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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ソライロヲミル海月のマボロシヲミル  山口ろっぱ


  4大老・5奉行
右から、毛利輝元・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・石田三成・
前田玄以・
浅野長政・長束正家・増田長盛 (画面は拡大してご覧ください)

慶長3年(1598)7月、自分の死が近いことを悟った秀吉は、

徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に宛て遺言を送る。

「返すがえすも秀頼のこと頼み申し候。五人の衆 頼み申し候。

委細五人の者に申しわたし候。名残惜しく候。以上」

息子・秀頼の行く末を案じる秀吉。

家康に秀頼の後見人になるように依頼する。

「露と落ち露と消へにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」

生きてとんとんと天下人となった秀吉さえも、その末路は空しいものだった。

零ひとつ増えて火柱遺言書  上田 仁

徳川家康

「秀吉の足跡」

天正10年、信長の暗殺後、光秀を討ち継承問題で勝家を破り権力を奪取。

天正13年、関白太政大臣になり、朝廷から豊臣の姓を受ける。

天正17年、側室の淀君が嫡男・鶴松を出産。

天正18年、小田原北条氏を攻め落とし、天下統一完成。

天正19年、鶴丸と弟・秀長が病死。千利休の切腹。

文禄元年、二度の朝鮮出兵に失敗。淀君が第二子・秀頼出産。

      関白秀次切腹。キリシタンの弾圧。地震による伏見城倒壊。

慶長3年 3月の醍醐の花見の後、5月ころから体調を崩して床に伏す。

      下痢、腹痛、食欲不振、手足の激痛などの症状が出。

       漢方薬の効果もなく痩せ衰え病状は悪化の一途、失禁もあった。

病名はほかに、急激な痩せかたから大腸がんや赤痢が疑われ、また認知症、

栄養の偏りによる脚気、脳梅毒、尿毒症、女好きの過淫が祟った腎虚、等々

いかにも秀吉らしい病気の種類の賑やかさである。

横隔膜ピクピクいとしい いのち  靍田寿子

 前田利家

教宣教師・ロドリゲスが秀吉を見舞った時の様子を次のように述べている。

「干からびたかのように衰弱しており、ぼろぼろになっている。

まるで悪霊のようで人間とは思えない」

生きる力を全て使い果たしたかのような醜悪な終末だったと語っている。

     ねんれいしつきじゅつ               しんいけい
一方で『燃藜室記述』には「秀吉は明の使節・沈惟敬によって毒殺された」

と、
とんでもない説もある。

そして慶長3年8月18日、秀吉、62年間の生涯を閉じる。

吹き溜まり行きの最終便が来る  岡内知香

毛利輝元

慶長4年4月、遺骸は伏見城から運ばれ、阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬。

朝廷から「豊国大明神の神号、正一位の神階」を授与される。

神として祀られたため、葬儀はとり行われなかった。

その後、豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、「五大老と五奉行」が秀頼を補佐。

五大老と五奉行は、明軍と和議を結び、朝鮮からの撤兵を決定。

この戦争は、朝鮮に多大な被害を及ぼし、

明は莫大な戦費と兵員の損耗によって疲弊、滅亡へ向かう。

参戦した西国大名たちの財政は逼迫。

秀吉の没後、豊臣政権の内部抗争も激化。

関ヶ原の戦いへの導火線となっていく。

通り雨昨日のことは零にする  三村一子
 
上杉景勝・直江兼続

「五大老・五奉行」
自分の死後、幼い跡継ぎの秀頼の行く末を案じた秀吉は、
秀頼を盛り立て豊臣政権を守っていく為の制度・五大老と五奉行を定めた。
五大老とは立法機関であり、豊臣家に忠誠を誓った有力大名5人を任命。
五奉行とは、五大老の下で実務を司る機関とされ、秀吉の家臣で、
官吏としての行政処理能力に長けた5名が任命された。
 
「五大老」
徳川家康
北条攻め後、秀吉により北条旧領の関八州に転封。
秀吉没後、五大老の一人として秀頼を補佐。関ヶ原戦で三成を筆頭とする
反対勢力を一掃し、権力を一手に握る。更に15年後、大阪夏の陣にて
豊臣家を滅ぼし、徳川政権を盤石のものにする。 
 
