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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ブリキで固めた嘘は立方体  山本早苗


北条・上杉・徳川と真田家をめぐる情勢

織田政権崩壊後、東国の支配秩序は流動的になり、
北条、上杉、徳川による勢力拡大の場と化した。
この「天正壬午の乱」とよばれる混乱の中、昌幸は巧みな動きをみせる。
昌幸は小県郡争奪争いの有力大名には逆らわず、主家を上杉氏、
北条氏と替え、身の安全に徹しながら、甲斐に徳川氏が現れると、
徳川に従属して生き残りを策したのである。

「信濃混沌」

天正10年6月20日、滝川一益は上野を去る際、

真田昌幸に沼田城を返還していたが、昌幸は叔父の矢沢頼綱

沼田城代を命じ、湯本三郎に岩櫃城の守備を指揮する。

上田から鳥居峠を越え岩櫃、名胡桃、沼田と連絡路を固めようというのだ。

そして沼田城に入った頼綱は、早速部下に命じ、

10キロほども南に下った津久田城を攻撃させる。

この城は北条方の長尾憲景の属城だったのだが、攻撃は失敗してしまった。

北条方は勢いに乗り、岩櫃城と沼田城を分断すべく長尾憲景に指示して、

その間の中山城を攻め落とさせ、さらに中山新城を築かせた。

岩櫃と沼田の連絡路が遮断されると、昌幸としては分が悪い。

綱わたりクシャミをしてはいけません  阪本こみち

実は、昌幸はすでに3月、

武田氏が危急存亡のときを迎えている間に
憲景を通じ、

二度にわたって北条氏への帰順を打診していた。


そして武田勝頼が自刃した翌12日には、

北条氏邦から昌幸の申し入れを歓迎する旨、書状が寄せられえている。

この交渉窓口はまだ生きており、憲景は昌幸に圧力を加えながら、

外交チャンネルを活かして帰順を促していたのだろう。
               ひき
その実務を担ったのは日置五左衛門という人物だった。

五左衛門は昌幸の命令を受けて北条氏の陣に赴き、

「麾下に属すべき由」を申し入れた。

北条氏直がどれほど喜んだかは、

彼がこの五左衛門に西上野の小島郷を与えたことでも分かる。

さざ波にうすら笑いがしみている  嶋沢喜八郎

26日、昌幸は北条氏に人質を提出する。

ここでも北条氏は大いに喜び、窓口の頼綱に千貫文の土地を与えている。

しかし昌幸の目は、常に周囲を油断なく観察していた。

信濃は北条氏だけではなく徳川家康も狙っており、
          のぶしげ
武田旧臣の依田信蕃を派遣して、国人衆の切り崩しをはじめさせている。

信蕃は碓氷峠の玄関口にある小諸城に入っていたが、

12日侵攻してきた北条軍によって追われてしまった。

さらに北からは上杉景勝がすでに6月16日に川中島へ兵を出し、

7月29日には、景勝みずからも川中島に出陣する。

階段の隙間で息をしています  笠嶋恵美子



昌幸は北条軍の先鋒として、この川中島の上杉軍に対峙し、

防波堤役を務めることとなった。

だが、景勝と氏直が、「北信濃を上杉、その他を北条が支配する」という

条件で講和すると、氏直は南下し8月10日から甲斐・若神子で、

徳川家康の軍勢とにらみ合いに入る。

ところが、5万以上の大軍にも拘らず、

1万の徳川軍に決戦を挑みもせず、


それどころか局地戦では敗北を喫した氏直は、

信濃の国人衆の評価を大きく下げてしまう。

「勢い、空気というものが肝心よ。いまの北条のていたらくでは、

   この先安心して身を寄せることは思いも寄らぬわ」

ボクが乗ると揺れるノアの箱舟  田口和代

折も折り、徳川方の勧誘の手は昌幸にも及んできていた。

「なにとぞ才覚をめぐらして、真田を引き付け給え」

依頼された依田信蕃、それに北条から徳川に転任していた真田信尹

もうひとり日置五左衛門がその交渉ルートだった。

9月28日付けで家康への寝返りが決定し、家康は、

「本領安堵のうえ上野国の箕輪と甲斐国内で計2千貫文の土地、
                     あてがいじょう
     さらに信濃諏訪郡を与える」 と宛行状を発給した。

