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川柳的逍遥 人の世の一家言
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湿っているうちは発芽の可能性  青砥たかこ



  昔ばなし一覧図会
「猿蟹合戦」「文福茶釜」「花咲爺」「桃太郎」「かちかち山」
有名な六つの昔話のストーリーが、一枚の絵に描かれています。
じっくりみて下さい。

「日本の教養」 昔話・桃太郎



桃太郎の起源を辿れば、古代インドや中国の古い話が日本の風土と擦り
あわされ、室町時代に生れたという説。古事記の中にも、桃太郎がおり、
それらの説を按ずるに、昔昔とは、いつのことなのかと首を捻ってしま
います。桃太郎は、やがて手習いの教材として、江戸時代中期に完成。
 そして慶応3年の『守貞謾稿』(喜多川守貞著)には「今世モ三都ト
モ小児をスカスニ、話之コト廃セス」と当時、江戸・京都・大坂の三都
において、子どもの機嫌をとるのに、昔話が使われ「童話」と呼ばれる
ようになったといいます。


部屋出ると一瞬おいてわく笑い  中岡千代美





 
大きな桃と日本一の黍団子。




「昔々、ジサントバサントアッタトイナ。ジサンハ、山イ柴刈ニ井タト
イナ。バサンハ川イ洗濯ニイタトイナ。云々ト云う」(教材)
昔むかしある所に、お爺さんとお婆さんが住んでおりました。子どもの
いない気楽な暮しで、お爺さんは毎日山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗
濯に出かけておりました。
「然ルニ河上ヨリ、桃一ツ流レ来タル老婆得之帰ルト…」(教材)
ある日、お婆さんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて
きましたので、お婆さんはこれを拾って、家に持ち帰りました。
 「柴刈りと芝刈り」とは、違いますので間違えないように。


蓮根の穴も納得する奇跡  森乃 鈴





② お婆さん「お爺さん、これは、きょう谷川で拾い上げた桃ですが、
あんまり立派な桃なので、持ち帰ってきました。さっそく、半分ずつい
ただくことにしましょうか」そう言いながら、ふたりがこれを食べたと
ころ、何という不思議でしょう。お爺さんは三十五、六の男盛りに、お
婆さんは二十八、九の若女房になったではありませんか。ふたりは驚く
やら、喜ぶやら。手を取り合って、しみじみとお互いの顔を眺め合った
のでした。
 桃は邪気を払い、不老不死の果実として「若返り」の効果があると
されています。若返りたい方どしどし食べましょう。


セサミンを飲んで骨太老人に  くんじろう






桃を食べてすっかり若返ったお婆さんの若女房は、それから暫くすると、
お腹が大きくなってきました。ところが産み月になっても、子供はなか
なか生まれません。それから何と三年も経ってから、ようやく無事に男
の子が生まれました。さてこの子供ですが、お腹の中に三年もいたせい
でしょうか、生まれた途端にあたりを駆け回ったり、盥の湯を高々と差
し上げて、頭からザブンとかぶったりするのです。両親が驚いたのは、
言うまでもありません。
※ 子供はどうして桃から生まれたことにしたのか。コウノトリと同じ
子供はどこから生まれるの質問に困らないようにしたのです。


それとなくも一度蹴ってたしかめる  山本昌乃






 桃を食べたら生まれたので、両親はこの男の子に「桃太郎」という名前
をつけました。桃太郎はどんどん大きくなって、寺子屋へも行くようにな
りましたが、読み書きでも、誰にも負けない成績をおさめました。また相
撲をとっても、ケンカをしても、これまた誰にも負けない強さです。さて、
桃太郎が16歳を迎えたとき、両親に向かってこう言いました。
「実はこのたび、思い立ったことがあります。鬼が島に渡って鬼どもを退
治して、宝物を持ち帰りたいと思います。どうかお許しください」驚いた
両親は、いろいろとなだめましたが、桃太郎の決意は変わりません。仕方
がないので、黍団子をこしらえて、送り出すことにしました。桃太郎はさ
らにお婆さんにお願いをします。
「なるべく大きいお団子をお願いします。小さいのはケチくさく見えてい
けませんから」 「はいはい。今年は豊作だったから、うんと大きいのを
こしらえてやりましょう」
※ どうして黍団子なのか。黍団子は腹持ちがよく、それを串にさして団
結を促し、中国伝説によると、霊力が与えられる食べ物と云われています。



魔がさして生まれた日から主人公  桑原すゞ代






鬼が島で鬼退治をすることを打ち明けた桃太郎は、両親にたくさんの黍団
子をつくってもらい、吉日をえらんで出発しました。途中で犬と猿とキジ
が、お供になろうと待ちかまえていました。
犬 「ワンワン。お供いたしましょう」
猿 「キャッキャッ。お供いたしましょう」 
キジ「ケンケン。お供いたしましょう」 
桃太郎「よしよし、では黍団子をやろう。いっしょについて来い」
頼もしい供がそろったので、桃太郎も大喜びです。
※ 犬・猿・雉が何故従者になったのか。犬は三日飼われたら3年恩を忘
れない「忠義」を持ち、猿は「智恵」があり、。キジは蛇に卵が狙われる
と、自分の身体を巻かせて、十分に巻かせたところでこれを弾いてしまう
「勇気」を持つ動物とされています。
また天武天皇が説く「動物報恩譚」もあるようです。



相棒は下心シーラカンスは二心  山口ろっぱ






いよいよ桃太郎一行は鬼退治に向かいます。鬼が島に着くと鬼たちは、酒
盛りの真っ最中で城門は閉ざされたままです。桃太郎は、大声で叫びます。
「この門を開けろ!。開けなければ、打ち破るぞのみぞ!」その檄に三匹
の従者・犬、猿、雉も戦闘態勢です。城門を破り攻め入った桃太郎らは、
鬼たちをことごとく打ち負かしてしまいます。桃太郎たちの勢いに総崩れ
になった鬼たちは、金銀・珊瑚・宝珠などの宝物を蔵から出して、「命ば
かりは…お助けを」と白旗を掲げます。「宝物はもうこれだけか。ぜんぶ
出せば、命だけは助けてやろう」と桃太郎が言うと 鬼は「はい。もうこ
れで、残らずでございます」
※ 教材は「桃中ヨリ一男児化出シ、育之テ桃太郎ト称シ、後遂ニ復讐ノ
コトニ至ルノ一話也」とありますが。



年金に未加入だった桃太郎  吉川幸子
 
 
 

  



