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川柳的逍遥 人の世の一家言
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逃げ込んだのはもぐらたたかいの穴だった  森田律子


地震・津波にはお手上げの鎌倉大仏


4月14日に発生した熊本地震は、収束の気配を見せないまま、
16日未明に本震とみられる揺れを観測、マグニチュード(M)は7・3で
1995年の阪神大震災と同規模の「横ずれ断層型」とみられている。
長周期地震動は最も強い「階級4」(立っていることができない)を
熊本県内で観測、被害の規模・範囲はとめどなく広がっている。
この熊本地震や阪神大震災に匹敵する地震は記録史上1300年以上、
延々と我々の列島を揺るがし、またぞろ歴史の大地震を語らせる。

つなぐ手の中に侵入する外気  竹内いそこ


   帰 城 跡

「天正大地震」

戦国時代、人々にとって自然災害は脅威であった。

雪害に悩まされた東北地方、淀川の水害を受けた河内周辺など、

例を上げればキリがない。

そんな中、自然災害により滅亡した大名がいた。

飛騨の内ヶ島氏、かつては上杉家の侵攻も退けた戦国大名である。
                                    うじさと
天正13年(1586)11月29日、内ヶ島当主・内ヶ島氏理は居城である
かえりくも
「帰雲城」にいた。

この11月といえば、徳川の重臣・石川数正が豊臣家に出奔し、

徳川家康が真田昌幸攻めから撤退した年である。

家康も大いに揺れた。三谷幸喜はドラマでも地震の歴史を忠実に描いていましたね)

点景にわたくしがいてうずくまる  嶋沢喜八郎

内ヶ島家では、金森氏との和平が成立したことを祝うために、

重臣らも含め一族全員が城に集結中。

そこを突如大きな地震が襲ったのだ。

城に面した帰雲城は山崩れを起こし、大量の土砂が城に降りかかる。

なす術もなく城は土砂に埋まり、内ヶ島氏は滅亡してしまった。

内ヶ島氏を滅亡させたその地震こそ、

戦国時代最大の大地震・「天正大地震」である。

地震の規模はM 7.8〜8.1、死者多数、負傷者膨大な数に及ぶ。

飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まり、

余震が1年以上続いたという。

三河湾と若狭湾という日本海・太平洋両岸での大津波が記録されている。

すれちがいざまに発熱したらしい  徳山みつこ


  流される人・家

内ヶ島氏以外にも多くの大名に甚大な被害を及ぼしたことが記録されており、

越中国では木船城が倒壊し、前田利家の弟・前田秀継とその妻が死亡。

近江国でも長浜城全壊により、城主・山内一豊のひとり娘が死亡している。

戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期でもあり、

文献による歴史資料はほとんど残されていない。

ただ、宣教師・「ルイス・フロイスの日本史」には、

「この時、秀吉は琵琶湖沿岸の坂本城にいた。

   突如起きた地震のために各地の城や建物は倒壊。

   激しい揺れに驚いた秀吉は飛ぶように大坂へ逃げた」

と書き記している。

緊張が続くと笑いそうになる 青砥たかこ          

これまたフロイスの報告では、

「長浜地区にあった千戸の集落では、地面が割れて半数の家が倒壊し、

    半数は火事で焼失した」

とあり、また津波についても、フロイスは、


「若狭湾と思われる場所が山ほどの津波に襲われ、

   家が流され多くの死者を出した」 

と記録している。


諸国でこれだけの被害があったのだから、

震源地の岐阜県北西部にほど近い帰雲城が、埋没するのも理解できる。

電動歯ブラシと電動の入れ歯  井上一筒


 元暦京都地震の挿絵
人馬が七転八倒し恐怖を表現している。

「元暦大地震」(方丈記より)
 
『・・・元暦二年(1185)の頃、大地震ふること侍りき。

   その様世の常ならず。
うづみ
   山くずれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。
                                                                (転がり落ち)
   土さけて水湧きあがり、いわを割れて谷にまろび入り、

