忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1115] [1114] [1113] [1112] [1111] [1110] [1109] [1108] [1107] [1106] [1105]
なんたって僕にはママがついている  高橋謡々




       世界遺産・国宝 二条城二の丸広間
二条城は1601年(慶長6)家康は関西の諸大名に課役して造らせた。
敵が攻めてきた時のことを考えて家康は、城も堀も「ぶりにせよ」など
細かいところまで深慮し図面をひかせている。



「二条城でついに実現」
家康が、禁教令を出す前年の1611年(慶長16)3月28日、後水尾
天皇の即位式に出席するため上洛していた「家康と豊臣秀頼の対面」
実現した。秀頼には、加藤清正、浅野幸長が付き添った。
それに高台院も加わって対面は無事に終わった。
6年前、家康は秀忠の将軍宣下のときに秀頼に上洛するよう要請したが
淀殿の手痛い拒否にあっている。
今度は淀殿の叔父、織田有楽斎を使者にしての要請だった。
家康には、また拒否されれば、開戦も辞さず、との腹づもりがあったと
いわれる。
危機感を持った嫌がる淀殿を必死に説得し、ようやく対面を承知させた。
清正は秀頼を守るため、懐剣を懐に臨んだ。
帰途についた秀頼の船を見送ったあと、清正は懐剣をながめながら、
「これで太閤殿下のご恩に報いることができた」といって、
涙を流したという。



難しい話しに崩す冷や奴  荒木康博






   善悪三拾六美人 淀君 




家康
ー淀殿は悪女か




――家康はなにを考えているのか。
関ケ原合戦のあと、驚くべきことが起こった。
「秀頼のため戦う」と宣言していたはずの家康が、豊臣家の領地を削減
してしまい、豊臣家の直轄地は、200万石から65万石へと激減して
しまったのである。疑念を抱く淀殿に対し家康は、表向きあくまで秀頼
への忠誠を誓う態度をとった。
――ご尊顔を拝し奉り 恐悦至極
頼りになる諸大名もなく、老獪な家康を相手に幼い秀頼を守り、たった
1人で城の主となった淀殿だが、そこに待っていたのは、武将たちに気
遣いながら、政治の舵取りをする気苦労の多い日々だった。



砂漠ですドラマなんかは落ちてない  上田ひとみ




「淀殿が若狭の武将・京極高次に宛てた手紙の一節」
『いつぞやは、わざわざ来てくださってうれしく思いました。
 ご逗留のうちに細々としたこともありまして、私の応対が及ばなかっ
 たに違いないと、申し訳なく思っています』
馴れない政治の世界に疲れた淀殿は、やがて体調を崩すようになる。
大坂城の御典医で淀殿の医師・曲直瀬道三(まなせどうさん)の記録 ・
『医学天正記』には、淀殿が気鬱の病にかかり、頭痛がひどく食事も
とれなくなっていたことが記されている。




シワの数歳の功だと言い換える  靏田寿子




1603年(慶長8)2月27日、こうした淀殿の心をさらに暗くする
出来事が起きた。徳川家康が、武家の棟梁の印である「征夷大将軍」
任じられたというのである。
<家康は、やはり秀頼を蔑ろにし、天下の主となろうとしているのか>
この4ヶ月後、家康は、 転して思いがけない行動をとった。
亡き秀吉との約束を実行しようと言ってきたのだった。
その約束とは、家康の孫娘・千姫秀頼との結婚だった。
この時、秀頼は11歳。千姫は7歳。
淀殿の心は、束の間の安らぎを取り戻した。
<やはり家康は、豊臣・徳川両家がともに栄えていく道を、考えていて
くれたのか>、という思いだったのかもしれない。




笑っても泣いても同じ時間経つ  前中一晃





翌年、家康の孫・家光が誕生した時に、淀殿が知人に宛てた手紙が残る。
『こちらは秀頼と二人、無事に暮らしています。どうぞご安心ください。 
 江戸でも和子が、無事にするすると生まれたとのこと、これもまた、
 ご安心ください』
家康の孫の誕生をわがことのように喜ぶ淀殿。
その胸には、豊臣と徳川が、それぞれの役目を負って共存していく方策
が宿っていた。





