ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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戊辰戦争
1月の鏡よモノクロの世界 山本昌乃
新政府軍の砲撃で大きく破壊された会津若松城天守
(画像を大きくしてご覧下さい)
「戊辰戦争」
ー
(鳥羽伏見の戦い)
慶応4年
(1868)
1月3日、
徳川慶喜
は、薩摩藩士が江戸で乱凶に及んでいる、
との噂を聞き、真意をただすべく、
大坂から京へ会津藩兵らを率いて向かったが、
その途中の鳥羽において新政府軍と衝突した。
ファンファーレ鳴って始まるお葬式 合田瑠美子
伏見関門口豊後橋進撃の図
新政府軍が圧勝し戦争の趨勢を決した鳥羽伏見の戦いを描く。
1月4日、
仁和寺宮
が朝廷より征夷大将軍に任じられ、
錦旗をもって出陣する。
錦旗とは、天皇の軍隊を意味し、
この旗を掲げた軍勢と戦うことは、
天皇に対して謀反を起すことであった。
長州ではなく、自分たちが、
「朝敵」
となってしまった旧幕府軍の動揺は大きく、
戦闘は新政府軍の圧勝に終った。
ガラスを走るかすかな月のひび割れ 前田咲二
1月5日、大坂城に撤退した慶喜は容保らを連れて、
海路江戸へと戻り、朝廷から、
「慶喜追討令」
が出されることとなった。
すると旧幕府軍を率いた慶喜は、恭順の意を示し、
和宮ら大奥の尽力によって命を救われ、
70万石ながら、徳川家の存続がなる。
油揚げと石部明を交換する 蟹口和枝
錦の御旗
だがこれと引き換えに、薩長は、
誰かを人身御供にせずにはいられなかった。
そこで、新選組を擁して勤皇の志士を苦しめた、
かつての京都守護職・
松平容保
を標的にした。
薩長は容保の恭順謹慎を許さず、
賊軍の烙印を押して、
帰国した容保を追うように会津に攻め寄せるのである。
会津は貧乏くじを引かされたのだ。
燃えている家でしらじらしい食事 森 茂
慶喜が帰った江戸を攻撃するため、
新政府軍は、進軍を開始するが、
勝海舟
と
西郷隆盛
との話し合いにより、
江戸城は無血開城となった。
本来であれば、
「目的は達成され、ここで戦闘は幕を引くはず」
であったが、
新政府軍は、会津藩を中心とする旧幕府軍を、
徹底的に叩かねば、この戦争は終らないと考えていた。
境界線からスーダラ節がきこえます 西澤知子
白河関跡
容保は隠居し、嘆願書を出して恭順の意を伝えたが、
とくに長州藩にあっては、
「8月18日の政変」・「禁門の変」
における恨みが根深く、
会津藩だけは絶対に許せなかった。
長州藩の私怨をうけることは、
会津藩も覚悟しており、恭順を示す一方で、
軍制改革を行うなど、着々と戦闘準備を進めていた。
≪藩としては、朝廷に弓を引くのではなく、
あくまでも天皇の名を騙る、「君側の奸」というべき、
薩長への備えを意図していたものであった≫
サイコロは裏目裏目にでるしかけ 二木廃戸
霞ヶ城(二本松城)
戊辰戦争で二本松藩は、「奥羽越列藩同盟」に参加して新政府軍と戦った。
7月29日、藩兵の大半が
白河口
に出向いている隙をつかれ、
新政府軍が二本松城下に殺到し、わずか1日の戦闘において落城した。
こうして新政府は、
「まず仙台藩に会津を討たせよう」
と説得にあたらせるが、逆に奥羽25藩は5月3日、
「奥羽列藩同盟」
を組織し、
会津藩救済のための上申を新政府に送る。
その後、越後6藩、さらに会津と庄内が加入して、
33藩からなる奥羽越列藩同盟が成立し、
新政府軍と対立することになった。
転け方も泣き方も負けたくはない 前中知栄
白河口
新政府軍が迫るなか、
会津藩は早い時期から国境に部隊を派遣し、
守りを固めていたが、
「会津7口」
といわれるほど会津に入る道は多く、
そのうちの最重要とされた
「白河口」
を通過され、
2ヶ月にもおよぶ戦いが繰り広げられる。
この間新政府軍は、奥羽越列藩同盟各藩を次々と攻め、
8月には実質的に、
会津、仙台、米沢、庄内を残すのみとなっていた。
8月21日、
母成口
から進攻した新政府軍に守備を破られ、
いよいよ敵軍は
、
会津城下
に迫る。
名古屋のネコにロンドンでまた遭うた 井上一筒
[3回]
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y2013/05/22 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