   渚こぐ船は浪にたゞよひ、道いく駒(馬)は足の立處をまどはせり。
                            あたり                                                             無事なものはない
   況んや都の邉には在々所々堂舎塔廟、一として全からず。

   或ひは崩れ、或はたおれぬる間、塵灰立入りて、盛んなる煙のごとし。
                                                              いかづち
   地の震ひ、家の破るる音、雷に異ならず。

   家の中に居れば、忽ちに打ちひしげなむとす。

   走り出づれば、又地割れさく。


   羽なければ空へもあがるべからず、龍ならねば雲にのぼらむこと難し。

(羽がないから空にも逃れず、龍でないから雲に隠れることもできない)

耳鳴りが百デシベルになってもた  河村啓子

   おそれの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとぞ覚え侍りし。

   かくおびただしくふる事は、しばしにてやみにしかども、

   その餘波しばしば絶えず。

   よのつねに驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。
                                                                                          まどお
   十日二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、

   もしは一日まぜ、二三日に一度など、

   大方その餘波三月ばかりや侍りけむ』


(ひどく揺れは暫くして止んだけれどもその余波は絶えなかった。
   びっくりするような余震が二・三十と回起こらない日はなかった。
   十日二十日過ぎて、ようやく間隔があいてきて、
   ある日は四・五度、二・三度
あるいは一日おき二・三日に一度など
   大方その余波は三ヶ月ばかり続いた)


