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川柳的逍遥 人の世の一家言
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仏壇の鉦を合図にクーデター  井上一筒

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京都二条城一・二の間


慶応3年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は京都・二条城一の間に、

上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。

かくして徳川幕府265年の歴史は幕を閉じた。


(画面は拡大してご覧下さい)

「秒読みの戊辰戦争」

慶応3年(1867)5月頃まで長崎に滞在した覚馬が、

京都に戻ると、時局は混迷を極めていた。

わけても、薩長同盟を結んだ薩摩藩と会津藩の対立が,

激化していた。

覚馬が目指すべき道は、佐久間象山、勝海舟と同じく、

国内が一致して西洋列強にあたることにある。

両藩の対立は望むところではなかった。

そこで6月、覚馬は宥和を図るべく、

薩摩の西郷隆盛小松帯刀と会談するが、

会津藩内の強硬派は鎮まることがなかった。

一方、西南雄藩は倒幕の動きを加速させていく。

その機先を制すべく10月14日、

徳川慶喜大政を奉還する。

足し算の途中で夕陽が沈んだ  森田律子

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    二条城俯瞰

「大政奉還‐慶喜の真意」


『天下の政権を朝廷に奉還せしめ、

  政令宜しく朝廷より出ずべき事』

『上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、

  万機宜しく公議にに決すべき事』  


これは坂本龍馬が長崎から京都へ向かう船中で、

後藤象二郎に構想した「船中八策」である。

この船中八策は、土佐藩主・山内容堂から建白の形で、

慶喜に示された。

御破算で願いましては日記帳  黒田忠昭

慶喜の方でも、朝廷の方から「委任をやめる」と言い出す前に、

何らかの手を打たねばならないと考えていたので、

この大政奉還を一つの手として、

受け入れることにしたのである。

それはまた、薩長と土佐藩とを分断することにもなるし、

薩長の倒幕の口実を封ずることにもなると、

考えたからであった。

賞罰の欄に羊を押し込める  岩根彰子

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  徳川慶喜

「大政奉還後、慶喜はどのような位置を占めようと考えていたのか?」
                        せきむかい ひっき
慶喜生前の談話集・「昔夢会筆記」(慶喜談話集)によると、
                         かつきよ
慶喜側近の老中・板倉勝静らは、

慶喜を朝廷の摂政という形にして、

そのまま実権をとり続けさせたいと思っていたようである。

また幕臣の西周「議題草案」によると、

将軍は「大君」と名前を変え、諸侯議会の議長となり、

国家の行政権と立法権、

さらに軍隊の統帥権まで握るとしている。

通り名がもひとつあって太い骨  くんじろう

ところが薩長は権謀術数を用い、

12月9日に王政復古を宣言。

慶喜の将軍職辞職と容保の京都守護職解任が決まる。

新政権から排除された上、

辞官納地まで求められた慶喜は、事態の急展開に驚くが、

ひとまず会津藩などの旧幕府方を引き連れて、

京都をあとにして大坂城に入った。

(この時点ではまだ、討幕派の政治体制が確率していたわけでなく、

  慶喜自身も巻き返しは可能とみていたものと思われる)


サンダルを洗う潮騒きいている  三村一子 

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     馬上の慶喜                                   

ところが覚馬は、

同僚から身の危険を諭されながらも京都に止まる。

万一、薩長と旧幕府方が武力衝突するような時には、

身を挺してでも、双方の宥和を図るつもりだった。

だが薩摩は、江戸市中で狼藉を働くなど、

旧幕府方への挑発を繰り返していく。

旧幕府方、とりわけ会津藩の薩摩に対する憤りはすさまじく、

ついに慶応4年(1868)1月3日、

「鳥羽・伏見を戦場とする戦い」へと突入する。

この鳥羽伏見の戦いの開始が、

「戊辰戦争」の始まりであった。

戊辰とは、慶応4年の干支である。

かげろうだろうこころとか想いとか  新家完司

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