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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生きてゆくこの世の壁に爪立てて  香月みき




(拡大してご覧ください)

  里見八犬士
左から、犬江親兵衛、犬山道節、犬田小文吾、犬坂毛野、
犬塚信乃、犬村大角、犬飼現八、犬川荘助





「滝沢馬琴」-5 老いの一徹




インターネットを開けば、古今東西故事来歴のいろんな知識を手許で閲覧
できる現代と違い、当時の情報は自身の足で集めるのが普通だった。馬琴
の場合はメモ魔で「耽奇会」に出品された珍しい品々を絵に写したり「兎
園会」で語られた珍聞奇談を丁寧に書き残した。唐の小説「水滸伝」「三
国演義」「西遊記」「封神演義」や「軍記侠勇談」など名作を自家の薬籠
に収め、奇談・怪話、浄瑠璃や歌舞伎の冒険談・人情談に至るまで、あら
ゆる史料を蒐集した。仲間でもない江戸戯作者たちの評伝なども、根気よ
く調査してメモに書き留めている。自分の借覧した本で作品の種になりそ
うなものがあれば、これを自ら手写しする。執筆が多忙になると、筆耕を
雇って手写しさせた。それが何年も続いたわけだから、馬琴の部屋は5百
冊以上の写本で埋め尽くされていた。だから馬琴の小説は、読書や溜め込
んだ写本のなかから作り出された。
世界最大の長編伝奇小説『里見八犬伝』も多くの資料から生まれた。




青や角かなぐり捨てて君の前  酒井かがり







「安房国名所図」(英泉安房に遊歴せし日に写し得たりという真景なり)



『里見八犬伝』は、天保の改革の真っ最中であったため、幕府批判に取ら
れかねない内容も含まれるだけに、時代を足利幕府におきかえ筆を進めた。
物語は、足利衰退期各地で争いが絶えず、里見家の国主・里見義実は戦を
避けて、房総を領土としたところから始まる。たとえば次のような出来事。
 安房洲崎の大海に面して洲崎明神という古寺がある。ご神体は「アマヒ
リノメノ命」。その山麓の石窟に役の行者が祀られている。夜泣きが止ま
ず、日夜むずかり、三歳になってもモノが言えず、伏姫は、女房らにかし
ずかれ、八房犬とともに石窟に7日間祈願をした。異常を除去するための
祈願である。7日目、役の行者の化身と思われる老人から、護身用の数珠
を貰う。数珠には「仁義礼智忠信孝悌」の八字が刻まれている。その日か
ら伏姫はむずかることはなくなった。




バリバリを絞ると溢れ出る涙  合田瑠美子







  渓斎英泉房総図






馬琴は、上の文のように『八犬伝』物語の発端になる安房(千葉)のこと
綿密に書いている。しかし、馬琴は実際に実地調査に出向いたことがない。
また主要な舞台として描いている上州(群馬)荒芽山とか庚申山(こうし
んやま)も実在するものかどうかも疑われている。江戸を中心に関八州と
甲信越を除けば『八犬伝』に出てくる地理は、極めて怪しいのである。
また八犬士はそれぞれ仲間を探すために、伊豆七島や奥州まで彷徨ったこ
とになっている。チャンバラ場面の激しい小説が、そこでは一つの事件も
起こっていない。逆に馬琴が若い頃、旅をした京都での親兵衛の活躍は詳
しく表している。すなわち馬琴の狭い生活圏を飛び出た舞台は「兎園会」
「歴史書」などの資料などで得た産物なのである。房総のことは、その
地を遊歴した渓斎英泉から得た情報なのかもしれない。上記の挿絵を含め、
渓斎英泉は、この里見八犬伝の挿絵も数枚描いている。




格子の向こう花魁ですか神ですか  安土理恵             






「老いの一徹」
作家として実力・名声ともに絶頂にあった文政末年から天保初年にかけて
さえ、滝沢家の経済は苦しいとまでいえなくとも、裕福とは言えなかった。
が、いくら気丈な馬琴にも老いが迫ってくるのは、避けられない。
天保5年(1834)68歳の初冬、目脂が出て眼が霞み、行燈の灯りで
は読書が出来なくなった。それは老いてなお勉強をやめられない馬琴にと
って耐え難い不便だっただけでなく、続いておこる数々の不幸のはじまり
だった。天保6年の初夏、馬琴70歳に近く、期待して育てた長男・宗伯
が、一男二女を残し、38歳の若さで消えるように亡くなったのである。
さすがに気の強い馬琴もがっくりしたが、老妻・お百と宗伯の嫁・お路と
幼い孫3人合わせて6人の口すぎは、もっぱら彼の老いしなびた腕一本に
かかってきた。畢生(ひっせい)の大作『南総里見八犬伝』の完成も前途
はるかであった。




挽歌流れてオリオン父を引いてゆく   太田のりこ






しかし不幸は続いた。天保8年7月に娘婿清右衛門が亡くなったのである。
馬琴は清右衛門の出身が卑しいと軽蔑していたけれど、これほど忠実にこ
まめに馬琴のために動いた人はいなかった。実直な清右衛門は、長女・
と結婚していらい、毎日明神下の馬琴の宅を訪れて、雑用を聞き、これを
忠実に果たした。たとえば「半蔵門前三宅屋敷の渡辺崋山のところへ『百
八回本水滸伝』に刷りの悪い箇所があるから値引きするよう、手紙を持っ
て行って返事をもらってこい」と云いつければその通りにしたし、親戚の
誰を読んでこいといえば、すぐそこへ出かけるという具合で、馬琴の足と
なって江戸中を駆け回った。それだけでなく、馬琴の内職に拵える売薬も、
販売元は清右衛門で、月末には必ずきちんと勘定にやってくるし、たまに
は薬の製造をも手伝うほどだった。すなわち清右衛門の死は、馬琴の手と
足を奪ったも同じだったのである。



仏像を間近に罪を数えてる  松本としこ








馬琴の目になるお路



翌年に入ると「老眼いよいよ衰え、細字見えわかず」校正もお路に読ませ
て聞いて誤りを訂正させることになったし、数少ない友人からの手紙も、
路と養子の二郎に読ませるが、2人とも字を知らないから読むことが出来
ない。いまや馬琴は孫の太郎の成長と「八犬伝」の完成だけに生きがいを
感じていた。やがて微かに見えていた左目もいよいよ暗く、もはや自分で
書くことは不可能となった。孫の太郎は14歳ともなれば、鉄砲同心とし
て勤めに出なくてはならなかったから、お路に口述筆記させるよりほかは
ない。お路は医者の娘だから、無学文盲というわけではなかったとはいえ、
和漢古今東西にわたる博学の、馬琴の注文通りの難しい漢字をすべて知っ
ているはずがなかった。特に『八犬伝』には難解な文字が多かった。一字
ごとに仮名づかいを教えて初めて筆記できた。




お互いの斜線重ねていく日暮れ  みつ木もも花



女の教養は仮名文字であり、漢文にまでは及んでいないのが普通である。
ところが馬琴は、中国の小説や儒学からいろんな事例を引用するのが得
意だった。典拠はどの本のどこにあると暗記力の強い馬琴が指摘しても、
漢文がろくに読めないお路では、探し当てようもないことがしばしばだ
った。そして一枚書き終わると読み返させ、いちいち教えてフリガナを
つけさせる。もちろん一寸した熟語や句読点のこともよく心得ていない
ので、読み落したり、余計な字を添えて読んだり、教えるほうが、苛々
すれば、教わって書くものは、頭がぼおっとなって泣きだす始末。さす
がの馬琴も筆を折ろうかと考えたことさえあった。




