忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[600] [599] [598] [597] [596] [595] [594] [593] [592] [591] [590]
あすという泥鰌のいない安木節  奥山晴生


   四境戦争絵図  (山口県立博物館蔵)

「四境戦争」

幕府による第二次長州征伐は、慶応2年(1866)6月、

大島口、芸州口、石州口、小倉口に幕府軍の侵攻して開戦した。

この四つの国境が戦場となったため、

長州ではこれを[四境戦争]と呼ぶ。

四境戦争に至る経緯は、元治元年の「禁門の変」によって、

長州藩が朝敵となったことに始まる。

第一次長州出兵は、長州藩が幕府に恭順の姿勢を示したことで、

回避されたが、その後、長州藩内で、

高杉晋作の挙兵による内乱が勃発。

この内乱鎮静後に、長州は恭順の姿勢を示しながら、

軍事力強化をすすめる[武備恭順]に方針を転換した。

このような長州藩の動きに対し、慶応元年(1865)4月19日、

長州藩への再出兵が決定されたのである。

相乗りが下手な男の一人ゴマ  百々寿子


  長州征伐(龍馬絵)

幕府は、慶応元年11月、各藩に長州藩再出兵の動員を命じた。

出兵命令段階では、大島ではなく、山口方面に進軍できる上関に、

四国諸藩を配置していた。

海を隔てて大島と隣り合わせの松山藩、宇和島藩・徳島藩・

今治藩などに出兵を命じたが、実際に大島まで進軍したのは、

松山藩だけであった。

今治藩は、一番手を任されたが、

「多くの藩が出兵していないのは、

   天下の人心が一致しているとは言えない」

として大島までは進軍せず。

また宇和島藩は、英国公使パークスの来藩などを理由に出兵を拒否。

四境戦争では、幕府の出兵命令に従わない藩も多くみられた。

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子


   浦 靫負

慶応2年1月幕府は、長州藩に領土10万石削減などの処分を決定し、

2月から3ヶ月、長州藩へ処分を受け入れさせる交渉が、

広島で行われた。 しかし、長州藩は処分を受け入れず、

ついに6月7日、幕府軍艦の上関砲撃によって、

四境戦争の幕が下ろされた。
       うらゆきえ        あずき
長州藩元家老・浦靫負が給領のある阿月に隠居していた折に見た、

6月7日の様子を次のように日記に記している。

『四ツ時分(午前10時頃)蒸気船が上関の横島近辺から白浜を砲発した。

四・五発のうち一発は、千葉岳に撃ち込まれ、ニ発は海中に落ちた。

それより、蒸気船は大波に出て、大島郡安下庄あたりで

四・五発の砲声があった』

この日記は、蒸気船一艘が安下庄の沖合から四発砲撃し、

そのうちニ発が、竜崎の海中に落ちたとの

大島郡代官所からの報告とも合致する。

まず走れ結果あとからついてくる  有田晴子


   幕府の砲弾跡 (威力の小ささが歴然)

この蒸気船は幕府の軍艦・長崎丸で、

この後、宮崎から来た幕府の軍艦が久賀村沖の前島に碇泊。

10日の段階では、第ニ奇兵隊の林半七

「今日にも合戦になると考えていたが五艘の軍艦は二艘になっており、

    正午になっても何も起こる様子がない」

と報告しているように、しばらく軍艦からの攻撃はなかった。
                                しき
ところが、翌11日、幕府の軍艦が久賀へ向けて頻りに発砲をはじめ、

幕府兵が400人ほど上陸して久賀を占拠。

また松山軍も6月8日、大島に進軍し、

11日には、安下庄に陣所を構えた。

長州藩側は、大島郡代官・斉藤市郎兵衛の率いる隊などが応戦したが、
    とおざき
11日に遠崎へ退去し、大島は幕府軍と松山軍に占拠された状態になった。

交点にタムシチンキを塗っておく  井上一筒

藩政府は、6月7日以降の戦況報告を受けて、
                                     こうぶたい
10日付で第二奇兵隊と長州若手家臣団で組織された浩武隊に、

大島に進軍することを命じ、また、
   へいいんまる
同時に丙寅丸にも大島行きを命じ、高杉晋作に乗船を命じている。

丙寅丸とは、慶応2年5月、高杉が独断でグラバー商会から

購入したアームストロング砲を搭載した94トンの蒸気船である。

海軍総督を命じられていた高杉は、丙寅丸に乗り大島口に向かった。

12日、丙寅丸は、午後2時頃に遠崎に着岸し、

深夜零時から前島に碇泊している幕府軍艦に数十発砲撃を加えた。
               
この後、小倉口に向かった高杉晋作は、
いっちゅうまる
乙丑丸を率いる坂本龍馬とともに小倉藩と戦うことになる。

大島口では、高杉の夜襲攻撃を足がかりとして、

15日には、第二奇兵隊や浩武隊が大島に上陸し、

幕府軍・松山軍との戦闘が開始された。

奥の手が頼りないので七味唐辛子  山口ろっぱ

[第二奇兵隊大島郡合戦日記]には、

16日の松山藩との戦いが次のように記されている。
                                くすい
「幕府軍に占拠されている久賀を攻め入ろうと垢水峠を

