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川柳的逍遥 人の世の一家言
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出られない回転ドアに惚れられて  岡田幸男




            本多忠勝vs加藤清正


徳川四天王の本多忠勝と秀吉子飼いの加藤清正による一騎打ちは、なか
なか決着が付かず、最終的には槍を手放しての組み打ちになった。
そこへ馬を駆って「それまで!」と叫ぶ者があった。それは清正の主君
羽柴秀吉だった。



  
              甲   冑
   本多忠勝        榊原康政      井伊直政




徳川家康「徳川四天王」をはじめ、多くの優れた家臣に恵まれている。
故郷である三河国からの家臣団は、特に忠義に篤いことで知られる。
三河武士達は、命も惜しまぬほど家康に最大の忠義を持って仕え、
家康も家臣団に対して、最大の誠意を示していた。
あるとき、豊臣秀吉が諸大名を集めて
「自分は天下の宝というものの大半を集めた」
と、自慢をし、徳川家康に対して、
「どのような宝物を持っているか尋ねた」
これに対して家康は、
「自分は田舎者だから、これと言って秘蔵の品は持っていない」
と、答え、続けて
「自慢といえば、私のために命を懸けてくれる部下が五百騎ほどおり、
それを1番の宝と思っている」と返したという。




笑い声の高さを競い合う遊び  平井美智子



家康ー徳川四天王ー② 本多忠勝・榊原康政




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      本多忠勝            山田裕貴




本多忠勝 直轄軍の司令官
天文17 年(1548)~慶長15年(1610)
『徳川家康いるところに 平八(本多忠勝)あり』と、言われるほど、
本多忠勝は、主人家康と信頼が厚い主従関係を築いた。
徳川家臣団でも比類のない猛将。
鹿角の兜をかぶり、初陣以来57回の合戦を経験しながら、一度も刀傷
を負ったことがないという天下無双の槍使い、武勇の士であった。
忠勝の家系は、松平家臣の本多氏のなかでも宗家に近いといわれる。
忠勝は、幼少の頃から家康に仕え、永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」
の前哨戦となる「大高城の攻防戦」で初陣を飾った。
このとき家康は18歳、 忠勝は11歳。



人参を抜くとき無無と声がする  斉尾くにこ




     天下の名槍 「蜻蛉切」・天下三名槍


忠勝が愛用した槍 「蜻蛉切」ー その名は、 「刃の上にとまったトンボ
が真っ二つになって落ちた」と、いう逸話に由来し、 「福島正則の日本
号」「結城晴朝の御手杵(おてぎね) 」とともに「天下三名槍」のひとつ
に数えられている。 当初は、柄の長さが6メートルあったが、忠勝が
晩年になって3尺 ほど切り詰められている。




       本 多 忠 勝

忠勝は生涯で何人の敵を斃してきたのか?
肩からかけた大数珠は、自らが討った敵を弔うためのものである
 



「忠勝の武勇伝ー①」
一言坂の戦い忠勝25歳。元亀3年(1572)10月、遠江国二俣城を
めぐり、武田信玄徳川家康の間で偶発的に起こった戦いである。
これに徳川方は敗走。このとき武田方の猛将・馬場信春がしつこく追撃
してきたが、忠勝は殿を務めて一手に引き受けると、坂下という不利な
地形であったにもかかわらず、忠勝の奮闘で武田勢を押し返し、家康の
本隊は難を逃れることができた。一言坂の戦いのあとに「家康に過ぎた
るものが二つあり 唐の頭に本多平八」
という本多忠勝の武功を称える
狂歌・落書が登場したのである。
「忠勝の武勇伝ー②」
天正10年(1582)6月、忠勝35歳。信長明智の奇襲によって本能寺
に倒れた折には、窮地に立った家康が、放心状態で、「京都に戻り明智
光秀の軍勢と戦って切り死にする」と、言いだした。
そのような家康を忠勝「ここは一度、三河に戻り、態勢を整えてから
明智を討ちに出るのが得策」と、諫め、体制を立て直すために帰国を進
言したが、家康は、その進言を聞いてもなお、落ち着かない状態だった。
それでも忠勝は、主人を励まし続け、服部半蔵の助勢を得て、わずかな
兵士とともに「家康の伊賀越え」を成功させている。