前田利家
若い頃からの親友として陰に日向に秀吉を助けてきた。
勇将として若い武将達から信頼される。信義を貫き豊臣家を守ろうとするが、
「秀頼公をお守りせよ」との遺言を残し、秀吉の死からわずか1年後に病没。

毛利輝元
家康に次ぐ身代の大きさを期待され、西軍の総大将として大阪城に入るが、
決断力に欠け、関ヶ原で三成が敗れると、為すすべもなく降伏している。

上杉景勝
関西の三成に先立って、領国の会津で家康に反旗を翻す。
三成と東西から挟み撃ちにする作戦だったが、それを読んでいた家康は、
伊達、最上といった東北の大名に後方を攪乱させ、その隙に西へ進軍。
関ヶ原で西軍が敗れた後も、徹底抗戦の構えを見せる景勝だったが、
家名存続を条件に降伏。

宇喜多秀家
関ヶ原戦の当時27才、五大老中最若年。秀吉の養女で利家の娘・豪姫
が正妻であることなどから豊臣家に対する忠誠心は人一倍強かった。
関ヶ原では西軍の主力として活躍するが、敗れて逃走。
のち捉えられて八丈島へ流罪となるも、そこで84才まで生きる。  

底辺に本音しっかりへばりつく  柏原夕胡
 
宇喜多秀家

「五奉行」
石田三成
秀吉の重臣。検地や財政などんお政務に手腕を発揮、「治部」と呼ばれる。
秀吉没後、加藤清正ら7人の武将の襲撃を受け、佐和山に逼塞するが、
台頭する家康の打倒を決意し、毛利輝元、宇喜多秀家らと結び挙兵する。
 
増田長盛
事務処理能力に長け、関ヶ原の際は西軍の中心として大阪城に入るが、
家康に密告書を送るなど不穏な行動を取る。 輝元が、三成から救援要請が
来ても大阪城を動かなかったのは長盛の裏切りを心配した為という説もある。
関が原敗戦後、家康に事情釈明するも許されず、高野山へ追放ののち切腹。 

長束正家
経理に明るく、豊臣政権の大蔵大臣的役割を担う。
五奉行の一人として西軍に参加したものの三成のような積極的意志はなく、
関ヶ原でも 軍勢を率いて出撃していながら、結局傍観したまま終わってしまう。
その後、自分の城に戻ったところを攻められ切腹。 
 
前田玄以
僧侶である。法律や朝廷のしきたりなどに詳しく、京都奉行として活躍した。
関ヶ原戦では、家康に内通し、増田長盛と違い、こちらは許されている。
 
浅野長政
秀吉の正妻・おねの義兄であり、早くから秀吉に仕えた。
奉行として行政一般を司ったが、武将としても活躍している。
秀吉没後は家康に取り入り、関ヶ原戦では息子・幸長を東軍に参加させている。

