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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ひび割れてひび割れてイエローと叫ぶ  河村啓子


 聚楽第とその周辺

「聚楽第」

秀吉が京都御所近くに聚楽第を完成させたのは、天正15年9月だった。

本丸のほか、西の丸、南二の丸を設け、広い塀を巡らせた広大な平城で、

「聚楽城」とも呼ばれる。

金箔瓦を使った豪華な建物で、その後、北の丸も増築されている。

周辺には豊臣秀長、豊臣秀次、前田利家、細川忠興、黒田孝高(官兵衛)邸と

隣り合って千利休邸などの広壮な邸宅が並び、

一帯は天下人の居城にふさわしい街並みとなっていたといわれる。

虹までの高さに足場組んでいる  清水すみれ


 御陽成天皇行幸図

「聚楽第」は天正13年に秀吉が関白となったのを機に、

政庁兼邸宅として造営された。

ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスがその著書・「日本史」の中に、

「聚楽」の名は、「彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」

と記している。


聚楽第には、天正16年と20年の2度、御陽成天皇が行幸しているが、

同じ場所に続けて、2度も行幸が行なわれたことは、

秀吉にとって最高の名誉と栄光だった。

暖簾の向こうは後陽成トカゲなり  井上一筒

天正19年に、秀吉は後継者であった息子・鶴松を病で亡くした。

そのため、甥の秀次を後継者として関白につけ、聚楽第をその邸宅とした。

自身はその近くに伏見城を築いて移り住んだ。

新たに聚楽第に住んだ秀次は、何度か碁会・将棋会を開いている。

秀次は相当強かったようで多くの大名を将棋の相手に呼んでいる。

将棋に関して、如水も呼ばれ、次のような話を残している。

如水も将棋は強かったが、秀次には負けることも多かった。

如水が負けると秀次は、「お前わざと負けただろう。もうひと勝負しろ」

と言うのである。

一方、秀吉は将棋は下手だったが、

対局者は天下人が相手なので、
わざと負けることがあった。

秀吉は、もちろんそれをお見通しの上で、大袈裟に「勝った勝った」と喜ぶ。

この将棋に如水は、2人の器量の違いをみて、

「秀次は後継者の器ではない」 と悟ったという。

たらればはあんぽんたんの足跡ね  森田律子


  豊臣秀次
秀吉の姉・日秀の子で秀吉の養子となった。

この如水の判断が正しかったのか。

文禄2年(1593)に秀吉の次男の秀頼が誕生すると、

2年後の7月、秀次は、叔父・秀吉に謀反の疑いをかけられ、

高野山に追放のうえ、切腹させられたのである。

文禄4年2月7日の、いわゆる「秀次事件」である。

それに伴い、同年、聚楽第も破却された。

だが、建物の一部は被害を免れ、例えば大徳寺の唐門として移築され、

西本願寺の飛雲閣も聚楽第の遺構と伝えられている。

赤マムシに匙投げられてずっと冬  上田 仁


京都府聚楽第跡出土金箔瓦 (国宝・重要文化財)

聚楽第を破却した秀吉は、洛内での拠点として、京都新城を築いた。

慶長3年(1598)8月に秀吉が死去すると、翌4年9月から北の政所が、

大坂城から新城に移り、関ヶ原の戦いまで暮らした。

また、聚楽第の跡地では,勧進能が行われ,芸能興行の場となる。

やがて人家が立ち並び,「聚楽組」と呼ばれる上京の町組に編成される。

秀吉の後に続け言うのです  畑 照代

【豆辞典】ー(囲碁・将棋)