慎重居士の家康も「誠にもって祝着」と喜びを爆発させている。

北条氏は昌幸をいったん服属させることに成功したが、

昌幸はその間、沼田、吾妻領を着々と我が物にしたうえに、

一転して家康に服属してしまい、北条氏は一杯食わされたのである。

今や昌幸の存在は、信濃支配のキーマンとして唯一無二のものとなった。

まずは取り皿へフクロウらしき舌  山口ろっぱ

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黄昏て三行目から黴てゆく  山口ろっぱ
 

汁かけご飯を食べる氏政

北条氏4代目・北条氏政に関して、こんな逸話が残っている。

食事の時、ご飯に味噌汁をかけたが その量が少なく もう一度汁をかけた。

それを見た父の氏康は、「毎日の食事であるにも関わらず、

ご飯にかける汁の量が分からないとは、北条家も終わりだな・・・」

と嘆いたという。

「プライドばかりの北条氏政」


息子・氏直とも他の大名とも「笏」(しゃく)置く位置が違う。

北条は北条早雲に始まり氏綱・氏康へと続くおよそ100年もの間、

関東に君臨し続けた戦国大名。

その4代目が氏康の嫡男・北条氏政である。

武田信玄の娘と結婚するが、信玄と対立。

弟の三郎(景虎)上杉謙信の養子に出し武田家を牽制する。

その後、謙信との関係が悪化すると信玄と和睦。

信玄没後、勝頼が景虎支援の約束を反故にしたため、勝頼との同盟を破棄。

武田勢に苦戦すると信長に従属を表明し、武田領の挟撃を図る。

長男・氏直に家督を譲っても発言権を保持した。

仏壇も家紋も背後霊だろう  美馬りゅうこ

信長の死後、氏政は、空白地帯となった信濃を手に入れようと、

氏直と氏邦に命じ大軍を上野に侵攻、滝川一益と対峙した。

この戦いは、たった2日、一益の惨敗をもって決着。

その足で北条軍は、碓氷峠から信濃に進出、真田昌幸・木曾義昌

諏訪頼忠などを取り込み、信濃東部と中部を占領下に置く。

その後、北条軍は甲斐に侵攻してきた徳川家康と対峙する。

長期戦となった家康との戦いは、秀吉の関東統一を睨む動向と

真田昌幸が徳川方についたことで風船が縮むように沈静化、

家康の娘・督姫を長男・氏直の嫁に向かい入れて和睦と同盟を結び、

合意の条項に甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることが含まれる。

昌幸とって沼田城を北条に明け渡すことは、断固として譲れなかった。

家康に不審を抱いた昌幸は、徳川を離れ上杉景勝に従属、

上田・沼田城にて、
徳川・北条と抗戦することとなる。

相槌がインプラントを逆撫でる  岩根彰子



これらの懸案が後の「沼田問題」さらに「名胡桃事件」の伏線となる。

「小田原北条征伐」の導火線がそこにあった。

秀吉が時の権力者となると、北条氏政と北条氏直に上洛するように

求められたが、成り上がりの秀吉に対して、

北条氏政は
弟・北条氏照北条氏邦と共に、

空気読めない強硬姿勢をとりはじめ、


空気を読める北条氏直北条氏規との間で意見がまとまらなかった。

事ここに至って、秀吉は小田原征伐を決定して宣戦布告したのである。

対し北条氏政は、籠城を決め徹底抗戦を決めた。

100年にわたる戦国大名・北条氏による関東支配の終焉とも知らず。

正解を失くしてからの猛吹雪  中野六助


「北条記」につぎのような言葉が残る。

「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、

    国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、

    どうやら無事であった」

オルガンのファ~の音から出られない  蟹口和枝


氏直は「笏」胸前に持つ

「虚弱な北条氏直」

北条氏政の次男。

母親は武田信玄の娘である黄梅院。幼名は国王丸。


武田・北条・今川のいわゆる「三国同盟」から生まれた子供であった。

15歳で元服し、里見義弘との抗争で初陣を飾る。

天正8年(1580)、父・氏政から家督を譲り受けるもお飾りの当主で、

実権は依然として氏政が握って離さなかった。

「本能寺の変」後、上野を攻め滝川一益の軍を「神流川の戦い」で破る。

その後、信濃から甲斐に侵攻し徳川家と対抗するが、和睦に至り、

家康の娘・督姫を娶る。

頭陀袋の中で柵笑ってる  中川隆充

北条と徳川との和睦の条件の一つであった沼田領統治をめぐり、

真田家とは幾度となく争うが、決着がつかなかった。

そして、天正17年(1589)豊臣秀吉が仲介に入り、

昌幸が占拠していた沼田3万石のうち2万石が氏政に返還、

残った1万石の「名胡桃城」は、

昌幸が「ここは先祖の墓がある土地なので」 
と主張し

引き続き昌幸のものとして残る。


また、昌幸が失った2万石は家康が自領から分け与えることとなる。

歯車の歯は欠け欠けて稼働中  藤井孝作
                                    いのまたくにのり
これで一件落着かと思われた矢先、北条配下の沼田城主・猪俣邦憲が、

