門の弟子や孫弟子が口を揃えていうことに、志ん生は最晩年まで圓朝
全集を揃えていたのだが、ある日馬生が寄席から帰ってきたら、秘蔵の
全集が見当たらない。
「父ちゃん、あれ、知らねえか?」
「ああ、あれかい、売っちゃったよ」
「あれはおれのもんだよ」
「何いってやんでぇ、おめえは俺がこしらいたんだから」
そうまで言われては、馬生として言い返せない。
息子の新しい『圓朝全集』は、簡単に売ってしまうのに、自分の古い
『圓朝全集』は売らないで、しっかり持っているのである。



ハエトリ紙に父の咳払い  河村啓子



戦後、第二次鹿連会に参加した時の志ん生は、噺家としての技量も人気
もまさに頂点を極めていた。句作にもゆとりが出て当たり前だが、実際
の句を見ると、相変わらず「金」にまつわる句が多く、つつましやかな
生活実感にあふれている。
抱きついてキッスを見るに金を出し
同業に悪く言われて金ができ
宝くじ当たるハ政府ばかりなり
酒の句も多い。志ん生はどんな題がでても、まず酒と結びつけ句を作る。
空っ風おでんの店へ吹き寄せる
ビフテキで酒を飲むのは忙しい
金と酒が絡めば、まさに志ん生ワールドである。



金魚だって強い子だけ生き残る  石橋能里子
 
 
 


パナマをば買ったつもりで飲んでいる  志ん生

 カサブランカのハンフリーボガードとイングリッド・バーグマン
「パナマハット」は、かぶるだけでダンディな雰囲気を演出するオシャレ
な帽子なのです、が、似合う似合わないは、人次第。



「鹿連会こぼれ話」
鹿連会には川柳人の西島〇丸(れいがん)も選者として参加している。
小さん句会の前日に川上三太郎に会って、明日の句会の宿題が「大み
そか」なんだけれども、何かありませんかね、と尋ねた。
三太郎は「大みそかとうとう猫はけとばされ」という句がある、俺の句
だよ、と答えた。その句を小さんが句会で出したら、選者の〇丸が抜いて
(選んで)しまったというエピソードがある。
その他の句。
ふぐ刺身は皿ばかりかと近眼見る   柳枝
鼻唄で寝酒もさみしい酔いごこち   志ん生
はなしかをふと困らせるバカ笑い   円生
松羽目へさっきの雪が一つふり    〇丸



露草に猫がひねった昼の月  岡田幸男



六大家の川上三太郎を話題にしたことがある。三太郎の人間性というか、
 吝嗇家(りんしょくか)というか、何でも他人の勘定でいくそうで、勘
定を払う段になると一応は、ちょっと払う振りで、懐へ手をやるという。
がま口をあけそうにする三太郎    寿山
あけるのを見たことがない三太郎   寿山
「だいたい川柳はわる口ですからね。町人のわる口ですよ。
でも、なんかはっきりわかっちゃいけないんだ。
なんか、味がなくちゃいけない」
なんて寿山が言い訳をする。



くしゃみしてきのうの鬱が出たようだ  福尾圭司



落語家はわがままで頑固な人が多い、句を直すと、呼名をしないことも
あったらしい。
米の値を知らぬ亭主は肥つてる   文楽
後ろから眼かくしをする小さな手  小さん
眼帯へ目玉をかいて怒られる    正楽
目薬の看板の眼はどつちの眼    右女助
円生は落語にちなんだ句を作っている。
芝浜の財布世に出る大みそか   円生



マスクした地蔵が雨に濡れている  安藤なみ



 
 五街道雲助    雲助の師匠・馬生



志ん生からのプレッシャーがあったのか、倅の馬生も、戦後の第二次鹿
連会から、同会の最年少同人となった。馬生の弟子であり、最晩年の志
ん生の世話をした五街道雲助が、志ん生と馬生の川柳を尋ねてみた。
Q 馬生師匠が川柳を作っていたのを覚えていますか。
A 「馬生師匠が川柳をこさえているところは見たことがありません。淡交
というお茶の雑誌が鹿連会の特集があって、後にその特集号を " これ捨
てとくれ " って師匠に渡されたとき、何気なく中を見たら ” 師匠が(句
会で)震えながらお茶を点てていた " なんて書いてありました」
Q 馬生師匠は,若くしてホール落語会のレギュラーになったりしていた
し、主だった噺家が集まるようなことがあると、たいてい御自分が一番
下になるんですね。
A 「そうそう鹿連会でも一番下だった」



