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川柳的逍遥 人の世の一家言
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打倒の木村の中に不死身という木村 長宗白鬼




豊太閤の花見行列もコロナで中止になった醍醐の桜


コロナ・ミステリーは、20年2月3日に横浜港に到着したクルーズ船
「ダイヤ
モンド・プリンセス号」から始まった。3千700人の乗客の
うち10人から、新型コロナウイルスの陽性結果が出たというのである。
ウイルスは動物や人間に寄生しないと生きられないから、寄生先の細胞
を利用して自分を複製する。その時に性質が変わったり強化したりする。
毒が強くなりすぎて、自ら消滅してしまうこともあるが、ウイルスだっ
て存在してしまえば、もはやひとごとではない。ウイルスの好きにさせ
てはいけないのである。


京極で厄年の手を見て貰う  狭山かん一


そこで政府の感染症対策室は、横浜沖でクルーズ船が停泊中に菌を退治
してしまおうと考えた。それが1854年、黒船が品川沖に突如として
現れて以来の大騒ぎになった。クルーズ船を港に入れない鎖国再来の日
本政府にヤンヤの非難が飛びかったのである。当時の幕末の黒船から、
大砲が数発発射されたときと同じ状況である。ところがどっこい、コロ
ナは正体不明である。東京の屋形船、愛知県のスポーツジム、北海道の
雪まつり会場の仮設テントなど、各地に脈絡なく現れるウイルスの挙動
に専門家は悩んだ。そこで打たれた策が「不特定多数が集まって接触す
る場所」
自粛要請である。その「自粛自粛」の虚しい叫び声が街中に
響き渡れば、お花見もいろんなイベントも、そして川柳の各地の句会も
「春はのどかにして哀れ」とひねくれつつ自粛する。


太閤出馬天津春日の印具して  川村伊知呂 (小林一三)




(画面をクリックすると拡大されます)

江戸百川楼に催された天川屋俵平の百回忌記念句会


「句会の変遷」 昭和二六年番傘ゟ (岸本水府記)



川柳の団体は、その作品発表機関として雑誌を持ち、そして毎月一回の
句会を持っている。句会は作句道場という風にいわれているが、忙しい
人はまたそれを唯一の作句の日としている。句会もいろいろの変遷をみ
て来たが、今は全国のどこへ行っても大体において、同じような様式の
もとにも催されているようである。(何か特殊な機会でもなければ、写
真に撮っておくようなことはないので、その資料は集めにくかったが)
ここにある「四つの会」は、それぞれの時代の色をみせている。



口元は美空で唄う靴みがき 脇田梅子





 (拡大してご覧ください)
大正6年・大大阪句会


文政9年1月に四代川柳を中心に、江戸百川楼に催された天川屋俵平の
百回忌記念句会は、当時として珍しい機会だったという。会場の正面に
賞品を山と積んであるが、如何にも昔の会らしい。思い思いに座を占め
ているのも画工の技巧があるにせよ、今の緊張ぶりとは大きな差を示し
ている。
 時は過ぎて、大正6年の大大阪句会は、渓花荘の座敷を用いているが、
みな和服であること、今の会のように、出題のビラが掲げられていない
こと、20人くらいより集まらなかったことなどが見られる。
それが昭和12年になると、八十畳敷きの仏教講義所共済会で麦畑のよ
うな線を描いて、多い時は170人の作家が背中合わせで句箋を手にし
た。正面のビラは、この頃すでに選挙演説会のように貼りめぐらされた。



虚子の句を押し頂いた吉右衛門 三浦太郎丸 




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昭和12年・仏教講義所共済会での句会


今の会は、昭和26年11月の番傘例会の結果でみるように、みな洋服、
もう下駄を玄関に脱ぐような大正頃の趣は、夢にも見られなくなった。
最近の調べでは川柳家の平均年齢36歳強、サラリーマンが絶対多数を
占めているだけに、一日の仕事を終わって、その足で出席する。まった
く「働く者の詩」「街の詩人」としてのあり方を目の当たりにみること
ができる。一夜七十八題、一題三句づつ、各題に選者があって選評する。
大正頃は、集句を1人が披講して、出席者からいいと思った句に「頂戴」
の声をかけてもらう。いわゆる「頂戴互選」だった。
今は出席者も多いので、個人戦になって、司会者が進行させて能率的に
進む。以前のように、親しく楽しく研究しながら作る方がいいという人
には、別に小集を催してその要求を満たしている。




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昭和26年11月・番傘例会


心を洗う朝比奈を聞く茶房 大石文久 (朝比奈隆)


選をするということは、句の進路を示すことになるから大切なものにち
がいない。また課題のよしあしは、その句会の収穫にも影響するから、
吟味して出すべきで、その指導者の望む句境と句風は題を課す時に、す
でに定まったとみて差し支えない。
 句会でお互いが句三昧に入り、醍醐味に浸る一瞬の静けさは、尊いも
のがある。句は折にふれての感動から生まれるのを建前にするが、句会
の句にも日ごろの思いが、調子よくまとまって、天下の名吟を生むこと
があるのは言うまでもない。


洛北に歌聖たずねる老名妓 近江砂人 (吉井勇)


戦後、大会ばやりとなった。川柳大会がさかんに催される。中には30
人集まった大会も珍しくないようになった。大会には景品がつきものの
ようだが、おもに関東に流行り、西日本では、稀にあるくらいである。
一句の成績に市長賞がでる。これは関西にも年に一度ある。番傘社主催
のものには賞品や景品を出さない。創立以来出したことがない。昭和7
年以来、天地人さえ廃止した。


安吾の乗車券売場は知っている 磯野いさむ (坂口安吾)


その天地人廃止の言分は、すなわちこうである。
天地人五客軸吟という呼称は月並俳人の連座で用いた古くさいもので、
「天地人」とは、宇宙間の万物を分かったもの、作品価値をこの支那風
な呼び方で呼び方で評価することが時代にあわない。「五客」とは膳碗
などの五人前のことをいい、五つの佳句(客)という洒落から来ている。
「軸」というのは「自句」の洒落で、以上は、昔風の連座で出す、例の
「巻」と称する選者から入選者に送る月並な句帖に、松と鶴などの判を
捺してつくる時に用いられる宗匠好みの称呼である。だからやめたい。