囲碁は古代中国、将棋は古代インドで発明され、

6~7世紀には、日本に伝わっていたと考えられている。

さまざまな国を経由する中で、各国に独自のルールや道具が発達した。

当初、日本では囲碁や将棋は主に公家や僧侶の趣味として広まった。

時代が下るにつれ、武士や庶民にも普及していった。

ドラマでも、昌幸信繁などが囲碁や将棋をするシーンが登場する。

なかでも戦国武将にとっての囲碁は、

戦いの疑似体験の場であると同時に


静かな空間で精神を研ぎ澄ます修行の場ともなった。

戦略の重要性、大局的なものの見方、的確な判断力、精神の集中など、

厳しい時代を生きる力を養うものと考えられたのである。

とりわけ秀吉は、「太閤碁」と呼ばれる打ち方を考えたり、

家臣に囲碁の戦略性を学ばせるため、

当代一の棋士・本因坊算砂に講義させたりしたという。

サプリメント三度の飯に欠かせない  菱木 誠

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幸せはやや小刻みにやってくる  山本昌乃


   小 松 姫

「小松姫」

真田信之が結婚したのは、天正17年(1589)ころとされる。

相手は本多忠勝の長女・小松姫である。

小松姫は、天正元年(1573) 家康の重臣・本多忠勝の娘として生まれ、

家康の養女となって、真田昌幸の長男・信之に嫁ぐ。

小松姫17歳、信之24歳のときであった。

この結婚に昌幸は「家康の家臣などお娘を」と反対したという。

『本多家武功聞書』によれば、家康が昌幸を従わせるため、

嫡男の信之に家康の重臣・忠勝の娘を嫁がせようとしたが、

昌幸は承諾しなかったため、家康は忠勝の娘を自分の養女とした上で、

「嫁がせるのではどうか」と提案したところ、

昌幸はようやく承諾したということである。


途中から転調をして鉦を撞く  河村啓子

小松姫は、気概があり、細部にも気がつく賢夫人であったことで知られる。

江戸幕府・創設将軍の家康や2代・将軍の徳川秀忠に対しても、

物怖じせず、直に、はっきりと自分の意見を述べたり、

弟の本多忠政や本多忠朝が戦地から帰還した際には、

高らかに忠節を讃えるなど、「勇気のある女性」・「才色兼備の女性」

だったと伝えられている。

サソリ座  女  サボテンでぎざいます  吉岡とみえ



それを証明するこんなエピソードが残る。

慶長5年(1600)、秀吉の没後に五奉行の石田三成が挙兵すると、

夫の信之は家康の率いる東軍に付き、父・昌幸と弟・信繁は、

三成の率いる西軍に付いた。

袂を分かった昌幸・信繁親子が、居城の上田城に戻る途中、

旅の疲れを癒すため、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄った。

その際、昌幸は息子の嫁である小松に、

「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」

と申し出た。

ところが、小松は戦支度をして、城門に立ちはだかり、

「舅・義弟と雖も敵になったお方を城主の留守に一歩も城内には通せない」

と拒んだという。

だまされぬ舟に紋白蝶が乗る  都倉求芽

だが小松は、これを断ると侍女を遣わして、

