忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90]
私には空き缶だけが残される  前中知栄


  お 田

お田(でん「なお」とも)は町人に扮して大阪城を脱出、流浪の末、
出羽国亀田藩主の岩城家に嫁いだ。(妙慶寺蔵)

「隆清院とお田」

文禄4年(1595)8月、秀吉は甥の秀次を謀反人に仕立て切腹を命じた。

なおも豊臣内部での家督争いを防ぐために、秀吉は係累の根絶をはかり

秀次の側室侍女34人と子供4男1女を京都三条河原で斬首した。

この処刑から逃れることができたのは、

秀次と正室・一ノ台の間に生まれた
幼いお菊(ドラマでは、たか)

その姉の2人だけだったと言われている。


このお菊が後の「隆清院」で、信繁の3番目の側室となる女性である。

このお菊と姉が秀吉の追っ手からどのように生き延びることが出来たのか、

確かな史料はないので詳細は不明だが、この時、10歳くらいか、

ドラマでは、
信繁が秀吉の手からお菊を助け、

堺の伝説的貿易商人・呂宋助左衛門が預かる筋になっている。


それからお菊が信繁の側室になるまでの空白の部分を、

ドラマで三谷幸喜氏は、どう描いてくるのか、

彼の創作力・脚色力を楽しみにするばかりである。

一の矢を外して敵を裏返す  上田 仁

それから9年後、信繁が高野山に幽閉されてから5年目の慶長9年(1604)

