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川柳的逍遥 人の世の一家言
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美しい言葉にもあるうらおもて  津田照子





         小田原城屏風絵
城下の人々の賑わいが描かている小田原城は、城郭内に田や川、
町までを備えており、兵糧攻めが不可能と思える程に巨大で、
難攻不落の様相があった。




「episod 1」 「猿の放った一芝居」
秀吉が死ぬまでは面従腹背の「タヌキ」ぶりを発揮していた徳川家康
家康と秀吉との戦いは心理戦だった。小牧・長久手の合戦を契機とした
エピソードが伝わっている。
『戦いの後、秀吉との和議に応じた家康と信雄だったが、家康が本心か
ら秀吉に臣従しているか』、疑う声も多い。
そこで秀吉は、のちに北条氏の小田原城攻めへの途上、先鋒として出陣
していた家康と信雄を訪ね、やおら刀を抜くと、
「信雄・家康に逆臣有りと聞く、一太刀まいらん」
と、叫んで斬りかかる格好をした。
秀吉にすると相手の反応を見るための演技だったが、動揺したのは信雄。
真に受けてオロオロと逃げ回ったが、家康は全く動じず秀吉の供の者に、
「殿下が軍始に御太刀に手をかけられた。めでたいことだ。みなお祝い
 なされ」
と、軽くいなし、その場を丸く収めたという。


かき揚げにするとお酒にあう台詞  西澤知子





           タ ヌ キ と サ ル



家康ータヌキはサルに化かされた 


戦いに利のないことを、互いに悟って和議を結び、終戦とした小牧・長
久手の合戦。これによって、それまで、三河の一地方勢力にすぎないと
見られていた家康の名は、一気に天下へ鳴り響いた。
日の出の勢いの秀吉に伍して、兵力に劣りながらも一歩も引かずに戦っ
たからである。
「小牧・長久手の合戦」の後、家康は、本拠地三河を中心に、東海地方
や甲斐・信濃に勢力を固め、秀吉との新たな戦いに備えた。
ところが、そんな家康に、秀吉は思いがけない提案をしてきた。 


どうしてもあと一ミリが届かない  吉松澄子




 
     秀吉の母・大政所
家を支える多くの門閥を持たない秀吉にとっては、頼れるのは家族以外
にはいなかった。すなわち秀吉にとって家族は宝であり、とりわけ母に
対する孝心に厚かったことは、家族に宛てた多くの書状に垣間見える。
大政所が病床にふせたときには、諸寺社に病気回復の祈祷を頼み込んだ
ほどで、愛し信頼していたがゆえに、秀吉にとって家族は最後の切り札
だったのである。




秀吉の妹・旭姫家康に嫁がせるというのである。
それは、家康と身内でありたいという秀吉の意志を示すものであった。
家康は秀吉の意を酌んで、旭姫と結婚した。
しかし、家康はあくまで三河の地を拠点として、秀吉のもとには赴かず、
対等の立場でいつづけようとしていた。
そんな家康に、秀吉は二の矢を放ってきた。
なんとか自分のもとに出向いてくれるようにと、秀吉は「自分の母を人
質に出すと、言ってきたのである。 
こうまでされては、家康も断り切れるものではなかった。


身を焦がし鳴かぬホタルがいとおしい  都 武志

 



         金ぴかの大坂城




1586(天正14)10月、家康はついに秀吉がいる大坂城に赴いた。
面会を明日に控えた夜のこと。
秀吉は前触れもなく、突然、家康のもとを単身訪ねてきて、こう言った。
「明日の面会の時は、ほかの武将たちの前で、この秀吉の顔を立てて、
 頭を下げてほしい」と、
翌日、家康は、約束どおり秀吉に頭を下げた。
その刹那、秀吉は前夜とは打って変わった高圧的な態度で、家康に言い
放った――「上洛大儀」


手も足もまるで他人のふりをする   石川和巳


万座の席で、秀吉の家来であることを見せつけるーその演出に、家康
まんまと嵌められてしまったのである。
家康は、もはや秀吉には逆らえぬと覚悟した。
家康さえ味方につけてしまえば、もう秀吉に怖いものはない。
中国・四国の大名を従えた秀吉は、その勢いをかって、翌1587(天
正15)には、早くも九州を平定、つづいて1590年には、関東の大名・
北条氏政の攻撃に乗り出したのである。
この戦で、家康は遠征軍の先鋒を務めさせられた。
秀吉軍は、家康がかけた橋をわたって進軍してきた。
総勢21万余、北条氏政の居城小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構
えを見せた。


自画像の線が微妙にズレている  立蔵信子





     『新撰太閤記 小田原征伐』(歌川豊宣)
眼下に小田原城を石垣山にて意見を交わす秀吉と家康。
石垣山城は秀吉がわずか80日程築いたといわれる。




「episode 2」 「秀吉と連れ小便」話
これは豊臣秀吉小田原征伐における一幕である。
秀吉は、家康と今後の領国経営の話をするために、小田原が一望できる
場所に「連れションしようぜ!」と誘った。
家康もこれに応じ、二人で連れ小便をすることになった。
秀吉が切り出した話は、
「北条氏政が滅ぶのは、もはや時間の問題。 そこで家康殿、ものは相談
 じゃが……、この広大な関東の地を家康に任せる代わりに、家康殿が
 長年に渡って守り続けてこられた三河を含む旧領をわしにくれまいか? 
 どうかな?」
と、いうのである。
硬く考えれば、領地替えの話をざっくばらんに言い出す秀吉であった。


