[ 81]
[ 82]
[ 83]
[ 84]
[ 85]
[ 86]
[ 87]
[ 88]
[ 89]
[ 90]
[ 91]
ダウンロードされているのか背がかゆい 吉岡とみえ
犬伏の薬師堂
「家康と三成の抗争が関が原に」
石田三成が失脚した後、家康はさまざまな工作を実行。
暗殺計画があるというのを理由に大阪城に乗り込み、
さらには謀反の疑いで前田家征伐を準備した。
これは前田利長と母の芳春院の機転でことなきを得たが、
つづいて上杉景勝に謀反の疑いをかける。
こちらは言いがかりに憤慨した上杉家の家老・直江兼続が
家康を愚弄する内容の書簡を送りつけた。
これに怒った家康が、上杉の謀反は疑いないと決めつけ、
諸大名に会津征伐の陣触れを発したのである。
ニンゲンの貌か毎朝確かめる 森吉留里恵
慶長5年(1600)6月16日、会津征伐を率いた家康は大坂を出立。
その日は、鳥居元忠が守る伏見城に一泊する。
その後、家康は時間をかけて進軍した。
これは三成が上方で挙兵するのを待っていたのだ。
家康は7月2日に江戸へ到着する。
その思惑通り、7月になると三成が大坂で挙兵する。
大坂城西の丸を奪取すると、毛利輝元を家康討伐軍の総大将に据えた。
そして7月18日には、4万の大軍で伏見城への攻撃を開始する。
元忠らは勇猛果敢に戦い、10日以上も抵抗。
しかし1800ほどの城兵ではいかんともし難い。
8月1日、元忠の討死で伏見城は落城する。
真剣な目で死んでゆくエキストラ 桑原すず代
下野小山に着陣した7月24日、三成挙兵の知らせが家康の元に届いた。
翌25日、家康は会津征伐に参加していた諸大名を招集し、
以後の方針を協議。ことに家康が気にかけたのは、
東海道筋に領地を持つ豊臣恩顧の大名たちの去就であった。
だが家康は福島正則に対して、あらかじめ手回しをしていた。
評定の席上、正則が家康へ味方することを宣言すると、
諸大名もみなこれに従った。
だが真田昌幸と美濃岩村城主の田丸直昌だけは違った。
雨季のくる前に昨日を折り畳む 桑原伸吉
真田家は昌幸だけでなく、信之・信繁の兄弟も従軍していた。
3人は下野犬伏の陣で語り合い、
昌幸と信繁は西軍、信之は東軍に味方することを決めた。
信之の妻は家康の重臣・本多忠勝の娘であり、
信繁の妻は西軍に与した大谷吉継であることも理由だった。
それ以上に昌幸は家康の下風に立ちたくなかったのであろう。
昌幸と信繁は陣払いをし、居城のある上田を目指した。
家康は評定の席上で約束した通り昌幸、信繁に追撃をかけなかった。
好き嫌い激しい耳を持て余す 新家完司
小松姫
犬伏の別れ後、沼田城に立ち寄った昌幸らを甲冑姿の小松姫が、
門前払いした逸話を元に描かれた肖像画。(大英寺所蔵)
そして昌幸は上田に帰る前、
少数の兵とともに信之の居城である沼田城に立ち寄る。
理由は「今生の別れに孫の顔を見たい」というのだ。
だが城を預かっていた信之の妻・小松殿は、
「例え義父様でも敵味方、主人の留守中にそのような方を
城内に入れることはできませぬ」
と拒絶したのだ。
それを聞いた昌幸は、
「さすがは徳川家中にその人ありと謳われた本多忠勝殿の娘。
武士の鑑である」と賞賛。
近くの正覚寺で一夜を過ごした。
翌朝、子どもを連れた小松殿が正覚寺を訪れた。
祖父と孫の対面は無事に行なわれたのである。
言い訳はよそう余白はあと少し 上田 仁 [3回]
PR
鼻をみただけで飲兵衛だと分かる 新家完司
(画像は拡大してご覧下さい)
「戦国四方山話ー③」
「幸村は焼酎好きだった」
酒には大きく分けて「醸造酒」と「蒸留酒」がある。
焼酎はウイスキーやブランデーと同じ蒸留酒である。
焼酎の正確な起源は分かっていないが、
11世紀頃には、中東や東南アジアなどで作られていたといわれている。
日本に伝わったのは14~15世紀頃と考えられ、ルートには諸説ある。
一つはシャム(タイ)から琉球経由で日本全土にもたらされたとする説。
琉球と交易があった朝鮮王朝の歴史書・『李朝実録』に、
15世紀後半に、すでに琉球に蒸留酒があったことが記されている。
発酵は爪の先から始った 立蔵信子
一つは、15世紀の初めに朝鮮の太宗から対馬領主・宗貞茂へ
送られた焼酎があり、やはり「李朝実録」にその記述が見られるという。
スペインの宣教師・フランシスコ・ザビエルは、天文18年(1549)
布教のために初めて日本の地を踏んだが、その3年前、
ポルトガルの商人・ジョルジュアルパレスが薩摩を訪れている。
アルパレスは、ザビエルの依頼で書いた日本についての報告書の中で、
日本人が米から作る蒸留酒「オラーカ」を飲んでいると記している。
オラーカは、アラビア語の焼酎を意味する「アラック」に由来する。
まばたき三回しっかり水気切りました 笹田かなえ
