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川柳的逍遥 人の世の一家言
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最小サイズの断頭台がある  井上一筒

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後三年の役における戦闘を描いた絵巻

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弓の名手と言えば、源為朝(鎮西八郎)那須与一

中でも「保元の乱」において、三尺五寸の太刀を差し、

五人張りの強弓を持って、西河原面の門を守った、

為朝は、七尺ほど(210㎝)の大男で、

目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だった。

また「強弓」の使い手で、左腕が右腕よりも、

4寸(12㎝)も長かったといわれる。

酒も背も追い越した子に期待する  松本綾乃

「八郎伝説」

そんな源為朝は、弓の名人として、

天下に名の知られた武士であったが、

保元の乱では、負けた崇徳上皇方として戦ったため、

乱の収束後、

弓が引けないように、肘の筋を切られた上で、

八丈島に流されてしまった。

しかし、17歳だった為朝は、傷の癒えるのも早く、

八丈島でも強弓を引くようになる。

その強弓の威力というのが・・・弓の練習のため、

「1里(約3.9㎞)先の岩を的にして矢を射たところ、

  矢が当たると的の岩は、木っ端微塵に砕け散った」


という。

尾根を毀して版画家が見る時間  筒井祥文

「弓こそが平安末期の主力武器」

武士たちの弓を引く姿からもわかるように、

弓術には当時、馬上から射る「騎射」と、

地面に立って(あるいは片膝をつけて)引く「歩射」と、

いわれる、2通りの方法があった。

焼酎とメザシで出来ている翼  新家完司             

それぞれの弓矢の操作の、基本的なところは同じで、

また弓具にも,変わりはなかった。

しかし、騎射の場合には、馬上であることから、

射術の細かなテクニックを要求することは、

無理となる。

そのかわりに、馬の機動性を存分に発揮して、

射る目標に接近し、近距離から矢を発射する。

狙い撃ちしたいお方は皆の的  松村里江   

騎射による当時の戦法は、

「馬も人も敵を左手に向けて戦え。

  敵の兜のすき間を見つけて、十分に狙い、

  無駄な矢を射るな。


  内兜(兜の内側の額にあたる所)を敵に見せるな。

  敵が一の矢を放った後、

  二の矢を番
(つが)えようと弓を上げた時に、

  真向
(まっこう)、内兜(うちかぶと)、頸(くび)のまわり、

  鎧の継ぎ目などに、必ず隙間ができるので、

  そこを狙って射よ。


  鎧に隙間ができないよう鎧突よろいづき)を常におこなえ」

というものであったようだ。
(『源平盛衰記』)