この夏の抜け殻七つあり 虚ろ  新川弘子





「パナマ帽おまけ」
パナマ帽を愛用しているハリウッドセレブや著名人を挙げるときりがあ
りません。ジョニーデップ、ショーン・コネリー、麻生太郎、西田敏行、
矢沢永吉、木村拓哉、リリーフランキー、テリー伊藤、中居正広、デン
ゼル・ワシントン、レオナルド・ディカプリオなどなど。
女性では、ケイト・モス、スザンヌ、梨花、ニコール・キッドマンなど。
夏目漱石は『吾輩は猫である』の原稿料で、パナマハットを購入したと
言われています。



Q 鹿連会では「パナマ」という題で「本パナマ渋紙色の斜陽族」と詠
みました。
A 「あたしが前座の頃、うちの師匠がけっこうパナマを被って出た記憶
があります。一度、夏場に、上着を着て、パナマ被って、寄席に来たこ
とがあるんですよ。本人は” 乙ですね " かなんか言われたかったんでしょ
うが、期待に反して、楽屋連中は” パナマですかぁ " なんて笑うばかり。
それでダレちゃったんだろうね、帰りはパナマを被らず、弟子に持たせ
て、憮然として歩いて行った」
Q 「落ちぶれてパナマの上からほおかぶり」という句は情景がでてい
ます。
A 「そうなの。うちの師匠はこさえる方なんだね。貧乏をテーマにこ
さえるというのなら、師匠は実体験豊富だから、けっこう出来るはずな
んだけどなぁ。戦前戦後、志ん生師匠がいないときは、えらい貧乏だっ
たわけだから」



零した涙に明日を握らせる  上田 仁



Q その貧乏の元を作った志ん生師匠は、日常雑感をそのまま詠んだ。
A 「志ん生師匠の代表作?の句「干物では…」。これなんか本人とし
ては、こしらえたつもりはないんだろうね。ただそのまま言っただけ。
ふんどしでズボンをはくとコブができ
ノミの子が親の仇と爪を見る
なんて、自分の生活をそのまま詠んだだけで面白くなっちゃう。こしら
えものでは絶対に出ない面白さがありますよ」
Q 志ん生師匠にも作りこんだ句はあるでしょう。
A 丸髷で帰る女房に除夜の鐘
「これ志ん生師匠にしては、面白くない。こしらえると、こうなっちゃ
うんだ」



ひと捻りすると鮮度が落ちました  美馬りゅうこ



Q そこへいくと、馬生師匠は、自然にこしらえている。
刀折れ矢尽きてここにおおみそか
なんて、やけに大仰ですが。
A 「それ、うちの師匠の句ですか?目白の師匠(五代目小さん)がつ
かってなかったかしら」
Q 「しんねこで河豚を食ってる不埒者」という句もあります。
A 「これまた、こさえてる。” しんねこで河豚 " なんて状況、うちの師
匠にありえません。絶対に自分でやったことじゃないですよ」
Q そういうタイプのひとじゃない?
A 「もう、全然違う。考えて作っているのがよく分かります」
Q 馬生師匠は芸も色っぽいんだし、女の一人や二人いたっておかしく
はないですよ。
A 「それはもうその通りなんだけどね。おかみさん一筋というのもあ
るでしょうが、女とどうしたこうしたとか、そんな面倒なことをするよ
りも、好きな酒を飲んでいた方がいい…。女より酒、みたいなところが
あったからなぁ。」