血まみれの旗はそろそろ降ろそうか  桑原伸吉






 

お路の代筆草稿 目が悪化した馬琴の草稿 (早稲田大学総合図書館所蔵)





だが八犬伝の完成は目の前に迫っている。なんとしてでも完成したいと
いう執念で、馬琴はお路を励まし、お路に励まされて口述筆記を続けた。
お路もお百や宗伯のヒステリーに耐えた気の強い女だった。どんなに分
からなくても屈せず、舅に追いつこうと努力した。そして僅かのあいだ
に馬琴の求める通りに筆記ができ、はじめ満足に読めなかった難読文章
や手紙をやすやすと通読するようになっただけでなく、返信もすらすら
書き認めるまで進歩したのである。こうして馬琴にとってお路は自分の
眼であり、手足になった。




思い切り右脳で煎餅をかじる  郷田みや






だから天保12年2月に妻のお百が78歳で亡くなった時、さほどショ
ックを受けなかった。お百はすでに馬琴の生活の圏外にいたからである。
それよりお路の手を借りて『八犬伝』を進めることに没頭した。
そしてお百が死んで半年後、文化11年(1814)48歳にして初輯
を出版してから28年、馬琴75歳、天保12年8月8日ついに『南総
里見八犬伝』(全9集53巻)が完成を見た。
なんと400字詰め原稿用紙で6千6百枚、世界屈指の大長編作品の誕
生である。ただ馬琴の几帳面な性格と老人のもつ気性に従って、作品は
後半から少しだれ気味で、また八犬士の子の時代まで丁寧に書き添えた
ために、読者の興味を削いだ、としても盲目となってからも倦まず弛ま
ず精魂を傾け尽くして不朽の大作を仕上げたところが馬琴なのである。






時どきは水母になっている頭  谷口 義






江戸の町人文化を根こそぎ滅ぼした天保の最中、80に近づく馬琴は狭い
同心屋敷でお路に支えられて、ぼつぼつ合巻や読本の口述を続けた。
が、そこには特筆するような作品は生まれなかった。あるいは琴童と号し
たお路の作かもしれない。孫の太郎は鉄砲同心として朝早く鉄砲の稽古に
赴いたり、当番で勤務に出るようになった。しかし同心の扶持では、一家
の生活が成り立ちにくかった。馬琴はいままで売り惜しんできた『兎園小
説』の原本まで売り払わなくてはならなかった。
この後、馬琴は嘉永元年(1848)11月6日、82歳で老衰死した。






千の風になるからお墓いりません  藤井康信






生涯、馬琴は人付き合いが嫌いで、偏狭で、尊大傲慢だった。狂歌師宿屋
飯盛で同門の柳亭種彦が、若いころ、読本『綟手摺昔木偶』(もじてずり
むかしにんぎょう)を出したとき「この作者、これほどまでには至らじと
思いしが思うにまして上達せり、別人の作れるが如し」と持ち上げた。が、
『偐紫田舎源氏』で大当たりをとると、種彦の作品はみんな「誨淫導慾の
悪書」で風俗を害するものだと攻撃してやまなかった。
為永春水の人情本『春告鳥』では「聞くに堪えずして、捨てさらしむ」と
言った。相手にもこういう態度は伝わるものだから、戯作者の間で馬琴が
敬愛されなかったとしても不思議ではない。
馬琴の葬式は寂しいものになった。




魚群探知機を置く斜線のど真ん中  山本早苗

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目を閉じて見えてくるのは過去ばかり  笠原道子    



    (画像は拡大してご覧ください)
左・馬琴の下絵・右・絵師重信の挿絵 (国立国会図書館蔵)




江戸の小説は、読本でも合巻でも、挿絵の絵組みは著作者が指定した。
普通、著作者は原稿とともに、挿絵の下絵を描いて絵師にわたす。
絵師は著作者の指定に基づいて、絵を描く。
絵師が口を挟むことはほとんどない。
著作者が指定するのは挿絵だけでなく、口絵・表紙・見返しなど
一切のデザインは、著作者の指揮下にあり、想像過程の腹案もあって、
造本の監修まで著作者がした。



「馬琴」-④ 晩年





頭陀二たび著作堂に来訪す(国貞画)
掛軸に「写し見する鏡に親のなつかしき我が影ながらかたみとおもへば」
額には「仁者は寿(いのちなが)し」 の揮毫がある。



山東京伝の薦めで勤めていた蔦屋の手代を辞め、馬琴が下駄屋の養子と
して入った飯田町坂下の住居は敷地10坪にも足らぬ二階家で、40余
りの蔵書を積んでおいたため、土台がめりこみ、柱が傾き、障子の立て
付けが合わず、大風が吹けば家がぐらぐら揺れ動くほどだった。それで
もその二階には、「著作堂」と名付けた馬琴の書斎兼執筆部屋があり、
多分楽しかっただろう彼が世に出る前の青春時代がつまっている。京伝
北斎大田南畝らを招き、芸術論を交わし、口論もした。だが、馬琴
が人気作家になるにつれ、放漫な彼の性格に嫌気がさして、多くの仲間
が絶交というかたちで離れていったのも、この家の延長線上にある。



神様の吐息でしょうか星が降る  合田瑠美子




馬琴がお百と結婚した翌年の寛政6年(1794)長女・が生れ、2
年後に二女・が生まれ、その翌年には、長男・鎮五郎(のち宗伯)が
生れ、三女のが2年後に生まれた。子供たちは無事成長した。文化8
年春、長女・幸に養子をとって、飯田町の家を譲ろうと考えた。しかし
馬琴の眼鏡にかなわず秋にはそれを取り止めた。翌年春にも縁組したが、
夏にこれも取りやめ、立花家へ奥奉公入った。近所では「あの気難しい
親爺がいたんじゃ婿にくる男はいないよ」ととりざたされた。
そして幸が31歳になったとき、奥奉公から戻っており、ようやく伊勢
の出身で、呉服屋の手代をしていた吉田新六というものを婿に迎えるこ
とができた。馬琴は自分が継ぐことを避けた伊勢屋清右衛門という名跡
と飯田町の家を譲り渡して、自分は神田明神下石坂下の家に移った。つ
まり幸の誕生一年前から結婚までの32年間、飯田町にいたことになる。
馬琴59歳であった。



居心地がよくて胸びれうしろ肢  山本早苗





現在、中坂下(千代田区九段)の滝沢馬琴邸跡には馬琴ゆかりの井戸が残り、
この井戸で馬琴が硯に水を汲み筆を洗っていたことから「硯の井戸」と
呼ばれ都旧跡に指定されている。





神田明神下の家は、馬琴51歳の秋、長男・鎮五郎が宗伯と改め、兄の
興旨を継ぎ滝沢嫡家が住む家として買い求めたものである。二女の祐は、
山崎屋平太郎に嫁いたが離縁。まもなく四谷麹町の伊勢屋喜兵衛と再婚
しており、宗伯に妻のお百と三女の鍬が同居していた。
今度の家は敷地50坪、建坪16坪で前の飯田町の家よりはましだった。
その後、隣の家を買い取って80坪の敷地となり、家も改築して庭や池
をこしらえ、上野の市に出かけて苗木を買って植えこんだりした。ただ
し今は、町人の身分になっていた馬琴が、江戸の土地を買うことは許さ
れなかった。馬琴が買ったのは借地権であって、権利を所有する旗本か
ら屋敷の一部を借りて使用するだけだった。この地主の継母が小うるさ
く、地主風を吹かせて馬琴を悩ませ続けた。馬琴も一時転居を考えて、
別の場所を探したけれど、おもわしい処もなく天保7年(馬琴69歳)
に四谷信濃坂に移転するまで、腹を立てながら暮らすことになる。



