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川柳的逍遥 人の世の一家言
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恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子

おりょう龍馬と初めて逢ったとき、

おりょうは、龍馬の印象を次のように語っている。

『ソレはソレは、妙な男でして、丸で人さんとは、

 一風、違っていたのです』

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「龍馬と結婚したおりょう(楢崎龍)が、龍馬とどこで、どのように知り合ったか?」

『諸説色々』

文久3年(1863)2月ごろ、

おりょうらの家が、類焼したとき煙にまかれた弟妹を、

龍馬が、救ったのが最初とされている。

また、生活苦から、大坂に売られそうになった妹を、取り戻そうと、

おりょうが、乱暴な仲介者と、争っているところを、

龍馬が救ったのが、きっかけとなったという説もある。

ビー玉の中で昔が伸びをする  谷垣郁郎 

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一方、龍馬はおりょうのことを、乙女に宛てた手紙で、次のように評している。

「まことおもしろき女」

2個目の説は、

龍馬自身が、姉・乙女に宛てた手紙で語っている出来事だが、

妹を取り戻そうとするおりょうを、救ったとき、

「二人はすでに、知り合っていた」 という話しもある。

いずれにせよ、龍馬が、おりょうの存在を、土佐の家族に知らせたのは、

慶応元年(1865)9月に、乙女に宛てた手紙である。

やんわりと握る女もハンドルも  菱木 誠

その手紙で、龍馬はおりょうのことを紹介し、

その妹弟たちを、扶助していることを告白している。

大河ドラマ『龍馬伝』では、妹を助けるストーリーの後、

まもなく新選組による池田屋事件が、起こるのであるが、

ちなみに、この池田屋事件は、元治元年(1864)7月の出来事である。

≪おりょうが、晩年に語った話によれば、龍馬が、

  姉の乙女に手紙で知らせる1年前には、「すでに、内縁の関係だった」 

  と述べている≫

せまいせまい箱から出たいかくし事  柴本ばっは

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おりょうは、天保12年(1841)の京都生まれで、龍馬より6歳年下。

≪生家は、京都市中京区柳場通りー三条通に小さな石碑が建っている≫

父親は、医師の楢崎将作。

将作は、勤皇思想の持ち主で活動家だったため、「安政の大獄」で逮捕され、

獄死している。

そのため、母親と長女のおりょうは、幼い4人の弟妹を抱えて、生活に困り、

おりょうは、17歳のとき、「扇岩」 という旅館へ、働きに出たという。

龍馬と出会ったのが、火事場での救助を、”きっかけ”とするなら、

おりょうが扇岩へ働きに出てから、約4年後のことになる。

まだ噛んでいる夕飯のモンゴイカ  井上一筒

その後、おりょうは扇岩を辞め、文久3年(1863)8月に、

大和(奈良)で、挙兵した尊皇攘夷派の”武装集団{天誅組}”残党の賄いとなる。

その後、天誅組が、幕府の追討を受けると、

おりょうも、その逃亡に伴って各地を放浪。

≪その放浪中に、龍馬と出会ったという説もある≫

ともかく、ふたりが出会うのは、龍馬が27歳、おりょうが22歳のころで、

「おりょうの奔放で、自由な性格が気に入った」 と伝えられている。

神様にまかすと運を省かれる  泉水冴子

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     方広寺の庭

翌・元治元年(1864)おりょうは、

天誅組の残党たちと、幕府の追討を避けるため、

大仏(大仏殿・方広寺)に隠れていた。

そのころ、粟田口青蓮院内金蔵寺の住職の仲人で、

龍馬とおりょうは、縁組をしたという説もある。

もし、そうであれば龍馬が、

神戸の海軍塾塾頭として、航海術などを学んでいたころのことで、

二人が出会ってから、約1年後のことである。

ペン胼胝の先にはなしが引っかかる  藤井孝作

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  後年のおりょう

なお、板垣退助、後藤象二郎と並んで「土佐三伯」と、呼ばれた佐々木高行は、

おりょうについて、

「大変な美人だが、賢婦といえるかどうかは疑わしい。

 ただ、悪人でないことはたしかである」 

と評している。

あひるの子親が作った罪と罰  山本輝美

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  武信稲荷神社

おりょうの父が入っていた獄舎は、京都中京区六角通り大宮にあり、

現在は、『盟新』 というセンターになり、

龍馬とおりょうは、よくそこの近くの神社(武信稲荷)まで、デートをしたという。

というのも、その神社に20mほどの「大きなヒノキ」があり、

二人は、その木に登り、父の様子を見に来たという。

そのヒノキの下の説明文を読むと・・・。

ともしびやひとりを眠る眠らせる  山本柳花

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『坂本龍馬とおりょうの縁を結んだ榎』

神社の南には、江戸時代幕府直轄の「六角獄舎」があり、

幕末勤王の志士が、多数集監されていた。

その中に、坂本龍馬の妻・おりょうの父も、勤王家の医師であったため、

捕らえられていた。

龍馬とおりょうは、ここに何度か訪れるが、

龍馬自身も安全でない身であり、面会はかなわない。

それ故、この大木の上から、様子を探ったという。

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

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その後、命を襲われ、追われる龍馬は、身を隠すことになる。

おりょうは、龍馬の身を案じながら、過ごしていた。

そんな折、二人で何度も訪れた「武信稲荷神社の”榎”」を、ふと思い出し、

訪れた。

するとそこには、龍馬独特の字で「龍」の字が彫ってあったという。

色あせた希望をいつも抱いている  嶋澤喜八郎

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『自分は今も生きている。そして京都にいるのだ・・』

という龍馬からの伝言であった。

龍馬が京都にいることを知ったおりょうは、二人の共通の知人を訪ね、

二人は、再び出会えたという。

御神木の榎(えのき)は、

850年の生命力から、大慶長寿の信仰が厚く、

また、「縁の木(えんのき)」とも読まれ、

御神木の榎に宿る「弁財天」が祀られている。

御柱の「宮姫社」は縁結び、”恋愛の神”としても知られ、

龍馬とおりょうも、そんな縁結びの力をいただいた,、

二人なのである。

ふたりして上げた花火をどうしよう  森口かなえ

現在、獄舎のあった『盟新』では、

月一回・一週目の日曜日に、「川柳黎明」の「句会」が開かれる。

今回は、3句黎明の句を載せました。

神社へ寄ったついでに是非一度おこしやす。

くすり屋の階段引き出しから梅雨に  田中博造

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