熱い茶とぬるい会話のワルツです  舟木しげ子


なかなか言い出しにくい話も、連れ小便なら腹を割って話せるだろうと、
小賢しい知恵で秀吉は、家康を連れ小便に誘ったのだった。
<営々と拠点を築いてきた三河を捨てて遠い関東へ行けとは……>
あまりにも無理な要求である。
家康の家臣たちは、口々に反対した。
「これは罠に違いありません。
 殿!ここでまた、秀吉の口車に乗せられてはなりません」
ところが、家康は意外な行動に出た。家臣たちの反対を押し切り、僅か
2週間後には、秀吉の命令どおり、先祖伝来の地・三河を離れ江戸に向
かうのである。


心変わりを決断させた円舞曲  靏田寿子


――今となっては、秀吉と自分の勢力には差がつきすぎており、到底、
逆らうことはできない。しかも、秀吉が与えるという関東八か国は、
石高250万石である。今の秀吉の所領200万石よりも多い。
<それほどの好条件を出されて、なお断れば、非はこちらにあるという
ことになり、難癖をつけられて攻め滅ぼされてしまうかもしれない。
ここは秀吉の言うとおりにするしかない……>
それが家康の胸中だった…に違いない。


アドリブで生きてきましたこれからも  合田瑠美子

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鍵括弧の中が沸騰しています  雨森茂樹




     「長久手合戦図屏風」 (徳川美術館蔵)

長久手の追撃戦における井伊直政の活躍が中心に描かれており、
康政の姿をみることはできない。
右から5番目の第5扇・上部には森長可、第4扇の下部には、
池田恒興の討死の様が描かれている


第5扇  黒い旗印は森長可か

第4扇 二本の槍に倒れる池田恒興 




1584年(天正12)3月、織田信長亡き後の覇権を争って羽柴秀吉
徳川家康の両雄が対決した。
「小牧長久手の合戦」である。
両軍は、相手が動き出すのを待って睨み合ったまま、戦線は膠着状態に
陥っていた。その最中、家康の陣営から一枚の「檄」が発せられた。




屏風図にはっきりと描かれている旗印

  井伊直政    酒井忠次    森長可     池田恒興



流氷のにおいを抱いている手紙  赤松ますみ




家康ー榊原康政の檄文





榊原康政の石像  東岡崎駅近く桜城橋に立つ
右手に筆をもち檄文を書き終えた様子で立つ。






「家康ー危ない檄文の中身」
「檄」とは、敵の罪悪などを挙げるとともに、自らの主張も述べて広く
知らせる文書のこと。 これを読んだ秀吉は、烈火のごとく怒った。
書かれていた内容は、凡そ次のようなものである。
『信長公が倒れると、秀吉はその恩も忘れて、まず信孝公(信長の3男)
を殺し、今また信雄公(信長の2男)を討って主家を倒そうとしている。
これは大逆無道の振る舞いで、言うも愚かである。
一方、家康公は、信長公との親交を想って憤慨に耐えず、信雄公を助け
て大義のために立ちあがり、秀吉を討とうとしている。
天下の諸侯よ、逆賊・秀吉に味方して千載の恨みを残すより、我ら義軍
に味方して逆賊を討ち、その名を後世に伝えられよ』



セレナーデ流す壊れた鍵穴に  河村啓子




これより先の1582年(天正10)6月、信長が本能寺に倒れると秀吉
は、「山崎の合戦」で主君の仇・明智光秀を討ち、自ら天下取りに乗り
出した。 翌年4月には、「賤ケ岳の合戦」で柴田勝家を倒し、勝家に
味方した信孝を自害させている。
次に邪魔になったのは、事実上、信長の跡を継いだ信雄や、今川義元
き今「海道一の弓取り」と称される徳川家康だ。
秀吉は、信雄の家老たちの離反をはかるなど、得意の外交で揺さぶりを
かけるが、信雄は、家康に応援を求め、両者の同盟が成立した。



一丁噛み流れに棹をさしたがる  油谷克己




   
        榊 原 康 政              




これによって家康には、「主君信長の遺児に味方して逆賊を討つ」とい
う大義名分ができ、一方の秀吉には、「主家の織田家に弓を引く」とい
う弱みが生じていたのである。
家康陣営から発せられた「檄」は、秀吉の一番痛いところを突いていた。
秀吉が激怒したのも無理はない。
檄を書いたのは、徳川四天王のひとり・榊原康政で、怒り心頭の秀吉は、
「康政の首を取った者には恩賞望み次第」という触れをだしたという。



人間味嗅ぐとあの人鼻つまみ  ふじのひろし




   榊原康政小牧山檄文檄文の図  (揚州周延)



「榊原康政とは」
筆一本で秀吉を激怒させた男・榊原康政は、1548年(天文17) 三河
上野郷で生まれた。榊原氏は、代々松平家に仕えた三河武士で、康政は
15歳のときに、家康にその器量を認められお側付きとなった。
当時の三河では一向宗が強い勢力を持っていたが、康政が家康に仕え始
めた翌年の1563年(永禄6)、大規模な一向一揆が起った。
16歳になった康政の初陣の相手は、この一揆軍であった。
三河上野の戦いで、彼はめざましい働きをする。
その功により、家康から「康」の一字を与えられ、それまでの小平次と
いう名を改めて「康政」と名乗るようになった。




