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川柳的逍遥 人の世の一家言
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その猫背アイロンかけてやろうかな  磯野真理






             大 阪 炎 上


 国家安康君臣豊楽の銘文





「方広寺鐘銘事件」
『国家安康君臣豊楽』―この銘文は、「家康の名を2つに分断し豊臣が
栄えるよう祈る呪文ではないか」と南禅寺の金地院崇伝が言い出した。
もちろんこれを聞いた家康は激怒した。
この梵鐘の文章を書いたのは、豊臣氏とは縁の深い、文英清韓という金
地院崇伝と同じ南禅寺の僧で、彼の弁明によると、
「敢えて家康・豊臣という名を入れて、その威光が現われることを願っ
 た…決して悪い意味ではない」
ということだったらしい。
が、当時は、貴人を実名では呼ばず、家康ならば「内府」など、官職で
呼ぶのが常識だった。にもかかわらず清韓は、この「隠し八文字」に加
えて、『右僕射源朝臣家康公』とも書いており、「右僕射」林羅山
「源朝臣(家康)を射る」とした解釈に合わせて、豊臣への恩義に報い
る思惑があったのではないかと疑われた。
のち清韓は、南禅寺を追放され、住坊も一時廃絶されている。
8月13日、驚いた淀殿は、すぐさま家康のもとに使者を派遣した。
弁明の使いに選ばれたのは、豊臣家家老・片桐且元だった。




ワンマンが陰で胃薬飲んでいる  三好聖水






    一魁随筆 淀之君    月岡芳年





家康ーお袋様、ご決断





「片桐且元と大蔵卿」
方広寺梵鐘問題の弁明に赴いた且元は、家康に会ってももらえなかった。
それどころか城にも入れてもらえず、待たされること二日。
ようやく現れた徳川家の家臣は、且元の弁明を一蹴し、
「豊臣家の陰謀に疑いなし」と頭ごなしに断定したのだった。
一方、そのころ、大坂城では淀殿が待てど暮らせど、はかばかしい返事
を寄越さない且元に業を煮やしていた。
<豊臣になんの邪心もないことは明白なのに、なぜ、家康殿にそれが通
 じないのか>
思いあまった淀殿は、乳母の大蔵卿を家康のもとにつかわし、なんとか
して誤解を解こうとした。
なんと大蔵卿に対する家康の態度は、且元の時とは打って変わったもの
だった。




素面でも小石にこける今の僕  靏田寿子




「秀頼は千姫の婿であるから、我が孫に等しい。
 秀頼に自分への害心などあるはずもないことは、よくわかっている」
家康の優しい言葉に感激した大蔵卿は大喜びで大坂へ帰り、淀殿に首尾
を報告した。それは、
「家康は豊臣家を取りつぶすつもりは、まったくない。
 かえって秀頼との仲が疎遠になることを懸念している」
ということであった。
ほっと胸を撫で下ろす淀殿
しかし、それも束の間のことにすぎなかった。




引力にとても素直な砂時計  青砥たかこ





   片桐且元① 絵本大坂軍記 (岡田霞船編)





家康のもとから帰った且元が、大蔵卿とはまったく逆のことを言いだし
たからである。且元の話によると、
家康は、なんとしても豊臣家を取りつぶす気でいる。
「それが嫌なら次の三つの条件のうち、どれか一つを聞き入れよ」
というのが、家康から伝えられたことであるという。
その条件とは、
大坂城の明け渡し
2、秀頼の江戸参勤
3、淀殿の江戸への下向   の三つである。
淀殿は、この且元の報告を聞いて仰天した。




キソウテンガイ私の砂漠埋め尽くす  和田洋子




――<城を出るか、秀頼を差し出すか、あるいは自分が人質となるか>
どれもとうてい受け入れがたい条件である。
それにしても、且元の言うことと大蔵卿の言うことは、かけ離れすぎて
いる。 一体、どちらが嘘をついているのか。
大坂城内は疑心暗鬼の巣となった。
――<且元は豊臣家を害そうとしている>
そういう噂が広まり、片桐且元は、味方であるはずの豊臣家の武将たち
に襲撃された。そして、且元は自分の屋敷に閉じこもってしまった。
なんとか城内を一つにまとめたいと願った淀殿は、且元に書状を認めた。




家中の時計微妙にちゃう時間  高田佳代子






   片桐且元②  絵本大坂軍記





豊臣家随一の忠臣
『なんやかやと噂が立っているようですが、親子ともども、
 そなたのことは少しも疎かに思っておりませぬ。 
 長年のお世話はどうして忘れられましょうか。
 なんとしてもそなたをひとえに頼みにしております。
 明日もおいでにならないようなら、またお手紙差しあげることに
 いたしましょう。お返事お待ちします』
淀殿の説得にもかかわらず、且元は出仕しようとしなかった。




お手玉の一つがずっと雲隠れ  井上恵津子




<やはり謀叛人であったのか>
そう疑った淀殿は、10月1日ついに、且元に大坂からの退去を命じて
しまった。同じ日、駿府にいた家康のもとに、大坂城内のようすを知ら
せる使いが到着した。
「且元が襲われた」と知った家康は、満足げなようすを浮かべたと記録
されている。
<家康の意志を伝えに帰った且元を、襲撃したことは、とりもなおさず、
 家康に対し叛旗を翻した>と、見なすことができるからである。