 ≪鎧突=激しく動き回っていると、鎧の鉄札(てっさつ)を綴った、

  威糸(おどしいと)や鎧板などをつなぐ紐がゆるみ、

  間に隙間ができるので、ときどき鎧をゆすり上げて隙間をなくし、

  防護力を回復する必要があった≫


雨天につき第二関節まで決行  酒井かがり

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   那須与一

兜を着用して弓を射るには、現在のような引き方とは異なり、

(つる)は、兜の吹返(ふきかえし)のところにあたり、

それ以上引くことはできない。

また、「騎射」では、弓を射る姿勢は、

通常歩射で引く場合と比べると上半身を前傾させて射る。

≪これは騎射ばかりではなく、船上においても同様である≫

動揺の激しいとこらから、弓を引く場合には、

このような姿勢におのずとなる。

≪トップの画面の騎馬武者には、そのあたりの事情が、

   生き生きと描かれている≫


その紐を引くと雷落ちますよ  西田雅子

それに対して、「歩射」の場合には、

精密な技術を尽くして、比較的遠い目標物を射中てること、

また目標物を貫き通すような、矢の威力の必要があった。

日本の弓は長く、当時の弓の長さは、

現在の弓の長さとほぼ同じで、

七尺三寸前後(約2メートル20センチ)といわれる。

また、日本弓の特徴として、弓を握る位置が、

他の民族の使用する弓のように、中央ではなく、

上部から約3分の2のところに位置している。

≪このことは、銅鐸(どうたく)や埴輪などにみられるばかりではなく、

  『魏志倭人伝』に「短下長上」と記されていることからも、

  古い時代からの特徴であったと言える≫

  
神様はいかが蓋も付いてます  中岡千代美

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後三年の役における戦闘を描いた絵巻

射られた数多くの矢から、

さまざまな矢羽が使用されていたことがうかがえる。


弓矢の威力について語る場合、

いくつかの面からみなければならない。

第一に、弓矢を扱う射手の技量により、

その威力は雲泥の差が生じる。

創意によって大きく異なる。

そして最後に弓矢をどのような目的のために用いるか、

ということから鏃(やじり)の選択が必要となる。

戦闘場面では、目標物を破壊する、

射切る、貫通させる、衝撃を与える、飛距離を競う、

などのことが想定されるからである。

目立つのが好きでキリンの首になる  中博司

現在の射手の射る矢のスピードは、

上級者で、初速が毎秒・60メートルくらいである。

軍記物語などの弓射場面の記述は、

多少の誇張が含まれるとしても、

現代人の技量とは、かけ離れていると推定される。

これは、たとえば弓術伝書のなかの「遠矢」に関する、

記述をみても明らかである。

「遠矢射様の事」という箇条には、

「町の準」という項目があり、

これは四町(約436メートル)に矢が達したら。

「矢羽の一部をはぎ取り、さらにもう一度試みる」

ということをいっている。

巻尺を出てくる忘れていた時代  岩田多佳子

矢羽が小さくなればなるほど、

矢を真っ直ぐに飛ばすことは、難かしくなる。

最終的には、

矢羽の茎の部分だけを残した矢を用いて、

四町の距離を飛ばすことを、目標としている。

遠矢は、戦場では通信手段として必要であり、

また非常に高度な技術が必要とされたことから、

射手の技術のレベルを試す、手段としてもおこなわれた。

≪現代の射手では四町を飛ばす記録は達成されていない。

   最高記録は385.4メートルである≫


好奇心また引き出しを増やさねば  美馬りゅうこ

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  強弓に弦を張る

≪この時代に弓に弦を張るには3人が必要であった≫


「鎮西八郎為朝と鎌田正清」 (保元物語より)

