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川柳的逍遥 人の世の一家言
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噴き上げるいつかへ火種絶やさない  加納美津子


氏政・氏直錦絵

「昌幸の仕掛けた時限爆弾」

天正16年(1588)4月、豊臣秀吉は京都の聚楽第に後陽成天皇を迎えた。

諸大名に上洛を命じたが北条氏は応じず、

8月20日にようやく北条氏規(氏康5男)が上洛した。

氏規は沼田領の返還を強く訴えたが、秀吉は取り合わない。

沼田領の裁定が出た時期は不明だが、秀吉の使者が上田を訪れたのは

天正17年7月で、真田昌幸の嫡男・信之が饗応役を務めた。

2月に徳川家康に出仕し沼田領の差配を委ねられていたものと思われる。

おそらくこの間、昌幸と秀吉は大阪にいた信繁を介し、

入念に内々のやりとりをおこなっていたのではないだろうか。

ああー神よ怪しく動く不整脈  石橋芳山

秀吉の「裁定」は、上野の真田知行の3分の2に沼田城をつけて北条に、

3分の1を真田に与え、真田が北条に渡した分の替地は、

家康から
真田に渡すというもので、

家康領国から信濃箕輪領が昌幸に与えられた。


裁定は概ね利根川を境界線といした分割だった。

吾妻領は真田に残り、替地も手に入る。

昌幸らに異存はなく、粛々と沼田城を引き渡した。

しかも名胡桃城は「真田の墳墓の地」として真田に与えられたが、

墳墓が存在した事実はどこにもなく、

明らかに昌幸のこじつけたものだった。


数字だけがオレの人格だった頃  小西 明

だが、上野全域の掌握を望んでいた北条氏には不満が残った。

中でも沼田城と利根川を挟み、指呼の間に築かれた名胡桃城が

真田領になるのは大きな痛手だ。

その不満は沼田城に入った猪俣邦憲の名胡桃城奪取という形に表れる。

真田と北条の間に一触即発の緊張関係を生んだ。

真田側から多少の挑発はあっただろう。

だがこれこそ昌幸が仕込んだ時限爆弾だった。


くすぶった不満が出口探してる  相田みちる

天正17年11月、猪俣は昌幸の家臣である鈴木重則が守る

「名胡桃城を奪取」する謀略を実行した。

沼田城代を務めていた猪俣については、不明な部分が多い。

代々北条氏に仕えた富永氏の一族の出身で、北条氏政の弟・氏邦に従い、

小田原から武蔵方面へと進出してきたとされる。

もともと名胡桃城は沼田城の支城であり、

本来は北条方に引き渡されることになっていた。


しかし昌幸は「名胡桃城は祖先の墳墓が残されている地である」

といい、頑として譲渡を拒否したのである。

猪俣は鈴木重則の家臣の中山九郎兵衛を買収。
                     おび
偽の手紙を重則に渡し、城外へと誘き出させた。

主が留守になった隙に、九郎兵衛に城を乗っ取らせたのである。

またひとつ罪を重ねた白ペンキ  上田 仁


 秀吉と家康

だがこの行為は、秀吉が定めた「惣無事令違反」に問われた。

秀吉は沼田一帯のほとんどを北条領とするなど、

臣従すれば、北条氏は存続させるつもりでいたようだ。

ところが大幅な譲歩をもってしても、

のらりくらりと臣従の意思を見せない北条氏に対して、業を煮やしていた。

家康も自らの与力大名・真田氏の利益を擁護する立場に立たざるを得ず、

北条氏は次第に孤立した。

昌幸が意図した通り、

秀吉は北条氏が「公儀」を蔑ろにしたと断罪し、


「小田原攻め」の大義名分を得たのである。

※ 惣無事令(大名同士の私闘を禁じた法令)

とろとろと沈む夕日に裁かれる  牧野芳光

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