昌幸らを城下の旅宿(寺)に案内し、
丁重にもてなし、

孫たちに合わせたという。


また一方で、城中の家臣には、弓や鉄砲を狭間に配置させ、

相手方の襲撃に備えるように命じて、

家臣内の動揺を抑えるとともに城内の結束を図った。

これを見た昌幸は家臣に向かって、

「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。

   弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ。

   我は空しく戦死する共あの新婦あるからは、真田が家は盤石なり」

と、その手並みを褒め称えたという。『改正三河後風土記』

ハシー海峡へきたイカの姫君  井上一筒


    真田信之

真田親子が東と西に分かれた理由。

対徳川との第一次上田合戦の勝利は、「強い真田」の世評に繋がった。

しかし、秀吉とそのライバルである家康とが和議を結ぶと、
         よりき
昌幸は家康の寄騎になるように秀吉から命じられた。

昌幸にとっては、大嫌いな家康との協力関係など迷惑であったが、

結果として、24歳の信之を家康に出仕させる。

天正17年2月13日のことである。

グレーゾーンに僕の生死がひっかかる  和田洋子

小田原・北条氏滅亡後に江戸に入った家康は、

関東の徳川最前線ともいえる上州・沼田城に信之を城主として入れた。

早くも家康に信頼されていた証拠でもあろう。

それには信之と小松姫との結婚も大きな理由になっている。

秀吉没後に、世は戦乱に向かう。

実質的には石田三成と家康との抗争に発展し、遂には、

これが関が原の戦となるが、最初は昌幸・信繁も信之とともに

東軍として、会津征伐に向かった。

だがその途次、三成が挙兵し昌幸にも、西軍への勧誘が来た。

なんでなんでとレモン二つを転がせて 太田のりこ
いぬぶし
下野国犬伏で、真田一族は去就を決断するための協議をもった。

昌幸・信繁は「豊臣への義」「三成への友情」を主張、

信之は「徳川の恩」を主張した。

信之と信繁とが、東西に分かれる一因に「妻の実家」という事情もあった。

信繁は、秀吉の口利きで、三成の盟友でもある大谷吉継の娘を娶っている。

三者三様の思いのなかで、協議は平行線を辿る。

そして3人が下した決断が、昌幸・信繁は西軍に、信之は東軍に、

それぞれついて戦うというものであった。

火焔式設定にて転ぶ自己主張  山口ろっぱ

「信之・小松ー夫婦の逸話」

関が原の戦い後に昌幸と信繁が高野山・九度山に配流されると、

小松は物品などを贈っては、

義父たちを慰める優しさと気遣いを見せた。

信之には、二女・三男の子供がいたが、

長男・信吉、長女・まん(光岳院殿)、次女・まさ(見樹院殿)
                      しょしょう
次男・信政、3男・信重は、小松姫の所生(産みの親)といわれている。

なお、長男・信吉については、清音院殿の実子とする説と、

小松姫の実子とする説がある。

ともかく、周りが冷やかすほど、仲睦まじい夫婦であったという。

手に摘みて一期一会を深くする  前中知栄

小松姫が嫁いだ当時、信之はすでに真田信綱の娘(清音院殿)