黄色い雨の降る朝の時間割  井上一筒



ただし神田明神下という場所は、当時の馬琴の活動にとって極めて都合
がよかった。というのは、この頃、馬琴は一介の戯作者でなく和漢天竺
古今東西のことに通暁した学者の一人とみられ始めており、神田明神界
隈には、すぐそばに国学者・屋代弘賢(やしろひろかた)の屋敷があり、
湯島には考証学者・狩谷棭斎(かりやえきさい)の家もあったからであ
る。いずれも古今東西にわたっての物知りである。特に屋代弘賢は、随
筆家・山崎美成ら同士とともに、「耽奇会」という集まりをもって珍し
い古書画や古い道具を持ち寄って見せ合う一方、毎月一回、「兎園会」
を催して、めいめい世間の珍事異聞を報告し合うことを常とした。
馬琴にとってこういう集まりは、小説と知識の種を仕入れるのに絶好の
場所だったのである。



靴紐を結びなおして生きて行く  吉崎柳歩




もっともこの「耽奇会」「兎園会」も、やっぱりというか、どちらも
劣らず我の強い馬琴と山崎美成との激しい口論のため、解散してしまう。
この二つの物好きの集まりが潰れてから、馬琴はほとんど外出せず、も
っぱら室内で戯作三昧の生活を続けることになった。たまに外出しても、
寺参り、お宮参り、縁日の植木を冷やかすくらいで、個人の家を訪ねた
ことは滅多にない。馬琴の日記によれば彼の外出回数は、1年間に20
回そこそこ。銭湯は江戸っ子の唯一の気分転換の場所であるが、馬琴は
半年に一回づつ、年に二回ほどしか行っていない。また当時、一介の戯
作者に家風呂をもつことは許されなかったから、入浴するには銭湯に出
かけなければならない。それが嫌いだったから入浴しなかったのだろう。
夏の暑い盛りには行水をしたが、それも一夏を通して3、4回にすぎな
かった。そのように外出をしないから、耽奇会・兎園会が消滅してから
馬琴の交際範囲は一段とせまくなった。



その向うはジンベイザメの領分  山口ろっぱ




だがすぐ近くに住む耽奇会仲間の屋代弘賢とは、ずっと昵懇にしており、
馬琴が重病にかかった時は、弘賢は勤めの往復に立ち寄って病状を尋ね、
何度も見舞いの品を贈り、なじみの針灸師をやって、治療させている。
つね日頃も、古書珍籍を貸したり借りたり、古事や文字に不審があれば
互いに尋ねあったりして、弘賢との交際は、耽奇会解散を十二分に補っ
て余りがあった。にも拘わらず、馬琴のほうから弘賢の屋敷を訪れるこ
とはあまりなく、本を借りたり貸したりするのには、息子の宗伯や下女
を遣わすことが多かった。そんなことで訪れてくるのは、親戚や出版関
係の本屋・絵師・版木師などのほかには、まず知名の士はやってこない。
むろん、戯作者の第一人者だから、その名声を慕って面会を求める者が
少なくなかったけれど、すべて居留守を使って玄関から追い返されるの
が常だった。



首までにしとく情けに沈むのは  清水すみれ





    製本作業中


このころ馬琴がもっとも充実していた時期であり、著作、挿絵の下書き、
校正、版木の選定と交渉、抄録・写本の校閲、その間に読書をいれると、
無用の客に応接していヒマも、銭湯に出かけてのんびり鼻歌を歌ってい
る余裕などなかったのかもしれない。
その忙しさは、人気作家である馬琴は、それぞれ異なる出版屋の求めに
応じて、八種の長編を同時に出版していた。1年に8種類の続きものは、
江戸時代のテンポは、きわめてのろかったことを考えれば、先に書いた
ように著作から校正まで1人で担当しなければならなかったのだから、
原稿用紙に書き捨てれば、あとは全て編集者がやってくれる現代の流行
作家の何倍もの苦労があった。


丹田に闘志燃やしている寡黙  上嶋幸雀 




天保2年、馬琴65歳、その多忙ぶりは6種の長編の続きものと一冊の
随筆集を出版したが「著述、下絵書きに従事した日が201日、著書の
校正した日が51日」で、そのほかの日も読書・抄録写本の校閲など、
著述の準備にいそしんでいるほかに、筆まめだった馬琴は、耽奇会に出
品された珍しい品々を絵に写し、兎園会で語られる珍聞奇談をかき取っ
たり、自分の一族の身の上話や、いままで取り上げられたことのない江
戸戯作者たちの評伝なども、根気よく資料を蒐集・調査して、書き留め
たものを手写しするという作業までしていた。



頑な私にまぶす塩麹  松本柾子






 

       当時の暮らしにおける物の値段




さて休む間もなく働いて馬琴の収入はどれくらいだったのか。
馬琴は、一年に平均二挺ずつ古梅園の墨を使うというほどの精力家で、
51歳から70歳まで、20年間の著作数を見てみると、読本類が24,
5篇、合巻類が60篇近くあり、ほかに随筆、雑著が20種ほどある。
とにかく1年に4,5篇の著述を書いて100両から140両の収入を
得ていたように推測される。
ほかに宗伯の勤め先からの扶持米、売薬、上家賃などを加えると、まず
中流生活者として相当のものであった。それに質素倹約を第一とする馬
琴だから、そう生活に窮迫するはずもなく、余裕はありそうに見え、相
当の資産を残したように思える。だが事実は、いつも貯蓄というほどの
ものがなかった。同業者仲間と比較しても、かなり裕福なはずの馬琴が、
どうして生活に窮乏していたのだろうか。



ボリュームを下げて本音を語りだす   靍田寿子




馬琴が絶頂期の天保3年9月の篠斎への手紙には「貯えも貨殖もせず、
その日暮らし同様に過ごしている」と書いている。『南総里見八犬伝』
の回外剰筆(かいがいじょうひつ)に和漢必要の書籍を買うには、原稿
料では、不足していた。いつも倹約していたと書いている。
ほかに馬琴が不時の金の必要に迫られたのは、宗伯を滝沢本家を継がせ、
医師開業させるために家屋を求めた時、宗伯・お百が大病を患った時、
文政10年の馬琴が霍乱に罹った時、天保7年四谷に組屋敷を買って孫
に御家人の株を買い与えた時、その翌年、その古家に修繕を加えた時、
これらが重なり続き、馬琴は気の毒なほど打ち萎れ、金策に心を労して
いる、と日記に認めている。その金策のために馬琴は、どんな嫌なこと
でもあえてやらざるを得なかった。



