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川柳的逍遥 人の世の一家言
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打たれ傷見えぬ角度に席をとる  安土理恵

「真田昌幸の決断」

真田昌幸はかつて武田信玄と戦い、

滅亡した城主や討死将兵の無残な姿を
見続けてきた。

その惨状から得たものはただひとつ、強かに生き延びることであった。

討死を選ぶより、第一に生きる手段を模索し、

窮地に追い込まれたときの
決断の決め手としたのである。

生き残るため、少ない兵力で戦うには、

謀略をめぐらし調略を仕掛ける必死の戦略を展開した。

昌幸が生き延びるための手段とした身の処し方は、卑怯ではない。

いわば、戦国武将の常套手段だが、

ただ実に巧みであり成功させている事実から「謀将」などと呼ばれた。

家系図にしっかり残す蒙古斑  笠嶋恵美子

武田家滅亡に至る過程で、昌幸の行動が忠臣として語られている。

武田家が存亡の危機にあるとき、昌幸が武田勝頼に岩櫃城に

避難させようとした話である。

勝頼や重臣の賛同も得られ、昌幸は天正10年(1582)2月28日、

勝頼を迎える屋敷建設を理由に、軍議中の上原城を発ち岩櫃城に戻った。

だが岩櫃城避難は中止となる。

ここに昌幸が胸中に秘めた決断が見える。

ゆらゆらとふらつくことが基本形  伊東志乃

武田家の滅亡は明らかだった。

穿った見方をすれば、勝頼の側近として、

お側にあれば、武田家と滅亡をともにすることになる。

昌幸は家を守るためにも、生き延びなければならなかった。

そこで疑われなくてすむ、

岩櫃城での屋敷建設を理由に勝頼から離れた。


なにより、武田討伐の総大将・織田信長と戦わなければ、

心証もよく、命は助かる。

勝頼の避難中止を知ると昌幸は、

新府城に人質同然の妻と長女、信之、信繁の救出に向かわせた。

昌幸の決断は誰にも悟られず、美談を残して生き延びたとしか思えず、
                    ちいさがた
その結果、思惑通り信長より、小県郡と吾妻領を安堵された。

生きてゆく宇宙人など待ちながら  小川佳恵

その一方で、昌幸は武田氏が危急依存謀のときを迎えている間に、

北条氏重臣・八崎城主・長尾憲景を介して、

二度にわたって北条氏への帰順を打診している。

北条氏邦から昌幸の申し入れを歓迎する旨の書状が届いた日付けは、

勝頼自刃の翌3月12日、即ち、

勝頼の死の以前に帰属を打診していたことになる。

                      へき
この昌幸帰属の実務を担ったのは日置五左衛門という人物だった。

五左衛門は昌幸の命令を受けて北条氏の陣に赴き、

「麾下に属すべき由」を申し入れた。

これに氏直がどれほど喜んだかは、

彼がこの五左衛門に西上野の小島郷をあたえたことでもわかる。

さまよっている転調を繰り返す  竹内ゆみこ

26日、昌幸は北条氏に人質を提出する。

ここでも北条氏は大いに喜び、

窓口となった矢沢頼綱に高井郡井上で千貫文の土地を与えている。

しかし、昌幸の目は常に周囲を油断なく観察していた。

結局、昌幸は織田氏に臣従したが、

直後の6月2日に本能寺で信長が急死するという事態が発生。

信濃は北条氏だけでなく徳川家康も狙っており、
          のぶしげ
武田旧臣の依田信蕃を派遣して国人衆の切り崩しをはじめさせている。

さらに北からは上杉景勝が川中島に兵を出し、景勝自ら馬を進めてくる。

旧武田領は無主の地として徳川氏、上杉氏、北条氏の草刈場と化した。


「天正壬午の乱」と呼ばれる争乱の中、昌幸は6月、上杉氏に従属。

7月、上杉氏から離反し北条氏に従属。

10月には家康に従属し北条攻めに参加。

なぜ真田が生き延びることができたのか、そのひとつひとつを糾していくと、

知られざるリアルな昌幸の顔が見えてくる。


借景をヒタヒタしてる蟹歩き  岩根彰子

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なぞなぞは解けたが記憶は点滅  山本昌乃


   真田三代  (拡大してご覧下さい)

