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川柳的逍遥 人の世の一家言
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波打ち際の演出である砂の城  山口ろっぱ


  名護屋城図屏風 (拡大してご覧下さい)

5層7階の天守閣とともに、周囲には130カ所余りの陣屋が築かれ、
巨大軍事都市が形成された。


   「東槎録」(とうさろく)

1596年に明国使節とともに来日した朝鮮国使節・朴弘長の日誌。
名護屋城が7層(実際は5層7階)の天守閣だったことや、
城下町の繁栄の様子を書き留めている


  文字瓦
 
名護屋城跡から出土した「天正十八年銘文字瓦」


火遊びで生命線が砕け散る  上田 仁

「朝鮮出兵」

天正18年(1590)天下統一を果たした秀吉は、

翌19年に朝鮮出兵を決意し、


全国の武将たちに新たな戦の準備を整えるよう命じた。

一方、出兵するための軍事拠点となる城の築城にも着手し、

肥前国名護屋の東松浦半島の波戸岬に、「名護屋城」が築かれた。

城は全国各地の諸大名の割普請によって築城が進められ、

わずか3ヶ月で完成させたという。



秀吉が名護屋城に居住したのは、凡そ1年半程だったと言われているが、

全国の諸大名も集結したこの時期の名護屋城は、

まさに日本の政治経済の中枢になっていたともいわれる。

城の周辺には大名や家臣だけでなく、商売を営む者や

様々な生活に必要なサービスを提供する人たちが集まり、

ピーク時には20万人以上の人々で大変な賑わいだったという。

5階から入道雲に触れます  井上一筒


  朝鮮出兵の絵

「文禄・慶長の役」

文禄元年(1592)4月、15万を超える軍勢が対馬海峡を渡り、

朝鮮半島に上陸した。

秀吉の朝鮮侵略の開始であり、「文禄の役」の始まりである。

このあと一度引きあげて再び慶長2年(1597)に再征しており、

これを「慶長の役」とよんでいる。

2度にわたる侵略によって、朝鮮は大きな被害を受けた。

秀吉による大陸侵略は、「名誉欲にかられた秀吉の愚挙」とか、

「思い上がりが生んだ無謀な戦い」と言われることが多いが、

秀吉は、なぜこの時期、朝鮮への侵略戦争をはじめたのか。

大きく振り被った次の音  蟹口和枝

これにはいろいろな説が語られる。

 秀吉が朝鮮出兵を言い始めた一番早い文献は、

秀吉が関白に任官した2ヶ月後の(天正13年9月13日付)秀吉文書である。

そこに、


「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候 心に候か」

とある。分かりやすく言えば、秀吉は、 

「関白として、日本全体の統一支配だけでなく、唐国までも、

そのようにせよと命令された」と解釈をしたのである。

夢を見てばかり掛け算してばかり  竹内ゆみこ

② 秀吉の朝鮮出兵の理由を江戸時代の儒学者・林羅山は、

「愛児鶴松が死に、その悲しみからのがれるために、決意した」

と言っているが、先述の通り、秀吉が朝鮮侵略の意図を口にしているのは、

鶴松の死よりもはるか以前、天正13年のことだから、

この林羅山の考え方は成り立たない。

眼鏡のせいだろう小さな勘違い  山本昌乃

 秀吉がポルトガルの侵略と対決するため、

日本統一を国際的環境のもとで推し進める必要があり、

秀吉自身、せまい日本の支配者としてのみ振舞うことが、

許されなくなったというもの。


声高に正義と胡散臭い顔  猫田千恵子

④ 秀吉の頭に、そろそろ、日本統一後のことがちらつきはじめた。

封建的主従制を保つ手段として、「御恩と奉公」の関係がある。

「諸大名たちは、恩賞をもらえるから自分についてきているのだ」