※ 福澤諭吉がこんなことを言っています。自分の子供に日々渡した家訓
「ひゞのをしへ」の中で「桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝をとりに行くた
めだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた
物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなくとりに行くと
は、<桃太郎は盗人と言うべき悪者>である。また、もし、その鬼が悪者
であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲
らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さ
んとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変
に卑劣である」と厳しい。  
       桃太郎宝蔵入ゟ 夷福山人作・歌川広重画 (国立国会図書館蔵)





ハッピーエンドのはずやったのになあ  雨森茂樹






山東京伝著『絵本宝七種』
打ち出の小槌をふるう桃太郎とお供の雉・犬・猿



「落語・桃太郎」




我々の子供の時代は恐いものが沢山あって、躾けもしやすかったんですな。
親の言い付けは守らなならん、学校の先生やお巡りさん、母ちゃんに父ちゃ
ん、恐い物がいっぱいありましたな。
「遅くまで起きてるとお化けや幽霊が出て来るぞ。ほ~ら後ろから…あぁ~
恐い恐い。早く寝んねし、寝床へ入んねん。寝床へ入ったらもう恐いお化け
も出てけぇへんからな。さあ、布団へ手ぇ入れて。お父ちゃんが面白い話し
をして聞かしたるさかい、それを聞きながら寝んねするんや、ええか…。


池と沼違いの分かるカッパたち  ふじのひろし


 昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んではってん。お爺さんが
山へ柴刈りに行て、お婆さんが川へ洗濯に行た。川の上の方から大きい桃
が流れてきて、お婆さんはこれを家へ持って帰って、ポンと割ったら中か
ら元気のええ男の子が生まれてきた。この子に桃太郎という名前を付けた。
この子が大きくなって、鬼ケ島へ鬼退治に行くと云うので、キビ団子をこ
しらえて持たしてやると、犬と猿と雉が出てきて、一つ下さい、その代わ
りお供します。三匹を引き連れて鬼ケ島へ攻め込んだ。この桃太郎はんが
強いねや。三匹もよう頑張った。とうとう鬼が降参や、山のように宝物を
出して謝った。車に積んだ宝物、エンヤラ、エンヤラと持って帰って来て、
お爺さんやお婆さんに孝行したちゅうのや。



ククククっと笑って鼻を折っている  笠嶋恵美子



 なあ、面白いやろ。桃太郎さんのお話し…金ぼう…金ぼう…、寝てしも
うたがな。 えぇ、子供というのは罪が無いもんやなぁ~」
てなことを云うてましたのは、もう昔のお話しでございます。
きょうびの子供はなかなか、こんなことくらいでは寝ぇしまへんわ。
ある父親が、眠れないと訴える息子に昔話の『桃太郎』を話して寝かしつ
けようとしますが、息子は「話を聞くことと寝ることは同時にできない」
と理屈っぽく反論してきます。父親は困りつつ話を始めます……が。
「昔々……」と言えば「年号は?」
「あるところに……」と言えば「どこ?」
「おじいさんとおばあさんが…」と言えば「名前は?」
といちいち聞くので、話がまったく進みません。


ほんのハナウタ渦を背中であやしつつ  酒井かがり


「ええか、昔々や
「何年ほど?」
「何年ほどって…、こんなもん、お前、
ずっと前から、ここは『昔々』
 ちゅうんやがな」、
「なんぼ昔でも年号と
いうのがあるやろ。元禄とか、天保とか、慶応とか、
 明治とか」
年号も
なにも無いくらいに昔や」
「年号も無いとは、これはよっぽどの昔やな」

「そうや、よっぽどの昔や。あるところに…」
「どこや?」
「どこでもえ
えやないかい。親が『あるところ』ちゅうてんねや、
 あるところやなぁ、
と思うとかんかい」
「昔でも国の名ァちゅうもんがあるやろがな。
大和とか、河内とか、
 摂津とか、播磨とか」
国の名ァも無いくらい昔や」

「国の名ァも無いのん? そら、縄文時代より前やな?」
知らん、そん
なもん。とにかく、あるところにお爺さんと、お婆さんが
 住んでたんや」

「お爺さんの名前は?」
もうええかげんにせぇよ、お前なぁ、そないに
次々と引っかかってたら、
 寝る間もあらへんやないかい。名前もないッ。
名前も無い昔や
「へぇ、人間に名前の無かった時分ちゅうたら、そら原
始人の時代やな?」
あぁ、よっぽど昔や。お爺さんとお婆さんが住んで
たんや
「歳は
?」
「ほんまにどつくで。歳も無い。歳の無いくらい昔や」

「無茶云うたらいかんわ。なんぼ昔でも歳はあるわいな。一年たったら一
 つづつ歳とらはんねん」
そら、始めのうちは歳もあったわい。そやけど
火事で焼けてしもうて、
それから無くなった」



背中から湿布を外すひねり技  前中知栄


「無茶云いな。歳が火事で焼けたりするかいな」
「お前、ごじゃごじゃ云
うさかい、話しが一つも前へ進まへんやないか。
 少々わからんことがあっても、黙って『ふーん』ちゅうて聞いてたら、
 だんだんと分かるようにな
ってくるもんやがな」
「ふーん」

「お爺さんは山へ柴刈りに行った」
「ふーん」
「お婆さんは川へ洗濯
に行った」
「ふーん」
「舐めたらあかんで。ほんまに、こいつだけは手ェ
が付けられんなぁ~、
 みてみい。どこまでしゃべったか忘れてしもうたやないか!



運命は同心円のこま回し  三村一子


そやそや、桃が流れて来たとこや。それを持って帰ってポンと割ったら
中から男の子が生まれた。桃から生まれたんで桃太郎という名前を付け
たなぁ。この子ォが鬼ケ島へ鬼退治に行くというので、キビ団子という
美味しいものをこしらえて持たせてやると、途中で犬と猿と雉が出てき
て、一つ下さい、そのかわりお供します。三匹が供をして鬼ケ島へ攻め込
んだなぁ。猿がかきむしるやら、犬が食いつくやら、雉が目玉つつくやら。
鬼も降参やぁ。山ほどの宝物を出して謝った。車に積んだ宝物、猿が引く、
犬が押す、エンヤラ、エンヤラァと持って帰ってお爺さんやお婆さんに孝
行したちゅうねん。 なぁ、おもろいやろ。さあ寝ェ~寝んかい。寝ぇっち
ゅうのに、このガキは…。なんや、大きい目ェ剥きやがったな」



失った言葉探して日が暮れる  合田瑠美子


 「あない、やいやい云うさかいに、寝たろかいなと思うてたんやけど、
 あんまりアホな話し聞かされたさかいに、だんだん目ェが冴えてきた」
「冴えて来た? 悪いガッキャなぁ、こいつ。何で冴えてくるねん」
「なんでて、桃太郎の昔話やろ」
「そや、桃太郎の昔話やがな」