・・・さて、夜がようやく明けたころ、

主を無くした放れ馬が一頭、義朝の陣へ駆け込んで来た。

鎌田正清がこれを捕らえて見みると、

鞍壷くらつぼ(またがる所)に血が溜まって、

前輪(まえわ)は壊れ、尻輪(しりわ)には、

10㎝もある大きな矢じりが、半分ほど突き刺さっていた。

鼻の差を逃げ切った馬の静脈  森田律子
 
正清は、この鞍を義朝に見せた。
 
「これは、筑紫の御曹司(鎮西八郎)がなされたことでしょうが、

 なんとも強い弓の腕前のようですな」

 
「なんの、為朝はまだ十八、九歳だろう。

 いまだ力量も定まってはおるまい。

 この馬も、きっと敵を脅さんとて為朝が作って、

 放したのであろう。


 臆するに足らず。正清、汝が行き、一戦交えてみよ」
 
「承りました」
 
尼寺へ行けと言われるレバニラ炒め  岩根彰子

正清はさっそく兵を集め、百騎ほどで攻め寄せた。
 
為朝は、崇徳上皇のいる北殿の最も重要な門である、

西河原面の門を守っていた。
 
「下野守・義朝の郎党、相模国の住人鎌田次郎正清っー!!」
 
と大声で名乗ると、

それを聞いた為朝は怒鳴った。
 
「ならば我が一門の郎党ではないか。

 こちらには六条判官(為義)殿がおられる。

 一門の大将に矢を向けるとは何事か。退け」

 
「ひるむな。もともとは一門のご主君ではあるが、

 今は謀叛を起こされた敵でござる。

 勅命に逆らう人々を討ち取って、者ども名をあげよ」

 
と言い終わらぬ内に、

正清は引き絞った矢を為朝めがけて、

ヒョウと放った。
 
その矢は、為朝の兜の金具にバシッと当たって、

兜のしころ(兜の側面に垂れて首を保護する部分)を射抜いた。

暴言を吐き捨て風は横殴り  石橋芳山 
 
為朝はこれに激怒し、この矢をかなぐり捨てると、
 
「おのれの様な者に、矢を使うのは無益なり。

  組み打ちにせん」

 
と言って、馬に飛び乗るや、駆け出て来た。

そのあとに、

九州から連れて来た為朝二十八騎が、

ドッと続いて来た。
 
オタケビヲアゲテオノレノカオをミロ  熊谷冬鼓

<しめた。為朝を誘きだせば、北殿は空き家同然だ>

正清は、為朝に恐れをなした風をよそおい、

百騎の軍勢を引き連れて、

川原を下り二町ほど一目散に逃げた。
 
為朝は弓を小脇に抱え、大手を広げて、

何処までも追っかけて来たが、

正清の策略に気づき兵を止めた。
 
「待て。深追いはするな。六条判官・為義殿は、

 心は勇猛ではあるが、すっかり老いられている。

 北殿を守る残りの人々も、口こそ達者だが、


 心許無い者ばかりじゃ。

小勢にて門を破られては大変だ。者ども引き返せ」

 
と、元の門まで引き返した。

勝利まで残り5分の長いこと  ふじのひろし

さて、戦いに敗れて、

上皇側についた為朝の父・為義や、

他の兄弟は捕らえられ、ことごとく首を刎ねられた。
 
為朝は、ひとり落ち延び、近江に潜伏していたが、

やがて捕らえられた。

英雄の名を惜しんで、断罪はまぬがれたが、

腕の筋を切られて、伊豆大島に流罪となった。

悪役の美学なきごとは言わぬ  森廣子
 
大島に流されたあとも、

為朝の相変わらず粗暴な性格は静まらず

やがて、伊豆諸島を従え国司に反抗するようになった。
 
そして、追討軍を迎え撃ち、

大島で敵船の船腹を浜辺から、

一本の大鏑矢(かぶらや)で、射通して沈ませ、

その後、自ら腹を切ったと伝えられる。

本懐を遂げ表札を書き替える  上野勝彦

また、生き延びて琉球に渡り、

琉球王朝の祖になったという伝説もある。

≪琉球王国の正史・『中山世鑑』や、

   『鎮西琉球記』/『椿説弓張月』 などで、

   その子が琉球王家の始祖・舜天になったという、

   伝説にもなっている≫

悪名も無名にまさることもある  木村良三

拍手[2回]

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無数を穿つ夜の眼 星の残酷  山口ろっぱ

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「保元軍記白河殿合戦」

(東京中央図書館誌料文庫蔵)