という、認識を秀吉は、もっていたはずである。

その裏返しとして、

「与える恩賞がなくなったとき果たして彼らは自分についてくるだろうか」

という不安をもった。

それゆえ秀吉は、九州征伐・関東征伐・奥羽征伐が、終わったあとも、

さらに、明にまで攻めていくことも、構想していたものと思われる。

終章は神に逆らうかも知れぬ  太田扶美代

 ほかには、秀吉が、天正18年に秀吉が朝鮮国王に伝えた言葉。

「予の願いは他に無く、只、佳名を三国に顕すのみ」 に見るように、

秀吉の名誉心、功名心、野望が侵略戦争を招いたという人もいる。

また、秀吉が朝鮮出兵の前に、明への陸路ルートにある朝鮮に対して、

服属と明出兵の先導をつとめることを要求した。

が、「朝鮮はこれを拒否した」というのも、理由のひとつにある。

いかなごとクロスワードを埋めている 赤松ますみ

何はともあれ、「天下を統一した」とはいっても、

世の中には、戦国の風潮、
「下克上の時代」を知る者が、

多数生き残っている。


秀吉の心配の種は尽きなかったのである。

なお、秀吉自身は、慶長の役の最中、慶長3年(1598)8月18日、

に没している。

秀吉死後、秀頼が相続するが豊臣政権は急速に瓦解していく。

朝鮮出兵が、豊臣政権の屋台骨をガタガタにしていたからである。


浮雲ごときに憧れてしまった  雨森茂樹

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帰還したのは竹薮に捨てた足  井上一筒


  橋立の茶壺

「利休の死」

利休が持つ数々の茶道具の中で「橋立の茶壺」は彼が最も愛した一品。

それを知った茶好きの秀吉は、自分の立場を利用して利休に、

「それをよこせ」 と強引に望んできた。

しかし利休は秀吉がいくら望んでも、橋立の茶壺は手離さなかった。

これを渡さなかったことが、秀吉の勘気を買い利休切腹の一因に、

なったとも言われている。


   千利休 

始発から執着駅のフィクション  堀冨美子

千利休という名は、天正13年(1585)10月の秀吉の禁中茶会で、
おおぎまちてんのう
正親町天皇から賜った居士号であり、

それまでは「千宗易」という法名を名乗った。

利休は、わび茶の完成者で、「茶聖」と称された。

わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、禁欲的で緊張感のある茶。

その世界を追求するため利休は、草庵と呼ぶ「二畳の茶室」を創り、

また「楽茶碗」、「万代屋釜」、「竹の花入れ」などの

「利休道具」を考案し、露地の造営にもこだわり、

茶の湯を、「一期一会の芸術」にまで高めたのである。

点す部屋消す部屋風の階のぼる  田中博造

一時期、利休は聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関わり、

禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

天正15年(1587)の「北野大茶会」を主管し、

一時は、秀吉の重い信任を受けていた。

しかし、天正18年(1590)、秀吉の弟・秀長が死去した辺りから、

秀吉と利休の関係がおかしくなってくる。

同年、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が秀吉への口の利き方が悪いとされ、

即日処刑された。

『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、

   その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。(久保利世が自叙伝・「茶説・茶話」)