未使用の命につけるGPS  森乃 鈴



「三河一向一揆」は、翌年の2月にようやく平定され、家康は勢力拡大
へと動き始める。康政も家康とともに、数々の戦塵を潜ることになった。
「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄のために手痛い目に遭ったりしたが、
領国拡大のための多くの合戦では、常に先陣を切って戦い、
「あるいは城を攻め、あるいは野に戦うこと数えきれず、およそ康政が
向かうところ、打ち破らず、ということなし」
と、称えられたほどの活躍をしている。



連帯の覚悟を問うている戦禍  前中知栄





        小 牧 山 陣 形


1584年(天正12)3月、信長の遺児・信雄を支援するという大義名
分をもって家康は、秀吉と戦端を開く。
家康は小牧山に本営を置いたが、これは康政の進言によるものであった。
小牧山は標高86m。たいして高くはないが、平坦な野にあるため周囲
を一望できる戦略上の要地である。
当然、秀吉方もそこに目をつけ、ただちに配下の森長可森蘭丸の兄)
軍を8km北方の羽黒へ進出させたが、康政らが奇襲をかけて、これを
潰走させた。
秀吉軍は、小牧山の北東3kmに本営を構え、徳川軍と向かい合う。
4月6日、羽黒での敗戦の挽回を狙う森長可とその義父・池田恒興らは、
家康が留守にしている三河の本拠地を攻撃する作戦を立て、ひそかに出
発した。



ウインナーワルツ鳴門の渦になる二人  井上恵津子





            小 牧 山 康 政 秀 吉 を 追 う




しかし、家康はこの行動をすぐに察知し、康政らを率いて追撃に入った。
池田恒興森長可は、まっすぐ三河へ進むべきなのに、途中の小城の攻
略に時間をとられ、長久手の付近で徳川軍に追いつかれてしまう。
池田・森軍は、背後から急襲されて大混乱に陥り、池田恒興も森長可も、
乱戦の中であえなく討死。徳川軍の大勝利であったが、いうまでもなく
この戦いでも康政は奮戦した。
この「長久手での戦い」の後、両軍は対陣したまま相手の出方を窺って、
戦線は膠着状態に入った。
康政の檄はこのときに書かれたものである。



青かった地球に少し焦げ目つき  真鍋心平太





       初花肩衝
和議に際し秀吉から家康に贈られた信長の茶壷




結局「小牧長久手の戦い」は前哨戦の「羽黒の戦い」「長久手の追撃」
以外には、戦闘らしい戦闘は行われず、11月に秀吉からの申し入れで、
講和が成立した。
これら一連の功績に家康は、康政に千貫を加増し「笹穂の槍」を与えて、
その功を賞している。




しがらみをやっとたち切り無重力  松浦英夫





2年後、秀吉は、家康の後妻として妹の旭姫を輿入れさせることにし、
その結納に際し、家康側の使者として、榊原康政を希望した。
康政と対面した秀吉は、例の「檄」について
「あの時は腹が立って、そなたの首をとってやろうと思ったが、今は主
 君に対する忠誠の志と感じ入っている…。それを言うためにここに呼
 んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような
 武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の
 官位を贈ろう」と言い、祝宴まで開いたという




その時はその時深く考えぬ  柴本ばっは




    奮闘虚しく徳川軍に捕らえられる木下勘解由利匡




「小牧長久手の合戦、終了の模様」
岡崎城を目指し三河に侵攻した秀吉軍は総勢2万。
秀吉の甥・三好信吉(のちの秀次)が総大将を務める主力8千は、
その最後尾を進んでいた。これを徳川追撃軍の先遣隊4千5百が密かに
追尾していることに、三好隊は全く気付いていない。
1584年(天正12)4月7日早朝、徳川軍の銃口が一斉に火を噴く
と先遣隊が三好隊に襲いかかった。
凄まじいばかりの猛攻に、秀吉軍はたちまち総崩れとなり、信吉も馬を
倒され歩いて逃げざるを得ないほど。
この大ピンチを救ったのが家来の木下勘解由利匡(としただ)である。
利匡の差し出す馬に乗って信吉は、命からがら犬山城に逃げ帰った。
利匡は奮戦したものの、徳川軍の前に戦死。
ここに小牧長久手の合戦は事実上終戦した。




終止符を打った古傷又疼く  大島美智代

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黄昏の風船ガムはぶどう味  宮井いずみ





              小牧・長久手合戦屏風   (水野年方)
山手に陣を張る家康vs平地に陣を張る家康




「天下分け目の戦い」といえば「関ヶ原の合戦」が通り相場だが、江戸
後期の学者・頼山陽の評価は違うようだ。
『公(家康)の天下を取る。大坂にあらずして関ケ原にあり、関ケ原に
 あらずして小牧にあり』と、『日本外史』で頼山陽は述べている。
――家康の天下は、関ケ原の戦いではなく、小牧長久手の合戦によって
  決まった――と言っているのである。
この戦いは、信長亡き後に出遅れた家康が、「われこそここにあり」と、
ライバル秀吉に、敢て喧嘩を売ったデモンストレーション行動であった。
秀吉勢10万に対して、家康勢は1万6千。
しかし家康は、北条や伊達と同盟を結び、四国の長曾我部や根来・雑賀
衆を味方にして強気であった。実際、局地戦では家康側が勝利しており、
秀吉は数で勝りながら、とうとう家康を破れなかった。
つまり、この戦いによって家康は、自分の存在を天下に知らしめること
に成功したのである。