足跡をわざと残した骨密度  靏田寿子




「忠勝の武勇伝-③」
以後、家康が経験した戦のほぼすべてに参加し、戦功を重ねた。
とくに天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」での奮闘ぶりはよく
知られるところである。
小牧山の家康本陣で、留守居役を任されていた忠勝は、秀吉勢の本隊が
小牧山を狙っていることを知ると、僅か五百の手勢を率いてこれを妨害。
堂々たる忠勝の姿を見た秀吉勢は進軍をあきらめたという。
(戦後、秀吉までが忠勝の働きを称賛している)
同18年の小田原戦役後、家康が関東へ移封となると、忠勝は房総半島
の抑えとして上総大多喜城 10万石を与えられた。



今ここが居場所と思うよき目覚め  津田照子
  





      「桶狭間の戦い」  歌川豊宣
桶狭間の戦いの前哨戦「大高の攻防」が忠勝13歳のときの初陣だった。
忠勝辞世の句。それから50年。猛将にも死は訪れる。

「死にともな嗚呼死にともな死にともな深き御恩の君を思えば」


「忠勝の武勇伝-④」
慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、戦目付 (軍監・監査役) として
四百余名の兵を引き連れて参戦、家康本陣のある桃配山にも近い後方に
陣取った。しかし,
西軍の猛攻により前衛が崩れ始めると、みずから最前線に赴いて指揮を
執り、自兵を連れて敵陣へ突撃するなど、獅子奮迅の活躍をみせた。
東軍の最前線に陣取っていた福島正則は、戦後に忠勝の見事な采配ぶり
を絶賛している。
戦後、10万石は据え置きで伊勢桑名へ移封となる。
が、その抜群の貢献ぶりに応えるため、次男の忠朝にあらためて大多喜
5万石が与えられた。晩年は病を得て隠居し、同15年に桑名で死去。
63歳だった。



海色に染みゆく散骨が希望  中野六助



【余計なひと言】ー「おつむ」の方はいまひとつ
戦場での働きは抜群だった忠勝だが、学問は苦手だったようだ。 
家康に招聘された朱子学者の林羅山に、忠勝は「学者というと天神様と
どちらが賢いのだ」 と尋ね、苦笑された。
それを家康に伝えると、家康もまた苦笑したという。
真偽は不明だが、忠勝が「武勇一辺倒の人物」として知られていたこと
がよくわかる。



のどの奥あれこれそれが出てこない  長谷川崇明




    
                        榊原康政                                   杉野遥亮



榊原康政=右筆も務めた秘書
天文17年 (1548) ~ 慶長11年 (1606)
家康の側近中でも際立った勇武で知られ、「徳川四天王」の一角に数え
られる。榊原家の出自は源氏に連なるという。 康政の祖父が伊勢国から
三河に移住したといい、康政は、最初に松平家の臣・酒井忠尚に仕え、
その後、酒井が松平家を離反すると家康に召し抱えられた。
そして、永禄6年 (1563) の「三河一向一揆」で初陣を果たし、家康の康
の字を与えられる。
その活躍により、翌年には本多忠勝・鳥居元忠とともに旗本先手役(部
隊長) にとりたてられた。


                 小牧・長久手の戦いでの榊原康政(楊洲周延) 
       
榊原康政の旗印の「無」の意味は?




元亀元年(1570)の「姉川の戦い」では、縦に伸びた浅井・朝倉の軍勢を
側面から衝き、勝利に大きく貢献したとされる。
同4年の「三方ヶ原の戦い」では、家康を浜松城 に逃がした後、夜襲を
成功させたという。その後も「長篠・設楽原の戦い」などでも戦功を挙
げるなど、本多忠勝らとともに、常に戦場で先頭に立って躍動した。



額縁を突き破ってくる黒豹  徳山泰子



天正18年 (1590) に家康が関東へ移封されると、北方の抑えとして上野
館林10万石を得た。そして2年後には家康の嫡男・秀忠付きとなった。
慶長5年 (1600) の「関ヶ原の戦い」では、その秀忠が率いる中山道勢に
参加。しかし真田昌幸・信繁親子が守備する「上田城の戦い (第二次) 」
で秀忠は苦戦し、関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態をみせる。
康政は補佐役としての責任から、自ら家康に陳謝し、秀忠への勘気を和
らげたという。また戦後は、論功行賞を補佐するなど、政治的な面でも
家康の信頼が厚かった。その後、秀忠は康政の娘を養女とし、 徳川家と
姻戚関係を結ぶまでになった。
しかし、康政はあくまでも武断派と目され、太平の世になると次第に政
治の第一線から遠ざかっていく。 晩年には本多正信・正純親子ら文治派と
対立、秀忠らに惜しまれつつ館林で病死。59歳だった。



