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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生涯を独活まで来たる思いかな  大西泰世

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      公 卿

仁平3年(1153)1月、平忠盛が58歳で亡くなった。

武士として、初めて、「内昇殿」を許され、

大国の受領を歴任し、

受領としては、最高クラスの「播磨守」も経験した。

また、死の2年前には、「刑部卿」に就任しており、

位も「正四位上」と四位の最上位に達していた。

その上は三位、すなわち「公卿」である。 

紙ふぶきこぼしてて恋を終わらせる  笠原道子

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国政に携わるのも、

夢ではないところまできていただけに、

まことに惜しい死であった。

「祇園社乱闘事件」では、

忠盛・清盛父子の刑を主張した、

「悪左府」藤原頼長でさえ、

忠盛の死にあたって、次のように日記に記している。 

「数国の吏を経て、富は巨万を累ね、

  奴僕は国に満ち、武威は人にすぐる。

  然るに人となり恭倹にして、未だかつて、奢侈の行あらず。

  時の人、これを惜しむ」

 

(巨万の富と多くの家人をもち、人に勝る武威を身につけながら、

  性格はあくまで慎み深く、ぜいたくな振る舞いはなかった)

バネだけになってしまったバネ秤  筒井祥文

もっとも、「正四位上」というのは、

通例では、あまり、"与えられる者のない位階" である。

公卿になる人は、これを飛び越えて、

三位になることが、ほとんどであったのだ。

忠盛が、異例の正四位上についたのは、 

「何としても平家を公卿にしてはならない」

 

という政治的な力が働いた結果なのだろう。 

さっきの出血は赤ペンキでした  井上一筒

 

いかに富を蓄え、武力を持ち、

宮廷人としての、素養を身につけても、

武士が公卿にのぼる道は、

依然として険しかったのである。

だが、その道は、決して遠いものではなかった。

武士の地位、そして、

平家に飛躍をもたらす「保元・平治の乱」

すぐそこまで、迫っていたのである。 

海に出る覚悟を決めた冷奴  清水すみれ

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ときに、清盛36歳。

平家の棟梁となった清盛は、

いよいよ、

歴史の表舞台へ飛び出していく。

哀しみはマスクの中に閉じ込める  合田瑠美子

 

『余談』

忠盛が命じられた「高野山大塔」の造営事業は、

仁平3年(1153)の忠盛の死後は、

清盛に引き継がれ、

保元元年(1156)に竣工した。

厳島との関係が生まれたのは、この間のことである。 

いつの世も飽かず求める開け胡麻  下谷憲子

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鎌倉初期に生まれた説話集・『古事談』によると、

清盛が高野山の大塔を造営していたとき、

自ら材木を運んでいると、

弘法大師の化身である僧が現れて、

厳島に奉仕するよう勧めたという。

平家納経の「願文」に、 

「夢感誤り無く、早く子弟の栄華を験す」

 

(夢のお告げどおり、一門に栄華がもたらされた)

と述べられている。 

春嵐ゆっくり足を組みなおす  森田律子

 

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いま私積乱雲の中にいる  ふじのひろし

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"ならびおるふたつの黒き蝶々の舞い  いずれや高くのぼりけるらむ" 

これは、鳥羽の皇女・統子(むねこ)が詠った歌である。

ふたりの黒い蝶とは、藤原忠通頼長をさしている。

 

X と Y ひとすじなわでゆかぬ線  片岡加代

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「保元の乱への序章」

事の起こりは、天皇家と摂関家の内紛にあった。

摂関家の内部対立は、摂政の藤原忠通と、

その弟・頼長の主導権争いである。

「日本第一の大学生」 といわれた頼長は、

摂関となって、自ら政治を執り行うことを願っていた。

二分咲きは希望五分咲きは願望  立蔵信子

父の忠実も頼長を偏愛し、摂関の地位を譲るよう、

忠通にたびたび、圧力をかけたが、 

「実子の基実に継がせたい」

 

と考えていた忠通は、これを拒み続けた。

業を煮やした忠実は、忠通と絶縁し、

鳥羽法皇に懇請して、頼長を「内覧」につかせた。 

内覧=天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。

 

関白の忠通と、内覧の頼長というふたりの執政が、

並び立つ異常事態が、生まれたのである。 

かなたも寒いこなたも寒い爪のともしび  山口ろっぱ

 