隆清院は、信繁との間に5女・「お田」を産んでいる。

慶長19年10月13日に、信繁は長男・大助らを引き連れ大坂城に入城、

その折、隆清院は娘のお田と共に信繁に随行し大坂城に入っている。

11月に大阪冬の陣が起こり、家康淀殿による和睦が成立し、

戦が収束した後も、しばらくの間は大坂城で過ごした。

翌年の3月に大坂城を出て京都嵯峨野にある瑞龍院(秀吉の実姉)を訪ね、

出家して日秀と言う名になっていた秀次の母親・ともに会いに行っている。

この時、隆清院は、信繁との間に2人目の子供を身籠もっていた。

わたくしの影はただいま修理中  中野六助

慶長20年4月下旬、大坂夏の陣が起こり、5月7日に信繁が討ち死し、

5月8日には、淀君と秀頼が大坂城で自刃する。

豊臣家が滅びると、徳川方によって豊臣残党の捜索が行われ、

京都の瑞龍寺に居た2人は身の危険を感じ、

隆清院は梅小路氏に嫁いでいた姉を頼って身を隠し、

お田は町人の格好をして居場所を転々としたという。

その間の7月、隆清院は信繁にとって三男となる幸信を産んでいる。

一方、お田は捕らえられて、身柄を江戸へ送られることとなる。

だが、その処分は意外にも、人質として大奥勤めをするというもので、

比較的軽いものであった。


これは伯父である真田信之が幕府に掛け合ったためである。

飛び石が昔のように渡れない  山本昌乃

隆清院は、幸信を産んだ後も梅小路氏に潜んでいたが、

追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に隠れた。

一方、お田は大奥に入ってから3年が過ぎ、大奥を出ることを許される。

そして大奥勤めの経験を買われて、四条のある屋敷に給仕として、

入ることになり
江戸から京へ行った時、母の隆清院と再会をしている。

ガラガラポン長い試練も終わりそう  桑原すず代

「お田のその後」

佐竹義宣は寛永3年(1626)6月、大御所・徳川秀忠、

また同年8月には、将軍徳川家光の上洛に随行し、

弟・宣家と共に、
3ヵ月近く京都に在留した。

ある朝、佐竹兄弟が滞在していた屋敷で、義宣が目を覚ますと、

勇ましい掛け声が聞こえくる。

義宣が掛け声がしている方に行ってみると、

屋敷の裏庭で大勢の下女達が長刀の稽古をしていたではないか。

そこでは、鎧兜に身を固めた一人の女性が、指南をしていた。

その女性は毎日義宣たちの身の回りの世話をしている給仕人だが、

その凛々しい姿に義宣は、由緒ある家の出身ではないかと思い、

素性を尋ねると、名はお田と言い、信繁の忘れ形見であることが分かる。

引き出しの中からそっと波の音  高橋謡子

義宣は共に将軍家に随行していた弟・宣家が妻と不仲であることを、

日頃から
心配していたこともあり、宣家を元気づけるために

お田を宣家に紹介した。


その縁からお田は宣家の側室として、桧山の多賀谷氏に嫁ぐことになる。

寛永4年、晴れて24歳でお田の方となる。(因みに宣家は46歳)

姉が岩城氏と結婚したことで、幸信は祖父・秀次の旧姓である三好を

名乗り、
三好左馬之助幸信として亀田藩士として360石を与えられた。

そして翌寛永5年にお田の方は、宣隆との間に長男・庄次郎(重隆)を生む。

お田の方は、宣隆を支える良き妻であり、教育熱心な母親であったという。

膝の水を抜いてレマン湖へ返す  井上一筒



「ルソン助左衛門」
堺の豪商・今井宗久から独立後、ルソンに渡海し、当時、現地では単なる
雑器という扱いだった壺に目をつけ、それを輸入、巨万の富を得た。
文禄3年(1594)、ルソンから帰国後、壺50個を秀吉に献上すると、
秀吉は甚く喜び、助左衛門はそこで名声を得、有数の豪商に登りつめる。
この時、秀吉への謁見を仲介したのが、三成の兄・石田正澄。
しかし、慶長3年(1598)、あまりに華美な生活を好んだため、
今度は弟・石田三成の讒言によって、秀吉から、
「身分をわきまえず、贅を尽くしすぎる」として邸宅没収の処分を受ける。

拍手[3回]

PR
時化になりそうあの日の音がする  桑原すず代


南瞻部洲大日本国正統図 (伝香寺旧蔵、唐招提寺所蔵)

戦国時代の弘治3年(1557)に描かれたとされる。
日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。
この図又は同一スタイルの地図が江戸時代の行基図の基本となる。
また、この時代には屏風絵の背景などにも「行基図」が採用された。

【戦国豆辞典】-「絵図」

地図は行政や軍事の要であり、国情や内容によっては秘密事項となる。

領土をめぐる抗争が続いたドラマの時代、

戦いには自国と自国に接する他国の正確な地図が欠かせなかった。

地図には、忍びなどが集めた情報をもとに、

領土の境界や河川、道、大まかながら高さも示された山などが描かれた。

当時は「行基図」を除き日本全体を表す全国図が描かれる事はなかった。

時々はふて寝するぜんまい仕掛  山本早苗


    行 基

行基図とは諸国を俵型に表して大まかに描いた絵画的な地図である。

公的な日本全図については、大化2年(646)や天平10年(738)などに

国郡図の作成を命じた記録があるが、いずれも地図は現存しない。

ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、

江戸時代中期に長久保赤水伊能忠敬が現われる以前の日本地図は、

基本的には、この行基図を元にしていたとされている。

行基の名称は、行基が基本を作ったという説がある。

日本全図は豊臣秀吉が、天下統一を果たしたことによって

作成されることになった。

塩分の補給おつゆも全部飲む  橋倉久美子

日本全図は、全国支配のための基礎資料である。

秀吉は、朝廷に献上するという名目で全国の大名に「御前帳」

「郡絵図」を作成させたが、残念ながらこのときの地図は残っていない。

徳川家康は、秀吉の方針を受け継ぎ、諸大名に「国絵図」を提出させた。

その国絵図は実測によるものではなかったが、

方位、地形、道、集落、
寺社などが、

当時としてはかなり正確に描かれていた。


※ 【御前帳】 天皇・将軍などの手元に掌握された帳簿で、
後北条氏の所領役帳なども御前帳と呼ばれた。
豊臣秀吉の「検地帳」も一つで朝鮮出兵の軍役負担の基礎帳簿となった。