土砂降りを歩く自虐も捨てられず  笠嶋恵美子

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乱調のタクトに冬が舞い降りる  桑原すず代
 

        醍醐花見図屏風

秀吉が死の直前に催した京都の醍醐寺の花見を描いている。


  醍醐の花見ー2

秀吉(右)の左横が北の政所、その横で赤と茶の幟を持つのが淀と竜子

「秀吉とは」

慶長3年3月、心労の多かった秀吉は、気晴らしにと花見を計画した。

醍醐寺で行われたその花見に招かれたのは、

豊臣家の女たちとその侍女、
大名の女房衆だけという、

異様なものだった。


醍醐の花見で能を舞う秀吉その中で、秀吉は、思い切り楽しんだ。

これは慶長の大地震によって亡くなった、多くの女性たちを弔うだけでなく、

秀吉自身が元気な様を、大勢に見せつけ、最期が近いことを感じさせまい、

とした目的もあったとされる。

しかし、その醍醐の花見から2ヶ月もしない5月5日、

秀吉は、伏見城で病床の人となる。

「太閤秀吉が伏見城で病床についた」

家康から江戸城に報せが入ったのは、それから2ヶ月後のことだった。

途中下車してみませんか屋台骨  田口和代
          がいき
秀吉の病名は、咳気だ。

咳気とは、咳き込むことだが、肺炎また肺癌と考えられる、重い病気だった。

病床の秀吉は、自分の死後、豊臣家と秀頼の将来が不安で仕方なく、

新しい政治体制として、「五大老と五奉行の制度」を定めた。

五大老は家康を筆頭に、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家

政治をとりしきる集団指導制ではあるが、顔ぶれを見れば、

家康に牛耳られてしまうことは必定だった。

そこで秀吉は、大老をチェックする「奉行制度」も作った。

石田三成を筆頭に、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長塚正家の五人が、

あらかじめ細目を決め、五大老にあげる仕組みだ。

「よしよし」 秀吉は病床で安堵した。

味方だと言うが斜めに構えてる  籠島恵子


       秀吉の遺言状 (慶長三年八月四日)

『秀よりの事なり立ち候やうに、此かきつけしゆへしんにたのみ申候。
  なに事も、此ほかは、おもひのこす事、なく候。かしく。
  いへやす(徳川家康)ちくせん(前田利家)てるもと(毛利輝元)かけかつ(上杉景勝)
  秀いへ(宇喜多秀家)
返々、秀より(秀頼)事たのみ申候。
  五人のしゅ、たのみ申候。いさい、五人の物に申しわたし候。
  なごりおしく候』

7月半ば頃になると秀吉は再起し難いことを悟り、

秀頼と豊臣家の将来を、
いろいろと憂慮し、大名たちを集めて

「11か条に及ぶ遺言」を述べた。


「第一条」は、家康に対して、秀頼を家康の孫・千姫の婿にしたのだから、

その孫婿・秀頼を取り立ててほしいと、五大老の前で何度も懇願した。

「第二条」は、若い頃から付き合いのある利家に対して、

「秀頼の守り役として面倒を見てもらいたい」と、咳き込みながら語った。

「第三条」は、「親の家康殿が年をとられ、いずれ秀忠の時代が来たら、

  家康公と同様に、秀頼の面倒を見てもらいたい」と秀忠に頼んだ。

嗄れた耳は明日を培養中  河村啓子


  五大老の花押


五大老と五奉行は、それぞれ記請文を認めて、その命令に背かないことを

紙に誓い、これに「花押」を書き、血判を押した。

「なごりおしく候。秀頼をよろしく頼む」

家康に最期の言葉を残して、息絶えた。
8月18日、享年62歳。

天下人である太閤秀吉といえども、最期は、このような姿をさらす。

それを見守った五大老と五奉行の胸には、それぞれの明日が去来した。

「秀吉辞世の句」

”露と落ち露と消えにし我が身かな なにはのことは夢のまた夢”

あの世からこの世の夢が見えますか  小永井毬

ポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスはその著書・『日本史』に、

秀吉に会見した際の印象として

「身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった」

と記している。因みに秀吉の身長は140㌢くらいだったとか。

あだ名「猿」の由来は顔ではない?

秀吉の容貌については、猿に似ていたとよくいわれる。

しかし、有吉弘行ばりにあだ名をつける名人だった主君の信長は、

秀吉を「禿鼠」と呼びこそすれ、「猿」と呼んだ確証は実のところない。

(余談ーフロイスは慶長2年7月8日に死去した。享年65歳)

通過するカメレオンなら雨上がり  蟹口和枝

秀吉は天下人となったのち、自らの神格化のため、

母なかは懐に太陽が入って受胎する夢を見て、
    ひえさんのうごんげん
自分を日吉山王権現の申し子として生んだという

「日輪受胎説」を流布させた。


ここから「猿」というあだ名も、相貌が似ていたからというよりは、

日吉神社の神獣が猿であることに由来する、とも考えられている。

私という欠片を入れてシチュー鍋  雨森茂樹

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整いましたと神さまから返事  桑原伸吉



慶長伏見地震を題材にした歌舞伎「地震加藤」の錦絵
(加藤とは清正のこと)