戦国時代に登場する人物の名前は覚えにくいし分かり難い。
例えば、今回の大河「真田丸」ひとつ取り上げてみても、真田では
真田幸隆、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信幸、真田信繁、
真田信尹、真田幸昌、真田昌親の名が出てくる。北条では氏政、氏直
上杉は憲政、景勝。本多では正信、忠勝などなど。
また、誰と誰がが主従関係、どれが敵対関係、加えて昨日の味方は
今日の敵という裏切りありで、思考回路はグッチャグチャ。まさに、
洋画に
登場するカタカナの役名に匹敵するほど覚えられませんね。
そこで大河
を分かり易く見るために『真田家に関わる人々』を記す。

梟のボス目ぐすりが離せない  美馬りゅうこ


「真田信繁(幸村)」
真田昌幸の二男。祖父・父・の血を引く智謀に加え、逆境に決して屈し
ない闘士をあわせもつ。大阪夏の陣では徳川家康の本陣を突き崩した
戦国最後の英雄と称えられる。大河「真田丸」の主人公でブログには、
再々登場するので、信繁の説明はこれだけにて御免蒙る。

ふるさとを見たくて高い木に登る  合田瑠美子


  真田幸隆(真田信繁の祖父)
信濃・真田郷を本領とし平安時代から信州小県郡を統べる豪族・海野
の血縁とされる。村上・武田氏らの侵攻で一度は本領を飛び出した
ものの、
武田信玄にスカウトされて信濃に戻り、武田に加担するよう
土豪たちを調略。
天文20年には、信玄も攻め落とせなかった砥石城
を奇襲で乗っ取っている。
「智略の真田」の礎を築いた。

大波のうねりに乗って来たゆとり  井澤壽峰


 「真田信綱」 (信繁の叔父)
幸隆の長男。武田家の侍大将。三尺三寸あまりの大太刀をふるって
24将のひとりに数えられるほどの豪勇の士で川中島合戦や岩櫃
城攻めで
奮迅。三方ヶ原の戦いでは、徳川家康を討ち取る寸前まで追
い詰める活躍
を見せた。父・幸隆が死去すると家督を相続したが長篠
合戦で織田・徳川
連合軍に突進し、銃撃されて戦死する。

トンネルを逆に抜ければ春なのに  真鍋心平太


「真田昌輝」 (信繁の叔父)
幸隆の次男。兄と同じく真田姓を名乗る侍大将。信玄の先鋒の一番手を
つとめたことから勇猛果敢・猪突猛進を得意としたようで、50騎の長
として
活躍。信玄の子・勝頼の家臣・相木市兵衛の娘を正室としたが、
天正3年、
長篠合戦で自ら首二級をとったあと、兄・信綱とともに討ち
死にしている。


安全神話誰がおめおめ聞くものか  都倉求芽


「真田昌幸」 (信繁の父)
幸隆の三男。幼少から人質として武田家に預けられ、信玄のもとで武将
としての才を開花させる。武藤家の跡取りとして養子に入ったものの、
兄二人を長篠合戦で亡くしたことで、期せずして「真田家」を継ぐ。
信玄と
いう統率者を失った空白の地に押し寄せるという窮地の連続にも、
的確
に時勢をとらえ、乱世をわたり歩いた智謀の武将。

カベというカベに大判サロンパス  雨森茂喜


「真田信之」 (信繁の兄)
昌幸の長男。武田家で育つが、武田家が滅亡後、父を追って上田へ。
武力・智略だけでなく、その血筋に流れる生真面目、反骨・一徹・頑固
という一面を有し表面は柔らかく、その内面は質実剛健な人となり。
また卓抜した政治力もかねそなえ、こうした信幸がいたからこそ、真田
家は戦国から徳川時代までの300年間を生き残れた。

私のどこを押しても灯がともる  嶋沢喜八郎

    のぶただ
「真田信尹」 (信繁の叔父) 
真田幸隆の四男。昌幸の弟。武田滅亡後は上杉家に仕え、その後、徳
川家に仕え、真田本家とは別行動を取っている。兄・昌幸が北条家から
徳川家に乗り換える際には橋渡しするなどし、また外でも絶えず昌幸の
下に情報を送り続け真田本家が生き残るための助力を分家として惜しま
なかった。

まだ一つも極めていない活きている   田中博造


「薫」 (信繁の母)
真田昌幸の妻。公家出身で武田信玄を介して昌幸と結婚。公家出身で
誇りが強く、 野放図でわがままな癖がなおらず、武家生活との価値観
に戸惑いながらも、昌幸を心から愛した、今風でいえば天然な女性。