しかし、「祇園社乱闘事件」にもみられるとおり、

厳しい処罰を伴う頼長の、厳格な政治姿勢は、

多くの貴族の反感を買う。

さらに、久寿2年(1155)近衛天皇が崩御すると、

「天皇を呪い殺した」 という噂をたてられ、

鳥羽法皇の信任を失うのである。

ゆれる灯は終着駅か狐火か  新家完司

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天皇家の内紛は、さらに複雑だった。

崇徳と鳥羽の仲の悪さは、すでに述べたとおりりだが、

保延5年(1139)鳥羽の寵愛する藤原得子が、

体仁親王(なりひとー近衛)を産むと、

無理やり崇徳を退位させ、

近衛に天皇位を継がせた。

過去ひとつ引き摺るじゅんさいのぬめり  たむらあきこ

その近衛が皇子のないまま、

17歳で崩御すると、

崇徳は、我が子の重仁親王(しげひと)が即位し自身が

「治天の君」 となって院政を行なうことを期待した。

しかし、皇位を継いだのは、

同母弟の雅仁親王(まさひとー後白河)であり、

崇徳が院政を行なう望みは、完全に絶たれた。 

限りなく下まで落ちる立ち泳ぎ  森 廣子

 

今様に熱中し父の鳥羽法皇でさえ、 

「天皇の器にあらず」

 

とみなしていた後白河が、

にわかに皇位継承者として、浮上した背後には、

次のような理由があった。

ピリオドのために踏み出す第一歩  上田斗酒

鳥羽亡き後も、権勢を保ちたいと考えた美福門院は、

関白・忠通と組んで、

養子としていた雅仁の、

第一皇子・守仁親王
(もりひとー二条天皇)を、

皇位につけようと画策し、鳥羽もそれを支持していた。

しかし、父が天皇を経験していないにもかかわらず、

その皇子が、皇位についた例はない。

そこで、いったん後白河を即位させ、

そのうえで、守仁に譲位させることにしたのである。

政権から締め出された崇徳頼長が、

接近するのは、時間の問題だった。 

メデューサの口は形も見えぬまま  井上一筒

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       為 朝

【薀蓄】ー「源為朝の夜襲計画」

保元の乱が、まさに勃発しようとする直前、

父・為義とともに、崇徳側についた為朝は、 

「夜討ちに勝る策はありません。

  後白河天皇の本陣である高松殿にただちに攻め寄せ、

  火を放てば、容易に勝てましょう」

 

と軍議で述べた。

三日月に炎の一字を引っかける  谷垣郁郎

しかし、崇徳側の大将である藤原頼長は、

「夜討ちは武士同士で行なう野蛮な行為。

  このたびは天皇と上皇の戦いだから、卑怯な策はとれない」

と述べて、為朝の提案を退けた。

公家の発想からの決断である。 

捨てられたバナナの皮の声だった  夏瀬佐知子

 

13歳のとき、父・為義に勘当されて、

九州に追放された為朝は、

自在に暴れ回って、九州を平定するという、

豊富な実戦経験をふまえて、

「夜討ちが効果的である」 と確信していた。

また、兄・義朝が夜討ちを仕掛けてくることを危惧していた。

雲だった昨日小雨になる明日  中野六助

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「先手必勝」 が戦いの常識だが、

頼長はそれを「よし」としなかった。

そして、為朝の予想通り、

兄・義朝は、夜討ちを仕掛けてきたのだった。

もし、為朝の夜襲策が採用されていたら、

勝敗は逆転していたかも知れない。

いや、兵力に劣る上皇側こそ、

勝つためには、夜討ちが必要だった。

地獄の門までの赤い鈴である  森田律子

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義朝の夜討ちを受け入れた信西と、

為朝の夜討ち策を拒否した、頼長の戦略観の差が、

勝敗を左右したといえよう。

天皇側は、義朝の放火策も認め、

なりふりかまわない攻撃で、勝利を手にしたのだった。

眼下には桜まなうらに死者の数  井上恵津子

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「源為朝」

為義の八男。2メートルの巨漢とつたわる。

13歳の時に、父の不興を買って九州に追放され、

「鎮西八郎」 と号して暴れまわった。

訴えによると朝廷の召還にも、応じなかったが、

やむなく上洛したところ、

保元の乱に遭遇し、崇徳上皇方に立って参戦。

「夜討ち」を主張したが受け入れられず、

白河殿の防御にあたった。

この時、強弓をもって、清盛軍を撃退するなど活躍した。

思い出ほろほろニトログリセリン  酒井かがり

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梅干しの赤は生涯母の彩  森中惠美子

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      家盛と桜        

"吉野山こずゑの花を見し日より  心は身にもそわずなりにき"

 

(吉野の桜を見た日から心が体から離れてしまったようだ 西行)

