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川柳的逍遥 人の世の一家言
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タンポポが照らすこの世の底あたり  新家完司



「江戸川柳で綴る石田三成」

秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康と五奉行頭の石田三成が対立します。

三成は秀吉によって発掘された人。

近江・長浜の在の寺の小僧をしていた時、秀吉が鷹狩りの帰途に立ち寄り、

お茶を所望したところ、佐吉と称していた三成が応対して、

最初は大きな茶碗に温かい茶を多めに、

次は中ぐらいの茶碗に少し熱い茶を半分くらい、

三杯目は小さな茶碗に熱い茶を少し点じて差し出しました。

これで効果的に喉の乾きは癒され、機転に感心した秀吉は、

佐吉を連れ帰り小姓として側に置きました。

「佐吉めは仕合わせ者」と和尚云い

三成は理財に秀で、太閤検地を取り仕切り、土面符という紙幣を発行し、

小田原攻めや九州征伐、朝鮮出兵では将兵の動員、食料輸送等の計画を

策定しました。

それは到底余人ではなし得るものではなく、

秀吉の全面的な信頼を受けて出世し、

温い茶でだんだんあつき御取り立

―あつき熱いと厚いの両意。

三成は豊臣政権の維持のため、天下取りの野心をちらつかす家康を

除こうとしました。 

家康にしてみれば、秀吉存命中に尾張の小牧・長久手の合戦ですでに

小牧山長く久しい御手柄

―長く久しいは長久手に利かせて。

豊臣氏に勝っているので、いつまでも天下を認めるわけにもいかず、

両者の緊張は日を追って度を増しました。

家康は三成の挙兵を促すために、上杉討伐を名目に京畿を離れました。

三成はチャンス到来とばかり毛利輝元、小早川秀家ら西国大名を糾合して、

慶長5年(1600)7月に挙兵。

家康は同年9月、三成が待ち受ける美濃の関が原に到着。

本来、豊臣につくはずの加藤清正、福島正則、浅野幸長、池田長政、

藤堂高虎、など太閤の恩顧の大名たちは、三成に対する個人的な憎悪から

徳川に加担しました。

三成が朝鮮出兵などで、これら武将をアゴでつかったことが、

若衆から悪方に石田也

になってしまい、三成の盟友の小西行長も商人の出なので、

武闘派の加藤や福島からすると

小癪さは小西石田がくしゃみする

―小が両韻。癪とくしゃみが近似韻。

9月15日午前8時、東軍7万4千、西軍8万6千が関が原に集結して、

いよいよ天下分け目の火蓋が切られました。

ところが西軍の総大将の毛利輝元は大坂城から出てこず、

息子の毛利秀元、島津義弘、長曽我部盛親、小早川秀秋などの大大名は、

戦いに加わらず高見の見物。

攻め合いになると石田は皆掛け目

―掛け目は、碁盤の上の石は欠けてに

温い茶のようにはいかぬ関が原

それでも西軍の大谷刑部、島左近、真田幸村、宇喜多秀家、小西行長

など
が奮戦し激闘は4時間に及びましたが決着がつきません。

松尾山に陣を張る西軍の小早川秀秋が、どちらにつくかが分け目となり、

三成は西軍に加勢するよう盛んに使者を出して出撃を促すも動きません。

家康も自分に味方すると思っていた秀秋が、撃って出ないので豪を煮やし、

そこで松尾山に向けて鉄砲を撃ち込みました。

驚いた秀秋は1万7千の兵を西軍目掛けて突進させ、

これにより激戦は午後2時に終わりました。

尻から金と打たれて石田負け

裏返る金で石田の敗れ也

一句目の金は金吾中納言こと、小早川秀秋。

一句目二句目とも将棋の石田組という陣形にかこつけて。

松風に石も飛び散る関が原

―松風は徳川宗家の松平に利かせて。

御扇子は武運の開く旗印

―徳川の旗印は馬、跳躍するので「武運が開く」

秀吉の正室の寧々(ねね)は、秀吉の寵愛をほしいままにした淀君を、

よく思っていませんでした。

淀君とその子の秀頼を庇護する三成に対しても敵愾心を持ち、その分、

家康に好意的でした。

太閤恩顧の武将たちが家康についたのは、寧々の内々の工作で、

秀秋も彼女の意向を受けて、早くから家康に内応していました。

してみると、秀吉を巡る女の闘いが、関が原の勝敗を左右したといえ、

歴史とは意外、案外そんなものです。

天下を手中にした家康は寧々に感謝し、京都に桃山建築の贅をこらした

高台院という隠居所を建て住まわせ、彼女が76歳で天寿を全うするまで、

大名格の禄を与え遇しました。

関が原から行方をくらました三成は、近江の古橋で捕まり、

行長、安国寺 恵瓊とともに洛内外引き回しの上、六条河原で処刑されました。