ここにいる私の前に立たないで  日下部敦世




       タヌキ顔の顔 
         vs

       サル顔の秀吉




家康ー天下の分け目となった小牧・長久手の戦



家康の本音―本能寺の変以降、織田家の決める「清須会議」からも排除
されてしまうなど、秀吉にずっと先を越されっぱなし家康、すべてが秀
吉の思惑通りに動いていくのを、家康は苦々しく思っていたに違いない。
浜松城・本丸北富士見櫓――酒井忠次、石川数正、本田正信ら家康の重
臣が眉根を吊り上げ、厳しい表情の家康を囲み会談をしている。
家康 「秀吉め!1年前までは織田殿の家臣の1人にすぎなかったに…
    今では、すっかり天下人気取りじゃ!」
忠次 「それにしても秀吉の勢いはすさまじいものがござる…。我らが
    甲斐と信濃を制し、ようやく五ヵ国を手中にしたと言うに…」
数正 「今、秀吉が領する国は、なんと三十ヵ国じゃ!」
正信 「もはや西は完全に秀吉に握られてしもうた」



食べてから気付いてしまう誤配送    宮井元伸



家康 「西のことなどどうでもよいわ‼ 東じゃ ‼」
3人 「……⁉」
家康 「わしの目標は東国の覇王となることじゃ ‼」
3人 「……⁉」
家康 「じゃが わからぬのは、どうして秀吉がこうも短期間に勢力を
    伸ばし得たかじゃ…秀吉に織田殿と同じような力量があるとは
    わしには思えぬ!」
家康はこの時点で、政治のダイナミズムをよく理解できていなかった。
家康 「まるでわしが一歩進む間に秀吉は、十歩も進むような気がする!
    わからぬ…」
忠次 「しかし殿! 秀吉の勢いを指を咥えて見ておるわけにはまいり
    ませぬぞ!」
数正 「左様!西を制した秀吉は必ずや、東にも手を伸ばすはず!なん
    としてもここらで秀吉の出鼻を挫かねば!」



間違いを探して膝の曲げ伸ばし  森田律子




       徳川16神将掛軸ゟ (山道翁雲岳)




家康の本音――。
秀吉信長の長男・信忠の子である三法師を推す中、家康は3男の信男
が、家督を継ぐのが筋だと考えていた。
勝家側から「味方につくよう」に働きかけがあったとき、「反秀吉」
いう点で一致しながら、結局、勝家に乗らなかったのは、一つにこの後
継問題があったのである。
また秀吉と勝家が争って互いに消耗することは、「自分にとってプラス」
だという計算もあったのだろう。
自らの力を温存しっつ、家康は、「賤ケ岳の合戦」に対しては、静観を
決め込んだ。
  

のどちんこに隠す三日分のガム  井上一筒



家康 「わかっておる!じゃが戦には大義名分がいるぞ」
正信 「それはなんとでもなりましょう。ひとつ織田信雄どのを焚き付    
    けてみてはいかがかと…」
家康 「ようし、ならば信雄を煽り、織田家再興の名目で秀吉としょう。
家康 「信雄……あのうすらバカを…か?!」
正信 「信雄殿は 武将としては凡庸とは申せ、とにもかくにも信長公
    の二男…本来なら秀吉の上に立ってしかるべきなのに…秀吉に    
    家臣扱いされ、憤っておるとの事でございます」
家康 「…なるほどのぅ!それは面白いかもしれぬ……」
3人 「……」
家康 「織田家再興の名目で秀吉と一戦交えるか! 直接の戦なら負けは
    せぬぞ ‼」
正信 「殿 今こそ…!」
家康 「秀吉なにするものぞじゃ!
    わしらの目標は、この城から見ゆる日本一の富士じゃからのぉ」
と、唇を一文字に引き結ぶ家康であった。




水団をかきまぜている目玉  笠嶋恵美子





山手の本陣から秀吉軍を見下ろす家康




「タヌキ親父の狸ぶり――賤ケ岳の戦い」
秀吉と仲良いふりをするタヌキ家康は最初から秀吉有利と読んでおり、
賤ケ岳の勝敗がつく直前に「私はあなたの勝利を願っています」といっ
た白々しい内容の手紙を秀吉に送っている。
家康は、戦況や秀吉の動きを細かく把握していたのだ。
そして、天正11年4月、勝家お市の方と自害し、秀吉大勝利の報が
もたらされると、家康は、その祝いの品として天下の名品「初花肩衝」
を贈っている。茶の湯好きな秀吉は大喜びし、家康が秀吉と勝家両方に
距離を置いていたことは、これによってチャラになる。
こうして表面上は、秀吉と友好的な振りを装いながら、一方で北条氏直
に娘の督姫を嫁がせ、関東を統べる北条氏との同盟を結ぶなど、家康の
「タヌキ親父」ぶりはさすがである。



白菜のやや媚びを売るかたち  蟹口和枝



「賤ケ岳の合戦が終わって――約1年後」
1584年(天正12)3月、秀吉打倒を信雄に焚きつけた家康は信雄
とともに秀吉と戦うべく浜松城を出陣した。「小牧長久手の戦」である。
その報を受けた秀吉は、
「なにっ⁉ 家康が信雄と組んで兵を挙げたじゃと! 家康めはわしが
九州平定を進めるに目の上のたんこぶ  ‼ むしろ戦は望むところじゃ ‼ 
天下人たるわしの力をとことん見せてくれるは  ‼」
と、いきまき10万の大軍を率い、濃尾平野へと向かい犬山城へ入った。



