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川柳的逍遥 人の世の一家言
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枯れてなおバラは掟の棘をもつ  佐藤美はる


  新双六淑女鑑 (小林清親画)   (拡大してご覧ください)

明治女性の「幸福な」一生をゲーム感覚で学ぶすごろく。
「夫定」のコマ(右)には必ず止まらなければならず、
夫婦円満で進むと「淑女」の上がりにたどり着くが、
道を踏み謝ると「娼妓」や「老朽」に落ちてしまう。

「家庭の確立」

明治期は「家庭」という単位が確立した時代である。

江戸時代は親族を含めた大家族や村民たちの互助で成り立つ、

「村落共同体」が社会と個人を支えていた。

近代国家である明治新政府は、

個人の権利や私的所有を前提としたが、実際の法制度の中では、

家が個人を直接管理することは難しく、

家庭が最小単位となった。

脚注は入れぬ想像に任せる  竹内ゆみこ

家庭という単位が確立すると、家庭内の役割も分化。

「父は外で働き、母は内で子育てをする。

   母親になることが女性の幸せ」

という考えが一般に広がった。

江戸時代までは、子どもの養育は大家族が皆で担っていたが、

明治になると子育てと基礎教育は家庭の役割、

もっぱらそれは、女性の仕事となった。

呪文唱えて金縛りにしてしまう  高島啓子

こうした家庭の確立と男女の役割分化制度的に定めたのが、

明治31年(1898)制定の民法の於て規定された「家制度」である。

この民法は夫が戸主となる、妻は夫と同居する、

妻の財産は夫が管理するなどを規定。

夫婦同姓の義務化も「家庭」強化の象徴となった。

離婚も妻から申し出るのは困難だった。

協議離婚は認められていたが、妻の姦通は離婚理由になる一方、

夫は姦淫罪によえる有罪で無い限り、

妻から離婚を訴えられないなど、不平等な制度だったのだ。

吊り橋が壊死そんなことだってある  高柳閑雲

この時代の女子教育は、

家庭を守る「良妻賢母」の育成が主であった。

作家で歌人の樋口一葉には、高等科で主席になりながらも、

「女子に長く学問をさせては、将来のためによくない」

という母の意見で退学し、

家事見習いや針仕事をしていたというエピソードもある。

女子の高等教育は不要どころか悪影響があるという意識が、

当時は一般的だったようだ。

交差点に棒をおいてはいけません  山口ろっぱ


  女礼式の図

右側で書道、左側で茶道の指導が行なわれている。
中央に立つのは教室を見張る教師。
女礼式とは女性が身につけるべき礼儀作法や習い事のこと。
明治中期から後期にかけて女礼式を描いた錦絵や双六が
啓蒙のため、
数多く制作された。

明治中期ころの女子中等教育は、

ごくわずかな師範学校やキリスト教系女学校を除くと、

ほとんどが夫人のたしなみや実技を教える家塾のような学校。

教わることも、ふすまの開け閉めや着物の着付けに始まり、

裁縫、書、琴、茶道、華道などが中心だった。

そうした状況下で、女児教育の普及に尽力した

楫取素彦美和の取り組みは先駆的だったといえる。

多くの一般女性が、

家庭での「役割分化」や「良妻賢母」の呪縛から

解放されるのは、戦後まで待たなければならないのである。

シンプルに生きると決めてから長い  佐藤美はる



「女子教育の事情」

女性たちが教育を受ける学校として明治初年には、

東京の跡見学校など、20校余りが開校し、

女子教育が行なわれるようになった。

こうした学校では現在の学校で学習するような地理や歴史、

英語などもあったが、

良家のお嬢様であればあるほど習字や裁縫、手芸など

従来から女性のたしなみとされる学科の成績が良かった。

こうしたお嬢様は卒業までに、

結婚が決まらないのは恥とされる傾向が強く、

お嬢様の結婚が本人の意志とは関係ないところで決められるのは、

江戸時代と変わりがなかった。

水が氷になるのを許すべきなのか  福尾圭司

では東京のお嬢様学校ではなく、一般庶民はどうかというと、

農家にとって子供は大切な労働力であったため、

子どもを学校にやる親は少なかった。

学校も初期のころは、

江戸時代の看板を付け替えたようなものだったこともあって、

親も子には学問よりも裁縫など実生活で役に立つ技術を

身につけさせたがっていた。

指六本あったらピアノ習うのに  杉山ひさゆき

女の子には女性の教員が教育に当たるべきという要望が強く、

女子教員の育成が急務となった。

当時、女性の職業は限られており、

教師はその代表的なものであったが、

働く女性は結婚できない、経済的に恵まれないなど、

常に「負のイメージ」が付きまとった。

また江戸時代には場合によっては、

女性にも財産相続が認められていたが、

前述のように、明治31年に民法における「家長制」が確立すると、

財産のすべてを実質上長男が相続することとなった。

明治の女性は、見方によっては、

それまでの時代よりも、社会進出を阻まれ、

「男性の付属品であることが求められるようになった」

といえるだろう。

こっち向く不幸とあっち向く幸と  清水すみれ

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