鴨長明が元暦の大地震を経験したのは、方丈記成立の30年程前である。

都に甚大な被害をもたらした地震による災害を切々と臨場感たっぷりに、

「方丈記」の一節に長明は回想している。

当たるという易者しばらくして消える  藤本秋声


慶長伏見地震を題材にした歌舞伎「地震加藤」の錦絵

「慶長伏見大地震」

慶長元年(1596)9月5日、マグニチュード(M)7-7.5程度と

推定される
地震が完成直後の豊臣秀吉の伏見城を襲った。

「慶長伏見大地震」である。

天守や伏見城の天守や石垣が損壊、城内だけでも多くの死者を出し、

また、京都や堺でも1,000人以上の死者が出たという。

嵯峨野では、天龍寺や仁尊院、大覚寺といった寺院が倒壊。

京都南部では東寺が倒壊し、方広寺では大仏が倒壊した。

大阪でも低地の多くの建物が倒壊したが、大阪城に被害はなかった。

そして余震は翌年春まで続いた。

これだけ広範囲にわたる被害がでた地震名に「伏見」が入っているのは、

秀吉絶頂期で時の政権が伏見にあったことが反映されている。

この地震の揺れに秀吉は、

「地震の原因は琵琶湖の大ナマズのせいじゃ!」


と言ったとか言わなかったとか。

あなたは何処で壊れていたんです  山口ろっぱ

また加藤清正の秀吉がかかわる地震逸話がある。

石田三成の讒言で秀吉の怒りを買い閉門中の清正が、

「殿下!殿下!虎之助めが参りました。いずこにおられます」

と叫び、いの一番に、
秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、

動けない秀吉をおんぶして救い出し、閉門を許されたという話である。

ユーモラスな秀吉は、いろんな場所でいろんな逸話を提供してくれる。

酸欠をしてます自由をくださいな  美馬りゅうこ

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ぶらんこ漕いでる 地球蹴っている  徳山泰子


 三つの貌を持つ男

「秀吉」

出自が謎に包まれている羽柴秀吉だが、

一般には天文6年(1537)尾張の農民の家に生まれたといわれる。

今川氏の家臣筋に出世した後、18歳頃から信長に小者として仕え始めた。

織田家では持ち前の才覚と努力が買われて頭角をあらわし、

組頭、足軽大将と次々出世。

天下布武を掲げる信長を支えて、近江の浅井長政攻めをはじめ、

多大な貢献を果たした。

頑張りを滴る汗が物語る  片山かずお



秀吉は気配り細やかで機転がきく切れ者ながら、

鷹揚な性格であった。


「人たらし」と評されるほど人の心を掴むのが上手く、

敵を味方にかえてしまうこともしばしばだった。

身分を問わない実力主義者の信長には特に目をかけられ、

秀吉もまた、天下人への道を歩む信長から多くのことを吸収している。

規格外だから個性というのです  山口美千代

秀吉が羽柴姓を用いるのは、永禄13年(1570)頃からで、

天正4年(1576)には中国方面軍司令官に抜擢され、

毛利氏ら強敵が跋扈する中国地方へ進軍を進めた。

播磨、但馬を平定し毛利の押さえる因幡・鳥取城を陥落させると、

天正10年4月、雌雄を決するべく、

秀吉は毛利方の清水宗治が籠る備中・高松城を包囲。

水攻めを仕掛け、毛利の大軍が後巻きするなか、

決戦に持ち込むため信長の出馬を待っていた。

一つだけシミをつけたのだなわざと  森吉留里恵


  中国大返し

その矢先の6月2日、本能寺の変。

毛利方より早く急報に接した秀吉は憔悴するが、

「謀反人の明智光秀を討てば、天下をとれる」

黒田官兵衛諭され、一念発起した。

そこで信長の死を隠したまま急遽、毛利と和睦し上方へ引返す決心をする。

秀吉はその道中、次々と軍勢を増やし、

畿内に入るころには、明智光秀軍に兵数で圧倒的な優位に立っていた。

そして6月13日、摂津と山城の境にある天王山で決戦。

光秀を破った。


大器晩成ボツボツ来てもいいですよ  田口和代


    山崎合戦

この「山崎合戦」での勝利を追い風に、

秀吉は信長の仇を討った殊勲者として織田家中での発言力を強めていく。

6月27日、秀吉は織田家の後継者を決めるための重臣会議・

「清須会議」でも主導権を握った。

そんな秀吉の台頭に不満を抱いたのが織田家筆頭家老・柴田勝家だった。

秀吉は勝家の勢力を削ぐべく、勝家の周辺人物を屈服させていく。

これを怒った勝家は、天正11年ついに出陣し、

「賤ヶ岳合戦」の火蓋を切った。


結果、秀吉子飼いの福島正則「7本槍」の活躍もあって勝家は破れ、

秀吉は実質的な後継者となった。

気障な眉毛は裏の林に捨てましょう  酒井かがり
                            のぶかつ
しかし、秀吉の強大化に危機感を覚えた織田信雄は、家康と結んで対抗。

天正12年、「小牧・長久手の戦い」が始まる。

両者は睨み合い、膠着状態が続いたのち、秀吉は本領安堵の条件で

信雄と単独講和、家康も秀吉と和解した。

やがて秀吉は「官職」でも主家の織田家を凌駕し、

その勢威に誰も異を唱えなくなると、

信長が果たせなかった天下統一に向けて動き出す。

ハイエナの名に恥じぬよう生きていく 笠嶋恵美子



そこで課題となったのは、甲信越から先の東日本の支配だった。

小牧・長久手で和解したとはいえ、

北条を撤退させ、甲信支配を拡大する徳川は依然最大の敵である。

そして、その家康を打倒する為に秀吉がぜひとも味方につけたい男がいた。

真田昌幸である。

心構えはできてるかサドンデス  吉田伸哉

「秀吉エピソード」
秀吉は「大返し」を二度成功させている。
「中国大返し」「美濃大返し」である。
二度目は天正11年4月、北近江で柴田勝家とにらみ合っていた秀吉は、
岐阜城で反旗を翻した信長三男・織田信孝を討とうと美濃に兵を進めた。
この手薄の隙をついて、勝家側の佐久間盛政が攻め込むと、
大垣城で情報をキャッチした秀吉は、直ちに軍を取って返した。
近江木之本まで52キロ、これをたった5時間で戻ったという。
鎧を身につけ、重い武具を提げ、時速10キロで走破したことになる。
マラソンの距離42・195㌔を4時間少々で走ることに置き換えれば、
どれだけ速く走ったのか想像に難くない。
神業の域を超えている。