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「保元の乱」(1156)の結果、処刑された敗者たち

保元の乱で敗れた者たちの運命は、

どのようなものだったか。

取り合えず地下まで降りるエレベーター  中野六助

まず、乱の中心人物について見ると、

崇徳院は仁和寺に逃れて出家したが、

そのまま讃岐国へ配流され、都に戻ることなく

長寛2年(1164)に死去した。

その子の重仁親王も同じく、仁和寺で出家したが、

応保2年(1162)に若くして、

この世を去っている。

首筋に歯型くっきり虫しぐれ  増田えんじぇる

藤原頼長は、敗走中に流れ矢に当たり、

奈良にいた父・忠実の許まで逃れたものの、

追い返され、そのまま死去した。

その忠実は、直接参戦しなかったこともあって、

罪にこそ問われなかったが、

完全に引退して、京都の知足院で余生を過ごし、

応保2年に死去した。

躓いたところへ飾る余命表  桜 風子

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   後鳥羽上皇木像

ここに、後白河天皇はライバルを葬り去り、

藤原忠通も摂関家を完全に掌握したのである。

ただし、忠通の摂関家継承は、

後白河天皇の命令によっておこなわれたので、

忠通は、後白河天皇に従属する立場となり、

摂関家の地位は、大きく低下することとなった。

あの頃の影探してる下り坂  勝山ちゑ子

また、崇徳院側について戦った武士に対する処罰は、

苛烈を極め、源為義・平忠正・平正弘はいずれも、

斬罪に処された。

その一族郎党も、武勇に免じて、

伊豆大島への流罪とされた源為朝を除き、

参戦したほとんどの者が、処刑されている。

しかも、

為義の処刑役は、長男の義朝であり、

忠正の処刑役は、甥の清盛であった。


いずれも同族によって処刑が行なわれている。

≪平安初期の「薬子の変」以来、350年ぶりの死刑の復活であった≫

他人事と思おう 月は欠けてゆく  高橋謡子

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「保元の乱勝者たちの得た恩賞」

論功行賞は、

合戦当日の7月11日の中に早速行なわれた。

清盛は最大兵力を動員しながら、

積極的に兵を動かしていない。

にもかかわらず、

乱後、最大の恩賞を手にしたのは、

清盛と平家一門であった。

清盛は安芸守から、

受領の最上国の一つである、播磨守に栄進。

教盛、頼盛の2人の弟が、内昇殿を許されている。

滑っても溶けてもトタン屋根の上  酒井かがり

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乱において、父・為義以下、多くの人材を犠牲にし、

もっとも積極果敢に戦った義朝は、

大きな恩賞を期待した。

ところが、義朝が右馬権頭を任じられただけであった。

そこで義朝は、「これでは、過少である」

と不満を述べ、改めて、左馬頭に任じられた。

右馬権頭では、馬寮の次官に過ぎないのに対して、

  
左馬頭は、長官でずっと格上の職である≫

そのほか、8月3日には、

義康が従五位下に昇進し、

翌年の正月24日には、

義朝が従五位上に昇進している。

春の野でなければならぬ落下点  森田律子

以上のような論功行賞の結果については、

しばしば、

「信西が平家をひいきしたので、

  平家に比べて恩賞が少なかった源義朝は、

  不満を持ち、そのことが、

  『平治の乱』の原因のひとつとなった」


という言い方がされる。

はたしてそうだろうか?

ての平の感情線を握りしめ  谷口 義

確かに、平家では清盛以外の者にも、

恩賞が与えられており、

合戦でこれといった軍功を上げていない割には、

実に恵まれているようにも見える。

しかし、何も戦場での武勲だけが、功績ではない。

言い訳はよそう心に風が吹く  武内美佐子

清盛の一門は、

関わりが深かった崇徳院を見限り、

こぞって、後白河天皇側につくことで、

実際の戦闘に入る前から、

後白河天皇側の優勢を決定的にした。

その功績は、戦場での働きに劣らず大きい。

また、清盛は乱の前にすでに、

正四位下と公卿の一歩手前の地位にあり、

受領としてもすでに、肥後守・安芸守を経験している。

いつもの場所に私の椅子が置いてある  河村啓子

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    馬上の義朝

(画像はクリックで大きくなります)