馬主席に吉川英治小さく居る 塚越迷亭


よしそれが特選、佳作などとするにしても、これも、もう専門家の集ま
りには無い方がいい。ずらり肩を並べて同じレベルに選をして、あとは
その道の人と世に問うようにした方が、「選」という性質と時代感覚か
ら考えても、その方がいいというのである。
例会も小集も大会も提出された句を選者が選して、作者と半々の責任を
もって天下に示す。-だけでよい。スリルを味わうような気になっては
ならない。それでこそ、選者も初心者も共に作句できる。句会の理念は、
その方向に進むのが本当のようにおもう。
更に進んでは、句を清記したり、無記名にしたりしないで、雑誌へ本詠
の投吟する場合のように、堂々と記名して、選を経るようになってよい。
もっともっと、句会に磨きをかける必要がある。


京マチ子瞼の母にかくも泣く 平井与三郎



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水府還暦祝賀全国川柳大会(52‘1月15日)




番傘川柳創刊に関して

「番傘川柳」は大正二年一月十五日に創刊した。
創刊のコトバは「こんなものを出すことにした ト百」とだけ。
(ト百とは、西田当百のこと)とぼけたようなものがよいと、みな喜んだ。
月刊でなく、気の向いた時に出す。ほしい人にタダであげるという規則。
発行部数は200部、印刷費15円50銭なり。創刊号は131句が採録
されている。32の題と句。7人のエッセイ、楽屋落、規から成り立って
いる。とにもかくにも「気のむいたときに出す」とある会規から、今日の
令和2年4月まで107歳へと続いている。


圧巻は情婦杉村春子拗ね 岡田紘一郎


その創刊号に載った句は。(選評は蚊象がした)
上燗屋ヘイヘイヘイと逆らわず 当百
 この句は軽味の上乗なものであるが、豆百先生が上燗屋になりき
ったかのように、温情が滲みでている
鹿の餌を売る婆さんはもう死んだ  半文銭
 折々句会などの作句中に思い出す事さえある。
散文のようで、リズムが確かで、技巧の目立たぬよい句である。
気紛れに五重の塔へ独り者  五葉
真面目な顔をこちらへ向けた五葉が、全く別人のようにこの作者の名乗
りをする。人を笑わせる句を作りながら、己の侘しさが五葉にあった。
米俵ただ堂島の贔屓より  蚊象
うれしく逢い、楽しく作った番傘創刊号の句を見て、今昔の感に堪えぬ
ものがある。


「奈良」 奈良七重終日鐘の鳴る所  水府
「流連」 富田屋の客のつもりで風呂へ行き  半文銭
「紙屑」 軍服を出されて困る紙屑屋  五葉
「将棋」 王手飛車是で待ったの三回目  半文銭
「洗髪」 洗髪二人廓の朝湯から
「花道」 幕間の花道へ子が這い上がり  茶十
「糠袋」 糠袋入れながら直ぐ帰ります  当百
「身売」 いづれが不屈駈落と身売沙汰  縁天
「後朝」 後朝(きぬぎぬ)に番傘はチト重た過ぎ  五葉
「河豚」 よう顔を見といて呉れと河豚を食い  半文銭


「廊下」 人数の膳が廊下で勢揃ひ  力好
「鉢巻」 埋立地鉢巻のまま飯にする  水府
「南地」 逢状は嬉しく潜る法善寺  半文銭
「駈落」 死んでもと二人は追って困らせる  三日峯
「桟敷」 桟敷から誰かを招く手の白さ  水府
「床屋」 トロトロとすればおつむを洗いませう  茶十
「双子」 代書屋の双子ですかと問ひ返し  蘆村
「近道」 不案内傍目もふらず遠回り  とく松
「前垂」 前垂の儘普請場へ親旦那  当百
「酌」  独酌の財布を傍に投げた儘  奇萌
「俵」  逆まにとる炭はもう了ひなり  水府
「雑」  階級もなく敷島は売れて行き  水府


「お開き」 お開きに早やお俥の声がする 五葉
「守護霊」 旅戻りそれ安産のお守りだ 半文銭
「独り者」 配達に小言言われる独り者 常坊
「東西屋」 東西屋橋を渡ると三味を弾き 喜月
「裏梯子」 病人があるのかと聞く裏梯子 蚊象
「差向ひ」 いつの間に灯の消されたる差向ひ 縁天
「蓄音機」 変哲もないはお茶屋の蓄音機 水府
「頼母氏」 皆落しそうな初会の顔が寄り 半文銭


※ 楽屋落ち
① 「番傘」はこっそり発刊するはずが、言いたがりの水府が、
「つばめ」の川柳日記に書いたため、同人間から叱言を頂戴。
② 半文銭曰く「五葉と歩くと話しかけないと何にも言わない。
水府と歩くと飲みたいなぁと思い、力好と歩くと電車が気になる。
蚊象と歩くと芸者に声を掛けられたく思う。当百と歩くと、柳会の罵倒がしたいと思う」
③ コロナはいつ収束するのか誰にも分らない。たとえ収束したとしても、「ゼロになったかどうかは神様のみぞ知る」と馬鹿の壁の養老さんがおっしゃっておられました。くれぐれも気をつけてまいりましょう。



悪口が聞き慣れて居る上燗屋  当百

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さよならは瞼にかいておきました  高橋レニ




住職・太原雪斎「臨済寺」の手習いの間


この部屋で松平竹千代は、太原雪斎から兵法から儒学・易学・医学まで
学んだ。そこで竹千代は、戦国武将たちの読み物『吾妻鏡』に出会い、
13歳で伊豆へ島流しにあった源頼朝の生涯に惹かれた。人質生活を強
いられている自分の宿命と似ている。その上、頼朝はその苦難を乗り越
えて、天下を取っている。竹千代は「頼朝を目標に生きていこうと」、
この学びの間の中で、心に誓ったという。
 太原雪斎とは「小豆坂の戦」で今川勢を指揮して、三河安祥城主・
織田信広を攻め捕虜とすると、信秀と交渉し織田家に奪われていた人質
の竹千代との人質交換を実現させて、今川家のもとに取り戻した。竹千
代は善得寺にはいり、今川義元が幼い頃に教えを受けたように、雪斎に
よる英才教育を受けた。


