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川柳的逍遥 人の世の一家言
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太陽は沈むわかっているんだよ  市井美春






    相模湾を見下ろしながら密談する秀吉vs家康 



「秘密は二人っきりになれる静かな場所で…」
豊臣秀吉の小田原征伐における一幕―――
秀吉は、家康と今後の「領国経営の話」をするために、小田原が一望で
きる場所に「連れションしようぜ!」と誘った。
家康もこれに応じ、二人で連れ小便をすることになった。 内容は
「この広大な関東の地を家康に任せる代わりに、家康が長年に渡って守
 り続けてきた三河を含む旧領をわしにくれないか?」
という、いわゆる領地替え(人事異動)の話だった。 秀吉は
<なかなか言い出しにくい話も、連れ小便なら腹を割って話せる>と、
いうことで家康を連れ小便に誘ったわけだが、家康はこれを承諾し、
祖父の代より守り続けてきた領地を離れることとなる。
家康も苦汁を飲む気分だっただろうが、時勢が秀吉に味方している以上、
これに逆らうことを「良し」としなかったのだろう。





哲学の刻み目に夢の亡骸  高野末次





      家康は江戸を建てるにあたり豊かな水を求めた





家康ー江戸を建てるー①





「小牧・長久手の合戦」の後、家康は本拠地三河を中心に、東海地方や
甲斐・信濃に勢力を固め、秀吉との新たな戦いに備えていた。
ところが、そんな家康に、秀吉は思いがけない提案をしてきた。 
秀吉の妹・旭姫を家康に嫁がせるというのである。
それは「家康と和睦したい」という秀吉の意志を示すものだった。
だが、秀吉の妹と婚礼の儀をすませた家康だったが、依然秀吉の臣従を
受けいれようとはせず…小田原の北条氏との同盟関係をより緊密にした…
そんな家康に、秀吉は二の矢を放ってきた。
「なに! 今度は大政所を旭姫の病気見舞いとして寄こすじゃと」
「秀吉の使者は…たしかにそう申しております」
「親孝行で有名な秀吉が、年老いた生母を人質同然にしてくるとは」
<…いまが潮時か、サルめにここまでされては、知らぬ顔もできまい>
大政所が浜松に着いて二日後、家康はついに大阪へと出立した。




つまんで引っ張って引っ張ってつまむ  雨森茂樹






   茶地唐獅子模様唐織陣羽織 (東京国立博物館所蔵)
豊臣秀吉が所用したと伝わる。脇が千鳥掛けの袖なし陣羽織。
闘争心旺盛な大小7匹の獅子が躍動する姿が唐織で表現されている。
秀吉の陣羽織にはこのほかにも「闘い」を主題にした動物殻の
ものがあり、いかにも戦国の気風を伝えている。




         秀吉の鳥獣文様陣羽織

家康はついに関白・豊臣秀吉の軍門に降りた。
1586年(天正14)10月1日。この時、秀吉は家康に
「何か貴殿になにか贈りたいのだが、望むものはあるかな」と問うた。
家康は、「秀吉着用の陣羽織を所望」と答えたという。




1586(天正14)10月、家康はついに秀吉がいる大坂城に赴いた。
「やあやあ家康殿、ようお越し下された」
家康の到着を待ちかねていた秀吉の、なんとまぁ腰の低いことか。
「家康殿 ⁉ おいでになる日を一日千秋の思いでお待ちしていましたぞ」
そして、面会を明日に控えた夜のこと。秀吉は前触れもなく、突然、
家康のもとを単身訪ねてきて、こう言った。
「明日の面会の時は、ほかの武将たちの前で、この秀吉の顔を立てて、
 頭を下げてほしい。何卒 何卒 お願いし申す」
秀吉は手を合わせ、平身低頭で家康に謁見の仕儀を頼み込んでくる。
翌日、大名や家臣が居並ぶ前で、家康は秀吉の意を汲んで頭を下げた。
その刹那、秀吉は前夜とは打って変わった高圧的な態度で、家康に言い
放った。
「上洛 大儀であった!」
万座の席で、秀吉の家来であることを見せつけるその演出に、家康は
まんまと嵌められてしまったのである。




烏賊鯖秋刀魚ずいぶん偉くなったよね  新井曉子






      やたら男前な秀吉





家康は、もはや秀吉には逆らえぬと覚悟した。
家康さえ味方につけてしまえば、もう秀吉に怖いものはない。
中国・四国の大名を従えた秀吉は、その勢いをかって、1587(天正
15)には、早くも九州を平定、つづいて1590年には、関東の大名・
北条氏政の攻撃に乗り出したのである。
この戦で、家康は遠征軍の先鋒を務めさせられた。
秀吉軍は、家康がかけた橋をわたって進軍してきた。 総勢21万余。
北条氏政の居城小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えを見せた。




海に日も山の日もチャンネルを握る  山本早苗




そんなある日のこと。 家康秀吉の本陣に呼ばれた。
そして秀吉に、こう言われた。
「北条氏政が滅ぶのは、もはや時間の問題。 そこで家康殿、ものは相談
 じゃが、家康殿には、今の所領、三河・遠江など五か国の代わりに、
北条の所領、すなわち関東八か国を与えようと思うのだが、どうかな」
家康は驚いた。
<営々と拠点を築いてきた三河を捨てて、遠い関東へ行けとは…>
あまりにも無理な要求である。
家康の家臣たちは、口々に反対した。
「これは罠に違いありません。ここでまた、秀吉の口車に乗せられては
 なりません」
ところが、家康は意外な行動に出た。
家臣たちの反対を押し切り、わずか2週間後には、秀吉の命令どおり、
先祖伝来の地・三河を離れ江戸に向かったのである。