「桃太郎みたいな子供向けの話しされたらかなんなぁ。わいらもっと、
 こう…恋愛モンみたいな…」
「生意気なことぬかすな。お前ら桃太郎で十
分じゃ!」
「お父はん、何も知らへんやろうから、ちょっと話しをするけ
れども、
 この桃太郎という話しは、日本の昔話の中でも一番ようでけてんねん。
 外国へ持っていっても引けを取らん、ようできた話しや。それをあ
んな
 言い方したら作者が泣く」
「な、何が作者や、お前ら、何も知れへん
ねん」



適当でいいとレシピに書いてある  橋倉久美子


最後に、曲亭馬琴先生の三匹の相棒についての解説です。
馬琴は『燕石雑志』より、<鬼ヶ島は鬼門を表せり。之に逆するに、
西の方申・酉・戌(さる・とり・いぬ)をもつてす>と言い。
鬼門は、鬼が出入りする方角として、嫌われている方角で、東北(丑寅)
の方角であり、これは「陰」で、その反対の南西(未申)の方角が「陽」
である。<東北に位置する鬼を退治するには>、その対極であるべきで、
そこには、羊、猿、犬が並んでいる。羊は弱者なので省かれて、猿鶏犬が
選ばれて人間を助ける」と言っている。


シンバルは猿人手不足のシンフォニー  近藤北舟

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ジャンケンホイATMよ金を出せ  山口ろっぱ






  狐拳に興じる三人美女



「江戸の教養」 ーじゃんけん



今日のじゃんけんは、中国の「虫拳」がルーツとされる。
中国唐代の古典『関尹子(かんいんし)』に「ムカデは蛇を食い、蛇は
蛙を食う」とあり、この三者が会うと、それぞれがすくんで動けなくな
ることから、「三すくみ」と呼ばれるとある。中国の「虫拳」は平安時
代までに日本に伝わったとされ、日本では、ムカデがナメクジに代わっ
たが、「三すくみ」の関係は維持された。



  虫拳『拳会角力図会』


人差指を上げるとヘビ、親指を上げるとカエル、小指を上げるとナメク
ジを意味した。江戸後期には、天竺徳兵衛をモデルにした児雷也ものが
読本・浄瑠璃・歌舞伎で当たり、「児雷也の蝦蟇」への大変身が話題と
なり、「蛇拳」が流行したが、文政13年(1830)に喜多村信節が
刊行した随筆『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん』には「虫拳などは、童部
のみすなり」と当時、虫拳が子供の遊びであったと記されている。



頭とは別行動をする手足  前中一晃



「三すくみ拳」は、江戸時代に多数考案されたが、その中で最も流行し
たのは、「狐拳」である。狐拳は、狐・猟師・庄屋の三すくみの関係を
用いた拳遊びの一種である。藤八拳、庄屋拳、在郷拳」とも呼ばれる。
狐は猟師に鉄砲で撃たれ、猟師は庄屋に頭が上がらず、庄屋は狐に化か
されるという三すくみの関係を腕を用いた動作で合わせて勝負を決めた。
二人が向かい合い、正座して行なう。
それぞれの手の姿勢は次のとおり。
狐は掌を広げ、指を揃えて頭の上に相手に向けて添え、狐の耳を模する。
猟師 は 両手で握り拳を作り、鉄砲を構えるように前後をずらして胸の
前に構える。庄屋は正座した膝の上に手を添える。
結構、運動神経や機転が要求され、場はそれだけで盛り上がった。
『色一座梅椿』には「狐拳」について、「あ一、い二、う三い」のかけ
声でジャンケンし「おつとあいかう/\」と、あいこでやり直すこと、
そして「なんでも狐拳に負けたら、お初さんの迎えに行く」と、負け
たものは、初を迎えに行く役目が記されている。



床の間の七福神がけしかける  井上登美






 「当振舞世直拳」歌舞伎役者がモデル)
描かれているのは、戊辰戦争に登場する藩や人物。
左が会津藩で、右が薩摩藩。狐拳というゲームをしている。


「虎拳」というのがある。これは、指先や手などによるものとは異なり、
全身の動作や表情によって競うものである。
近松門左衛門の正徳5年(1715)大坂竹本座の初演の浄瑠璃『国性
爺合戦』こくせんやかっせん)に由来する。浄瑠璃や歌舞伎で繰り返
し演じられ、中国人の父と日本人の間に生まれた主人公の和藤内(わと
うない)が猛虎を捕える場面は評判を呼んだ。「虎拳」はこの作品をも
とにし、「和藤内は虎に勝つ、虎は和藤内の老母に勝つ、老母は和藤内
に勝つ」の三すくみになている。すなわち
和藤内は槍を構える。虎は四つん這いになる。老母は杖をつく、という
動作であった。これは天明年間(1781-89)に大ブームとなった。
遊郭や料亭の宴席で場を盛り上げるために行われたが、動作が大きいた
めに、両者の間に仕切りとして屏風を立てて、相手に見えないようにポ
ーズをとり、屏風を外して勝敗を確認するなどした。宴席の者は、両者
の動きを同時に見ることができるという趣向であった。



番外の余興が受けた披露宴  藤井康信



「三すくみ」ではないが、「数拳」というジャンケンもある。
2人が互いに片手の指で数を示すと同時に、双方の出した数の合計を言
いあてるというもので、当たった方が勝ちとなる。中国が発祥地で日本
では、18世紀の初めから広がった。
16世紀の後半に長崎から入ってきた遊びなので、「長崎拳・崎陽拳」
ともよばれた。江戸時代の天保年間までは、これが大人の拳遊びの中心
だった。現代でも九州では「球磨拳」などの数拳が行われている。
いろいろ考案される中で、「狐拳」から三連勝しないと1本取ったこと
にならない「藤八拳」が派生して、家元制度が導入され、競技性が高ま
った。明治になり、数拳の手の形と三すくみ拳からの現代行われている
「じゃんけん」が考案されたと考えられている。余談だが、タイには
「象、象使い、王様」の三すくみ拳がある。このタイの三者の関係性は、
それぞれ皆さまで考えてみてください。