あるんですねドラマのようなめぐり逢い  杉野羅天


「麒麟がくる」 松平竹千代~家康





 松平竹千代 岩田琉聖)


「年譜とともに」
天文4年(1535)頃から内紛の尽きない三河国を、松平広忠が支配
していたが、東の今川、西の織田に挟まれ、三河はどちらに占領されて
もおかしくない現状にあった。広忠は年も若く、西三河の家臣たちには
織田方になびく者もあり、領国運営に苦慮していた。
天文10年(1541)広忠は尾張の豪族・水野忠政の娘・於大と結婚。
翌年2人の間に松平竹千代が三河国の岡崎で生まれるが、その2年後の
竹千代3歳の時に、母の於大は、離婚されて刈谷に帰らされる。
 天文9年(1540)織田信秀が刈屋城の盟友・水野忠政とともに
松平家の拠点安祥城を攻めた。水野忠政とは『麒麟がくる』岡村隆史
演じる菊丸を忍びとして雇っている水野信元の父にあたる人物。
天文10年には、織田方から松平方に転じて、忠政の息女・於大は、松平
広忠に嫁ぐことになる。その翌年の12月に広忠と於大との間に嫡男・
千代が誕生するが、1年後、水野忠政が亡くなると、跡を継いだ信元は、
再度織田方に寝返り、於大は松平広忠から離縁されて、刈屋城に戻される
ことになる。男の戦に翻弄される於大の血は。竹千代の宿命を暗示する。


三つ目の目を前髪で隠している  くんじろう





    岡崎城 (江戸時代)


天文16年(1547)尾張の織田信秀が弱体化した松平広忠の岡崎城
に狙いをさだめ攻撃をしかけてくる。その動きに対し、広忠は竹千代
人質として今川義元に救援を求めた。このため竹千代は、6歳で駿河に
送られることになる。駿府への護送役は 田原城城主・戸田康光である。
康光は今川義元に忠誠を誓った男だったが、竹千代を銭百貫で信秀に売
ってしまう。それを知った義元は、すぐさま、田原城を攻め戸田氏を滅
ぼしてしまうが、竹千代は尾張へ海路逆送される。
竹千代という絶好の人質を得た信秀は、広忠に今川との縁を切るように
迫るが広忠は「息子を殺さんと欲せば、即ち殺せ。吾一子の故をもって
信を隣国に失わんや」と拒んだという。その裏で戦の道具にされる竹千
代は、その後、熱田の加藤図書助順盛宅、さらに万松寺で3年間、信秀
の保護のもとで暮らすこととなる。


燃え尽きる命をだれも止められず  鈴木ひさ子





  太原雪斎 (伊吹吾郎)


同年、どうしても三河が欲しい信秀が、再び、三河を攻めてきたので、
広忠は再度、義元に援軍を要請。義元は交換条件として、人質を差し出
すことを要求し、翌17年に織田勢を三河から放擲すべく決戦を決意。
この戦の今川方の大将は、あの太原雪斎である。戦さは、今川方の快勝
で終わる。(「小豆坂の戦い」)その矢先、松平家に新たな不幸が襲う。
広忠の死去である。死因は、『松平記』によると、家臣の岩松八弥に刺
されたことと言う。天文18年3月の春先、24歳の若さだった。その
時、竹千代8歳。信秀の保護にあった為、父の死に目には会っていない。
広忠亡き後、義元は雪斎を派遣してすぐに岡崎城を接収。松平家の重臣
と家族を駿河へ移し、当時、織田方になっていた安祥城を一気呵成に攻
め、城将の信長の異母兄・信広を獲捕、信広と竹千代の人質交換を実現
させる。この後、三河国は今川氏の属領として、扱われることになる。


たった一顧の弾丸として父果てる  斉藤和子


織田信長とも出会うことになる竹千代の、2年間の織田方の人質生活は、
結構待遇もよかったという。よかれあしかれ、竹千代の今川人質生活は、
19歳まで11年間続く。ただ「人質」とはいえ、今川方でも恵まれた。
食事も生活も学問も、当主の義元の計らいで、結構自由な行動を許され
ていたようだ。
弘治2年(1556)浅間神社で元服、松平二郎三郎元信となる。
『竹千代君、御とし十五にて、今川治部大輔義元がもとにおはしまし、
御首服を加へたまふ。義元、加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永、
理髪し奉る。義元、一字をまいらせ、「二郎三郎元信」とあらため給ふ』
(『東照宮御實紀』)
弘治2年(1556)父の法要のため岡崎に一時帰国。
弘治3年(1557)関口親永の娘・瀬名姫を娶る。元康と改名。
永禄元年(1558)義元の命により、三州寺部城に初陣。
永禄2年(1559)長子・信康誕生。


みずいろのワルツが葉脈を巡る  吉松澄子


永禄3年(1560)義元上洛途上、桶狭間で信長の奇襲をうけて死去。
42歳だった。松平元信は戦地から岡崎に戻り、人質生活から脱する。
※ 桶狭間の戦で義元が信長に敗れ、「義元死す」の報を今川方の一員
として大高城で聞いた元康は、信長の討手を逃れ、手勢18人で岡崎の
菩提寺(大樹寺)に人質解放報告をしたのち、義元の後を追おうとした。
この「追腹」を大樹寺の登誉天室住職(とうよ・てんしつ)に諭されて、
思いとどまった逸話がある。
「いまここで、死ぬのはあまり意味があることではない。生きて、この
汚い世の中を少しでも良くすることが、あなたの使命ではないか」と、
そして「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)と揮毫し
て元康に渡した。これが家康の戦の「流れ旗」になった。
義元死去のあと今川家は、東は武田、西は織田に併合され、戦国の大名
としては消滅をする。


