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川柳的逍遥 人の世の一家言
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十字架を背負う男は祈らない  くんじろう


    歩き巫女
左手に扇子を持ち、右手で鈴を打ち鳴らしている歩き巫女

「真田家に関わる人々―②」

権謀術数の渦巻く戦国時代、国を守り、生き残るためには、

迅速で的確な情報が必要だった。

その情報収集を担ったのが「忍び」である。


忍びは諜報、謀略、攪乱などを役割とする専門集団だった。
      すっぱ  らっぱ  とっぱ    のきざる かまり
忍びは「透波・乱波・突波・草・軒猿・奸」などさまざまに呼ばれるが、

任務に大きい差はない。

忍びの出身地は近江の甲賀と伊勢の伊賀
有名だが、

紀伊や相模など、忍びの発祥地は全国に散らばっている。


甲賀と伊賀が特に有名なのは、彼らが忍びの術に優れていたことに加えて

本拠地が都に近く、中央政府の情報に接したことが大きい。

(家康の家臣となった服部半蔵は伊賀の忍者と言われる。
「本能寺の変」が起きた時、家康が敵の多い伊賀を通って堺から三河へ
 無事に帰れたのは、半蔵や伊賀者の働きのおかげという)


歴史書の隅でしているボタン付け  大沼和子


  「出浦昌相」 (盛清)
出浦昌相は、昌幸や室賀正武の本領がある信濃の小県郡の一角を治める。
武田氏のライバルの村上氏の一族だとされ、
信玄、森長可(信長家臣)
に仕えた後に、表裏比興(裏切り者)真田昌幸という
男に惚れ込み、真田
の臣下となり、更級郡上平の城を預かる。
信玄に臣従した折、武田家の素っ
(忍者)を預かり、
武田忍者集団・「甲州透破」を統率。
昌幸の臣下として働く
ようになると、この経歴も活かし佐助ら隠密集団を
統率。豊臣秀吉の関東
平定においても真田軍として奮戦し、
影となり真田を支えた。


(文庫などの物語の影響で真田家は忍びと深く結びついていると見られるが
   現実にそう考えられる背景があった。真田家が属する信濃の滋野一族は、
   山岳信仰医術歩き巫女といった芸能などと関係が深かったため、
   真田家に注がれる目もその影響を受けていたと考えられる)

青汁は石を搾っただけのこと  井上一筒


    「佐助」
昌幸に才能を見いだされ、真田の忍びとなる。
信玄のもとで素っ破の集団を
率いた出浦昌相に甲賀流忍術の鍛錬を受ける。
武田家滅亡後他家の情報
を、どれだけ早くつかめるかが生き残りのカギと
なる中、佐助はその重要な役
割を担った。
また、真田家の者たちの護衛も務めた。


「立川文庫」によって著された『真田の十勇士』の中に佐助の名が見える。
甲賀流忍者・猿飛佐助である。
はたして佐助はこの猿飛佐助なのだろうか。

十勇士は、真田家に仕えて昌幸の九度山配流の頃から大坂の夏の陣・
冬の陣までの間で、家康の動静を探りながら縦横無尽に動き活躍をした。


江戸時代中期頃に刊行された軍記物語り『真田三代記』『難波戦記』
猿飛佐助以外の9人が登場し、佐助の名前は、江戸時代に描かれた「大阪
の陣図」のなかに見える。また真田家の一族の海野、禰津、望月、穴山など
実在した名前もある。ところから見ると、少年向け『真田の十勇士』は、
あながち作り話ばかりでないと考えるべきだろう。


かかとから滑り火打ち石になった  森田律子


  「本多忠勝」
本多忠勝酒井忠次・榊原康政・井伊直政らと共に徳川四天王の一人。
また、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人を徳川三傑とも呼んでいる。
ともかく、忠勝にまつわる英雄伝は数々ある。
鹿角脇立兜と呼ばれる兜を
かぶり、肩から大数珠を袈裟懸けに巻き、
三国黒と呼ばれる馬に跨り、
戦場に出陣していた。
得物は、「天下三名槍」の一つ、
刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。
その切れ味から刃先に止まったトン
ボが真っ二つに切れたという逸話から、
「名槍・蜻蛉切」と呼ばれている。


天正10年(1682)「本能寺の変」が起きたとき、
家康は忠勝ら少数の随行
とともに堺に滞在していたが、
家康が京都に行って織田信長の後を追おう
と、取り乱したのを忠勝が諌めて、
「伊賀越え」を行わせたという。
このとき、
帰路の途中の木津川で船に乗った際、
渡し終わった船の船底を槍の石突
で突き破り、追手が使用するのを
防いだという逸話もある。

天正12年4月の「小牧・長久手の戦い」では、
忠勝は留守を任されたのだが、
豊臣方16万の大軍の前に、
「徳川軍が苦戦して崩れかけている」ことを聞き、

わずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、
5町(約500メートル)
先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、
さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて
悠々と馬の口を洗わせたが、
この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃を躊躇い
戦機は去った。
生涯参加した57の合戦において全て無傷で生還し、
「戦国
最強の武人」として伝えられる。

「徳川には過ぎたるものが二つあり、唐のかしらに本多平八」と武田が、
「花実兼備の勇士」信長は称え、秀吉は
「東に本多忠勝という天下無双の
大将がいるように、
    西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」
と褒めている。

踊りたいから操り糸を全部切る  みつ木もも花


  「室賀正武」
天正11年(1583年)、本能寺の変により武田遺領の甲斐・信濃をめぐる
「天正壬午の乱」が発生し、武田遺臣の真田昌幸らが相模国の北条氏直
に属すなか、室賀正武徳川家康によって信濃豪族とともに所領の安堵
を受けている。
一方、真田昌幸は、織田、上杉、北条へとと主を替えながら
吾妻郡から
上野西部の沼田まで自領を守っていた。その後、昌幸は家康
に寝返り
本領を安堵されると、対立する室賀正武への圧力を強めていった。
正武
は守戦で自ら出撃して対戦したが、間もなく和睦する。
不本意ながら昌幸に
属することになる。
その後、家康は正武が昌幸に対する不満を延べていることを聞きつけ、

「謀りごとを持って真田を討つべし」と昌幸暗殺を命じた。
というのも、
沼田領土引渡し問題で家康は、反抗的な昌幸に
激怒していたからである。

しかし、この暗殺計画は内応していた正武の家臣の室賀孫右衛門から
昌幸
の知るところとなる。
それから間もなくして昌幸から上田城へ招待を受けた正武は、
計略が
漏れているとも知らず、のこのこ昌幸の城へ参上。
書院に通され、そこで待ち
構えていた真田の家臣・長野舎人
木村渡右衛門に斬り殺されてしまう。


腹式呼吸の途中で賛美歌をうたう  前中知栄

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