むつかしく考えないで水を飲む  谷口 義






「江戸高名会亭尽 両国柳橋 河内屋」歌川広重画)
料亭では富裕町人や文人画人をも交えた雅宴や書画会がよく開かれ、
社交クラブの役割も果たしていた。



天保7年(1836)馬琴の古希に『南総里見八犬伝』の板本の文溪堂
丁子屋平兵衛「書画会」を興行するよう勧めた。『新編金瓶梅』の板
本の甘泉堂泉屋市兵衛も勧めた。書画会とは今でいう「経済交流会」の
ようなもので、馬琴は気がすすまなかった。しかし前の年に宗伯を失い、
孫の太郎に滝沢嫡家を継がせるため大金を必要としていた。結局は両国
「柳橋の万八楼」で興行することにした。化政天保明治時代には書画会
は大流行した。一流料亭でできるだけ多数の客を寄せ集めて、自作の書
や絵を配り、あるいは席上で依頼に応じて筆をとるのだが、これに対し
て参会者は、花代を用意してゆく、酒肴はもとより、芸妓入りのどんち
ゃん騒ぎも珍しくなかった。しかも会を成功させるためには、半年も前
から高名な文人墨客の宅を回って、出席を依頼する必要があった。
どれもこれも馬琴には、やりきれぬことばかりであった。歩行不自由な
馬琴は駕籠に乗って廻った。夏の暑さの中大変な思いをした。
だが今回ばかりは利のための俗事、何事も渡世の一助と思って努めた。


言わんでもその顔見たら分かります  北原照子




   御料理献立競
行司審判として萬八の名も見える。



書画会は大盛会であった。儒者・書家・戯作者・画工・筆工・狂歌師・
紙問屋・江戸市中の本屋・出版元等が来会した。渡辺崋山・屋代博賢・
柳亭種彦・為永春水・歌川国貞などが来た。
万八楼の中座敷40畳、左右各24畳、別席12畳など約110数畳
にぎっちりつまって、入れぬ客は縁側から下座敷にまであふれた。八
犬伝の人気作家を一目見ようと、物好きもいた。来客は800人余り、
世話人や馬琴の身寄りのものを加えると、1千人にも達した。当日、
膳札・さかな札1284人前、酒は三樽ではたらず、さらに半樽を買
い足した。早朝から日暮れて会を閉じるまで、正座して謝辞を述べ、
頼まれるままに扇子に一行認めていたのは、馬琴にとって一生に一度
の辛抱だった。




機械です歪な丸が描けません  郷田みや

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遮断機が上がる「いつか」とすれちがう  くんじろう






  甲州三坂水面


 「富士山と云えば北斎」
北斎について馬琴先生がかつてこんなことを申しておりました。
「右に置きたい人物をわざと左に描いておくと、北斎は必ず右
に持ってくる」 このように馬琴は北斎が先天的ユーモア人であること
を熟知しながら何度も喧嘩をしてしまう。
上記の写真は、北斎らしさを顕著に表した絵で、陸の富士山は夏で、
湖に映っている富士山は雪を被った冬。これが川柳的北斎なのです



額縁を抜けてときどき蝶になる  小林すみえ




「滝沢馬琴」-③  北斎と絶交





『椿説弓張月』は犬猿の仲の馬琴・北斎2人が珍しく仲よく、文化4年
(1804)無事に刊行される運びとなった。だが江戸の書肆がこれに
安堵したのも束の間、文化5年(1808)書肆の須原市兵衛に請われ
『三七全伝南柯夢』(さんしちぜんでんなんかのゆめ)という読本で2
人は、再びコンビを組むことになる。この仕事も前半は喧嘩もなく順調
に進んでいた。が、中盤から後半に入り「またもや」角を突き合わせる
事態が起こる。またもやとは、宝暦7年(1757)出版の『通俗忠義
水滸伝』(岡島冠山・翻訳本)が漢文調で読み難く、文化2年になって
馬琴が読み易い『新編水滸画伝』を刊行することになった時のこと。


めでたしで終わった話でしたのに  津田照子




幼少時代から本の虫であった馬琴は和漢の古典に造詣が深く、とり分け、
唐の有職故実(ゆうそくこじつ)の風俗について並々でない知識があり、
その博識ぶりは、北斎の及ぶものではない。絵のことにしか興味のない
北斎が、宋代の文化・習俗について、知悉しているわけでなく、
「馬琴は家宅や衣服を支那風にと言うが、かつて見たこともないものを、
どのように描けというのか」とブツブツ言いながらも、一応は三国志で
調べ、空想ながら支那を描いてみせた。





  


不幸より感度が鈍い幸福度  ふじのひろし




その挿絵に完璧主義の馬琴が噛みついたのである。
『…人物の衣服、室内の装飾、日本にあらず、支那にあらず一種の風を
描き、またその挙動は、酒宴の席に卓子(テーブル)を置き、数人の客、
椅子により、芸妓は地板に列座し蛇味線を弾くなど、その図、和漢錯雑
(まぜこぜ)抱腹に堪えざるもの、往々これあり。北斎翁この図をもて、
自ら足れりとするか、挿画中に酔中筆と記せる一紙あり。余は『画伝』
九編をあげて、酔中筆と記さんを欲するなり。馬琴の痛論惜かざるもま
た宣ならずや。嗚呼画伝九編は、蓋し北斎一世の失策なるべし』
この挿画のことで馬琴は「北斎が挿画を描くなら、ワシは後編の翻訳は
やらない」と云い出し、一方の北斎も負けておらず「馬琴の翻訳ものは
もう描かない」と、まるで子供の喧嘩が始まったのである。


愛憎を重ねて人間しています  杉浦多津子




この喧嘩に困った版元・角丸屋甚助は、江戸の書肆を集めて、評議会を
開き、夫々の意見をまとめた結果は次のような答えになった。
「当時の馬琴の作、北斎の画、並び行われて何れも優劣なしといえども、
この書に絵本といえる題号あれば、画工の意に従うべしと言えるに決し
たり。思うに『水滸画伝』の図を選ぶは難かるべし。如何となれば、未
だかつて邦人が見たこともない家屋、衣服、器具などを描くというのは、
無理がある。…後略」ということで落着したことがある。評議の結果に
ついて馬琴は面白いはずもないが、書肆からは仕事を頂き、本は売って
もらう義理もあり、泣く泣く引き下がった。


引き際の美学で人は試される  梶原邦夫









寄り道はさておいて『三七全伝南柯夢』に話を戻す。
椿説弓張月の挿画の評判も上々で、水滸伝の評議のこともあり、北斎は、
調子に乗って馬琴の意に沿わないことをやらかしたのである。馬琴は読
本創作上の思想として堅持していた「勧善懲悪」の意を表すため,三勝
半七の情死という実説を,三勝の生母・敷浪と半七の父・半六が悔恨の
自殺をとげる結末に改めようと考えた。このクライマックスのところで、
北斎は話のなかには出てこない、野狐の食をあさる体を描いて、寒夜の
景物にしたのである。馬琴はこの板下を見て「この如く蛇足を添えたら
情死の男女は、恰も野狐に誑かされるようなもの、速やかに削除しろ」
と板下を北斎につき返した。これに北斎はカチンと来た。
「馬琴はワシの挿画によって、著作の意を補っていることを知らない。
強いて削除するなら前回より描いた挿画を全部返せ。ワシは今後、馬琴
の挿画は描かない」と言い返した。これにも版元は甚だ迷惑し百方奔走
して、ようやく和解に漕ぎつけたということがあった。
富士の狩場へ大磯の狐も出  錦帯