正室に迎えていたが、その後の記録において清音院殿は、

「家女」と記され、
側室待遇となっている。

このことから信之と小松姫の婚姻以降に、

城主とその家族の生活の場である「奥」を取り仕切る権利全般が、

小松姫に移されたと見られている。

婚姻届に切り取り線が付いている  杉山ひさゆき


摩尼宝珠
小松姫がお守りとして所持していたという遺品。


小松姫は、才色兼備をもってきこえ、家康が若い大名を列座させて、

婿を選ばせたところ、家康を前にして萎縮する家臣が多かった中に、

最も落ちついて堂々とした動作の信之を見て、小松自身が心を動かされ、

進んで信之を選んだというのが、最初の二人の出会いであった。

それ以後、真田家が乱世を生きるむずかしい時に、信之が進退を誤らず、

廃藩に至るまでの250年間の、強固な真田家の基を築いたのは、

小松の30年に及ぶ「内助の功」があってのものと評される。

しかし元和6年(1620)春、小松姫は病気を患い草津温泉での湯治のため、

江戸から草津へ向かう途中、武蔵国鴻巣で亡くなる。享年48歳。

小松姫の死に際し信之は、「わが家の燈火が消えたり」と嘆いたという。

因みに、信之は92歳まで生きている。

壇蜜の蜜が飛び出す画面から  雨森茂樹

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勢いのまま沈んでいく夕日  辻内次根


京都妙心寺に残る鶴丸の舟のオモチャ

「淀殿は悪女だったのか」

1588年秋、豊臣秀吉は52歳、茶々は秀吉の子を身篭ると、

家臣と浮気をした淫乱な女という噂が流れた。

父親は、豊臣家の家臣・大野治長石田三成歌舞伎役者か、

という記述が残されている。

この時、秀吉は茶々が好奇の目に晒されず静かに子が生めるように、

京都の淀に城を築かせ、そこに住まわせた。

これをきっかけに茶々は「淀の方」と呼ばれるようになる。

翌年5月、豊臣家待望の男児・鶴松を出産。

が、僅か3歳で夭折、初子を失い悲しみに暮れる秀吉は、

その年の12月、
自らは「太閤」となり、

関白の職を甥の秀次に譲っている。


はいいろにみちる  うつつにてさまよう 大海幸生

文禄3年(1593)8月、淀の方が2人目の男児・秀頼を出産する。

しかし、このときも、淀の方が不倫して出来た子だと噂された。

『萩藩閥閲録』には、

「淀殿と大野治長は乳兄妹であり、
二人の密通が噂されていた」 

という記録が残されている。


そのため、秀頼は秀吉の実子ではなく、

治長と淀の方の子であるとする説が、
当時から囁かれていた。

すべからく仮の器のボクとタコ  田口和代

淀の母・市の方は、当時の女性としては非常に長身であったとされる。

淀の方も比較的大柄で、秀頼も大柄だったことでも知られている。

因に歴史研究科が調べた其々の身長は、淀君168cm、お市の方165cm、

豊臣秀吉150cm、浅井長政182cm、豊臣秀頼197cm、石田三成150cm、

(それから茶々の実父ではないかとされる織田信長は170cmである)

即ち、小柄な秀吉から長身の秀頼が生まれるとは、考えにくいのである。

ルイス・フロイスが聚楽第で秀吉と会見したとき、

「秀吉は150cmほどもないチビであった」と自身の日本史に記している。

ご連絡ください真っ白な裏へ  くんじろう

「絵本太閤記」によると、こんな逸話が記されている。

ある日、貴重な黒百合の花を献上された北政所(寧々)は、

茶会を開き、茶々にそれを見せて自慢しようと考えた。

しかしそれを見た茶々は、驚きもせず花の説明までしてみせたという。

その3日後、今度は茶々が北政所を招くと、

そこには無数の黒百合が活けられていた。

茶々は北政所の目論見を事前に知り、

使いを山に走らせて同じ黒百合を大量に摘んでこさせたという。

ここに淀の方の傲慢さと意地の悪さを垣間見る。

焼いてみて煮てみて枕草子かな  鳴海賢治


 醍醐の花見 (秀吉の左横が淀の方)

