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川柳的逍遥 人の世の一家言
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爪ひとつなくし半値になった蟹  橋倉久美子


   秀吉時代の大坂城

「真田昌幸ー大坂城出仕」

真幸秀吉の上洛要請に対し、本来なら天正14年(1588)6月14日

に大坂城で秀吉に謁見した上杉景勝と行動をともにする予定だった。

しかし昌幸には、行くに行けない事情があった。

信濃で徳川、上野で北条と緊張関係が続いていたからだ。

だが、業を煮やした秀吉は家康に「昌幸討伐」を命じた。

家康は秀吉の妹の旭姫を正室に迎えたこともあり、

7月には駿府を経て甲府へ出陣した。

台風はふくらはぎあたりを通過中  笠嶋恵美子



というのも秀吉と景勝は、家康が秀吉に臣従したら、
                       よりき
家康から離反した信濃国衆を家康の寄騎(与力)とすると取り決めていた。
              よりおや
それで昌幸の討伐は、寄親となる家康が行なうのが筋とされたのだった。

しかし、8月7日に秀吉の調停を受けて、家康は真田攻め延期を決めた。

秀吉は家康の出仕を優先して「昌幸討伐」を停止したが、

なおも出仕しない昌幸に対し「真田成敗専一」と怒りを露わにした。

(8月3日付けの石田三成増田長盛から上杉景勝への書状で昌幸を、
「表裏比興の者」と断じ成敗を加えるので一切支援は無用だと伝えている)

熱い鉄打ち損ねても子は育つ  ふじのひろし

昌幸は秀吉に見捨てられ、窮地におちいった。

それでも昌幸は景勝を通じ、昌幸と北条・徳川間でくすぶる

「沼田領問題」
の解決を秀吉に迫るのである。

領土争いには、上使を派遣して裁定し、従わないものを討伐する

「関東惣無事」を標榜する秀吉が、この問題を解決しないまま

景勝の従属下にあった昌幸を討てば、景勝の面目が立たなくなるからだ。

窮すると男は過去を捻じらせる  上田 仁



8月7日、秀吉は家康に討伐を延期させた揚句、中止を命じた。

秀吉は家康にも昌幸にもよい顔をみせながら、

10月には生母・大政所なかを
家康に送り、

引換えに家康を秀吉政権下の一大名にしてしまった。


そして家康が家康が大坂城に出仕した後、昌幸のもとに朱印状が届く。

「家康とはいろいろあるだろうが言い分を聞く。

    この度のことは許すので上洛せよ」


天正15年1月、昌幸は信之とともに大坂城で秀吉に謁見。

正式に臣従が認められた。

昌幸41歳の大きな転機だった。

下顎の骨を入れ替えてもらった  井上一筒



秀吉が昌幸と謁見した大坂城の大広間

さて昌幸は初めて秀吉に対面したとき、どんな言葉を交わしたのだろう。

「関東惣無事」の実現の為、関東御出陣の大義名分を差し上げましょう」

と昌幸流の大見得を切ったか。

それは北条に臣従の圧力をかける秘策だった。

「北条は上の一国の領有を主張していますが、

  真田はそれほど欲深くありません。

  もう一方の当事者である徳川様から相応の替地を頂ければそれで結構。

  ただし名胡桃城は必ずや真田にお与えください」

とまで言ったかどうかは後世の推測だが、

この秀吉との謁見を契機に昌幸は、独立大名として歩みだすこととなった。

お茶室でニンニクの香とばすなんて  山本昌乃



秀吉との謁見の帰路、秀吉の命令で家康の寄騎(与力)となった昌幸は、

3月18日家康へ出仕挨拶の為、小笠原貞慶と共に駿府に立ち寄っている。

天正17年2月になると、昌幸は信之を駿府の家康に「人質出仕」させ、

自らは信繁とともに大坂の秀吉のお側にあった。

信之を家康に人質出仕させた昌幸の思惑は、

父子で秀吉と家康に仕えて
いれば、秀吉は家康より5歳年上であり、

行く末天下の情勢が逆転しても、
真田家にとっては、

得策と判断してのことだろう。


盃を的にするとは粋な月  小林満寿夫

【補足】 
 この時代の「人質」とは、裏切らせないための保証人ではあるが、
         同時に身近に置いて教育する「武将見習い」的意味合いもあった。
   人質の多くは、大名や将軍の身辺の雑務を世話する小姓となった。