沸点が違いすぎますさようなら  きむらまさこ




これに懲りず文化9年、江戸の書肆・榎本平吉が文化5年の「南柯夢」
評判がよかったことで、馬琴・北斎に続編を書いて欲しいと言ってくる。
こちらにも懲りない2人がいて、その仕事を引き受けることにした。
北斎が又この挿画を描いたが、再びそれで馬琴とのあいだで議論が生じ、
2人は終に交わりを絶つまでに発展したのである。議論の元は、刀屋同樹
の立ち回りのところで馬琴が「同樹が衣をからげ、草履を咥えている絵を
描いてくれ」と言ってきた。北斎は笑って「こんな汚い物を誰が口にする
というのか、どうしてもと言うのなら、お前が先に咥えてみろよ」さらに
「敵を討つという時に一度脱いだ草履を拾い直して、口に咥えるなんぞ理
屈にあわねえ。新しい趣向だといっても程があらあァ」とまくし立てた。
この喧嘩で2人は完全に絶交することになる。のちに馬琴は「里見八犬伝」
の執筆をするが、挿絵は柳川重信、渓斎英泉、北斎は弟子を代役に行かせ、
北斎は一切関わらなかった。



「あっ」という隙間「ぽっ」という隙間  山口ろっぱ






      北斎の狐の図  『三国妖狐伝 第一斑足王ごてんのだん』




「馬琴と北斎の性格」
気位高く強情、一匹の大きな天邪鬼をこころに巣食わせる北斎と、
人間嫌い世間嫌いで知られる狷介そのものの馬琴とが、そうそううまく
いくわけがない。ここで両者の性格を日常生活から見てみることにする。
 馬琴の日常生活は、電車の時刻表のように規則正しい。
十数年一日も欠かすことなく書いている日記が証明しているように、
とことん几帳面な性格の人なのである。その一日一日の行事に、少しの
歪みもなければ、歪みもなくほとんど判に押したような時間でスケジュ
ールが組まれている。几帳面な性格が倦むことなく続けられている。
これは一に方正にして規律を好む彼の性格であるが、滝沢家代々の厳格
にして形式的なる庭訓の結果でもあった。馬琴は畳に仰臥して読書する
習慣があった。また時には、胡坐も組んだ。「自ら深く思い定めたる」
うえで決めた規律には、たとえどんな小事にも、これを破り侮ることを
するまいとして始終努めていた。

なめくじがとっても偉く見えてくる  佐藤正昭





 
馬琴の著書・北斎の絵画が並んだ
  江 戸 の 本 屋




例えばこうである。
「朝は夏冬とも大抵六っ時から五っ時(午前6~8時)の間に起きる。
洗面後まず恭しく仏壇に手を合せ、それから縁端に出て、仰向きで顔を
撫で、耳を引き、歯をたたき、胸を擦り、腕をさすり、腰を摩り、而し
て腰に手をあてて、じっと何かをみつめたり。深呼吸法などを繰り返す」
これは水戸烈公の運動法で、藩士・立原杏所などから伝授受けた人から、
聞き伝わったものだが、馬琴は、水戸烈公自慢の運動は欠かさなかった。
それが終わり質素な食事、それから客間の襖際に坐ってゆっくり茶を啜る。


沈黙というかたくなな意思表示  青木敏子




そのうちには大抵書斎の掃除がすむので、その方へ移る。そして午前中に
必ず前日の日記を記入してから著作の筆をとる。しかしその頃には、大抵
版下書きの筆耕者が前日の原稿を書き上げてきているので、その校正に目
を通さなければならない。時には、息子の宗伯などにも校合(校正)を命
ずることもあるが、多くは自分でやらなければすまなかった。
綿密周到な彼の性質としては、例え誤字・俗字でもそのままには置けない。
一々字引に照合して字画を正している。それでも出版本に誤謬がときどき
あるので、馬琴は諸方の知人に誤字脱字の注意を頼んでいる。そのため出
版社はいつも馬琴の校正難に苦しんで、是非なく出版を断念した者もあっ
たという。日記をみても、著作のための労苦よりも、馬琴は校正のために
多くの精力を尽くして、絶えず書肆の不徳義と、印刷職人らの不忠実とを
罵っている。


この頃は笑い転げる事減って  荒井加寿




「次に北斎の日頃はどうなんだろう」
北斎の弟子の露木為一から聞いたところによれば、北斎の性格は、礼儀
やへりくだることを好まず、淡泊で、知人に会っても頭を下げることは
なく、ただ「こんにちは」というか「イヤ」というだけで四季の暑さ寒
さや、体調の具合など長々と喋ることはなかった。
また買ってきた食べ物も器に移さず、包みの竹の皮や重箱であっても、
構うことなく自分の前に置き、箸も使わないで、直に手で掴んで喰い、
食べ尽くすと重箱や竹の皮はそのままに捨て置いていた。という。


仲間だよ蟻も鼠もゴキブリも  新家完司




「こんな話もある」
かつて母の年回に、馬琴が北斎の困窮を察して、若干の金を紙に包んで
渡したことがある。夜になって2人が談笑をしている時、北斎が袂から
紙を取り出し、鼻をかんで投げ捨てた。馬琴がこれを見て「これは今朝
渡した香典を包んだ紙ではないか。世の中にある金というもの、仏事に
供せず何ということに使うのか」と怒り罵った。
すると北斎は、
「君が言うように頂いた金は、自分の食い物に使った。精進物を仏前に
供し、僧侶を雇い読経をしてもらうことは、世俗の虚礼である。如かず
父母の遺体、すなわち我が一身を養うには、一身を養い、百歳の寿を有
つのは、これ父母に孝ではないのか」馬琴はこれを聞いて黙然とした。
 文化9年、馬琴と北斎は絶交をした。が、馬琴の書簡には、北斎を賞
賛する記述が散見され、その画力は後々も認めていたようだから、絶交
は本意ではなかったかもしれないし、また一緒に仕事をしたみたいと考
えていたかもしれない。しかし馬琴は一端言い出したことは絶対にひっ
こめない。この頑なな性格をもって、生涯手紙一本の付き合いも持たな
かった。


ゆうべから小象一頭分の鬱  斉藤和子

拍手[4回]

ひぐらしの閉会宣言聞きながら  河村啓子






    『曲亭一風京伝張』



巻頭の草双紙『曲亭一風京伝張』に描かれている絵は「著作堂」の文字
が見えるところから、飯田町の馬琴の古家の二階か、山東京伝(右)が
馬琴の家を訪問し、制作中の著作について会話を交わしている。
茶を運んでくるのは美しすぎる―? 馬琴の妻・お百だろうか。






58歳の馬琴は剃髪して蓑笠漁隠と称する。


「滝沢馬琴」-②    & 葛飾北斎・山東京伝
馬琴と北斎が『椿説弓張月』の共作に耽った家とはどんなところだった。
『家広しとにはあらねど、爽(さやか)に住みなして客間あり居間あり、
書斎あり厨あり。室を限る事八つ、障子・襖を初め、調度すべて備わら
ぬはなし。植込みの様はいやしからず、花は落葉の見苦しいとて、常盤
の色を多く植えたれば、風の調べいとゆかしく池の漣(さざなみ)金鱗
(鯉)を浮かべてまばゆし。艮(うしとら)には高き山を築き、稲荷の
社を勧請せるは、鬼門の鎮めとかや。庭もせに生い敷ける芝生の、塵も
すえじと掃らい清めたるなど、心地よしともよし。あわれ、いかならむ
あで(どんな急の用事で)人来まさんとも恥ずかしからぬ様なり』
これは7歳でこの家を離れたつぎという女性の回想であり、別に、山と
積んだ本で家は狭く傾いていたという記もあるから、どうも誇張っぽい。
何はともあれ、巻頭の絵にも描かれてる二階の一室・「著作堂」で馬琴
と北斎の作業(著作・挿絵)が始まった。