「秀吉と地震」

火山国である日本では、歴史上、大きな地震が多発しており、

秀吉は、マグニチュード7を超える2度の大地震に遭遇し、

時の権力者としてのその復興に携わっている。

最大震度6、マグニチュードおよそ7・8ともいわれる

「天正地震」が起きたのは、天正13年(1585)11月29日である。

天正13年といえば、7月には秀吉が関白に就任し、

8月には、四国・飛騨・越中を平定し、勢いは収まらずそのまま、

10月になると、10万の兵をもって徳川攻略への進軍を始め、

ほぼ、天下を目の前に引き寄せた年でもある。


蓮華座をほぐせば辛子明太子  井上一筒

天正の大地震は、現在の岐阜県揖斐郡あたりが震源地と伝えられ、

死者の数は数千人に達したという。

地震が起きたとき秀吉は近江の坂本にいたが、

運よく建物の崩壊や圧死を免れて、すぐさま大坂城に戻ったという。

しかし琵琶湖を挟んで坂本の対岸にある、秀吉の元居城・長浜城は崩壊。

当時城主だった山内一豊の娘が建物の下敷きになって亡くなっている。

秀吉は災害からの速やかな復興は、為政者の支配力を示すと同時に、

民衆の信頼を得る機会でもあると考え、

地震後すぐに被災地域の再建を指示したという。

火の国でムンクの叫び聞く余震  藤村とうそん 

とにかく現代を思い起こさせるような、天正の時代は地震が頻発している。

天正地震から4年後の天正17年(1589)には駿河・遠江で地震が発生。

多くの民家が破損した。

天正18年には、千葉県最南部にあたる安房では、

土地が2メートルほど隆起し、
潮が引いて3キロの干潟が形成された。

こうした不吉な事態を嫌って年号は、天正19年に「文禄」に改められる。

そしてこの年、北条を滅ぼし、秀吉は「天下統一」を成し遂げた。

クレヨンの黒で日の丸描いている  杉山ひさゆき

これらの地震の6年後の文禄5年(1596)7月13日、

連動した可能性を持つ3つの地震が、僅か5日の間に西日本を襲ってくる。

「慶長伊予地震」、「慶長豊後地震」、「慶長伏見地震」である。

慶長豊後地震は豊後(大分県)で死者800人以上を出し、

別府湾にあった2つの島が海中に没し、

高さ10メートル近い津波が押し寄せたと伝わる。

慶長伏見地震は京都の伏見にある有馬-高槻断層帯などを震源とし、

最大震度6マグニチュードおおよそ7・3と推定されている。

内陸型地震で、京都と堺で千人を上回る死者を出したとされ、

伏見城の天守閣は大破、京都の大覚寺、天龍寺も倒壊している。

震度7地響き立ててきた悪魔  荻野浩子


庶民出揃って鯰退治している絵

秀吉が「ナマズの仕業だ!」と発言したせいで
「ナマズ」が、
地震の原因という迷信が広まった。

この時秀吉は伏見城にいたが、北東の高台である木幡山に避難している。

そして、ここでも又、不吉を嫌い年号は文禄から「慶長」に改められた。

そして、秀吉は、これらの経験を基に、城近辺の地質調査を行い、

地盤が強固と考えられた高台に新しい伏見城を再建。

復興工事には多くの人員が動員されて景気回復の足がかりとなった。

そのうえ、その賃金は被災者の生活を再建する資金になったという。

宣教師・ルイス・フロイスが本国への報告書で、

「数ヶ月もしないうち、地震は人々の話題にのぼらなくなった」

と伝えている。

そこからも、復興の速さがうかがい知れる。


(日本の住まいは、多く紙と木を材料としているため、

   災害に遭いやすい反面、
災害復興を容易にしたとも考えられる)


レンコンの節は物怖じなどしない  美馬りゅうこ

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警告かも知れぬ骨が軋むのは  笠嶋恵美子


  洛中洛外図 (左)

右隻に左京から東山、左隻に北山から西山に至る景観が描かれている。
本丸の西には二の丸、三の丸、治部少丸、桃山東陵の北には名護屋丸、
南に山里丸や学問所、お舟いりなどがあった。
本丸の北には松の丸、徳善丸、弾生丸、大蔵丸が内郭を囲み、
その周囲に二百数十にのぼる大名屋敷があったと伝える。