照姫と和歌
かなたも寒いこなたも寒い爪のともしび 山口ろっぱ
松平容保と家族
最後列で本を開いているのが容保。
その左で本を開く女性が、一説には
照姫
だともいわれている。
(画像を大きくしてご覧下さい)
一枚のセピアに静止した家族 山本早苗
「照姫」ー
(和歌とともに)
"夢うつつ思ひも分かす惜しむそよ まことある名は世に残るとも"
戊辰戦争
の後始末として、薩長中心の新政府は、
会津藩に対し、
「首謀者三家老の首」
を求めた。
すでに、家老の
田中土佐、神保内蔵助
は、
城下で既に自刃していたので、席次から、
萱野権兵衛
に
「斬に処す」
との命令が下った。
その執行にあたったのが、
まさあり
皮肉なことに
照姫
の弟・飯野藩主・
保科正益
であった。
それを聞き知った
照姫
は、
一身に会津藩の責を負う萱野に、歌を手向けた。
出口まだ探せぬかなしみの座標 たむらあきこ
照姫
は、天保13年
(1842)
10歳の時、
かたたか
第八代会津藩主・
松平容敬
の養女に迎えられる。
その翌年、容敬の側室に
敏姫
が誕生。
≪弘化3年(1846)に容保も、養子として迎えられる。
このとき、照姫14歳、容保11歳≫
まさもと
18歳の時、豊前中津藩主・
奥平昌服
に輿入れ、
23歳で離縁するが、その理由は不明。
子がなかったからとも言われるが、
照姫が会津と
容保
の将来を心配しての結果とも、
推測されている。
照姫が安政元年
(1854)
に会津藩江戸屋敷に戻ってから、
7年後の文久元年、容保の正室となっていた敏姫が、
19歳の若さで他界する。
ほのかな色は無くした物の愛おしさ 森 廣子
"千とせとも祈れる人のはかなくも さらぬ別れになるぞ哀しき"
「娘をなくした照姫の哀悼の歌」
(明くれなつかしく、むつまじく、うちかたらひたる君の、
はかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに)
照姫
は十代にして早くも、書道、茶道、礼法、香道に通じ、
ことに、和歌や琴を好んだといわれ、
容保にも和歌を手ほどきするなど、
義理の弟を献身的に世話した。
たて書きの便箋を今日買いました 河村啓子
"きてかへる頃さへゆかし都ぢの 錦を君が袖にかさねて"
(殿が京都でのお役目を無事に果たし錦を着てお帰りになるのが楽しみです)
文久2年
(1862)
容保が幕府より京都守護職を任命され、
京都に入るとき、詠んだ。
いつだってあなとを追っている視線 勝又恭子
陣羽織姿の容保
"御心のくもらぬいろも明らかに うつすかがみのかげぞただしき"
文久3年
(1863)
容保
は天皇より下賜された緋の衣を、
陣羽織
に仕立て、
孝明天皇
による天覧の馬揃えを行った。
このときに撮った写真は、
照姫
に送られた。
勇ましい姿に
照姫
は大喜びし、愛情溢れる歌を詠んだ。
≪照姫は、夫となるはずであった容保を生涯慕ったともいう≫
ときめくと睫毛がカールするのです 赤松ますみ
「容保会津へ帰る」
慶応3年10月14日の
大政奉還
により、
江戸幕府は地上から消滅。
同月9日、朝廷は
王政復古の大号令
を発せられ、
新政府が樹立された。
その夜の小御所会議において、
慶喜
に対する
辞官納地
が決定し、
慶喜
は、京都の二条城から大坂城へ移る。
このとき、容保も慶喜と行動を共にしている。
≪その後、旧幕府方の武士たちが、薩摩藩邸を焼打ちにしたことから、
慶応4年1月3日、鳥羽・伏見で幕府軍と新政府郡との間で、
戦端が開かれ、「戊辰戦争」が勃発する≫
戻らない汽車と無条件のほのか 板野美子
鳥羽・伏見の戦で形勢不利と見た
慶喜
は、
側近とともに軍艦・開陽丸で江戸へ逃亡。
自らを朝敵とする
追討令
が下ると、恭順の姿勢を示し、
事態収拾を
勝海舟
に一任、上野寛永寺大慈院に籠る。
勝
は江戸城総攻撃直前に
西郷
と会談し、
4月11日に
江戸城無血開城
、
江戸の街は新政府軍の支配化に入った。
どうしても流れの先を見てしまう 立蔵信子
慶喜
の逃亡劇に
容保
も従った。
容保の行動は、君主としてあるまじきことであったが、
喜んで従ったわけではなかった。
容保は、突然、慶喜から江戸への随行を求められた時、
容保は、
「徹底抗戦」
を慶喜に訴えた。
が慶喜はそれを聞きいれず、脅迫的に容保に随行を迫った。