いちょうの黄は小さじ一杯の挽歌  宮井いずみ


永禄4年(1561)信長と和睦。三河平定に着手。
永禄5年(1562)信長と同盟。今川家と断交。
永禄6年(1563)家康と改名。信康、信長の娘・徳姫と婚約。
永禄7年(1564)一向一揆を収め、三河全域を平定する。
三河の一向一揆を、鎮静化させた家康のコトバがある。
<一揆を続けて、田畑を焼き払うと、皆飢えてしまう。それを仏は許す
はずはない>そして一揆を企てた者に対し「ここで静かに退去する者は
許す」と言うと、騒ぎを誘導した渡り者の法師たちは、たちどころに消
え去った。「大事を成し遂げようとするには、本筋以外のことはすべて
荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ」(家康の名言、生れる)
永禄9年(1566)従5位下三河守となり松平姓徳川姓に改める。


雑音はまとめましたと粟起こし  美馬りゅうこ





  太原雪斎


【付録】 「小豆坂の戦い」
美濃国の斉藤氏と姻戚関係を結んだ織田氏は、天文17年(1548)
岡崎城を陥落させるべく侵攻を始める。今川義元太原雪斎を総大将
として西三河に援軍を送る松平広忠も今川方としてこれに参戦した。
結果は今川氏の大勝で終わる。
この敗北により織田の勢力が弱まり、安城城も奪われ、三河より撤退
することとなる。小豆坂の戦い以前は、矢作川が両勢力の境界で、信
秀の死までわずか数年の間に、織田の勢力はどんどん縮小していった。
信秀が今まで敵対関係にあった斉藤道三と同盟を結ばざるを得なかっ
たのは、この勢力縮小に危機感を抱いたからである。信長帰蝶の結
婚は、小豆坂の敗戦があったからこそなのである。


まず今日の息を正しく吐いてみる  中野六助

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見解の相違へ揺れている芒  笠嶋恵美子




   ムキクリ
甘いもの好きの信長が10話でも食べていたムキクリ

「麒麟がくる」 ご飯を食べる作法がダメだった信長





   信長と竹千代
 

「戦国時代に味噌は欠かせない」
先ず「麒麟がくる」10話の筋を少し。尾張へ入った光秀(長谷川博己)
菊丸(岡村隆史)に出会い、、味噌を並べていた菊丸に、「すべての
味噌を城に届けてほしい」と頼んだ。信長は濃い目の味付けをしてある
料理が好きで、特に大根の味噌漬けやネギ味噌、焼き味噌など、味噌を
使った料理が大好物と光秀は知っていたからだ。かつて信長が上洛をし
た際、京料理のプロが自信をもって出した料理を「水くさい」と激怒し
た話は有名。とにかく信長は、味噌が好きだっただけではなく、味噌の
重要性を知っていた。戦いに明け暮れる日々、重い鎧をつけて、戦場を
駆けまわり、汗をかく武将や兵士には、塩分は欠かせない。そこで味噌
が重要になるのである。信長の兵士たちの腰の印籠には、常に「味噌」
「山椒」「ムキクリ」「きんかん」が入っていたという。

湿り気がある健康な鼻の穴  新家完司

大豆を発酵させて作る味噌は、塩分が含まれているため、保存性が高く、
味噌汁に芋類や野菜などを入れることで、腹持ちを良くする。
さらに味噌には、大豆由来のタンパク質やビタミンなどが豊富に含まれ
ており、兵士たちの健康に欠かせない貴重品なのだ。仙台の伊達政宗は、
味噌の自給を目指し「御塩噌蔵」を製造していた。政宗が兵士たちの食
事に欠かせない健康食・味噌を重要視していたことがわかる。また甲斐
武田信玄も、長野・信州味噌の起源となる軍用の味噌を製造している。

まずは塩のみでいただくリコーダー  きゅういち
 
 

ご飯を食べる作法は、室町幕府が作ったもので、小笠原流・伊勢流とい
った礼法の流派が形成され、包丁や箸使いの所作があみだされた。この
室町礼式は、現在の私たちもそれに倣っており、婚礼の結納などのやや
こしい形式は、この時代に出来上がった。足利幕府は、南北朝の争乱の
中から出て来た粗野な大小名どもを、礼式で拘束しようとしたのである。
実力の時代といった戦国時代の、歴とした守護大名の家に生まれた筋目
の人々・武田信玄今川義元でも煩瑣な礼式の体得者である。つまりは
「躾」が出来ている。ご飯を食べるにも、箸をどのあたりからつけるか、
それはもう、実に煩瑣な決まりの食べ方があって食べていた。

鰐の生き肝は湯気の立つうちに  井上一筒
 




貉(むじな)の汁かけ雑穀めし

ところが信長の家は、守護大名の家ではない。尾張の守護大名・斯波家
の執事のようなことをしていた織田家で、いわば成り上がり大名である。
甲斐の武田家や駿河の今川家などのようないいうちではない。だから織
田家は室町風という公認のお行儀というものが、家風としてはない。そ
ういう織田家であるところへもってきて、信長という人が、性格として
煩瑣な堅苦しいマナーを受け付けるわけもなく、頭から覚える気もない。
思考が取り決めによって縛られていないから、飯というものは、かきこ
むだけで、とにかく腹が膨れればいいのだ。出は信長と同じでも、何事
にも食欲旺盛な明智光秀は、義昭のもとで仕官していたとき、そうした
室町作法を積極的に学び吸収したようである。

ややこしい理論に向かぬ河内弁  岸田万彩

「小笠原流ご飯の食べ方」
① 汁の中の魚の骨は、折敷に置くのは良くない。
② 飯を食べるときは茶碗の左右、向かい側から一箸ずつ飯をとり、
  一口にして食べる
③ 箸を添えて汁を吸う
④ 饅頭は、3分の1を箸で割って、餡をこぼさないようにして口に運ぶ
⑤ 料理人は、魚や肉の美味しい部分は上座の人へ提供する
⑥ 食事に対して賛辞を送る

4、5本はいつも晒に巻いている  くんじろう




  (拡大してご覧ください)

当時の最先端であった惟任日向守会の本膳と後段(再現)
 

「明智光秀、天正6年正月11日、惟任日向守茶会」
『天正6年元旦、安土城にて” 許し茶湯 "の許可者が総覧された。信長は、
限られた家臣にのみ茶道具を下賜して茶会を主催する権利を与えた』
(ご飯の食べ方がダメでも、茶道具の蒐集が趣味だった信長は、礼式に
沿わねばならない「茶会」の開催を許した。出来上がった城と自慢の茶器
を諸国の諸将に見せるためである。主は明智光秀。
永禄8年に室町流礼式を学び覚えた光秀の一世一代の晴れ舞台になる。