カラカラと笑い話に昇華する  前岡由美子






     京都の北の天満宮  秀頼の擬宝珠  
豊臣秀吉は大茶会をするなど北野天満宮に寄進し、復興に努めた。
その遺子である秀頼も多くの寄進をし、拝殿の高欄擬宝珠には、
秀頼の銘が刻まれている。
       秀頼が奉納した鏡
秀頼が奉納した青銅鏡が見つかったと発表された。
鏡の形状や包み紙から、本殿(国宝)の中央部に鏡を用いて、仏教的な
装飾が施されていた可能性が明らかになったという。




「安寧・平和を願うお袋様(淀殿)」
――全国に寺社仏閣を建立。
京都市の北野天満宮は、千年以上の歴史を持つ古い社であるが、長引く
戦乱のために、その修築は滞りがちだった。
そこで淀殿は、1607年(慶長12)、豊臣秀頼の名で天満宮のすべ
ての社殿を修築した。
神社本殿の高欄を飾る擬宝珠をみると、秀頼が寄進したことが刻まれて
いる。



神からの忘れるという贈り物  西尾芙紗子






  伊勢神宮の参道に旧慶光院も淀殿が造営した寺院

           慶 光 院



幼い秀頼に代わり、淀殿が、神社仏閣復興の采配を振るっていたことを
示す当寺院に宛てた手紙。
『慶光院の建設のこと、こちらの心がけが悪く、なかなか進められず
 申し訳なく思っています。客殿、庫裏、弁財天の塔の建築のこと、
 また柱も長く耐えられるよう立派なものを選ぶようにと念入りに
 申しつけ ました。 ご安心下さい』
こうして淀殿と秀頼が行った寺社仏閣の建立は、善光寺や出雲大社、
伊勢神宮など全国あわせて90余りにものぼるという。




過ぎたことそんな事より今日の雲  津田照子





       淀 殿





淀殿
は亡き秀吉が残した莫大な富を使って、寺社の復興に勤しんだ。
京都方広寺の大仏殿は修築中に、いったん火災で焼失したにもかか
わらず、さらにもう一度建立されている。
「太閤秀吉がためた金銀は、この時なくなってしまった」
と、『当代記』には記されている。 寺社仏閣への寄進によって、
「豊臣と徳川が共存する平和な世を永遠のものとしたい」
というのが、淀殿の願いだったのかもしれない。





黒星の一つひとつをバネにして  青木敏子





慶長19年から家康は、「武家諸法度」とともに「禁中並公家諸法度」
「寺社法度の制定」の準備を着々と進めはじめている。
これは家康側の法律によって、公家や寺社を封じ込めていこう、
法の網をかけていこうというものだった。
一方、淀殿秀吉の行った寺社に対する政策をきちんと守り続けていた。
秀吉側の政策は、寺社に対しては所領は安堵し、寺社の修造を積極的に
助けていくという、今までの政権にはなかった方策を継承していた。
そういう淀殿の政策を家康は、逆に自分の側に取り込んでいって、
新しい見方で、寺社対策をしていこうと方針転換をしたのである。
淀殿にとっては、今までの自分が行ってきた秀吉時代からの政策の継承、
寺社に対する政策をストップせざるを得ないという状況にいたった。





おだやかな日々ポケットに溜まる砂  八上桐子





        家康・秀頼の会見




1611年(慶長16)3月、突然訪れた家康の使者が、思いもよらぬ
ことを言いだした。家康の息子・徳川秀忠に祝いを述べるため、「二条
の家康のもとまで、秀頼に出向いてこい」というものだった。
それは、豊臣に「徳川の家臣になれ」というに等しいものである。
淀殿は激しく反発したが、家臣たちに説得されて、ついに承諾した。
ニ条城への下向は、秀頼にとってはじめての遠出といえるものだった。
<亡き秀吉の遺言どおり大切に育てた秀頼。その晴れの行列の目が、
かつて秀吉の家臣だった家康に、頭を下げに行くものになるとは>
淀殿の心中は忸怩たるものがあったに違いない。