その強引な慶喜に押し切られるかたちで、
容保は気持ちと裏腹に
家臣を見捨てる結果となったのである。
反骨の奥歯ギリギリ鳴らしてる 高橋謡謡
討伐命令書
江戸に戻った
慶喜
は、
最初のうちは抗戦を叫んで威勢がよかったが、
恭順の意を示したあと、
新政府に憎まれている
容保
を、遠ざけはじめる。
二月に入ると
容保
も、養子の
喜徳
に藩主の座を譲って、
新政府に対し、恭順の意を表した。
やがて、新政府軍に敗れた会津兵たちが続々と、
江戸に戻ってきた。
当然、彼等は自分を見捨てた藩主
容保
に詰め寄った。
これに
容保
は深々と謝罪し、会津へ戻ることにした。
次の世はゴキブリでいく一壺天 加納美津子
"おもひきやわが身の上としら河の 関路をやがて越えぬべしとは"
容保
と江戸の藩士らは、会津への帰国の途につく。
照姫
は容保より一足早く鶴ケ城を目指し、
慶応2年
(1869)
、の春に会津・鶴ケ城に入る。
江戸育ちの照姫にとって、会津は未知の土地であった。
女が好きなコラムの中の青い風 森中惠美子
"荒はてし野寺の鐘もつくづくと 身にしみまさる夜嵐の声"
8月23日から一か月におよぶ籠城戦においては、
照姫
は、会津藩の婦女500人余を指揮して、
負傷者の看護、炊事、洗濯、消火活動、弾丸の始末、
製造にもあたり、獅子奮迅の働きをした。
鶴ケ城開城式の後、
容保
は滝沢村の妙国寺に謹慎することとなり、
照姫
もそれに従っっている。
悟りとも言えず諦めとも言えず 津田照子
"岩くだく滝のひびきに哀れその むかしの事もおもひ出つつ"
開城後は、和歌山藩江戸屋敷を経て、
実弟・正益が当主の飯野藩に戻る。
後半生は歌人として生き、
明治13年
(1880)
以降、会津を再訪し、
上記の歌を詠んだ。
大正6年
(1917)
会津若松市内に改葬され、
照姫
は今、
容保
と静かに眠っている。
≪因みに容保は、明治26年(1893)58歳で死去している≫
さわやかな和音へ前頭葉が澄む 山本昌乃
[6回]
y2013/05/18 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
鳥羽・伏見の戦い
条約を遵守した餅の和え方 井上一筒
海路江戸へ向かう慶喜
鳥羽伏見の戦いの際、総大将である
慶喜
が大阪城を退去し、
江戸へ戻ったことは、幕府軍の士気を落とし、敗戦の要因とされた。
(画面をクリックしてご覧下さい)
「鳥羽伏見の戦い」
慶応3年
(1866)
10月、将軍
慶喜
は大政奉還を行ない、
幕府の政権を朝廷に返上して、倒幕派の鋭鋒をかわしつつ、
政治の主導権を握ろうと目論む。
これによって薩摩・長州に、
岩倉具視
から下達された
「倒幕の密勅」
は空振りとなった。
しかし薩摩藩らは、
同年12月に
「8月の政変」
と同様の政変を起こし、
「王政復古」
の大号令
を発した。
冷凍のインゲンマメというメンツ 井上しのぶ
同日、慶喜の将軍辞職、摂政・関白、京都守護職、
江戸幕府の廃止が決まる。
慶喜は衝突を避けるために、大坂城に移る。
この時、会津藩兵や桑名藩兵もともに大坂に退いた。
その後も慶喜は、驚異的な政治力を発揮し、
一時は、情勢を巻き返すかに見えた。
だが薩摩藩が江戸で騒乱を繰り返して挑発。
これに乗せられて、ついに戦端が開かれるのである。
振り出しに決して戻らぬ時雨の記 小林満寿夫
薩長らの兵力五千に対し、
京都を目指す旧幕府軍は1万5千。
会津藩兵らは、伏見街道を進み、
桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、鳥羽街道を進む。
だが寡兵ながら、新式火器を装備した薩長の火力は、
圧倒的であった。
慶応4年
(1868)
1月3日、
鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、
薩軍が待ち受けて一斉射撃を加えた。
桑名藩兵や幕府歩兵隊らは反撃を試みるも、
敵に圧倒され壊乱する。
祈ろうかススキの光透けてゆく 増田えんじぇる
指揮をとる容保
同じ頃、伏見街道でも、
会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。
会津藩大砲奉行の
林権助
らが必死の砲撃で反撃し、
佐川官兵衛
は
土方歳三
率いる新選組と共に、
斬り込みをかけるが、
劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。
旧幕府軍は淀城に退却した上で、迎え撃とうとする。
しかし、淀藩は譜代藩で藩主が現職老中であったが、
新政府側に寝返り、入城を拒否。
さらに山崎に布陣していた藤堂藩兵が、
淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。
結び目がささくれだった声を出す 岩根彰子
ここに至り、旧幕府軍は敗走せざるを得なくなった。
この戦いで会津藩の砲兵隊は、
死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。
大砲奉行の
林
は全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、
江戸に退却する途中の船上で落命。
また
覚馬
の弟・
山本三郎
もこの時の戦傷により、
江戸に帰還後、死去している。
てのひらの石を出ていく一番列車 岩田多佳子
金戒光明寺の会津藩殉難者墓地
この時、失明していた覚馬は、戦いに参加できなかった。
会津藩士たちが大坂へ去った後も京都に留まって、
洋学所の塾生たちに教授を続け、
戦争勃発後に捕らえられたとも、
大坂に移り、その地で捕らえられたともいわれる。
薩摩藩邸に捕えられた覚馬は、
朋輩たちの戦死をどう噛み締めていたのだろうか。
この戦いで戦死した会津藩士115名の慰霊碑、
および、文久2年(1862)の上洛からそれまでの間に、
落命した237名の墓碑が、
金戒光明寺の
会津藩殉難者墓地
にある。
捨て石にきれいな色を塗りましょう 蟹口和枝
[1回]
y2013/05/15 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
管見
やがて身は溶けて吸われる樹液かな 山田ゆみ葉
山本覚馬 建白書
「会津藩の怒り」
薩摩は会津と盟約したかと思えば、
密かに長州と結ぶなど表裏定かでなく、
謀略をも厭わなかった。
薩摩の標的でなかった南部藩家老・
楢山佐渡
ですら、
その横暴ぶりに義憤を覚え、
奥羽越列藩同盟に加わったほどだ。
ましてや、
当事者たる会津の心境たるや推して知るべしである。
山本覚馬
とて、怒りを禁じ得なかったはずだ。
固い背がまだ許さない許せない 高橋謡子
薩摩藩邸があった同志社大学のキャンパス
しかし覚馬は、伏見の会津軍に向かう途中、
薩摩藩に捕縛され、
京都二本松の薩摩屋敷の牢に収監される。
牢といっても稽古場をにわかに改造したもので、
畳敷きで夜具もあった。
西郷
を知る覚馬は、優遇され、読書も自由だった。
≪覚馬はここで新国家構想を示した。
革新的な
『管見』
を口述筆記させ、勤皇の有職者たちを驚かせた。
その内容は三権分立や二院制をはじめ、
商工業振興や税制改革、能力主義の人材登用など、
日本の近代化を進めるにあたって、
具体案を23にわたる項目で論じたものだった。
「管見」のなかでも感心させられるのは、
「教育」と「物づくり」を重視している点である。
「教育」と「物づくり」を核にした国づくりという構想が、
いかに的を射たものであったかは、
その後の日本の発展が証明している≫
生駒聖天に黄色を塗りに行く 井上一筒
囚われの身となった覚馬は、それでもなお、
怨讐を捨て争乱の拡大を抑えようとする。
旧幕府方が朝敵とされ、
大坂から江戸に向けて敗走したこと、
さらに新政府軍が江戸に進軍中であることを知ると、
自ら和平の使者となることを願い出るのだ。
「私が慶喜公と容保公を説得し、矛を収めさせましょう。
もし新政府軍があくまで追討すれば、
わが会津藩は、一兵残らず討死するまで戦うでしょう。
そうなれば日本の国力が衰えるばかりで、
外国の乗ずるところとなります」
風の樹は風になるまで勇ましい 田中博造
覚馬はもちろん、会津を愛する気持ちは強かったが、
それ以上に、日本そのものを守ろうとしていた。
視界から光が失われれば失われるほど、
覚馬の視野はむしろ広がりを見せ、
自分が会津藩士であると同時に、
日本人であることに目覚め、
「今は国内で争うべきではない」
と痛感したのである。
ルーズになってくる日本列島のかたち 森中惠美子
しかし、覚馬の嘆願が聞き入れられることはなかった。
その直後に記した建白書
『管見』
も、
先進的な内容で西郷や小松を瞠目させたものの、