そして神出鬼没の秀吉軍を目の当たりにした佐久間の軍勢は乱れ、
形勢は一気に秀吉側優位に動き、勝家も敗走、この戦いを制した。

もう踵返しは出来ぬ捨て台詞  上田 仁

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役割が違うお日さまお月さま  新家完司



太政大臣・藤原忠通

「わたの原 こぎいでてみれば 久方の雲いにまがふ 沖つ白波」

「官位」

官位とは「官職」「位階」を組み合わせた言葉である。

例えば、石田三成が大河ドラマ・「真田丸」で名乗っていた冶部少輔は、

冶部省の少輔という役職になる。

官職とは、定義上は職務の一般的な種類である「官」

担当すべき職務の
具体的範囲を示す呼称である「職」との

二つということになる。


いわば国の機関に於いて働く公務員に割り当てられた職務や

その責任によって生ずる地位ということである。

従来の官吏制度においては官吏の基本的地位を「官」といい、

官に任ぜられた者に特定の職務を付与するものとされていた。

身に会った器で花がよく笑う  釜野公子

そして「位階」とは、地位や身分の序列・等級を表すものであり、

地位の高低を示す階級ののこと。

日本では、国政を司る機関として古くから朝廷があり、

天皇を頂点とした階級組織が構築されてきた。

その朝廷に仕える官人の地位を天皇を頂点としてピラミッド型に配置、

各職種や役割に応じてその序列や地位を与えるにあたって、

それぞれの位階に相当する官職を授与した。

授与された官人は、その功労によって位階に相当する官職に昇進もした。

その序列の状態を解りやすく表にまとめたものを官位相当表という。

水平線に会いに行く右手の小指  山口ろっぱ


法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)

戦国時代になると幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して、

官位を得る直奏の例が増加する。

朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、

朝廷もその献金の見返りとし、

その武家の家格以上の官位を発給することもあった。

例えば「左京大夫」は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、

戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、

時には、複数の大名が同時期に任じられることもあった。

将軍・足利義稙時代、管領代として1幕政を掌握した大内義隆に至っては、

高額の献金をして最終的に「従二位兵部卿」という高い官位を得ている。

淋しいからと鬼を呼んではなりません  伊東志乃

朝廷からの任命を受けないまま官名を自称する例も増加した。
                  かずさのすけ
織田信長が初期に名乗った「上総介」もその一つである。

又、主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといった者まで登場する。

豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った「筑前守」や、

明智光秀が使った「日向守」もこの一つと考えられる。

裏切りを重ねたシャツの生乾き  原 洋志


菅原道真の生前の官位は従二位だった

官位は権威づけだけではなく、

領国支配の正当性や戦の大義名分としても


利用されるようになる。

その主な例として、


大内氏が少弐氏に対抗するために「大宰大弐」を求めた例。

三河国の支配を正当化するために織田信秀、今川義元、徳川家康

「三河守」を求めた例。

そこで「秀吉の官位の推移」
天正10年10月    従五位下・左近衛権少将(明智討伐)
天正11年5月     従四位・参議
天正12年11月    従三位・権大納言
天正13年3月     正ニ位・内大臣
天正13年7月     従一位・関白(この年9月豊臣姓授かる)
天正14年12月    太政大臣