「家康に振り回される淀の方」

慶長3年(1598)3月、天下の豪遊と言われた「醍醐の花見」が行われ、

淀の方も秀吉と一世一代の花見を楽しんだ。

しかし、その直後に秀吉は病に倒れ、62年の生涯を閉じた。

秀吉没後の政治は五大老と五奉行の手に委ねられていたが、

次第に双方第一の実力者、徳川家康石田三成の対立が表面化する。

それの歯止めになっていた五大老筆頭のひとり前田利家没すると、

双方の対立はますます激化し、一気に「関が原の戦」へと加速する。

そして慶長5年9月15日、徳川東軍対石田西軍の戦いの火蓋が切られた。

しかし、この戦いは徳川の勝利をもって、たった一日で決着する。

モノローグなのよ雪の匂い火の匂い  山口ろっぱ

徳川勝利の後、家康は淀殿の信頼の厚い大野治長を大坂城に送り、

「淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じている」

ことを述べさせ、淀の方は、これに対して感謝の旨を返答している。

毛利輝元の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、

そこで家康を饗応した際に、淀の方は自らの酒盃を家康に下した後に、

その盃を秀頼に与えるよう強く求め、

家康は、「秀頼の父親代わりたるべき」と公に宣言した。

これが淀の方の、未熟であまりにも甘い失政のスタートとなるのである。

ヒロインになりきる全開の蓮華  山本昌乃

慶長8年2月、征夷大将軍となった家康が、

江戸に幕府を開くと、
淀の方は激しく動揺したという。

しかし家康は秀吉との間で、「秀頼の成人後、政権を豊臣家へ戻す」

という約束を取り交わしていたため、

次の将軍は秀頼であると信じていた。


7月には、秀頼のもとに家康の孫・千姫が嫁ぎ、

秀吉の七回忌には、秀頼とともに家康が施主となって、

豊国神社での臨時祭が盛大に開かれた。

しかしその信頼も脆く、慶長10年家康は、息子の秀忠に将軍職を譲る。

このとき家康は、当時13歳の秀頼を二条城に上洛させ、

賀詞を呈するよう促した。

これに対し、淀殿は「強いて求めるなら秀頼を殺して自害する」

と言い放ち、断固拒んだ。

別れ道デンデンムシも考える  新家完司


片桐且元と淀の方

慶長19年7月の「方広寺鐘銘事件」でも、淀の方は家康に逆らった。

豊臣家が再建した方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」とあることに対し、

「家康を『安』の字で分断しており、不吉」 と家康が難癖をつけ、

交渉役の片桐且元は、

「大坂を国替えし、秀頼が大坂城を退去するか、

   人質として秀頼公を江戸に詰めさせるか、

   あるいは淀殿を江戸詰めにするか」

と大変な三つの難題を突き付けた。

 「太閤様の築かれた大坂城を明け渡せとは何事ぞ。
      わらわ
       秀頼や妾を江戸に人質とは何事ぞ」

淀の方は激怒し、これを拒否したのである。

小出しに使って黒くなってる運  畑 照代

方広寺大仏殿の梵鐘事件とは、家康が、秀吉が子の秀頼のために残した

莫大な資金を使わせて、経済的に疲弊させようと企んだことに始まる。

関が原の戦後処理を終えた家康は、

淀の方に京都にある寺社の修復、
再建を促した。

寺社の再建には多額の資金が必要になる。

その並びに家康は、火災で焼失した京都方広寺の大仏の再建を提案。

大仏はかつて秀吉が造立したものであるから、

淀の方は即座に、
その提案を受け慶長13年から再建を開始した。

そして、同19年に大仏開眼供養が行われた。

多額の資金を使い再建した大仏だが、

釣鐘に「国家安康」「君臣豊楽」
文字が刻まれていたことに

家康が噛み付き、難癖をつけたのである。


これが「大坂の陣」の引き金になったのは、言うまでもない。

知ったかぶりようの電池が切れました 美馬りゅうこ

こうした淀の君と家康とのやりとりが、

「権力欲に満ちた高慢な女」として、


今日にも「淀殿は悪女」としてのイメージが強く残っているのである。

しかし、家康に近侍した儒学者・林羅山『大坂冬陣記』には、

「大坂冬の陣の講和交渉で自ら人質となることも受け入れていた」

捨て身の姿勢が記されている。

淀の方の失政に繋がる秀頼への愛情は、

自身が、父・長政、母・との縁の薄さの裏返しとして、

わが子には、絶対に同じ思いをせないという、決意があったのだろう。


終章が割れる守りを見せてから  上田 仁

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句読点打てず暗転したドラマ  上田 仁


   お市の方

上の有名な肖像画も、実はお市の方の長女である茶々が、
母の七回忌を迎えた天正19年、お市の菩提を弔うために描かせたもの。
母の市は戦国一の美女と謳われた美女であったが、
桑田忠親は長女である淀殿は,、持明院所蔵の肖像画を見る限り,
父・長政の面影を受け継いでいたといえ、美女とは思えないとしている。