※     昌幸は景勝を介して豊臣の大名を遂げたのではなく、
        景勝には、昌幸を独立大名にする意志はなかったため、
        昌幸が独力で交渉窓口を切り開いたのである

※ 寄騎=戦国大名が家臣とした在地の土豪などを、
       有力な家臣の配下としてつけること。

謝罪文のいろいろとある玩具箱  桑原伸吉

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うめぼしと呼べばくるぶしハイと言う  井上一筒


  真田幸村生存説

「知将の横顔」

大坂城での真田信繁の人質時代、豊臣秀吉、大谷吉継、石田三成の厚遇を

得た信繁は、
秀吉政権の武将や官僚たちとの交友にも恵まれることになる。

信州上田にいたら決して、経験し得ない大名などからも声をかけられた。

これらは信繁が武人としても、人間としても大きく成長する糧になった。

そして、直江兼続に教えられ、吉継や三成からも学んだ「義」について

考えるうちに
父・昌幸「義」を思うようになった。

冬という茶鼠色の父のこと 河村啓子

この時点での昌幸の生き方は、

「真田を如何に生き長らえさせるか」

にあって、そのために徳川・北条・上杉、さらには豊臣に、

と猫の目のように臣従先を替えている。

およそ義からは遠い位置にいるのではないか、と考えたこともあった。

しかし吉継や三成の義を知って、

「父は、武田信玄・勝頼という二代に仕えることで、義を全うした。

  今は、真田を守ることが、祖父・幸隆への義と捉えているのだはないか」

と思い至る。

生臭い我が右の手を煮沸する  嶋沢喜八郎

考えてみれば、昌幸ほど、武田への義に生き抜いた武将はいなかった。

それが、

「大勢力に屈せずに、智謀を駆使して真田の生き残りを懸けているのだ。

   それこそが真田の六文銭の誇りであり、

   私を人質にした理由であったのだ」


と信繁には理解できた。

信繁は越後、大坂という外側から、真田家と父親の昌幸を眺めることで、

上田にいたのでは絶対に気付かない多くのことを悟った。

武人としては何よりも「「義」が大事であり、また「真田の家」こそ、

守るべき誇りであることに、信繁は気付かされたといってもいい。

止めてくれどんどん人が好きになる  むさし    


   日本の伝説


「信繁逸話・伝説」

直江兼続、大谷吉継、石田三成。

信繁は人質時代、彼らと親しく接したと伝わるが、

その背景には将才とともに、誰からも愛される人柄もあったようだ。

信繁の人となりを伝える逸話はいくつか残る。

主家・武田氏が滅亡した折、信繁は兄・信之とともに甲斐・新府城から

上野岩櫃城へと脱出を図るが、途中、難所の雁ヶ沢にさしかかった。

深い谷に信繁は「これは落ちたら命はない」と驚くが、

信之と「どちらが飛び降りるか」とふざけ合い、

さらに「飛び降りる勇気なあるものはいるか?」

と家臣たちに冗談で声をかけた。

命からがら逃げている最中とは思えない、信繁の陽気な一面が窺える。

踝に無理難題を強いている  三村一子

しかし問題はこの後で、

なんと家臣の一人、赤沢嘉兵衛が冗談を真に受けて

本当に飛び降りてしまったのだ。

幸い赤沢は無事だったが、必要もないのに家臣を危険にさらしたことで、

信繁が後に父・昌幸から酷く叱られたのは言うまでもない。

真っ青な心の空を遺産とす  本多洋子



薩摩半島頴娃の伝真田幸村の墓

「幸村、秀頼・の薩摩落ち伝説」

戦国時代、不遇の死を遂げた人物にまつわる噂として囁かれる「生存説」

明智光秀=天界説をはじめ、現在も語り継がれる歴史ロマンのひとつに、

