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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


貞宮養育時代、青山離宮の貞宮御殿の庭で撮られた集合写真

前列中央が楫取素彦、その右が美和、左は嫡子希家夫人の多賀子

「楫取素彦・美和-最終章」

明冶16年(1883)美和と再婚をした年、楫取素彦は辞職願を出す。

肉体的、精神的に地方の長としての仕事に耐えられないというのが、

理由だったが、引き際を考えてのことだったのだろう。

しかし、任期が12年と決まっていた事もあり、

辞任願いは受理されず、翌年までの延長ののち、

元老院議員として栄転することになる。

楫取の辞任に対し、前橋市民は反対運動を起こしているが、

辞任にあたって、市民から、楫取は風俗も人情も違う地域で、

産業や教育の振興に尽くしたことに対する送別の辞を受け取り、

上京する時には、数千人の人々に見送られている。

同時多発的イオンを全身に  雨森茂喜


 前群馬県令楫取君徳碑

楫取の群馬における於ける業績を評価し、明冶23年に立てられた。
楫取が群馬県民にどれだけ愛されていたかを証明している。

さて楫取が議員として栄転した元老院は、

明冶8年(1875)に設立され、明冶23年帝国議会が開かれるまで、

立法機関として機能していたもの。

とはいえ、議員資格はそれまで功労があった人に与えられる

という側面があり、いってみれば、名誉職のようなもので、

17年間の県令職の苦労を癒してくれるものとして、

楫取にとっては、悠々とした余生が与えられたということになる。

そして、明冶17年、「華族令」が発令されると、

維新に功績があった人々が、新しい華族として誕生する。

山口県出身では、この年に10人が爵位を受け、

楫取が男爵の爵位を得たのは、明冶20年のことであった。

緞帳がまだ喝采を浴びている  黒田忠昭

爵位を受けたのは合計21人、このうち物故者(無くなった人)の二代目や

武官としての功績者を除くと14人となる。

つまり楫取は、維新の功績者ベスト14に選ばれたことになる。

しかし、楫取にしてみれば、

自分は多くの志士の死を乗り越えてきた にも関わらず、

年少の人間よりも低い爵位であることに少々不満もあったようだ。

「自分の維新以前の勤めは、杉民冶や山県有朋より、下ではなく、

   かえってその上であると世間では言っているのに、

   私はいつも一段低い扱いを受けてきた習慣が尾を引いて、

   二家よりも、一段下にされてしまった」

という文章が残っている。

ときどきは愚痴の断捨離しておこう  青砥たかこ



しかし、この文章に書かれたことは楫取の本意ではない。

松陰久坂や志半ばで死んでいった仲間たちのことを思うとき、

生きてこの立場にいれることを真摯に感謝するのが、

楫取という人である。

現に、晩年子爵へと内意があったときに、

「畏れ多いこと」と辞退している。

こうして美和は、晴れて男爵夫人となった。

長州藩出身 主だった家の爵位
公爵・・・毛利元徳・元昭(毛利家)
侯爵・・・木戸孝允(木戸家)
伯爵・・・伊藤博文、山県有朋、井上馨、山田顕義、広沢真臣(広沢家)
     (伊藤博文、山県有朋はのちに公爵、井上馨は侯爵)
子爵・・・品川弥二郎
男爵・・・楫取素彦
この他にも長州藩からは多くの人が爵位を授与されている。

ダンボール10個分ほど幸せが  田口和代

明冶26年、楫取は山口県に帰る決意をし、防府に居を定め、

そこで生涯を過ごした。

ここには主筋毛利邸もあり、

「山口県において、健康にいい土地で

   海路も陸路も便利なところを選ぶべきだ」

というのが、その理由だったので、楫取もそれに倣った。

貴族院議員として、議会に出席するための利便性をも考えた。

こうして、東京と防府を往復する生活をしていた楫取だったが、

明冶30年、重要な任務を担うことになる。

明治天皇の第14皇女・貞宮多喜子内親王の養育係主任をやってくれ

と命じられたのである。

自転車に乗ってきたのは赤いもみじ  北原照子

養育係主任になるということは、美和もお付きの女官になること、

夫婦で出仕することになる。

当時の写真(冒頭の集合写真)を見ると、楫取長男(元篤太郎)の妻・多賀子や、

次男・道明の妻・美須もと一族を挙げて出仕している。

こうして、防府から東京の青山離宮・貞宮御殿での

生活を送ることになる。

無印の首を揃えてイエノオト聴く  山口ろっぱ

宮中関係の仕事は忙しく、70歳の楫取にとっては激務だった。

「夜間十八、九時ごろ過ぎに官舎に帰ることはできません。

   そのため、寝につく頃は非情に疲れており、翌日は半日ぐらい

   膝や腰がずきずき痛みました」 

と弱音を吐いている。

その一方で、

「宮様に仕えているおかげで、具合が悪いときは、

   すぐに医者に診てもらえるのでありがたい」

などと役得もあることを感謝している。

自由になった不自由にもなった  谷口 義


   毛利元昭      毛利元徳

ところが、貞宮は明冶32年、この前年に体調を悪くし、

神奈川県足柄群で静養中、脳膜炎を発症し、

わずか1歳4ヶ月で亡くなってしまう。

楫取は貞宮の葬祭の喪主の務めを最後に、美和とともに防府に帰る。

それからの防府での生活は、議員の仕事をこなすかたわら、

別荘も建て悠々自適で、海水浴も楽しんだと記述もあり、

旧藩主とも交流をしていたようだ。

「昨日は迫戸別荘へ元昭公をお招きいたし昼食をさしあげました」

元昭公には、かって守役として勤めたこともあって、

懐かしい想いが胸中を流れたことだろう。

残された時間ゆらりと寛ごう  新家完司


楫取素彦と美和子の銅像(防府天満宮

明冶32年、古希の祝いに御紋付き盃と酒肴料を宮中から賜った

楫取は80歳になった時、再び御紋付き盃と酒肴料を賜っている。

このとき、楫取は歌を詠んでいる。

いたつらにやそちのとしをかさねけり 世にいちしるきいきをなくして

(意味もなく無駄に80歳の年を重ねてしまった。

   世の中にきわだった手柄もないのに)

明冶43年、病気勝ちの身に宮中で杖をつくことを許され。

明冶44年、貴族院議員を退任。

明冶45年6月、両陛下からお菓子を下賜される。

(この年の7月30日、明治天皇崩御、大正に改元)

天皇崩御の半月後の大正元年8月14日、楫取は生涯の幕を閉じる。

死後、正二位の称号を得、皇太后や皇后からは、祭祀料を賜り、

葬儀には、勅使として山口県知事が参列、白絹二匹が届けられた。

美和は、それから9年後の大正10年9月7日、

80歳の天寿を全うした。

墓は防府の大楽寺にあり、夫婦で並んで眠っている。

入口も出口も石が置いてある  森田律子

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