※ 【国絵図】 国郡単位の絵図で、国・郡・村の名称や石高を記載。
山や川を骨格として、道路や航路など交通関係の記載のほか、
記号化された村や町、寺社なども書かれた。(郷帳とセットで作成)

未来図は黒一色で事足りる  井丸昌紀 

拍手[3回]

男の椅子の座り心地は聞かぬもの  森中惠美子

羽柴秀次の像(八幡公園)

商都・近江八幡の礎を築いた秀次は、地元で名君として慕われた。

「武功夜話」

早くから秀吉に仕え、豊臣秀次のお目付け役だった前野長康の一族が、

子孫から子孫へ、語り継がれてきた史書がある。

「武功夜話」である。

ここに書かれている、「秀次事件」の経緯は、

秀次に近い立場の人たちの、
子孫から出てきたものでありながら、

秀次に厳しいものになっている。


昨日まで冗談だった落とし穴  三村一子

それによると、

「秀吉の実子で、織田家の血をも引く若君(拾君)に、

 天下が返るのは、仕方がないのでありますまいか」

と秀吉の最古参の家臣であり秀次の家老・前野長康は、秀次に進言した。

ところが、長康の子・景定など若い側近たちが、

秀次を守ろうとして妥協を阻止し、

また軍事教練まがいのことをしたとある。


容疑者はメロンの皮に紛れ込む  嶋沢喜八郎

断罪の直接の引き金は、朝鮮遠征費用の捻出に困った毛利輝元が、

秀次に借金の申し出をしたところ、

「忠誠を求める書き付け」を要求されたことが不安になって、

太閤殿下に提出したことにある。


現に、秀吉の年齢を考えれば、秀次に近づいておく方が、将来、

有利だと考える大名たちは、秀次に取り入ったりもしていた。

吐息まで同化してゆくおぼろ月  桑原すず代

石田三成前野長康

「豊臣政権安泰のためには、

 なんとか殿下と関白には、仲良くあって欲しいのだが、

 どちらの側にも、へつらうものがいる。

 殿下は弱きになって、徳川家康と前田利家の屋敷に、

   足繁く通うなどしているが、両者はいずれも野心家で、

   朝鮮遠征でも渡海を免れた。

 一方、西国の大名たちに恩賞を与えるために、

 全国で検地を行って、財源を探しているのだが、簡単でない」

という趣旨のことを「武功夜話」で言っている。 

呑むために生きると決めて恙無い  山本芳男

ともかく、秀次に近い者たちからすると、秀次さえあわてて

「将来はお捨君に譲る」 などと約束せずに、

時間を稼げば、いずれは、殿下の寿命も尽きるという思案があった。

茶々お捨君に近い立場からすると、

だからこそ、
「秀次を早々に、処分して欲しい」

ということになる。

もしも、秀次の弟・秀勝が生きていたら、

茶々たちの立場も、
少し違ったのかも知れないが、

今となっては、秀次と茶々たちを繋ぐ絆は、
細くなっていた。

耐えるしかないのと雑草のあした  杉浦多津子

お捨君がまだ幼少なので、将来を危惧した秀吉は、

同年代の徳川家康前田利家の二方を、信頼して力を持たせ、

しかも、いずれか突出しないようにと考えた。

利家はもともと、織田家のなかでの序列はあまり高くなかったが、

柴田、丹羽、明智、滝川、佐々、堀秀政らが亡くなったために、

織田家の家臣の中で、最長老になっていた。

残される淀にとって織田家に連なる者が、力を失くしてしまった以上、

利家がもっとも、頼るべき存在だった。

黄昏を泡立てているもう一度  笠嶋恵美子

人柄が見える日野川桐原新橋の秀勝像

こうして、太閤による関白の包囲網は狭まっていく。

それでも、秀吉が聚楽第を訪ねたり、

秀次が伏見で能を上演して、秀吉を招待したりしたしているのだ。

いくらでも修復のチャンスはあったが。

