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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ソーダー水のむこう八月の足捌き  酒井かがり


  信長の麒麟の花押

「故事」-花押

「花押」は図案化された署名で「書判」とも呼ばれる。

花押は、実名をもとに作られ平安中期頃から主に皇族や公家に用いられた。

「公家様」といわれる、和風の柔らか味のある草書体のものが主流となり、

これが花模様に見えることから、花押という呼び名になったという。

武士が政権を握る鎌倉時代になると、武士も公家にならって

花押を用いるようになり、


太く力強い筆致の「武家様」といわれる花押が作られた。

大切な事は背中にしゃべらせる  中村幸彦

花押は、署名なので文書の最後に書く官職、位階、姓のあとに

記される
のが本来だった。 

つまり花押は名前そのものであり、


例えば、「信繁 花押」と連記するものではなかった。

しかし武士の時代には、文書に格式や威厳を持たせる、

偽造を防止する、などの理由により、

姓のあとに花押が記されるという連記が普通に行なわれれようになる。

実印を男の顔で押している  多良間典男                              


  信繁 花押

戦国時代になると、花押を何度も変えたり、複雑な形を一筆で書くなど、

模倣しにくい形が工夫されるようになった。

このころは、文書は右筆に書かせ、本人は花押を押すだけという習慣が

一般的になっていたので、花押の真偽が重要だったのである。

実名にない文字も使われるようになり、

8回も花押を変えたという織田信長は、天下統一の意志を表すため、

聖獣とされた「麒麟」「麟」を形象化した花押を用いたと言われている。

江戸時代に入り 太平の世になると花押は類型化するが、

型を作って押印する簡便な印判も普及していった。

どうでもいいところにモザイクをかける 岡谷 樹


宇治川の先陣争いの図

前方が池月の佐々木高綱と、後方が磨墨に乗った梶原景季 

「故事」ー馬
                                         いけずき
鎌倉前期の軍記物語『平家物語』に、源頼朝から拝領の名馬「池月」
 するすみ
「磨墨」をめぐり、佐々木高綱と梶原景季(かげすえ)の両者が、

宇治川の先陣争いに至る逸話がある。

名前が知られるほどの名馬は、希少な存在で昔から武士の憧れだったが、

名馬はまた富と権力の象徴でもあった。

奈良時代朝廷は、馬の育成を奨励するために諸国に牧(牧場)を定め、
                              みまき
特に信濃、甲斐、武蔵、上野には直轄牧地の「御牧」を設置した。

自然と気候に恵まれた信濃周辺は「木曾馬」など名馬の産地となった。

同じく馬の飼育に向いた東北も「三春馬」などの名馬を産出した。

ふあふあが海馬に集まる夏の午後  小永井 毬


万福寺の「磨墨」の像

日本の在来馬は体高130~140cmほどの小型で、

全体としてずんぐりしていたが、体質は強健で骨や蹄が堅く、

骨折などが少ないと言われる。

その体格は物資運搬に適していたが、軍馬としての資質にも恵まれ、

武士が政権を握った鎌倉時代以降、各地の牧は良質な馬の産出に、

一層努めるようになる。


古来、朝廷や各地の神社などでは、

年中行事として競馬や流鏑馬などが
行なわれており、

朝廷には東北や信濃、甲斐などの名馬が贈られていた。


室町時代には、幕府から朝廷への進物は太刀と馬が主となり、

各地の選ばれた馬が献上された。

天正9年、信長は京で馬揃を行なったが、

名馬500頭を並べた華麗な行進は威信を誇示するものとなった。

右向けと言われ小首をかしげとく  三村一子

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