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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ハエトリ紙に父の咳払い  河村啓子





        日本史新聞 伏見城攻防戦・小山会議





1588(慶長3)8月18日、豊臣秀吉は世を去った。
時代はたちまち激動の時を迎える。
秀吉亡きあとの天下の覇権をねらう家康と、それを阻止しようとする豊
臣家の重臣・石田三成の対立は激しくなり、やがて天下分け目の決戦へ
とつながっていった。
秀吉の死から2年後の1600年(慶長5)のこと家康は、会津の上杉
氏の討伐を名目に、福島正則・山内一豊など秀吉子飼いの武将たちを率
いて北上した。その途中、家康は、石田三成の挙兵を知った。
三成毛利輝元宇喜多秀家など、西日本の武将たちを集めて、
「家康征伐」を宣言したというのである。



投げられた言葉反復まだ続く  柴辻踈星



家康ー伏見城攻防戦~関ケ合戦戦







『小山会議』
7月19日、まだ江戸城に滞留していた家康のもとへ、一通の密書が届
いた。
「一筆、申し入れ候。今度、垂井において大刑(大谷吉継)両日相煩ひ、 
 石治少(石田三成)出陣の申分、ここもと雑説申し候。
 なほおひおひ、申し入るべく候。恐々謹言」
密書の送り主は増田長盛であった。
石田三成が謀議を凝らした相手である。



五奉行の謀反秀吉知らぬまま  越後朱美




家康は、驚いたが、慌てない。
予定通り江戸を経って下野小山に向かう。
7月24日、伏見城の鳥居元忠から、下野小山に届いた知らせを見て、
初めて随行した諸将八十余名に事情を明かし、評定に委ねることにする。
「小山会議」である。そこで家康は、
「このまま家康と行動をともにして三成を討つか、それとも家康を離れ
 て三成のもとに参ずるか…三成に味方する御仁は遠慮なく陣払いして
 よい」 と言下した。

満月になるまで面取りに徹す  山本早苗






          史跡小山評定跡

          小山評定跡由来





居並ぶ武将たちは、 清洲の福島正則、三河吉田の池田輝政、掛川の山内
一豊など、ほとんどが秀吉恩顧の諸将だった。
生前、秀吉は万が一、家康が叛旗を翻して、上方に攻め上ってきた時、
途中で迎え撃つために関東と関西のあいだに、これらの武将たちを配
していたのである。
亡き秀吉の思惑としては、ここで武将たちは家康に対抗して、その進
撃を阻止する役を務めるはずだった。
ところが、結果はまったく逆に出たのである。
誰一人として、席を立つ者はなかった。
元忠の書状から翌日の7月25日、豊臣系大名である福島正則はじめ、
武将たちは口を揃えて、家康に味方することを誓ったのである。



シュールな話だ 冬へと伸びてゆく  赤松蛍子



その背景には、武将たちの石田三成に対する強い反感があった。
家康は、豊臣家の家臣たちの内部対立をうまく利用して「関ヶ原合戦」
の意味合いを「三成打倒」のため、という目的にすり替えてしまったの
である。
7月26日には、福島正則を先鋒として家康方の軍勢は進撃を開始。
9月14日には、三成方およそ8万2千余と家康方およそ7万4千余は、
岐阜県南西部の「関ヶ原」で対峙した。



払っても払ってもある嫉妬心  柳田かおる



【episode】 「8月末、豊臣系大名の優柔不断を叱る」
評定の場で、
「余人は知らず。拙者は妻子を捨てても内府殿にお味方仕る」
 と、真っ先に発言した福島正則は、翌日早く、西に向かって出立した。
これが7月26日のことである。
しかし、肝心の家康が江戸城に帰城すると動かない。
東軍諸将は、尾張清州城に集結して軍令を待つが、具体的な指示が何も
届かない。 19日、ようやく
「諸将が未だに戦線を開かないのは、何事か」
と、咎める家康の使者が清州城に到着する。忠誠の証を見せろ、と。