つぶれそうな骨なんですのハグはだめ  柴本ばっは


「松」 (信繁の姉)
真田昌幸の長女。夫・小山田茂誠の縁戚・小山田信茂が主君・武田勝頼
を裏切って逆賊となり、茂誠が厳しい立場におかれると、信繁と協力を
して、
匿うなど、まさに祖母・とりの血を継いでいるのだろう、情の篤
い反面、猛々
い男まさりな女丈夫の一面を持つ。

真ん中の積乱雲が私です  森田律子


「とり」 (信繁の祖母)
真田幸綱の妻。信綱、昌輝、昌幸、信尹ら果敢な男子を産み育てる。
家督を
継いだ昌幸をもりたて、その采配を信頼し続けた。「本能寺
の変」後、諸
大名の駆け引きが活発になると、自ら人質に志願。
滝川一益、木曽義昌、徳川家康
人質となるが、常に泰然と構えた。
肝の据わったゴッドマザーである。


不定期に菩薩になっているわたし  田口和代


「梅」 
信繁の妻。
真田の地侍・堀田作兵衛の妹。相思相愛の信繁の子を解任する。
真田
家と堀田家では家格が違うため、母・の反対に遭い、側室として嫁
りする。しかし、信繁が上杉家の人質となってのち、ひたすら信繁の帰
りを待つ
梅を待っていたのは、波乱万丈の人生であった。

単3が三ツ入っている背中  阪本こみち


     しげまさ
「小山田茂誠」 (信繁の義理の兄)
の夫。小山田信茂は主家筋。信茂が勝頼を裏切り窮地にいた時は、
妻・松の助力を得て乗り越える。家康に従ったのち、昌幸に仕え、小県
の村松を与えられた。その後、信幸に仕え、大坂の陣では、病に臥せて
いた信幸の長男・信吉・二男・信政兄弟と共に従軍。信幸が松代移封の
際は松代に居を住し、代々次席家老を務めた。信繁から茂誠宛に出した
況を伝える手紙は、信繁が最後に出した手紙であったという。

羊羹の山が崩れて生き埋めに  井上一筒


「矢沢頼幸」
真田昌幸のいとこ。昌幸が家康から上杉景勝に寝返ると頼幸は上田城の
隣の矢沢城を守り、800人の兵をもって徳川軍を撃退、その混乱に
乗じ
て沼田城に攻め寄せた後北条軍も防いでいる。また信繁が上杉景勝
の人質となる際、小県の武士5騎12名を率いて随行した。関が原合戦
後は信幸に仕え、大阪冬の陣・夏の陣に参陣、活躍している。

無いとアカンのんでしょうかキャラクター 雨森茂喜


「矢沢頼綱」(頼幸の父)
幸隆の弟。兄・幸綱ととともに信玄・勝頼に仕え、上野、名胡桃城、
沼田
城などを攻略。沼田城代となる。武田滅亡後は甥・昌幸に仕え、
沼田領
支配を任される。昌幸が仕える家康から沼田城を北条家に譲
れと迫られ
た際は、城の明け渡しを拒否。そのため北条軍に攻めら
れるが、秘策を
もって撃退した。気骨の人である。

手の平で叩く程度のテロでいい  藤井孝作


「こう」 信幸の妻) 
真田幸綱の長男・信綱の娘。信幸・信繁とは従兄弟。父・信綱は長篠の
戦いで
戦士。こうは乱世の中で真田家の生き残りに心血を注ぐ夫・信幸
を支える。
元来病弱なため、人質候補とはならないが、真田家の役に立
ちたいという
思いはことのほか強い。

逢える日の種なしぶどうを舌先に  奥山晴生


「堀田作兵衛」
信繁の側室・梅の兄。真田の郷の地侍で、村のリーダー的存在。真田家
の忠誠心があつく、中でも信繁と親しく交流。の夫・小山田茂誠
行き
場を失うと信繁に頼まれて茂誠を匿う。また妹の梅が信繁の妻にな
り、
梅の娘・すえはのちに作兵衛が引き取って養育する。人質として各
地を
転々とする信繁を常に気にかけ、信繁が大坂夏の陣に参戦した時、
上田
から大坂城に駆けつけ、奮戦の後討ち死している。

