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川柳的逍遥 人の世の一家言
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苦くなるほど熟れていた角砂糖  井上一筒

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  高知城をのぞむ半平太

「外様の大名が、幕政に関わりを持ち幕末へ」

関が原で、豊臣方に味方した外様大名は、裏切りを警戒され、

『幕政への参画』 を一切許されることがなかった。

天保8年のペリー来航以来、多少、様変わりしたものの、

なお、政治の中枢には、入り込むことができない。

そこで、薩摩や長州などの雄藩は、幕政への関わりを得るため、

次のような一手を考え出した。

①、天皇に、幕府への使者(勅使)をたててもらう。

②、外様の藩主は、その補佐と護衛の命令を、天皇に下してもらう。

③、そして勅使を通じて、自分たちの考えを幕府に実現させる。

というもの、これが、大成功。

待ちわびてわたしの仮面ずれてきた 山口ろっぱ           

成果として、

薩摩藩― 幕府に将軍後見職・政治総裁職のポストを新設させ、

       一橋慶喜と松平慶永(春嶽)を任命させたこと。

長州藩― ”安政の大獄”で罰せられた人びとをすべて、無実にさせたこと。

        などを勝ちとった。

これに出遅れたのが、土佐藩であった。

負け惜しみの強い性格の前・藩主の山内容堂は、苛立ちます。

そしてここで、待ってましたとばかりに、武市半平太の出番が来ます。

彼は、

「将軍に攘夷実行を督促する勅使の派遣」 

朝廷に工作し、実行させる事に成功し。

勅使に、正使・三条実美(さねとみ)、副使・姉小路公知(きんとも)が決定し、

武市半平太は、姉小路公知の補佐官を、命ぜられることになる。

この時、半平太、得意の絶頂の瞬間である・・・。

この歳になって自分が好きになる  嶋澤喜八郎 

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 手に杯を持つ、容堂公像

その後、

「土佐藩を尊皇攘夷の先駆けにしよう」 と願う武市半平太は、

参政の吉田東洋を通じ、隠然たる力を持っていた前藩主・山内容堂に、

働きかけようとした。

しかし、東洋も容堂も、万次郎を通して、西洋事情について、

接する機会があったため、

攘夷が、現実的でないものと、気付いていた。

学習した兎に亀はもう勝てぬ  永井玲子 

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酒好きの容堂が、愛用した鹿模様の江戸切子グラス

また、山内家は、外様とはいえ、徳川家康によって、

土佐一国の、領主にしてもらえたという、関が原の戦い以来の、

恩義がある。

容堂にとって、幕府=徳川家を度外視して、

朝廷と結びつこうとする”過激な尊攘思想”は、

とうてい受け入れがたいものだった。

東洋や容堂は、あくまでも”現実主義”に立ち、

幕府と朝廷が協調しつつ、

政局を運営するという、「公武合体路線」 を進もうと考えていたのだ。

ワープロもぼくも時代に残される  八木 勲

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半平太は、それを理解することができなかった。

自説が、容堂や藩主・山内豊範に受け入れられないのは、

「吉田東洋のせいである」 

と決め付けた半平太は、

文久2年4月8日、ついに、”東洋暗殺”するという挙にでたのである。

尊皇攘夷を達成するための、具体的な行動である東洋暗殺は、

まさに、久坂玄瑞ら、過激な尊皇派志士が、望んでいたものだった。

藩の重臣であり、主君の側近である人物を、

「暗殺する」 ということは、

主君への反逆と同じなのだが、彼らには、

「主君に取り入って、道を誤らせている悪者を、排除する」 

〔君側の姦(かん)を除く〕 という、意識が勝っていた。

じたばたと錯角を連れてどしゃぶり  北原照子

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妻・富子の前では、素直であった半平太

暗殺決行の結果、

半平太は、東洋派の藩士を、要職から追い出すことに成功し、

東洋らの”藩政改革路線”に、反感を抱いていた旧派・重臣層を、隠れ蓑として、

一時的に、”藩政の実権”を左右する立場を手に入れた。

それを契機に、

半平太は、藩主・山内豊範に随行して京都に上り、

攘夷実行を幕府に命じるよう、朝廷工作を行なう一方、

「天誅!」 と称して、反対派の暗殺を、繰り返していった。

おそるべき地図を体内から剥がす  田中博造

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酔うほどに、先を見る視線が冴えた容堂

しかし、「8・18政変」 によって、長州藩が力を失うと、

京都政局においても、土佐藩内においても、

公武合体派が力を盛り返し、”土佐勤皇党” の面々は、

一転して、弾圧を受けることになる。

半平太ほか、勤王党員は、次々に捕縛され、

切腹を命じられるのである。

このとき、勤皇党の弾圧の主導したのは、

吉田東洋の甥・後藤象二郎であった。

散骨にしてくれ閉所恐怖症  播本充子            

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