ええねんと何でも受けるお人好し  山本昌乃

天正6年元旦、安土城の信長の下へ五畿内および近隣諸国の諸将が信長
への新年の挨拶のため出仕。信長は挨拶を受ける前に一部の諸将を招き、
茶道具を下賜して、茶会を主催する権利を与えた。選ばれたのは、織田
信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・
長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁の12名。
茶頭は松井友閑がつとめた。安土城天守閣の障壁画も完成しており、
諸将は信長への挨拶を終えると殿中を巡り、狩野永徳が描いた三国の名
所を描いた絵や信長が収集した名物の数々を見て、感嘆するのみだった。

正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝




 タケノコ飯と和え物


この日、光秀が拝領した茶道具は、八角釜だった。信馬から釜を与えら
れたので取りあえず、茶会は開いてみたものの、光秀は、軽い身分から
出たため茶の湯の作法を知らず、このとき代行を立て、宗及の手本を見
て見よう見まねであったのかもしれない。一方で、光秀は、このときす
でに名物・八重桜を所有しており、永禄11年(1568)以来めきめ
きと上達を見せた連歌同様、茶席での作法にも、十分通じていた可能性
もある。自らもそれなりの知識と技術を持ちながら、堺の豪商・天王寺
屋宗及の粋人ぶりを持ち上げたのか…社交に不慣れであるにしては、彼
が用意した料理は見事なものだった。


門番に6匹もいる招き猫  木口雅裕




 
  生鶴汁と鮒の膾


光秀の側近には、進士貞連(しんじさだつら)という人物がいる。この
人物はのちに細川幽斎とともに田辺城に籠城しており『綿考輯録(めん
こうしょうろく)によると、貞連はもとは光秀の譜代衆で、山崎の戦
のあとも光秀に従った最後の七騎のうちのひとりである。
(『綿考輯録』は、貞連の父を進士美作守だと記録している)
美作守というと、進士晴舎(はるいえ)である。進士晴舎はルイスフロ
イス「内膳頭」として記録している室町幕府の有力御家人で、足利義
輝に仕えて、三好筑前守義長朝臣邸などへの「御成」を司った人物だ。
進士晴舎は、のちに嫡子ともども永禄の変で亡くなるまで、当代で料理
の式法に通じた人物だった。

人間を絞れば白し胡蝶蘭  河村啓子






鶉(うずら)の焼き鳥


当時、将軍が臣下の邸宅を訪問することは「御成」と呼ばれた。御成は
将軍にとっては世間に主従関係を知らしめるための機会であり、大名に
とっては家門の名誉、面目にかけて盛大に行うものだった。
その際の献立は、決して簡単に決められるものでなく、御成を司る役割
には、料理と有職故実に関する豊富な知識が求められた。またしきたり
に従い、滞ることなく朝から晩までつづく、饗応料理の手配を行うこの
職務は、決して一名で務まるものではなかった。というのも、当時の
膳料理は客一名に対して、三膳から六膳提供するもので、それらは客の
身分に応じて用いる膳を変え、用いる魚によって掻式(かいしき・器に
盛る食べ物の下に敷くもの)を変え、汁・吸い物は、用いる実によって
吸い口を変え、膳のうえに決まった配置で、皿を並べなくてはならない
代物だったからだ。

負けず嫌いな包丁の薄化粧  中村幸彦




   
   しょうの実          薄皮饅頭


にもかかわらず、御成への参加者数は10人や20人では済まない。
つまり進士晴舎のような饗応の責任者は、決して乱すわけにはいかない
スケジュールのなかで、ゆうに百を超える数の皿や、膳の盛り付けが、
故実通りであるか細かく点検しなければならなかった。加えて、酒や茶、
引き出物、能の手配といった仕事もあった。このことから、進士晴舎
単独でこの職務にあたっていたのではなく、御成の成功の陰には進士家
の一門を挙げた働きがあった。さて、そんな光秀が天正6年正月11日
朝に用意した膳を見てみよう。

愛は入れないでお鍋が焦げるから  高橋レニ





   本膳の説明

① とち折敷(おしき) 縁の一ヵ所を桜の皮で綴じたもの。
② 鮒の膾 膾は三鳥五魚の一つで格の高い美物。
③ 生靏汁 靏は鶴のこと。こちらも三鳥五魚の一つ。
④ アヘモノ 当時の定番料理で。
⑤ 飯タケノコ 季節(旬)を先取りした初物で。
⑥ 大かわらけタヒテ タヒテとは「塗って」のこと。
⑦ ウツラ焼鳥 盛り付けの脚の向きは鷹狩、網取かで異なる。
⑧ 土筆ウト ウトは独活のこと。
⑨ 薄皮のマンチウ ここに出ている饅頭は甘い近世的なもの。
⑩ イリカヘ ローストした榧(かや)の美。

燗番が燗見るたびに酒が減る  みぎわはな





  後段の説明

⑪ 木具 足打 
⑫ サウメン、レイメン 冷たい素麺。山椒の粉をつけて食べた。
⑬ セリ焼き 酢で芹を煮たものだが、焼きと言った。
⑭ 浮煎ノ吸物 すり身を用いた料理は心尽しのもてなしを表す。
⑮ 印籠ニ味噌 山枡 ムキクリ きんかん デザート


台本通りアップルパイを焼いている  西澤知子

光秀が用意した料理は、各膳の上の皿の数が陽数(奇数)となっている。
そういった細かな故実に従いながら、四条流由来の格式の高い料理と武
家料理、季節の品を取り合わせて味のバランスをとり、流行をとりいれ、
茶事用の簡素な膳ながら、幕府将軍の御成と同じ構成で手配してある。
また、後段に記録された木具の足打は、主人や貴人が見えた時に用いる
もので、殿上人ではない宗及に対しては、最上級の敬いにあたる。
こうして天正6年は、光秀が水を得た魚のように接待上手ぶりを発揮し
始める年となった。

