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川柳的逍遥 人の世の一家言
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うす切りパンへ厚切りハム挟む  山本昌乃


     完成直後の鹿鳴館

当時は「外国人接待所」という名称で、約3年の工期と18万円という
当時としては、莫大な建設費をかけてつくられた。


「於鹿鳴館貴婦人慈善会の図」(橋本周延画)

鹿鳴館では貴婦人たちの主催による慈善バザーも行なわれた。
陸奥亮子も夫に事後承諾でバザーに参加したという。


「鹿鳴館の女たち②」

(写真は拡大してご覧ください)


「井上武子」 嘉永3年(1850)大正9年(1920)

明治の初期、外務・大蔵次官の大隈重信は、

築地本願寺に5千坪の高大な屋敷を構えていた。

「築地梁山泊」と呼ばれたこの屋敷には、彼を慕う者たち―

伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、山県有朋など、

のちの要人たちが集い、政治論議に花を咲かせていた。

薩摩出身の個性派、中井弘(桜洲)もその中の一人。

しかも彼は、柳橋の芸妓だった「武子」にひとめ惚れして

強引に結婚し、この大隈邸に預けていた。

だが、若き男たちの溜まり場で、

美貌の武子が目をつけられないはずがない。

放浪癖のある中井の留守中、井上馨が武子に夢中になり、

彼女を奪ってしまったのだ。

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その後、中井が帰国。

妻が寝取られたことを知り、あっさりと引き下がった。

井上に「武子と添い遂げる」と誓約書を書かせ、

二人はめでたく結婚する。

男の友情はあついのか、井上と中井はその後も友人関係が続き、

中井は武子のいる井上邸に出入りしていたというから、

何とも不思議な関係である。

そのへんのことはゆっくり聞きましょう 竹内ゆみこ



誓約書通り、井上は武子を大事にした。

ヨーロッパ視察旅行にも同行。

2年間のヨーロッパ生活で、

武子は語学やスマートな社交術を身につけた。

またミシンや編み物、料理なども積極的に学んで、

家庭的な面も見せている。

帰国後、井上は外国からの賓客を招く、接待所が必要と

「鹿鳴館」設立に奔走する。

明冶16年(1883)11月、総工費18万円、3年の歳月をかけて、

建築家コンドルが設計した白い洋館「鹿鳴館」が完成。

開館すると武子は夫に尽力し、堂々と優美に接待役をこなした。

黙ってると深い人とかいわれてる  石橋能里子

奇しくも、この鹿鳴館の名付け親は、中井であった。

これは「詩経」小雅鹿鳴の詩から引用。

鹿は餌を見つけると一匹では食べず、

仲間を呼んでみなで楽しみながら食べるという意味の、

社交場にふさわしい名称である。

博学な中井ならではの優雅な命名だ。

才能ある2人の男に愛された武子という女は、

きっと、底知れぬ魅力を秘めた女性だったのだろう。

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(中央)陸奥宗光(左)亮子(右)長男の広吉

「陸奥亮子」 安政3年(1856)~明冶33年(1900)