「茶々を検証する」

歴史は仮説を立てる事から始まる。

私たちが現在信じている歴史は、残された史料や古日記をベースに、

歴史学者が時代を考証したもので、説がいくつも生まれているように

過去におきた事件の真相や全容を、完全に証明できたものではない。

即ち、史料が、何時、誰が、何処で、どのようにと、5W1Hを念頭に、

細部にわたり考察しても、やはり各分析者の推察は入る。

そして歴史好きな私たちも、又、歴史の穴を探し推理する事に、

快感を覚える。


核心を突くと崩れていく積み木  原 洋志

NHK/大河ドラマ・「真田丸」で脚本を担当する三谷幸喜は、

「茶々の人生は作者の創作意欲をかき立てるほどドラマチックですね」

と言い、 茶々(淀殿)は、歴史では「徳川史観」で悪女にされ、

歌舞伎では、恐ろしい顔にされ、随筆では、淫乱女とされているが、

「そうとも言い切れないのではないか」と解釈を膨らませる。

三谷の目線の中にある茶々という人物は、
           こわく
実際は、無邪気で蠱惑的で小悪魔なのだ。


例えば、豊臣秀吉に警護員として仕えることになった信繁は、

実は前任者が茶々との仲を疑われ、井戸に落とされた死んだと知る。

それを茶々に聞かせると「残念ね」と軽く言ってのけ、

すぐに真田信繁に色目を使いはじめる、という具合に。

ペン先にもぐさを乗せているところ  瀬渡良子



信繁が大坂城へ人質として入ったのが、天正14年(1586)ころ、

信繁20の時である。

そして茶々ら三人姉妹が、大坂城で秀吉の保護を受け始めたのが、

天正11年、茶々15歳のとき。

信繁と茶々は二歳違いである。

それから4年後、
同じ大坂城の屋根の下で住んで二人が

顔を合わせていないことはない。


女好きの信繁と蠱惑の茶々の間に、恋が芽生えないはずがない。

歴史的にみれば、焼きもち焼きの秀吉にあてつけのように、

これ見よがしに、
次から次へといろんな人が好きになっていく茶々の行為は、

ありえない。


当時20歳の茶々にとって秀吉は、単なる32歳離れた叔父さん、

もしくはお爺さんに過ぎないのである。

実際、三谷幸喜もそう思っている。


このように脚本を描きあげる三谷には、三谷なりの根拠があるのだ。

どうしたら溜め息がつけるのだろう  森田律子

さてここから茶々の検証に入る。

茶々は、永禄12年(1569)近江国の戦国大名・浅井長政の娘。

母は織田信長の妹・で信長の姪にあたる。

と茶々に関する色々の書物は記している。

このように市は、通説では「信長の妹」であるが、

江戸時代の「織田系図」には信長の従兄弟・織田広良の娘と記され、

「いとこにておはせしを 妹と披露して長政卿におくられしにや」

と記述する文書(『以貴小伝』)も残る。

また信長の叔父・織田信光の娘との説もある。

内側は針穴からがよく見える  徳山泰子

また驚くことに『浅井氏家譜大成』を根拠として、一説には、

娘の茶々は正室のお市が嫁ぐ前に生まれたともいわれ、


長政の実子ではないという説がある。

また、お市は、信長の妹ではないという異説を根拠として、

長政へ嫁ぐ前に、信長の愛妾であって茶々は信長の娘という奇説もある。

又お市は、実は信長の愛人であり、同時に忍者であったという説もある。

乱世を終わらせ天下統一をめざした信長は、

その足掛かりとして、妹のお市の方を浅井長政に嫁がせた。

この政略結婚により永禄12年に生まれたのが茶々。

(そして茶々の1つ下に妹のお初が、4つ下にはお江が生まれた)