影武者は影武者なりにそれらしく  岸井ふさゑ

【戦国時代の食】
庶民は、粟・稗・黍(あわ・ひえ・きび)といった穀物を食べ、白米を
口にすることはなかった。おかずは山菜や野草を使った料理が中心で、
たまに猪の肉や魚などを食したが、かなり貧しい食生活であったようだ。



【兵糧丸】
忍者が常備した兵糧丸は、きびだんごのような形をした携行食品で、忍
者の知恵で戦国時代の一般兵士たちも、戦場へ赴くときは、糧食として
配給されていた。「麒麟がくる」で、お駒が食べている画面があった。
 
 
 
 
  
 

【芋茎縄】
普段は縄として使い、万が一の際に非常食にもなる。
芋がらは里芋の茎を細かく裂いて皮を剥いて干したもので、 煮ても炒め
ても、和えても美味しい らしい。各種の栄養分を多く含み、カビなどが
生えなければ、かなりの長期保存が可能な食品。
食し方。ちぎって鍋に放り込み、水を入れて沸騰させると、染み込んだ
味噌が溶け出し、芋の茎が熱湯によって柔らかくなる。
煮込むことすら許されない状況であれば、芋茎縄を直接かじって生命の
維持に欠かせないカロリーと塩分を補給することも可能。普段は縄とし
使いながら、非常時には食品になるため、全くムダがない。戦国時代に
重宝された芋茎縄は、まさに一石二鳥、最強の存在なのである。
 

【味噌汁】
腹持ちを良くするため、芋類や野菜などを入れる。味噌は、塩分が含ま
れているため保存性が高く、タンパク質やビタミンなどが豊富に含まれ
ており、兵士たちの健康に欠かせない食べ物だった。
携帯する際は、乾燥させて固形にしたり、焼いて味噌玉にし、必要に応
じてお湯に溶かして食したという。いわば今の即席味噌汁である。



 
ぜったいに嫌あんたと鍋をつつくのは  安土理恵

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白には戻らない思い込んだ黒  松浦英夫




織田信長公相撲観覧之図(両国国技館展示)
上洛後、信長は大の相撲ファンになった。




「麒麟がくる」 信長とはどんな人

百年にも渡って戦乱が続いた戦国時代。この混乱を鎮めて世の中に新た
な秩序を取り戻す人物が現れることを、人々は望んでいた。その期待を
担って、彗星のように戦国の世に現れた天才児、それが織田信長である。
信長は天文3年(1534)に尾張守護代・織田信秀の長男として生ま
れた。母は土田御前。幼名は吉法師。弟・妹に信勝、信包、信治、信時、
信興、お犬の方、お市の方など。天文15年、12歳のときに古渡城で
元服し、翌年に三河国に初陣を飾る。美濃の斉藤道三の娘・帰蝶と結婚。
道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性
が高くなる。父・信秀の没後は、18歳で家督を相続し「上総守信長」
と称した。その後は同族との争い、周辺との戦いに明暮れることになる。

雲梯の途中で夢をみてしまう  井上一筒

信長の父・信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長
にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えず、弟・信勝(信行)と
の継承問題で火が吹き出しかけていた。やがて天文21年8月、信勝の
いる清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とする。萱津
の戦いである。この戦は、信長の勝利で終わった。これに関わった清州
城の信勝との抗争は、生母・土田御前の仲介により、一時、和解したが、
信勝は再び、謀反を企てたため、信長は誅殺をした。
このことなどが、信長の「あとを絶たない戦い」の、その典型である。

反省は何だったんだ練りがらし  前中知栄




さて信長とは、どんな人物なのだろうか。

「尊大」
 信長「上総守信長」を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が
「上総介」を称したことを意識したからである。すなわち、今川氏の
称する「上総介」よりも「上総守」が上位であると、信長が考えたの
だろうと推測されている。
 信長公記の天正10年正月の下りに、「御幸の間」つまり天皇の
ための部屋が、「安土城本丸御殿」にあるという記述がある。さらに
この時期、信長と朝廷との連絡役、武家伝奏という役目を担っていた
勧修寺晴豊の日記『晴豊記』に次のような記述がある。
「行幸之用意馬鞍こしらえ出来」(行幸に使う馬に鞍の用意ができた)
天皇を招いて、自分の膝元に置く、そういう信長の考え方は、朝廷の
「権威」を、ないがしろにするものとも受け取られた。
 天正10年2月、信長はさらに思い切った要求を朝廷に突き付け
た。暦の変更である。朝廷の暦は、「宣明歴」を基礎とした京歴を用
いたのに対し、尾張などで使われていたのは、「三島歴」という。
暦の制定は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ。いわば神
聖にして侵すべからざる事柄であった。その暦を、信長は尾張のもの
に統一しようとしたのである。

破り方をみてもA型だと分かる  竹内ゆみこ




髭も立派な顔は面長で鼻筋が通ている信長の肖像画
こちらが外人の絵師に描かせた本当の信長の顔らしい。


「印象」
背丈は中くらい、華奢な体躯でヒゲは少なく、声は高目、名誉心に富み、
睡眠時間は短く早起きで、正義においては厳格であった。貪欲ではなく、
非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
また極めて清潔好きであり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、
対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来
とも親しく話をした。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
一面憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては、甚だ大胆不
敵で、万事において人々は、彼の言葉に服従した。(フロイスの日記ゟ)

半ば枯れ半ばは青き心の臓  佐藤正昭






  バテレンの衣装

「ファッション」
少年期の信長は、馬術・弓・鉄砲・兵法の稽古、泳ぎの鍛錬のほか、鷹
狩りなども好んで行なっていた。一方、服装は、動きやすいように上衣
の袖を外し、七分の袴、腰帯は縄紐で、水の入った瓢箪や火打ち袋など
をぶら下げ、派手な朱色の大刀を差していた。また月代を剃らない髪は、
束ね赤い糸でくくり、茶筅のような髷にしていた
30歳の後半には、南蛮の衣装を好み。日常的にマントや襞襟を着用し
ている。信長が安土で催した祭りでは、御馬廻衆が爆竹をならしながら、
信長自身は黒い南蛮笠(山高帽)を被って、奇抜な出で立ちであったと
『信長公記』にある。安土城の煌びやかな天守の室を見るように、信長
はことさら、派手好きだったことが分かる。