トナラーがハシビロコウの顔で来る  小池正博




 本多忠勝に思い切り暴れてこいと発破をかける家康




一方、家康は犬山城近くの小牧山城に先着していた。
家康 「物見の報告では秀吉の兵は10万ときくが…なるほど犬山一帯
    は兵の海…秀吉は是が非でも決着をつける気じゃな!」
忠次 「こちらが1万6千でござるから ざっと5~6倍」
数正 「なんのっ! 戦は数だけで決まるものではないわ!」
家康 「この戦は秀吉に一泡吹かしさえすれば それでいいのじゃ」
忠次、数正唖然の表情をみせる。
家康 「勇みすぎず、じっくり構えておれば、必ずむこうがてを出して
    くる…そこを叩けば…」
忠次、数正唖然!
家康 「まっ、この戦は負けなければよい…」
それからおよそ10日間…両者の睨み合いが続いた。
そして焦れたように秀吉は動いた。
天下人の矜持が、是が非でも家康を屈服させようとしたのである。
1584年(天正12)4月6日の深夜、徳川勢の大半が小牧山に集結し、
守りが手薄となっている家康の本国・三河に1万6千余りの別動隊を攻
め込ませようとの作戦であった。



迷ったら音符になって突き進む   北山まみどり





          本多忠勝軍功図
加藤清正(みぎ)と槍を交える忠勝



「秀吉vs 家康   唯一の直接対決ー小牧長久手の合戦」
家康秀吉が満を持して激突した「小牧長久手の合戦」は、智将同士の
名勝負だといわれている。しかし、長久手の戦い以外にほとんど合戦ら
しい合戦は行われていない。
山に陣を張った家康は山に、平地に陣を張った秀吉は平地にと、それぞ
れ自分の土俵に相手を誘い込もうと、10日以上も延々知恵比べ・我慢
比べを展開したに過ぎなかった。いやそれどころか、何とか相手を怒ら
せようと、あの手この手、まるで子どもの喧嘩のような、挑発行為を行
ったりしている。



伸び切った生命線があくびする  田中 薫



秀吉家康に一戦交えようという内容の手紙を送ると、家康はその返事
をわざと部下に書かせて送り返す。
これは格下の者に対する扱いで、つまり、秀吉をおちょくったわけだ。
怒った秀吉は、敵陣近くまで迫り、尻を向け叩きながら大声で、家康を
侮辱する言葉を発した。家康もムキになり、2騎の武将を秀吉の前で走
らせ、相手は手も足も出せない「臆病者!」だとからかう。
天下の智将どころか、子どもでもやらないような低レベルなやり口だが、
もちろん、こんな下らない駆け引きばかりだったわけではなく……、
戦国らしい武勇の士の逸話も生まれている。



プロペラをつけたら笑ってくれますか  酒井かがり









「その逸話のひとつ」
家康の忠臣・本多忠勝は、主の進退の時間稼ぎに、わずか5千の兵を率
いて出陣した。3万8千の秀吉軍に対して、小川を隔てて並走してみせ
た忠勝は、さらに馬を川に乗り入れ、悠然とその口を洗ったという。
士卒がはやって鉄砲で撃とうとすると、秀吉は、
「あのような者は生かしておくものぞ」と言って止めた。
その武勇を愛するとともに「人たらし」の秀吉は、いつの日か忠勝を自
陣に招きたいと考えていたのだ。



スイッチを切りなさいよと茜雲  新家完司

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藻になった屍が絡む高瀬舟  くんじろう




               新 撰 太 閤 記  
左から佐久間盛政・柴田勝家・羽柴秀吉
 (柔能勢剛)
秀吉は勝家に何を言い寄っているのか…!盛政の顔が怖い。




秀吉が惜しんだ猛将の潔くも意外な死に様

賤ケ岳の敗将・佐久間盛政は、秀吉の軍勢に守られながら、槙島へと向
かった。その身を縛る縄はなく、乗り物に乗せられ、優雅ともいえなく
もない道中である。さらに、槙島到着後には、秀吉の腹心・蜂須賀正勝
(小六)の来訪を受け、
「これからは勝家の代りに、この秀吉を慕ってほしい。近々空いた国が
   あれば、それを貴君に進ぜる」
というメッセージ迄受け取っている。
(実際、秀吉は、盛政に肥後を与えようとしていたともいう)
 一代で成り上がった秀吉には、いわゆる譜代の家臣がおらず、有能な
武将は喉から手が出るほど欲しかった、というお家の事情は確かにある。
とはいえ、一回刃を交えただけでここまで思わせたのだから、尋常では
ない。 (槙島=京都府宇治)




海の絵はどこを切っても濡れている  村山浩吉





佐久間盛政は討死を覚悟し、鉄棒ひっさげて単騎、敵陣の中に駆け込む。
そして、秀吉の馬印に近づき、馬上の秀吉に襲い掛かろうとするが……、





秀吉は「尾籠なり下郎め」と一喝してかっと目を見開いた。
その眼光の鋭さにたじろいだ盛政は、無念ながら退散する。



家康
ー鬼武者・佐久間盛政



佐久間氏は、鎌倉幕府の創設者である源頼朝の有力御家人・三浦義明
末裔である。尾張国御器所(ごきしょ)を本拠に勢力を伸ばした佐久間
一族は、12代盛通の息子たちの時代に、織田家に仕えるようになった。
4人の兄弟のうち3男・朝信の子が、信長の重臣でありながら石田本願
寺攻めの不手際を責められて追放された信盛であり、4男・朝次の孫が
盛政だ。 (御器所=名古屋市昭和)