夢でしたちょっと酸っぱい味でした  嶋沢喜八郎

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絶滅を危惧するあまりビニールの傘  酒井かがり


三成、秀吉との出会いの像

「秀吉が死んで」

小田原征伐後、秀吉は奥州の各大名に恭順を求めた。

ここに秀吉による天下統一が完成し、漸く長い戦乱が終わりを迎えた。

このまま平和な時代を迎えるのかと期待した人も多かっただろう。

しかし秀吉は、明国やインドまでも従えさせるという、

壮大な夢を抱いていた。


その結果、朝鮮半島を舞台に、日本軍と朝鮮・明の連合軍が2度に渡り

死闘を演じることになってしまった。

この戦いは、日本にとって有益なことは何もなかった。

それどころか発足したばかり豊臣政権の体力を奪ってしまい、

さらには、大名同士の反目を生む結果となった。

筋書きは斜めで階段の途中  山本早苗


四大老・五奉行 (大老筆頭家康は不在)

右から、毛利輝元・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家
石田三成・前田玄以・浅野長政・長束正家・増田長盛

朝鮮半島では多くの将兵が戦いに苦しんでいた慶長3年8月18日、

稀代の英雄であった秀吉は、伏見城内でこの世を去った。

その死により徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家

五大老と石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以

五奉行により、早急に朝鮮から撤兵することが決定された。

朝鮮に出兵していた大名たちは、三成を筆頭とする奉行たちが、

自分たちの軍功を秀吉の耳に入れなかったどころか、

讒言を繰り返したと思っていた。

そのため三成に対して強い恨みを抱いていた者も少なくなかった。

しかし三成にすれば、それこそ言いがかりとしか言いようがない。

毒は微妙に輪の中で熟れていく  山口ろっぱ


生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴 (左から)

それよりも三成は、秀吉が生前禁止していた大名同士の勝手な婚姻を

大老筆頭である家康が平然と破り、

伊達家や黒田家、福島家と縁を結んでいることを問題視していた。

そこで三成は、中老の堀尾吉晴らを問罪使として家康の元に送り込んだ。

だが家康と吉晴では、格が違いは明らかだった。

吉晴は逆に家康から一喝され、すごすごと引き揚げてきた。

結局、同じく大老の利家が互いの屋敷を訪問し、

誓紙を交わすこととなった。


膝の水を抜いてレマン湖へ返す  井上一筒

だが三成ら奉行衆が頼りとしていた前田利家が秀吉の後を追うように、

慶長4年3月3日この世を去ってしまう。

その直後事件が起きた。

朝鮮の役の際、三成の讒言によって煮え湯を呑まされた福島正則

加藤清正、黒田長政、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明の7将が、

大阪の石田屋敷を襲撃したのである。
                よしのぶ
だが三成はその直前、佐竹義宣の助けを得て屋敷を脱出していた。

そして事もあろうか家康の元に駆け込み保護を要請した。

他ならぬ事情パラリと粉山椒  山本昌乃

当然、7将は三成の引渡しを要求してきたが、家康は断固はねつけた。

その代わりに家康は三成を隠居させること、

及び朝鮮の役での査定の見直しを約束・・・これで7将を納得させた。

家康には三成を生かしておき、

豊臣恩顧の大名たちの反目を継続させる狙いがあった。

そして次男である結城秀康に三成を居城の佐和山城まで送らせた。

こうして家康は、政治の表舞台から三成を失脚させることに成功。

さらに豊臣恩顧の7将の気持ちを掌握し、

自らの陣営に引き込むこともできた。


そして諸大名からは、「家康の処断は公平で信頼できる」という、

評価も勝ち取ることができたのである。

コンパスで正方形を書いている  和田洋子

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骨盤に刻む昨日のあれやこれ  井上一筒


   小舌の男

こした(小舌)といひて、した(舌)のね(根)にちゐ(小)さきした(舌)の
やうなるもの、かさなり(重)ておいゝ(生出)づることあり、やまひ(病い)
おもく
なりぬれば、はら(腹)にはうゑ(飢)たりといへ(雖も)どん、