真田幸村豊臣秀頼「薩摩落ち伝説」というものがある。

この説は大坂の陣の際、秀頼の焼死体が本人のと確認できなかったことと

幸村には7人もの影武者があり、首実験をした幸村の叔父でも、

それが本人だと断定できなかったことに付随する。

歴史的にもっともらしいのは、

信繁の家臣の1人が「幸村の7つの首」
中の一つを抱きしめ涙を流し、

その首を葬った後に腹を切って果てたので、


家康はそれが本物のものとして納得したというものである。

しらばくれてる塩つぼ砂糖つぼ  美馬りゅうこ

「幸村は合戦で死なず、山伏になり秀頼·重成を伴い薩摩に逃げた」

その後、大坂の陣の一ヶ月後には、

「秀頼が重臣を引き連れ薩摩で暮らしている」

との噂が流れるようになり、


揚句の果てには、 幸村・秀頼のものとされる墓まで存在する。

「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて、

    退きも退いたり鹿児島へ」


このようなわらべ歌が実しやかに流行ったという。

おもしろいことにNHKの「歴史秘話ヒストリア」まで、

「幸村と秀頼のお墓」、
「わらべ歌」をとりあげ、放映している。

何はともあれ、偉人たちの生存説に笑顔で耳を傾けるのも一興ではないか。

やや開きすぎた嫌いはありますが  雨森茂樹



信長・三成・光秀・島(上左より時計回りで)

「生存説ーあの人も実は生きていた」

「織田信長の場合」
信長も本能寺の変の際、その死を確認した者がなく、
遺体も見つからなかったことから、生存説が主張されているのだ。
森蘭丸と共に薩摩に落ち延びたが、
本能寺の変で負った傷が深くまもなく死亡した。という。


生き延びた先がどうして薩摩が多いのか、それは関が原の戦いのあと、

実際に薩摩に落ち延びた宇喜多秀家の存在が影響しているのではないか、

秀家は落ち延びて数年で家康に見つかるも、死罪は免れ83歳まで生きた。

「明智光秀の場合」
小栗栖で死なず、のちの家康の幕僚・南光坊天界になった。
1.日光東照宮になぜか明智家の家紋である桔梗紋がある。
2.日光の明智平という地名が、天海によって名付けられている。
3.徳川将軍2代・秀忠・3代・家光、2人あわせると光秀になる。
これらが、光秀が生存している理由になっている。

「石田三成の場合」
処刑されたのは影武者で親密だった佐竹義宣に匿われた。
義宣は城外の八幡村に帰命寺を立てて三成を住まわせ、
京の知恩院から名僧を招いたとした。
その後、三成を慕った石田の残党が秋田を次々と訪れ。
その数100名を越すようになり、三成再挙の噂が立ち、
徳川が疑いの目を向けると、
佐竹は、「帰命寺の主僧は入寂した」と宣伝。
「帰命寺の開祖・長音上人は石田三成の弟でございましたが、
ある事情のために僧になった人で義宣に招かれて当地に参りました。
不審の点は少しもございませぬ」と佐竹家の調書に残る。

「島左近の場合」
関が原から落ち延び、追っ手から逃れて琵琶湖の竹生島に潜伏した。
また岩手県に落ち延びたという説がある。
「偉人浜田甚兵衛、石田三成の謀臣島左近の偽名なり。
・・・関ヶ原の戦いに敗れ、流路、米崎村に至り、村童を集めて句読を授け、
   静かに余生を送る。 正保5年(1648)死す。享年86歳」
『気仙郡誌』にはこう記されているという。

死神よまだロウソクは燃え尽きず  くんじろう

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飯の種ですとピエロの服を着る  片山かずお


ややこ踊りをする阿国(桃山時代の作だとされる)