そして、この事件から、秀吉と利休の間に、「思想的対立」がはじまる。

からまった糸蒟蒻になじられる  野口 裕


    黒楽茶碗       瀬戸黒茶碗

利休は、晩年の天正18年から天正19年にかけて、

「百会の茶会」を開いた。

徳川家康毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、大徳寺の禅僧など、

多様な人々が出席した。

そして、この茶会には利休七種にもあげられる「赤楽茶碗・木守」や、

利休愛用の「橋立の茶壷」などの道具を用いた。

1月13日の茶会では、黄金の茶碗を所望した秀吉に、利休は、

「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、

    禁欲的で緊張感のある茶である」 と主張し

あえて『黒茶碗』を出した。 これが、秀吉の勘気に触れた。

黄金の茶室と利休についても、

「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は、相反するもの」

と利休は持論を述べた。

 阿と吽の隙間泣いたり笑ったり  古田祐子


    利休の手水


 その10日後の22日、秀吉の弟・秀長が病没する。

秀長は諸大名に対し、

「内々のことは利休が」「公のことは秀長が承る」

と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。

秀長は秀吉のそばにあって、唯一利休の理解者で後ろ盾であった

それから、1ヵ月後の2月23日、突然、秀吉から、

「京都を出て 堺で自宅謹慎せよ」 

と利休に命令が届いた。

止められぬ時の流れがごうごうと  岡田幸男

     
   大徳寺山門

千利休は、山門の閣を増築し二層とし、自らの像を安置する。
秀吉はこれに怒り、寺を破却しようとしたが、宗陳に止められる。 

2月25日、利休の木像が聚楽大橋に晒され、

翌26日、上洛を命じられる。

前田利家や、利休七哲の古田織部、細川忠興ら、

大名である弟子たちは、大政所北政所が密使を遣わし、

命乞いをするから、秀吉に詫びるようすすめた。

しかし利休は、「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、

 御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」  と断った。           
                                 よしや
それから3三日後の、2月28日、利休の京都葭屋町の屋敷に、

秀吉の使者が訪れ、「切腹せよ」の伝言を持ってくる。

この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。

ザンゲする命を止めておく画鋲  上田 仁

使者に最後の茶をたてた後、利休は静かに口を開いた。

「茶室にて茶の支度が出来ております」

そして、利休は一呼吸ついて切腹をした。  

利休は、天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、

粛々と受け入れることで、信長や秀吉の上に立ったのである。 

享年70歳。

「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」

【人生七十  力囲希咄  吾這寶剣  祖佛共殺   
 堤る 我得具足の一太刀 今此時ぞ  天に抛 】

(じんせいしちじゅう りきいきとつ  わがこのほうけん  
   そぶつともにころす ひっさぐる わがえぐそくの   
    ひとたち  いまこのときぞ  てんになげうつ)             

血液はサラサラですが生き下手で  山本昌乃              


 利休の二畳の茶室 (国宝)

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、

利休と同じ作法で食事をとったり、

利休が好む「枯れた茶室」を建てさせたという。

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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天狗の鼻がポキンと折れて夜が明ける  上田 仁

 (拡大してご覧ください)
  小田原包囲網

城の周囲ばかりでなく、海上までびっしりと包囲された小田原城。
秀吉は石垣山城にあって、日々歌舞音曲を楽しみつつ城方の自滅を待った。

「小田原征伐で激戦を演じた武将」


   
北条氏康

「大日本名将鑑」に描かれている
北条氏三代目当主・氏康。
信玄や謙信、今川義元と渡り合った知将であった。


「北条氏康」

北条氏三代目・北条氏康は、北条早雲の孫であり、氏政の父である。

生涯三十六度の合戦で、一度も敵に背を見せたことがない。

受けた傷は全て身体の前面につく「向こう傷」だったといわれている。

これが「氏康の向疵」といわれるものである。

同期では、信玄・謙信・今川義元らと戦って、不敗を誇る名将である。

一方で氏康は政治家としても非常に優秀であり、

他の大名家に先駆けて「検地」を実施し、通貨を統一し、

経済改革に努めている。 
北条家には、

 「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」

という家訓が代々あり、氏康 の統治は、まさにそれを表したものであった。

くすぐると腹を抱えて笑う幹  森田律子

永禄4年(1561)、越後の上杉謙信が関東管領職についてから、

関東を一円に支配するため、謙信は北条家に毎年の様に進攻してきた。

また長年敵対していた房総半島の「里見家」とも戦い、

今川義元の死後に三国同盟が解消されると、武田家 も進攻してくる。

また かつて撃退した 「山内上杉家」なども北条への敵対行為を続けており、

まさに四方から外敵の進攻を受けるような状態であった。

こうした事情から、氏康は堅牢な城の必要性を考え、

難攻不落の巨城・「小田原城」を築いたのである。

柔らかに月光三小節目のメンソーレ  山口ろっぱ

「成田長親」

忍城主の成田氏長は北条方に与していて、

小田原征伐が始ると手勢を引き連れ小田原城に籠城。
                           やすすえ
「忍城」は長親の父で氏長の叔父にあたる泰季が城代となった。

