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川柳的逍遥 人の世の一家言
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臍は出すもの心は奥に仕舞うもの  河村啓子


  天正大判
1588年に豊臣家より発行された大判。純金165gで作られており、
戦国後期には非情に珍しかった。
江戸時代には慶長大判と並行して使われていた。


「戦国よもやま話ー②」

「高台院と三成」

豊臣秀吉の正室・高台院。秀吉が没し、未亡人になってからの彼女は、

石田三成と仲が悪く、「関が原の戦い」でも、東軍の加藤清正らと

通じていた
とされているが、近年、この解釈に疑問が唱えられている。

通説では豊臣家の将来を見かねた高台院が、徳川家に頼って

生きていくことに決め、加藤清正福島正則、小早川秀秋らに

関が原の戦いで東軍に加担するように仕向けたとされている。

これで豊臣政権を守るために挙兵した三成の立場をなくしたわけだ。

だが昨今、高台院X三成親密説が浮上してきているのだ。

2人が親密だった論拠はいくつかある。

かもめーる ほんとのことは積み残す  岡谷 樹

まず、三成の娘が高台院の養女になっていたこと。

険悪な仲であればこの関係は考えにくい。

次に、高台院の甥、兄弟の多くが西軍として関が原の戦いに参加し

領地を没収されていること。

高台院が東軍に通じていたとするなら、秀秋以外の救済にも、

手を回しただろう。


そして、親密だったとされる高台院と東軍の加藤清正の関係だが、

これも信憑瀬のある資料はない。

臍の緒が鼠の餌になっていた  新家完司

では何故、不仲説が流れていたのか。

それは徳川幕府成立後に、「三成を悪人に仕立て上げよう」とする

動きが、あったことに起因している。

豊臣家滅亡後もその存在を認められていた高台院に対し、

三成は徳川家に生涯刃向い続けた人物。

三成を悪とし高台院と不仲だったことにすれば、

都合がよかったのである。

1トンの四角い夢にうなされる  井上一筒

「直江兼続と伊達政宗」

上杉家家臣として上杉景勝の側近を務めていた直江兼続は、

家康を激怒させた
直江状」の筆者としても有名で、

真面目で義と愛に篤い人物だった。


対して政宗は伊達家から奥羽きっての戦国大名にのし上がった人物で、

華美な様相を好む派手な男だったと知られる。

いかにも噛み合わなそうなこの2人、やはりというか実はというか、

仲の悪さを示すエピソードをいくつか残している。

その時代嘘は手頃な値であった  中野六助

兼続が景勝の代理として大坂に上った際、

大名が集まる間で政宗が大名たちに「天正大判」を見せびらかしていた。

やがて兼続のもとにもそれが回ってきたが、

兼続はそれを素手では触らず、
開いた扇子に乗せて眺めていた。

それを見た政宗は兼続が遠慮しているのかと思い、

「苦しゅうない、手に取られよ」
と声をかけるが、

兼続の口から返ってきたのは、とんでもない言葉だった。


「ご冗談を、不肖兼続の右手は先代謙信の代より上杉家の采配を預かる身。

   左様に不浄なものに触れるわけには参りません」

そうして兼続は、その大判を政宗の膝元に投げて返したという。

手始めに青首大根真っ二つ  安土里恵

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はさまった悔いを掻きだす糸楊枝  佐藤美はる



「戦国よもやま話」

「島左近とは」

石田三成が、島左近を含む大名たちを引き連れて大坂城天守に登り、

そこから四方を見渡し、城下の繁栄を見て言ったとされる言葉がある。

「天下擾乱の時、大器で知謀に優れた秀吉公が出て群雄を次々と従え、

五畿七道を掌握なされた。

今もなおこのように繁栄し、民の喜ぶ姿が見られ、またその歓声を聞く。

秀頼公の永世を祈らぬ者などいるはずがない」

これを聞いた大名たちは口々に「その通りだ」と同調した。

金平糖ほどの角なら二つ三つ  山本早苗

しかし、三成の重臣・島左近は、佐和山に帰ってから三成に言った。

「そもそも権力者の所在地には、昔から身分を問わず人は集まって参ります。

つまり、たとえ繁栄していると言えども、必ずしもそれは権力者の人徳に

よるものとは限りません。

人々は利のある方に就くというだけなのです。

城下を二、三里も離れないうちに、雨も満足にしのげない茅屋が建ち並び、

衣食も十分とは言えず道に倒れて餓死する者も多くいます。

今、豊臣家は安穏としているときではなく、御家安泰の道を武備にだけ

頼るのはいけません。

流れ星だからって甘えるんじゃない  前中知栄

まず将士を愛し、庶民を撫してその心を悉く掴むときには、

二心を抱く者とて服従し、恨みを持つ者も疑いが和らぎ、たとえ力を頼んで

謀反する者が出ても、一檄を飛ばせばたちまち秀吉公恩顧の将士が馳せ

集まって逆賊は或いは降伏し、或いは誅されるでしょう。

これを頭に入れず、ただ城下の繁栄に驕り下々の憂苦を思わず、

武備にのみ力を注ぎ城壁塹壕の補修のみ行っても、徳や礼儀をもって、

その根本から培養していかないと、甚だ危険なことになります」

この言葉を重く三成が受け止めておれば、もう少し長く生きれた。


原罪のあさきゆめみし合歓の花  森田律子

「島左近とは」
              しま きよおき
通称・島左近、実名・島清興島(勝猛、友之、清胤、昌仲とも名乗った)

