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川柳的逍遥 人の世の一家言
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イノシシと一緒に渡るかずら橋  井上一筒






  慶長二年(1597)真田昌幸が造営した沼田城の五重の天守

沼田城の戦国時代(変遷史)
永禄三年(1560)上杉謙信→(1578)北条氏邦→(1580)武田勝頼
→(1582)真田昌幸→(1589)北条氏政→(1590)真田信幸……→
天和二年(1682)幕府の命により沼田城は全て破却され堀も埋められる。



「家康が苦手なもの」
秀忠の軍は家康の本隊と別れて信濃路から関ケ原に入ることになった。
しかし、思いがけず真田昌幸の上田城で足止めを食ってしまう。
家康も過去に、上田城を攻めようとしたことがあったが、信之は迷路の
ような城下町まで、家康の軍をおびき寄せて散々な目にあわせた。
このとき、昌幸は甲冑もつけずに碁を打っていたという。
この秀忠西上のときも、降伏すると見せかけて 秀忠を待たせたあげく
「太閤様のご恩は忘れ難いので一戦つかまつりたい。ひと攻め攻めて
くだされ」と、人を食ったような申し入れをして挑発した。
秀忠は烈火のごとく怒り、城攻めに踏み切るが、城上から熱湯や糞尿を
浴びせられて苦戦し、結局、関ケ原に間に合わなかった、
まさに大胆不敵
秀吉はこの真田昌幸という男に惚れこんで、引き立てたが、家康はなぜ
か苦手で、相性が悪かった。



真夜中の苦手な虫と蠅叩き  新井曉子





   真田昌幸(佐藤浩市) vs 徳川家康(松本潤)





家康ー真田昌幸という男



「大河ドラマ第34話ーリピート」
家康は17年の月日を過ごし、慣れ親しんだ遠江・浜松城を去り、今川
館跡に築いた駿河・駿府城(今川館跡)へ移った。
そして、現れたのが真田昌幸(佐藤浩市)と長男・真田信幸(吉村界人)
「沼田領」をめぐり、家康や本多正信(松山ケンイチ)と緊迫の駆け引き
が展開される。
昌幸は、「北条に領地を渡す代わりに徳川の姫が欲しい」と、要求した。
テレビでその場面を見終わったファンは興奮していた。
「正信 VS 昌幸、見応えあったなぁ。佐藤浩市、怖すぎるー」
「松ケンと佐藤浩市の掛け合いって豪華。 凄い迫力!」
「正信『さ~な~だ~殿』から 対抗して昌幸『で~き~ま~せ~ぬ』」
「昌幸パッパと、正信の掛け合い…佐藤さんと松山さんも、それに――
その場面を切り取るカメラワークも凄ーい。グッジョブだったよ」



心の中見えるテレビを探している  矢沢和女
 


沼田城・本丸跡に復元された鐘櫓

真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取り壊さ
れた。明治二十年ごろ、沼田町役場東北隅に楼を建て柳町歓楽院の梵鐘
を借りて時の鐘にした。



1585年(天正13)家康が、北条氏と講和するために「沼田城」を、
北条氏に返付するように命ずると、
「沼田は徳川氏から与えられたものではなく、自力で獲得した土地だ」
と、返却を拒否。
これによって、家康に上田城をせめられるが、撃退した。
この戦いは「第一次上田合戦」とも呼ばれ、徳川勢7千に対し、真田勢
は2千人にも足らないほどだった。
真田方は徳川方を上田城に誘いこみ、彼らが苦戦している間に、長男・
信之の別動隊が攻撃。
大混乱に陥った徳川軍は、撤退を余儀なくされることになるが、今度は
昌幸が設置したバリケードによって身動きが取れなくなった。
これによって、徳川軍は350人ほどの兵を失った。
この戦いの勝利で、昌幸は有名になった。




むささびの体がほしいもどかしさ  穐山常男





    上田駅前に展示される第1次上田合戦の墨



「徳川家康には、戦でどうしても勝てない相手が2人いた」
武田信玄と、もう1人は真田昌幸である。
「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評された戦国屈指の食わせ者・
昌幸に、家康は苦汁をなめさせられる。 (比興=卑怯)
戦いの推移は、次のようだったと考えられる。
昌幸は奇襲攻撃をかけるも、かなわぬと見せかけて退散。
すると徳川軍は追撃し、防衛ラインを越えて上田城に迫ってきた。
そこに、砥石城にいた昌幸の子・信幸が援軍として現れ、徳川軍の側面
を突いた。徳川軍は、戦いの定石だった城下への放火を怠るなど、戦術
ミスもおかしていたという。
徳川軍は大混乱に陥り、さらに、上田城から続々と兵が出撃してくるに
至って、ついに退却を始めた。信幸隊はそれを追撃した。
後退する徳川の兵たちは、容赦なく討たれた。
逃げる途中、川を渡ろうとして溺死した者もいたという。
これによって、徳川軍は350人ほどの兵を失ったのである。
これを伝える『三河物語』は、徳川の功績を語り継ぐことが目的なので、
都合の悪いことは記録に残さない。実際はもっと多かった可能性もある。
続いて、近隣の丸子城でも徳川と真田は戦うが、ここでも真田は城を守
りきる。又、徳川と真田の小競り合いは11月まで続くが、最終的に家康
は信濃からの完全撤退を決断する。