入口は三つ出口はありません  米山明日花






   これが虎拳



昨今は「最初はグー」で始まるジャンケンだが、浄瑠璃や歌舞伎などの
舞台で踊りながらのかけ声は、大反響を呼んだ。
「三国拳」
 おまへ女の名でお伊勢さん、神楽がお好きで、とつぴきぴイのぴいー。
「三仏拳」
 おまへ西方阿弥陀如来、木魚がお好きで、ぽんぽこぽんのぽん。
「世直し拳」
 ことしや世直し元日に、めでたくとつた年男、ふくは内外に。
「兎拳」
 さても今度の流行物、皆さん御存知、うさ/\と、茶殻きらずの御馳走
で、月に浮かれて飛びはねる、とくさがお好きで締こで、さアきなせー。
「薩摩拳」
 南無らんぼうやぼだらきやう、さてこれからいよいよはじまる、お経の
もんくは何でありませうなら、薩州鹿児島騒動巴咄しで…。
「すててこ拳」
 さても諸席の大入は、立川談志の十八番、郭巨の釜ほり、テケレツパア、
おいてるれんてる。などなど面白いけど長すぎて相手の手が読めません。



利き足に小春日和を巻いておく  みつ木もも花



今日にも広く行われているジャンケン、「石拳」とも呼ばれ、三すくみ
の拳の中では、遅れて成立したが、1840年頃から、子どもの「ジャン
ケン」遊びとして発達した。
「石拳」「石、ハサミ、紙」を手で手で示して勝敗を決定するが、江戸
時代の江戸時代の「虫拳、虎拳、狐拳」などの三すくみ拳とは異なり、中
国の古典や日本の話のストーリーを知らなくても、ルールを理解できると
いう簡単なものであった。このことが子ども達の間で広く行われるように
なった一因とされる。
最後にジャンケンの語源については、先の「石拳」「じゃくけん」が訛
ったとする説やハサミの形が、二(りゃん)であるとする説がある。
また呼称については、関西の「いんじゃん、じゃいけん」など地方によっ
て様々で面白いのが沢山ある。




 
モノクロの暮らしへ加えたいパセリ  平尾正人

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玉子酒玉子抜いたらもっと好き  ふじのひろし





   地口行灯




「江戸のことば遊び」-地口




江戸時代に庶民の間に流行り、現在でも親しまれている「ことば遊び」
に「地口」がある。地口とは世間で普通に使われているコトバに語呂を
合せた洒落、言葉遊びのことで、上方では「口合せ」と呼ばれる。
地口は「似口」「二口」口合せは「比談」「比言」というように、本
語に似寄った言葉という当て字をされたことからも分かる。
享保年間(1716-36)ころから流行り出したといい、当初は、
「下戸にご飯」(猫に小判)など掛詞を狙った単純なものであったが、
後に多様化、複雑化して様々な「言葉遊び」が創り出されていった。



この頃は笑い転げる事減って  荒井加寿



地口の流行のきっかけとなったのは、地口付きであったといわれる。
これは、江戸時代を通じて人気を博した俳諧の前句付けにあやかり、
雑俳の宗匠が金儲けのために知恵を絞って考え出したものである。
前句付けとは、点者(出題兼採点者)から与えられた前句に、投句者
が句を付けることである。
これに対し、より平易な地口付きは、点者から題を出さず、投句者が
自由に文句(地口)を作って投稿し、それを点者が評価するというも
のである。投句者は入花料と呼ばれる投稿料を添えて投句し、高得点
者には褒美として反物や塗物道具、煙草入れなどが与えられた。



キリンの絵キリンの首だけを描く  くんじろう





バッハの親離れ 河童の川流れ



文政8年刊の『我衣』(加藤曳尾庵)に地口付きの実例が紹介されて
いる。代表的なものが謡曲『高砂』「梅花を折って頭にさせば」
地口で「梅花を付けて頬紅させば」(梅花は当時、有名な化粧品であ
った梅花油に掛けている)その下に女性の半身絵を載せている。この
絵から地口に掛けられた言葉を容易に読み取ることができたのであり、
のちに流行した「地口絵」の前身ともいえるものであった。このほか、
稲荷社の祭礼の際、地口付きを祭行灯に応用した地口行灯が、境内や
道筋に並べられた。地口とそれを意味する絵を描いた「行灯」で、作
者の機智を競うとともに、江戸の風物詩としてたのしまれたのである。



僥倖をハシビロコウは待っている  岸井ふさゑ



次に、地口などを収録した文化11年(1814)刊「冨久喜多留」
の中から摂津国一ノ谷の蕎麦屋における亭主と江戸からの旅行者との
やり取りの場面をみる。
『摂津の国一ノ谷は、古元歴のころ、源平の跡とて、平家の公達、無
官太夫敦盛の墓とて、何人が建てけん、五輪の石碑残れり、今はその
前並木の方に、海の面を見晴らしたるところに蕎麦を商う者ありて、
往来の旅人を日の丸の扇にて呼びかけ「ソバのあつもりあがらんか、
塩梅義経」という。



203高地で亡父みつけたわ  杉浦多津子



地口好きの江戸者、これを
聞きて喜び「代銭はいかほど」といえば「あつもり16歳の時」とい
。「これは面白い。供にも食わせん」とも盛、これ盛と何杯も食い
「これでは平家の24もりも食うたであろう。外に酒もりがなくては
ならぬ」といえば、亭主「旦那、秀句口合はえらいもんじゃ。有盛有
盛」と出す。その時、江戸者、有合う呉水茶碗を押っ取り「イョ、喉
の守(かみ)呑つね公」と賞めれば「イヤ我こそは剣びし五位の上戸、
胸元の義経と名乗る上は、平家の一文も払いはなし」と駆け出す。
亭主肝をつぶし、供の者を引き止め「こなさんも酒を飲んだ。梶原の
三度の掛けは致さぬ。代物が浦の浪銭を、この場において払った払っ
」といえば「イヤ、おれは梶原ではない。義経の御内において」
「なんと」「酒をただのむじゃ」



ペテン師のぺを掬うスプーンはあるか  酒井かがり



二回三回と読み直さないと分かり難いですね。大意は次の通り。
平家滅亡へと続く摂津国福原での一ノ谷の戦いは、江戸時代において
も軍記物の『平家物語』『吾妻鏡』謡曲『敦盛』などで広く知られ
ていた。一ノ谷の戦場跡に誰とも知らず平敦盛の墓が建立され、その
前で「敦盛蕎麦」を売る店があった。
これは「温かいもりそば」(熱盛り)と「敦盛」をもじった掛詞であ
「そばのあつもり…」の口上で当時有名であったという。
 地口の好きな江戸からの旅人は、口上を聞いて喜び、供のものも二
名と店に入ったのである。平家一門に多い「〇盛」という名に掛けて、
供の者を「とも盛」「これ盛」と呼び、何杯も食べた様子を「平家の
二四もり」と喩え、客が蕎麦の他に「酒もり」が欲しいというと「有
難有難」と答えている。