筒井順慶、定次に仕え、豊臣秀長・秀保に仕え、関一政に仕えた。

順慶の子・定次が酒色に溺れ、政治をかえりみなかったので、

左近はその元を去り、流浪の果てに近江に赴き、江南の高宮の近くに

草案を営み、引き篭っていた。

その後、武名によって羽柴秀長に仕える機会を得、

朝鮮の役では秀長の子・秀保に従って戦功をあげ、

秀保の死後、石田三成の家臣になる。

このとき三成が左近に出した驚きの条件は禄高2万石を用意するであった。

三成は自身の禄高の半分を与えるから家臣になってくれと頼んだのである。

左近の実像は史料的に見えず、石田家臣としての存在自体にも懐疑的で

あったが、
近年発表の『石田三成文書』によって、

島左近が三成の重臣だったのは間違いない事が明確となった。

視野狭いわたしにも欲しいトンボの目  内藤光枝



「本多正信」

本多正信は、元亀元年(1570)の「姉川の戦い」に参戦してのち、

家康の側近として抜群の信頼を得る。

その関係はしばしば「水魚」に例えられ、
家康は正信を「友」と呼び、

正信が帯刀して家康の寝室に、
入ってもいいと言われたほど。

また、正信には家康の考えていることが手に取るように分かり、

家康が欲しい反応を即応で見せることから、

海外の文献では、正信を超能力者であると指摘していることもある。

その活躍は、家康が豊臣政権によって与えられた新領地・関東の経営から、

秀吉没後から徳川家康が天下人になるまでに行われた謀略まで。

毛筆のかすれに悪意忍ばせる  嶋沢喜八郎

「方広寺鐘銘事件」のほとんどは正信が献策したものともいわれている。

1603年、徳川家康が初代将軍として江戸に幕府を開くと、

正信は家康の側近として国政に関わり、さらに二代・秀忠が将軍となると

秀忠付の年寄として幕政をリード、大坂の陣でも高齢の身をおして、

数多くの策を立てた。

とにかく家康は過剰なまでに信頼しており、

関ヶ原の戦後処理・家臣の叱責についても正信の助言に従っていたという。

その功績は大きかったが、一方、謀略・内政に携わるものの常として、

武将たちからの評判は悪く、彼らの嫉妬を避けるためか長く加増を望まず、

晩年にようやく2万2千石を受け取っただけだった。

権謀術数に精通し世渡り上手であった正信は、

「出る杭が打たれる」ことを、身を持って熟知していたからである。

語尾ひとつ昨日の距離が加速する  桂 昌月

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タンポポが照らすこの世の底あたり  新家完司



「江戸川柳で綴る石田三成」

秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康と五奉行頭の石田三成が対立します。

三成は秀吉によって発掘された人。

近江・長浜の在の寺の小僧をしていた時、秀吉が鷹狩りの帰途に立ち寄り、

お茶を所望したところ、佐吉と称していた三成が応対して、

最初は大きな茶碗に温かい茶を多めに、

次は中ぐらいの茶碗に少し熱い茶を半分くらい、

三杯目は小さな茶碗に熱い茶を少し点じて差し出しました。

これで効果的に喉の乾きは癒され、機転に感心した秀吉は、

佐吉を連れ帰り小姓として側に置きました。

「佐吉めは仕合わせ者」と和尚云い

三成は理財に秀で、太閤検地を取り仕切り、土面符という紙幣を発行し、

小田原攻めや九州征伐、朝鮮出兵では将兵の動員、食料輸送等の計画を

策定しました。

それは到底余人ではなし得るものではなく、

秀吉の全面的な信頼を受けて出世し、

温い茶でだんだんあつき御取り立

―あつき熱いと厚いの両意。

三成は豊臣政権の維持のため、天下取りの野心をちらつかす家康を

除こうとしました。 

家康にしてみれば、秀吉存命中に尾張の小牧・長久手の合戦ですでに