のむど(咽喉)飲食をうけず、おもくなりぬれば、しぬるものあり、

「歴史を散歩する」

「灸」

「灸」は中国から伝わった漢方療法である。

奈良・平安時代にはすでに公家の間で用いられており、

平安末期から鎌倉初期の公卿・九条兼実の日記「玉葉」や、

戦国時代の公卿・山科言継の日記・「言継卿記」などに灸の文字が見える。

庶民への灸の普及は、12世紀後半の絵巻「病草子」に見ることができる。

「小舌の男」という場面に、口腔の病を患った男に灸をすえる僧形の男が、

描かれている。

又、江戸前期の俳人・松尾芭蕉は紀行文・「奥の細道」
序文に、

「三里に灸すゆるより」と記している。


接ぎ木するページが乾かないうちに  上田 仁


    養生訓

灸の普及は、江戸時代の数多くの針灸書の出版にも見ることができる。

その先駆けは、16世紀の漢方医で、足利将軍織田信長、豊臣秀吉
                 まなせ どうさん
徳川家康などに重用された曲直瀬道三が編纂した「針灸 集要」である。

道三は当時の新しい中国医学を日本に導入し、

以後の漢方医学基礎を築いた日本医学・中興の祖と言われるが、

ほかにも多くの本を著した。

江戸初期の儒学者・貝原益軒は医学にも通暁し、

その著書で庶民への啓蒙的養生書・「養生訓」には、

灸の効用、製法、施灸後の注意点などが細かに記述されている。

歳月よ抵抗できぬ離岸流  新家完司

ちなみに家康は、自身で薬を調合するなどさまざまな健康法を取り入れて、

75歳まで長生きした。

その家康が、生涯に一度、生死に関わる大病にかかったことがあるという。
                                    よう
小牧・長久手の合戦の時に、当時、死亡率が高かった「癰」(おでき)という

病気を患っている。

癰は「はれもの」という読みもするように、傷口が膿みをもって腫れてくる

病気で、細菌の入り具合で、敗血症という病気にもなる怖いものだが、
   かすやちょうかん
医師の糟屋長閑が塗り薬と灸の治療を行なって命を取りとめたといわれる。

 【一筆薀蓄】 
「珍美の食に対するも 八九分にして止むべし」貝原 益軒腹八分を説く

シンプルに生きた割には憎まれる   靍田寿子


    彩絵檜扇 (平安時代後期、厳島神社蔵)

扇を形作る檜の薄板全てに胡粉、さらに雲母を塗り、
金銀の箔を散らして絵を描く。児童および婦人用の檜扇。

「扇」

今日「扇子」と呼ばれることが多い扇は、「風を送る」という意味の

「あふぐ(扇ぐ)」の派生語で、折り畳みの形は日本で生まれたと言われる。

扇はあおいで風を送り暑さを和らげるものだが、

平安時代には公家の
正装などに用いられるようになった。
                               しゃく
例えば、公家の男性の正装「束帯」では、手に「笏」を持つのが正式だが、