ふるさとを見たくて高い木に登る  合田瑠美子


「高梨内記」
信繁の側室きりの父。昌幸の帰属先が次々と変わる状況に冷静に対応し、
家臣団のまとめ役を務める。妻は信繁の乳母を務めた。真田家の武将
であることを誇りとし、娘は信繁の側室となり、次女・於市と三女の
阿梅
を産む。関が原合戦後、信幸・信繁に従って紀州九度山に住んだ
16人
の家臣たちのひとりで、昌幸が死去した後も信濃に戻らず、引
きつづき
九度山に残って信繁に仕えた。慶長19年信繁の大阪入城に
も随行し、
翌年、大阪夏の陣で討ち死にしている。

隙間から無事に帰れたら飲もう  くんじろう


「きり」
真田家重臣・高梨内記の娘。臆せずにものをいうストレートな性格。
実は
信繁に思いを寄せているが、本人を前にすると素直になれない。
そして、
思いを伝えられぬまま、信繁と梅の恋を応援する。父の勧め
で真田家の
奥勤めをし、信繁の祖母・とりが人質になった際も付き添
い、行動をとも
にする。いちずに信繁への思いを貫き、真田家で起こ
る事件や騒動に
巻込まれながら、信繁の波乱の人生に寄り添い続ける。
歴史的には、
信繁の側室となり、次女・於市と三女・阿梅を産んだと
いう、説がある。


過去捨てて女電池を入れ替える  上田 仁

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肋骨の中のレンジでチンをする  河村啓子


「天目山勝頼討死図」 (歌川国綱)

織田軍に攻められた勝頼は岩櫃城へ退くことを薦めた昌幸の言を退け、
小山田信茂の居城である岩殿城へ向かう。
その途中、信茂の裏切りに遭い天目山へ退去。そこで自刃して果てた。

「武田氏滅亡」

真田昌幸は天文16年(1547)真田幸隆の三男として誕生。

天文22年には、わずか7歳にして甲斐武田家に人質に出され、

以後は武田晴信(信玄)の元で暮らすことになった。

通常、人質というのは過酷な立場のものだ。

実家が裏切った場合などは、容赦なく命を奪われてしまう。

だが、昌幸の場合、かなり恵まれた環境であった。

信玄は早くから昌幸が父の幸隆に劣らない才覚の持ち主だと見抜き、

奥近習衆に取り立て寵愛した。

コップには水が空にはおれからが  徳永政二

信玄は6人いた近習を「耳効き」と呼んで重用。

なかでも昌幸曽根昌世の2人は「我が両眼である」とまで語っている。

昌幸は信玄の元でその薫陶に触れ、

武将としての器に磨きをかけていったことは疑う余地のないことである。

その後、もともとは外様であり、しかも人質であったにも関わらず、

昌幸は異例の出世を遂げる。

元亀2年(1571)頃、信玄の生母の実家である大井氏の支族である

武藤家の後継ぎがいなくなったため、昌幸が養子に入った。

そして武藤喜兵衛を名乗り足軽大将となったのだ。

その軍役は騎馬15騎、足軽30人である。

昌幸は父の幸隆、二人の兄である信綱、昌輝とともに、

「武田24将」に数えられていることからも、信玄の信任の厚さがわかる。

日が昇るなしのつぶての向こう側  筒井祥文


  真田昌幸

信玄が病死すると、昌幸は武田家を継いだ勝頼に仕えた。

長篠の戦い後は真田家を継ぎ、父や兄同様に武田家の上州支配を担った。

同時に勝頼の命に従い、「新府城」の普請にも携わっている。

この城は天正9年初頭頃から、築城が開始された武田家最後の城である。

昌幸は普請のための人夫を徴発している。

同年12月24日、勝頼は早くも府中の館から新府城に本拠を移している。

勝頼としてはこの城を中心に、本格的に領国である甲斐の経営に

乗り出すつもりでいたのだろう。

夜爪切る恙無き事祈りつつ  木村良三

しかし、翌天正10年(1582)に入るとすぐ、

織田信長による本格的な甲斐への侵攻が始まった。

勝頼は諏訪方面に出陣していたが、2月28日には新府城に戻ってきた。

だがすでに織田の大軍が間近に迫っていたため、

3月3日には、城に火を放ったうえ、

小山田信茂の居城である岩殿城へと退去する。

結局、勝頼は小山田信茂の裏切りに遭い、「天目山で自刃」

ここに名門大名家であった甲斐武田氏が滅亡したのであった。

この時、昌幸は勝頼に自らが守る「岩櫃城」へ籠もることを進言し、

籠城戦の準備を整えるために一足先に岩櫃城に戻っていた。

善人の耳をかすめた流れ弾  皆本 雅

勝頼の自刃を知った昌幸は、「武田の旧領は北条氏政が手中に収める」
                           うじくに
と考え氏政の弟である武蔵鉢形城主の北条氏邦と通じた。