飲んでいるときには丸くなっている  新家完司




池波志乃は金原亭馬生の娘です。



Q 馬生師匠は取材などで貧乏の話をすることはなかったのですか
A 「取材っていうと、貧乏のことを聞かれてた。でも師匠は、いい顔
しなかったですね。そりゃそうですよ、当人は " 父ちゃんのおかげで苦
労した " って思いしかないんだから。川柳にしても、同じ貧乏を体験し
ながら、うちの師匠には、志ん生師匠のような、面白い貧乏の句がない。
それは結局、うちの師匠が志ん生師匠のように、貧乏そのものを楽しん
でいなかったということでしょう。仕方ないことですが、そこが志ん生
師匠との違いなんですね。」
貧乏を面白がっていた志ん生と、とてもじゃないが父親の境地になれな
かった馬生。「そこに2人の句風の違いがある」と看破した雲助は、ど
ちらの「派」なのだろう。



言葉にも運命線があるらしい  和田洋子

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百均の聖書は途中から白紙  くんじろう




『茲三題噺集会(ここにさんだいばなしのよりぞめ)』 一恵斎芳幾

「三題噺」とは提出された三つの題を、即座にまとめて“オチ”をつける
話芸のこと。張り出された紙に、参加者それぞれに与えられた三つの題
が書かれている。この絵を描いた一恵斎芳幾(いっけいさい・よしいく)
「粋狂連」という三題噺の会のメンバーだった。


捕まえた陽射しと午後のお茶にする  吉川幸子





「坊野寿山」 鹿連会


「鹿連会」は、噺家が参加する川柳会の嚆矢である。
「あなた達は、俳句をひねったりするのに、どうして川柳をやらないの
ですか」
昭和の初め、4,5年頃。当時まだ30を越すか越さないかの
若さだったが、花柳界を題材にした「花柳吟」の第一人者として知られ
ていた川柳家・坊野寿山が、親交のある4代目・柳家小さん、5代目・
三遊亭圓生の2人へ、盛んに川柳の句作を勧めた。小さんは俳句につい
て造詣が深く、句作にも自信があった。
「俳句が詠めるんだから、川柳だって」とすぐにその気になった。
「寿山先生が教えてくれるというなら、他の仲間にも声を掛けましょう」
と、圓生も乗り気になった。

朗報は春の小川になりました  美馬りゅうこ




    
   4代目・小さん  五代目・圓生
 


小さん・圓生
2人の師匠の肝煎りで、そうそうたる顔ぶれが集まった。
8代目・桂文楽、7代目・三笑亭可楽柳家甚五郎(5代目・志ん生)、
5代目・蝶花楼馬楽(8代目林家正蔵から彦六)、6代目・橘家圓蔵
(後の6代目三遊亭圓生)、蝶花楼馬の助(後の8代目金原亭馬生)
橘家圓晃(圓生の異父弟)、初代・林家正楽、桂文都(後の9代目・
土橋亭里う馬)、8代目柳家小三治(後に落語協会事務長)、春風亭
柳楽(後の8代目・可楽)これに小さん、圓生、坊野寿山が加わって
15人の発足メンバーとなった。
これだけの顔が揃ったからには、それなりの名前が必要だ。小さんと
寿山が頭をひねり、考え出したのが「鹿連会」である。いつもは叱ら
れることのない大師匠連も、この川柳会では素人だから(選者)に
「叱られる」という洒落であった。



とろとろ歩けばチコちゃんに叱られる  靏田寿子



それにしても弱冠30歳の寿山が、大半が自分より年上の、一癖も二癖
もある噺家連中を向こうに回して、川柳指導をする。「よくもまあ、こ
んな
会を仕切ったものだ」と感心するばかりだが、後に「句を直すとす
ぐに文句を言われるし、大変だった」と回想しているものの、実際のと
ころ、寿山師匠の「力量」はなかなかのものだったようだ。
子どもの頃からの寄席通い、落語に詳しいだけでなく、十代の頃から噺
家を何人も従えて、料亭や吉原へ繰り出しという、いわゆる「旦那」
あったし、大河ドラマ「いだてん」でお馴染みの甚五郎時代の5代目・
古今亭志ん生ら、貧乏な噺家たちの面倒をみた。いわゆるスポンサーの
言うことを聞かぬ噺家などいない、というのが本質だったかもしれない。