代わりにヒノキで作られた「檜扇」も使われた。

公家の女性の正装「十二単」の手には、極彩色の檜扇が添えられた。

のちには、和歌を書いてやり取りするなど、

扇は恋の道具としても使われるようになった。

おばちゃまと猫と少しの団扇風  山口ろっぱ
              ひたたれ だいもん
武士の時代になると、直垂や大紋といった正装に扇を持った。

武士にとって扇は、刀と同じものと考えられ、

刀と同じく左の腰に差すのが決まりだった。

扇は、能や歌舞伎、舞、茶道、香道などにも欠かせないものとなった。

例えば、茶の湯の席では、茶をいただくときや掛け軸や茶碗などの

道具を
拝見するとき、膝前に畳んだままの扇を置くことが作法となる。

扇を置くことで境(結界)を作り、相手への敬意を示すもので、

その作法は今日まで続いている。

 【一筆薀蓄】  
  「扇」という漢字は、本来、軽い扉のことを意味し、

   そこから転じて「うちわ」のことをいうようになった。

鹿は野をかけるいつかは骨になる  墨作二郎

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ソライロヲミル海月のマボロシヲミル  山口ろっぱ


  4大老・5奉行
右から、毛利輝元・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・石田三成・
前田玄以・
浅野長政・長束正家・増田長盛 (画面は拡大してご覧ください)

慶長3年(1598)7月、自分の死が近いことを悟った秀吉は、

徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に宛て遺言を送る。

「返すがえすも秀頼のこと頼み申し候。五人の衆 頼み申し候。

委細五人の者に申しわたし候。名残惜しく候。以上」

息子・秀頼の行く末を案じる秀吉。

家康に秀頼の後見人になるように依頼する。

「露と落ち露と消へにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」

生きてとんとんと天下人となった秀吉さえも、その末路は空しいものだった。

零ひとつ増えて火柱遺言書  上田 仁

徳川家康

「秀吉の足跡」

天正10年、信長の暗殺後、光秀を討ち継承問題で勝家を破り権力を奪取。

天正13年、関白太政大臣になり、朝廷から豊臣の姓を受ける。

天正17年、側室の淀君が嫡男・鶴松を出産。

天正18年、小田原北条氏を攻め落とし、天下統一完成。

天正19年、鶴丸と弟・秀長が病死。千利休の切腹。

文禄元年、二度の朝鮮出兵に失敗。淀君が第二子・秀頼出産。

      関白秀次切腹。キリシタンの弾圧。地震による伏見城倒壊。

慶長3年 3月の醍醐の花見の後、5月ころから体調を崩して床に伏す。

      下痢、腹痛、食欲不振、手足の激痛などの症状が出。

       漢方薬の効果もなく痩せ衰え病状は悪化の一途、失禁もあった。

病名はほかに、急激な痩せかたから大腸がんや赤痢が疑われ、また認知症、

栄養の偏りによる脚気、脳梅毒、尿毒症、女好きの過淫が祟った腎虚、等々

いかにも秀吉らしい病気の種類の賑やかさである。

横隔膜ピクピクいとしい いのち  靍田寿子

 前田利家

教宣教師・ロドリゲスが秀吉を見舞った時の様子を次のように述べている。

「干からびたかのように衰弱しており、ぼろぼろになっている。

まるで悪霊のようで人間とは思えない」

生きる力を全て使い果たしたかのような醜悪な終末だったと語っている。

     ねんれいしつきじゅつ               しんいけい
一方で『燃藜室記述』には「秀吉は明の使節・沈惟敬によって毒殺された」

と、
とんでもない説もある。

そして慶長3年8月18日、秀吉、62年間の生涯を閉じる。

吹き溜まり行きの最終便が来る  岡内知香

毛利輝元

慶長4年4月、遺骸は伏見城から運ばれ、阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬。

朝廷から「豊国大明神の神号、正一位の神階」を授与される。

神として祀られたため、葬儀はとり行われなかった。

その後、豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、「五大老と五奉行」が秀頼を補佐。

五大老と五奉行は、明軍と和議を結び、朝鮮からの撤兵を決定。

この戦争は、朝鮮に多大な被害を及ぼし、

明は莫大な戦費と兵員の損耗によって疲弊、滅亡へ向かう。

参戦した西国大名たちの財政は逼迫。

秀吉の没後、豊臣政権の内部抗争も激化。

関ヶ原の戦いへの導火線となっていく。

通り雨昨日のことは零にする  三村一子
 
上杉景勝・直江兼続

「五大老・五奉行」
自分の死後、幼い跡継ぎの秀頼の行く末を案じた秀吉は、
秀頼を盛り立て豊臣政権を守っていく為の制度・五大老と五奉行を定めた。
五大老とは立法機関であり、豊臣家に忠誠を誓った有力大名5人を任命。
五奉行とは、五大老の下で実務を司る機関とされ、秀吉の家臣で、
官吏としての行政処理能力に長けた5名が任命された。
 