腕組みをして思慮深く見せている  新家完司



また、喉の守(かみ)呑つねは「能登(のと)守教経(のりつね)」
剣びし五位の上戸は「検非違使五位府(けんびしごいのじょう)
胸元の義経は、源義経のこと。
「剣びしは、摂津の銘酒・剣菱」が掛詞になっている。
梶原の三度の掛けは、平家物語で有名な「梶原の二度かけを引用。」
これは一ノ谷の戦いで梶原景時が、生田の陣営に突入した際に、平家
方の反撃に遭って一旦は引き上げるが、息子景季(かげすえ)を助け
に引き返すという逸話である。
代金を請求してくる亭主に対し、供の者が「自分は助けられた景季で
はなく「酒をただのむ」(佐藤忠信)と言っているのである。



見開いた目は摩周湖になった  和田洋子




アイ―ンしたい アインシュタイン



本来、日本語は洒落向きに出来ている言葉である。
とにかく日本人は、記紀・万葉の時代から洒落好きであった。そこで、
枕詞・序詞・掛詞・縁語などという和歌の技法が発達し、他の文芸に
対しても大きな影響を与え続けてきた。そして、これらの技法は、今
もやはり中核的な基礎的な技法である。文学史を繙けば、江戸時代が
洒落の文芸の時代であったことは、一目瞭然である。洒落は「洒落本
滑稽本・咄本・狂歌・また読本や俳諧連句にも、もちろん古川柳」
中にも、庶民の日常生活の中にも満ち溢れていた。
そんな洒落の中でも、一番単純な技巧である「地口」は洒落の基本と
もいえるもので、長屋暮らしの八さんや熊さん達にもよく解ってもら
えるもらえる洒落であった。では、ここで地口面白世界を覗いてみる。



第4の胃から戻ってきた昨日  中野六郎



地口とは広辞苑に「俚諺・俗語などに同音または声音の似通った別の
語をあてて、違った意味を表す洒落。秀句、口合、語呂合」とある。
例をあげてみると、次のようなものがある。
「舌切り雀」 着た切り雀 来た切り雀
「柿本人麻呂」 垣の外の四斗樽
「一富士二鷹三茄子」 雪見に出たか三谷舟
「ふぐは食いたし命はおしし」 九月朔日命はおしし
「あぶり餅こがしやかとなる摩耶夫人」 焦がしゃ堅となる
「沖の暗いのに白帆が見える」 年の若いのに白髪が見える



ご存知でしたかとカラスの薄笑い  佐藤正昭


川柳には、
田楽の悪い地口は「みそをつけ」
「雨こんこん」と地口行灯仕舞
「鳩の祭り」は石橋で出た地口
「さかな売りまちかね山のほととぎす」  初鰹売りを待ちかねて
「持てぬ奴待兼山のからすなり」  上と同じような意味
などがある。
昔の人は機智や頓智に才能があった。
いやいや「恐れ入りやの鬼子母神」だ。


神様はいかが壺も付いてます  中岡千代美 

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赤巻き紙青巻き紙だいだい色巻き紙  酒井かがり






名刀村雨丸試し斬りの図



八犬伝における名刀「村雨丸」とは?
寛正文明の頃(1460年代)武蔵国菅菰大塚の里に大塚番作一戌(ば
んさくかずもり)という浪人がいた。父の匠作三戌(しょうさくみつも
り)は、鎌倉官僚足利持氏の近習として結城合戦に参加したが、結城の
落城の時に、匠作は16歳の番作一戌に大塚に帰って母と姉の亀篠(か
めざさ)に孝養をつくすように諭し、その際、主君重代の佩刀(はいと
う)「村雨丸」を手渡し、これを守って足利持氏の子春王丸に無事に返
すように言う。村雨丸は、中心に露が滴っていて、人を斬っても血潮が
洗い流されるという名刀である。


こぼれ萩私に何ができるだろう  山本昌乃






   村雨丸託す


「紙芝居風ー八犬伝」 おしまい





   
  蟇六夫婦と額蔵        番作と亀篠
 
 
 

 
大塚番作が大塚村に戻ったとき、大塚家の家督は、姉の亀篠と蟇六の夫
婦に奪われており、番作は姓を犬塚と改めて隠棲した。その後、番作
手束(たつか)を娶り、生まれたのが信乃である。蟇六夫婦は、番作
持つ村雨丸を奪おうと画策し、信乃の飼い犬・与四郎が、管領家からの
御教書を破損したと言いがかりをつける。番作は自害することで信乃
救うとともに、足利家に将来、村雨丸を返還することを託して、逝く。


あちこちが軋みだしてる 雨どすか  北原照子





  
  犬塚志乃    犬川荘介


蟇六夫婦は村人の手前信乃を引き取ることとし、養女浜路の将来の婿と
することにした。蟇六夫婦は下男・額蔵信乃の監視にあてる。しかし、
ふとしたきっかけから信乃額蔵は、互いが同じ珠と痣を持っており
犬川荘助であることを知り、義兄弟の契りを結ぶ。2人は共に知ら
ないふりをながらともに文武の研鑽に励んでいた折、村人の糠助が死に
際、珠と痣を持つ息子(犬飼現八)がいたことを語り、梅の木に八房の
梅の実が生り、仁義八行の文字が浮かび上がったことから、同じ縁に連
なる義兄弟の存在を予感するのだった。


陰と陽リバーシブルの帽子です  合田瑠美子





  
   道中の志乃      火遁の術を使う道節
 
 

信乃18歳の夏、蟇六夫婦は、信乃滸我成氏(こがなりうじ)の許に
旅立つことを勧めた。村雨丸は蟇六夫婦の指示で、浪人網乾左母二郎
あぼしさもじろう)が偽物にすりかえていた。信乃を慕う浜路は旅立つ
前夜の信乃に情を訴えるも聞き容れられず、信乃は去ってしまう。蟇六
の内緒話から浜路は、網乾が本物の村雨丸を所持していると知る。浜路
はこれを取り返そうとして、網乾によって斬られてしまう。
そこに現われたのが浜路の異母兄・犬山道節だった。道節浜路の敵討
ちに網乾を殺害するが、浜路が本物の村雨丸を信乃に渡してほしいとの
頼みごとを振りっ切って、実家の煉馬家を滅ぼした関東管領・扇谷定正
への恨みを晴らすことの執念に走る。浜路は失意の中で息を引き取る。
信乃を栗橋まで送った荘助がここに行き合い、道節と斬り合いになるが、
道節は火遁の術を使って逃れた。斬り合いの中で二人の持つ珠が入れ替
わった。荘助は浜路を葬り、大塚への帰路を急ぐ。