一割ほど乗せさせてもろてます  雨森茂樹




「馬琴と北斎」 出会い
著作堂で2人は、異常ともいえるほどの集中力と精力を作品に傾注した。
そして数か月が過ぎ去った。結果はすぐに出た。馬琴の史伝読本の初作
となった『椿説弓張月』前編が文化4年に発布されるや、予想を上回る
評判を呼び、2人の名を一躍高めることになる。
 『椿説弓張月』とは前半『保元物語』を後半『水滸後伝』を下敷きに、
鎮西八郎為朝が保元の乱に敗れて伊豆大島に流され死んだはずの為朝が
琉球に渡り琉球王国を再建するという「奇想天外」「勧善懲悪」の伝奇
物語である。この5編28巻29冊からなる大河小説―馬琴の縦横無尽
の想像力を駆使した破天荒かつ壮大な冒険奇譚―は北斎の劇的かつ生々
しい筆致の挿絵とあいまって、砕いていえば馬琴の堅苦しい文章に北斎
の躍動的な絵筆が、生命力と臨場感を与え、江戸市中の話題をかっさら
ったのである。


いつの日か空を飛びたい二枚貝  三村一子





前にも述べたが、北斎が馬琴と組んだ最初の仕事は、『花春虱道行』
北斎がまだ勝川春朗を名乗っていた寛政4年のこと。
27歳の馬琴は、蔦屋で手代をしながら、山東京伝門人大栄山として戯
作者の第一歩を踏み出して間がなかった。一方の北斎はこの年33歳、
師の春章が他界し、転機を迎えようとしていた。
この2人を結びつけたのが耕書堂の主人・蔦屋重三郎であった。北斎は
勝川派を首になり、二代目・俵屋宗理を襲名していた。寛政8年のこと
である。これまでに絵や著作を持ち耕書堂に出入りをしていた北斎は、
当然の如く、手代の馬琴と世間話をする機会もあったろう。天才2人の
初めての出会いである。そうした必然的出会いの中で北斎は、馬琴から
『北斗七星は、星の中で最も光の強い大物の星であり、かつまた天上で
の最高が、永遠に生きる北斗だ』と聴かされた。
北斎は脳味噌の中の鱗がポロポロ落ちる音を聞き、たちまち北斎は
「故事来歴古今東西」馬琴の学識の広さに「尊敬の念」を持ったという。





天秤を揺らす出会いという奇跡  真島久美子






 
弓張月文言




弟子の証言によれば『北斎はいつも『法華経普賢品』の呪(まじな)い
を唱えていた。それは外出の途中でも、唱えて止めなかった。この呪い
を唱えて歩いている時は、たまたま知人に会っても目に入らず、たとえ
声をかけられても雑談することも嫌った』という。
北斎は日頃から、柳島の妙見さんのお参りを絶やさない熱心な日蓮宗の
信者である。ご本尊の妙見菩薩は、北斗妙見または北辰妙見とも呼ばれ、
国土を守護し災厄を除き人に福利を与える神様で、「永遠に輝く」星・
北斗七星は御神体とされている。
馬琴の話を聞いてまもなく北斎は、宗理改め「北斎辰政」の号を名乗る。
いわゆる馬琴は「北斎」の名付け親なのである。また北斎が馬琴を尊敬
していたことは、蔦屋重三郎宛に著した『竈将軍勘略之巻』(かまどし
ょうぐんかんりゃくのまき)の草紙の末に載せている「悪しきところは、
曲亭馬琴先生へ御直し下され候様云々」の文面を見ても分かる通り。
こうした訳があるから北斎は、馬琴の共作の呼びかけに、即座にO・Kを
だしたのである。


ゆでたまごつるりとむける朝でした  赤松蛍子




またマイペース型の北斎がどれだけ馬琴にへり下っていたかが飯島氏の
『葛飾北斎伝』でも分かる。
「日ごろ北斎は外出するのに下駄を用いることはなく、また雪駄を用い
ることもない。雨降りで道がぬかるんで悪い時は、草履を履き、晴れて
泥土が乾けば麻裏草履を用いた」と弟子の為一が語っているとある。
それが馬琴の家に食客(居候)になった折には、
「恰も門弟のごとく、共に他に出る時は、北斎は麻裏草履を履き、後ろ
に付き添って歩きたり」とある。
兎にも角にも正反対の性格の天才同士、これまで何度も互いの芸術論で
ぶつかってきた。周りの人たちも、2人が一つ部屋に籠って行う仕事に
いつ火花が飛び交うのか、心配は尽きなかった。
ところが北斎が一歩下がったお陰で、安寧・平和裏に仕事が進んだ。
「この按配じゃァ、当分、あの先生方の間に波風も立つめえ」
傍目には、阿吽の仲のようにも映った馬琴と北斎の様子に、江戸の書肆
が安堵の胸をなでおろした…。
のも束の間……「北斎・馬琴の大喧嘩」へ、続きは、馬琴ー③で。



泥跳ねをいっぱい付けて歩いてる  津田照子






   山東京伝


「馬琴と京伝」 絶交
この『椿説弓張月』全編六巻を刊行するに至って馬琴は、山東京伝と肩
を並べる地位を築いた。そこで独占欲の強い馬琴は、合巻においても、
最大のライバルと目していた京伝を打ち負かしてやろうと京伝の代表作
『桜姫全伝曙草紙』(文化2年)の主人公・桜姫、清玄桜江姫之助、
清玄尼と男女をとり替えて『姥桜女清玄』(文化7年)を書き、京伝に
対し「どうだ!」とばかり戦線布告をしたのである。
さすがに温厚な京伝も、売られた喧嘩はとこれに応じて『桜姫筆再咲』
を書いた。しかしあえなくこれは京伝の勝ちで、馬琴を打ちのめした。
ところがその3年後の文化10年、今度は京伝が『双蝶記』で馬琴との
競争に決定的に敗北を喫してしまう。馬琴が気をよくしたことはいうま
でもない。京伝はこの敗北を自ら認めて読本の筆を折ってから、馬琴は
読本だけでなく、戯作界の王者ともいうべき地位を保つことになった。


爪切って小さな乱をうんでいく  山本昌乃



この泥仕合をうんだ背景には。馬琴の一方的な確執がある。
何の根拠もなく、曖昧な論理で感情的になった馬琴の一人よがりという
ものだった。主な原因の一つは、貯蓄論についての意見の衝突であった。
京伝は自身没後の生計として、理髪店の株を買い求め置き、その利金を
妻に与えようと考えて、事の是非を馬琴に相談をした。
そのとき馬琴は居丈高に開き直って、孔孟の言を持ち出して京伝を攻撃、
蓄財の不義を説いたのである。
「財を遺すは後の患いを残すことになる。私に男女の子あるが財を遺す
余力などない。まして妻のために後のことなど思っている暇などない」
と強弁し京伝を攻めた。
京伝は「そんな考え方をしていると将来暗渠だよ。友も失ってしまう」
と言ったが、馬琴はそれを聞いて「人各志あり」と答えて、何の悔いる
ところはなかった。馬琴40代の頃で、これが両家疎遠の一因となった。