小牧山長く久しい御手柄

―長く久しいは長久手に利かせて。

豊臣氏に勝っているので、いつまでも天下を認めるわけにもいかず、

両者の緊張は日を追って度を増しました。

家康は三成の挙兵を促すために、上杉討伐を名目に京畿を離れました。

三成はチャンス到来とばかり毛利輝元、小早川秀家ら西国大名を糾合して、

慶長5年(1600)7月に挙兵。

家康は同年9月、三成が待ち受ける美濃の関が原に到着。

本来、豊臣につくはずの加藤清正、福島正則、浅野幸長、池田長政、

藤堂高虎、など太閤の恩顧の大名たちは、三成に対する個人的な憎悪から

徳川に加担しました。

三成が朝鮮出兵などで、これら武将をアゴでつかったことが、

若衆から悪方に石田也

になってしまい、三成の盟友の小西行長も商人の出なので、

武闘派の加藤や福島からすると

小癪さは小西石田がくしゃみする

―小が両韻。癪とくしゃみが近似韻。

9月15日午前8時、東軍7万4千、西軍8万6千が関が原に集結して、

いよいよ天下分け目の火蓋が切られました。

ところが西軍の総大将の毛利輝元は大坂城から出てこず、

息子の毛利秀元、島津義弘、長曽我部盛親、小早川秀秋などの大大名は、

戦いに加わらず高見の見物。

攻め合いになると石田は皆掛け目

―掛け目は、碁盤の上の石は欠けてに

温い茶のようにはいかぬ関が原

それでも西軍の大谷刑部、島左近、真田幸村、宇喜多秀家、小西行長

など
が奮戦し激闘は4時間に及びましたが決着がつきません。

松尾山に陣を張る西軍の小早川秀秋が、どちらにつくかが分け目となり、

三成は西軍に加勢するよう盛んに使者を出して出撃を促すも動きません。

家康も自分に味方すると思っていた秀秋が、撃って出ないので豪を煮やし、

そこで松尾山に向けて鉄砲を撃ち込みました。

驚いた秀秋は1万7千の兵を西軍目掛けて突進させ、

これにより激戦は午後2時に終わりました。

尻から金と打たれて石田負け

裏返る金で石田の敗れ也

一句目の金は金吾中納言こと、小早川秀秋。

一句目二句目とも将棋の石田組という陣形にかこつけて。

松風に石も飛び散る関が原

―松風は徳川宗家の松平に利かせて。

御扇子は武運の開く旗印

―徳川の旗印は馬、跳躍するので「武運が開く」

秀吉の正室の寧々(ねね)は、秀吉の寵愛をほしいままにした淀君を、

よく思っていませんでした。

淀君とその子の秀頼を庇護する三成に対しても敵愾心を持ち、その分、

家康に好意的でした。

太閤恩顧の武将たちが家康についたのは、寧々の内々の工作で、

秀秋も彼女の意向を受けて、早くから家康に内応していました。

してみると、秀吉を巡る女の闘いが、関が原の勝敗を左右したといえ、

歴史とは意外、案外そんなものです。

天下を手中にした家康は寧々に感謝し、京都に桃山建築の贅をこらした

高台院という隠居所を建て住まわせ、彼女が76歳で天寿を全うするまで、

大名格の禄を与え遇しました。

関が原から行方をくらました三成は、近江の古橋で捕まり、

行長、安国寺 恵瓊とともに洛内外引き回しの上、六条河原で処刑されました。

夢でしたちょっと酸っぱい味でした  嶋沢喜八郎

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絶滅を危惧するあまりビニールの傘  酒井かがり


三成、秀吉との出会いの像

「秀吉が死んで」

小田原征伐後、秀吉は奥州の各大名に恭順を求めた。

ここに秀吉による天下統一が完成し、漸く長い戦乱が終わりを迎えた。

このまま平和な時代を迎えるのかと期待した人も多かっただろう。

しかし秀吉は、明国やインドまでも従えさせるという、

壮大な夢を抱いていた。


その結果、朝鮮半島を舞台に、日本軍と朝鮮・明の連合軍が2度に渡り

死闘を演じることになってしまった。