回転がかかって思わぬ展開に  吉岡 民






  芳流閣の決闘





信乃は滸我(こが)で成氏に謁見したが、村雨丸が贋物であった事から
管領方の間者と疑われ襲われる。防戦しながら芳流閣の屋根に追い詰め
られた信乃を捕らえるべく、投獄されていた捕物の名人犬飼現八が登場
するが、二人は組み合ううちに利根川に転落。下総行徳へと流れついた
二人を助けたのは、旅籠・古那屋の主人古那屋文五兵衛とその子の犬田
小文吾であった。しかし古那屋に匿われてまもなく、信乃は破傷風によ
り瀕死の床に就く。また、信乃にかけられた追手によって、文五兵衛
拘引されてしまう。


こんぺいとう敵か味方か五月闇  菊池 京





 
  犬飼現八    犬江親兵衛


結果として、房八夫妻(沼藺山林房八ー沼藺は小文吾の妹)の犠牲で
信乃は救われることとなった。そしてたまたま古那屋に居合わせた丶大
によって、里見家の「伏姫の物語」が語られ、珠を持つ犬士たちがその
縁に連なることが告げられる。また、死んだと思われた大八が息を吹き
返して珠と痣を示し、大八もまた、犬士の一人であることが示される。
大八丶大によって犬江親兵衛の名を定められた。


一生に二度は乗れない霊柩車  櫻田秀夫





  
    五犬士         道節と4犬士





一方、荘助は大塚へ向かう途中陣代らによって襲われる。これを返り討
ちにするが、主人殺しの罪として濡れ衣を着せられて投獄され死罪を言
い渡される。神宮河原着までやって来ていた三犬士は、道節の郎党・
四郎からこのことを聞き、情報を集めて荘助を救うことを計画。まさに
荘助の処刑が行われようとする刑場を破り、荘助を救出する。追手をか
けられた四犬士の窮地を救ったのは、世四郎と子力二・尺八であった。
大塚志乃、犬川荘助、、犬田小文吾、犬江親兵衛と揃い四犬士は、世四
郎とゆかりのある音音が暮らす上野国荒芽山に向かう。
四犬士は途中、犬山道節が扇谷定正に仇討ちを仕掛けた騒ぎに巻き込ま
れながら、音音(実は道節の乳母、力二・尺八の母)が嫁たち(曳手
単節)と暮らす荒芽山の家にたどり着く。道節・世四郎もそれぞれここ
に合流。珠の因縁を知った道節は、村雨丸を信乃に返し、邪法である火
遁の術を捨てて、犬士の群れに加わる。道節が加わり5犬士が揃うが、
管領家の軍勢が襲撃し、犬士たちは離散を余儀なくされる。


お互いの隙間に入れる接続詞  みつ木もも花







  小文吾腕まくり


荒芽山から武蔵国に逃れた小文吾は、宿を貸した旅人を襲っていた盗賊
の並四郎を返り討ちにする。並四郎の妻・船虫は、小文吾に謝礼として、
千葉家の重宝であ尺八嵐山を渡したが、これは罠であった。船虫は石浜
城主・千葉家の眼代に小文吾を盗人として突き出すが、尺八を訝しいと
睨んだ小文吾がひそかに返していたために罠は不発に終わる。小文吾
千葉家の家老・馬加大記(まくわりだいき)に引き合わされるが、実は
大記こそがかつて船虫夫婦に嵐山を盗ませた黒幕であった。大記小文
の才覚を見抜き、自らの主家への謀反に加担するよう持ちかけるが断
られる。小文吾は警戒した大記によって城内に軟禁される。抑留はその
まま1年近く続いた。


厄介と関わる癖のある右手  中野六郎


その抑留の間に小文吾は老僕の口から、かつて大記が千葉家の重臣・
飯原胤度(あいはらたねのり)を排除して権力を掌握するために行った
策謀の話を耳にする。寛正6年(1465年)、大記は同僚の籠山逸東太
胤度を殺させ、逸東太も千葉家にいられないよう仕向けた上、粟飯原一
族を子女に至るまで皆殺しにしたのである。


神さんがくしゃみしてはる間に悪さ  居谷真理子





  
  犬坂毛野     犬田小文吾


石浜城下に女田楽師が連れ立って訪れたが、そのうちの一人である美貌
旦開野(あさけの)を馬加大記は留め置いた。旦開野大記小文吾
に送り込んだ暗殺者を仕留めて小文吾と語らい、いずれは夫婦となる約
束を交わす。実は旦開野は男であり、粟飯原胤度の遺児・犬坂毛野であ
った。毛野は仇と狙う大記を対牛楼で討ち果たす。正体を明かした毛野
小文吾は混乱に乗じて城を脱出するが、2人は川を渡ろうと試みるう
ちに離れ離れとなる。


別に淋しくはないの生き死にはひとり  靍田寿子


  
     雛衣        庚申塚手束
 
 
 
 
 
荒芽山の離散後、諸国を巡った現八は、文明12年(1480年)9月に下野
国網苧(あしお)を訪れ、庚申山山中に住まう妖猫の話を聞く。期せず
して庚申山に分け入った現八は妖猫と遭遇し、弓をもって妖猫の左目を
射る。現八が山頂の岩窟で会った亡霊は、赤岩一角を名乗り、自らを殺
した妖猫が赤岩一角に成り代わっていることを語り、妖猫を父と信じて
疑わない犬村角太郎(犬村大角)に真実を伝えるよう依頼する。また
大角現八と同じ因縁に連なることも告げる。山を降りた現八は、
麓の返璧(たまがえし)の里に大角の草庵を訪う。大角の妻である雛衣
の腹は懐妊の模様を示しており、身に覚えのない大角は、不義を疑って
雛衣を離縁、自らは返璧の庵に蟄居していたのであった。


指切りを信じ込んではいけません  竹内ゆみこ





   
  犬村大角      犬山道節



偽赤岩一角(妖猫)は、後妻に納まっていた船虫とともに大角を訪れ、
雛衣を復縁させた。これは偽一角が目の治療のために孕み子の肝とその
母の心臓とを要求するためのものであった。大角は孝心に迫られて窮し
たが、夫を救い自らの潔白を明かすために雛衣は割腹する。その腹中か
らは珠が飛び出して偽一角を撃った。以前、雛衣が病となった際、大角
は珠をひたした水を飲ませたのだが、雛衣は珠を誤飲してまい、その後
懐妊と見られる様子が現れたのであった。大角現八とともに正体を現
した妖猫を退治した。大角は妻の喪に服し、家財を処分して現八ととも
に犬士として故郷から旅立つ。