こみ入った話はあとで春の雲  合田留美子

この頃、茶々の運命が大きくうねり始める。

「姉川の戦い」で長政は信長と朝倉義景の間で板挟みとなっていた。

親交があり、六角氏との戦いにおいて恩がある朝倉氏につくべきか、

妻の兄であり、同盟相手の信長につくべきか迷っていた。

家臣たちは隠居した長政の父・久政を担ぎ出し朝倉につくよう説得。

結果、長政は朝倉家との義を重んじ、義兄・信長を裏切り、

織田軍を挟み撃ちにする策をとることに決する。

この決断の裏には、お市を挟んで信長への恨み、妬みがあったのかも。

その裏切りを察知した信長は、近江国から脱出、京都に撤退した。

相槌を打って迷路にはまり込む  高柳閑雲

朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた秀吉に迎撃され、

信長をはじめとする有力武将を取り逃がしてしまう。

信長が九死に一生を得たのは、お市の方が陣中見舞いと称して、

織田の軍が挟み撃ちにされることを、伝達したと言われている。

このため、浅井軍は信長に再挙の機会を与えることになってしまった。

天正元年(1573)、長政の裏切りに激怒した信長は小谷城を攻め落とし,

長政は自害に追い込まれる。

このとき陣頭指揮を執っていたのが秀吉であった。

一度だけ禁を破ったことがある  雨森茂樹

この時、5歳だった茶々は、母と妹たちとともに信長に引き取られる。

戦乱の中、平穏な日々を過ごしていた三姉妹だったが、

天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が非業の死を遂げる。

その直後から始まったのが、秀吉と柴田勝家との覇権争いだった。

そして翌天正11年、秀吉と勝家の間で「賤ヶ岳の戦い」が始まる。

お市の方は、その時、勝家と再婚していたが、

「賤ヶ岳の戦い」で夫が秀吉に敗れると、

お市の方も、夫と共に越前北ノ庄城内で自害したとされる。

15歳の茶々は、二度の落城で両親を亡くすという悲劇に見舞われた。

茶々にとって、この二度目の落城の指揮官も秀吉であった。

確実に時間は進むものと知る  竹内ゆみこ



三人の娘達の行く末を心配していた市は、北ノ庄城の落城の際、

『溪心院文』によれば、庇護を受ける秀吉に直筆の書状を送り、

三人の身柄の保障をもとめている。

市は秀吉のことを憎むどころか、
秀吉を信頼していた。

この市の遺言を守り秀吉は、茶々ら三人姉妹を庇護した。

この角度でみると、父・信長を裏切った長政を成敗した秀吉は、

茶々にとって恨み憎む相手ではなく、

また戦乱に巻き込まれた母の遺志を守った
恩人なのである。


※ お市の方は歴史の上では、勝家と共に自害したとされているが
        賤ヶ岳の戦いの最後、忍者仲間に助け出され、伊賀に逃げ延び、
       53歳までそこで余生を暮らしたという記録がある。
       現在の伊賀市阿山町下友田の稲増家の邸宅にお市の方の
        喉仏を収めたと言い伝えられる祠がある)

ここにこう立つとあの日がよく見える  八上桐子

時は移り、慶長3年(1598)8月18日、秀吉62歳の幕を閉じると

北政所は大坂城を出て夫・秀吉の菩提を弔うために京都の屋敷に移り、

淀の方は大坂城に残り、6歳の秀頼に代わって政治を司ることになる。

このとき淀の方は29歳、実質的な大坂城主となった淀の方は、

慣れない政治の世界に体調を崩すようになったという。

記録には、

「気うつの病にかかり、頭痛がひどく食事もとれなくなった」


と記されている。

彼女は決して歴史が示すような野心家ではなく、

結果的、必然的にそうなってしまったのである。


マネキンに舐められぬよう背を伸ばす 美馬りゅうこ

そんな淀の方の唯一の支えになったのが、秀頼の成長だった。

官位を上げるために朝廷に働きかけるなど息子のため、

豊臣家のために身を削り立ち働いた。

ただし、男世界というものは、思うほど容易いものではなかった。

たぬき家康は、淀を悪女に仕立てるという汚い情報戦を繰り出すなど、

権謀術策をもって、淀を、いわゆる豊臣家を滅ぼしたのである。

ともかく、茶々は伝説にあるような、悪意な女性ではなく、

彼女の優しさを語るエピソードはいくらでもある。

あれやこれや大きな耳が落ちている  佐藤正昭

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花のした流れる首は浮いたまま  八上桐子


  若き日の幸村

「幸村?信繁か?」

真田幸村は本当の名前でなく、実際は「信繁」だった。

信繁は永禄10年(1567)真田昌幸の次男として生まれる。

幼名は弁丸。


当時、昌幸は武田信玄の母・大井氏の流れを汲む武藤家の養子に

入っていたため「武藤喜兵衛と名乗っていたころである。

住まいも信州ではなく甲斐の武田氏館周辺であり、

弁丸もおそらくそこで生まれ幼少期を過ごしたと思われる。

この場所で生きろと風がやわらかい  清水すみれ

弁丸が9歳の頃、父の兄・信綱・昌輝が二人とも長篠の戦いで戦死する。

そのため父は武藤家を出て信州へ帰り、

真田家の家督を継いで「真田昌幸」と名乗った。

この時に弁丸も、武藤から真田に姓が変わっている。

長男の信幸は真田の跡取りのため真田家に居続けたが、

次男である弁丸はその後、上杉家や豊臣家に人質に出され、

他家で過ごすことが多くなる。

そうした中で元服するにあたり、通称の「源次郎」のほか、

「信繁」という名を父から与えられたとみられる。

※ 信繁の名は昌幸が仕えていた武田信玄の弟・武田信繁と同名である。
        武田の信繁は文武両道名称として知られたが、
       上杉謙信との激闘で知られる「第4次川中島の戦い」で討死した。
        この合戦に祖父・幸隆と昌幸も参加していた。
        この時の信繁の武勇にあやかって、弁丸に付けたものとされる。

