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川柳的逍遥 人の世の一家言
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振り向けば我が道にあるオウンゴール  前中知栄


洋式の軍装で身を包み、野営用のテントの前に並ぶ幕府側の兵士たち。
洋服に刀を落とし差しにしている姿に、軍制改革の過渡期を感じる。

「幕府は何故、長州に敗れたか」

高杉晋作ら急進派が再び藩の実権を握ったことで、長州は、

以前にも増して幕府との対決姿勢を鮮明に表すようになってきた。

慶応2年(1866)1月の歴史的な「雪解け」により、

薩摩との同盟が締結されたことも、長州の自信となった。

この同盟の効果はすぐに現れた。

長州軍には薩摩藩を通じての武器購入ルートが確立。

喉から手が出るほど欲しかった新式の銃と蒸気船を、

薩摩名義で亀山社中が購入。

それを伊藤俊輔井上聞多が長崎で受け取っている。

ハミングのリズムでオムレツが割れる  荻野浩子


   ミニエー銃

同時に新しく購入した前装式ライフル歩兵銃は、

それまでの汎用銃ゲベールに対し、

飛距離と命中精度、それに連射能力が向上させもので、

長州の軍事力に大きく貢献することとなる。

それまでの汎用銃ゲベールは300歩の距離での命中率が、

8パーセントだったのに対し、

ミニエーは、44パーセントもの高率を持ち、

距離800歩での命中率は27パーセントを保っていたという。

シーソーの寝返りを見た昼下がり  筒井祥文

こうした事態を把握せぬまま、幕府は、

再び征討軍を編成することを決め諸藩に通達した。

薩摩はもちろん、幕府からの出戦要請を拒絶している。

これは「薩長同盟」による規定路線であったが、

幕府にとっては、頼みとしていた薩摩の出兵拒否に困惑する。

だが長州をこのままに放置できないので、薩摩抜きで軍を編成した。

それでも約15万もの兵力を集めたのである。

これに対して、長州はわずか3500人程度であった。

この兵力差から幕府軍は、

それほど苦労もなく勝利できると確信していた。

占いのつぼにすとんと落ちている  前田芙巳代


   幕府側兵士
幕府軍の進軍を描いたもの。
兵士の服装や装備は昔ながらのもの。

幕府軍の中核である、いわゆる旗本軍は潤沢な武備で参軍したが、

その中には旧態依然の武装で、

戦国期さながらの甲胄や火縄銃を装備した藩兵もあった。

さらに動員された諸藩の兵たちは、

この戦いは自分たちの利害とはまったく関係ないものと

考えていたため、兵士の士気は甚だ低かった。

人体模型 人民服がよく似合う  くんじろう

一方、寡兵であるが長州軍は、

大村益次郎により軍制も西洋式に改革されている。

しかも大村は、

四方から押し寄せる大軍の攻撃に備えるには、従来の武士だけでなく、

農民、町人階級から組織される市民軍の確立が急務と考えた。

その給与を藩が負担し、

併せて兵士として基本的訓練を行なわなければならないと訴えた。

こうしてそれまでは有志によって構成されていた諸隊を整理統合し、

藩の統制下に組み入れた。

異議のある人は放物線上に  井上一筒


   大村益次郎

慶応2年(1866)6月7日、幕府は第二次長州征伐の号令をかける。

束西南北の四方から、長州藩に順次来襲、随所で激戦が展開された。

大村益次郎が実践の指揮を執った石州口では、

最新の武器と巧妙な用兵術を縦横に活用。

それは無駄な攻撃を避け、

相手が自滅に陥ったところを攻撃するという合理的なもので、

旧態依然とした戦術に捉われた幕府側を悉く撃破した。

そして6月16日、長州軍圧勝で終わる。

大村は中立的な立場をとっていた津和野藩領内を通過して 

浜田まで進出。

7月18日には浜田城を陥落さっせたうえ、石見銀山を占領した。

ナメタラアキマヘンという涙跡  森田律子


 四境戦争石碑

他の戦線もミニエー銃などを駆使する長州軍の前に圧倒されていく。

幕府にとっては予想外の苦戦が続く中、さらなる不幸に見舞われる。

長州征伐のために大坂までやって来ていた将軍・家茂が病に倒れ、
         こうきょ
7月20日に薨去したのである。

そして、8月1日に小倉城が陥落すると、

徳川慶喜はこの戦いにおける勝利を断念。

それまで伏せていた将軍・家茂の死を公表するとともに、

勝海舟を派遣して講和を結んだ。

こうして幕府連合軍はさしたる成果を見ることなく、長州から撤退。

長州征伐が失敗に終わったことは、

幕府がすでに張子の虎になったことを知らしめた。