想い出をモノクロにする落葉焚き  原 洋志





           真田丸の攻防





徳川・豊臣両軍の戦い
迫りくる家康の脅威に対し、淀殿は、かつて秀吉の恩を受けた大名たち
に手紙を送り、秀頼への応援を頼んでいる。
ところが、返ってきたのは驚くほどの冷たい仕打ちだった。
生前、秀吉が最も頼みにしていた前田家は、返事もよこさず、秀吉が我
が子同然に可愛がっていた福島正則は、「いまさら話すことはない」
使者を追い返した。
 池田利隆にいたっては、使者を家康に引き渡してしまった。
家康は、使者の指を切り落とし、額に烙印を押して追放したとも言われ
ている。




約束無しのお別れになる沙羅双樹  藤本鈴菜




――<かつて、あれほど太閤の恩を受けた者たちだというのに……。>
あまりといえばあまりの無情さに、淀殿は愕然とするばかりだった。
孤立無援となった豊臣家が頼りとしたものは、関ヶ原の合戦以後、
世にあふれていた牢人たちだった。
戦いの準備を進める淀殿の様子を記してれている『当代記』には、
「お袋様は女ながら武具をつけ、城内を見回り牢人たちを叱咤激励
 している。さらに、淀殿は軍議にあっても万事、指図をしている」
という史料もある。
「……秀頼公の立場を確かなものにするのです。そなたたちの力が頼り
 じゃ」
淀殿が率先して、奮起をうながさざるを得なかった心中がうかがえる。
一方、家康は諸大名に対し、ただちに出陣を下知。 
知らぬ間に家康の術中に陥った淀殿には、もはや弁明の余地すらも与え
られていなかった。





錆び付いた顎で指図をされている  新海信二




       日本史新聞 大坂冬の陣ー和睦の罠




【大坂=一六一四年十二月】 大坂冬の陣
大坂城を包囲する徳川幕府の軍勢は、総計二十万。
大僧正義演の日記によれば。
「日本残らず前陣後陣ことごとく供奉(ぐぶ)す」という。
ただし福島正則・黒田長政・加藤嘉明は江戸に残し、加藤清正の子忠広
蜂須賀家政を国に帰らせている。
そして大坂城を蟻の這い出る隙間もなく包囲した。
しかし、いつまでたっても攻撃命令が出ない。
血気にはやる松平忠直、前田利常、井伊直孝らは我慢し切れず真田幸村
が守る出城真田丸に、無暗な攻撃をしかけたりするなど、苛々がつのっ
ていた。
ところが家康はその翌日、早くも和睦の使者を大坂城につかわしていた。
太閤秀吉が自ら設計した大坂城が、難攻不落であることを熟知していた
家康は、当初から早期に「和睦をはかり、またもや淀殿を罠にかけよう」
としていたのである。




数独に数字ひとつも書いてない  井丸昌紀





      家 康





「秀吉、大坂城の難攻不落を説く」
「家康公伝」には次のように記されている。
太閤秀吉がはじめて大坂城を造りだしたころ、前田利家、蒲生氏郷らの
人びとを集めて、
「このたびの新しい城は、実に金城湯地といえるものである。
 たとえ何万の兵で攻撃しようとも、簡単に落城することはない。
 お前たちはこれをどう思うか」と、聞かれると、
「仰せの通りです」と答えた。 
さらに秀吉は、
「この城を攻めるには、二つの方法がある。大軍をもって年月をかけて
 城を取り囲み、城中の糧食が尽きるのを待つか、そうでなければ、
 一日講和を結んだ後、堀を埋め塀を壊してから、さらに攻め込めば、
 落城するだろう」と、おっしゃった。
その際、君(家康)は、その話の場にお座りになっており、太閤の自画
自賛をお聞きになっていらしゃったという。




あたためたものがこぼれてゆく斜線  平井美智子











今回の戦いで、将軍秀忠「必ずや総攻撃をかけて落城させましょう」
と、二度までも進言なさったが、君(家康)は、
「わたしは、何度も城攻めを経験したが、敵の様子や地形によって攻撃
 の仕方は一様ではない。ただ天の与えてくれる時期を待たれるがよい」
と、仰られ、総攻撃をお許しにならなかった。
毎日金鉱などを掘る採掘人夫を集めて、城攻め用の梯子を作らせ、さら
には、大砲を城中へ打ち込ませるなどして、城中の人びとに十分恐怖を
与えた上で、最後に講和を結ばれたので、その話合いは速やかに整った。
家康は秀吉ご託宣の城攻めを実践した。
淀川をせき止めて天満川の水位を落とし、城内へ地下道を掘る。
毎夜の如く鬨の声をあげ、そして、大砲と大筒を連続射撃して威嚇した。
あるとき、大砲の弾丸が天守閣に命中。




この月の月を煮て食う焼いて食う  雨森茂樹





      丸裸の大坂城





12月15日、淀殿「和睦」を受けることを申し出た。
「自分は家康の人質となってもよい。その代わり秀頼を守るために戦っ
 た牢人たちには、縁を与えてやってほしい」
それに対する家康の答えは、大筒による一斉射撃だった。 
砲弾は天守閣に命中し、一瞬にして侍女たちの命を奪っている。
――<このままでは秀頼にも砲弾があたるとも限らない>
亡き秀吉の手前、秀頼の命だけは失うわけにはいかない。
動転した淀殿は、家康の言いなりになっての和睦に応じざるを得なかっ
たのだ。
和睦の条件として大坂城の堀の埋め立てが決まると、徳川方は豊臣方の
止めるのも聞かず、二の丸三の丸の堀まで自分たちの手で埋めてしまい、
大坂城は裸同然の無力な建造物と成り果てた。




もう悪女には戻れない腰まわり  片岡加代

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