天狗になるまでは象の鼻でした  田口和代
                   しょだいぶ
関白は人臣最高の官職なので参内時には諸大夫と呼ばれる自家の

従者を伴うことが出来る。


公卿では「五摂家」・「精華家」だけに許される特権で、

この家格以下の家は自家の従者を伴うことが出来ず

五摂家・精華家から諸大夫を借りることもあった。

秀吉が関白に任官した際には、福島正則、石田三成が付き添った。

これを機に多くの武家が高位に任官されっるようになる。

秀吉は官位序列の最高位に自分を置き、

官位の上下で配下に差をつける手法をとった。

また秀吉は、服属した大名に必ず上洛を命じ、官位を与えていった。

元気かいっと窓から覗く白い月  大海幸生

官位は一位から最下位の少位まで十段階あり、

更に一位から八位までには、それぞれに「正」と「従」が分れ、

正四位から少少位までには更に上と下に分かれる。

官職は例えば、太政官では、太政大臣、左大臣、右大臣等、

省(民部省、兵部省、宮内省等)では、卿、など、

国司(尾張国、武蔵国、駿河国等)では守、介等があり、

百ほどの組織で官位を持った官職数は800~900位になった。

従五位下以上と六位の「蔵人」は、昇殿を許されたために「殿上人」

太政官のうち、従三位以上もしくは「参議」のことを「公卿」と呼んだ。

画数が多く暑苦しい名前  鍋島香雪

「おまけ」

武家の官位は、次官の「大弼」「少弼」からで、

その下の「弾正忠」も聞き慣れた名乗りだが、

正六位相当官の低位のためか、江戸期に入ってからは使われなくなった。

「弾正」の名乗りで有名どころは、米沢藩・上杉家である。
      だんじょうしょうひつ
上杉謙信「弾正少弼」だったこともあり、

初代・景勝から12代・斉憲までのうち8人が「弾正」を名乗っている。

ただし上杉家は「四品の大名家(四位に昇れる大名家)」ということで、

2代目の定勝以降は「弾正大弼」を名乗った。

ありがとうなんてうっかり言えるかい  森田律子   

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乱世のモグラ叩きを生き延びる  後 洋一 


  昌幸宛の秀吉書状 (拡大してご覧ください)

未だ申し遣はさず候の処、道茂所への書状、披見候。
委細の段聞し召し届けられ候。
其の方進退の儀、何れの道にも迷惑せざる様に申し付くべう候の間、
心易かるべく候。
小笠原右近大夫と弥申し談じ、越度なき様に其の覚悟尤に候。
なほ道茂 申すべく候也。
  拾月十七日
                       真田安房守とのへ

第一次上田合戦後、真田昌幸豊臣秀吉側近の祐筆・徳法軒道茂を介して

秀吉に接触を図り、徳川家康との窮状を訴えた。

秀吉は従一位・関白の位にあり、確かな秀吉政権が樹立していた。

秀吉は昌幸宛て書状で、

「委細は聞き届けた。悪いようにはしない。安心するように」

と言ってきた。

これで、昌幸は秀吉とのつながりができた。

笑い声二重とびらのむこうから  合田瑠美子

秀吉

「秀吉の時代へ」

徳川勢がまだ上田城を包囲している最中、

昌幸は秀吉から優遇を保証する10月17日付けの書状を受け取った。

この時点で昌幸の秀吉への臣従は規定事実となる一方、

間もなく徳川軍は撤退した。

家康の重臣・石川数正小笠原貞慶の人質とともに岡崎城を脱し、

秀吉の元に逃げ込んだためである。

さらに秀吉は19日付けで、

「家康を成敗するため正月にも出陣する」

と知らせ、信州のことは小笠原貞慶・木曾義昌と相談し、

昌幸も要請があり次第出兵するよう命じる書状が届いた。

(昌幸は絶好のタイミングで景勝・秀吉に臣従することで、
小県・信濃の領国化に成功したのである)