「出雲の阿国」

出雲阿国が生まれた時期は、定かではないが、

元亀3年(1572)に生まれたのではないかと言われている。

安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍。

出雲大社近くの鍛冶職人・中村三右衛門の娘ともいわれ、

文禄年間(1592~96年)「本殿修理費勧進」のため、

諸国を巡り、
京では念仏踊などを興行したという。

当時の古記録に「ややこ踊り」を披露したという記事が見られ、

その踊りが各地で評判になったといわれている。

はてさてどうしよう凭れかかられて  雨森茂樹

お国に関する史料には次のようなものがある。

『多聞院日記』ー天正10年(1582)5月「加賀国八歳十一歳の童」

が、春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。

それは『於若宮拜屋加賀國 八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽ

ヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了』 というもの。

これを8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈し、

逆算して国を、元亀3年生まれとするのが通説化している。

しかし、加賀出身の8歳・11歳の娘という解釈もある。

意のままにならぬ自分という器  上山堅坊


   念仏踊り

阿国は娯楽としての念仏踊りをかぶき踊りのなかで踊った。

阿国がいつから「おクニ」として世間に知られるようになったのか。

それを指す可能性のある確実な資料として、『時慶卿記』に、

「慶長5年(1600)7月1日に京都近衛殿や御所で


 雲州(出雲)のクニと菊の2人がややこ踊り演じた」

という記録があり、
ここで「クニ」と名乗っていたことがわかる。

 そして、時慶卿記より遡るものとして次の記録があり、

天正9年(1581)9月御所で「ややこ踊り」が演じられた。『御湯殿の上日記』

天正15年(1583)2月「出雲大社の巫女」が京都で踊った。『言経卿記』

「ややこ踊り」「出雲大社の巫女」で阿国のことであることが確認される。

放電をしなさい灰になりますよ  森田律子



お国が「歌舞伎の始祖」といわれるのは、多くの人が知るところである。

「阿国歌舞伎」とは、言っても後の歌舞伎とは違い、

お囃子・三味線などの伴奏はなく、笛・太鼓に合わせて踊るだけだった。

しかし、彼女の面白いところは、ただ単に踊りを披露したのではなく、

トップの絵でも解る通り、女のお国が男装をして、

茶屋の女と戯れる様子を演じて見せたのである。
                 かぶく
これが、当時の都人から「傾く」(常識離れ)女として大好評を得、

この「かぶく」から「歌舞伎」の名称もうまれたとされている。

絶頂のライトを浴びていて寂し 八木侑子

(拡大してご覧ください)

当時多くの芸能は、河原や寺社の境内などに作られた

仮設の舞台で演じられ、興行が終わると舞台は取り壊された。

しかし阿国は、「かぶき踊り」で人気が出た頃には、

京都の北野神社の境内に自分専用の舞台を作って踊った。

その昔、北野天満宮のあたりは、平安京外で下の森といわれ 

鬱蒼と木々が繁っており鬱蒼とした所であった。

阿国は、この森の中と鴨川の五条河原に小屋掛けをして、
 かぶき
「傾奇踊り」を始めたのである。

幸せな足音だけを拾う耳  靍田寿子

 

容貌美麗で才能にあふれる阿国は、男装して刀を差しながら歌い踊る。
             かぶ
という今までにない傾いた演出で人気を博し、

かぶき踊りを創始して名を馳せた。

「踊り」は当時の流行唄や狂言小歌を入れて筋のあるものとなっていき、

阿国の男装が評判を呼び、織田信長にも、公卿たちにも招かれている。

そして記録にはないが、派手なことが好きで、好奇心の強い豊臣秀吉が、

阿国の踊りを見ていない訳がないと考えたのが、

大河ドラマ「真田丸」を演出する三谷幸喜氏である。


唯、崖から転落して意識を失ったものの命拾いした真田信繁の姉・

記憶喪失の女として、阿国一座に持ってくるのは遊びすぎではないか。

消しゴムで消せることばを考える  畑 照代


  阿国の像

出雲の阿国の像が立っている辺りに、南座が建っている。
阿国が四条河原町付近の小屋で、舞っていたことを想像すると、
京都南座も違った角度でみる楽しみがあるというもの。

お国の凄いところは、彼女はいつも主役の男役を演じ、

企画・構成・演出まで一人でやってのけたことだろう。

舞台も桃山風の小袖をしどけなく纏い、少しはだけた胸から、

キリシタンの十字架が見せるといった、大胆で斬新奇抜なもので、

踊りや芝居も、エロチックな、かなり際どいものだったようだ。

いわゆる女の歌舞伎というより、「タカラズカ」という方が当っている。

人気が高くなると、ごひいき筋の客種がよくなるのは今も昔も同様で、

お国は方々から引っ張りだこになった。

そして、諸大名や将軍家、果ては宮中にも招かれたという。

「此頃カフキ踊ト云事有 出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ
上ル縱ハ 異風ナル男ノマネヲシテ  刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ
女ト戲ル體有難クシタリ  京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ
度々躍ル  其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公
ハ不見給」とある。『当代記』(慶長8年4月)

