忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[358] [357] [356] [355] [354] [353] [352] [351] [350] [349] [348]
条約を遵守した餅の和え方  井上一筒

37c9fcd3.jpeg

 海路江戸へ向かう慶喜

鳥羽伏見の戦いの際、総大将である慶喜が大阪城を退去し、

江戸へ戻ったことは、幕府軍の士気を落とし、敗戦の要因とされた。


(画面をクリックしてご覧下さい)

575258ae.jpeg


「鳥羽伏見の戦い」

慶応3年(1866)10月、将軍慶喜は大政奉還を行ない、

幕府の政権を朝廷に返上して、倒幕派の鋭鋒をかわしつつ、

政治の主導権を握ろうと目論む。

これによって薩摩・長州に、

岩倉具視から下達された「倒幕の密勅」は空振りとなった。

しかし薩摩藩らは、

同年12月に「8月の政変」と同様の政変を起こし、

「王政復古」の大号令を発した。

冷凍のインゲンマメというメンツ  井上しのぶ

同日、慶喜の将軍辞職、摂政・関白、京都守護職、

江戸幕府の廃止が決まる。

慶喜は衝突を避けるために、大坂城に移る。

この時、会津藩兵や桑名藩兵もともに大坂に退いた。

その後も慶喜は、驚異的な政治力を発揮し、

一時は、情勢を巻き返すかに見えた。

だが薩摩藩が江戸で騒乱を繰り返して挑発。

これに乗せられて、ついに戦端が開かれるのである。

振り出しに決して戻らぬ時雨の記  小林満寿夫

0c2cff44.jpeg


薩長らの兵力五千に対し、

京都を目指す旧幕府軍は1万5千。

会津藩兵らは、伏見街道を進み、

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、鳥羽街道を進む。

だが寡兵ながら、新式火器を装備した薩長の火力は、

圧倒的であった。

慶応4年(1868)1月3日、

鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、

薩軍が待ち受けて一斉射撃を加えた。

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは反撃を試みるも、

敵に圧倒され壊乱する。

祈ろうかススキの光透けてゆく  増田えんじぇる

bbb6b43f.jpeg

 指揮をとる容保

同じ頃、伏見街道でも、

会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。

会津藩大砲奉行の林権助らが必死の砲撃で反撃し、

佐川官兵衛土方歳三率いる新選組と共に、

斬り込みをかけるが、

劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。

旧幕府軍は淀城に退却した上で、迎え撃とうとする。

しかし、淀藩は譜代藩で藩主が現職老中であったが、

新政府側に寝返り、入城を拒否。

さらに山崎に布陣していた藤堂藩兵が、

淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。

結び目がささくれだった声を出す  岩根彰子

ここに至り、旧幕府軍は敗走せざるを得なくなった。

この戦いで会津藩の砲兵隊は、

死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。

大砲奉行のは全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、

江戸に退却する途中の船上で落命。

また覚馬の弟・山本三郎もこの時の戦傷により、

江戸に帰還後、死去している。

てのひらの石を出ていく一番列車  岩田多佳子

boti.jpg


金戒光明寺の会津藩殉難者墓地

この時、失明していた覚馬は、戦いに参加できなかった。

会津藩士たちが大坂へ去った後も京都に留まって、

洋学所の塾生たちに教授を続け、

戦争勃発後に捕らえられたとも、

大坂に移り、その地で捕らえられたともいわれる。

薩摩藩邸に捕えられた覚馬は、

朋輩たちの戦死をどう噛み締めていたのだろうか。

この戦いで戦死した会津藩士115名の慰霊碑、

および、文久2年(1862)の上洛からそれまでの間に、

落命した237名の墓碑が、

金戒光明寺の会津藩殉難者墓地にある。

捨て石にきれいな色を塗りましょう  蟹口和枝

拍手[1回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開