これに対し、義朝は、

乱の時点で従五位下・下野守と、

まだ駆け出しの受領に過ぎなかった。

しかも、清盛の弟や子どもたちも、

乱以前からすでに貴族として、

それなりの地位を得ており、

清盛はその一門を挙げて、参戦したのだから、

各自に恩賞が与えられれば、

その合計が、膨大になるのも当然なのだ。

わたくしが歩む線です太く引く  早泉早人

両者はそもそものスタート地点が違うのだから、

乱の結果与えられた恩賞に、

格差があるのも当然だろう。

むしろ、義朝に与えられた恩賞は、

左馬頭も内昇殿も河内源氏にとって、

前人未到の待遇であり、

平家ではかつて、

清盛の父・忠盛が獲得した地位であった。

この恩賞を得たことで、

義朝は武士としても、後白河天皇の近臣としても、

清盛の有力な追走者に、躍り出たのである。

宇宙基地からは縄梯子で戻る  井上一筒

拍手[3回]

だるまの目だからだからを繰り返す  森中惠美子

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義朝軍の攻撃を受けて炎上する三条殿

(画面をクリックするすると大きくなります)

「保元の乱」の両軍の名目上のトップは、

それぞれ、後白河天皇崇徳院ということになるが、

天皇や院が、自ら戦いの指揮を取るようなことは、

もちろんなく、

実際の作戦責任者は、

信西(後鳥羽側)頼長(崇徳側)であった。

A型の幽霊とB型のお化け  黒田忠昭

この二人には、実は乱以前からの深い縁がある。

学才を政治に活かそうと志す二人は、

身分の違いを超えて、

学問上の交わりを持った仲であった。

直球を投げ合う友がいてくれる  山田葉子

康治2年(1143)、不遇をかこっていた信西が、

出家しようとしているとの噂を聞いた頼長は、

信西に同情と嘆きの手紙を送った。

これに対し頼長の家を訪れた信西は、

「どうかあなただけは、学問を捨ててくださるな」

と頼長に告げ、これに頼長は、

「あなたのおっしゃったことは、決して忘れません」

と泣いて誓ったのである。(頼長台記)

全能の神東西にひとりづつ  筒井祥文

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それから、13年の歳月を経て、

二人は敵味方に分かれて、対決することとなった。

7月10日の夜に、両軍が集結し、

いよいよ合戦という段になって、

二人は武士から、同じ作戦を提案された。

「夜が明けるのを待たず、

 今夜のうちに敵に夜討ちを仕掛けよう」


というのだ。

落とし穴の中から聞こえてくる鼾  笠嶋恵美子

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【豆辞典】 

その作戦を、信西に提案したのは源義朝、

頼長に提案したのは、源為義である。(愚管抄)