真っ直ぐな息吐く海に還るまで  太田のりこ



   浜路




荒芽山の後、諸国を巡った信乃は甲斐国を訪れていた。ここで志乃は、
武田家家臣の泡雪奈四郎に鉄砲で誤射されてトラブルとなるが、仲裁に
入った猿石村村長・四六城木工作(よろぎむくさく)の家に逗留するこ
とになる。降雪によって逗留は長引くが、木工作の家には浜路という名
前の養女がいた。ある夜、この浜路に大塚村の浜路の霊が乗り移り、信
に想いを伝える出来事があった。木工作の後妻である夏引(なびき)
らがその場に踏み込んで騒動となるが、信乃と語らった木工作は・さま
ざまな因縁に感じ入り、浜路信乃に嫁がせることを考える。





ポロっとこぼし本音をホンネらしくする  片山かずお






   浜路と浜路


夏引泡雪奈四郎と不倫の仲にあり、浜路を疎ましく思っていた。木工
作は奈四郎の許を訪ねて口論となり、逆上した奈四郎木工作を撃ち殺
す。夏引奈四郎はその罪を信乃にかぶせようと石禾(いさわ)の指月
院で謀議をめぐらすのであった。指月院は故あって丶大が住持を務め、
そこにたまたま荘助・道節らが立ち寄ったことから犬士の捜索拠点にな
っており、夏引奈四郎の謀議は、小坊主に立ち聞きされる。信乃
のことも知られ、道節の後にやって来た本物の眼代も、偽装工作の不
審に気づいて夏引らは拘引され、奈四郎は逃亡したが悪行の報いを受け
ることになる。指月院で丶大はまた、浜路は実は義実から家督を譲られ
里見義成の五女で、幼少時に大鷲に攫われた浜路姫であったというこ
とを伝える。


耳塚でまわれ右した風だ  河村啓子






  不忍池にて




現八、大角、信乃、道節の四犬士は、武蔵国穂北荘で邂逅する。穂北荘
は、結城合戦の残党や豊島家の遺臣など、管領家を快く思わない郷士た
ちの自治の里であった。当初は盗賊と間違えられるという出会い方をし
た犬士たちと穂北荘であるが、伏姫神の加護もあって誤解は解け、犬士
たちはこの地を新たな拠点とする。現八大角はいったん指月院に行き、
荘助・小文吾と合流することになった。


余生には無用な過去を破り捨て  松浦英夫





  道節 定正を刺す


そのころ毛野は物四郎と名乗り湯島天神で放下僧となっていた。扇谷定
夫人蟹目前(かなめのまえ)の猿を救ったことから、毛野は蟹目前お
よび扇谷家の忠臣・河鯉守如の知遇を得る。力量を見定められた毛野は、
蟹目前河鯉守如から奸臣・竜山免太夫の殺害を依頼される。竜山免太
夫こそは、毛野の仇・籠山逸東太であった。翌日、小田原北条家に使節
として派遣される籠山を襲撃する計画が立てられるが、これを立ち聞き
した道節は毛野の仇討ちに乗じ、穂北郷士たちとともに挙兵することを
計画する。その夜、六犬士は司馬浜に結集するが、この場所は船虫が辻
君をしながら強盗殺人を行う場所であった。犬士たちとさまざまな悪因
縁を持つこの悪女は、出陣の門出として牛の角で誅戮された。
毛野が籠山を討って本懐を遂げたころ、信乃は扇谷家の本城である五十
子城を攻め落とし、道節は出陣した定正の軍勢を打ち破る。


生き血生き肝脳みそすする  井上一筒






    蟇田素藤





里見家に従属していた館山城主蟇田素藤(ひきたもとふじ)は、盗賊の
倅から幸運に恵まれて一城の主に成り上がった人物である。妙椿(みょ
うちん)の幻術によって、浜路姫の姿を見た素藤は、浜路姫に恋慕して
婚姻を願うも、義成に断られる。妙椿の助力を得た素藤は、里見家の嫡
男・義通を人質にとり、里見家に反旗を翻した。里見の軍勢は、人質と
妖術に悩まされ、館山城を攻めあぐねた。そのころ富山を訪れた老侯・
里見義実は刺客に襲われたが、このとき犬江親兵衛と名乗る大童子が現
れて危難を救う。親兵衛の「神隠し」伏姫神によるもので、犬江親兵
伏姫神の庇護下に置かれ、実年齢以上の成長を遂げていた。また、
荒芽山で行方不明となった音音・世四郎夫婦らも富山に導かれていた。
親兵衛は速やかに「素藤の乱」を鎮定する。


逆らって生き強靭な顎一つ  佐藤正昭




 
親兵衛、素藤、妙椿


ひとたびは助命され追放された素藤であったが、妙椿とともに再乱の機を
うかがう。やがて妙椿は幻術によって、親兵衛浜路姫と密通していると
いう疑いを義成に持たせることに成功。義成親兵衛を結城に向かわせ、
また珠からも引き離してしまう。親兵衛がいない里見家の領国では、素藤
妙椿が上総館山城を奪取した。まもなく義成は幻術により親兵衛を疑っ
たことを覚る。誤解が解かれた親兵衛は館山に赴き素藤を討った。そして
退治された妙椿が現した本体は、玉梓の怨念の宿った狸であった。
一方結城では、悪僧徳用と一部の結城家重臣が法要の妨害を図った。七犬
士は協力して襲撃者と戦い、素藤の再乱を鎮定して駆けつけた親兵衛も合
流し、ここに八犬士は集結し安房へと向かう。


人裁く法は鬼にも仏にも  上田 仁






   

12敗将稲村の城に幽せらる   稲村の城に八犬士





八犬士は夫々の恨みや誤解、冤罪を晴らしたのち、里見の諸将とともに稲
村の城に凱旋する。文明15年12月のことである。論功行賞も粛々とな
され、捕らわれた敵将たちも里見の仁政と誠意に次第に自らの非を認める。
翌年、親兵衛が室町幕府に和議の要請をしたことにより扇谷・山内両管領
と里見義成との間に和睦が成立。ここに長い戦は終結する。里見家は12
敗将をそれぞれ領土に帰したが、犬塚志乃は足利成氏を送って行き、途中
国府台の城で、村雨丸を返還し、父と祖父の遺志を果した。そして八犬士
一行は7月23日に安房に到着した。


