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川柳的逍遥 人の世の一家言
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遮断機が上がる「いつか」とすれちがう  くんじろう






  甲州三坂水面


 「富士山と云えば北斎」
北斎について馬琴先生がかつてこんなことを申しておりました。
「右に置きたい人物をわざと左に描いておくと、北斎は必ず右
に持ってくる」 このように馬琴は北斎が先天的ユーモア人であること
を熟知しながら何度も喧嘩をしてしまう。
上記の写真は、北斎らしさを顕著に表した絵で、陸の富士山は夏で、
湖に映っている富士山は雪を被った冬。これが川柳的北斎なのです



額縁を抜けてときどき蝶になる  小林すみえ




「滝沢馬琴」-③  北斎と絶交





『椿説弓張月』は犬猿の仲の馬琴・北斎2人が珍しく仲よく、文化4年
(1804)無事に刊行される運びとなった。だが江戸の書肆がこれに
安堵したのも束の間、文化5年(1808)書肆の須原市兵衛に請われ
『三七全伝南柯夢』(さんしちぜんでんなんかのゆめ)という読本で2
人は、再びコンビを組むことになる。この仕事も前半は喧嘩もなく順調
に進んでいた。が、中盤から後半に入り「またもや」角を突き合わせる
事態が起こる。またもやとは、宝暦7年(1757)出版の『通俗忠義
水滸伝』(岡島冠山・翻訳本)が漢文調で読み難く、文化2年になって
馬琴が読み易い『新編水滸画伝』を刊行することになった時のこと。


めでたしで終わった話でしたのに  津田照子




幼少時代から本の虫であった馬琴は和漢の古典に造詣が深く、とり分け、
唐の有職故実(ゆうそくこじつ)の風俗について並々でない知識があり、
その博識ぶりは、北斎の及ぶものではない。絵のことにしか興味のない
北斎が、宋代の文化・習俗について、知悉しているわけでなく、
「馬琴は家宅や衣服を支那風にと言うが、かつて見たこともないものを、
どのように描けというのか」とブツブツ言いながらも、一応は三国志で
調べ、空想ながら支那を描いてみせた。





  


不幸より感度が鈍い幸福度  ふじのひろし




その挿絵に完璧主義の馬琴が噛みついたのである。
『…人物の衣服、室内の装飾、日本にあらず、支那にあらず一種の風を
描き、またその挙動は、酒宴の席に卓子(テーブル)を置き、数人の客、
椅子により、芸妓は地板に列座し蛇味線を弾くなど、その図、和漢錯雑
(まぜこぜ)抱腹に堪えざるもの、往々これあり。北斎翁この図をもて、
自ら足れりとするか、挿画中に酔中筆と記せる一紙あり。余は『画伝』
九編をあげて、酔中筆と記さんを欲するなり。馬琴の痛論惜かざるもま
た宣ならずや。嗚呼画伝九編は、蓋し北斎一世の失策なるべし』
この挿画のことで馬琴は「北斎が挿画を描くなら、ワシは後編の翻訳は
やらない」と云い出し、一方の北斎も負けておらず「馬琴の翻訳ものは
もう描かない」と、まるで子供の喧嘩が始まったのである。


愛憎を重ねて人間しています  杉浦多津子




この喧嘩に困った版元・角丸屋甚助は、江戸の書肆を集めて、評議会を
開き、夫々の意見をまとめた結果は次のような答えになった。
「当時の馬琴の作、北斎の画、並び行われて何れも優劣なしといえども、
この書に絵本といえる題号あれば、画工の意に従うべしと言えるに決し
たり。思うに『水滸画伝』の図を選ぶは難かるべし。如何となれば、未
だかつて邦人が見たこともない家屋、衣服、器具などを描くというのは、
無理がある。…後略」ということで落着したことがある。評議の結果に
ついて馬琴は面白いはずもないが、書肆からは仕事を頂き、本は売って
もらう義理もあり、泣く泣く引き下がった。


引き際の美学で人は試される  梶原邦夫









寄り道はさておいて『三七全伝南柯夢』に話を戻す。
椿説弓張月の挿画の評判も上々で、水滸伝の評議のこともあり、北斎は、
調子に乗って馬琴の意に沿わないことをやらかしたのである。馬琴は読
本創作上の思想として堅持していた「勧善懲悪」の意を表すため,三勝
半七の情死という実説を,三勝の生母・敷浪と半七の父・半六が悔恨の
自殺をとげる結末に改めようと考えた。このクライマックスのところで、
北斎は話のなかには出てこない、野狐の食をあさる体を描いて、寒夜の
景物にしたのである。馬琴はこの板下を見て「この如く蛇足を添えたら
情死の男女は、恰も野狐に誑かされるようなもの、速やかに削除しろ」
と板下を北斎につき返した。これに北斎はカチンと来た。
「馬琴はワシの挿画によって、著作の意を補っていることを知らない。
強いて削除するなら前回より描いた挿画を全部返せ。ワシは今後、馬琴
の挿画は描かない」と言い返した。これにも版元は甚だ迷惑し百方奔走
して、ようやく和解に漕ぎつけたということがあった。
富士の狩場へ大磯の狐も出  錦帯