「歴史に翻弄され消え去った夢幻城」

秀吉は天正19年(1591)に関白の位と京都における政庁としての

聚楽第を
甥の秀次に譲り自身の隠居所として、

文禄元年(1592)8月に、伏見指月の地に城の建設を始めた。

これが幻の美城といわれる「伏見城」である。

当時、朝鮮との戦争は継続中だったが、

文禄2年に入り明との講和交渉が、
動きはじめ、

明の使節を迎え日本の国威を見せつける目的と、


同年8月秀吉に拾丸(秀頼)が産まれ、大坂城を与えると想定したことで、

隠居屋敷は大規模な改修が行われることになったのである。

目に刺さる三角定規直定規  時実新子

慶長元年(1596)6月に城は竣工。
                                     
築城資材などの運搬は、宇治川の水運を利用し、
     おぐらいけ
宇治川は巨椋池に注いで
いたが、この時に堤を築いて池と分断し、

川の水量を指月の浜に導いた。


この城は、信長の安土城が湖水に麗姿を映す城造りを真似たものだった。

また巨椋池の中に小倉堤を築いて大和街道を設け、鴨川の流れを

勧進橋から、西に切り替えて、淀に注がせ伏見の地形を一変させた。

五重の天主は雲にそびえ、金色の瓦は燦然と伏見山頂に輝きわたり、

この城の威容は、明国使節の度肝を抜く予定だった。

しかし、明の使者が到着した同年7月12日の夜半から13日にかけて、

慶長伏見地震が起こり、城門・天守閣・殿舎などことごとく倒壊した。

言い訳は無用尻尾は巻いている  上田 仁



このころ近畿地方は大小の地震が頻発しており、

秀吉も「なまつ(鯰)大事」とし伏見城の地震対策に力を入れていたが、

慶長伏見地震はそれを上回る大地震となり城は倒壊してしまったのである。

そのため和睦会見は9月1日に延期され、城内の御花畠山荘に変更された。

秀吉も木幡山に仮の小屋を造り、そこで避難生活を送っている。

この指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、

慶長2年(1597))に完成し、「木幡山伏見城」となる。

本丸が完成したのは、同年10月10日であった。

レンコンの節は物怖じなどしない  美馬りゅうこ

晩年、秀吉は伏見城で過ごすことが多かったが、

慶長3年8月18日、五大老に嫡子・秀頼のこと託し、伏見城で病没。

在城期間はわずか4年であった。

秀吉の死後、遺言によって秀頼は伏見城から大坂城に移り、

代わって五大老筆頭の家康がこの城に入り政務をとった。

まもなく五大老の一人である前田利家がに病死すると、

家康石田三成
佐和山城へ追放する。

その家康も9月には、大坂城に移ると伏見にあった大名屋敷のほとんどが、

大阪に移ってしまい、伏見城の城下町は荒廃していく。

半分は夢半分はカスティラの呪縛  山口ろっぱ

「まぼろし城の運命」

関ヶ原の戦いの際には家康の家臣・鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、

石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失。

焼失した伏見城は、慶長7年(1602)、家康によって再建。

しかし元和5年(1619)、二代将軍・秀忠によって伏見城廃城が決定され、

元和9年に家光が三代将軍の宣下をこの城で受けた後、

寛永2年(1625)家光の指揮により一木一石余すことなく破壊された。

建築物は天守閣などは、二条城、福山城、広台寺などに移されている。

ふるさとの山が他人の顔をする  合田瑠美子

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唐突に咲いて散るのも唐突に  雨森茂樹


 豊臣秀次像、(高厳一華賛・京都地蔵院所蔵)