理不尽を諫める言葉見つからぬ  合田瑠美子

「うつけ」
うつけとは常識外れの行為をいう。父・信秀の葬式の日に信長は、相も
変わらず茶筅髷、大太刀は縄で巻いて、見すぼらしい格好で現われた。
そして仏前の前にたつと、抹香をわしづかみにして位牌に投げかけて、
どたどた帰ってしまったという。一方、弟の信勝は、折り目正しい服装
作法で威儀を正していた。その場の誰もが、信長の行為を「やはり大う
つけだ」と口々にしたという。その以前に信長は、僧侶に父の回復の祈
祷を願い、僧侶は父の病気が回復すると保証した。しかし、信秀は回復
せず、数日後に亡くなってしまった。そういう腹立ちがあったのだろう
と一僧侶が語っている。

鼻にツンとくる水溶性悪意  くんじろう





信長のはでな甲冑


「戦術」
「攻撃を一点に集約せよ無駄な事はするな」という「桶狭間の戦」で吐
いた信長の名言がある。
永禄3年(1560))5月、信長26歳。今川義元が尾張国へ侵攻を
始める。駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、4万
人にも余るという大軍であった。織田軍はこれに対して、兵力はわずか
数千人。今川軍は、松平元康(後の家康)が指揮を執る三河勢を先鋒と
して、織田軍の城砦に対する攻撃をかけてきた。信長は静寂を保ちつつ、
今川軍が三河と尾張の国境である「桶狭間」にさしかかるのを待った。
そして、午後1時、幸若舞『敦盛』を舞った後、号令をかけた。信長は
今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った。この勝利は、ひとえに
信長が若い頃、うつけを演じ、国境を知り尽くした成果であったという。

キャベツ畑でまどろむ戦場の薬箱  宮井いずみ
 





金ヶ崎の戦いで秀吉は名を高めた


「勇気ある撤退」
信長がすごいのは、追い詰められた時にとった行動である。
味方と思った人間に裏切られたらどうするか。元亀元年(1570)の
越前・金ヶ崎の戦いで、義弟の浅井長政が背いたとの情報が入ったとき、
信長は最初は信じなかった。しかし、次々に同様の報告が入ったため、
即座に退却を決意して、金ヶ崎城に秀吉ら殿軍を置き、退却したという。
この金ヶ崎の戦いで、信長がかろうじて京都に戻ったときの従者は、わ
ずか10人ほどだったという(継介記・信長公記ゟ)

型どおり進めなかった裁ち鋏  石橋能里子

「礼儀」
帰蝶信長に嫁がせる斉藤道三、「うつけ者」と評されていた信長は
どんな風で訪れて来るのか、影で様子を伺っていた。そうしたところへ
信長は800人程の鉄砲隊や槍持ちの配下を引き連れ、自身は茶筅髷の
襤褸着を着たなりで、会見場所である正徳寺門前に馬上から下り立った。
これを目のあたりにした道三は呆れ、家臣たちも「大うつけ」と囃した。
しかし、いざ会見の場に現れた信長は、正装に着替え岳父になる道三に
低調な挨拶をしたという。まだ20歳の若造であった信長だったが、そ
れを見た道三は、驚きと同時に信長を只者でないと判断した。そして、
家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐ
ようになる」と述べたという。(信長公記ゟ)

語尾だってたまに意地悪するようだ  北原照子

「冷酷」
信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った。
そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している。
例えば、天正9年(1581)4月10日のこと。
信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長が翌日まで帰
って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に
城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出
を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。
また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗された
という。(信長公記ゟ)

素面では出来ない蛸の殺し方  笠嶋恵美子





信長から寧々への返信


「優しさ」
美濃と近江の国境近くの山中という所では、「山中の猿」と呼ばれる体
に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き
来する信長は、これをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年6月の
上洛の途上、信長は山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与
えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が
飢えないように毎年、麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」
と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな
感涙したという(信長公記ゟ)

寒いのは季節などではなくこころ   新家完司

「フェミニスト」
 信長はある日、秀吉の妻・ねねから「夫の女性問題で悩んでいる」
という手紙を受け取った。それに対し信長は、「まったくとんでもない
男だ。あなたほどの素敵な女性に、あの禿げ鼠(秀吉)は何という奴か
きつく叱りおく」と返信をした。
 天正6年(1578)、お弓衆の邸宅から出火して火事が起きた。
信長「妻子を安土に移していない者がいるからだ」と考え、すぐに名
簿を作らせて、妻子の同居実態を調査させた。すると、お弓衆60人と
お馬廻衆60人合わせて120人もの該当者がおり、信長はこれらの者
を叱責し、子の信忠に命じて、尾張国の彼らの邸宅を焼き払い、宅地内
の竹木までも伐採させた。彼らの妻たちは取るものも取りあえず安土へ
引き移った。信長は罰として、彼ら120人に安土城下に新道を築かせ、
完成したところで、全員を許したという。(信長公記ゟ)

幸福は非売品だと神がいう  ふじのひろし

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一冊の落書き帳であるこの世  新家完司





   明智軍記


「麒麟がくる」 信長に接近する光秀







『明智軍記』によれば、明智光秀は弘治3年(1557)29歳の時に
諸国遍歴の旅に立ち、永禄5年に帰還したとある。どこからどこへ越前
・朝倉義景のもとを出発し、そこに戻るという形になっている。だが、
5年間の遍歴にもかかわらず、どういう経路で、どこを遍歴したかは、
何一つ記されていない。義景は、朝廷を大事にする当代随一の武将だ。
義景が資金を出して、光秀に「諸国の事情を視察」するよう命じた可
能性もある。


千切れ雲はてなマークをもったまま みつ木もも花


明智軍記には、「弘治3年から永禄5年」とあるから、その間の主要な
出来事を書き出すと。
永禄3年 毛利元就 長門を平定。
元禄元年 木下藤吉郎(秀吉)信長に仕える。
永禄2年 織田信長 入京し将軍義輝に謁す。
     上杉謙信 入京し将軍義輝に謁す。
     宣教師ヴィレイラ京都で布教。
永禄3年 今川義元を倒す。(桶狭間の戦)
永禄4年 信長、斉藤義光を美濃に攻める。
永禄5年 徳川家康、信長と同盟を結ぶ。
永禄6年 ルイスフロイス、日本での活動が始る。