名胡桃城の家臣を買収して工作し、

城を乗っ取ってしまうという事案が発生。


これを聞いた秀吉は、大名同士の私闘を禁じた「惣無事令違反」だと激怒。

しかも再度上洛を要請しているにも関らず、

未だに上洛する気配のない氏政に愛想を尽かした秀吉は、


武力で北条一族を討伐する意志を固めたのである。

失望というな名の船が打ち寄せる  高橋謡々

北条を滅ぼす大義名分(口実)を得た秀吉は、

20万という
未曽有の大軍を率いて小田原に乗り込んできた。

小田原合戦の幕開けである。

一夜城、調略、兵糧攻めなど、秀吉が得意とする持久戦に持ち込むと、

さすがに難攻不落の小田原城も内部からも崩壊していき、

5ヶ月の長期戦の末、降伏を余儀なくされる。

夕暮れにラッキョウの声になっている  河村啓子



戦後処理は、城兵を助命するという条件と引換えに責任者の処罰。

氏政氏照とともに弟・北条氏規の介錯をうけ切腹。

氏政は享年53歳であった。


また氏直は助命、北条氏規らとともに出家して高野山に入る。

翌年、氏直は秀吉によって赦免され、大坂の織田信雄の屋敷で暮らす。

その後 秀吉から河内国に1万石の領地を与えられたが、

現地に赴く前に死去。

享年30歳であった。


運命と貧乏神に尽くし抜く  森吉留里恵

父の言われるがまま30年を生きた氏直を評価する、

「北条記」によると、


「五世の氏直君は、ずいぶん判断力に富んでいたが、

    惜しいかな虚弱な体質であったために みずから裁決せず、

    人まかせにするあやまちをおかしたために、

    ついにその家を失うことになった」


「4代・北条氏政が実権を握り続けたことから、北条家は滅亡した」

と巷では囁かれている。

気がかりを形にすれば干しぶどう  嶋沢喜八郎

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鉄分が脳に回って錆びてくる  ふじのひろし


  滝川一益

「滝川一益の波乱万丈」

滝川一益は、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀と並ぶ織田四天王の一人。

甲賀出身ゆえ、忍者説もある。 特技は鉄砲。

30歳頃に織田信長の家臣になる。  

一益は徳川家康との同盟に知略を発揮する一方で、

長島一向一揆、石山本願寺合戦、雑賀攻めなどに参陣し武功を挙げた。

この時、東国支配の重要性から、信濃二郡と上野国主を与えられたが、

「領地ではなく茶器・珠光小茄子が欲しい」 と言った話は有名。

また、信長は58歳になる一益を草深い遠国に送る事を気の毒に思い、

秘蔵の馬を一益に贈り「この馬で入国せよ」 と気遣いを示したというほど、

信長から厚く信任された重臣の一人でもあった。

お人柄なんざぁ眉にでてますなぁ  くんじろう

ところが、関東を任されてから三ヶ月。

天正10年(1582)6月2日、信長非業の死から間もない18日に、

「天正壬午の乱」のとっかかりで、一益は北条氏直と戦闘状態に入る。

敵対行動をとるように なった北条氏政に対し、

一益は上野衆の応援を得て倉賀野へ出陣、

神流川にて北条氏邦の軍を破った。

しかし続く19日の戦いでは、一益方1万8千は、5万の氏直勢に完敗。