風を切る肩に一片のはなびら  下谷憲子



1568年(永禄11)9月、のちに室町15代将軍となる足利義昭とと
もに、織田信長が上洛をする。このとき、15歳の盛政は初陣を飾るが、
一方で従軍していた父・盛次が、行軍途中の戦いで命を落すという不運
に見舞われた。父の死により盛政は、信長の重臣・信盛が率いる佐久間
一族を離れ、母の実家の多大な影響を受けて育つことになる。
母・末森殿の兄が柴田勝家であり、実子のない勝家は盛政を可愛がった。
以後、盛政の人生は、常に勝家とともに推移していく。



がむしゃらにおのが運命切り開く  都 武志



特に盛政が活躍したのは、一向一揆との戦いにおいてであった。
信長もそれを認めていたようで、一揆を制圧した勝家に、越前を与え、
北陸方面の最高指揮官に任命した上で、
「盛政を加賀方面討伐の大将に任じ、これを制圧したらすべて盛政に
 与える」よう勝家に命じたという。
1576年(天正4)盛政弱冠23歳のときのことである。



存在を点で表し無限大  日下部敦世




              絵 本 太 閤 記 卷 4




1579年(天正7)、京で行われる正親町天皇の観兵式「大馬揃え」
に臨むため、柴田勝家はじめ織田諸将が上洛した。
しかし、北陸防備が手薄になることを恐れた勝家は、盛政を留守番とし
て尾山城(のちの金沢城)に残す。 すると案の定、一向一揆が蜂起、
鳥越・二曲両城を奪取してしまった。
これを撃滅すべく馳せ参じた盛政は、槍を大車輪のごとく振り回す勇猛
ぶりで、たちまち、2つの城を奪い返し、一向宗門徒から「鬼玄蕃」
恐れられた、という。



貸金庫に入れる二つ目の命  合田瑠美子



賤ケ岳での不覚
本能寺の変に信長が倒れたという一報が勝家のもとにもたらされた時、
盛政は、「すぐさま京へ攻め上りましょう」と、進言した。しかし、
慎重派の勝家は、北陸情勢が予断を許さないことを理由に、これを退け
ている。結果、
勝家は、信長没後の織田家中で「秀吉に後れをとる」ことになり、挽回
するためには、もう秀吉を倒すしかない。
こうして北陸から勝家が南下し、秀吉がこれを迎え撃つという直接対決
は回避できない状況になった。
秀吉は勝家を阻むため、余呉周辺に着々と砦を築いていった。



意地という厄介者を飼っている  通 一遍




しかし、盛政には勝算があった。
秀吉軍の主力1万5千が岐阜の織田信孝を討つため余呉を離れるという
情報を入手しており、この間に砦の普請の中途で、兵員も少ない賤ケ岳
砦と大岩山砦を落とせば、勝家方にとって有利になるという判断をした
のだ。 盛政はまず、3砦の真ん中に位置する大岩山砦を攻めようと、
勝家に進言した。ところが勝家は難色を示す。
歴戦の将は、敵陣の奥深く攻め入ることの危険性を熟知していたのだ。
最終的には、盛政の策をいれたものの、大岩山陥落後はただちに帰還す
ることを条件とした。



岐阜までの逆に走っている時間  宮井いずみ



勇躍、大岩田砦に向かった盛政は、豪傑として知られる中川清秀が守る
この砦を難なく落とした。その戦いぶりは「合戦の申し子」盛政の面目
躍如であったという。
だが勝家の待つ玄蕃尾城には、戻らなかった。
勝家から何度も督促があったが、「将兵を休ませるため」などと称して
兵を引かない。盛政は、秀吉が岐阜で戦っているものと信じ込んでおり、
周囲の砦を砦を次々と落とすつもりでいたのである。



腹心の友森の中から出てこない  靏田寿子




捕縛の盛政に「仲良くやろう」と声をかける秀吉。




しかし、秀吉は戻ってきた。大垣で「盛政、大岩山砦襲撃」の報を受け
た秀吉は、本能寺の変後の「中国大返し」同様の素早さで余呉に戻って
きたのだ。 勝家が危惧した通り、敵中に孤立した盛政軍は、敵に推し
包まれ潰滅した――。
賤ケ岳の合戦後、捕縛され「まな板の鯉」となったとき盛政は、秀吉の
「これからは勝家の代りに、この秀吉を慕ってほしい」という申し出に
「お申し出は嬉しいが、命長らえてお会いすることがあれば、きっと
 あなたを討つでしょう。是非とも死罪をお申しつけください」
と、答えたという。



ボタンひとつ間違え武士を降りる  酒井かがり



この潔さに感嘆した秀吉は、生粋の武士である盛政に対して、これ以上
の勧誘は無駄であろうと判断し、切腹を申しつける。
しかし盛政は、「武士の情け」である切腹を拒み、あくまでも処刑され
ることを望んだ。
自己の判断ミスから、勝家を死に追いやったという悔悟の念から敢えて
「敗者らしい」死に様を選んだのかもしれない。
秀吉の最後の厚意として贈られた派手な小袖に身を包んだ盛政は、6尺
の長身に縄をかけられ、車に載せられて、京都市中を引き回された。
1583年(天正11)5月12日、槙島にて斬首。
享年30歳、勇士として恥ずべきところのない最後であった。