ひょっこりと障子の穴から旅に出る  通利一辺


このような時代に光秀が諸国遍歴をしたとしたら、いかなるコースを辿
るだろうか。越前を発ってまずは山城国・京都へ。都の現状と荒廃ぶり
を確認したあと摂津国・大坂へ商都の現状を視察。そこから海路安芸国
へ向かい厳島神社を参拝したのち、毛利元就の治世を観察し、日本海側
に出て出雲大社を参拝したのち海路越後へ行き、上杉謙信の治世を視察。
そこから陸路南下し、信州の善光寺を詣でたのち、甲斐国に入って武田
信玄の治世を視察する。と想像をめぐらしてみた。


わけあってスマホは持たず巡礼に  雨森茂樹




永禄8年三好三人衆の花押
下野入道(三好宗渭)、主税助(岩成友通)、日向守(三好長逸)
よる花押の連署。


永禄8年(1565)乱世はいよいよ極まる。
三好義継、松永久秀らが、将軍・義輝を暗殺したのである。その瞬間に
将軍不在、足利幕府が消滅したのも同然になった。ときの帝正親町天皇
が、ひとり乱世にさらされたのである。後醍醐天皇の遺言を借りれば、
「いまこそ、賢才忠臣が謀りごとをめぐらし」…「天下を平定」しなけ
ればならない時である。諸国遍歴の道中において、湯屋の主に求められ
「太平記』について語った光秀、その胸中に去来する思いを一言でいえ
、「賢才忠臣いずこにありや」ということだろう。
明智光秀という武将が歴史に登場するのは、このときからである。光秀
38歳であった。そして、彼が最初に期待を抱いたのは織田信長だった。
信長32歳である。


口よりも確かなことを目が語る  ふじのひろし


「光秀、歴史の1ページに」
細川藤孝のところでも少し触れたが、明智光秀の存在が確認できるのは、
室町幕府13代将軍・足利義輝と弟・15代将軍義昭に仕えていた武士
たちの名を記した『光源院殿御代当参衆並足軽以下衆覚』と、題された
史料で、義昭の「足軽衆」に見える「明智」が、光秀を指すと考えられ
ている。この史料は義輝が死去した後の、永禄10年頃の状況を記した
ものとされ、細川藤孝は「お供衆」という数段上の身分であった。光秀
がいつ頃から、義昭に仕えるようになったのかは不明だが、近年に発見
された史料によれば、永禄8年頃の光秀は、近江国高島田中城(滋賀県
高島町)に籠城していたらしい。(針薬方)


思い当たる節に包帯を巻いておく  谷口 義


この時、義昭は兄の義輝三好三人衆らに殺害され、若狭の武田義統
(よしむね)の元に逃れていたが、のちに朝倉義景を頼って越前へ移
っている。おそらく光秀は、流浪中の義昭に接近して気に入られ、足
軽衆として抜擢されたのだろう。その前後に義昭は藤孝を取次として
尾張の織田信長との間で、京都復帰に向けた交渉を進めていく。義昭
の直参となった光秀も、この頃から藤孝の下で、信長との交渉を担う
ようになった。そして永禄11年7月、義昭は信長を頼って美濃へ移
り、藤孝・光秀もそれに従った。同年8月に信長が藤孝に宛てた書状
には、「詳細は明智に申し含めました。義昭様にによろしくお伝えく
ださい」とあり、光秀が使者として信長の元を訪れ、義昭への伝言を
頼まれていたことがわかる。この時、信長との接触が、のちに光秀が
躍進するきっかけとなった。


カリスマの自負がどうにも止まらない  徳山泰子




  
  ルイスフロイス       日本史

「ルイスフロイスが語るー光秀と信長の人となり」
光秀について信長の宮廷に惟任日向守殿(これとうひゅうがのかみ)
別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなく、
信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人兵部大輔と称する奉仕して
いたのであるが、その才略、思慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受ける
こととなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあ
って彼はよそ者であり、ほとんどの者から快く思われていなかったが、
寵愛を保持し、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。


袖すり合っただけなのに舌の先  赤松蛍子


信長についてー
美濃の国、またその政庁で見たすべてのものの中で、もっとも私を驚嘆
せしめましたのは、この国主(信長)が、いかに異常な仕方、また驚く
べき用意をもって、家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありま
した。すなわち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らはきわめ
て凶暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにして、ただちに
消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が
きわめて抑揚のある声で、返事しました。彼の一報告を伝達する者は、
それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るかのように
行かねばならぬと言って差し支えがありません。


鶴の一声猫も杓子も動き出す  前中一晃


【余禄】 太平記について
永禄8年5月、将軍足利義輝三好義継、松永久秀らによって暗殺され
たという報に接したとき、明智光秀は加賀国山城にいた。そこで光秀は、
湯屋の主人の求めに応じて『太平記』を語ってきかせたという。
たった一人の湯屋の主人に『太平記」を聞かせたというのは、明智軍記
の作文ぽいが、大事なことは光秀が『太平記』のことを思い浮かべたと
いうことである。戦国未明から慶長・元和まで、戦乱を生き抜いた武将
たちにとって『太平記』は治世と兵法の指南書でもあった。
(その後、軍楽的な評論が発達し、それを修正した『太平記評判秘伝理
尽抄』を台本とする講釈が、諸藩で盛行している)


悟りを開く半眼の目玉焼き  蟹口和枝


(『明智軍記』に「永禄8年5月中旬、光秀は小瘦を煩い加賀国山城へ
湯治に赴き。途中、三国湊を遊覧し吉崎より船にて山代に到着。10日
ばかりで平癒する」とある)
同19日 そこで越前の飛脚から義輝殺害に報を受ける。この夜、湯屋の
主人の所望により『太平記』を物語し、翌日越前一乗谷へ出立する。
『太平記』はあの「建武の中興」を実現した後醍醐天皇の波乱に満ちた
生涯を中心にした歴史物語。将軍暗殺の報に接して、光秀自身が『太平
記』のことを語りたくなったのではないか。


袋とじに籠る野暮の顛末  山口ろっぱ

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