この戦いは、日本にとって有益なことは何もなかった。

それどころか発足したばかり豊臣政権の体力を奪ってしまい、

さらには、大名同士の反目を生む結果となった。

筋書きは斜めで階段の途中  山本早苗


四大老・五奉行 (大老筆頭家康は不在)

右から、毛利輝元・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家
石田三成・前田玄以・浅野長政・長束正家・増田長盛

朝鮮半島では多くの将兵が戦いに苦しんでいた慶長3年8月18日、

稀代の英雄であった秀吉は、伏見城内でこの世を去った。

その死により徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家

五大老と石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以

五奉行により、早急に朝鮮から撤兵することが決定された。

朝鮮に出兵していた大名たちは、三成を筆頭とする奉行たちが、

自分たちの軍功を秀吉の耳に入れなかったどころか、

讒言を繰り返したと思っていた。

そのため三成に対して強い恨みを抱いていた者も少なくなかった。

しかし三成にすれば、それこそ言いがかりとしか言いようがない。

毒は微妙に輪の中で熟れていく  山口ろっぱ


生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴 (左から)

それよりも三成は、秀吉が生前禁止していた大名同士の勝手な婚姻を

大老筆頭である家康が平然と破り、

伊達家や黒田家、福島家と縁を結んでいることを問題視していた。

そこで三成は、中老の堀尾吉晴らを問罪使として家康の元に送り込んだ。

だが家康と吉晴では、格が違いは明らかだった。

吉晴は逆に家康から一喝され、すごすごと引き揚げてきた。

結局、同じく大老の利家が互いの屋敷を訪問し、

誓紙を交わすこととなった。


膝の水を抜いてレマン湖へ返す  井上一筒

だが三成ら奉行衆が頼りとしていた前田利家が秀吉の後を追うように、

慶長4年3月3日この世を去ってしまう。

その直後事件が起きた。

朝鮮の役の際、三成の讒言によって煮え湯を呑まされた福島正則

加藤清正、黒田長政、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明の7将が、

大阪の石田屋敷を襲撃したのである。
                よしのぶ
だが三成はその直前、佐竹義宣の助けを得て屋敷を脱出していた。

そして事もあろうか家康の元に駆け込み保護を要請した。

他ならぬ事情パラリと粉山椒  山本昌乃

当然、7将は三成の引渡しを要求してきたが、家康は断固はねつけた。

その代わりに家康は三成を隠居させること、

及び朝鮮の役での査定の見直しを約束・・・これで7将を納得させた。

家康には三成を生かしておき、

豊臣恩顧の大名たちの反目を継続させる狙いがあった。

そして次男である結城秀康に三成を居城の佐和山城まで送らせた。

こうして家康は、政治の表舞台から三成を失脚させることに成功。

さらに豊臣恩顧の7将の気持ちを掌握し、

自らの陣営に引き込むこともできた。


そして諸大名からは、「家康の処断は公平で信頼できる」という、

評価も勝ち取ることができたのである。

コンパスで正方形を書いている  和田洋子

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骨盤に刻む昨日のあれやこれ  井上一筒


   小舌の男

こした(小舌)といひて、した(舌)のね(根)にちゐ(小)さきした(舌)の
やうなるもの、かさなり(重)ておいゝ(生出)づることあり、やまひ(病い)
おもく
なりぬれば、はら(腹)にはうゑ(飢)たりといへ(雖も)どん、