秀次に欲が出てしまった、のか、秀吉の心配を払いのけるような、

思い切った行動がとれなかった。

その間にも、太閤のもとには、秀次周辺の不穏な動きが報告される。

まだまだの端がほつれてきた誤算  山本早苗

淀やその周辺の者が、

「お捨君の将来への不安を取り除いてください」

と殿下に迫った。

これに対し秀吉は、家康と利家に、秀次のことを密かに言う。

「太閤殿下の好きにされれば、あとは、我々がお捨君をお守り致します」

と2人は答えている。

そして家康が、江戸に帰国するとき、京都に残る家康の三男・秀忠に、

「秀吉と秀次の争いになったら、秀吉につくように」 とも言い残している。

世の中の仕組みをみたり髑髏  前中知栄

もともと、身分の低い階層の出である秀吉は、

上流の権力者とは違って、家族に対しての愛着は、

現代の人間と似たものを持っている。

また秀吉一族の人たちの心にも、権力者になった秀吉に対して

「まさか、自分に悪いようにはしないだろう」 

という甘えがあった。

当然、秀次にもそうした気持ちが多分にはたらいたのだろう。

あじさいを素通りバカが乾きだす  酒井かがり

しかし、それぞれの家来たちは違う。

自分たちの浮沈は、それぞれが仕えている主の運命にかかっている。

主人がいったん失脚すれば、身内でもないだけに、

命も危ないということになるのだ。

しかも、むかしからの武将たちには、

若いころから豊臣家興隆のために、
頑張ってきた恩情もあるが、

第二世代には、若者らしいドライさに加えて、


親密だったころの思い出がないから、どうしても、極端に走ることになる。

はらりと涙振り向くことを忘れた日  森田律子

いよいよ7月3日、石田三成増田長盛が、秀次に行状を詰問した。

それを受けて、秀次は朝廷に銀五千疋を献上して、救援を求めたが、

これは、悪あがきであった。

「関白を辞める」

とでも太閤に申し出ればよかったのだろうが、

秀次の若い側近達は、それを許さなかった。

こうして関白が、無為に時間を過ごすうちに、

太閤は一計を案じた。

いまでいう女性秘書として重宝していた孝蔵主を、

聚楽第へ派遣して、言葉巧みに、

「単身で伏見に来れば、太閤殿下も納得する」

といって、関白を連れ出した。

そして、このまま高野山から切腹へとつながっていく。

けんけんのリズムを誘う落ち椿  古田祐子

拍手[4回]

回り続けたらバターになった僕  指方宏子



「伊達政宗の趣味」

伊達者の語源となった伊達政宗の知られざる趣味が、

何を書くそう「料理」である。

もともとは、兵糧開発のために食材の研究をおこなっていたのだが、

戦国時代も終焉し兵糧の必要がなくなると、

美食のために料理を研究するようになったという。

正宗は料理について「少しも料理心なきは、つたなき心なり」という

名言も残しており、料理に対するこだわりは相当のものだった。

二代将軍・徳川秀忠を接待した際には、

正宗自らが作った料理を秀忠の側近が毒見しようとしたため、

「正宗ともあろう者の膳を毒見するとは何事ぞ」

もの凄い剣幕で叱責し、徳川家の家臣を震え上がらせたという逸話も残る。

レンコンの節は物怖じなどしない  美馬りゅうこ


   ずんだ餅

仙台発祥の料理が多いのも、正宗の影響といわれている。

かつて政宗が本拠としていた岩出山の名物・「凍り豆腐」「納豆」は、

兵糧用に正宗が開発したものが、改良されたものだというのは有名な話。

また仙台名物の「ずんだ餅」も正宗が開発したとされる。
                    ず  だ
「ずんだ」は豆を潰す意味の「豆打」「ずんだ」に変化したもので、

