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川柳的逍遥 人の世の一家言
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限界に悔しいコンセントの位置  岩田多佳子

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文久3年(1863)3月、勝の容堂へのはたらきにより、

龍馬の脱藩の罪は赦免され、兄・権平とも再会したが・・・。

10ヶ月後には、

今度は勝が龍馬に、2回目の脱藩を促すような事態になる。

無色にはなれそうにもないカメレオン 杉山ひさゆき

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龍馬たちが、蒸気船の操艦技術習得に明け暮れた頃、

攘夷の熱狂は、最高潮に達していた。

当時、武市半平太を首領とする”土佐勤皇党”は、

藩の参政・吉田東洋を暗殺し、藩の実権を握ることに成功していた。

その一方で、中央の政治情勢は様変わりしていた。

ややこしい空かきまぜて三杯酢  岩根彰子    

8月には、「八月十八日の政変」 と呼ばれる佐幕派のクーデターが起き、

京都政界を牛耳っていた、長州藩と尊王攘夷の勢力は、

京都から追放されたのだ。

その中央の情勢変化に、後押しされて、

土佐の前藩主・山内容堂は、勤皇党への弾圧を強め、

土佐以外にいる勤皇党員や危険人物にたいして、

「土佐へ戻れ」 

という命令を発した。

神戸の海軍塾にいた龍馬も例外ではなく、

「帰って来い」 

という命令が届いていた。

逃げるのは曲がりくねった道がいい  高田 桂

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神戸海軍操練所寮舎の古写真

≪多くの若者が寝起きしていた。(舟の入る大きなドッグもある)≫

海舟は、それを知って、土佐藩の江戸屋敷にたいし、

「現在、龍馬ら土佐藩士は、海軍術の修行の最中であり、

 ”一同の召還を許してもらえないか”」

と要請した。

また、一同が幕府の軍艦・順動丸の乗組員であることも強調。

「海軍塾の土佐人が帰国すれば、順動丸の航海に支障をきたし、

結果として幕府に混乱をもたらす」 と、

遠まわしに脅しを利かせた。

言い訳の上手な猫がいて困る  本多洋子          

しかし、江戸屋敷の役人は、

「土佐藩庁からの命令に従っているだけだ」
 と、

この要請を拒否した。

この結果、いったん藩籍を回復することができた龍馬だったが、

兄と再会の10ヶ月後の12月、藩の帰還命令にそむき、

”2度目の脱藩”をすることになる。

かけ違うボタンに重い風の橋  産田佐代子

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操練所のあった古地図

≪JR三宮付近にあったとされる。右側を流れるのが生田川。

 上の赤い部分が生田神社で異人館通り・(北野坂界隈)、

 中央の赤部分が勝邸。下の赤部分が操練所になる≫

「操練所解散」

その後、元治元年(1864)2月、海舟、幕府から長崎出張を命じられる。

任務は、アメリカなど4国連合艦隊に、

「長州攻撃をやめてほしい」 

と、依頼することだった。

いわゆる、「長州征伐」 という、

幕府の大義名分づくりの為の、長崎出張であった。

海舟は、龍馬らを伴い、長崎へ向かって出向。

連合艦隊は、神奈川で改めて幕府と交渉することを条件に、

攻撃の延期を了承し、海舟はひとまず任務を果たした。

5本も脚がある今日のひつじ雲  井上一筒

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これにより、海舟は、軍艦奉行に昇進。

同年5月29日、”海軍操練所の開設”が布告される。

ところが、開設布告から一週間後の、6月5日、

操練所は、反幕府組織と危険視され、

突然、解散の憂き目にあう。

その6月5日、「池田屋事件」が起きたのだ。

京都三条の旅籠・池田屋で、集会中の尊攘過激派を新撰組が襲撃。

多数の死者や捕縛者が出た。

その捕縛者のなかに、

操練所の塾生(望月亀弥太・北添吉摩)がいたことにより、

幕府は、操練所に疑いの目を向けたのだ。

盃の底から浮いてくる疑惑  森 廣子

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       蛤御門

さらに、7月19日には、「禁門の変」が起きる。

池田屋事件に触発され、

武装上洛した長州藩兵が、御所をめざして進軍、

警備の諸藩と交戦したのである。

その時にも、安岡金馬や池内蔵太という、

ふたりの塾生が長州方に加わっていた。

幕府は、事態を重く見て、

9月になると、操練所の閉鎖を前提に捜査を開始。

10月には、頭取の海舟が監督責任を問われ、江戸へ召還される。

さらに、海舟は軍艦奉行も罷免された。

ゆっくりと収める朧夜の刀  本多洋子

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これにより、各藩から派遣されていた塾生は、

帰国せざるをえなくなった。

また、脱藩浪人である龍馬らは、身の危険を感じて各地に散った。

その後、龍馬は海舟の配慮で、

薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらうことになる。

元治2年(1864)3月12日、神戸海軍操練所は閉鎖された。

躓いた足に素足が文句言い  松瀬俊雄

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『龍馬伝』・第21回‐「故郷の友よ」 あらすじ

収二郎(宮迫博之)が切腹した。

土佐から届いた幼なじみの悲報は、

龍馬(福山雅治)に大きな衝撃を与えた。

大殿・容堂(近藤正臣)のためにと、懸命に働いてきた収二郎。

なのに、当の容堂から、切腹を命じられなければならないのか。

龍馬は、容堂から感じた底知れぬ恐怖心を、思い返しながら、

この先、さらなる悲劇が待ち受けているのではと、

不安を募らせる。

蓮の葉にひとつ滴が座禅する  北田ただよし

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そのころ、朝廷では攘夷派の長州を京から追い出そうと、

薩摩藩がひそかに、反攘夷派の公家たちに近づいていた。

そして、世に言う「八月十八日の政変」・・・

孝明天皇(阿部翔平)の 

「異国との戦をのぞんではいなかった」 

という言葉をきっかけに、

長州藩と三条実美(池内万作)ら、攘夷派の7人の公家たちは、

京の御所から追放される。

これにより、尊皇攘夷派は失脚した。

枯山水夢が流れた跡がある  嶋澤喜八郎

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攘夷派の衰退を、早くから予測していた容堂は、

この政変を機に、土佐勤皇党への本格的な弾圧を始める。

勤王党の本部が置かれていた武市道場は、取りつぶされ、

土佐に帰っていた武市にも、追っ手が差し向けられ、

国外にいる勤王党員へも、土佐への帰国を命令が出される。

帰国命令は、当然、勝塾の龍馬のもとにも、やってきた。

地下鉄の出口でつむじ風になる  八田灯子

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近藤長次郎(大泉洋)は、「土佐には戻らない」 と言うが、

龍馬は、半平太(大森南朋)以蔵(佐藤健)を助けるため、

勝塾を、しばらく休ませてほしいと、勝(武田鉄矢)に懇願する。

「わしを土佐に帰らせてつかあさい!わしらは考えは違うても、友達ですき!」

土佐に帰れば、龍馬も無事では済まされない。

勝は、龍馬ひとりでは、

「武市を助けられない」 といって、必死に龍馬を引き留める。

同じ頃、京に潜伏していた以蔵は、

土佐藩だけでなく、幕府からも追われる身となっていた・・・。

蓋閉じて海老の末期を聞いている  たむらあきこ        

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