四捨五入された四から乾きだす  掛川徹明




ともかく馬琴は、江戸生れの江戸育ちに関わらず、人付き合いが嫌いで、
偏狭で尊大傲慢のそしりを免れなかった。それどころか同業者に対して
嫉妬深かった。「小説・読本にかけては、往古と今とを言わず、京伝を
冠とし次に馬琴なり」(伝記作書)とか「近来京伝につぎての作者に御
座候」(大田南畝の京坂知人への紹介状)とか、とかく京伝の下に置か
れがちだった。こうした他人の評価が馬琴の京伝を嫌う発端だろうが、
しかし無頼放浪の馬琴が世に出るまでは、京伝の家に強引に居候したこ
とを初め、いろんな世話になっていて、京伝は先生になることを断った
とはいえ、師といってもおかしくない。その師でもあり、読本界を二分
していた京伝は、馬琴の『南総里見八犬伝』刊行を機に読本制作を断念、
二年後の文化13年9月7日、56歳でこの世を去ってしまった。
ところがその京伝の葬儀に際し、馬琴に通知したけれど、息子の宗伯
名代として寺にやったばかりで、当人は現れず、初七日に招かれても、
姿を見せなかったという。


遮断機が上がる「いつか」とすれちがう くんじろう







  桜姫全伝曙草紙



『桜姫全伝曙草紙』とは、
桜姫を一目見て清水寺僧清玄は、深い恋の淵に陥ちてしまう。
その美しさに魅せられてしまった心は、どう足掻いてももとの時分に戻
しようがなく、かなわぬ想い」と寺を出る。
時は過ぎて、清玄は墓守をしていた。そこに桜姫の棺が運ばれてくる。
死んでもなお美しい遺体に無常を観じて流した清玄の涙が、桜姫の口に
入ると、姫はたちまち蘇生する。
「ここで自分の思いを果せないでなんとする」
清玄に昔の愛着が沸々と蘇り、桜姫に迫った。
だが、たまたまそこに居合わせた弥陀二郎に殺されてしまう。
「あな怖しや腹たちや、目前に修羅の苦を見るは誰ゆえぞ、姫ゆえに生き
ながら地獄に堕する此の恨みいかばかり、何にかえても思ひしらさでおく
べきか」
清玄は、愛欲の死霊となって纏わり続けるという怪奇物語。


後ろめたい昨日の雑巾が乾く  山本早苗





  江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)




【蘊蓄】 上の本の題にしろ京伝は「名付けの名人」
ポルトガル語に「調理」の意味で「テンペロ」というの言葉があり。
それに「天婦羅」という漢字をあてたのが、山東京伝だとか。
 上方から江戸に芸妓と駆け落ちしてきた利助という男が、
「大阪には魚を油で揚げた<つけあげ>というものが、江戸では見当たら
ないので、夜店でこれをやってみたい」と京伝先生に相談をした。そこで
京伝先生が利助の作ったものを試食してみるとなかなか美味しい。余力
「いいんじゃないか、賛成だよ」と先生に絶賛をしていただいたところで、
利助は「折角だから名前をつけてほしい」
と頼んだ。
そこでポルトガル語が分かる先生「テンペロ」「天麩羅」という漢字を
つけて「てんぷら」呼んだ。漢字はその時の利助の風体を見て、天竺風の
「天」「麩」小麦色の「羅」<うすぎぬ>の衣を纏っていたということで
「天麩羅」と付けたとか。「さすが小説を書く先生だ」と利助喜んで、
人生再出発をしたのです。(蜘蛛の糸巻) 
ゆくりなく よその軒にも つたえしは なか/\はつる 蛛の糸巻 




転ぶのも無駄でなかった空の青  森口美羽

拍手[5回]

善人の顔になかなかなってこぬ  新家完司
 
 

 

   滝沢馬琴


 
「滝沢馬琴」ー① 山東京伝・葛飾北斎


明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保へと
江戸の暦が小刻みに変化する中で滝沢馬琴は生れ、そして死没するまでに
馬琴は非常に多くの著作を書き、また大都市江戸の日々の生活を知ること
ができる日記を残した。また馬琴の長男・鎮五郎(宗伯)の妻・も目を
失った馬琴の目となり、自らも馬琴の意志を継いで、日記を書き続けた。
その日記の多くが散逸したり焼失したりしたが、馬琴の生涯や家族、暮ら
し、人柄などが十分かる程度に残る日記で読み取れる。それらを纏められ
た多くの馬琴研究者に敬意をはらい参考にしながら、京伝や北斎と同時代
に生きた馬琴を追いかけてみた。

浮雲に繋がる時のコンセント  みつ木もも花

明和4年(1767)6月、馬琴は武士(父滝沢興義)の家に生まれた。
何故このように書くかと云えば馬琴は武士の家に生まれたことを、誇り
にしていたからである。しかし武士とは言え、滝沢家は代々一千石の松
平家に仕える家臣で、武士の身分に属してはいたけれど、主人が一千石
だからその家臣ともなれば、どのくらいの扶持をもらっていたか、想像
がつく。凡そ給与は、1年に2両2分2人扶持と狭い小屋だけであった。
2両2分とは、その頃、江戸では年季奉公の下女・折助・中間・六尺な
どの給金である。
しかし将来の息子の出世の期待をする父は、興邦(馬琴)の幼少期には、
亀田鵬斎に儒書を山本宗洪に医術を、儒者・黒沢右仲に論語を学ばせ、
竹庵吾山の門では俳諧の席にも出させた。さらに占星術や算術など様々
な学識を身につけさせた。この時に故事来歴・古今東西物知りの馬琴が
誕生したのである。

はるばると虹の根っこを狩りにゆく  木口雅裕


馬琴のその人生の出発点となるのは、寛政2年(1790)24歳の時
である。窮屈なお勤めや貧乏が嫌で家を飛び出し、親族・旗本や次兄の
興春のところなど転々としながら、15歳の時、叔父のもとで元服し、
通称・佐七郎を実名を興邦と称した。その後も馬琴は、定まった居所も
仕事も持たず、生業として、医師となるか儒者あるいは、俳諧師となる
かと迷い、医書よりも儒書の方が好きだったが、どれもこれも彼の肌に
合わず、無頼な青春時代を過ごした。
結果的に戯作を書く決意を固め、当時人気随一の戯作者・山東京伝の門
を叩き「弟子にしてほしい」と申し入れたたのが、24歳の時であった。
江戸っ子で気のいい京伝は、
「もの書きは、別に食えるだけの家業のかたわら、慰みにするものだ。
いまの作家は皆そうだ。また戯作は弟子として教えることは何もない。
私をはじめ、昔からいままでの戯作者には、師匠はひとりもいない。
だから弟子入りはお断り。しかし遊びに来たかったらきたまえ、作品が
できたら見てあげよう」
と言い、夢を諦めさせるべく馬琴を帰したという逸話がある。
幸か不幸か出会いのあとのそのあとの  安土理恵


しかしその後も馬琴は、よく京伝のところにやってきた。
が、そのうち占星術に覚えのある馬琴は、占い師で一稼ぎしようと神奈
川に出かけたまま、70日程京伝のところへ何の便りもよこさなかった。
「あの若者はどうしたのだろう。狼にでも食われたんだろうか」
ふと京伝が馬琴を思い出し、冗談を言っていると、ある日、
「ただいま帰りました」
と馬琴が現われた。
「留守中、洪水で畳は腐ってしまうし、壁も落ち、勝手のものも流れて
しまいました。占いのほうも儲からなんだし、どうしたらよいでしょう」
と本当なのか、お惚けなのか放蕩者の一面をのぞかせる。
食いつめた馬琴を、京伝は自分の家の居候において、戯作の代作をさせ
ることにした。馬琴の粘り勝ちで出入りを許されたのである。
翌年、馬琴は大栄山と名乗って黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはた
してにぶきょうげん)を初めて書いた。