だが予測に反して甲斐は河尻秀隆

信濃の佐久郡と小県郡は滝川一益が領した。

両名とも織田信長の重臣である。

そこで昌幸は信長に名馬を贈り、好を通じることにしたのだ。

こうして昌幸は信長に臣従し、信濃・小県郡内の所領と上野国内の

沼田領を領した滝川一益に従うことになった。

そうした矢先に、信長が本能寺で配下の明智光秀に謀殺されてしまう。

天正10年6月2日、「本能寺の大事変」である。

足せば二に成るしかないの青りんご  山口ろっぱ


        小山田信茂

小山田信茂の裏切りに関して、武田側の史料・『甲陽軍鑑』に拠れば、

勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬において、7日間逗留し

信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、

勝頼一行に対して、木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、
                          のぶたか
小山田八左衛門(信茂の従兄弟)と武田信堯(勝頼の従兄弟)が、

信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼に虎口から鉄砲を放ったという。

その後、織田・徳川勢により甲斐が平定された後、

信茂は、嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、

織田信忠から武田氏への不忠を咎められ、処刑された。

冗談はハミングほどがいいのです  山本早苗

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じいちゃんの影 東塔の相輪に  井上一筒


  武田信玄

「真田家の流れ」

真田氏の祖・滋野一族。
                      しげの
真田氏は上田盆地一帯を支配した滋野党の一員だった。

滋野党は平安時代前期に清和天皇の皇子・貞秀親王が、

海野平に土着した子孫だという。〔『真武内伝』『長国寺記』〕
                  つねかげ       じょうがん
一方真田家の家譜では、滋野恒蔭という人物が貞観10年(866)
ねず
滋野に土着したともいい、その後海野氏、望月氏、禰津氏に分かれる。

真田氏はこのうち海野氏の庶流で、鎌倉時代にはすでに一家を建て、

応永7年(1400)「大塔合戦」に参陣したことが知られている。

お地蔵さんに話す生まれた日のことを  墨作二郎

海野平合戦に敗北。箕輪城主・長野業政のもとに身を寄せる。

天文10年(1541)5月、甲斐の武田信虎が、

信濃の村上義清、諏訪頼重と連合して海野平に攻め込んだ。

海野平は一日で制圧され、真田郷を領した真田幸隆は、

3月11日、宗家の海野棟綱らとともに上野国へ逃亡する。

天文10年、幸隆、武田氏に臣従。

だが、天文12~18年初頭の間に信虎の子・信玄に召し出され、

信濃先方衆として土豪たちの調略に従事。 (天文16年昌幸誕生)

天文17年2月、上田原の戦いで信玄が、村上義清に敗北。

天文19年、幸隆、信玄より

「村上氏を攻略すれば小県郡諏訪形など、1000貫文を与える」

旨の書状を受ける。 

10月、信玄が再び義清に敗れる。 (砥石崩れ)


天文20年5月、幸隆、村上氏の砥石城を攻め取る。

トランポリン楽しむひとよ 雲わらう  八木侑子

つづいて、上野先方衆となり武田家の西上野の攻略に貢献。

信玄は外様の信濃国衆ながら真田父子(幸隆・幸隆の長男信綱、二男昌輝、三男昌幸)

をすこぶる厚遇した。


それは、村上義清や上杉謙信との戦いをはじめ、

信州平定過程での貢献を高く評価したからである。

信玄の晩年に成立したという武田家に残る書上には、

信綱200騎、昌輝は50騎を率いて、

信濃先方衆の筆頭に
位置づけられていた。〔武田法性院信玄公御代惣人数之事〕

兄弟合わせて250騎という軍団は、武田家臣でも一門衆や

有力譜代衆と同等かそれ以上である。

ねじ山がこわれて台風が生まれ  前中知栄


  真田昌幸

天文22年8月、三男・昌幸が、人質として武田家へ送られる。

昌幸は真田氏服属の証として、7歳で信玄の人質となった。

はじめ奥近習衆だったが、信玄は昌幸の明敏を見抜いて、

跡が絶えた甲斐の名族、武藤家の家督を継がせ、

武藤喜兵衛と名乗らせた。

その後、信玄は昌幸を奉行人に抜擢し、龍朱印状の奉者として、

大名武田家の行政の一翼を担わせている。

軍事面においても、先の書上では昌幸は足軽大将として、

騎馬30騎、足軽30人を預けられている。

(永禄10年(1567)信繁誕生)