いっぽう、保元物語」では、提案者は為義ではなく、

為義の八男・「鎮西八郎」こと、為朝とされている。

為朝は頼長に、直接発言できるような身分ではなく、

意見の出所が、為朝であったとも考えられるが、

"愚管抄と保元物語" の信用性を比較した場合、

為義提案に軍配があがる。

シシャモからうるめいわしへメールあり  井上一筒

両軍で「夜討ちの策」が、

河内源氏の武士から出されたのは、

決して偶然ではない。

平将門の乱以来、東国は、

日々起こる小規模な衝突も含めれば、

数え切れぬほど多くの戦いが、

繰り広げられてきた激戦の地であり、

そこを活動の中心として、

戦ってきたのが河内源氏であった。

今日もまた命を少し使います  吉川 幸

生きるか死ぬかの、厳しい戦いの中では、

夜討ちのように、

相手の隙をつくような戦法をとるのも当然だし、

むしろそうでなければ、生き残れない。

義朝は為朝を知り、為朝は義朝を熟知していた

戦上手の双方、敵を破るには、

「先手必勝しかない」 と献策した。

無理強いをすれば午後から土砂降りに  桑原伸吉

ところが、同じ作戦の提案を受けた二人の反応は、

正反対のものになった。

信西は献策を採用して、軍勢に夜討ちを命じ、

頼長はこれを退けたのである。

乗り換えのホームで助詞がまた迷う  原 洋志

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頼長の言い分は、

「私的な合戦ならともかく、

  国をかけた戦いに、夜討ちなどふさわしくない。

  明日には、興福寺の悪僧が到着するので、

  それを待って勝敗を決しよう」


というものだ。

いつも弱気を滲ませているかすみ草  たむらあきこ

戦いは11日、寅刻に始まり、

内裏方は義朝の策によって、

一気に新院方へと攻め込んできたのである。

義朝の二百騎、清盛の三百騎、源義康の百騎余り、

第一陣として賀茂川を越え、

新院方が拠点としていた白河殿へと襲いかかった。

精米機に挽かれるヒアルロン酸  山田ゆみ葉

払暁の奇襲を受けた新院方は、

大いに慌てふためいたが、

その中で、西河原表門を守っていた為朝と、

その手勢だけは、油断なく構えており、

一歩も退かぬ戦いぶりをみせた。

あとのない矢の一本と対峙する  百々寿子

ここへ攻め寄せたのが、清盛の率いる平家勢だった。

押し寄せる武者たちに向かって、

為朝の矢が次々と放たれた。

その強弓は有名で、

胸板を射抜かれて倒れる者が相次ぐと、

平家勢もたじたじとなって、進撃の足も鈍った。

このとき、「敵は無勢ぞ、進め!」

と声を嗄らす嫡男・重盛

武将たちを制した清盛は、

「この門一つ攻め落とさずも戦は勝てる。

 敵は謀叛の輩ぞ、大義はわれらにある」


と叫んで手勢をまとめた。

いちばん大きな声を出したなは痛み止め  小林満寿夫

為義も、門から討って出ることはかなわず、

ほどなく、白河殿から煙が上がったことで、

戦勢は一気に決した。

義朝の手勢が火をかけたのだ。

火が白河北殿に燃え移ると、

崇徳上皇と藤原頼長は逐電し、

上皇側の兵も逃走。

新院方は、あっという間に総崩れとなり、

戦いは4時間で決着した。

根こそぎの痕に埋めとく軽い罪  山本昌乃

敗れた者たちの末路は悲惨なものだった。

崇徳は捕らわれ、讃岐へ流罪となった。

頼長は深手を負い、逃げ切れずに野垂れ死にした。

忠実は、79歳という高齢のため、

知足院に押し込めとなったが、

さらに哀れをとどめたのは、武者たちだ。

源為義平忠正など、主だった者たちに対して、

信西は、謀叛の罪で斬首の刑を命じたのである。

道幅を少し広げて踏みはずす  佐藤正昭

拍手[4回]

きまぐれに開けるときしむお仏壇  新家完司

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    保元合戦図屏風

11日未明、清盛、義朝、義康の兵六百騎は、

内裏・高松殿を出陣し、白河北殿へ押し寄せた。

天皇方は
義朝の弟で強弓を誇る

鎮西八郎為朝の攻撃に苦しめられたが、

義朝が白河殿に火をかけると、崇徳方は浮足立ち、

合戦はわずか、4時間で天皇方の勝利に終わった。


                    (画像は拡大して見れます)