後編を生きる襷を替えてみる  須磨活恵

秀吉は7月に関白に任官、12月には豊臣姓を賜り、

天正14年になると家康討伐の動きを加速させた。

しかし実行には至らず、2月に織田信雄の調停で秀吉と家康は和睦する。

秀吉から 「家康が従うというので成敗はしない。

 信州諸将も秀吉に属するので矢留(停戦)を申し付ける」

という朱印状が届いた。

7月、家康が昌幸討伐の軍勢を駿府に進めると、

秀吉は和睦した家康の行動を認めなければならなくなった。

秀吉は石田三成を通して、上杉景勝に書状を送り、

「真田は表裏比興の者だから、成敗を加える」 と伝え、

景勝に昌幸への支援を禁じた。

表裏比興の者とは裏表があって卑怯であり、信用できない人物をいう。

昌幸は秀吉に見捨てられ窮地に陥った。

サイダーの泡の行方や春霞  くんじろう

一方、北条氏邦が4月に吾妻領・沼田領へ攻め入ってきた。

この直前、秀吉の圧力と昌幸の動きに警戒心を強め、

国境付近で北条氏政と会談を重ねていた家康の要請だと思われる。

ところがこの頃、秀吉は、真田攻め容認へと態度を変える。

昌幸が秀吉の上洛要請に応じなかったからだ。

本来なら昌幸は、6月14日に大坂城で秀吉に謁見した上景勝と

行動をともにすべきだった。

8月3日付けの三成増田長盛から景勝への書状では昌幸を

表裏比興の者と断じ、成敗を加えるので一切支援は無用だと伝えている。

同じ信濃の小笠原貞慶も、木曾義昌も景勝とともに秀吉に出仕していた。

鍵穴に月を注いで朧なり  笠嶋恵美子

「家康は真田攻めを口実に出仕を先延ばしにするのではないか」

10月に、秀吉は生母・大政所(なか)を人質として家康に送る。

関白の母子が共に人質として送られてきたとあっては

さすがの家康も
上洛に応じざるを得ず、ついに重い腰を上げ、

同月27日、ついに家康が大阪城に出仕した。

家康もついに秀吉に臣従したのである。

警告は画鋲とどめは五寸釘  森田律子

秀吉は家康の出仕を優先して昌幸討伐を停止したが、

なおも出仕しない昌幸に対し「真田成敗専一」と怒りを露にした。

それでも昌幸はさらに景勝を通じ、昌幸と北条・徳川間でくすぶる

「沼田領」問題の解決を秀吉に迫った。

領土争いには上使を派遣して裁定し、従わないものを討伐する

「関東惣無事」を標榜する秀吉が、この問題を解決しないまま、

景勝の従属化にあった昌幸を討てば、昌幸の面目が立たなくなるからだ。

ひとつ義理果たしてひとつ不義理する  青砥たかこ

9月25日、ついに秀吉は景勝に真田攻め中止を伝えた。

「秀吉は公の場での対面を重んじ、

 衆目が一致する派手で大仰な演出を好む」

昌幸は家康出仕にこだわる秀吉の性格を読み切り、

「大坂城出仕」が一つの切り札になると確信した。

「だが今はその時ではない」

そして家康が大坂城に出仕した後、

昌幸のもとに秀吉の朱印状がもたらされた。

「家康とはいろいろあるだろうが言い分を聞く、

   この度のことは許すので上洛せよ」

狙い的中てのひらに光るもの  瀬川瑞紀

天正15年1月、昌幸は大坂城で秀吉に謁見、正式に臣従が認められた。

このとき、信繁も人質として出仕したとみられる。

同時に昌幸は家康への出仕を命じられ、

豊臣政権化の家康に属する独立大名として歩みだしていく。

昌幸41歳のときの大きな転機だった。

秀吉との謁見の帰路、3月18日だが、

昌幸は昌幸は家康へ出仕挨拶のため駿府城に立ち寄っている。

裏漉しにする救いようのない男  雨森茂樹

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釣銭はくれぬ三途の渡し賃  上田 仁



「六文銭」

六文銭は、真田家の家紋のひとつである。

真田家の戦いが描かれた場面には六文銭が染め抜かれた旗が翻り、

真田家ゆかりの地には、六文銭の装飾のある具足や鞍が残っている。