ほうれい線の深みに静かなる地雷  山崎夫美子




3月28日、秀頼淀殿と別れ、京に向かった。
京で秀頼を待っていたのは、亡き秀吉の忘れ形見を一目見ようとする、
人々の熱狂的な歓迎だった。
豊臣の人気は、いまだ衰えていなかったのである。
二条城に到着した秀頼を、家康は丁重に出迎えた。
会見はおよそ二時間行われている。
成人してのち、はじめて会った秀頼の印象を家康は次のように評した。
『秀頼は賢き人なり、なかなか人の 下知など請うべき様子にあらず』
――秀頼は賢いやつだ。人の命令には容易に従うまい。




一コマを鳥取砂丘知っている  武智三成





        秀頼の肖像画
10年前一般に公開された秀頼の20歳のころの肖像画。
秀頼は、堂々たる体編の美丈夫であったと伝えられ「老成人の風格を
備えた人物」と評されるほど、落ち着いた物腰の青年だった。





秀吉の遺児は淀殿の手によって、立派な若者に成長していたのである。
秀頼家康との会見を終えて、無事、大坂に帰着した。
しかし、この頃から家康は、秀頼の存在は徳川家を脅かすもとと考え、
是が非でも「秀頼を亡き者にしよう」と考えはじめたといわれる。
――家康にしてみれば、秀頼というのは、過保護に育った二代目の
ぼんぼんぐらいに思っていた。
だが、会ってみると堂々たる美丈夫だった。
家康は、伏見城や大坂城で奥深く非常に大切に育てられてきた秀頼の
ことを知らなかった。
会見の場では「品定めをしてやろう」という軽い気持ちだったから、
家康はその成長ぶりに衝撃を受けた。
同時に、これまでの豊臣家に対する政策を見直していこうという気持ち
が家康の中に生じた。
このことが家康をして「融和」から「排他」へと方向転換させた。




どや顔を青木ヶ原へ捨てに行く  宮井いずみ





1614年(慶長19)7月29日、家康の使者が大坂城に見参した。
その口をついて出てきたのは、淀殿を仰天させる言葉だった。
淀殿秀頼が、「鐘の銘文を使い、家康を呪い殺そうとしている」
というのである。
――こうして協調路線を捨て去った家康が送りつけてきた使者は、
とんでもないことを、淀殿に対して言いだしたのだ。
それは、淀殿がそれまで一所懸命になって行ってきた方広寺の修築に
関する言いがかりだった。




モザイクが邪魔で落ちない目の鱗  のぶよし





     鐘に刻まれた銘文





徳川・豊臣の協調路線はもろくも崩れはじめた。
淀殿が大枚を投じ、修築を進めてきた京の方広寺に大梵鐘が吊るされた
のは、1614年(慶長19)6月28日である。
そして、「鐘に刻まれた銘文」に問題があるというのが、家康の言い分
だった。『国家安康君臣豊楽』――この銘文は家康の名を2つに分断し、
「豊臣が栄えるよう祈る呪文」であるというのである。
8月13日、驚いた淀殿は、すぐさま家康のもとに使者を派遣した。
弁明の使いに選ばれたのは、豊臣家家老・片桐且元だった。




土砂降りになり約束はそれっきり  片岡加代




【余談】 史実からちょっと離れて











「大河ドラマ、のぞき見」
関ケ原の戦いを経て、家康は江戸に幕府を開き「征夷大将軍」となった。
その後、大阪城で淀殿(北川景子)秀頼(仲野大河)に戦勝報告を行
った。満面の笑顔で迎えた淀殿だったが、
「秀頼の代わりを頼みまする」
「千姫と秀頼の婚儀、大公殿下のご遺言通り、しかと進めましょう」
と、家康をけん制し続けた。そんな淀殿と家康のやり取りに……、
「女狐と古狸の対決よ」と、SNSの声が……。




聞こえていますよあなたを見てるから  市井美春










さらに、家康が退出するや否や、淀殿は幼い秀頼に顔を近づけ、
にらみを利かせながら、
「わかっておるな。あのタヌキ。決して信じるでないぞ」
とすごんだ。その表情があまりに鬼気迫るものだったため、
「秀頼が泣いちゃわないか心配でした」
「目力すごくてゾッとしました」
「あれは子どもに見せちゃならん顔だった……」
「もーぅ怖すぎ」「鬼の形相の表情にアッパレ」
との声が寄せられたが、本性はどちら! 景子さん。




真空管テレビは分解できたのに  寺島洋子

拍手[5回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開