「五大老」
徳川家康
北条攻め後、秀吉により北条旧領の関八州に転封。
秀吉没後、五大老の一人として秀頼を補佐。関ヶ原戦で三成を筆頭とする
反対勢力を一掃し、権力を一手に握る。更に15年後、大阪夏の陣にて
豊臣家を滅ぼし、徳川政権を盤石のものにする。 
 
前田利家
若い頃からの親友として陰に日向に秀吉を助けてきた。
勇将として若い武将達から信頼される。信義を貫き豊臣家を守ろうとするが、
「秀頼公をお守りせよ」との遺言を残し、秀吉の死からわずか1年後に病没。

毛利輝元
家康に次ぐ身代の大きさを期待され、西軍の総大将として大阪城に入るが、
決断力に欠け、関ヶ原で三成が敗れると、為すすべもなく降伏している。

上杉景勝
関西の三成に先立って、領国の会津で家康に反旗を翻す。
三成と東西から挟み撃ちにする作戦だったが、それを読んでいた家康は、
伊達、最上といった東北の大名に後方を攪乱させ、その隙に西へ進軍。
関ヶ原で西軍が敗れた後も、徹底抗戦の構えを見せる景勝だったが、
家名存続を条件に降伏。

宇喜多秀家
関ヶ原戦の当時27才、五大老中最若年。秀吉の養女で利家の娘・豪姫
が正妻であることなどから豊臣家に対する忠誠心は人一倍強かった。
関ヶ原では西軍の主力として活躍するが、敗れて逃走。
のち捉えられて八丈島へ流罪となるも、そこで84才まで生きる。  

底辺に本音しっかりへばりつく  柏原夕胡
 
宇喜多秀家

「五奉行」
石田三成
秀吉の重臣。検地や財政などんお政務に手腕を発揮、「治部」と呼ばれる。
秀吉没後、加藤清正ら7人の武将の襲撃を受け、佐和山に逼塞するが、
台頭する家康の打倒を決意し、毛利輝元、宇喜多秀家らと結び挙兵する。
 
増田長盛
事務処理能力に長け、関ヶ原の際は西軍の中心として大阪城に入るが、
家康に密告書を送るなど不穏な行動を取る。 輝元が、三成から救援要請が
来ても大阪城を動かなかったのは長盛の裏切りを心配した為という説もある。
関が原敗戦後、家康に事情釈明するも許されず、高野山へ追放ののち切腹。 

長束正家
経理に明るく、豊臣政権の大蔵大臣的役割を担う。
五奉行の一人として西軍に参加したものの三成のような積極的意志はなく、
関ヶ原でも 軍勢を率いて出撃していながら、結局傍観したまま終わってしまう。
その後、自分の城に戻ったところを攻められ切腹。 
 
前田玄以
僧侶である。法律や朝廷のしきたりなどに詳しく、京都奉行として活躍した。
関ヶ原戦では、家康に内通し、増田長盛と違い、こちらは許されている。
 
浅野長政
秀吉の正妻・おねの義兄であり、早くから秀吉に仕えた。
奉行として行政一般を司ったが、武将としても活躍している。
秀吉没後は家康に取り入り、関ヶ原戦では息子・幸長を東軍に参加させている。