一益は箕輪から小諸、木曽を経て本領の伊勢長島へ逃げ帰ってしまった。

滑り台の途中にあった信号機  嶋沢喜八郎
             まやばし
この最中真田昌幸は、厩橋で一益との酒宴に参加し、

一益に護衛をつけて、木曽路まで送らせたという。

そして一益を見送る一方で、昌幸は小県・上野の国衆たちに対する

所領宛がいを矢継ぎ早に実行しはじめた。

「信長も一益も、我が頭上から命令する者はいなくなった。

    今のうちに皆を糾合して、動乱に対応できるようにせなばならぬ」

信長の死によって旧武田領国の甲斐・信濃・上野が無主の地となり、

「天正壬午の乱」と呼ばれた大風が吹き荒れ始める。

昌幸の闘士はこの風に煽られ激しく燃えあがった。

追い込まれてからの男のジャンプ 美馬りゅうこ

そんな中、信長の死を知った羽柴秀吉は、

中国毛利攻めの真っ只中
にも関らず、毛利と和議を結び、

主君の「弔い合戦」の大義名分の元に、


神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・ 高山右近らを率いて、

明智光秀との「山崎の戦い」に臨んだ。

そして本能寺の変から、わずか10日あまりで仇討ちを果たした。

信長からは一番に信頼されていた一益が、どうして、

伊勢へと逃げる足を、主君の敵討ち・明智討伐に向けなかったのか。

伊勢に逃げ帰った一益の行為は、その後の彼の一生を決めることになる。

信長の後継者を決める「清洲会議」に間には合わず、

織田家宿老の立場からも外されてしまう。

運勢もやっぱり渦を巻いていた  森田律子



天正10年6月27日、尾張の清洲城で織田の重臣を集め開かれる。

「清須会議」の目的は「信長の後継者問題」「遺領の配分」である。

集まった重臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の宿老4人。

いわゆる一益はこの場には、不在したのである。

遺領の配分は後述のこととして、信長の後継者問題では、

信長の三男・織田信孝を推す勝家と、


信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を推す秀吉が対立。

そこで三法師をたてるにあたり、秀吉は「長男後継の筋目」を主張。

この秀吉の意見には、信孝を推す勝家は、強硬に反対したであろうが、

丹羽長秀「筋目論」に同調し、多数決をもって秀吉の主張が通り、

三法師が後継者となったのである。

ここで三法師後見人の立場をも秀吉が握る。

ザクロ弾けて相性なんてこんなもの  山本昌乃

その後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化、

秀吉は勝家と結ぶ織田信孝を討ち、着実に勢力を拡大していった。

このとき、一益は柴田勝家に与して、長島城に拠り秀吉と対峙した。

そして折りから家督相続争いで紛糾していた関氏の亀山城を奪うと

腹心の佐治新介を入れ、峰城には甥の滝川儀大夫を城将とし、

秀吉の来襲に備えたのである。

対する秀吉は、弟の秀長を美濃土岐多羅口から、

甥の三好孫七郎を近江君畑越から、

そして、みずからは近江安楽越から長島城へと迫った。

一益はよく持ち応えたが、恃みの柴田勝家が「賤ヶ岳の合戦」で大敗、