真田信繁の兄・信之が藩祖の松代藩が江戸幕府に提出した家紋は、

「六文銭紋」「州浜紋」「結び雁金紋」の三つだった。

「州浜」は河口などにできる砂州の形で縁起のいい紋とされる。

「雁金」は渡り鳥のガンの異称で「雁の鳴き声」から来た名前である。

六文銭の多くは銘のない銅銭を三つ横二列に並べた形で描かれている。

酒臭いお地蔵さまのよだれ掛け  ふじのひろし

  
    割り州浜          結び雁金

いくつかの由来が伝えられる「六文銭紋」。

最も多く語られているのは、人が死後に渡る「三途の川」の渡し賃という

もので仏教で言う、「六道銭」から来ている。

「六道銭」の六道とは、仏教において地獄道・餓鬼道・畜生道・

修羅道・
人間道・天上道の6つの世界(道)のこと。

(六道を合わせて欲界と言い、その上に色界、さらに無色界がある。
  欲界・色界・無色界の3つの世界を合わせて三界と言い、
  人間などの生物は、この3つの世界で生死を繰り返すというのが、
  仏教が示す世界観だそうです)

こめかみの波打ち際におく呪文  板野美子

「三途の川」は仏教に於いて、死者が死後7日目に渡るとされている川。

三途の川を渡る方法は三つあり、生前の生き方によって、

善人は、橋、軽い罪人は浅瀬、重い罪人は流れの速い深みを渡るとされる。

ところで三途とは、どういうところなのだろうか。

火途〔地獄道、傷つけ害し殺し合う世界。地獄の火に焼かれるところ〕

刀途〔餓鬼道、貪欲、貪りの世界。刀杖で迫害されるところ〕

血途〔畜生道、差別の世界互いに相い食むところ〕

死者が悪行のために生まれる三つの場所の総称とある。

もっと詳しく知りたければ、賽の河原の老夫婦にお聞きください。

(六文銭とは、三途の川を渡る前に奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)
    に
渡し賃として差し出すものとして伝わった話です)

神様が仕掛けたあの日あの時刻  清水英旺


六文銭の旗は白丸が正解

「六文銭」を最初に旗印にしたのは真田昌幸の父・幸綱で、

生命をかける戦場において、

「死をもいとわない不惜身命の決意で臨んでいることを示すた為」

に使用したと伝えられる。

もう一つの由来は、真田家の源流である滋野一族や、

その支族の海野家の家紋に六文銭があったというもの。

海野家は州浜や雁金も家紋に用いていたという記録があり、

三つの家紋全部が信濃の有力領主だった滋野一族に広く共通していた

ものとも考えられる。

ほかに修験道に縁があった滋野一族には、

丸が七つ描かれる
「月綸七曜」の家紋もあり、

そこから「六文銭」が生まれたとも言われる。


的という悲しい点になっている  河村啓子


   大坂の陣

屏風絵のちょうど真ん中あたりに真田信繁が描かれている。
旗印に六文銭は見えない。

真田信繁は大坂の陣で六文銭を使用しなかった

大坂の陣の時に信繁が六文銭の旗を掲げて家康の本陣へ

突入していったと伝わるが、

実際は、武具を全て赤一色で統一する赤備えで決戦に望み、

目立つところには真田の家紋は一切使わなかったという。

これは、徳川方についた兄・信之に対して気遣ったものであり、

兄弟とはいえ、内通など一切ないという意思表示であった。

また武具は「赤備え」、旗印は「総赤に金線」という

武田氏カラーで戦ったのは、
信繁の心中に敬愛する武田信玄への

厚い思い入れがあったのかもしれない。


後悔を砕いて落ちてゆく夕日  森田律子

「なぜ、三途の川の渡し賃が「六文」なのか?」

昔の人々の間には、
死後の最初の行き先であろう六道に対する意識が非常に強く、

これが「死者に六道の数にあった銭を持たせれば清く成仏できる」
という考え方に発展し「六道銭」ができたようです

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