忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[681] [682] [680] [679] [678] [677] [676] [675] [674] [673] [672]
鵺の皮着て兎の耳つけて  井上一筒


  模擬御三階櫓

小田原征伐の際、もっとも果敢に戦ったのが忍城であった。
城主は小田原城に籠っていて留守であった、にもかかわらず、
一ヶ月に渡り城を守り、小田原城が落ちてもなお開城していなかった。
城は明冶になるまで残っていた。

「忍城と三成の戦下手」
                                       おし
秀吉による北条征伐の中で、最後まで落城しなかったのが「忍城」である。

ここは代々成田氏が居城としていて、沼や河川を有効に利用し、

「関東七名城」に数えられるほどの堅城であった。

小田原攻めが決定した時、北条方に属する忍城城主の成田氏長

弟・長忠は小田原城に詰めることになった。
                    やすすえ
忍城には氏長の叔父である成田泰季とその嫡男の成田長親

氏長の長女の甲斐姫らが籠城した。

痩せ馬の眼はまだ天空を駆ける  竹内いそこ

北条方の支城を次々と落とし、小田原へと進軍を続ける豊臣軍。

忍城攻略部隊の大将には石田三成が任じられていた。

三成に率いられた軍勢は3万とも5万ともいわれる大軍であった。

一方忍城に籠城しているのは、近隣の農民兵を合わせても僅か3千ばかり。

三成は丸墓山古墳に本陣を置き、まずは正攻法で忍城に押し寄せた。

しかし、沼や河川が堀代わりになり攻め口が少ないうえ、

城兵の士気が高く巧妙な戦いぶりを見せるため、三成は攻めあぐねた。

だが戦いが始るとすぐ、籠城軍の軸であった成田泰季が病死してしまう。

以後、指揮は成田長親が執ることになった。

耳寄りな話棚から落ちてくる  中川隆充


   忍城鳥瞰図

三成は城攻めが滞ってしまったことで、

周囲の地形を考慮して、水攻めを行なうことにした。

三成は近隣の農民らを米や金銭で雇い、

僅か5日間で全長28kmにもなる
「石田堤」を完成させ、

そこに利根川の水を流し込んだのである。


だが水量が足らず、本丸が水に沈むことはなかった。

まるで水のうえに浮んでいるように見えた為「忍の浮き城」とも呼ばれる。

それでも雨が降り続くと、水は本丸まで迫ってくるため、

夜間に城から抜け出した2人の決死隊が堤防を破壊。

その結果、溜まっていた水が豊臣方の陣所へ一気に流れ出し、

約270人が溺死する事態となってしまった。

さらに悪いことに忍城の周囲は泥沼のようになり、

人も馬も近寄れなくなってしまったのだ。

夕間暮れ二足歩行は隙だらけ  青砥和子

それを見かねた浅野長政、真田昌幸・信繁父子らが、援軍として着陣する。

すると城側から内応の申し出があった。

だが手柄を横取りされるのを嫌った三成は、

嘘の情報を長政に伝えて散々な目に遭わせてしまうのだ。

その上で三成は総攻撃を決定。

そこでも功を焦った三成の抜け駆けが災いし、

豊臣軍はバラバラに攻撃を仕掛け、各攻め口で敗退を喫してしまう。

矢印に従えとある帰り道  山本早苗

小田原攻めから7ヶ月を経た7月5日、

北条氏直が自らの切腹と引換えに


「城兵の命を助けて欲しい」という申し出があり、

小田原城の籠城軍は降伏、開城するに至る。

小田原落城とともに成田氏長は忍城に使者を出し、

城の明け渡しを促した。


北条方に属する城で落城していなかったのは、忍城だけであった。

天辺のちょっと手前で裁かれる  岩根彰子

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開