わたくしの代わりに轢かれたのは杖  山田ゆみ葉

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「清盛参着の衝撃」

「さて、どうしたものか」

と思案に暮れたのは清盛である。

父・忠盛が亡くなり、平家一門の頭領となって3年半、

39歳の男盛り。

この騒乱をどう乗り切るかは、

己のこれからの人生だけでなく、

一門の人々の命運がかかっていた。

一天地六に神様は手を貸さず  ふじのひろし

戦になるからには、

勝つ方につかなければならない。

が、何しろ初めてのことだ。

しかも、

『この戦はどうやら武力と武力の衝突、

というものだけではなさそうだ』


摂関家の分裂を見ても、政治闘争という色合いが濃い。

新院方、内裏方の双方から招集のかかる中で、

清盛は、しきりと思案を凝らした。

白を一枚クレパスは十二色  さて  北原照子

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人々も清盛の動向を注目していた。

亡き父・忠盛が、重仁の後見役だったこともあり、

「新院方につくのではないか」

という見方が多い。

だが、上皇や摂関家に恩義があるから新院方へとか、

愛人がいるから内裏方へとか、

そうしたことで、決めるべき問題ではないだろう。

曇りなら曇りにあった眠り方  吉澤久良

どちらが優勢なのかはわからないが、

この動乱は、

『兵馬の多寡だけで、勝敗が決まるものでもなさそうだ』

考えるべきは「大義」ではないか。

強いほうが勝つのではなく、

「大義を掲げたほうが勝つ」

そういう戦になるだろう、と清盛は思った。

前向きに生きれば風も味方する  嶋澤喜八郎

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では、新院方に体技はあるか。

市中では、「新院ご謀叛!」と叫んでいる。

天皇に反逆しようとしている、というのだが、

この当時の天皇は、

後世のような絶対的な存在ではなかった。

しかも、その天皇の座にいるのは、

「あの放蕩三昧の・・・・・」

と陰口を叩かれてきた後白河である。

「謀叛」、という言葉にも重みはなく、

「崇徳が反旗を翻すのも当然だ」

と受け止める向きも多かったのだ。

二極モーター歌舞伎役者と同じ声  くんじろう

しかし、世の中の仕組みの頂点にいるべきものが、

天皇という存在ではないのか。

「泰平」を維持するために、

そういう仕組みを守り立てていくことこそが、

『大義』だろう。

後白河がどんな陰口を叩かれようとも、

彼が天皇なのだ。

「内裏方につく!」  

清盛が一門にそう告げ、三百騎を率いて内裏方に

駆けつけたのは、7月10日のことだった。

舌打ちを三回粉吹き芋になる  岩根彰子

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武家の中では、最も遅い参着だった、が、

それだけにインパクトは大きかった。

「清盛が味方についた」

というので内裏方は、大いに気勢が上がったし、

新院方の衝撃は大きかった。

柱一本立てると勢いが付いた  神野節子

こうして、鳥羽の死後わずか8日にして、

「保元の乱」の幕は上がった。

内裏方にはおよそ一千騎、

対する、新院方にも五百騎余りの武者が集結し、

賀茂川を挟んだ形で睨み合った。

双方の陣営の間を、物見の武者が盛んに駆け回り、

市中は、家財道具を積んだ荷車を引いて、

右往左往する者たちで、混乱をきわめた。

富士山が噴火するので逃げなさい   井上一筒

拍手[3回]

芒野とねずみの肝とアンチモン  井上一筒

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  悪源太義平

源氏の棟梁・源義朝の長男。

15歳のとき義平は、大蔵合戦で武名をあげ、


「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになる

(クリックすると画面は大きくなります)