越前北ノ庄城で滅亡すると万事窮してしまった。

結局、一益奮戦も空しく、降伏開城して秀吉の軍門に降った。

坂うねりうねりつ坂は7合目  筒井祥文

秀吉と織田信雄・家康連合軍との間で小牧・長久手の戦いが始まると、

一益は秀吉に味方して参戦した。

そして、蟹江城の留守を守備する前田種利と前田城の前田長種らを

調略することに成功すると、嫡子・一忠とともに蟹江城に入った。

ところが、信雄・家康連合軍の猛攻撃を支えきれず降伏。

あろうことか種利の首の差し出せという条件を呑んでの投降であった。

一益の行動は諸将の非難を浴び、秀吉からも愛想を突かされ、

栄光に彩られた武将人生は、晩節を汚す格好で幕を閉じたのであった。

夕暮れを歌うと棒になってゆく  富山やよい



とはいえ、秀吉から越前国大野に三千石の捨扶持を与えられ、

子の一時には1万2千石の地が与えられた。

しかし、みずからの行為を深く愧じた一益は京都妙心寺で出家すると、

丹羽長秀を頼って越前に流れていった。

流れ流れて、自らの才覚と腕一本で大名に出世しながら、

肝心のところで齟齬をきたした一益は、

天正14年、越前大野で死去。


享年62歳であった。

甲冑を脱ぐと人情交叉する  上田 仁

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透明な隙で黙祷いたします  山本早苗


    四阿山(あずまやさん)
日本百名山の一つ四阿山(標高2,354m)は長野県と群馬県の県境に跨る。

「修験者」

修験者とは何者なのか…。簡単に言えば、

険しい山を駆け上り、岩の上で法螺貝を吹く姿に象徴される通り、 

山岳修行で心身を鍛え、呪術的な霊力を得ようとする宗教家のことである。

背景にあるのは、山には霊気が宿るとする山岳信仰で、

ルーツを遡れば、
平安中期、密教が輸入されて以降のことになる。

山岳地帯である信州では、多くの修験者が山野で修行を積んでいた。

特に重要視されたのが、

真田の郷がある信濃と上野の境にある四阿山である。

真田氏が崇敬した山家神社も四阿山をご神体としている。

生き霊と死霊の話聞き分ける  井上一筒

そんな彼らを上手に利用したのが真田氏である。

例えば、天文20年、真田昌幸の父である幸隆「砥石城攻め」では、

内通者を出して内側から守りを崩したと伝わる。

それも砥石城の抜け道を熟知して城内への

情報伝達の攪乱を請け負った修験者の、支援があっての調略戦だった。

二等辺三角形からの誘い  蟹口和枝

時に修験者は、呪術で雨を降らせることが出来たとも言うが、それは即ち、

山暮らしの中で天気を先読みする能力を身に付けていたということ。

第一次上田神川合戦で、昌幸が、神川を堰き止めた上で決壊させ、

徳川軍勢いを殺いだと伝わる。

実は、神川は幅が狭く川底が深い。

一雨くれば、一気に3メートル近くも水嵩が増し濁流となる。

わざわざ堰き止めずとも、いつ雨が降るか予測できれば、

川が増水する時間に合わせて、徳川軍をおびき寄せるだけで事足りる。

天気予報を担ったのは、もちろん修験者だ。

予感的中ドアノブに静電気  村上てる

天正10年6月2日、京で「本能寺の変」勃発。

天下統一を目前にしていた織田信長は非業の死をとげた。

