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川柳的逍遥 人の世の一家言
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どの紐を引いたら鐘がなるのだろう  中野六助

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    本能寺焼討ちの図

右端に槍に貫かれた信長、左端に森蘭丸、槍を突くのは安田作兵衛

天正10年(1582)6月2日未明、

わずかな手勢のみで、洛中に滞在していた織田信長とその長男・信忠は、

家臣・明智光秀の軍勢に包囲されて自害した。

この「本能寺の変」、たまたま、

信じられないような、絶好のチャンスが到来したのに気づいた光秀が、

”出来心で実行した”ともいう説があるが、

”光秀が信長・信忠親子を襲った理由”は、今もなお、大きな謎である。

『逆順無二の門 大道は心源に徹す 五十五年の夢 覚来(さ)めて一元に帰す』

                                          〈光秀辞世〉

おとぎ噺の切手が貼ってある別れ  森中惠美子

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 織田信忠

信忠は、優秀な息子であり、信長も家臣からも、将来を嘱望されていた。

天正10年3月には、独力で甲斐・信濃の武田勝頼を制圧し、

信長の正式な後継者と目されていた。

この本能寺の変によって、

二本の柱を失った織田家は、大混乱となった。

封印を剥がすと波が荒れてくる  早泉早人

滝川一益森長可(ながよし)らの重臣は、逃げかえるので手一杯。

柴田勝家は、北陸攻め、羽柴秀吉は、中国攻めで身動きがとれず、

残された息子・信雄(のぶかつ)と信孝は、いずれも凡庸であった。

お江たち三姉妹とは、本能寺の変を安濃津で知るのだが、

身動きはとれなかった。

織田信包が、津城から動かなかったためだ。

光秀討伐を目的として、次男・信雄が出陣したため、

織田の留守居として、残ったためである。

クッキーの袋上手に切れなくて  泉水冴子

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     清洲会議の図

和歌山県すさみ町の王子神社に奉納されている清洲会議の絵馬。

山崎の戦で、光秀が敗北した後の6月27日、

織田の後継者を決める会議が、清洲城で行われる。

「清洲会議」である。

この清洲会議で、信長の跡目について話し合われた。

・・・というのは間違いで・・・。

織田家の家督は、信長が安土に引っ越したときに、

すでに信忠が継いでいたから、

これは、”信忠の後継者を決める会議”というのが正解である。

 出世組消えて2次会盛り上がり  八木 勲       

ただ信忠には、正式な嫡子はいなかった。

永禄10年(1567)信忠11歳の時に、

7歳だった武田信玄の五女・松姫との、婚約がととのっていた。

ところが、元亀3年(1572)に織田と武田が手切れになったことから、

この婚約は、棚上げになってしまう。

しかし、完全に破談になったかどうかは不明である。

というのは信忠が、その後、正室を迎えなかったからである。

亡くなったとき、信忠には三法師丸、吉丸という二人の庶出の男子がいたが、

いずれも幼年で、後継者選びは、すんなりとは運ばなかった。

枝ぶりもながめて紐は思案する  笠嶋恵美子

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織田信雄

そうなると、織田家内の序列では、信長、信忠に次ぐ、

信忠とは同母弟の、信雄という考え方になる。

ところが、この信雄は早くに母の吉乃を失い、お伝役がよくなかったのか、

軽薄で、疑い深く残忍で、勝れているのは、歌舞音曲だけという人物。

父の了解もないまま、伊賀を攻めて大失敗をし、

織田家中でも、「三介殿のされることよ」 とあきれられていた。

本能寺の変のときにも、伊勢のあたりをうろうろしたあげく、

明智軍が撤退したあとになって、

安土城にはいり火を放っただけに終わったという。

うっかりで済まぬ豆腐の角である  山本早苗

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      織田信孝

また、柴田勝家が推していた三男・信孝は、信雄と同年であるが、

正室に準じるような存在だった、吉乃の子と同じ扱いをされず、

叔父の信包よりも、下の扱いだった。

織田家代々の家臣である勝家にすれば、

織田家の家臣という意識はあっても、信長個人の家来とは思っていない。

まして信長が、どの女性を愛していたか、など考えにもいれず、

いちばん出来がよい息子を、跡継ぎにすればよいと考えていた。

≪信孝の母は、斉藤道三の三女・濃姫

 ちなみに信孝から4番目下の、信高という弟が、スケートの織田信成くんの血筋である≫

節穴のまなこのほうを開けている  清水すみれ

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  三法師丸(秀信)

それに勝家にしてみれば、

明智討伐を、秀吉だけの功績にしたくなかった。

信孝こそ総大将であるという理屈で、

秀吉の手柄を矮小化しようとしたのである。

しかし、この勝家の主張には無理があった。

結局、秀吉が推す三法師に、信忠の跡を継がせ安土城に移ることとなる。

信孝は岐阜城へ、信雄は清洲城を継ぐこととなった。

難題次々もぐら叩きの其の侭に  木村良三

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   清洲会議2幕目

清洲会議にこのとき、出席した重臣は、

羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興(つねおき)の4人。

池田恒興は、実績よりも、「信長の乳兄弟」という地位で選らばれたに過ぎない。

丹羽長秀は、山崎の戦で信孝とともに、光秀を討ち果たしていたが、

それも、秀吉の中国大返しがあってのことであり、秀吉派といってよかった。

一方の重臣・滝川一益は上野国で地侍の一揆に大敗したばかりで、

出席の資格がなかった。

暗示から動けぬ腰になっている  たむらあきこ

信包は、会議には同席しなかったが、清洲城の別室で待機しており、

すでに、秀吉派につくことを表明していた。

そして、秀吉が強く推すこととなる信忠の嫡男・三法師もまた、

岐阜城から呼び寄せられ、

三姉妹とお市もまた、清洲城に呼びつけられて待機していた。

つまり

「誰が同席させるか」という準備の段階で、

すでに会議の場は、秀吉派で固められていたのである。

けっして妥協しない男にある狙い  柴本ばっは

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