忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[902] [901] [900] [899] [898] [897] [896] [895] [893] [892] [891]

「きゃあ」と「ぎゃあ」この濁点の勘違い  森井克子





北斎77歳の画像
 
 

「葛飾北斎ー英雄伝」ー飯島虚心・北斎伝ゟ
 
 

「貧すれど鈍せず」
此の頃(本所林町に住んでいた頃)江戸に来たりし和蘭(オラン
ダ)の加比丹某(カピタン・ヨーロッパ船の船長)、我国町人の
小児出産の体を始として、年々成長の体、筆算稽古の体、又、年
たけて遊里などへ通う体、又、年老いて死去し、葬礼を行うの体
を図し、男子女子と一巻づつ、二巻に描かんことを北斎に依頼し、
金百五十円の謝礼にて、約定せり。加比丹附属の医師もまた、同
図二巻を描かんを乞う。北斎承諾して、数日間にこれを描きて、
四巻の図を携えて、旅館に到りしに、加比丹は約束通り百五十金
を出し、二巻を受納せり。
 
 

満面の笑顔よかったなと思う  河村啓子
 
 

それより医師の許に到りしに、医師の曰く「予は加比丹に異なり
薄給の身なれば、同等の謝礼はなし難し、半減即ち七十六金にて
二巻を与え給うべし」北斎少し憤りて曰く「何故に最初に、その
ことを明かし給わずざるや。絵は同じくても、彩色その他を略す
れば、七十五金にても描かるるなり。すでに描きたる上は、今更
なすべきなし。又これを七十五金にて進ずるときは、加比丹に対
し余り高価を貪りたることに当たり、心苦しき限りなり」医師の
曰く「されば二巻の中、男子の図一巻を七十五金にて与え給え」
と。
 
 

good-byeが上手に言えるようになる  清水すみれ
 
 

この時、尋常の画工ならば、承諾して一巻を与うべきに、赤貧洗
うが如き北斎、その約に背きたるを憤り、二巻共に懐にして、直
に家に持ち帰れり。家婦その故を聞き、諫めて曰く「日夜丹精を
凝らし描き給える画巻なれど、この図我邦(我がほう)にては珍
しからぬものなれば、売らんとするも、買うものなかるべし。時
間と費用を算すれば、損失なれども、七十五金にて、医師に与え
給うが得策なるべし。今七十五金を得ざれば、貧苦の上に、貧苦
を重ねるの道理ならずや」。
 
 

水彩画の海でひとでになるつもり  月並与生
 

北斎黙して辞なく、暫くありて曰く「予もまた其の貧苦の日に迫
るをしらざるにあらざるなり。されど外国人の約に背きしを、そ
の通りになしおく時は、自分の損失は、免るるとも、我邦人は、
人によりて掛値をいうとの嘲(あざけり)は、蓋し免るる能はざ
るなり。故に予は深く其のところを考えて、持ち帰りしなり」と。
後に訳官(通訳)このことを聞き、加比丹に語りければ、加比丹
も深く感じて、直に百五十金を出だし、かの二巻も請い得て、本
国に持ち帰りしとぞ。
その後、和蘭より絵を請うもの多く、毎年数百葉を描きて、長崎
に送り、海外に輸出せしが、後に幕府国内の秘事を洩らすおそれ、
これを禁止せり。
 
 

車間距離空けてページを繰らせない  上田 仁


「訳」
江戸に来た和蘭の加比丹と付きそいの医師が北斎のところにやっ
てきて、日本の男女町人の様々な生活の絵を、それぞれ2巻ずつ
描くことを依頼した。(医師の名はシーボルト)完成した絵を持
参した北斎に加比丹は約束の150金を支払うが、シーボルトは、
「自分は薄給だから、半額にまけてくれないか」と言った。
北斎は怒って「同じ絵でも彩色その他を替えれば、半額でも画け
たのに、もう描いてしまったものはどうしようもない。それを半
額にしたとしたら、加比丹に対し高価をむさぼったことにもなり、
申し訳ないことだ」」と言って、その絵を持ち帰ってしまった。
 
 

しかとされようが憎しみ浴びようが  藤井孝作
 
 

事情を聞いた北斎の妻は「うちは貧乏で、絵は珍しく国内では売
れないだろうから、半額でも売ればよかったのじゃないのかい」
と北斎を諫めた。北斎は「貧乏はわかっているが、約束を違えた
外国人に対し、日本人は人によって売値を変えると嘲笑われたく
なかった」と答える。後日、通訳士からこのことを知った加比丹
は感心し、残りの2巻の150金を払い、引き取り本国に持ち帰
った。それが発端で北斎の絵はオランダ人の間で評判になり、毎
年数百葉の注文が来るようになった。が、幕府は国内の秘事が国
外に漏れることをおそれ、これを禁止した。シーボルト事件を受
けてのことだったのだろう。
 
 

沈黙のしこりをついに笑わせる  岡内知香




中央区民長崎屋跡(ぶんかざい)
 
 
 