切り口がシャープ有無を言わせない  柳田かおる



メンバーの1人である文楽は、後に寿山が小唄の発表会に出演したとき、
子連れで応援に行った。客席で声をかけているうちはよかったが、その
うち大声で「先生が唄うんだから、とにかく拍手するんですよっ!」
わが子に指示を出したので、周囲は大笑い。高座の寿山に冷や汗をかか
せたという。とにもかくにも、寿山という若き川柳家は、噺家蓮にとっ
てしくじってはならぬ大事な「若旦那」だった。



とりあえずうなずいておく偉い人  山口ろっぱ









かくして昭和5年、根岸の寿山邸で第一回「鹿連会」が第一歩を踏み出
した。その会で最高点をとったのは、のちに8代目・馬生となった「ゲ
ロ万」
こと馬の助である。この日は、馬之助の母親が付いてきていて、
上野黒門町の「うさぎやの最中」を差し入れに持参し「万ちゃんは頭が
悪いから面倒をみてやってください」と頼みこんだ。母親の応対にでた
小さんが「それじゃ幼稚園だよ」と言った泣いて笑える逸話が残る。
そのときの馬之助の最高点を作品が、
手伝いは鴨南蛮の味を知り
この最高点の句を師匠連に大いにほめられ、味をしめた馬之助の次の句
が問題であった。
大掃除鴨南蛮の味を知り
と、来た。



生涯をかけて悟ったこと一つ  瀬川瑞紀



何が問題化というと、以後、しばらく、鹿連会でどんな題を出されても、
馬之助の句には、必ず「鴨南蛮」が入った。
また馬之助は数の勘定が苦手だった。大抵は両手の指を総動員して勘定
をする。ところが、川柳は五七五の17音。両手の指10本では足らな
いではないか、馬之助はやむなく、句作をするときは、寿山の算盤を借
りることにした。新しい題のたびに、パチパチパチとにぎやかに算盤を
はじく馬之助に、たまりかねた柳楽(後の可楽)が顔をしかめて言った。
「万ちゃん、君の川柳はうるさいねえー」



言い訳は無用尻尾は巻いている  上田 仁



「ゲロ万」の呼び名の謂れがある。
馬之助は無類の酒好きだが、飲むとすぐに吐くので、本名の小西万之助
の万と吐くゲロにちなんで「ゲロ万」という珍名をいただいた。ただ、
ゲロ万の吐き方は、名人芸だった。いつもけっして、周りが汚れること
がないように吐くのである。ある時、小さんが、東京駅で下車した途端
に気持ちが悪くなり、その場で吐いてホームを汚してしまった。一緒に
いた先代の鈴々亭馬風があそれを見ていった。
「師匠も噺はうまいけど、ゲロを吐くのは馬之助にかなわない」
名人小さんに比べられ、ゲロ万はぼんのくぼに手をおいて恐縮していた。



あっさりがいいね小言も称賛も  新家完司



かくも華々しい?スタートを切った鹿連会だが、結局、回数にして5,
6回、つごう2年ほどしか続かなかった。長続きしなかった理由とおぼ
しきことを寿山が自著に書いている。
「句を直すと怒るし、ご機嫌を損じると来なくなるしで、こちらが叱ら
れている会みたいなところがあった」と。



法螺ばかり吹いて達磨を怒らせる  笠嶋恵美子



当会で詠まれた句の一部を紹介。
 
 
押入れの枕が落ちる探しもの  小さん
姐芸者こんな香水けなしてる  圓生
また聞きは本当らしい嘘になり  可楽
拳を打つ男同士へ花が散り  文楽
鼻歌で寝酒も寂し酔い心地  甚五郎
縁起物お召しのドテラ使われる  馬之助
新所帯雑誌を読んで眠くなる  柳楽
言い訳の顔は煙草の煙の中  正楽
三階で見ればダンスは足ばかり  文都
誘惑の眼すんなりと美麗な手  小三治


疲れたら大阪弁で弾くピアノ  中村幸彦

拍手[3回]