新政府軍の動きを阻止するにはいたらなかった。
遺言はなし伝説になりました 石橋能里子
[4回]
y2013/05/08 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
慶喜の一面
仏壇の鉦を合図にクーデター 井上一筒
京都二条城一・二の間
慶応3年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は京都・二条城一の間に、
上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。
かくして徳川幕府265年の歴史は幕を閉じた。
(画面は拡大してご覧下さい)
「秒読みの戊辰戦争」
慶応3年
(1867)
5月頃まで長崎に滞在した
覚馬
が、
京都に戻ると、時局は混迷を極めていた。
わけても、
薩長同盟
を結んだ薩摩藩と会津藩の対立が,
激化していた。
覚馬が目指すべき道は、
佐久間象山、勝海舟
と同じく、
国内が一致して西洋列強にあたることにある。
両藩の対立は望むところではなかった。
そこで6月、覚馬は宥和を図るべく、
薩摩の
西郷隆盛
と
小松帯刀
と会談するが、
会津藩内の強硬派は鎮まることがなかった。
一方、西南雄藩は倒幕の動きを加速させていく。
その機先を制すべく10月14日、
徳川慶喜
が
大政を奉還
する。
足し算の途中で夕陽が沈んだ 森田律子
二条城俯瞰
「大政奉還‐慶喜の真意」
『天下の政権を朝廷に奉還せしめ、
政令宜しく朝廷より出ずべき事』
『上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、
万機宜しく公議にに決すべき事』
これは
坂本龍馬
が長崎から京都へ向かう船中で、
後藤象二郎
に構想した
「船中八策」
である。
この船中八策は、土佐藩主・
山内容堂
から建白の形で、
慶喜に示された。
御破算で願いましては日記帳 黒田忠昭
慶喜の方でも、朝廷の方から
「委任をやめる」
と言い出す前に、
何らかの手を打たねばならないと考えていたので、
この
大政奉還
を一つの手として、
受け入れることにしたのである。
それはまた、薩長と土佐藩とを分断することにもなるし、
薩長の倒幕の口実を封ずることにもなると、
考えたからであった。
賞罰の欄に羊を押し込める 岩根彰子
徳川慶喜
「大政奉還後、慶喜はどのような位置を占めようと考えていたのか?」
せきむかい ひっき
慶喜生前の談話集・
「昔夢会筆記」
(慶喜談話集)
によると、
かつきよ
慶喜側近の老中・
板倉勝静
らは、
慶喜を朝廷の摂政という形にして、
そのまま実権をとり続けさせたいと思っていたようである。
また幕臣の
西周
の
「議題草案」
によると、
将軍は
「大君」
と名前を変え、諸侯議会の議長となり、
国家の行政権と立法権、
さらに軍隊の統帥権まで握るとしている。
通り名がもひとつあって太い骨 くんじろう
ところが薩長は権謀術数を用い、
12月9日に
王政復古
を宣言。
慶喜の将軍職辞職と
容保
の京都守護職解任が決まる。
新政権から排除された上、
辞官納地まで求められた慶喜は、事態の急展開に驚くが、
ひとまず会津藩などの旧幕府方を引き連れて、
京都をあとにして大坂城に入った。
(この時点ではまだ、討幕派の政治体制が確率していたわけでなく、
慶喜自身も巻き返しは可能とみていたものと思われる)
サンダルを洗う潮騒きいている 三村一子
馬上の慶喜
ところが覚馬は、
同僚から身の危険を諭されながらも京都に止まる。
万一、薩長と旧幕府方が武力衝突するような時には、
身を挺してでも、双方の宥和を図るつもりだった。
だが薩摩は、江戸市中で狼藉を働くなど、
旧幕府方への挑発を繰り返していく。
旧幕府方、とりわけ会津藩の薩摩に対する憤りはすさまじく、
ついに慶応4年
(1868)
1月3日、
「鳥羽・伏見を戦場とする戦い」
へと突入する。
この鳥羽伏見の戦いの開始が、
「戊辰戦争」
の始まりであった。
戊辰とは、慶応4年の干支である。
かげろうだろうこころとか想いとか 新家完司
[3回]
y2013/05/04 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
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