ハバネロをたっぷり塗った天使の矢   くんじろう



慶長8年(1603年)5月には、御所で披露し、

慶長12年(1607))には、江戸城で一座が踊ったという記録も残る。

しかし、この慶長12年の江戸城にての歌舞伎を最後に、

阿国は表舞台から姿を消してしまう。

理由は、阿国が年頃になって「ややこ踊り」が踊れなくなった為か、

阿国が評判になると多くの模倣者が現れたためか。

当初はカブキが「歌舞妓」 と書かれたように、

当時は女性のみによって行われていた。
  
しかし、彼女たちが遊女のような行為もした為、風紀を乱すとして
  
幕府の取締りに遭い、女歌舞伎 は寛永6年(1629)禁止されたのである。

ひと粒の涙にうねる乱れ髪  上田 仁



「その後」

阿国は慶長12年、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。

その後、慶長18年(1613)頃、小田原で67歳で没したとも、

出雲へ帰り剃髪して87歳で没したとも、諸説があるが。

慶長17年(1612)4月に御所で、かぶきが演じられたことがあり、

阿国の一座によるものとする説もある。

他には、出雲へ戻った阿国は、尼僧・「智月」となり、

読経と連歌に興じて余生を「連歌庵」で過ごしたとも伝わる。

阿国の
没年は慶長18年(1613)、正保元年(1644)、万治元年(1658)など、

はっきりしない。

くちなしの白をふやして雨静か  山本昌乃


阿国の墓

墓石は舞台のような平たい伏せ石になっている。


連歌庵から歩いて数分、小高い丘の上に「出雲阿国の墓」がある。

石柵の囲いの中央にある平たい大きな自然石が「阿国の墓石」である。

有吉佐和子さんの小説・「出雲の阿国」では、

この墓石が阿国の命を奪った石として描かれている。

作中で、病に冒された阿国は冬の斐伊川を上る途中、

落石により命を落とした。

この落石を墓石として祀ったのが、阿国の墓だと小説では描かれている。

また、京都大徳寺の高桐院にも阿国のものといわれる墓がある。

なお、どこからそうなったのか4月15日が「阿国忌」である。

入ったら最後あなたは自由です  蟹口和枝

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あじさい闇どうにもならぬ事もある  山本昌乃



「大谷吉継と石田三成の絆」

慶長5年(1600)9月15日、「関が原の戦い」で獅子奮迅の活躍をした

一人の武将がいた。

石田三成の盟友・大谷吉継である。

人質として上洛したのちに真田信繁が正室として迎えたのが、

吉継の養女・(浅井蔵之助の娘)安岐姫であることはよく知られる。

約1500の兵でありながらも、吉継は4人担ぎの輿に乗り、

紙の鎧兜を付けて陣頭指揮をとった。
  ごうびょう
彼は業病を患い、ほぼ視力を失っていたという。

それでも自軍の2倍にあたる藤堂高虎・京極高和の部隊と激突し、

互角の戦いを演じた。

アラベスクの中で果てしない鼓動  加納美津子

この間、吉継は松尾山に陣を置く小早川秀秋に何度か使者を送り、

西軍への加担を促したが、動きは見られない。

この時点で吉継は、秀秋の裏切りを予測し、

秀秋と三成の間に
大谷隊の布陣を移している。

予測の通り、正午になると秀秋は裏切り、眼下の大谷隊に突撃してきた。

秀秋の裏切りに備え、精鋭をもって一旦はこれを撃退したが、

秀秋の裏切りに呼応し、その他の諸隊が大谷隊に突っ込んでくると、

形勢は逆転し、そこへ藤堂・京極らの横槍が入り大谷隊は壊滅。

家臣の湯浅五助が全滅状態であることを伝えると、吉継は、

「汝、介錯して、我が首を敵に渡すべからず」と言い、

輿にのったまま腹を十文字に掻き斬って自決し、壮絶な最後を遂げた。

裸木の鋭く潔い線よ  新家完司



吉継は三成とともに豊臣秀吉に仕えた有能な人材であった。

天正5年(1577)織田信長から播磨攻略の命を受けて,

姫路城を居城とした秀吉。

19歳の吉継は、秀吉のお馬廻り衆の一人として、

加藤清正らとともに護衛などにあたった。

彼を取り立てたのは三成だったともいわれ、

一説によれば、近江生まれの同郷の仲だったとされる。

年齢も一歳差であり、互いに通じるものがあったのだろう。

二人は秀吉のもとで「賎ヶ岳の戦い」25歳の若き吉継は

7本槍に匹敵する活躍をみせた。


ずっと前から結ばれていた二つの灯  吉川哲矢
                    ぎょうぶのしょう
そして秀吉の関白任官に伴って、刑部少輔に任じられ、それ以後、