開発者でもある政宗が名付けたと言われている。

それらの開発はトイレで行なっていたとされている。

もともとトイレが好きだった政宗は、1日3回、1~2時間は籠っていた。

そこで朝夕の献立、政治判断、書状の執筆、書見なども行なっていたという。

戦でも政治でも柔軟な発想で周囲を驚かせた政宗。

元来、凝り性の彼にとって、料理はぴったりの趣味だったのかも知れない。

豆ごはん旨いうまいと言う節目  山本早苗


        こんぺいとう

「菓子の歴史」

菓子の始まりは縄文時代の「焼き菓子」で、

クリやトチなどの木の実を砕いて
粉にしたものを、

こねて焼いたものだったという。


弥生時代には、米を「餅」「団子」に加工したものが生まれ、

奈良時代には、唐の僧・鑑真が蜂蜜、石蜜、蔗糖、甘蔗をもたらし、

「揚げ菓子」が伝えられた。

米粉や小麦粉に甘味料を入れてこね、

小さく形作ってごま油で揚げたもので、
唐菓子(からくだもの)と呼ばれた。

大豆餅、小豆餅、煎餅の名もこの時代の書物に見える。     

鎌倉から室町時代になると、最澄が唐より砂糖を持ち帰り、

空海は唐国から煎餅の製法を伝えている。

そして、明で学んだ僧たちは「羊羹」「饅頭」を日本にもたらした。

にぎやかに指をならして南下せよ  酒井かがり

ドラマの時代、いわゆる戦国時代以降になると、

南蛮貿易を通じて「南蛮菓子」と呼ばれる菓子がもたらされる。

主なものは、小麦粉や卵を用いたカスティラ、パン、ボーロ、カルメラ、

ビスカウトなどの「焼き菓子」

又、
金平糖や有平糖などの「砂糖菓子」がその代表である。

当時、砂糖は高価で希少だったため、

金平糖」は公家や上流武将などの間の贈答品となった。

ドラマでは、北条氏政が時折、口にしている。

ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスが、信長に、

「金平糖を献上した」という
記録も残っている。

そして、おこし、米煎餅、きんとん、羊羹、上り餅、みたらし、団子、

ちまき、
葛餅、わらび餅などが、料理から離れ、

独立した一品の菓子となる。


まんまるい金平糖の非行歴  上田 仁

拍手[3回]

おもしろい仲間この世はおもちゃ箱  新家完司


仮装大会の模様を描いた絵本太閤記

菅笠をかぶり、腰蓑を着ける男性(中央)が秀吉。
「瓜売りが瓜売りに来て瓜売れず、売り売り帰る瓜売りの声」

「仮装の歴史」

仮装大会の歴史を探ってみれば、400年ほど前の文禄元年(1592)

肥前名護屋城で豊臣秀吉が催した「仮想大会」に行きつく。

これは、今のディズニーやハロウインの仮装パレードのようなもので、

当時は、
桟敷席を設けて大名たちや博多大商人などを見物人に仕立てて

やったという。


今では、欽ちゃん香取慎吾の全日本仮装大賞や京都時代祭りが有名だが、

「文禄の役」の最中、前線基地を構えた肥前名護屋城そばの瓜畑で、

秀吉が開いた仮装大会が先例となっている。

甲冑を脱ぐと人情交叉する  上田 仁

司馬遼太郎の「新史太閤記」に、

「つれづれのあまり、諸大名や女官をあつめて仮装大会を催した。

   諸事、企画のすきな男なのである」 

と秀吉のこの催しに触れている。


また「絵本太閤記」には、蒲生氏郷、前田利家の仮装がこの絵本に登場。
おぜほあん
小瀬甫庵・著「太閤記」では徳川家康「ザル売り」が紹介されている。

なぜこんな催しをしたのだろうか。

絵本太閤記には仮装の時に、

       ございじん
「名護屋の御在陣も徒然におはしませば」

とあり、城の陣中はさぞ退屈な時間が多かったのだろう。

トゲのないバラと一日戯れる  百々寿子


  江戸の手ぬぐい  (拡大してご覧ください)