「按ずるに、和蘭人江戸に来れば、本石町四丁目(虚心の勘違い)
長崎屋の家を旅館とするを例とす。長崎屋は幕府の用達なり。
北斎が描きし享和二年板『画本東都遊』に長崎屋の図あり。」
和蘭人が江戸に来た時は本石町三丁目の薬種屋・長崎屋源右衛門
方を定宿とした。物見高い江戸市民は、時折訪れるオランダ人に
好奇のまなざしを向け、日本の蘭学者・医師などは直接交流や交
換教授の場を求めて数多く訪問したといわれる。
 
 

僥倖を連れて来たのは泣きぼくろ  岸井ふさゑ   
 
 

 
 
北斎の鶏絵(若冲もびっくり)         


          

「十一代将軍・徳川家斉も唖然」 写山楼の話ゟ
時に家斉公、北斎の妙技を聞き、放鷹(ほうよう)の途次、写山
楼文晁および葛飾北斎を浅草伝法院に召して、席上絵を描かしむ。
文晁まず描く。次に北斎、将軍の前に出で、従容(しょうよう)
として、怖るる色なく、筆を揮ってまず花鳥山水を描く。左右感
嘆せざるものなし。後に長くつぎたる唐紙を横にし、刷毛をもて
長く藍を引き、さて携えたる鶏を籠中より出だし、さらに捕えて
跡(鶏の足裏)に朱肉をつけ、これを紙上に放ち、跡痕を印残せ
しめ、「是はこれ立田川の風景なり」とて、拝一拝して退きたり。
人皆その奇巧に驚く。この時、写山楼傍らにありて汗を握りしと。
(将軍家は毎年十二月鷹を放ち鶴を捕え、朝廷に献ずるを例とす。
故に将軍時々野外に出て、鷹を放ち、これを慣らし、鳥を捕う)
 
 

ニワトリの卵グッドデザイン賞  新家完司
 
 

「訳」
文化11年、11代将軍徳川家斉北斎の画力を聞きつけ、鷹狩の
帰りに滞在した浅草伝法院に北斎他を呼び画を描かせた。最初は
谷文晁がまともな絵を書いた。次にに北斎が御前に進み出たが恐
れる気色なく、まず普通に山水花鳥を描いた。次に長くつないだ
紙を横にして刷毛で藍色を引いた。そして持参した籠からだした
鶏の足に朱を塗って紙の上に放ち、鶏がつけた赤い足跡を紅葉に
見立て、「竜田川でございます」と言って、拝礼して退出をした。
一同はこの斬新な趣向に驚嘆した。文晁は傍らで、北斎の奇行に
冷や汗をかいていた。
 

どうぞそのまま刺が抜けたら君じゃない  加藤ゆみ子
 
 

北斎の弟子・露木氏曰く、将軍北斎の妙技を一覧せらるる内命あ
りし時、7、8日前より、家主北斎の一身を預かりて漫りに外出
するを許さず実に将軍の前に出づるは、無上の栄誉なれば、北斎
も大いに喜びしが、礼儀を正し、窮屈なるには殆ど困却せしとぞ。
これより北斎の名、四方にかまびすしく、絵を請うもの、踝を接
して至り、笈を負い来たり学ぶもの日に多し。然れども北斎の貧、
猶旧のごとし。
 
 

引っ張たらパンツのゴムが抜けました 川畑まゆみ
 
 

「訳」
弟子が語るには、北斎自身は将軍の前に出ることを無上の栄誉に
感じ、大いに喜んでいたが、礼儀を正し、窮屈なことには困った
という。また長屋の大家は、将軍にご覧に入れるとの内命がある
と、トラブル・不祥事の心配な北斎の身柄を預かって、拝謁の日
まで外出を控えさせたという。将軍に拝謁の後は北斎に仕事は増
えたが、貧乏暮しは変らなかった。


財産がないので遺産分けもない くんじろう





大達磨
 
 

「奇人は奇人らしく」
文化元年、江戸音羽護国寺に於いて観世音の開帳あり。四月十三
日、本堂の庭前にて、北斎初めて大画の大達磨を描けり。先ず庭
一面に麦藁をしき、畳数百二十敷の大厚紙を、その上に置き、墨
汁を4斗入りの酒樽(4斗)に充て、藁箒をもて、筆に代え、恰
も落ち葉を払うがごとく、紙の上を馳せ廻りて、異形の山水のよ
うなものを作る。暫時にしてなるといえども。見るもの、その何
たるを弁ぜず。さて本堂の上にのぼりて、これを見れば、即ち、
半身の大達磨なり。全図の広大なる、口に馬を通すべく、眼に
人を座せしめて余りあり。衆其の腕力の奇功に驚かざるはなし。


人生を画布一面に描くつもり  田中 薫





布袋
 
 

或る画工云わく「この時、堤等琳などは、北斎が如何にして描く
やと、首を傾けつつ護国寺に到り、一覧して大いに驚きたり、聞
く藁箒は、柄を長くし、其の端に石を吊り下げ、柄を肩にかけて
描きたりと。疑うべし」と。
その後本所合羽干場に於いて、前のような大紙に馬を描き、また
両国回向院にても、布袋の大画を描く。
この布袋を描いたあとで北斎は、面白がって米一粒へ雀二羽を描き、
人は皆これを肉眼でみるのに苦労したという。
 
 

神様がのんびりされる無人島 寺川弘一

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開