どこから切っても僕であるよな無いような 山口美代子




「田家茶話 六老之図」 歌川国芳画


詞書は次の通り
「しわがよるほくろができる せはちゞむあたまははげる毛は白くなる
 手はふるふ足はよろつく 歯はぬける耳は聞こえず 目はうとくなる 
 身におふは頭巾えり巻 杖眼鏡たんほ温石しびん孫の手 くどうなる 
 愚痴になる 心はひがむ 身は古くなる 聞たがる死とも ながる淋
 しがる 出しゃばりたがる 世話をしたがる 又してもおなじ咄に 
 子をほめる達者自慢に人は いやがる」 (たばこと塩の博物館)   


                                       
偏平足の話でしばし盛り上がる  竹内ゆみこ 


            
「清左衛門残日録」 藤沢周平




 清左衛門とその仲間



時代劇専門チャンネルでは北大路欣也が、NHKでは仲代達が清左衛門を
演じたお馴染みの藤沢周平「三屋清左衛門残日録」「日残りて昏るる
に未だ遠し」をテーマに「江戸時代の老いの実態」から現代に通じる何
かを、考えさせてくれるお勧めの一冊です。
(最新のドラマでは、北大路欣也、美村里江、優香、麻生祐未、伊東四
朗、渡辺大、寺田農、笹野高史、岡田浩輝、小林綾子、鶴見辰吾、金田
明夫、小林稔侍らが熱い演技を見せてくれています)



いいことが聞けそう耳を置いてくる  都司 豊



「清左衛門を読む」江戸時代の老いの実態
三屋家の隠居、三屋清左衛門(北大路欣也)は52歳。現役時代は家禄
120石から出世して320石という上士並の禄高を得て、亡くなった
先代藩主の用人を勤めていた。用人というのは、大名や旗本家で家老に
次ぐ役職である。藩主や旗本の政治顧問役や庶務・会計などに携わった。
かなりの重役であるから役料のほかに大きな屋敷をもらえたわけである。
隠居するにあたり清左衛門は、その大きな屋敷も出なければならないと
予想していたが、藩主は屋敷そのままで、さらに隠居部屋まで建ててく
れた。それは藩主が世子に決まる際、清左衛門が賢い弟の方でなく長幼
の序を守って兄のほうを推薦してくれた、その助言をありがたく思い続
けていたためらしい。



縦糸は夕陽 終の衣を縫いあげる  太田のりこ



最近隠居が許され、長男又四郎への家督相続を済ませた。隠居のあとに
は釣りや鳥刺しをする悠々自適の暮らし待っているはずだったが、そう
はならなかった。清左衛門の予想では、世の中から一歩退くだけだった
のだが、隠居は世間から隔絶されてしまうことだったのである。
…その安堵のあとに強い寂寥感がやって来たのは、清左衛門に思いがけ
ないことだった。勤めていたころは、朝目覚めたときにはもうその日の
仕事をどうさばくか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、隠居して
みると、朝の寝覚めの床の中で、まずその日一日をどう過ごしたらいい
かということを考えなければならなかった。



人肌でゆるゆるパンツぬるい風呂  雨森茂樹



君側の権力者の一人だった清左衛門には、藩邸の詰め所にいるときも、
藩邸内の役宅に寛いでいるときも、公私織りまぜて訪れる客が絶えなか
ったものだが、今は終日一人の客も来なかった。妻の奈津(美村里江)
は3年前、つまり清左衛門が49歳のときに病死していた。それゆえ、
家の中での話し相手もない。嫁の里江(優香)は、清左衛門を何かと気
遣う優しいこころの持ち主だが、若い嫁とは思い出話をすることもでき
ない。そこで清左衛門は、空白を新しい習慣で埋めようと、日記をつけ
始めた。



たとえようのない孤独と向き合った  福尾圭司



嫁は日記の題名「残日録」の言葉に漂う、寂しげな感じを心配したが、
清左衛門はすこし気張って、「日残りて昏るるに未だ遠しの意味でな。
残る日を数えようというわけではない」ひまになったのを幸いに埃
をはらって経書を読み、むかしの道場ものぞいて見るつもりだ」
と説明した。



