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川柳的逍遥 人の世の一家言
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美しく書き足してあるエピローグ  新川弘子


斬髪を率先した時の写真

「長州に人物なしと雖も、桂小五郎なるものあり」

坂本龍馬は、桂小五郎(木戸孝允)を評した。

「木戸孝允」 天保4年(1833)~明治10年(1877)

木戸孝允は、かねてから重病化していた「脳発作」が悪化し、

明治天皇の見舞いも受けるが、明治10年5月26日、

朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、

「西郷もまた大抵にせんか、予今自ら赴きて之を説論すべし」

と、明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後に

この世を去った。

死因は「心血管障害」とされている。享年45歳。

※ 心血管障害病とは、心臓や血管などの循環器の障害で、
特徴的な痛み、息切れ、疲労感、動悸、ふらつき、失神、脚や足首、
足の腫れ
などの症状から心臓発作、脳卒中を起こし死に至る病である。


海底に夢の欠片を取りに行く  松原未湖


木戸の覚悟を書いた手紙

『木戸を評する言葉』を読めば木戸の凄さが見えてくる。

「松平春嶽、前福井藩主」

木戸は至って懇意なり。

練熟家にして、威望といい、徳望といい、

勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。

帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、

衆人の異論なからしむるは、

大久保といえども及びがたし。

木戸の功は大久保の如く顕然せざれど、

かえって大久保に超過する功多し。

いわゆる天下の棟梁というべし。

謳歌しなきゃ愚痴ばかりではもったいない 伊東志乃

   

「大隈重信、政治家」

木戸は創業の人なり。大久保は守成の人なり。

木戸は自動的の人なり。

大久保は他動的の人なり。

木戸は慧敏闊達の人なり。

大久保は沈黙重厚の人なり。

もし、主義をもって判別せば、木戸は進歩主義を執る者にして、

大久保は保守主義を奉ずる者なり。
             きゅうぶつ
是をもって、木戸は舊物を破壊して、百事を改革せんとする。
                                    (舊物=ふるいもの)
王政維新の論を執り、大久保はこれに反抗して、

漸次、大寳令の往時に復せんとする、王政復古の説に傾けり。

諸般の事物に対しては、その意見議論、まったく衝突し、
       おのず
その衝突は自から、二人の代表せる薩長の軋轢となり、

その軋轢は延いて、進歩主義と保守主義との一消一長を為し、

ついには維新革命の事業より、立憲政制の端をも開くに至れり。

稜線を一気に越えたかたつむり  合田瑠美子



「田中惣五郎 著作家」

明治新政府の閣僚の中、側近の力をかり、

ブレーンの力をかりることなくして、

すぐれたる見識を持ち得たものは、木戸をもって第一とするであろう。

維新後の民主的なものであって、

木戸の関与しないものは殆どない といっても過言ではない。

木戸の性格は極めて篤厚であり、長者風であった。

木戸が人に立てられるのは、その頭脳もさることながら、

より城府を設けぬ態度と、堂々たる風貌にあった。

そしてこの風貌と態度の示すごとく、彼は温厚の大人風であり、

平和裡に事を処理することを好んだ。

ひとことも自慢を言わぬ凄い人  新家完司

「三浦梧楼、陸軍中将」

情実の打破は木戸の生命である。

朝にあってもその矯正を計り、野にあってもその矯正を力め、
                             ばんこく     もた
病に臥してもなおその矯正を思い、ついに万斛の憂愁を齎らして、

泉下の客となった。
                       てんめん
かくのごとく木戸がいかに情実の纒綿を苦慮したかは、
                                  (纒綿=からみつくこと)
和歌の表にも露われている。

書状の上にも現れている。

遺言の上にも顕われている。

この遺志を継いでその矯正を計るものは、我輩をおいてはたれかある。

木戸の精神は我輩の精神である。

我輩の意志はすなわち木戸の意志に他ならぬのである。

木戸逝いて後、

またともに我が志を談ずべき友がいなくなってしまった。

我輩の情実打破のために孤軍奮闘するに至ったのは、

まったくこれがためである。

人間の樹海に足を踏み入れる  青砥たかこ  


  木戸孝允の勅撰碑明治天皇の命で建てられた)

「ミットフォード 英国人通訳」

(木戸孝允)は背が高く、その態度は不思議に人を惹きつけ、

気立てがやさしかった。

そして、教養豊かな学者で、生まれながらにして、

指導者としての力を備えていた。

彼は長州の藩士で、1868年の維新当時、

最も有名だった5~6人の中の一人であった。

神の寵愛を受ける者は、若くして死ぬ。

しかし、彼は自分の仕事が成功したのを見届け、

偉大な日本の基礎を築くのに協力するのに、

十分間に合うほどの長生きはしたのである。

私がある日本の友人に、

「これから木戸侯爵の墓に詣でるところだ」 

と話すと、彼は

「木戸侯爵はあなたにお会いするのを喜ぶでしょう」 

と答えた。私が

「侯爵はもう亡くなっているので、私に会うことはできないでしょう」 

と言うと、その友人は、

「彼の霊がそこにいるはずです」と重々しく私に反駁した。

もし本当に彼の霊がそこにいて、

葬られた場所によくあらわれるとすれば、

つい最近まで過去何世紀もの間、神秘に包まれ、

今は解放されているが、当時は下界とは遮断された聖域であった

この大きな都を見下ろし、彼があれほど勇敢に、

その一役を果たした驚くべき変革を、誇らしく思うことだろう。

虹はお空のフレスコ俯瞰図に置く  山口ろっぱ


  木戸孝允の俳句

「木戸の功績」

龍馬の斡旋で薩摩藩士・小松帯刀、西郷隆盛らと薩長同盟を結ぶ。

"うめと桜と一時に咲きし さきし花中のその苦労"
                   薩長同盟を詠った歌。(梅は長州、さくらは薩摩)

王政復古後は五箇条の御誓文の草案の作成に関与。

薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が版籍奉還の建白書を提出したが、
その実現に木戸が一役買った。

廃藩置県でも西郷と並ぶ参議として重責を担った。

大久保利通、板垣退助らと大阪会議(明治8年)を開き、
立憲制を布くとの方針を定める。

西南戦争では事変処理にあたった。が、途中病死した。

"さつきやみあやめわかたぬ浮世の中になくは私しとほととぎす" 
                                                         (木戸孝允 辞世)
(雨雲におおわれ、雨が降り続ける梅雨の夜のように暗く、何が正しく、
    何が邪(よこしま)なのか、区別すら付けられないような、この浮世)

渦巻き線香をゆく明らかな順路  山本早苗

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