誰もいなくなるあさってのニュース  森田律子




宣教師のルイスフロイスが「安土城に比肩する壮大な城」と、
いった北ノ庄城のものと伝わる鬼瓦。


       北ノ庄城




episode・「不幸続きで改名された北ノ庄城」

越前一向一揆の鎮圧に功があったとして、信長勝家に越前8郡 49万
石を与えた。その後8年もかけて建設されたのが北ノ庄城で、城下の
規模は、信長の居城・安土城にも匹敵したともいわれている。
勝家を祀る柴田神社に、城の天主閣と本丸があったといわれるが、
城跡に福井城が築城されってしまったので、正確な位置関係はわかっ
ていない。
ところで、勝家が悲運の死を遂げて北ノ庄城が落城した後、この城の
城主となった者には不運がつきまとった。

徳川家康の2男である結城秀康は将軍になれなかったし、秀康の長男・
松平忠直は、不行跡で配流の憂き目に遭う。
北ノ庄には、「勝家の怨念」が籠っていると噂された。
そこで不吉な「北ノ庄」から、幸運をもたらすという意味の「福居」
(ふくい)に改名したのが、秀康の2男松平忠昌。
現在の「福井」となるのは、江戸前期、元禄の頃である。



真夜中のコンセントから細い声  富山やよい

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喉元を過ぎれば明日のカレンダー  細見さちこ




         賤ヶ岳合戦図屏風  右隻
大岩山・岩崎山の攻防と佐久間勢の撤退、秀吉軍の追撃の模様を描く。
(中央部分に「七本槍」の戦いの様子も描かれている)
実際の激しい戦闘を忠実に描いたというより7人の目覚ましい働きぶり
を象徴的・伝説的に描き出したもの。


織田信長の天下統一の夢への野望は、「本能寺の変」によって、その命
とともに炎に焼かれてしまった…信長の跡を継ぐのは誰なのか?
変直後、いち早く謀反人・明智光秀を討ち取った羽柴秀吉は、事実上、
信長の天下統一の継承者として名乗りをあげることとなった。
しかし、信長の3男・信孝や信長の家臣の中でも、屈指の実力をもつ
田勝家らは、秀吉の政策に不満を募らせ、次第に対立を深めていく。
天下人への野望をさらける秀吉の運命の瞬間に立ち塞がるのは、
秀吉の若武者・7人であった。




 『賤ケ岳山頂から柴田軍の砦を見下ろす七本槍』 (歌川豊宣画) 
中央・秀吉 手前右・福島正則 手前左・片桐且元 左奥・加藤清正
福島正則後右から加藤嘉明 脇坂安治 平野長泰 木の横・糟屋武則


鉛筆の重い日もある句読点  荒井加寿


家康ー賤ケ岳七本槍



      福島正則
尾張の桶屋を父に、秀吉の伯母を母に持つ正則は、秀吉にとっては従兄
弟にあたる。そうした血縁の近さもあってか、天正6年以来、秀吉に近
く仕え、早くからその能力を認められていた。
賤ケ岳の合戦で拝郷五左衛門を討ち取ったのは正則だという説もあり、
恩賞は「七本槍」の中でも随一の5千石だった。
そのことが加藤清正らの不満を生んだともいわれている。
(天正6年=1578年)


秀吉子飼いの若武者たちのデビュー戦
1583年(天正11)3月には、秀吉勝家の両軍が、北近江で対陣、
同時に岐阜で信孝が挙兵という形で対立は戦いへと発展する。
秀吉は信孝を討つため、4月16日に大垣城へ入るが、その隙をついて
勝家は、北近江に残る秀吉の留守部隊に襲いかかった。
引き返すべく秀吉が大垣を発ったのは、4月20日午後4時頃、ひたすら
駆けて、夜には余呉付近にまで全部隊を集結させる。
大岩山砦で秀吉軍を待ち受けていたのは、勝家の甥・佐久間盛政である。


再起する朝の光を身に受けて    興津幸代



       加藤清正
秀吉と同郷出身の清正は、9歳の頃から秀吉の台所方に仕えた。
秀吉のもとで元服した後は、虎之助清正と名乗り「虎、虎」と秀吉夫妻
に可愛がられた。清正の母は、秀吉の母・大政所と従姉妹同士、即ち、
秀吉と清正は又従兄弟の関係でもあった。
賤ケ岳では敵将・山路将監と槍同士の一騎打ちを演じ、見事その首を討
ち取る。一説には、拝郷五左衛門の鉄砲頭の首だったともあるが、いず
れにしろ、誠実で忠誠心の厚い臣下だった。

佐久間盛政隊は、秀吉軍のあまりの勢いに一旦は退くものの、21日未明
撤退しながら、鉄砲隊で待ち伏せるという逆襲をかけ、激しく抵抗した。
折よく柴田勝政(盛政の弟)隊の援護も得られ、盛政の兵はほとんど無
傷で権現坂辺りまで撤退することができた。
しかしその間、秀吉の舞台もさらに人数を増し、賤ケ岳に
その兵力を集中させていた。そして21日朝、盛政の部隊に合流しようと
動いた盛政隊めがけ、秀吉の号令一下、賤ケ岳山頂から精鋭たちが駈け
下りていく。
その隊列の中に、福島正則、加藤清正、片桐勝元、脇坂安治、糟屋武則、
加藤嘉明、らの姿があった。
後世「賤ケ岳七本槍」と語り継がれる若者たちである。