「池禅尼」

池禅尼は、藤原宗兼の娘で俗名は宗子

清盛の母が死んだあと忠盛に嫁いだ。

従兄弟に鳥羽上皇の寵臣であった藤原家成がおり、

家成のそのまた従姉妹には、

鳥羽の寵姫・美福門院がいた。

宗子は正室の立場とともに、こうした人脈によって、

平家一門のなかでも、とくに重んぜられた。 

雪は消えても消せぬ名前があるのです  池田 勇

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宗子には、忠盛との間に2人の子がいる。

保安4年(1123)ごろに生まれた家盛と、

長承2年(1133)に生まれた頼盛である。

このうち、年長の家盛は、

長承3年の蔵人(くろうど)に任じられているが、

蔵人は、天皇の側近く仕える役職であり、

待遇としては、

清盛の院非蔵人(いんのひくろうど)よりも上である。  

確信は空が青いという事実  山口美千代

  

その後、家盛がいつ、従五位下に昇進したかは、

不明であるが、

康治2年(1143)に従五位上、

久安3年(1147)に正五位下、

久安4年(1148)に従四位下 と順調に昇進を果した。

清盛の方が年長で昇進が早く、

しかも、白河院の落胤であるとはいえ、

家盛は、正室の子であり、

鳥羽院の近臣の筆頭である藤原家成との、

血縁を持つという要素も大きい。 

鯛なのかほんとにおまえは鯛なのか  石橋能里子

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このままいくと、家盛清盛の有力な、

ライバルとなる可能性は十分あった。

それが可能性のまま終わった理由は、

家盛が久安5年に、急死したからである。

これによって、忠盛の子どもたち間で、

嫡流をめぐる争いが起こることは回避され、

清盛は嫡男としての立場を、

確固たるものにしたのである。 

抽象画吊るす迷路の入り口に  嶋澤喜八郎

 

家盛の死後、清盛が19歳年下の頼盛を尊重したのは、

本来は、頼盛が平家の正嫡であるという、

ひけ目のようなものが、あったからかもしれない。

それはとりもなおさず、

頼盛の母・池禅尼を尊重しようとする

気持ちの表れでもあった。 

押し売りが悲しき猫を置いてゆく  蟹口和枝 

 

宗子忠盛の後妻になったのは、

保延2年(1136)頃といわれており、

清盛19歳の時である。

まだ若かった清盛は、

何かと、この継母の世話になることも多かったであろう。

何よりも、宗子はすぐれた政治センスをもっていた。

「保元の乱(1156)が勃発し、朝廷の勢力が、

崇徳上皇、後白河天皇の両陣営に別れたとき、

清盛は微妙な立場に立たされた。

清盛自身は、

後白河の即位を認めた鳥羽法皇の近臣である一方、

継母の宗子が、

崇徳の皇子重仁の乳母だったからだ。  

転がったリンゴ泣きべそかいている  泉水冴子  

 

おそらく清盛も、崇徳方に勝ち目はないことを察知し、

「後白河陣営に参じたい」 と思っていただろう。

しかし、性急に動けば、

源氏のように、一門が分裂しかねず、

旗色を鮮明にすることがためらわれた。

板挟みとなった清盛を救ったのが、

宗子の判断だった。 

わが消す灯母がともす灯明易き  大西泰世

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『愚管抄』によると、宗子は頼盛に、 

「このたびの合戦では、きっと新院(崇徳)方が負けるでしょう。

  あなたはぴったり兄についていきなさい」
 
と教えたという。

この指示によって、平家はほとんど一門が、

分裂することなく、

保元の乱の
勝利者となることができたのである。 

槍を父浅間を母として仰ぐ  井上一筒

 

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サボテンを蹴ってしまったリアクション  美馬りゅうこ

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  頼長と忠通の対立

「保元の乱-発端」

 

保元元年(1156)、平安の都に兵乱が迫る。

天皇家、摂関家の対立は、武士を巻き込み、

もはや、干戈(かんか)を交えずにはすまなくなる。 

横縞につまづき縦縞におぼれる  酒井かがり

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      崇徳院

「天皇家の対立」

天皇家では、鳥羽崇徳の親子が対立していた。

鳥羽の子には崇徳後白河、近衛がいたが、

崇徳は、実子でないととの噂があり、

両者は不仲だった。

近衛が早世し、天皇後継問題において、鳥羽は、

約束の崇徳の子・重仁親王の後継の約束を反故にし、

久寿2年(1155)後白河を即位させたことで、

両者の対立が、決定的となった。 

神経に障る神経性胃炎  中村幸彦

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     藤原忠通

 