その知らせが350キロ離れた信濃国真田郷の昌幸に届いたのは、

いつ頃だっただろうか。

滝川一益が自主的に昌幸らに情報公開したという話もあるが、

北条氏直が変を知って、一益に問い合わせの書状を発したのが11日。

この以前に昌幸は変のことをを知っていた、動きをしている。

そこに修験者の情報があったからである。

そうだそうだこの手で行こう猫だまし 谷口 義


  ノノウの墓

「歩き巫女」

『信濃国小県郡禰津村が、江戸期三百年を通じて、

    我国で随一の巫女村である云々』

民俗学者・中山太郎「日本巫女史」でそう語る通り、
   ねず             とうみし   ねつ
小県郡禰津村、現在の長野県東御市祢津はかって、

「歩き巫女の里」
として知られ、現在も巫女たちの墓90基が残る。

歩き巫女はノノウ(ノノウ巫女)とも呼ばれ、全国各地を遍歴し、

祈祷や死者の言葉を伝える「口寄せ」「勧進」などを行なった。

ノノウとは、神様や先祖の霊を指す方言であるとも、

「のうのう」という呼びかけの声からそう呼ばれたともいう。

三日月のポーズでヒップ引き締める  合田瑠美子


 本屋の前の歩き巫女

信濃の巫女は各地で歓迎され、俗に千石取りに匹敵する物持ちで、

荷物は「荷持ち」と呼ばれる男性が運び、どこでも手形なしで歩ける。

全国を歩く彼女たちは、

修験者と同様に多くの噂や情報に接することになり、


保護する者に貴重な情報をもたらしたであろうことが、

容易に想像できる。


また時に彼女らは修験者と組んで行動し、口寄せの際、

憑依した霊に修験者が問いかけ、言葉を引き出す相方を務めたという。
                           あずまやさん
小県郡禰津は真田に隣接する地域であり、四阿山の修験者も多かった。

当然ながら、歩き巫女も真田氏の情報源としての役割を果たしていた。

信じてもよろしおすえ あぶらとり紙やから
                   山口ろっぱ


因みに、禰津が「歩き巫女の里」となった起源については一説に、

武田信玄望月千代「甲斐信濃二国巫女頭領」に任じて、

禰津に「歩き巫女を養成する場」を設けたことに始まるともいう。

望月千代は川中島合戦で討死した武田の将・望月盛時の未亡人で、

甲賀望月家の出身とされる。

甲賀望月家は忍術で知られるが、

もともとは信濃の滋野三家(望月氏、海野氏、禰津氏)の望月家の一族であった。

信玄が歩き巫女の養成を命じたのも、

彼女たちの情報収集活動を期待してということになるのだが、

とはいえ、望月盛時という人物は確認できず、

甲賀忍びの血をひくという千代についても確実な史料はない。

話には続きがあって船が出る  中村幸彦


 ノノウの説明板 (拡大すれば読めます)

そもそも信玄の声がかりで禰津が「歩き巫女の里」になったのではなく、

それより以前から歩き巫女は、この地を拠点に活動していたと見る方が、

自然だろう。

いずれにせよ禰津の古御館には、明治に至るまで数十戸のノノウ宿があり、

女性は巫女としと呪術を行なっていた。

戦国期の彼女たちが真田氏の保護のもとに活動し、

修験者とともに各地の
情報をもたらしていたことは、間違いないだろう。

「各地の情報をもたらした歩き巫女」・(歴史街道より)