曲がり角とぼとぼ夕日つれてくる  宮原せつ





    江戸の地を下見する家康一行 (NHKー江戸を建てるゟ)





――今となっては、秀吉と自分の勢力には差がつきすぎており、到底、
逆らうことはできない。しかも、秀吉が与えるという関東八か国は、
石高250万石である。今の秀吉の所領200万石よりも多い。
<それほどの好条件を出されて、なお断れば、非はこちらにあるという
ことになり、難癖をつけられて攻め滅ぼされてしまうかもしれない。
ここは秀吉の言うとおりにするしかない……>
それが家康の胸中だったに違いない。


1580(天正18)8月1日、家康は江戸に入った。
ところが……、江戸の地を見て家康は愕然とした。
目の前に広がるのは一面の湿地帯である。
町は小さく、使える土地はわずかしかない。
この荒れ果てた江戸の地で、どうやって拠点を築いていけばいいのか、
それが家康の新たな課題となった。
(家康が江戸幕府を開く、 12年余り前のことである)





行くほどに遠ざかってく目的地  徳山泰子





今は秀吉に逆らうまいと決意する家康





「秀吉の思惑」
NHK大河ドラマ・「どうする家康」の時代考証を担当する歴史学者の
小和田哲男さんの話――。
『秀吉にとってみれば、家康というのは手強い相手である。 
将来もしかしたら豊臣政権を奪いかねないという、ちょっとした危険性
もある。できれば遠くへやってしまいたいという思いが秀吉にはあった。
もう一つ、北条氏というのは、小田原攻めで戦った相手、まさに家康が
最前線で先鋒として戦った相手である。当然、関東には滅ぼされた北条
の家臣たちがそのまま残っている。その彼らを手なずけることは、まず
難しい、秀吉は考え、「また家康は、関東の支配は、もしかしたら失敗
するのではないか、あるいは失敗してくれたらいいなあ」というような
意図もあった。家康はそれだけ秀吉にとって厄介な相手であった』




精霊とんぼ もの問いたげに言いたげに  太田のりこ











「敵を味方にせよ」
1997年(平成9)年に発掘された汐留の仙台藩邸の遺跡がある。
この遺跡からは、江戸時代初期に行われた埋め立ての方法をうかがい
知ることができる。
陸と海を仕切り、水流をせき止めるための「しがらみ」には、木と竹を
編んでつくられた柵の裏に、牡蠣の貝殻が細かく砕かれて敷き詰められ
ており、埋め立て地の水はけをよくするための工夫が見える。
家康が拠点を移したころの江戸は、一面の湿地に、海が入り江となって
入り込むという地形であった。
今の日比谷や新橋の付近も、当時はみな、海だった地域である。




ふんばりをきかせてみよう膝がしら  靏田寿子





    江戸の地下を走った水道管 (新宿区立博物館蔵)

「水道管」といっても、杉やヒノキをくり抜いたものか、板材を組み合
わせて箱型にするだけである。神田川の地下水道は6・5キロメートル。
この水道管から取水する井戸が3600ヶ所あった。



           江 戸 時 代 の 水 道 橋





【豆知識】 江戸の歴史ぶらり旅
江戸は湿地と台地からなっていて、もともと飲み水の乏しい土地である。
1590(天正18)に入府した家康にとって水は都市計画に欠かせない
大問題だった。家康はあらかじめ大久保忠行という者を使わして、江戸
の水事情を調査させた。忠行は「井の頭池」を発見して家康に報告する。
井の頭池からは、豊富な湧水が川となって流れていた。
神田川である。
忠行はこの大発見の功績により「主水」という名を頂戴したという。
この「井の頭池」から引かれた江戸最初の上水が、「神田上水」である。
神田上水には、川を横切るために高架にした場所がある。
水道が橋のように神田川を横切るので「水道橋」という名が付いた。
そのあと駿河台から地下水道になり4つに分水して、江戸市中に行き渡
らせるわけだ。
この水道工事の「人足監督」の中に、松尾芭蕉の名が出てくる。
芭蕉は伊賀国の出身。伊賀と言えば忍者で有名だが、彼らは一流の科学
者集団だったといわれる。俳聖・芭蕉もその真の姿は、テクノロジーの
先端を走る技術者だったかも知れない。





1,江戸の町人が住んでいた長屋には必ず共同の井戸が設けられていた。
模型はさおつるべで水を汲み上げているところ

2,上水井戸と長屋
上水井戸と長屋。井戸近くに立つと「井戸端会議」の声が聞こえてくる。
右の地面に見えているのは下水のどぶ板。長屋の中は大工職人の部屋や、
傘はりの内職をする浪人の部屋が再現されている。

3, 上水井戸から汲み上げた水は水瓶や桶に移して室内におかれた。


4,長屋までの水
上水水門から引いた水は地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)
の水道を使って江戸の町に分配された。
中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に水
を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名や商人など、大口の消費
者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさらに細い
竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。




           玉 川 上 水 水 元 絵 図

上水水門から引いた水は、地下に埋め込んだ石樋や木樋の水道を使って、
江戸の町に分配された。
中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に
水を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名や商人など、大口の
消費者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさら
に細い竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。
竹樋(たけひ)と樽
竹樋は竹の節をくりぬいて作った水道管。
樽は、水に混じる砂などを沈めるために使用されていた。




古井戸を覗くと皆が寄って来る  山本昌乃






                   江戸の水道工事 (家康江戸を建てるゟ)





縦と横いつも長さを競ってる  河村啓子

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