   登ったところ、
安下庄に駐屯している松山軍が三手に分かれ、

   一手は石観音清水峠、一手は源明峠、一手は笛吹より、

   百人押し寄せて来たので、石観音清水峠の南側を浩武隊、

   第二奇兵隊は頂上において戦いはじめ、

   九ツ時(正午頃)より激しく戦い、山上一円の煙となった。

   八ツ時(14時頃)になって曇り、小雨が降り出し、

   山上は霧のため下から上は見えなくなり、

  長州軍が下の松山軍に向かって小銃を雨の如く撃ちたてた。

  松山軍は敗走し、手負や死人が多く出た。

  晩になって戦いは止んだが、長州軍は陣太鼓を打ち、
                          ときのこえ
  山よりは、鯨波声をあげて松山軍を追い下した。

  松山軍は浜辺まで撤退して、

  暮六ツ(18時頃)までにはすべての松山軍の船が安下庄から出帆した」

このような激戦のなかで撤退した松山軍は、

「未だ四国の諸家出勢もこれなく、孤軍にて敵地数日の働き、

   彼是兵力も相労し候」 

と、四国諸藩の出兵がなく、

松山一藩での戦闘が限界に達したと記録している。

無力だと思う波打ち際にいる  立蔵信子


 大村益次郎
エドアルドキョッソーが死後に関係者の説明で描いた。

「残る三境の戦況」


長州の戦略は、日本海側の石州口と門司の小倉口二方面に絞っていた。

いかにして、相手の士気をくじくか、そこが長州の狙い目だった。

石州口の攻防は、浜田藩にある。
          たけあきら
浜田藩主・松平武聰は、水戸藩主・徳川斉昭の十男で、

一橋慶喜は異母兄である。

この戦争は、将軍後見職・慶喜の提言によるところが大きかった。

そのため、浜田藩を叩くことは、

慶喜ひいては、将軍の面子をつぶす効果があったということだった。

そこで長州は、この方面の司令官に、大村益次郎をあてた。

大村は、長州一藩のみならず、日本第一の西洋軍学者である。

大村は、明倫館兵学寮総官・教授として、

奇兵隊を最新軍制によって徹底的に鍛えあげていた。

天気予報の夏を何度も確かめる  墨作二郎
                 かずさ                  まさあり
石州口の幕府総大将は、上総飯野藩二万石の藩主・保科正益だった。
                      
大村は、突如として奇襲にでる。

いそぎ、津和野から益田へ軍をうごかす。

幕府軍の陣容が整わないうちに、浜田藩兵を狙ったのだ。

浜田藩兵は、旧式の軍備だった。

銃は、火縄やゲーベル銃。

しかも、鎧兜である。動きも重い、あっという間に、

幕府軍は蹴散らされ保科正益や松平武聰は戦線を離脱する。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子     


  小倉合戦の図

小倉口では、緒戦こそ長州藩が優勢に勝ち進んだが、

水上戦の底力は幕府側にあった。

ただ陸上の実戦では、長州が幕府軍を圧倒した。

しかし、初戦から四十日目の赤坂口では、長州は敗北を喫する。

熊本藩兵が出てきたからだ。

熊本藩では、洋式銃砲に洋式兵法で長州・奇兵隊に対峙した。

こうなると、軍備と兵力では、力の差は歴然だった。

メルアドのドットが風に流される  加藤ゆみ子
                          えんせん
ところが、どういう訳か、熊本藩には厭戦気分が充満していた。

勝っても得なことは、ひとつも無い。

しかも、長州に対し取り立てて恨みがあるわけではない。

幕府軍総督・小笠原長行に、赤坂口・守備交代を申し出る。

しかし総督が「そうかいいよ」と言うわけがない。

熊本藩は総督の返事がどう返ってくるか承知の上のこと、

そのまま戦線から撤退してしまった。

こうなると、小笠原長行に策はなかった。

しかも、そこに将軍・徳川家茂死去の報が入る。

最期に小笠原長行が取った行動は、軍艦・富士丸にひとり乗りこみ、

小倉口から遁走することであった。。

B面はこうもりとして闇の中  高島啓子


   小倉合戦ー2
小倉城に向かって砲撃をする長州軍

戦さの勝敗は決したようにみえたなか、小倉藩は最後の粘りをみせた。

みずから小倉城に火を放つと、山岳地帯に陣をとったのだ。

ゲリラ戦への作戦変更である。

戦は、一進一退となった。

結局、薩摩藩と佐賀藩の仲裁のもと、和睦となる。

ここでようやく半年間つづいた小倉口の戦いは終結する。

ちなみに、この講和の三ヵ月後、

この戦いを陣頭指揮した高杉晋作は、急逝する。

享年、29歳。早すぎる天才の死だった。

砂塵にすみれサムライの弔歌かな  増田えんじぇる 

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開