どのような仮装大会であったのか、かいつまんで見ると。

「味よし瓜めされ候へ~「おいしい瓜はいらんかいねー」 

「瓜売り」になった秀吉は、もと百姓の経験があり堂にいったもの。


そこで旅の僧に扮した織田有楽斎が、秀吉の売り瓜に

「瓜をご寄進下され」と請うと、
瓜売りは瓜を二つ施した。

「こっちは熟しておらぬ。熟した物を下され」

と有楽斎がアドリブでコトバを返すと見物客は大受けしていたという。

路茶売りに扮したのは、蒲生氏郷である。

「極上のお点前にありますれば」 とやれば、

そこへ瓜売りの秀吉が、「ほほう、で、お代はなんぼじゃ」

茶売りの氏郷は、「100両でございます」 

と、ここでも
有楽斎に負けじと氏郷のアドリブが飛び出す。

瓜売り(秀吉)は開いた口が塞がらなかったようだ。

青梅のすってんころり祭りめく  斉藤和子

「あじかはいらんかね~いらんかね~」

この声は、「あじか売り」に扮した徳川家康。

家康の物真似は、本職はだしだったとベタ褒めで記録されている。


丹羽秀俊は「漬物売り」、「お漬物いかがっすかぁ~」

織田信雄は「修行僧」、「ナンマイダーゴジュウマイダー チーン♪」

「高野聖」の前田利家「大仏建立の勧進お願いしゃーす」

この仮装大会で一番受けたのが、

巨体の前田玄以が扮した、「比丘尼姿の女装」だった。

「念仏をただとなえていれば必ず仏になれる」

と説法の声まで、「おねえ喋り」で髭の大男がやるものだから、

秀吉や五大老はじめ、名だたる将や見物客は笑い転げたという。

そして歌舞伎ものの伊達政宗は、桟敷席で見物客の一人になった。

正宗は正宗らしく、やんややんやの野次を入れて盛り上げた大会であった。

水で酔えるのも血液型のせい  井上一筒   

この頃、秀吉は朝鮮での戦果を待つ間、茶や能にも親しんでいる。

「ほかにも何か面白いことを、と考えるのは不思議ではない。

    秀吉はもともと庶民の出。

   昔の自分を懐かしむと同時に、武家育ちの家臣が、

  ぎこちなく庶民のまねをする様子をひたすら楽しんだのでしょう」

と解説されるのは大阪城天守閣研究主幹・北川央氏

いかにも、遊興好きの秀吉らしい知恵といえそうだ。

そして神戸大教授の油井清光氏は、

「普段、人は上司と部下の立場を意識するものだが、

  肩書を外した『無礼講』という非日常を一緒に経験すると、

  互いに連帯感が強まる。

  中だるみしていた自軍の結束を強めようとしたのでは」

と想像する。

雨季限定軽い頭をさし上げる  河村啓子


  時代祭りの行列
因みに、秀吉時代の行列(当該写真)は、

秀吉の嫡男・秀頼の元服の報告に御所へ参内する様子。

「京都時代祭り」

「京都時代祭」は、平安時代から明治維新までの各時代の装束に扮し、

道中4.5kmをパレードする。

先頭から最後尾まで2kmにわたる長大なものとなる。


祭礼は、まず午前中に平安神宮より神幸列が京都御苑に到着し、

「行在所祭」の後、正午ころから「ピーヒャーラドンドンドン」という

維新勤王隊の鼓笛隊のマーチとともに、仮装の行列行進が始まる。

総勢2千人と多数の牛馬が、京都御所の建礼門前を順次出発し、

京都御苑の堺町御門をくぐりぬけ、烏丸丸太町~烏丸御池と南に進む。

次に、河原町御池~河原町三条~京阪三条~三条神宮道と西に進み、

最後に神宮道~平安神宮へと向かう。

先頭が平安神宮に到着するまで三時間はかかるとか。

ガタンゴトン単線謳うトロッコ列車  小林満寿夫

拍手[3回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開