「人面獣心」

淀殿が第二子・(秀頼)を産んだことで、関白秀次太閤秀吉の関係は、

きわめて微妙なものとなった。

文禄2年(1593)9月20日、秀吉は新たに築いた伏見城へ移り、

10月1日、拾と秀次の娘との婚約を、秀次側に申し入れた。

翌年の正月には、諸大名を動員し、伏見城の外郭内に、

それぞれ屋敷を営むように命じた。

秀吉の拾への溺愛により、豊臣家中の空気は、少しづつ変わっていく。

秀次も、不穏な空気を察知したのか、近習に

「関白を返上した方がいいのではないか」と漏らしている。

それに対して、近習のものは、

「気にしなくてもいいのではないか」と答えた。

それが秀次の悲劇の始まりだった。


企みを図りかねてる風の向き  太田芙美代

そして、秀吉は、秀次との折り合いを何とかつけようと、

努力をする一方で、
秀次との対決に備える根回しに、

京都で有名大名の邸宅を盛んに訪問し、


加えて、御所で能を上演するなど、朝廷との交流も積極的に行い、

また諸大名に、伏見に屋敷を建てさせたりした。

そのころから、秀次の生活は乱れ始めた。

政は放ったらかしで、狩りに熱中し、酒びたりになった。

そんなとき、秀次に謀叛の疑いが起こった。

石田三成は、「謀叛の企てなどはない」という誓紙を書かせたが、

それですべてが、終わったわけではなかった。

開幕ベルだったのか河馬のしゃっくり  森田律子

当時の状況を、ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスは、

「拾の誕生で、秀吉との関係は『破壊』された。

  なお秀吉は、(秀次に対して)関白の座を拾に譲るよう,画策し始め、

城内に於いてだけでなく、城外でも『今に関白殿が太閤様に殺される』

という噂は、日一日と弘まるばかりであった」と伝えている。

文禄4年7月8日、秀次は秀吉に直接の弁解も出来ないまま、

高野山に追放され、前田玄以をして朝廷に、「関白の追放」を奏上し、

15日には、福島正則を高野山に派遣して、「切腹」を命じた。

フロイスの言う、その噂は、まさに現実のものとなったのである。

不機嫌か蛍光灯は点滅す  嶋澤喜八郎


山本主殿(右下)山田三十郎(左上)不破万作(左下)雀部重政(中央)

多くの小姓衆は秀次から名のある刀を下賜されると、次々と腹を斬った。

山本主殿助、山田三十郎、不破万作の3名は秀次が介錯した。

虎岩玄隆は自ら腹を切り、5番目に秀次は雀部重政の介錯により、

切腹して果てた。享年28。辞世は、

「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」

はらわたは拾った夢の滓ばかり  有田一央

 
         秀次自刃の間 (高野山金剛峯寺にある柳の間)


秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。

しかし、秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。

8月2日早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ。

さらに3メートルほどの塚を築いて、秀次の首が西向きに据えられた。

その秀次の首が見下ろす前で、まず公達子どもたち)が処刑された。

最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって

北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。

結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名が斬首された。

子どもの遺体の上に、その母らの遺体が無造作に折り重なるように

一つの穴に投じられた。

(秀次の遺児の中では、後に真田信繁の側室・隆清院となるお菊は、
 後藤興義に預けられて助かり、同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も
 難を逃れた、と言い伝えられている)

カジキマグロの嘴は仕込み杖  井上一筒

秀次の一族を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれ、

「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ばれる首塚が造られた。

首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られた。

客観的に見た太閤と関白との確執の原因を、フロイスは三つ挙げている。

「第一の理由は、秀吉は秀次に天下を譲り渡したものの

実権を渡す気は無く、
支配権を巡る争いがあったこと。 

第二の理由は、
秀次が再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかったこと。

日本を領すれば事足りると考える秀次との意見の相違があったこと。

第三の理由としては、実子・秀頼の誕生を挙げ、

秀吉は秀頼を秀次の婿養子とするという妥協策を発表したものの、

その本意は、秀次に関白の地位を諦めさせることにあった」としている。

ただ嫌い他に理由はありません  山本早苗


 秀次と連座者の墓所  (慈舟山瑞泉寺)

フロイスの分析の通り、秀吉が我が子を可愛く思う余りに、

秀頼の誕生によって、甥の秀次が疎ましくなったが、

関白職を明け渡すことに
応じなかったため、

口実を設けてこれを除いたという説に加えて、

                     ざんげん
淀君の介入を示唆する「石田三成讒言説」と合わさったものとがある。

この他には、秀次は朝鮮出兵や築城普請などで、

莫大な赤字を抱えた諸大名に対して、聚楽第の金蔵から多額の貸し付けを

行っていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れたとする説がある。

この借財で特に毛利輝元に対して、秀次はかなりの額を貸し付けており、

秀次と秀吉の関係悪化を見て、輝元は秀次派として処分されるのを恐れ

自衛のために秀次からの借金の誓書を「謀反の誓約書」として偽って、

秀吉に差し出し、秀吉が秀次謀反と判断したとする説もある。

雑巾を絞りつづけてきた指だ  高橋謡々

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