「大谷刑部」と呼ばれるようになり、敦賀城主にも命じられた。

しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、

五奉行の一人・徳川家康がその遺言を無視し独断専行の政治を行い始める。

これに対して、かたや
五奉行の筆頭・前田利家が、

「一戦を辞さない」という緊張した慶長4年(1599)


吉継は自分の屋敷に兵を集め、家康に味方する姿勢だったという。

家康が上杉討伐のため東征した際には、吉継もそれに従った。

東征先で吉継は、三成が蟄居していた佐和山城へと招かれた。

そこで三成から家康を打倒するため挙兵する決意を聞いたのである。

急ぐことはないと雲にも言いました  立蔵信子

三成は19万石、それに対して家康は250万石の大名である。

家康と戦っても利がない、吉継は三成を諫めたが三成の決意は固い。

ついに負け戦になると知りながらも吉継は、縁起の悪い吉継の名を

吉隆に改名して、三成とともに反旗を翻したのである。

吉継にとって三成は、苦楽を共にしてきた友であった。

決戦当日、西軍の武将が敗走するなか、吉継は最期まで戦い抜いた。

大谷隊の壊滅は戦場の趨勢を一変させ、

西軍諸将に動揺を与え、
西軍潰走の端緒となる。

そして朝もう飾ることない二人  上田 仁

吉継辞世の句

「契りあらば六の巷にしばし待ておくれ先だつ事はありとも」

(共に死ぬ約束があるのだ、あの世〔六道の辻〕で待っていて欲しい)