のむど(咽喉)飲食をうけず、おもくなりぬれば、しぬるものあり、

「歴史を散歩する」

「灸」

「灸」は中国から伝わった漢方療法である。

奈良・平安時代にはすでに公家の間で用いられており、

平安末期から鎌倉初期の公卿・九条兼実の日記「玉葉」や、

戦国時代の公卿・山科言継の日記・「言継卿記」などに灸の文字が見える。

庶民への灸の普及は、12世紀後半の絵巻「病草子」に見ることができる。

「小舌の男」という場面に、口腔の病を患った男に灸をすえる僧形の男が、

描かれている。

又、江戸前期の俳人・松尾芭蕉は紀行文・「奥の細道」
序文に、

「三里に灸すゆるより」と記している。


接ぎ木するページが乾かないうちに  上田 仁


    養生訓

灸の普及は、江戸時代の数多くの針灸書の出版にも見ることができる。

その先駆けは、16世紀の漢方医で、足利将軍織田信長、豊臣秀吉
                 まなせ どうさん
徳川家康などに重用された曲直瀬道三が編纂した「針灸 集要」である。

道三は当時の新しい中国医学を日本に導入し、

以後の漢方医学基礎を築いた日本医学・中興の祖と言われるが、

ほかにも多くの本を著した。

江戸初期の儒学者・貝原益軒は医学にも通暁し、

その著書で庶民への啓蒙的養生書・「養生訓」には、

灸の効用、製法、施灸後の注意点などが細かに記述されている。

歳月よ抵抗できぬ離岸流  新家完司

ちなみに家康は、自身で薬を調合するなどさまざまな健康法を取り入れて、

75歳まで長生きした。

その家康が、生涯に一度、生死に関わる大病にかかったことがあるという。
                                    よう
小牧・長久手の合戦の時に、当時、死亡率が高かった「癰」(おでき)という

病気を患っている。

癰は「はれもの」という読みもするように、傷口が膿みをもって腫れてくる

病気で、細菌の入り具合で、敗血症という病気にもなる怖いものだが、
   かすやちょうかん
医師の糟屋長閑が塗り薬と灸の治療を行なって命を取りとめたといわれる。

 【一筆薀蓄】 
「珍美の食に対するも 八九分にして止むべし」貝原 益軒腹八分を説く

シンプルに生きた割には憎まれる   靍田寿子


    彩絵檜扇 (平安時代後期、厳島神社蔵)

扇を形作る檜の薄板全てに胡粉、さらに雲母を塗り、
金銀の箔を散らして絵を描く。児童および婦人用の檜扇。

「扇」

今日「扇子」と呼ばれることが多い扇は、「風を送る」という意味の

「あふぐ(扇ぐ)」の派生語で、折り畳みの形は日本で生まれたと言われる。

扇はあおいで風を送り暑さを和らげるものだが、

平安時代には公家の
正装などに用いられるようになった。
                               しゃく
例えば、公家の男性の正装「束帯」では、手に「笏」を持つのが正式だが、

代わりにヒノキで作られた「檜扇」も使われた。

公家の女性の正装「十二単」の手には、極彩色の檜扇が添えられた。

のちには、和歌を書いてやり取りするなど、

扇は恋の道具としても使われるようになった。

おばちゃまと猫と少しの団扇風  山口ろっぱ
              ひたたれ だいもん
武士の時代になると、直垂や大紋といった正装に扇を持った。

武士にとって扇は、刀と同じものと考えられ、

刀と同じく左の腰に差すのが決まりだった。

扇は、能や歌舞伎、舞、茶道、香道などにも欠かせないものとなった。

例えば、茶の湯の席では、茶をいただくときや掛け軸や茶碗などの

道具を
拝見するとき、膝前に畳んだままの扇を置くことが作法となる。

扇を置くことで境(結界)を作り、相手への敬意を示すもので、

その作法は今日まで続いている。

 【一筆薀蓄】  
  「扇」という漢字は、本来、軽い扉のことを意味し、

   そこから転じて「うちわ」のことをいうようになった。

鹿は野をかけるいつかは骨になる  墨作二郎

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