剪定の枝は希望に満ちていた  安土理恵

元亀元年(1570)、信隆は隠居し嫡男・信綱に家督を譲る。

信玄の昌幸への信任を示した逸話として知られるのは、

元亀元年9月、信玄が伊豆韮山で北条軍と対陣したときのことである。

信玄が北条方と決戦する決意を示すと、重臣の馬場信春が、

「敵の様子や地形をご存じなくてはいかがなものか」

と疑問を呈すると、信玄は、

「安心せよ。わしの両眼のような者を遣わそう」 と答えた。
                                    そねまさただ
諸将が誰だろうと不審に思っていると、そのうち昌幸と曽根昌世

物見から帰ってきて、信玄に敵情を報告した。

信玄が懇切に指導しているのを見て、諸将が、

「彼らは弓矢巧者になるだろう」 と羨んだという。

目の上の瘤はやんわり咬んでおく  本多洋子

昌幸、養子に入っていた武藤家から真田家に服し、家督相続。

信玄は、親子二代にわたって真田氏を厚遇し、

とくに昌幸を我が子のように教え諭した。

天正3年(1575)、その謝恩に応えるかのように、

信綱、昌輝は「長篠の戦い」で壮烈な最期を遂げている。

兄2人が戦死すると、昌幸が真田家を継ぐ。

天正8年、昌幸、名胡桃城、小川城調略、沼田城無血開城に成功。

武力による攻撃もあれば、調略による無血の勝利もあり、

昌幸の戦い方は、父・幸隆の遺産であり、信玄の遺産であった。

生きるって思った以上に死闘です  清水すみれ


  武田勝頼

武田氏滅亡。 

天正10年、織田信長、徳川家康連合軍が三方から、

さらに、北条氏直も武田領に侵攻した。

信玄の嫡男・武田勝頼は3月11日、天目山麓の田野で自害する。

その後、昌幸は織田氏に臣従したが、

直後の6月2日に織田信長が本能寺にて、

急死するという事態が発生、旧武田領は無主の地として、

徳川氏、上杉氏、後北条氏の草刈り場と化した。
    じんご
「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱の中、昌幸は北条氏直に属し、

家康から勧誘されて徳川氏に寝返るなど、昌幸は生き残りを模索。

戦国時代における真田家のクライマックスの幕が開く。
.