吉継・三成の「エピソード」

「天正十五年(1587)大坂城で催された秀吉の茶会の席で、

秀吉の諸将が茶碗の茶を回し飲みをした。

しかし大谷が口をつけた後はみな嫌い、病の感染を恐れて、

飲むふりをするのみだったが、三成だけはその茶を飲み干した」

というエピソードが伝わる。


破るため約束をする左指  吉田信哉



「石田三成」

豊臣秀吉がまだ 羽柴秀吉と名乗っていた近江長浜城主時代、

三成はその小姓として仕えたといわれている。

戦場での働きよりも兵站の調達や事務処理で頭角を現した。

天正5年(1577)、秀吉が信長により中国攻めの総司令官に任命されると、

当時17歳で、三成も中国地方への軍に従う。

天正10年6月、信長が本能寺で家臣の明智光秀に殺されると、

秀吉がいち早く畿内にとって返し光秀を討った。

これで秀吉が織田家後継の筆頭に立つと、

三成も秀吉の側近として、一層重要な役目を担うようになってくる。

新しい風が吹き始めたようだ  岡内知香

翌年の「賤ヶ岳の戦い」では、柴田勝家軍の動きを探る役目とともに、

戦いでも一番槍の功名を挙げている。

三成の本領が発揮されたのは、天正15年に秀吉が九州平定のため、

大軍をもって遠征に出た時のことだ。

その前年に堺奉行に任じられ、そこを完全掌握したうえ兵站基地として

整備していた三成は水軍を活用。

堺を基点とし、兵員や物資を載せた船が瀬戸内海を迅速に移動する

手はずを整えたのだ。
           しちょう
兵糧・武具などの輜重が滞りなく行なわれたおかげで、

九州平定戦は比較的短期間で勝利を収めることができた。

池の鯉わたしの手拍子にうねる  古田祐子

しかし天正18年の「小田原征伐」の際は、

秀吉から北条氏の支城の一つ忍城の攻略を任される。

だが城兵の頑強な抵抗に遭い苦戦し、

備中高松城際の水攻めを模して長大な堤防を築いた。

だが逆に城方に堤防の一部を破られ、

自軍に被害が及ぶ失態を演じてしまう。


以後、戦下手のレッテルを貼られた。

その後、朝鮮出兵の際は出征した武将たちとの間に、

大きな確執を生じ、
戦後は亀裂が決定的となる。

このため家康との間で雌雄を決した「関が原の戦い」で敗れてしまう。

絆という粘々洗っても洗っても  高橋謡々

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海峡よイソギンチャクは義理堅い  くんじろう



  秀吉時代の大坂城

「大坂暮らし」

人質として来た大坂での信繁の生活は、上杉での人質時代よりも、

その後の信繁の人生にとって大きなものをもたらした。

上杉家で暮らした1年足らずの間で最も多く学んだのは「義」であり、

戦さ人としての「心得」であり、「学問の大切さ」であった。

先ず「五常の徳」(仁,義,礼,智,信)を教えられた。

「この五常の徳目を守って生きることによって、

父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五倫の道が全うされるのだ。

わけても私は、この五徳目のうち義が最も大事であると思っている」

直江兼続「義」を正義という言葉に代表される理念であり、

人として最も大事な生き方であろうと考えていた。

眼差しはいつでも前を向いている  日下部敦世

上杉家で兼続から薫陶を受けた「義」への思いを、

信繁はさらに純化するほどの影響を大坂で受けることになる。

この時期には、秀吉の側近として石田三成、大谷吉継など近江出身の

家臣団がいた。

頭脳明晰で臨機応変に物事を処理する能力に長けている側近たちである。

主君の秀吉をはじめ彼らのような存在は、

甲府で生まれ育った信繁には、
これまで出会ったことのない

タイプの人物ばかりである。


天正14年(1586)というこの時期、三成は27歳、吉継28歳、

20歳の信繁には、やや年の離れた兄ともいえる年齢であった。

振り向いたところにいつもいる仲間  谷口 義

秀吉は、吉継に「武人」としての器を見ており、

「百万の兵を与えて采配を振るわせてみたい男だ」

と賞したほどで、信頼も厚かった。

事実、吉継は兵法に長けており、

後の関が原合戦でも孤軍奮闘して東軍を圧倒している。

また兵法ばかりでなく、経済的な見通しにも明るく、

他家や敵方との交渉に臨んでも、一歩も引けをとらなかった。

あらゆる面で他人よりも秀でていた武将であった。

そして何よりも「義」に厚く「情」にも厚かった。

横なぐりの雨で口をゆすぐ奴  酒井かがり   

一方、三成は秀吉に最も信頼され愛された武将であった。

その待遇も福島正則、加藤清正など秀吉の縁につながる「子飼い」として、

厚遇された武将たちとは違って、主に裏方の仕事に従事し、

戦を陰で支える役目が多かった。

だが三成は、秀吉に命じられた仕事はその期待以上の成果を常に挙げた。

そして三成の秀吉の心底には「義」があり、

誰に対しても「義」という判断基準で測った。

これを吉継は「三成の道徳観」であり、正義感が為せるものと見ていた。

それだけに他人には偏屈に映ることもあり「へいくわい者」(傲慢な男)とも

陰口を言われてきた。

結び目に私の色を足しておく  合田瑠美子

信繁は大坂に来て、三成が兼続とも厚い友情で結ばれていることを知った。

上杉景勝が秀吉に従う時の上杉の窓口を兼続が、

豊臣の窓口を三成が務めてきた結果であるという。

さらに、信繁と三成との縁はまだある。

しばらく後のことになるが、

信繁の妹(昌幸の5女)が嫁いだ宇多頼次の妹が三成の後妻であった。

これにより頼次は信繁の義兄弟となり、その関係で三成とも頼次を挟んで、

義兄弟になるという複雑な繋がりが生じる。

そして三成も恐らくは、真田の血筋、礼儀正しく慇懃で物静かな信繁に

触れ、その人間性を認め、信愛の友ともとれる接し方をした。


たまに逢う友達だから仲が良い  立蔵信子

さらに信繁の人柄は、主君である秀吉にも愛された。

秀吉は信繁を「小姓」として使った。

秀吉が信繁を重んじていた証拠として、吉継の娘を妻に娶らせている。

さらに秀吉は、信繁に「豊臣」の姓を名乗らせることを許し、

叙位任官させた。

         さえもんのすけ
「従五位下、左衛門佐」である。

以後、信繁は「豊臣左衛門佐」を名乗るのである。

ほんの駆け出しです雲を見ています  田口和代

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