天空と綱引きをする凧の糸  大森昭恵



      片桐且元
浅井長政の重臣であった直盛(且元)の父・直貞は、姉川の合戦後信長
に寝返って秀吉の配下となっている。従って且元も弟の貞隆とともに、
幼少の頃より秀吉に仕えることになった。
賤ケ岳の合戦では、敵将・拝郷五左衛門を討ち取ったといわれる。
秀頼付きの家臣を監察する役目を仰せつかる。


賤ケ岳七本槍の戦いぶり
隊列を乱して敗走する勝政の兵に、激しく襲いかかる秀吉軍の兵たち。
なかでもめざましい働きをみせたのが、秀吉子飼いの若き武士たちで
あった。
一方、盛政、勝政両隊にも、勇名を馳せる武将は多い。
信長配下随一といわれた拝郷五左衛門や剛力の誉れ高い山路将監、宿屋
七左衛門らは、単身敵方に乗り込み、夥しい数の秀吉軍の兵を槍で突き
斬り殺していった。


弱点があって人間らしくなる    大高正和




   糟屋武則(かすやたけのり)
播磨三木城の別所長治に属していたが、天正6年頃から秀吉の小姓とし
て仕え始めたといわれる。後に、その三木城は、秀吉によって攻められ
落城。賤ケ岳では、秀吉の弟・秀長の近習である桜井佐吉が、宿屋七左
衛門の槍に追い詰められていたところを、武則が脇から突きかかって、
宿屋を討ち取った。その槍さばきは電光の閃きのようだったという。


しかし、「七本槍」に取り囲まれるうちに彼らの勢いも失せ、1人また
1人とその命を断たれていくのだった。隊長の勝政自身、戦闘のさなか
無念の討死をしている。戦場となった余呉湖畔には兵たちの死体が溢れ
彼らの流す血によって湖面が赤く染められたという。
敗色濃厚となるも、盛政は、諦めることなく部隊を立て直して反撃に出
ようとしていた。
しかし、援護を期待していた前田利家隊の突然の撤退によって盛政隊は
壊滅、勝家本隊も、やがて窮地に追い込まれることになる。


ふるさとがだんだん点になっていく 小出順子



       脇坂安治
近江国の生まれ、永禄12年の丹波黒井城攻めが初陣で、最初は信長
仕えたが、のちに秀吉配下となり、三木城攻め、賤ケ岳と戦功を重ねた。
秀吉に仕えたいあまり命令に背いて伺候したため、何度も秀吉の叱責を
受けたが、結局、その志と熱意が受け入れられて信頼を勝ち取ることが
できたという。武功だけでなく和漢の学門に通じ、和歌をも嗜む意外な
一面を持っていた。 (永禄12年=1569年)


柴田勝家は、やむなく北ノ庄城へと敗走し、数日後には妻・お市の方
ともに自害して果てた。
ここに、賤ケ岳の合戦での秀吉の圧勝と天下人としての運命が決定的と
なる。その勝機をもたらしたのが「七本槍」のめざましい働きであった。


戦争が終わる大きな穴あけて  板垣孝志



      加藤嘉明
13歳の頃から秀吉の養子・秀勝に仕えた嘉明は、秀吉の播磨出兵に際
し、秀勝の許可なく秀吉軍に参加する。このため、秀吉の正室・おね
不満を買うが、秀吉は義昭の志をくみ、そのまま直属の軍に加えた。
以来、秀吉のあるところには必ず加藤義昭の姿があり、常に冷静に次々
と武勲を立てたという。


賤ケ岳での武勲を受けて、秀吉からは手柄の大きい者たちへ「一番槍」
と、称える感状と格別の恩賞が与えられた。
福島正則には、5千石、他の6名には、それぞれ3千石である。
それ以外に秀吉の弟・秀長の家臣であった桜井佐吉と秀吉の養子である
秀勝の家臣、石川兵助にも、恩賞を与えられたが、この2名は、秀吉の
直臣でなかったため後世「七本槍」には数えられなかった。


モニターの癖に暑いとか言うな  森 茂俊



      平野長泰
長泰秀吉に仕えたのは、天正7年21歳の年からというから、賤ケ岳
の合戦の時には24歳であった。その出自や具体的な働きについては、
明らかではないが、数々の戦功によってのちには豊臣姓を賜り、遠江守
にまで任じられた。 (天正7年=1579年)


「賤ケ岳七本槍」と、呼ばれた男たちはいずれも、若くして秀吉の配下
に入り、20代という充実した時代に、賤ケ岳の合戦に参戦して存分の
働きを見せた。
幼少の頃から小姓として仕えた者、秀吉と血縁関係にある者、強い志を
貫いて仕え、秀吉の信頼を勝ち得た者など、「馬廻」と呼ばれ、親衛隊
のような役割を担った近習たちは、主人と個人的に強く結びついた特別
な家臣だった。
この戦いの後も秀吉は、彼らを優遇して生涯そばに置き、ともに戦い続
けた。
天下人を目指して猛進する秀吉にとって、賤ケ岳の合戦を勝利に導いて
くれた子飼いの若者たちこそが、かけがえのない腹心の部下だったので
ある。


過去形で語るカーブミラーのゆがみ  山崎夫三子

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