「摂関家の対立」

近衛天皇が死去した時の関白は、藤原忠通であったが、

ややこしいことに、

忠通は、「摂関家」の実権を握ってはいなかった。

当時、摂関家の実権を握っていたのは、

忠通の父・藤原忠実と忠通の異母弟・藤原頼長である。 

二百あまりの骨ギシギシと謳う春  大海幸生

 

事の起こりはこうだ。

保安2年(1121)、父・忠実に代わって関白となった忠通は、

跡継ぎとなる男子に長く恵まれなかったため、

忠実の寵愛する異母弟の頼長を養子として、

跡継ぎとする取り決めをしていた。

ところが、康治2年(1143)忠通に、

嫡男となる基実が生まれると、
忠通は、

この約束を破ってしまう。 

べたべたはざらざらよりも罪深い  野口 裕

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     藤原頼長

さらに忠実・頼長と忠通とは、

近衛天皇の結婚問題でも対立し、

久安6年(1150)正月に頼長の養女である多子が、

近衛天皇に入内し、皇后となると、

4月には、忠通の養女である呈子が、

入内し中宮になる
という有様であった。

中宮も皇后も、天皇の正妃であるが、

中宮の方が格は上である。

これに怒った忠実は、忠通との親子の縁を断ち、

忠通に相続させていた邸宅・荘園などの財産を取り上げ、

頼長に与えてしまった。 

縁を切るハガキ一枚でも切れる  森中惠美子

 

ところが、摂関の任命権を持つ鳥羽院は、 

「忠通を罷免して、頼長を関白とするよう」

 

求める忠実の願いに応じず、

頼長を左大臣のまま「内覧」とするに止めた。

忠通はかねてから、美福門院と提携していたため、

鳥羽院としては、

忠通を切り捨てるわけにも、いかなかったのである。 

切り替えて胸に点滅させておく  山本早苗

 

頼長が任じられた内覧は、

天皇に奏上する文書に、事前に目を通す役職で、

職務内容は、関白とほぼ同じであるから、

実質的には、関白の忠通と内覧の頼長とが、

並び立つこととなった。

この並立状況が、破局を迎えたのも、

近衛天皇の死がきっかけだった。 

眼や鼻の置き場をちょっと間違える  中野六助

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     鳥羽院        

近衛天皇は、長く目を病んでいたのだが、

その原因は、

「忠実・頼長が近衛天皇を呪ったためである」

との噂が流れ、鳥羽院は、これを信じたのである。

当時は、迷信深い中世という時代。

子を亡くした鳥羽院の目には、

呪いによる死が真実と映った。

≪頼長の日記『台記』には、近衛天皇の霊が巫女の口を借りて、

   「自分の目が見えなくなったのは、何者かが、

     愛宕山の天狗の像の目に、
釘を打って呪いをかけたからだ」  

    
と述べ、鳥羽院が調べてみると、

    「その通りになっていた」、という話がかかれていた≫

ええ仕事でおます藁人形の釘  山口ろっぱ

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もともと、頼長はよく言えば、真面目な堅物、

悪く言えば、融通のきかない厳格すぎる性格で、

あまりの苛烈さに、

「悪左府」との異名を奉られたほどであり、

トラブルの絶えない人物だった。 

切ないね棘ある水に馴染んでる  岩根彰子

 

その最たるものが、仁平元年(1151)、

家人の間で起こった諍いをきっかけに、

鳥羽院のもっとも信頼する藤原家成の邸宅に、

自分の家人を乱入させ、家成の家人を、

召し取らせた事件である。

鳥羽院はこの事件をきっかけに、頼長を疎み始めた。 

小石蹴りネンザしたとはよう言わん  下林正夫

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      後白河

 

関白も内覧も、天皇が代替わりすると、

改めて任命されなければならない。

だが、近衛天皇が死去し、

後白河天皇が即位したにもかかわらず、

鳥羽院は、忠通を関白としたのみで、

頼長を内覧に再任しなかった。

事実上の頼長失脚である。 

最初から迷路の口は開いていた  佐藤美はる

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ところが、事態はこれでは済まなかった。

というのも、忠実が積極的に荘園を集め、

荘園経営のために武士たちを、組織していたため、

当時の摂関家は、いわば、

私兵を備えた独立組織と化していたからだ。

それゆえに忠実が忠通を、

関白の座から降ろすことはできなくても、

父親として家の財産を、

忠通から奪うことは可能であったし、

逆に頼長が失脚した後も、摂関家の荘園や武士は、

そのまま忠実・頼長の下に残されていた。 

真っ黒を着ようか真っ赤を脱ごうか  森田律子

 