包丁は切れないし砥石は無いし  森井克子





9月15日、戦端は開かれ、「関ヶ原の合戦」がはじまった。




戦いは石田三成方に裏切りが相次いで、家康の圧勝に終わった。
天下に並ぶもののない武将として、家康の覇権は定まり「将軍になる」
という夢も目に見えるほど近づいてきた。
ところが、家康は意外に慎重であった。
「もはや将軍宣下の儀をも仰せ出されるだろうと下々では噂しています」
合戦ののち、家康方の武将・藤堂高虎がこう言ったとき…、
家康は次のように答えたのである。
「将軍成りはまだ早い」
将軍になるためには、まだやらねばならないことがある。
それが家康の考えであった。



もう少しこのままそっと寝かせとこ  津田照子





      鳥居元忠壮烈な最後





『伏見城攻防戦』
徳川家の鳥居元忠、善戦も西軍四万に屈す。
話は関ケ原開戦の8日前に戻る。
戦いの火蓋は7月18日、西軍勢力圏に打ち込まれた楔(くさび)=
伏見城の攻防戦で切って落とされた。
島津義弘・小早川秀秋、毛利秀元ら四万の西軍が包囲するなか、忠義一
徹の三河武士・鳥居元忠率いる千八百の兵が籠城する。
籠城兵が全員玉砕の覚悟で待ち構えているとき、包囲側の腹が決らない
ので、なかなか勝負はつかない。
あっと言う間に29日になった。
苛立った三成は督戦にかけつけたが、それでも落ちない。
ようやく城内の甲賀者を脅して内応させ、攻略の糸口を掴む。
8月1日、伏見城は陥落。続いて、丹後・伊勢・美濃尾張の各方面を
次々に制圧するが、足並みの揃わない西軍としては上出来だった。
この「伏見城攻防戦」は、9月15日に行われることになる関ヶ原本戦
の前哨戦である。



過ぎ去れば思い出ばかり風ばかり  靏田寿子





       鳥居元忠            音尾琢真





『鳥居元忠』 「人たらし秀吉の毒牙を逃れる」
元忠とは=その死に様から、古くから忠臣として顕彰された。
派手な戦功こそないものの、無私・実直に家康の覇業を支えた武将だ。
その武功――家康の側近として数々の戦に参加している。
元亀3年(1572)の「三方ヶ原の戦い」では、斥候として敵陣深くに潜入
するも片足に深手を負い、その傷がもとで、歩くのもままならぬように
なったという。
天正10年 (1582)、信長横死後の「天正壬午の乱」では、北条方の軍勢
を寡兵で撃退し、戦後に郡内を拝領した。


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しかしその3年後、信州上田城の真田昌幸上杉景勝方に付いたため、
大久保忠世とともに、上田城を攻める「第一次上田合戦」は、あえなく
撃退された。
家康秀吉へ臣従後、1586年(天正14)に上洛した際、秀吉は家康
の重臣たちに官位を授けようとしたことがある。  そのとき元忠は、
「不才ゆえ二君には仕えられず、しかも粗忽者 ゆえ、殿下に出仕する器
 ではありません」 と言い、丁重に断っている。 
その後も秀吉は、元忠に執着したようだが、 元忠はすべて断った。



立ち去って行く姿まで美しい  山田 仁美






       源光庵の血天井①
       源光庵の血天井②

       養源院の血天井




秀吉による天正18年の「小田原攻め」では、相模築井城や武蔵岩槻城
の攻略に功績があった。戦後に家康が関東へ移封されると、重臣たちは、
周辺諸国への備えとして要衝に配置。
鳥居元忠は、東北勢の抑えとして下総矢作城 4万石を得た。
しかし、ここでは厳しい検地と過酷な収奪を実行し、領民からは忌み嫌
われた、という。
そして、「関ヶ原の戦い」をひかえた1600年(慶長5)6月、上杉
討伐のため東下した家康の命により、元忠は、伏見城の守備を任された。
そこに西軍の石田三成らの軍勢が襲いかかった。 元忠はわずかな城兵で
これを迎え撃つが、衆寡敵せず、壮絶な討ち死にを遂げた。享年62歳。
首は、大坂城京橋口に晒されたという。
元忠とともに戦った侍たちの、血潮に染まった床板が後に、京都市内の
養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵などの寺に移築され、今も「血天井」
として現存している。


消えてしまった天国への階段  藤井孝作

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