しかし防衛戦が始るとすぐ泰季は病死し、代わって長親が指揮を執る。

籠城方は長親配下の5百騎と武装した農民兵を合わせて約3千で、

豊臣方5万の大軍を防いだ。

戦後は氏長とともに会津の蒲生氏郷の元に身を寄せたが、

氏長と不和になり、下野国烏山で出家して暮らす。

晩年になると尾張で隠棲している。

歌うには足場が少し低すぎる  森田律子



小田原城外郭には北条氏時代の空堀や土塁も残されている。
北条時代は大坂城を凌ぐ規模の惣構えを持つ城郭であった。

「大道寺政繁」

後北条氏家中で「御由緒家」と呼ばれていた家柄。

これは後北条氏を興した伊勢新九郎(北条早雲)が駿河に向かう時、

従兄弟の大道寺重時のほか5人の同輩が同行する。

その出発に際して、7人は伊勢で神水を酌み交わし

「誰かひとりが大名となったら、他の者はその家臣となる」

誓い合ったのである。

そして新九郎が戦国大名として独立すると、

他の6人は御由緒6家として仕えた。

墓石の裏に紋白蝶を結ぶ  くんじろう

大道寺氏は代々、北条家で重きを成していたが、

政繁は北条氏康、氏政、氏直の三代に仕え北条を支えた。

秀吉の小田原征伐が始ると、信濃国に近い上野国の松井田城の守将として、

前田利家、上杉景勝、真田昌幸らが率いる大軍を迎え撃つ。

圧倒的な戦力差の前に碓氷峠での迎撃戦を回避し、

松井田城での籠城戦を展開、約一ヶ月に渡り豊臣軍を防いだ。

しかし水脈を断たれ、本丸にも敵兵が迫ったため開城。

その後は「忍城」、「八王子城」へと転戦する豊臣軍の道案内を務める。

八王子城攻めでは、自身の軍勢を率いて果敢に働いた。

しかし戦後、秀吉から開城の責任を問われ、

北条氏政、氏照らとともに切腹させられる。

前ぶれはほんの小さな風の音  桑原すず代


  石垣山一夜城

関東に築かれた本格的な石垣の城。小田原城から見えないように築き、
完成後に周囲の木を伐採したため一夜城と呼ばれた。
今も随所に石垣が残るが、関東大震災時に崩れている。