ごまよりも小さな虫がいるんです  三輪幸子

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ジェラシー風味なンよプロローグのコロン  山ろっ


   真田24将

「真田家ー遠望」

『智謀は七日の後れあり』

かの上杉謙信が、智謀の面で自分は後れをとっていると認めたのが、

真田幸隆であった。

信州の真田氏といえば、一般に知られるのは、知将・真田信繁(幸村)である。

しかし信繁の活躍は、祖父・幸隆、父、昌幸の存在なしにはあり得なかった。

武田信玄篤く信頼された幸隆。

その幸隆の鬼謀の才を受け渡され、信玄から軍略用兵の妙を学び、

精強徳川軍を撃退して独立大名に至った昌幸。

真田家のルーツはずっと古く存在するが、

明治へと続く真田家の歴史を形づけたのは、

幸隆と昌幸であることに異論を挟む余地はない。

「という時」のあなたの背骨  徳山泰子


     真田幸隆

天文10年(1541)、信州小県・真田の地を本拠としていた真田幸隆が、


「海野平合戦」村上義清・武田信虎らの連合軍に破れ、

故郷を追われたときを起点にして、真田家の名前が歴史の1ページに

登場してくる。

この時、幸隆とともに落ち延びたのが、縁戚関係にもあった海野氏宗家・

海野棟綱の一族で、彼らの多くは当時権勢を誇る関東管領・上杉憲政

を頼ったが、幸隆は、
        そくぶん
「信州で仄聞していたが、憲政がうつけたる大将だというのは間違いない。

   いかに関東管領の高位にあるとは、あまりにも事々しい。

   上杉家は危うく見える」

として、幸隆が最終的に頼ったのが、甲斐の武田信玄であった。

風を聴く心になってきましたね  森田律子

幸隆にとっては武田氏は武田信虎の代に村上義清とともに自分たちを、

故郷から追い払った仇敵である。

しかし、幸隆は、信虎を家中から放逐した信玄が、

杉氏を上回る勢力を持つこと、

また真田の地を占拠する村上義清と対立関係に入ったという情報を入手し、

失地回復の望みを信玄に託し帰属するのである。

やがて関東管領・上杉氏が没落し、武田氏が大躍進を遂げたことからも、

幸隆の眼力が正しかったことは、歴史が証明している。

方程式が生んだ答えにまだ何か  山本昌乃


     武田昌幸

幸隆の活躍もあり、真田氏は武田家家臣の中でも極めて特異な存在となる。

というのも、外様で真田氏ほど取り立てられた一族は、皆無だからである。

幸隆の三男が官僚機構を担う奉行を務めたのも顕著な例である。

この三男が武田昌幸である。

昌幸は当初、人質として信玄のもとに送られたが、

信玄の身の回りをする奥近習衆に取り立てられて、

頭角を現し、奉行を任されるに至ったのである。

信玄は昌幸を、「武田の宿老分にしたい」 とまで語ったというが、

幼い頃から、昌幸の将才は抜きん出ていた。

笑い声二重とびらの向こうから  合田瑠美子

そして昌幸は15歳の時、「第4次川中島合戦」で初陣を果たす。

初陣以後、昌幸は信玄の側にあって「風林火山」の実践を学んだ。

父・幸隆の戦略からは、調略による寡兵ならではの戦い方を覚えていく。
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永禄12年(1569)10月、北条氏照との「三増峠の戦い」で、
                             ごけんし
昌幸は信玄より馬場信春隊に御検使として派遣され、

攻撃にも加わり一番槍の戦功をあげた。

翌元亀元年(1570)1月の「駿河花沢城攻め」では3番槍をつけている。

わたし臼あなたは杵でええ仕事  田口和代

天正元年(1573)4月、育ての親ともいうべき信玄が病没。

そして、信玄の後を追うように、武田家にあって譜代並みの待遇を受けた

幸隆が、その一年後62歳で死去。

真田家を相続をした長兄・信綱も「信州先方衆」のひとりとなり、

騎馬「200騎」を率い、「武田24将」に数えられた武将である。

信玄が没し、武田勝頼が家督を継いだが、信綱の真田家は安泰であり

昌幸は武田家に仕え重職の務めを果たすことに何ら変りはなかった。

逢える日の種なしぶどうを舌先に  奥山晴生


   武田勝頼

そんな昌幸の運命を変えたのが、

天正3年武田勝頼による「長篠の戦い」である。

威厳に満ちた信玄に比べ、勝頼の存在はやはり薄かった。

さらに直情型で一本気な性格は父に負けまいとする意識から、

強引な決断を下し、重臣の顔を曇らせた。

織田信長・徳川家康との「長篠の戦い」で、

重臣たちの撤退の主張を聞き入れず、大敗する。

勝頼は馬場晴信、山県昌景ら重臣の多くを一挙に失い、

真田家も長兄・信綱と次兄・昌輝が奮戦の末に戦死した。

この後、図らずも昌幸が真田の家を継ぐことになる。

力学のはじめ小豆の花咲けり  河村啓子

当主となった昌幸の任務は幸隆・信綱同様、上野に拠点をおき

吾妻領を支配する一方、甲府に出向き武田家奉行人として

朱印状発給に携わる「奉者」の重責を努め、
                      とうおみ
さらに勝頼の求めに応じ、駿河や遠江に出陣するなど、

昌幸の背負った責任は父兄にも増して、厳しく重かった。

しかし勝頼の器量では武田家のの軍事力は維持できず、急速に衰えていた。

戦い続けても好転する見込みは乏しい。

「武田家はやがて滅びるのではないか」

昌幸はそんな不吉な思いに駆られながら、勝頼を支えていかねばならない。

しかし、昌幸の思いは一つ、

幸隆が興した「真田家を守らねばならない」であった。

星のカフェ 星が星生む話聴く  西田雅子

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