明日を語る資格などありません  雨森茂樹





六文銭を飾った真田昌幸着用の甲冑 (柘植宗将氏蔵)



「そもそも真田昌幸とは、何者なのか?」
昌幸は、武田信玄の配下の武将だった。
1573年(元亀4)に信玄が没しても、引き続き武田に仕え、信玄の
跡を継いだ勝頼の下で働いた。だが1575年(天正3)「長篠の戦い」
で武田が織田・徳川連合軍に惨敗したのが転換期となる。
昌幸の兄・信綱が長篠で戦死すると、家督を継いだ昌幸は西部に移った。
東部は越後の上杉が支配し、南には関東の北条がいるという、複雑きわ
まりない地でもあった。上杉領の東上野には、要衝地の沼田もあった。
段丘状の地形かつ四方が山で、また標高400メートルに立つ沼田城が
堅城として知られた軍事拠点だった。



その出口迷路入口だったとは  徳山泰子






       真田昌幸時代の上田城古図



「要衝地・上野国沼田を巡る確執」
この沼田が“火薬庫”となる。
武田は当時、北条と同盟(甲相同盟)を結んでいたものの、「沼田」
は野心満々だった。もちろん北条も然りだ。しかし要衝地だけに、互い
を出し抜いて手を出すことも容易にできなかった。
そうした状況にあって、素早い動きを見せるのが昌幸という男だ。
昌幸は北条の目を盗み、沼田の国衆に調略を仕掛けた。
北条は勝頼に抗議した。仕方なく勝頼は、昌幸に書状を送り、
「行動には注意せよ」と指示している。
ところが結局、沼田は、1578年(天正6)9月、北条が接収してし
まうのである。翌年7月頃から、昌幸と北条の沼田争奪戦が始まり、
やがて家康が絡んでくる。



トラブルの中にいつもの顔がある  靏田寿子






    昌幸・信幸・幸村ー作戦会議



「驚くべき変わり身の早さ」
昌幸は、逆襲をはかるべく再度、沼田の国衆の調略にかかった。
敵に内通を促し、味方に引き入れるのは得意だった。
1581年(天正9)6月には、支配権の奪還に成功する。
その9カ月後の1582年(天正10)3月11日、勝頼が、織田信長
攻撃にあって自刃し、武田は滅亡する。
主君を失った昌幸のここからの行動がすさまじい。
勝頼が死んだ直後、信長に黒葦毛の馬を献上し、臣下の礼をとる。
1582年6月2日、「本能寺の変」で信長が死ぬと、その直後に上杉
に鞍替え。
7月9日、使者を派遣して北条に従属。
9月28日、家康の要請に応じて徳川へ帰属。
見境ないといえる昌幸の行動は、単に強い者に付いたわけではない。
昌幸は生き残りに必死だったのだ。



不器用に生きて大きな音を出し  原 洋志



わずか数カ月で北条を見限った昌幸は、さらに返す刀で、家康とともに
北条に兵を向けた。旗色が悪くなった北条は、家康に和睦を申し入れる。
10月29日、徳川と北条の同盟が成立した。
だが、その条件が大問題。
徳川は北条の上野支配を認め、昌幸の沼田城を引き渡す—。
昌幸が到底納得できない条件を、家康はのんだのである。


右向け右で左向く  木嶋盛隆






    タヌキ顔の家康の肖像





「だが家康もさすがにタヌキだった」
しかも当時、敵対していた秀吉との対決に忙殺されたのか、1585年
(天正13)まで、この条件を昌幸に伝えなかった。
同年4〜6月になって、家康は昌幸に圧力をかけ、「沼田を引き渡せ」
と命じる。昌幸は家康に憤怒した。
「沼田は自ら切り取ったのであって徳川家に与えられたものではない!
 もう徳川家の言うことなんて聞いてられるか!」
両者は物別れに終わる。
昌幸は、反徳川の姿勢を明らかにし、即座に上杉に接近、来る直接対決
の準備に入った。
一方の家康は8月に軍を招集し、信濃に派兵―――――。
こうして天正13年(1585年)閏8月2日、
話は冒頭の「第一次上田合戦」に戻る。



とろとろと二番煎じの夜でした  中野六助

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