土砂降りを歩く自虐も捨てられず  笠嶋恵美子

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乱調のタクトに冬が舞い降りる  桑原すず代
 

        醍醐花見図屏風

秀吉が死の直前に催した京都の醍醐寺の花見を描いている。


  醍醐の花見ー2

秀吉(右)の左横が北の政所、その横で赤と茶の幟を持つのが淀と竜子

「秀吉とは」

慶長3年3月、心労の多かった秀吉は、気晴らしにと花見を計画した。

醍醐寺で行われたその花見に招かれたのは、

豊臣家の女たちとその侍女、
大名の女房衆だけという、

異様なものだった。


醍醐の花見で能を舞う秀吉その中で、秀吉は、思い切り楽しんだ。

これは慶長の大地震によって亡くなった、多くの女性たちを弔うだけでなく、

秀吉自身が元気な様を、大勢に見せつけ、最期が近いことを感じさせまい、

とした目的もあったとされる。

しかし、その醍醐の花見から2ヶ月もしない5月5日、

秀吉は、伏見城で病床の人となる。

「太閤秀吉が伏見城で病床についた」

家康から江戸城に報せが入ったのは、それから2ヶ月後のことだった。

途中下車してみませんか屋台骨  田口和代
          がいき
秀吉の病名は、咳気だ。

咳気とは、咳き込むことだが、肺炎また肺癌と考えられる、重い病気だった。

病床の秀吉は、自分の死後、豊臣家と秀頼の将来が不安で仕方なく、

新しい政治体制として、「五大老と五奉行の制度」を定めた。

五大老は家康を筆頭に、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家

政治をとりしきる集団指導制ではあるが、顔ぶれを見れば、

家康に牛耳られてしまうことは必定だった。

そこで秀吉は、大老をチェックする「奉行制度」も作った。

石田三成を筆頭に、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長塚正家の五人が、

あらかじめ細目を決め、五大老にあげる仕組みだ。

「よしよし」 秀吉は病床で安堵した。

味方だと言うが斜めに構えてる  籠島恵子


       秀吉の遺言状 (慶長三年八月四日)

『秀よりの事なり立ち候やうに、此かきつけしゆへしんにたのみ申候。
  なに事も、此ほかは、おもひのこす事、なく候。かしく。
  いへやす(徳川家康)ちくせん(前田利家)てるもと(毛利輝元)かけかつ(上杉景勝)
  秀いへ(宇喜多秀家)
返々、秀より(秀頼)事たのみ申候。
  五人のしゅ、たのみ申候。いさい、五人の物に申しわたし候。
  なごりおしく候』

7月半ば頃になると秀吉は再起し難いことを悟り、

秀頼と豊臣家の将来を、
いろいろと憂慮し、大名たちを集めて

「11か条に及ぶ遺言」を述べた。


「第一条」は、家康に対して、秀頼を家康の孫・千姫の婿にしたのだから、

その孫婿・秀頼を取り立ててほしいと、五大老の前で何度も懇願した。

「第二条」は、若い頃から付き合いのある利家に対して、

「秀頼の守り役として面倒を見てもらいたい」と、咳き込みながら語った。

「第三条」は、「親の家康殿が年をとられ、いずれ秀忠の時代が来たら、

  家康公と同様に、秀頼の面倒を見てもらいたい」と秀忠に頼んだ。

嗄れた耳は明日を培養中  河村啓子


  五大老の花押


五大老と五奉行は、それぞれ記請文を認めて、その命令に背かないことを

紙に誓い、これに「花押」を書き、血判を押した。

「なごりおしく候。秀頼をよろしく頼む」

家康に最期の言葉を残して、息絶えた。
8月18日、享年62歳。

天下人である太閤秀吉といえども、最期は、このような姿をさらす。

それを見守った五大老と五奉行の胸には、それぞれの明日が去来した。

「秀吉辞世の句」

”露と落ち露と消えにし我が身かな なにはのことは夢のまた夢”

あの世からこの世の夢が見えますか  小永井毬

ポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスはその著書・『日本史』に、

秀吉に会見した際の印象として

「身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった」

と記している。因みに秀吉の身長は140㌢くらいだったとか。

あだ名「猿」の由来は顔ではない?

秀吉の容貌については、猿に似ていたとよくいわれる。

しかし、有吉弘行ばりにあだ名をつける名人だった主君の信長は、

秀吉を「禿鼠」と呼びこそすれ、「猿」と呼んだ確証は実のところない。

(余談ーフロイスは慶長2年7月8日に死去した。享年65歳)

通過するカメレオンなら雨上がり  蟹口和枝

秀吉は天下人となったのち、自らの神格化のため、

母なかは懐に太陽が入って受胎する夢を見て、
    ひえさんのうごんげん
自分を日吉山王権現の申し子として生んだという

「日輪受胎説」を流布させた。


ここから「猿」というあだ名も、相貌が似ていたからというよりは、

日吉神社の神獣が猿であることに由来する、とも考えられている。

私という欠片を入れてシチュー鍋  雨森茂樹

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