系図から水琴窟になりました  岩根彰子


 幸村大坂城出仕の頃

それ以降、彼は「真田源次郎信繁」

あるいは豊臣秀吉を通じて与えられた「真田左衛門佐信繁」として過ごした。

「左衛門佐」とは武家の官位のことで、

当時は公の場では名前よりも、
こちらを使うことが多かった。

信繁最後の書状からも見る通り、死の一ヶ月前まで信繁を名乗っている。

それがなぜ、「幸村」となり今に伝わっているのだろうか。

ひろく知られた書物で見る限り、「幸村」という名は、

寛文12年(1672)成立の
軍記物語り・『難波戦記』が初出とされる。

これが絶大な人気を博して広まったため、以降の軍記物や講談などで、

幸村の名が使われるようになり、信繁はしだいに忘れられていった。

『難波戦記』「幸村」と記されたのは、

徳川幕府の支配が強い江戸時代初期の
ため、

著者が「大阪の陣」で徳川を最も苦しめた信繁の名を

「幸村」に差し替えた
というのが通説である。

涎だとカミングアウトした雫  くんじろう

しかし何故、信繁だけが名を変えられ、

他の大阪方武将は偽名にならなかったのか。

そもそも幸村の名はどこから来たのか。

そこで真田家に仕えた松代藩士・馬場政常が寛政7年(1795)に編纂した

「滋野通記」幸村の兄であ真田家の祖・真田信幸が弟について、

近習に語った聞き書きが残されている。

その部分を要約すると

「我が弟は武田信玄公の弟と同じ信繁を名乗っていたが、

   高野山に蟄居させられた際に幸村に改めたと聞いている」

と信幸は家臣に証言している。

雑音も受け入れA案をとおす  山本昌乃
                つげそうたつ
さらに、松代真田藩士の柘植宗辰が享保16年(1731)に編纂した

『真武内伝・付録』には、

「幸村公書簡之写」とする幸村の手紙の
写しが記されている。

これは幸村が大阪城内から高野山蓮華定院に宛てた書状であり、

「城は4~5日のうちに落ちるでしょう」

と記した内容の書状に彼の愛刀・正宗が添えられ、

5月2日の日付および、
「左衛門佐」の名に幸村の花押が入っていたとある。

揉み手してひょっこり顔をだす昔  合田瑠美子

信州上田観光大使で真田家の歴史に詳しい早川知佐さんは、

「大坂の陣」開戦前に改名したと分析する。

「いざ大坂城へ戦いに赴くにあたり、心情として兄と同じ「信」の字を

    名乗り続けることに抵抗があったと思うんです。

    徳川軍には信幸の子、信吉・信政たちもいました。

    それで父と同じ先祖伝来の『幸』の字を受け継ぎ、

     真田の力を天下に示したいといもあったのではないでしょうか。

     私はどちらでも良いと考えますが、敢えて分けるとすれば、

     前半生は信繁、晩年は幸村と呼ぶのが妥当ではないかと考えます」

流されることにも馴れた紙の舟  佐藤美はる


様子御使可申候。当年中も静かに御座候者、何とぞ仕、以面申承度存候。
御床敷事山々にて候。さだめなき浮世に候へ者、一日さきは不知事候。
我々事などは、浮世にあるものとおぼしめし候まじく候。恐々勤言

あくまで仮説だが、幸村と信幸には村松殿という姉がいる。

「村」は彼女の一字を取ったのではないだろうか。
                                 しげまさ
幸村の姉は本名を於国といい、昌幸の家臣・小山田茂誠に嫁いだ。

夫婦は小県村松の地に住んだことから村松殿と呼ばれた。

幸村は高野山や大坂城内から、姉夫婦に近況を伝える手紙を出しており、

非情に慕っていた形跡が見られる。

父を亡くし、兄とも敵対し天涯孤独に等しくなった幸村、

せめて身内である姉の一字を拝領しようと考えたのではないだろうか。

三枚のおろされ名前忘れられ  河村啓子

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