「大蔵合戦」

久寿2年(1155年)、義平は父・義朝が叔父・義賢と対立した際に、

義賢の居館・武蔵国の「大蔵館」を急襲し、

義賢や義賢の舅・
秩父重隆を討ちとった事件。

このとき、2歳だった源義賢の子・
駒王丸は、斎藤実盛の計らいで、

信濃国の中原兼遠のもとに逃がれた。

この駒王丸が、後の
木曾義仲である。

義仲は命の恩人である実盛と、「大蔵合戦」から28年後の、

「篠原の戦い」において首実検の場で、

悲劇的な対面(再会)をしている。

首筋に歯型くっきり虫しぐれ  増田えんじぇる

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「主流派対反主流派」

保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が崩御した。

鳥羽院の遺志を継いだ美福門院は、

後白河天皇守仁親王・関白・藤原忠通を中心に、

鳥羽院旧臣や後白河天皇近臣を束ねて、

派閥の解体を防ぐ一方で、

鳥羽院・美福門院の意向を受けた武家・

平清盛・源義朝・足利義康・源頼政・源重成・

平実俊・関信兼、
などに参集を命じた。

ひとりづつ味方につけていく粘り  立蔵信子

一方、反主流派は、

崇徳天皇・左大臣・藤原頼長を中心に、

彼らの側近や摂関家に仕える、

源為義平忠正、大和源氏の宇野親治といった、

京の武者や、為義が呼び寄せた家人に限られていた。

河内源氏には、為義が頼賢を嫡子に選んだことで、

長子義朝とのあいだに軋轢があり、

鳥羽院は、そこにつけ込んで、

義朝を、院政派(主流派)に引き入れた。

擬態して別の世界で生きてみる  三村一子

両者の衝突は、久寿2年に大蔵館にいた源義賢を、

悪源太義平が急襲して討ち取った、

「大蔵合戦」となってあらわれた。

南関東を勢力圏に収めつつあった義朝の離反は、

大きな痛手であった。

最初から知っていたんだこの痛さ  安土理恵

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平忠盛の後家・池禅尼は、

崇徳院の乳母であったが、

美福門院の勝利を確信し、息子・頼盛に対して、

「清盛とともに天皇方に参ずるよう」 命じた。

家族同様の乳母子にまで離反された崇徳上皇は、

予想外の事態に驚き、

白河北殿に移って、武士を参集させようとしたが、

美福門院はいち早く、

検非違使を京の入口に派遣して、道を封鎖した。

思ったとおり怒ってる泣いている  奥山晴生

7月6日、宇野親冶の子は、

白河北殿に向かおうとしたが、

法住寺付近で平基盛と合戦となり、討ち取られた。

美福門院の手際のよさは、

鳥羽院が最期を意識し始めたころから、

崇徳上皇一派を、武力で制圧する、

意図を持っていたと思われる。

正面の顔がやっぱり阿修羅像  小林満寿夫

7月10日、両派の軍勢は鴨川を挟んで対峙した。

一触即発の情勢に、京の町に緊張が走る。

上皇側は白河北殿、天皇側は高松殿を拠点とした。

そして、7月11日未明に合戦は始まった。

青空へバケツ一杯汲みに行く  和田洋子

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美福門院は、藤原信西源義朝が、

先制攻撃を主張したので、

御所の警固は、官人に委せ、

武家は、新院御所攻撃に向かわせた。

合戦にいたる政治的な駆け引きは、

鳥羽院の遺志を継いだ美福門院が主導してきたが、

いざ合戦になると、

後白河天皇の乳母夫・藤原信西の手に移っていった。

丁寧に畳まれている蚊帳の外  笠嶋恵美子

崇徳院側では源為義が、

「白河北殿を守り切れないことはないが、

  万一の時には南都に移り、

  源家の家人を集めて、京に攻め込むのがよい」


と主張した。

この会議が続いてるところで、

物見に出していた武者所の官人から、

敵が動いたと報告が入った。

空き缶がころげ出てくる左耳  岩田多佳子

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平家の微妙な立場を反映して、

鳥羽院の容態が悪化したとき、

御所を守るために召集された武士の中に、

清盛の姿はなかった。

鳥羽の恩顧に報いるか、

崇徳との縁故を優先するのか、

自身の決断が、一門の運命を左右するということを、

清盛自身は痛切に感じていた。

断捨離とニアミスをした薬指  和田洋子

もともと後白河天皇は、皇子の二条が即位するまでの、

「中継ぎ」として擁立された。

ただし、中継ぎとはいえ、天皇である以上、

朝廷の頂点に君臨する絶対的な権威、

であることにかわりはない。

後白河の兄である崇徳に院政を行なう資格はなく、

崇徳方につくことは『賊軍』への転落を意味する。

風の要素たるべく不定愁訴  山口ろっぱ

清盛は悩み抜いた。

そして、清盛が結論を出したのは、

鳥羽の死から三日後の、7月5日だった。

京随一の勢力を誇る清盛が、

どちら側につくか、その戦力の差をもって、

戦いの帰趨は、始まる前から、決していた。

足首を19センチ開放す  小嶋くまひこ

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