亮子の憂いを含んだ横顔の写真は、つとに有名だ。

鹿鳴館の貴婦人のなかでもナンバーワンの呼び声が高いが、

自由奔放な夫の生き様に翻弄され、

彼女の人生は辛苦が絶えなかった。

明冶政府の高官が薩長連合で占められているなか、

紀州出身の陸奥宗光は藩閥のバックもなく、孤軍奮闘していた。

才気煥発がゆえに、身の不遇にもがき苦しみ、

私生活では、妻を病で失うという不幸に見舞われた。

そんな時、可憐な新橋芸妓の亮子に惚れこんだ。

芸妓でありながら、亮子は身持ちが固いといわれたが、

なぜか陸奥に心を惹かれた。

明冶6年17歳で一回り年上の陸奥と結婚。

翌年には長女が生まれ、先妻が残した2人の子どもと合わせて、

3人の母親となる。

愛されてきんらんどんす欲しかろう  森中惠美子

5年後、宗光は反政府運動に加担した罪で禁錮5年の刑を受け、

山県監獄に投獄されてしまう。

亮子は姑とともに、陸奥家の主婦としてけなげに留守宅を預かった。

ところが宗光は出獄するとすぐに、単身ヨーロッパに留学。

妻の心労をよそに、なんと身勝手な夫といおうか。

筆まめの陸奥は獄中時代から亮子に書き続け、妻の行状を指示。

亮子はそれに従った。

唯一、事後承諾となったのが、鹿鳴館での慈善バザーへの参加だった。

宗光が外遊中の明冶17年、尻込みする亮子を、

総理大臣夫人・伊藤梅子が後押しをして出席させたのだ。

政府高官夫人がズラリと居並ぶなか、

亮子は初めてきらびやかな世界に足を踏み入れた。

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子



その後、政界復帰を果たした夫とともに、

亮子も社交界にデビューする。

その抜群の美貌から「鹿鳴館の華」とうたわれた。

また夫が駐米大使となって渡米すると、クリーブランド大統領夫妻に

謁見するなどワイントン社交界でも、華やかな存在となる。

33歳、女盛りの亮子にとって、

人生でもっとも輝かしい時期ではなかったか。

美しい横顔の写真も、ワシントン時代に撮影されたものである。

可笑しくて笑う 嬉しくてまた笑う  佐藤美はる           


伊藤博文家の集合写真 (前列左3番目が梅子)

「伊藤梅子」 嘉永元年(1848)~大正13年(1924)

「好色宰相」の異名をとった伊藤博文だが、

梅子は夫の乱行ぶりに目をつぶりプライド高く気丈に生き抜いた。

梅子自身、下関の売れっ子芸妓「小梅」時代に伊藤と知り合い妊娠。

伊藤を離縁させ、再婚させた。

できちゃった婚、略奪婚の走りだが、そんないきさつもあってか、

梅子は夫の女遊びには目をつぶり、超然と構えていた。

自宅に遊びにきた芸妓たちに、帰りには必ず土産物を持たせたり、

朝まで過ごしていった女には、

翌朝、化粧や身の回りの世話までしてやるなど

大人の対応を示し、遊び女たちに畏れを抱かせた。

芸妓遊びがこうじて、伊藤の邸宅は借金のかたになっていたという。

しかし、「女にだらしなくても、金銭には執着せずきれいだった」

のが誇りだった。

  博文の最初の妻はすみ子、松下村塾の仲間・野村靖の妹である。
     結婚したものの、博文はイギリス留学もあり、帰国後も
     ほとんど家によりつかず、他の女性との放蕩三昧だったという。

忘れられやさしい色になってゆく  田村ひろ子



鹿鳴館の最初の夜会は、明治16年11月18日に行われた。

このとき、踊ることができる女性はごくわずかだった。

梅子もまだ踊れなかった。

翌17年から毎日曜日に行われることになった「舞踏練習会」では、

梅子が積極的な役割を果たした。

尻込みする高官夫人を70名も引っ張りだしたのは、

梅子の説得によるものであった。

彼女は誰よりも粋に着こなせる着物を脱いで、

率先して馴れない洋装をまとった。

伊藤の政策にそれが必要ならば、なんでもやった。

明冶42年伊藤がハルピンで暗殺の一報を受け取ると、

梅子は動揺することなく、涙もみせなかった。

そして、

国のため光をそえてゆきましし 君とし思えどかなしかりけり

と、その辛い胸中を歌に託した。

浮くことに疲れた雲が雨になる  橋倉久美子



「渋沢兼子」 嘉永5年(1852)~昭和9年(1934)

兼子の父・伊藤八兵衛は深川油堀の「伊勢八」と呼ばれる幕末の豪商。

水戸藩の金子御用達や、米やドル相場など博打的な投資で儲け、

江戸一番の大富豪とうたわれた。

だが、明治に入って没落。

ついに破産し、12人の子どもたちも路頭に迷ってしまう。

18歳で婿を迎えていた兼子だが、金の切れ目は縁の切れ目とばかり、

無常な婿はさっさと実家に帰ってしまった。

自ら芸妓になりたいと言って兼子が働き口を探していると、

芸妓ではなく、妾の口があると紹介された。

その相手が渋沢栄一であった。

流木のすこし乾いて閑かなり  下谷憲子 



前妻・千代をコレラで亡くした渋沢は43歳。

次女と長男はまだ幼く、女手が必要だった。

だが、恩師の娘で糟糠の妻だった亡き千代を思うと、

再婚にはなかなか踏み切れない。

しかし兼子と接するうちに彼女を気に入り、

後妻として迎えることにした。

偶然にも渋沢家屋敷は、羽振りのよかった頃の実家、

油堀の屋敷の近くであった。

幕末の豪商の娘から、新時代の実業家の妻となった兼子は、

博打的な強運の持ち主だった。

そこから兼子は実業家の夫を支える一方、

鹿鳴館の慈善会などを推進し、社会慈善事業にも熱心に取り組んだ。

どの年齢のきみに会っても恋をした  山口亜都子 

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