魚拓だと言えないこともないですね  竹内ゆみこ








「思い出は永遠に古びない」
隠居のひまの日々に、世俗の空気を持ちこんで来るのは、かつての道場
仲間で「政権が変わっても、かれほどの者はおらぬ」と、いまも町奉行
勤めている佐伯熊太(伊東四朗)である。佐伯は清左衛門が隠居してか
ら、はじめての外からの客で、その後もたびたび訪れてくる。昔の知り
合いが「ボケた」という噂を教えてくれるのも、かれである。しかし、
そういう隠居の身にも、華やいだ気持ちが蘇ってくるときがある。



でこぼこを埋めるでこぼこの片割れ  清水すみれ



菩提寺をたずねたとき、清左衛門は若い女性とすれ違うが、かの女が昔
の淡い恋の相手の娘だと知ると、その淡い恋の思い出がまざまざと心に
浮かび上がってくるのだ。思い出は永遠に古びない。清左衛門は日記を
ひらき筆を取り上げると次のように記した。
「寿岳寺に礼物・寺にて加瀬家の息女に会いたり多美女と申される由。
何かは知らねど、あるいは清光信女仏のひき合わせにてもあらむか」
そう書きながら、清左衛門は身体の中に若い血が蘇るのを感じた。



お互いの隙間に入れる接続詞  みつ木もも花



「落ちぶれた友人との苦い再会」
ある日、旧友の金井奥之助(寺田農)と30年振りに出会う。金井は、
150石の家禄があったが、与した朝田派が派閥争いで敗れて以来零落
し25石の貧乏暮らしとなった。出世を重ねた清左衛門への屈託をかか
える金井は、清左衛門を磯釣りに連れ出す。日が暮れかけた頃、金井は
清左衛門を海へ突き落そうとして、逆に自分が落ちてしまった。助けた
清左衛門に金井は、詫びも礼も言わず、清左衛門はひとり城下へ帰って
ゆく。



失った昨日を覗くマンホール  山本早苗



「寂寥感に浸かる間もなく、清左衛門に起る様々な出来事」
初秋の夕刻、清左衛門は野塩村での釣りの帰り道に、急流に取り残され
おみよとその子の命を救う。しかし、それを契機に清左衛門は藩内の
政治抗争に少しずつ巻き込まれてゆく。筆頭家老・朝田弓之助(金田明
夫)を中心とする朝田派と、元家老の遠藤治郎助を中心とした遠藤派と
の争いは何十年も藩を二分してきた。朝田家老は、自身の子どもを次期
藩主にしようと企む石見守と結託して、野塩村の富豪多田掃部から派閥
強化のための莫大な支援金を受け取っていた。清左衛門は形ばかりは遠
藤派に加わり、集会にも出ていたが、派閥抗争には距離を置いていた。



人の世はモヤモヤモヤの繰り返し  喜田准一







隠居して三年目の春、江戸から近習頭取の相庭与七郎(渡辺大)が藩主
に命じられて訪ねてきた。藩内の派閥抗争の現状を聞きたいといわれ、
清左衛門は、現藩主の自分への信頼に胸をあつくする。その相庭からの
頼まれ事で、城下の繁華街にある行きつけの小料理屋「涌井」で人と飲
んでいた清左衛門は、清次という男が女将のみさ(麻生祐未)に乱暴し
ているところに居合わせた。料理人で、みさの元恋人であるという清次
を追い払った後、みさの酌で飲み、ふたりの距離は急速に縮まってゆく。



今日の日を特別にするいいお酒  ふじのひろし



「涌井の女将みさとの恋と平八の勇気」
清左衛門は、若き日の同僚でライバルでもあった小木慶三郎を訪ねる。
むかし小木が突然左遷された原因は、自分が藩主にした告げ口にある
と長年思い悩んできた。そのことにけりをつけようと、出かけたが、
結局言い出せず、自己嫌悪に陥る。大雪のため自宅に帰り着けず清左
衛門は、涌井で一晩を過ごした。春同年の友人・大塚平八(笹野高史)
が中風で倒れた。歩く練習をしようにも、力が入らないと嘆く友人の
病気は他人ごとには思えず、清左衛門は、鬱然とする。