「北条氏照」

北条氏照は四代目・氏政の弟で文武両道に秀でた聡明な人物として伝わる。

16歳で初陣を飾り、以来一生を通じ勝戦が36度もあったという豪の者。

また織田信長徳川家康、伊達政宗らと親交を結ぶなど、

政治外交手段にも優れていた。

最初は滝山城城主の大石定久の養子となり、

「滝山城」と武蔵守護代の座を譲られている。

永徳2年(1559)には家督を譲られ、滝山城に入城する。

当時の支配地域は八王子を中心に北は五日市から青梅、飯能に至るまで、

南は相模原、大和、横浜の一部にまで及ぶ広大なものであった。

行く末はどうであろうとも帆をあげる  笠嶋恵美子

永禄11年(1568)には武田信玄に率いられた2万の大軍を撃退する。

その際に滝山城の防備に厳戒を感じたため、深沢山に堅固な山城を構築した。

これが八王子城で、天正15年(1587)頃には、ほぼ完成する。

「小田原征伐」の際は、ここで秀吉軍を防ぐ計画であった。

しかし秀吉軍が小田原城に迫ると、本家の命で氏照は4千の城兵とともに、

小田原城に詰めることになった。

城主不在の八王子城は、激しい抵抗を見せるも反日で落城。

小田原城も包囲されてから3ヶ月後に降伏、開城する。

秀吉は氏照も主戦派のひとりと見なしていたため、

兄の氏政らとともに切腹を命じられた。

お月さまも畳の縁は踏まないで  釜野公子

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裁かれた後にひとりぼっちの闇  勝又恭子


小田原征伐秀吉と家康

「北条氏滅亡」

上野国に生じていた小さなわだかまり(名胡桃城事件)が、

ついに天下の軍勢を関東に引き寄せる大戦の要因となった。

だが北条方としても、関東制圧を進めているころから、

上方の豊臣政権を意識していたようである。

その証拠に、秀吉の軍勢と一戦に及んだ場合を想定し、

早くから15歳から70歳までの男子を対象とした徴兵令を布告。

さらに寺から梵鐘を供出させ、これを大砲に鋳造するなどして、

戦闘への準備を着々と進めていた。

また小田原城の拡張工事だけでなく、東海道筋にある山中城

韮山城の整備、さらには箕輪城や松井田城、鉢形城、忍城といった

関東各地の城砦との連携や整備も進めている。

日の昇る水平線を信じたい  森田律子




秀吉がいくら大軍で押し寄せて来ても、広大な関東各地で釘付けになり、

そのうち兵糧が続かなくなって上方に引上げるであろうと考えていた。

それに北条軍の首脳陣は

「小田原城はかって武田信玄や上杉謙信の軍を跳ね返した難攻不落の城。

    秀吉ごときに落とせるものではない」

と自負していたのである。

アカンタレやのに「へちょ」がでしゃばる 山口ろっぱ

しかし、秀吉の下した陣触れは、

それ以前の戦いのスケールをはるかに凌駕するものであった。

まず傘下の大名には、その領地の石高に応じた人的負担を下した。

また奉行の長束正家に命じて米や雑穀を合わせて20万石を徴発させた。

馬蓄やその餌となる穀物も、天正大判で1万枚分も集めている。
                    くきよしたか
これらの物資は、長宗我部元親九鬼嘉隆らが率いる水軍が輸送。

兵站線が伸びきって、すぐに兵糧不足になると予測した北条方にとって、

すべてが想定外のことだった。

そして小田原征伐に参加する豊臣軍は大きく二つの軍団に分けられていた。

秀吉自らが率いる本隊に徳川勢を加えた約17万の主力軍は東海道を進軍。

東山道は前田利家を主将に上杉景勝真田昌幸らの隊約3万5千が進む。

これに対して北条方は、小田原城に5万を超える精鋭部隊を集めていた。

そして豊臣軍の主力が進軍してくることが明白な箱根山中での持久戦を

想定した戦略を立てていた。

だが、あまりの兵力差に北条方は籠城戦に切り替えている。

捉まえた尻尾くんくん嗅いでみる  小谷小雪


    鉢形城

多くの城がさしたる抵抗を見せずに落城した中、
約一ヶ月に渡り北方隊をひきつけた北条氏邦の守った城。
荒川と合流する深沢川が堀の役目を果たし、大規模な空堀や
土塁が縦横に張り巡らされていた。