酢で締める昆布も永遠も  山田ゆみ葉  

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墓標にはこんなもんじゃと書いてくれ くんじろう


   本能寺の変

「松はここで死んでしまうのか」

「本能寺の変」から2日たち、安土城下は明智の軍勢に占拠された。

信繁たちは琵琶湖近くの農具小屋に身を潜め、

安土から脱出する機会をうかがっていた。

「明智の兵がうろうろしています」  信繁が周辺を探ってきた。

そのとき、人質の子どもが泣きだし、明智の兵に見つかってしまう。

信繁たちが敵兵を引き付けて必死で戦い、松たち人質は捕まらないように

四方に散らばって逃げた。  

明智の兵は松を執拗に追いかける。


佐助が助勢に駆けつけ、一度は敵兵の手を逃れたが、

とうとう断崖まで追い詰められた松は、

琵琶湖が満々と水をたたえる崖下へと身を躍らせた。

ドラマ「真田丸」6話はこのように始まる。


はたして松は、本当にここで死んでしまうのだろうか。

マスキングだれか剥がしてくださいな  岡谷 樹

歴史ではこうなってます。

「村松殿」

松こと、村松殿は、永禄8年(1565)真田昌幸の長女として誕生。

真田信之・信繁の姉で、名は於国。

17歳のころ、真田家家臣の小山田茂誠に嫁ぐ。

しばらくして、茂誠が昌幸から小県郡村松を領地として与えられ、

知行地としたことから、「村松殿」と呼ばれた。

因みに茂誠の父は、甲斐国都留郡の国衆・小山田有誠

なお、天正10年に武田家が滅亡した後、織田信長に臣従した際に、

昌幸は人質を安土城へ送っているが、それが村松殿であったといわれる。

松は茂誠との間に、男児ひとり(小山田之知)を儲けている。

湯葉シュッとすくう寿色になる  田中博造
                 いぬぶし
慶長5年(1600)下野国犬伏で真田一族は、東軍につくか西軍につくか

去就を決断するための協議を持った。

信幸「徳川への恩」昌幸・信繁「豊臣の義」と三成への友情を主張。

いわゆる、真田存続の策ともいわれる「犬伏の別れ」である。

この時、    村松殿、夫・有誠、長男・之知らは、信幸に帯同。

慶長11年3月13日には、之知は信幸から知行を与えられている。

慶長19年(1614)からの「大坂の陣」では、

病床にあった信之の名代の信吉・信政兄弟に従い、子・之知と共に従軍。

茂誠は信繁とも親交があり、信繁から茂誠宛に出した近況を伝える手紙は、

信繁が最後に出した手紙であったという。

仮面から仮面に届くクール便  荒井慶子

「大坂・冬の陣」が講和休戦となったあとの慶長20年(1615)正月24日、

大阪城中から信繁は、『お便りいただきましたので、一筆したためます』

の書き出しで、姉(村松殿)に対して書状を送っている。

『お伝えしたいことがございましたので、一筆申し上げます。

   さてさて今度、思わぬことから合戦となり、

   わたしたちもこちらへまいりました。


   おかしなことと思われたことでしょう。

   しかし、まずまず無事にすみ、わたしたちも死なないですみました。

    お目にかかって申し上げたいと思います。

 明日はどうなるかわからない情況ですが、いまは何事もありません。

   主膳殿(村松殿の長男・小山田之知)にも時々、お会いしますが、

   こちらがとりこみ忙しがっていますので、

   ゆっくりとお話もできませんでした。


   こちらはかわったこともありませんので、ご安心ください。

   くわしく書きたいのですが、この者が急いでいますので、

   あわてて書きました。     
またお手紙をさし上げます。

                                                                                                    かしく

※ わたしたちとは=信繁・大助父子と一族郎党。
※ こちらへとは=九度山から大坂城・秀頼に出仕したこと。

割り算の余りがとても愛しい  雨森茂樹

【原文】
(たより御さ候まま一筆申あけ候、さてもさてもこんとふりよの事ニて、
御とりあひニ成申、われわれここもとへまいり申候、
きつかいとも御すいりやう候へく候、たたし、まつまつひすミ、
われわれもしに申さす候、御けさんニて申たく候、
あすにかハり候ハんハしらす候へとも、なに事なく候、
しゆせんとのニもさいさいあひ申候へとも、ここもととりこミい申候まま、
心しつかに申うけたまわらす候、ここもとなに事もなく候まま、
御心やすく候へく候、くハしく申たく候へとも、
此ものいそきたちなから申入候ままさうさう申候、かさねて申入候へく候、
                                                                                          かしく、
正月廿四日     さへもんのすけ
                         むらまつへまいる

                                                                     (真田一族の史実とロマン 東信史学会)

うっすらと血を通わせて空動く  岩田多佳子

村松殿からの見舞いに対して返信する信繁の、

姉に対する親愛の情が感じられる。


彼はこの中で村松殿の夫・有誠や子息・之知のことにも、触れているが、

「大阪の陣」に参加した有誠も、休戦中、何度か信繁を訪ねたのだろう。

夫婦ともに、信繁の身の上を心配していたのだ。

村松殿は寛永7年(1630)6月、死去。 

享年65歳。


ドラマの死より、47年長生きしている。 法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉

ぬらりひょんから人間の取り扱い書  前中知栄

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