永禄2年(1559)の八幡神社(鹿児島県大口市)の改修工事の際に、
塗り込められた「焼酎」に関わる木片が見つかっている。
これが、「焼酎」の文字が使われた一番古い記録といわれている。
「永禄二歳八月十一日 作二郎
鶴田 助次郎
其時 座主ハ大キナこすでをちやりて 一度も焼酎ヲ不被下候。
何共めいわくな事哉」
(ここの主人は大変ケチで、一度もねぎらいの焼酎を一杯も飲ませて
くれなかったと工事に関わった大工が愚痴って書いたもの)
※ この頃の焼酎は米焼酎で芋焼酎が出てくるのはこれから150年後。
焼酎の湯割りに塗す今日の瑕 通 一遍
真田幸村はよく知られている通り、関が原の戦いの際、
父親の昌幸と西軍に加わり信州上田城で徳川秀忠と戦った。
本線で味方が敗れたため、父子ともに処刑されるところであったが、
東軍にいた兄・信之の奔走によって助命され、
高野山の麓・九度山配流された。
ここで慶長19年(1614)に大阪に入城するまでの年月を過ごすのだが、
その間、幸村から真田家に宛てた書状が何通か残っていて、
信之の家臣・河原左京という人に出したものがある。
空き部屋があります 頭の中心に 浜 知子
書状の主な内容は、「この壷に焼酎をつめて賜りたい」というものである。
「お手持ちがなければ、ついでのときで結構だが、壷の口をよく締めて、
紙で貼って欲しい」
などと細かい注文がある。
以前もらったときに、気が抜けてしまったことがあったのだろう。
追伸にも「焼酎の儀 頼み申し候」と再度の要望があり、
幸村は相当な焼酎好きであったようである
お月様を味わったのはどなたです 和田洋子 [6回]
臍は出すもの心は奥に仕舞うもの 河村啓子
天正大判
1588年に豊臣家より発行された大判。純金165gで作られており、
戦国後期には非情に珍しかった。
江戸時代には慶長大判と並行して使われていた。
「戦国よもやま話ー②」
「高台院と三成」
豊臣秀吉の正室・高台院。秀吉が没し、未亡人になってからの彼女は、
石田三成と仲が悪く、「関が原の戦い」でも、東軍の加藤清正らと
通じていたとされているが、近年、この解釈に疑問が唱えられている。
通説では豊臣家の将来を見かねた高台院が、徳川家に頼って
生きていくことに決め、加藤清正や福島正則、小早川秀秋らに
関が原の戦いで東軍に加担するように仕向けたとされている。
これで豊臣政権を守るために挙兵した三成の立場をなくしたわけだ。
だが昨今、高台院X三成親密説が浮上してきているのだ。
2人が親密だった論拠はいくつかある。
かもめーる ほんとのことは積み残す 岡谷 樹
まず、三成の娘が高台院の養女になっていたこと。
険悪な仲であればこの関係は考えにくい。
次に、高台院の甥、兄弟の多くが西軍として関が原の戦いに参加し
領地を没収されていること。
高台院が東軍に通じていたとするなら、秀秋以外の救済にも、
手を回しただろう。
そして、親密だったとされる高台院と東軍の加藤清正の関係だが、
これも信憑瀬のある資料はない。
臍の緒が鼠の餌になっていた 新家完司
では何故、不仲説が流れていたのか。
それは徳川幕府成立後に、「三成を悪人に仕立て上げよう」とする
動きが、あったことに起因している。
豊臣家滅亡後もその存在を認められていた高台院に対し、
三成は徳川家に生涯刃向い続けた人物。
三成を悪とし高台院と不仲だったことにすれば、
都合がよかったのである。
1トンの四角い夢にうなされる 井上一筒
「直江兼続と伊達政宗」
上杉家家臣として上杉景勝の側近を務めていた直江兼続は、
家康を激怒させた「直江状」の筆者としても有名で、
真面目で義と愛に篤い人物だった。
対して政宗は伊達家から奥羽きっての戦国大名にのし上がった人物で、
華美な様相を好む派手な男だったと知られる。
いかにも噛み合わなそうなこの2人、やはりというか実はというか、
仲の悪さを示すエピソードをいくつか残している。
その時代嘘は手頃な値であった 中野六助
兼続が景勝の代理として大坂に上った際、
大名が集まる間で政宗が大名たちに「天正大判」を見せびらかしていた。
やがて兼続のもとにもそれが回ってきたが、
兼続はそれを素手では触らず、開いた扇子に乗せて眺めていた。
それを見た政宗は兼続が遠慮しているのかと思い、
「苦しゅうない、手に取られよ」と声をかけるが、
兼続の口から返ってきたのは、とんでもない言葉だった。
「ご冗談を、不肖兼続の右手は先代謙信の代より上杉家の采配を預かる身。
左様に不浄なものに触れるわけには参りません」
そうして兼続は、その大判を政宗の膝元に投げて返したという。
手始めに青首大根真っ二つ 安土里恵 [4回]
|
最新記事
(03/30)
(03/23)
(03/16)
(03/09)
(03/02)
|