教えます正しい闇の迷い方  酒井かがり

この戦いののち、政局は反幕府派が主導してゆく。

慶応3年1867)10月には、大政奉還

同年12月には、王政復古のクーデターが起こり、新政府が樹立。

そして、翌慶応4年には、戊辰戦争が開戦。

「新政府軍」が「旧幕府軍」と戦った。

もちろん新政府軍の中心は、長州であり、

松陰の感化を受けた者たちが躍進していった。

そして日本は「維新」を迎えるのである。

最強のいい人になり甦る  富山やよい


    東行庵


「高杉晋作-臨終」

第二次長州征伐後、高杉晋作は、肺結核が重篤化してしまい、

慶応2年(1866)10月下旬、下関桜山に小屋(山荘)を新築し、

病療養のため、愛人・おうのを連れて移り住んだ。

墓前の落ち葉でも掃き清めながら、

残された日々を送ろうと考えたのだった。

奇兵隊が建立した招魂場を臨むこの小庵を、

晋作は「東行庵」と名づけ、
                     もんしつしょ
また、南部町の寓居と同じく「捫蝨処」とも呼んだ。

捫蝨とは、シラミを潰すという意味。

オカリナの空を小さくふくらます  八上桐子



気分のいい日には、師・松陰の墓前で、酒を飲んでいたともいう。

二人が出合ったころの思い出語りをしたのだろう。

師から受け継いだ志が遂げられる日が近いことの報告もした。

そして前線からは、次々と長州軍勝利の知らせがもたらされる。

晋作は喜びを噛みしめながらも、

すでに自分の肉体が動かない現実に、

一抹の寂しさを感じ、次のような歌を作っている。

「人は人吾は吾なり山の奥に 棲みてこそ知れ世の浮沈」

惰性で書いた正方形は丸くなる  森 廣子


     おうの

晋作の病状は12月に、一時小康状態を得たが、

年を越してからはもう床を離れることができなくなっていた。

「余り病の烈しければ」 と但し書きをつけて、

「死んだなら釈迦と孔子に追ひついて 道の奥義を尋ねんとこそ思へ」

などと道化ているが、

野村望東尼から無理矢理に頼みこまれ看病を手伝っていたおうのは、

その頃の晋作の様子を次のように語っている。

「もう旦那は、寝がへりさへ御大儀なやうな御様子になりまして、

   顔は透き通るやうにつやつやと、病熱の所為で、

   パッと頬紅がさして居りまするのが、

   此の世から仏様のやうに思はれます」

と、死期の近いことは誰の目にも歴然としていた。

望東尼とおうのは、蔭では泣き暮らしていたという。

先に逝くつもり我儘いうつもり  一戸涼子

やがて、晋作はおうのがつくる芋粥も受けつけなくなる。

晋作重体の報せは藩庁にも届き、藩主から薬料3両が下賜された。
                 さんくろう
その後、晋作は新地の林算九郎方の離れに移される。

晩年、竹の絵を描くことを好んだ晋作はその部屋を、
           りょくいんどう
竹の意味を表す「緑筠堂」と名づけている。

3月の下旬には萩から父親の小忠太、妻の雅子が、

長男を連れて駆けつけると、おうのは晋作から遠ざけられてしまう。

野村望東尼は臨終まで足しげく看病に通い続けた。

多くの知友や家族が見守るなか、

苦しい息の下から紙と筆を所望した晋作が、

"おもしろきこともなき世におもしろく"

と書いたところで力つきたのを、晋作の枕元にいた望東尼がうけて

"すみ(住み)なすものは心なりけり"

と下の句をつけてみせると、

「おもしろいのう」と静かに微笑んだという。

巻き貝の奥からもれるピアノソロ  本多洋子


  野村望東尼

「おもしろきこともなき世におもしろく」

この晋作の楽天的とも前向きともとれる歌は、

晋作の本心である不満と希望の相反する二つの意味を含む。

61歳の望東尼は、彼のその心情を理解し、

「心掛け次第だよ」と、優しく諭した下句でもあった。

慶応3年4月、大政奉還を知らず、

騎兵隊の活躍した戊辰戦争を知らず

師や盟友らと同様、手の届くところにあった「維新」を見ることなく、

下関新地の林算九郎邸で晋作は逝った。 

享年29歳。

晋作は亡くなる直前、見舞いに来ていた同志・井上聞多福田侠平に、

「ここまでやったから、これからが大事じゃ。

   しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」

と繰り返し、繰り返し言ったという。

これが晋作の「遺言」の言葉になった。

死ぬ真似の練習そのまま寝てしまう  東おさむ

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