完走の一歩手前で蹴躓く  大島美智代



【知恵蔵】ー「その後の館林藩主家」
康政は、館林藩の藩祖として数えられているが、 嫡子の康勝は継嗣なく
死去したため康政の系統はまもなく断絶。 康政の功績により、 その孫に
あたる大須賀忠次が藩を継承した。 やがて忠次は、陸奥白河藩に移封と
なり、館林は幕府直轄地となった。 そしてその後、この幕領館林から、
徳川綱吉が輩出されることとなる。


吉報なのに鈍行でやってくる  東川和子




番外ー鈴木久三郎




     
    軍配              家康の旗印



「軍配の軍配」
長さは44センチ、幅19センチ。団扇部分は皮で、漆の下地に金泥を厚く
塗り、表に朱色で日を、裏は銀箔で月を表す。
柄は竹を2枚合わせて漆を塗り「三葉葵」の紋が鍍金で施されており、
握りには藤が巻かれている。



「ここにも一つ、どうする家康」
鈴木久三郎ー岡崎城にいた若い頃(17-27) の家康に切り捨て覚悟で
物申した家臣がいた。
家康は、信長から貰った酒や鯉などを大切な客人をもてなすために大事
に保管していた。
 徳川家康が岡崎城に在った頃、勝手に鷹場で鳥を取った者や城の堀で
を取った者たちが家康の怒りを買い、牢に閉じ込められてしまった。
これを聞いた鈴木久三郎は、勅使に馳走するための鯉や織田信長から貰
った酒を、家康から拝領したものとして勝手に持ち出し、皆に振舞って
しまった。家康は烈火の如く怒り、薙刀を手にして久三郎を呼びつけた。
すると久三郎は、「魚や鳥を人に替えて、天下が取れるか」と吠えた。
これに家康は心を打たれ、久三郎や捕らえていた者たちを赦したという。
トップとボトムの間にも「刎頸の交わり」がここに生まれた。                                            (岩淵夜話別集)


尖らずに正道をゆくいい笑顔  宮原せつ

鈴木久三郎に、窮地に陥った家康の軍配を奪い、身代わりとして敵軍へ
突っ込み家康を救い、その後、無事生還した話が伝わる。
武田軍と徳川・織田軍が激突した「三方ヶ原の戦い」で…。

ア行から始まる地球の歩き方  笠嶋恵美子




     窮地の家康の前に敵と対峙する鈴木久三郎




「鈴木久三郎&家康の物語」
鈴木久三郎は「殿っ!」と叫び、窮地に陥った家康の元へ駆けつけ家康
が手にしている采配を指し示し、
「それがしが三河守 (家康) を名乗り、殿が逃げる時を稼ぎ申す。采配を
私目に御貸し下され」
采配は、軍勢を指揮する道具。これを持っていれば、敵も「こいつが総
大将の家康だ」と勘違いするだろう、言うのだ。
「何を申すか。そなた家臣を見捨てて逃げるなど、出来ようものか!」
渋る家康を、久三郎は叱りつける。
「このどたぁけが!殿がご無事なればこそ、捲土重来も叶いましょう」
久三郎は、下級武士で教養もあまりないから言葉遣いがあらっぽい。
「しかし……」 
躊躇する家康に
「えぇから寄越さんかい!」
興奮と緊張で久三郎は、上下見境のない言葉を連発し、家康から采配を
引ったくって、武田軍に向かって駆け出して行く。
「久三郎、必ず生きて戻れよ!」
「任せとけ!、えぇからクソ漏らさんウチにとっとと帰れ!、このどた
 ぁけが!」
このとき家康も30歳になっていたが、久三郎は自分の倅に話しかけて
いるように言葉遣いも無礼千万、滅茶苦茶だ。



いつだってあなたの杖になる覚悟  広瀬勝博


浜松城へ戻った家康は、音のない声で呟いた。
「今ごろ久三郎は、武田の兵らに膾切りにされているだろうのぉ」
悲しみにくれている家康の頭上から、聞き覚えのある声がした。
「…どたぁけ」
家康が顔を上げると、ボロボロで傷だらけの久三郎が立っていた。
「すわっ、亡霊か!」
「どたぁけ。ちゃんと足はついとるわい。殿が『必ず生きて帰れ』と
 言うただろうが」
「…よくぞ戻った!」
感涙にむせぶ家康に、久三郎は采配を渡しながら、
「あんな連中、大した事はないわい…それはそうとこれで『借り』は返し
 たからな!」
家康が受け取った采配は、ボロボロだ。
久三郎の潜り抜けてきた死闘を代弁しているように…。


今が今であればそれでいい夕陽  市井美春

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