沸点が違いすぎますさようなら  きむらまさこ




これに懲りず文化9年、江戸の書肆・榎本平吉が文化5年の「南柯夢」
評判がよかったことで、馬琴・北斎に続編を書いて欲しいと言ってくる。
こちらにも懲りない2人がいて、その仕事を引き受けることにした。
北斎が又この挿画を描いたが、再びそれで馬琴とのあいだで議論が生じ、
2人は終に交わりを絶つまでに発展したのである。議論の元は、刀屋同樹
の立ち回りのところで馬琴が「同樹が衣をからげ、草履を咥えている絵を
描いてくれ」と言ってきた。北斎は笑って「こんな汚い物を誰が口にする
というのか、どうしてもと言うのなら、お前が先に咥えてみろよ」さらに
「敵を討つという時に一度脱いだ草履を拾い直して、口に咥えるなんぞ理
屈にあわねえ。新しい趣向だといっても程があらあァ」とまくし立てた。
この喧嘩で2人は完全に絶交することになる。のちに馬琴は「里見八犬伝」
の執筆をするが、挿絵は柳川重信、渓斎英泉、北斎は弟子を代役に行かせ、
北斎は一切関わらなかった。



「あっ」という隙間「ぽっ」という隙間  山口ろっぱ






      北斎の狐の図  『三国妖狐伝 第一斑足王ごてんのだん』




「馬琴と北斎の性格」
気位高く強情、一匹の大きな天邪鬼をこころに巣食わせる北斎と、
人間嫌い世間嫌いで知られる狷介そのものの馬琴とが、そうそううまく
いくわけがない。ここで両者の性格を日常生活から見てみることにする。
 馬琴の日常生活は、電車の時刻表のように規則正しい。
十数年一日も欠かすことなく書いている日記が証明しているように、
とことん几帳面な性格の人なのである。その一日一日の行事に、少しの
歪みもなければ、歪みもなくほとんど判に押したような時間でスケジュ
ールが組まれている。几帳面な性格が倦むことなく続けられている。
これは一に方正にして規律を好む彼の性格であるが、滝沢家代々の厳格
にして形式的なる庭訓の結果でもあった。馬琴は畳に仰臥して読書する
習慣があった。また時には、胡坐も組んだ。「自ら深く思い定めたる」
うえで決めた規律には、たとえどんな小事にも、これを破り侮ることを
するまいとして始終努めていた。

なめくじがとっても偉く見えてくる  佐藤正昭





 
馬琴の著書・北斎の絵画が並んだ
  江 戸 の 本 屋




例えばこうである。
「朝は夏冬とも大抵六っ時から五っ時(午前6~8時)の間に起きる。
洗面後まず恭しく仏壇に手を合せ、それから縁端に出て、仰向きで顔を
撫で、耳を引き、歯をたたき、胸を擦り、腕をさすり、腰を摩り、而し
て腰に手をあてて、じっと何かをみつめたり。深呼吸法などを繰り返す」
これは水戸烈公の運動法で、藩士・立原杏所などから伝授受けた人から、
聞き伝わったものだが、馬琴は、水戸烈公自慢の運動は欠かさなかった。
それが終わり質素な食事、それから客間の襖際に坐ってゆっくり茶を啜る。


沈黙というかたくなな意思表示  青木敏子




そのうちには大抵書斎の掃除がすむので、その方へ移る。そして午前中に
必ず前日の日記を記入してから著作の筆をとる。しかしその頃には、大抵
版下書きの筆耕者が前日の原稿を書き上げてきているので、その校正に目
を通さなければならない。時には、息子の宗伯などにも校合(校正)を命
ずることもあるが、多くは自分でやらなければすまなかった。
綿密周到な彼の性質としては、例え誤字・俗字でもそのままには置けない。
一々字引に照合して字画を正している。それでも出版本に誤謬がときどき
あるので、馬琴は諸方の知人に誤字脱字の注意を頼んでいる。そのため出
版社はいつも馬琴の校正難に苦しんで、是非なく出版を断念した者もあっ
たという。日記をみても、著作のための労苦よりも、馬琴は校正のために
多くの精力を尽くして、絶えず書肆の不徳義と、印刷職人らの不忠実とを
罵っている。


この頃は笑い転げる事減って  荒井加寿




「次に北斎の日頃はどうなんだろう」
北斎の弟子の露木為一から聞いたところによれば、北斎の性格は、礼儀
やへりくだることを好まず、淡泊で、知人に会っても頭を下げることは
なく、ただ「こんにちは」というか「イヤ」というだけで四季の暑さ寒
さや、体調の具合など長々と喋ることはなかった。
また買ってきた食べ物も器に移さず、包みの竹の皮や重箱であっても、
構うことなく自分の前に置き、箸も使わないで、直に手で掴んで喰い、
食べ尽くすと重箱や竹の皮はそのままに捨て置いていた。という。


仲間だよ蟻も鼠もゴキブリも  新家完司




「こんな話もある」
かつて母の年回に、馬琴が北斎の困窮を察して、若干の金を紙に包んで
渡したことがある。夜になって2人が談笑をしている時、北斎が袂から
紙を取り出し、鼻をかんで投げ捨てた。馬琴がこれを見て「これは今朝
渡した香典を包んだ紙ではないか。世の中にある金というもの、仏事に
供せず何ということに使うのか」と怒り罵った。
すると北斎は、
「君が言うように頂いた金は、自分の食い物に使った。精進物を仏前に
供し、僧侶を雇い読経をしてもらうことは、世俗の虚礼である。如かず
父母の遺体、すなわち我が一身を養うには、一身を養い、百歳の寿を有
つのは、これ父母に孝ではないのか」馬琴はこれを聞いて黙然とした。
 文化9年、馬琴と北斎は絶交をした。が、馬琴の書簡には、北斎を賞
賛する記述が散見され、その画力は後々も認めていたようだから、絶交
は本意ではなかったかもしれないし、また一緒に仕事をしたみたいと考
えていたかもしれない。しかし馬琴は一端言い出したことは絶対にひっ
こめない。この頑なな性格をもって、生涯手紙一本の付き合いも持たな
かった。


ゆうべから小象一頭分の鬱  斉藤和子

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