A4からはみ出しB5になったは  山本昌乃



しかし京伝が、
「戯作者などになっても、素人の女房は養えない。まだ若いのだから、
武家に奉公するより本が好きなら本屋で働いたらどうだろう」
と忠告したところ、もとは松平家で武家奉公をしていて、それに見切り
をつけて逃げ出してきた馬琴が承知するはずがない。
「いまさら奉公という束縛を受けたくない」
と答を返した。
「それじゃどうして、生活をしていくんだね」
「じつは世渡りの道を二つ考えています。ひとつは太鼓持ち、ひとつは
講釈師です。どちらがよいでしょう」
京伝は呆れたが、
「二つのうちではまだ講釈師のほうがましだろう」
というと、馬琴は急に『伊達記』を呻りだし京伝に聞かせた。
それはとても聞かれたものじゃなかった。

まず今日の息を正しく吐いてみる  中野六助


結局、馬琴は寛政4年に京伝の紹介で興邦を瑣吉に改め、狂歌集や戯作
出版の耕書堂・蔦屋重三郎の手代となって奉公することになった。
奉公の傍ら執筆に精を出し、同5年耕書堂、甘泉堂などから出版した。
この頃は寛政の改革の真っ最中で、戯作の中でも女郎買いをもっぱら主
題とした「洒落本」は禁止となっていたので、馬琴は『花団子食気物語
(はなよりだんごくいけものがたり)』『御茶漬十二因縁』など、一冊
5枚の黄表紙を書いた。垢抜けのした才知を必要とする黄表紙は、堅苦
しく融通の利かない馬琴のNGとするジャンルであった。ましてや笑話と
もなればなおさらである。
しかし嫌いであれ何であれ、書かねば食っていけない。このころペンネ
ームを「馬琴」にした。当初は「京伝門人・大栄山人」と言っていたが、
『花団子食気物語』では「曲亭馬琴」と明記している。
(因みに馬琴の名は『十訓抄』に小野篁(おののたかむら)の「才
に非ずして、を弾とも能はじ」からとったという)。
やがて挿絵の葛飾北斎とコンビを組んで『花の春虱の道行』が当たり、
ようやく戯作者の端っこの方とはいえ仲間入りを果たす。

すっぴんで今日はまあるい爪でいる  津田照子



だが蔦屋に住み込んで戯作を書いていても、小遣い程の銭が入るだけで
苦しさは浮浪生活と大した違いがなかった。
そうした折、養子の口がかかった。相手は飯田町中坂で下駄屋を商う伊
勢屋の娘といった。お百は一度婿をとったが、うまくいかず別れ
再婚相手を探していたのである。馬琴27歳でお百は30歳、三つ年上
であったばかりでなく、すが目で容貌も芳しくなく、教養もなかった。
馬琴はあまり気乗りはしなかったが、京伝と蔦屋の勧めるままに伊勢屋
の入婿となった。決め手は伊勢屋が借家を持っていて、年20両という
家賃がきちんと入る魅力に惹かれたためである。
婿になった以上、伊勢屋清右衛門の看板を継いで、家業に精を出すのが
普通だが、馬琴はお百の無知につけこんで、滝沢の姓のまま押し押し、
履物商売には力を入れなかった。生活費はもっぱら家賃収入と片手間に
始めた手習師匠の収入である。
寛政7年の夏、百の養母が没すると下駄屋も廃業して、作家活動に専念、
翌8年から続々と本をだした。

胸突き八丁越えても茨道続く  武市柳章

享和2年(1802)5月から8月にかけて京坂への遊歴を終えたあと、
馬琴は読本作家として本格的に活動を始めた。間もない享和4年正月、
日本橋の老舗版元・鶴屋喜右衛門の要請で、読本『小説比翼文』(しょ
うせつひよくもん)を執筆することになった。黄表紙や読本の作者とし
て独り歩きを始めていた馬琴は、再び北斎とコンビを組むこととなる。
時に馬琴38歳。北斎45歳。
読本や合巻は挿絵が半分の力を持っていたし、婦女子向けだけに思う存
分和漢の故事来歴の知識の知識や儒教的教訓をひけらかすにはふさわし
くなかったから、馬琴には必ずしもお気に入りの仕事ではなかったが、
やるしかない。それでも馬琴・北斎が組んだ読本は18作品と最も多く、
このコンビが生み出す作品は、大いに人気を呼び江戸中に鳴り響いた。

まだ少し濡れている新しい風  雨森茂樹







『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』  <ちょい読み>


「阿曾忠國の娘、白縫は十六歳の美しい女性であったが、武術を好み、
腰元にまで長刀を習わせていた。その白縫は猴(さる)を飼っていたが、
腰元の若葉に欲情して襲い掛かり、捕えようとするが逃げられてしまう。
その夜若葉は殺され、白縫は猴の仕業であることに気づく。」

 
読本の世界が開けてから馬琴の名声は、世間の広く知るところとなり、
ほどなくして平林堂より読本の大作『椿説弓張月』を刊行することに
なる。読本とは、文が主体で筋書きが教訓的、かつ伝記的な内容をも
つ小説でポイントポイントに挿画が入る。
漢文調の馬琴の文章に釣り合う力感の漲った絵を描けるのは、当世、
北斎以外に見当たらない。
馬琴はその挿画お画家として迷うことなく北斎を指名した。

お誘いをいただけるならバリトンで  森田律子
 






「忠國大いに怒り、郎等たちを召し出して、猴を追わせたが、結局、猴は
文殊院という古寺の五重塔に登ってしまい、射ることも捕えることもで
きない。忠國が「塔の上の猴を射落としたものには、白縫を娶わせる」

と告げているところに現れたのが為朝だった。」


目下売り出し中の戯作者・馬琴と、絵師として人気鰻昇りの北斎。
この時期、二人は弓張月を含めて7つの読本を共作することになり、
互いに兎にも角にも時間がなく、お互い挿絵の打ち合わせする暇も
ないほどの忙しなさであった。そこで馬琴は双方の無駄な時間を省
くべく一計を案じた。







「為朝は忠國に許しを得て、強弓を引こうとするが、寺の住持に殺傷を止
られる。為朝は、夢を思い出して、鶴を放った。この鶴が見事に猴を仕
め、南の空に飛んでいった。そして為朝が源氏の御曹司であることを知
た忠國は、為朝をよろこんで館に迎えた。」


それは馬琴27歳のとき、戯作に耽る方便として飯田町で下駄屋を
営む伊勢屋の入婿に納まっていたが、この自宅に本所林町の甚兵衛
店にいた北斎を「泊まり込みでどうか」と声をかけたのである。
これに北斎が応じた。引っ越し魔の北斎にとって、どこで寝ようが、
居候をするというのは何ら問題でない。馬琴が夜を徹して原稿を書き、
その横で北斎がその挿絵にとり掛かるという、一策である。
そして馬琴が著作堂と名付けた狭い二階の一室で二人は、寸暇を惜し
むように膝付き合わせての共同生活が始まった。
まるで性格の違う天才の二人、火花を散らして日夜、がむしゃらに
仕事に打ち込むが、何か不吉な予感がしないでもない。 つづく。

鎖骨から錆びたナイフがヌッと出る  くんじろう

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