螺旋階段を後ろ向きに降りる  木口雅裕



一方、藩内の派閥争いは、藩主の息子の毒殺を企み始めた石見守を、朝
田家老が危ぶんだすえに殺害したことから急展開する。藩主は事態を収
めるために、朝田家老を免職、処罰し、遠藤派に政権を握らせる判断を
した。清左衛門の元には用人の船越喜四郎(鶴見辰吾)が訪れ、藩主の
命により、朝田家老の説得への同道を請われる。藩の執政府が一変した
秋の日、清左衛門は、親友の佐伯と飲む酒に酔っていた。帰りしな見送
りに出たみさと二人きりになると、突然の帰郷の決意を聞かされ別れを
告げられる。藩内人事の大幅な入れ替えが行われたころ、みさはひっそ
りと帰っていった。



お別れねニッコリドアを閉められた  森田律子



「平八の勇気」
そして旧友の金井奥之助は病死した。野辺送りにでた清左衛門は、冬の
間に風邪をこじらせた自分や現在も中風を患う大塚平八のことを思い、
老いを痛感する。重い気持ちのまま橋を渡った。そしてふと大塚平八を
見舞って行こうかという気になった。路地をいくつか通り抜けて、清左
衛門は大塚平八の家がある道に出た。そして間もなく、早春の光が溢れ
ているその道の遠くに、動く人があるのに気づいた。清左衛門は足を止
めた。
こちらに背を向けて、杖をつきながらゆっくりゆっくりと動いて
いるの
は平八だった。つと清左衛門は路地に引き返した。胸が波打って
いた。
清左衛門は後ろを振り向かずに、急いでその場を離れた。
胸が波
打っているのは、平八の姿に鞭打たれた気がしたからだろう。



夕焼けに焼いてもらって帰宅する  徳山泰子



ーそうか平八。いよいよ歩く修練をはじめたかー、と清左衛門は思った。
人間はそうあるべきなのだろう。衰えて、死がおとずれるそのときは、
おのれをそれまで生かしめたすべてのものに、感謝を捧げて生を終われ
ばよい。しかし死ぬるそのときまでは、人間は与えられた命を愛しみ、
力を尽くして生き抜かねばならぬ。そのことを平八に教えてもらったと
清左衛門は思っていた。家に帰り着くまで、清左衛門の眼の奥に、明る
い早春の光の下で虫のような、しかし辛抱強い動きを繰り返していた、
大塚平八の姿が映って離れなかった。
今日の日記には平八のことを書こうと思った。



新しい坂を栞にしておこう  西田雅子



【豆辞典】 「江戸時代の隠居」
当時の武士の誰もが、清左衛門のようなしみじみと力強い老後ー
めぐまれた隠居生活を過ごせたわけではない。幕府も藩も定年制がなく、
それだけに「隠居」を願い出る手続きも煩瑣だった。なにしろ、城内で
老眼鏡を掛けるにも「眼鏡願」、杖をつくにも「杖願」の提出が必要だ
った時代である。主君に身命を捧げたはずの家臣が、悠悠自適の日々を
送りたいという理由で隠居を願うことなど、少なくとも建前があり得な
かった。



誰も彼も見えないゴールめざしてる  石橋能里子



「隠居願を提出できる条件。弘前藩の場合」
70歳以上ー病気断りを出していなくても隠居願を提出できる。
60~69歳ー病気の期間に関わらず病状によって出願可能。
50~59歳ー病気期間が5カ月以上であれば勝手次第(自由。
50歳未満ー病気断りを出して10ヵ月を経過しなければ出願できない。


これによれば50代の清左衛門は、最低5カ月間病床にあるか、勤務不
能なほどの重態でなければ、隠居はできないことになる。とはいえ、清
左衛門のようなケースもあり得ないことは、断言できない。腰痛の持病
を抱えているとか、頻尿の症状がひどく長時間の会議や儀式に耐えられ
ないなどの、適当な理由をつけて、隠居する抜け道もある。




シュレッダーにかける積み重ねた吐息  赤松蛍子

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