戦いの様子を見てみると、

天正18年3月29日に進撃を開始した約7万の
主力は、

東海道筋にある山中城を数時間で落とした。


伊豆にある韮山城には織田信雄の軍を主力にした約5万の兵を差し向けた。

箱根周辺にあった鷹ノ巣城や足柄城は、徳川勢によって次々に攻略された。

水軍部隊は西伊豆沿岸に点在する伊豆水軍の砦を撃破。

下田城も攻略して小田原沖に展開する。

こうして小田原城の包囲網が完成すると、秀吉は北条方の戦意を削ぐため、

小田原城を見下ろす笠懸山に本格的な石垣の城を築いた。

小田原城の籠城軍は一夜で城が出現したかのような錯覚を覚えたという。

このことからこの城は「石垣山一夜城」とよばれるようになった。

生と死の狭間でちろちろ泣いている  合田瑠美子


 初代早雲  二代氏綱    三代氏康  四代氏政

籠城戦が長引くと、秀吉は上方から茶人の千利休や側室の茶々

諸大名の妻女らも呼び寄せ、石垣山城内で連日茶会や猿楽などを催した。

その歌舞音曲の音色は、小田原城内にも聞こえたといわれている。

秀吉はまた、しばしば城を抜け出し、

箱根方面の湯に浸かりに行ったりもしている。


こうした富と権力、さらに余裕を見せ付けることで、

篭城兵を圧迫していった。


北条方が頼りにしていた鉢形城に続いて6月23日には八王子城も落城する。

同盟関係にあった奥州の伊達政宗も秀吉の陣に馳せ参じ、恭順を誓った。


   5代氏直


そして城方からも寝返る者が続出したため、

城主の北条氏直は7月5日自らの切腹と引換えに、城兵の助命を申し出た。

ここに関東の雄・後北条氏は五代目氏直で滅亡したのである。

私には空き缶だけが残される  前中知栄

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鵺の皮着て兎の耳つけて  井上一筒


  模擬御三階櫓

小田原征伐の際、もっとも果敢に戦ったのが忍城であった。
城主は小田原城に籠っていて留守であった、にもかかわらず、
一ヶ月に渡り城を守り、小田原城が落ちてもなお開城していなかった。
城は明冶になるまで残っていた。

「忍城と三成の戦下手」
                                       おし
秀吉による北条征伐の中で、最後まで落城しなかったのが「忍城」である。

ここは代々成田氏が居城としていて、沼や河川を有効に利用し、

「関東七名城」に数えられるほどの堅城であった。

小田原攻めが決定した時、北条方に属する忍城城主の成田氏長

弟・長忠は小田原城に詰めることになった。
                    やすすえ
忍城には氏長の叔父である成田泰季とその嫡男の成田長親

氏長の長女の甲斐姫らが籠城した。

痩せ馬の眼はまだ天空を駆ける  竹内いそこ

北条方の支城を次々と落とし、小田原へと進軍を続ける豊臣軍。

忍城攻略部隊の大将には石田三成が任じられていた。

三成に率いられた軍勢は3万とも5万ともいわれる大軍であった。

一方忍城に籠城しているのは、近隣の農民兵を合わせても僅か3千ばかり。

三成は丸墓山古墳に本陣を置き、まずは正攻法で忍城に押し寄せた。

しかし、沼や河川が堀代わりになり攻め口が少ないうえ、

城兵の士気が高く巧妙な戦いぶりを見せるため、三成は攻めあぐねた。

だが戦いが始るとすぐ、籠城軍の軸であった成田泰季が病死してしまう。

以後、指揮は成田長親が執ることになった。

耳寄りな話棚から落ちてくる  中川隆充


   忍城鳥瞰図

三成は城攻めが滞ってしまったことで、

周囲の地形を考慮して、水攻めを行なうことにした。

三成は近隣の農民らを米や金銭で雇い、

僅か5日間で全長28kmにもなる
「石田堤」を完成させ、

そこに利根川の水を流し込んだのである。


だが水量が足らず、本丸が水に沈むことはなかった。

まるで水のうえに浮んでいるように見えた為「忍の浮き城」とも呼ばれる。

それでも雨が降り続くと、水は本丸まで迫ってくるため、

夜間に城から抜け出した2人の決死隊が堤防を破壊。

その結果、溜まっていた水が豊臣方の陣所へ一気に流れ出し、

約270人が溺死する事態となってしまった。

さらに悪いことに忍城の周囲は泥沼のようになり、

人も馬も近寄れなくなってしまったのだ。

夕間暮れ二足歩行は隙だらけ  青砥和子

それを見かねた浅野長政、真田昌幸・信繁父子らが、援軍として着陣する。

すると城側から内応の申し出があった。

だが手柄を横取りされるのを嫌った三成は、

嘘の情報を長政に伝えて散々な目に遭わせてしまうのだ。

その上で三成は総攻撃を決定。

そこでも功を焦った三成の抜け駆けが災いし、

豊臣軍はバラバラに攻撃を仕掛け、各攻め口で敗退を喫してしまう。

矢印に従えとある帰り道  山本早苗

小田原攻めから7ヶ月を経た7月5日、

北条氏直が自らの切腹と引換えに


「城兵の命を助けて欲しい」という申し出があり、

小田原城の籠城軍は降伏、開城するに至る。

小田原落城とともに成田氏長は忍城に使者を出し、

城の明け渡しを促した。


北条方に属する城で落城していなかったのは、忍城だけであった。

天辺のちょっと手前で裁かれる  岩根彰子

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