その後、鳥羽に疎まれ失脚していた頼長は、

後白河が即位すると復権する。

かくして、

鳥羽を恨む崇徳と頼長が結ぶことになり、

鳥羽、後白河、忠通に対抗するようになる。 

定位置をかえても葬儀屋が見える  郡司 豊

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      平清盛

 

「武家の対立」

当時、武士は、院や摂関家に個別に仕えており、

源平両氏もこの対立軸に巻き込まれていった。

平氏では、清盛が鳥羽に仕えていたが、

叔父・忠正は清盛と不仲で、頼長に近侍していた。

また源氏では、棟梁の為義が忠実・頼長父子に、

臣従していたが、
息子の義朝は東国の権力争いで、

父と仲違いしたともいわれ、鳥羽寄りの立場だったという。 

とって置きの万年青が消えたこの辺り  山本昌乃

 

保元元年(1156)「鳥羽が崩御」すると、

対立が一気に表面化。

後白河と崇徳方に分れての大騒乱が起きる。

その中で、キーマンとなったのが、

最大の軍事力を有する清盛である。

清盛は鳥羽に仕える一方、

継母(宗子)が崇徳の子の乳母であり、

どちらについても、おかしくなかった。 

杏仁豆腐にも盲点があった  井上一筒

 

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ひらがなと梵字まぜこぜ蝌蚪(かと)生まる  大西泰世

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        惟盛供養塔

"生まれてはついに死にてふ事のみぞ 定なき世の定ありけり"

「平家の道ー②」

平忠盛は、父・正盛の英才教育をうけ、

和歌・舞など宮廷的教養を身につけ、

舞によって、院昇殿を許されている。

それは、平氏一族の特性となった。

源氏には、見られなかった現象であり、

それは武門にとって、

「双刃の剣」の危険性をはらんでいた。 

8時にはこむらがえりになる予定  井上一筒

 

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"行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵のあるじならまし"

『平家物語』巻第九ー「忠度最後」

名乗らぬまま一の谷で散った忠度の箙(えびら)に結びつけられた歌

忠盛の末子・忠度(ただのり)も、

やはり父の教えに従い、藤原俊成に師事して和歌を学んだが、

源平争乱の際は、武人として活躍したものの、

平家都落ちとなった際、武人としてよりは、

歌人・平忠度の名を高からしめた逸話を、

後世にまで残している。 

一コマを掴みそこねて倦む座敷  富山やよい

 

途中、ひとり都へ引き返した忠度は、

夜半、師・俊成邸の門を叩き、

自詠の和歌一首を、勅撰和歌集に採録を依頼したのである。

俊成は、「よみ人知らず」として、 

"さざ波や志賀の都はあれにしお むかしながらの山さくらかな "

 

の一首を載せたのである。 

捨てるもの捨てると軽くなる取っ手  合田瑠美子

 

その名を高からしめたのは、

後白河法皇50歳を祝う賀宴であった。

その賀宴には、維盛の父・重盛はじめ、

宗盛知盛ら平家一門の人々が列座していた。

その華やかな席上で、髪に桜を挿した維盛が、

右袖を肩ぬぎ、

桜萌黄の夜に、山吹の下襲(したがさね)という華麗な装束で、

「青海波」を舞ったのだ。 

振り向けば風はいつもと違う風  河村啓子

 

維盛、時に弱冠17歳。

若々しい美貌の彼が、笛の調べにつれ、

折から春の夕明かりの中に舞う姿は、 

「この世のものとは思われぬ」

 

あでやかさであった。 

芸がないので手拍子はちゃんと打つ  徳山みつ子

 

さすがの権謀術策の人・後白河法皇も、

われを忘れて見惚れたが、建礼門院にいたっては、

うっとりとした眼差しで、維盛を光源氏になぞらえ、

父親・重盛をして、感涙にむせばせたという。 

約束のように桜が咲いている  たむらあきこ

 

たしかに清盛の父・忠盛は、

賀茂祭の舞人をつとめることにより、

昇殿の栄誉を掴みとり、それをきっかけとして、

平家一門台頭の道を招きはしたが、

その忠盛にしても、我が子孫の中から、

維盛のような若者が現れるとは、

予想だにしなかったに違いない。 

水清しなんだかちょっと困るなあ  竹内ゆみこ

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   維盛入水の図

やがて、この維盛は、源氏と平氏一門が、

起死回生の死闘を演じている最中に、

敵前逃亡ともいうべき、

入水自殺を遂げており、

しかも奇怪なる生存伝説すら、生んでいるのである。

忽然と生れて忽然と消える  大海幸生
 

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