負けん気の法被も足袋も風を切る  森乃 鈴





 
   八犬士集合      八犬士嫁候補


その年8月の吉日、諸臣の論功行賞があった。八犬士はそれぞれ一城の
主になり、一万貫文を与えられた。伏姫神に与えられた勅額は神体とさ
れ富山の石の神社に納められた。その後、義成は自分の8人の姫たちを
八犬士に嫁がせることに定め、「紅糸をひきて婦を娶る」という中国の
故事に倣い、8本の糸合せで相手を繋がせた。時が移り明応9年、ゝ大
は須弥(しゅみ)の四天王を造っていたが、八犬士の8個の霊玉を四天
王の玉眼とし、安房の四隅に埋めて守護神とすることを提案。八犬士は
それに応じて自分たちの玉をゝ大に渡したが、それはいつの間にか文字
が消えて、ただの白玉になっていた。


どこを切っても僕であるようなないような 山口美代子





  
    八犬士       八犬士を訪う息子たち


それから20年、二代目の代になり、八犬士は富山の峰に庵を構え、息子
たちには知らせず仙人の生活をしていた。息子たちは、父たちがいる庵を
探し訪ねた。そして親と子の会話の中で、世の流れ、人の善悪、五常八徳
などを説いた。息子たちは慎み畏まって頭を垂れて聞き入った。諭しが終
わり皆が頭を上げると、8人の翁はいなくなっていた。
ただ部屋には、香しい匂いが漂っていた。


可も不可もネットに入れて洗濯機  美馬りゅうこ


 
 
    本編の挿絵 と馬琴の下絵

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ほんのハナウタ渦を背中であやしつつ  酒井かがり




 
(画面は拡大してご覧ください)
里見義実が大鯉に乗っている図


里見八犬伝の挿絵は、柳川重信渓斎英泉が担当した。
重信は北斎の弟子で、師に似合わず作者の指定に忠実であることに定評
のある人であった。もう一人の英泉は、北斎の娘・お栄の思い人で北斎
の画房・錦帯舎に出入りしていた絵師である。馬琴は、喧嘩別れをして
いる北斎に未練があるかのように、この2人に「里見八犬伝」の挿絵を
まかせた。(因みに版元は山崎平八(初篇ー5篇)美濃屋甚三郎(6篇
ー7篇)丁子屋平兵衛(8篇-完))




「紙芝居風ー里見八犬伝」初篇



 
 里見義実が大鯉に乗っている意味。
「鯉」「里」「魚」を合せた文字で「里見の魚という寓意が込め
られている。鯉は安房には、生息しない。幻想の大鯉に乗った図には、
「不可能を可能にする」意味がこめられている。

これは、足利将軍と鎌倉の関東管領との武力威勢が衰えて、仲違いし、
それにつれて世は戦国の様を呈するようになった折、里見義実が戦乱
を房総に避け、土地を開き、国の基礎を起こした里見家の物語である。


蹴り上げた楕円は神の領域へ  斉藤和子




里見義実、上陸した三浦に半身の龍を見る。




安房に上陸した時の里見義実は、弱冠19歳。
結城合戦の落ち武者で従者は、杉倉氏元堀内蔵人の2人きりだった。
主従たった3人で、どうして安房国内に里見氏再興の拠点を作ることが
できたのだろう。義実主従は、それから三日目の4月19日に三浦矢取
の入江に着いた。一行が土地の少年に食物を乞うと、少年は無礼にも義
実に土くれをぶつけた。が、義実は「土は国の基だから、これは天が安
房の国をくれる前兆である」とプラスに解して、空をみると俄かにおこ
る風雨とともに白竜が、南をさして飛び去って行く。それは自分が南の
安房を領土とする祥瑞だと理解した。



花も葉も水に流して現在地  佐藤正昭





 金碗八郎が乞食に扮して潜行し、山下を討つ機をうかがっている図





義実たちが到着した安房は四郡の内、長狭と平郡の二郡を有する神余光
は、側室の玉梓という淫婦を寵愛し、酒食におぼれ、家中は乱れ切っ
ていた。侫人(ねいじん)の山下定包(さだかね)は、玉梓と密通して
権力を我が物とし、重い税をかけて、民の恨みをかっている。その山下
は出仕するごとに白馬に騎っていた。民は山下を討ち取る計画をしてい
る。それに気づいた山下は、神余を狩りに誘い、主君の白馬を毒殺して
「自分のを使ってください」と親切めかして白馬に乗せた。山下を狙っ
ていた民の矢は、定包ともしらず射た。定包は山下の狙い通り一命を落
した。そのいきさつすべてを乞食姿の金碗八郎(かねまりはいろう)が
耳にした。金碗八郎は主君の諫めていれられなかった忠臣で、身に漆を
塗って乞食を装い、主君の仇の山下を狙っていたのだった。



二進法で群がるピラニアの確か  前中知栄





 玉梓の怨霊が心地よげに金碗八郎の切腹を見届けている図
 
 
 

 
「八犬伝」初篇の壮絶なドラマの発端は、悪霊制裁から始まる。
乱世の房総半島に、源頼朝以来の名家・神余家(じんよけ)があり梟雄
山下定包が、妻の玉梓との奸策によって領主・神余光弘が殺害され、神
余家は滅亡する。そしてその山下を里見義実が神余家忠臣・金碗八郎
協力を得て討つ。山下征伐のあと、玉梓義実の前にひかれる。義実
仁慈の人で、いったんは玉梓の処刑を許そうとしたが、金碗八郎が強く
誅罰を主張したので、とうとうこれを斬首する。玉梓「金碗の不幸な
最後とその家の断絶」を予言し、義実の児孫を「煩悩の犬となさん」
怨みつつ、刑場の露となる。この呪詛が里見家の運命を変え、金碗の横
死を招く因縁となる。その後、山下討伐の功績によって滝田城・東条城
の二城を得た義実は、金鞠を東条城主に任命した。意外にも八郎はこれ
を辞退して壮絶な切腹死を遂げる。これは斬首された玉梓が摂り憑いた
ものだった。





玉梓惨殺の図


昨夜やられた紫のみみず腫れ  井上一筒





伏姫と八伏を富山に追う大輔の図



金碗八郎の臨終の際に、義実は、金鞠が流浪中に濃萩という女に生ませ
た男子に引き合わせ、その子に金碗大輔孝徳という名を与えることを約
束した。金鞠が息を引き取ると、玉梓の姿が影の如く大輔の身に沿うて、
やがてかき消すように消えたが、それを見たものは義実だけであった。



しみじみが滲み出ているお人柄  津田照子
 
 
 

 
  
八伏、
 

 
 
 

時はくだり長禄元年(1457)、里見領の飢饉に乗じて隣領館山の安西
景連が攻めてきた。落城を目前にした義実の前に、痩せ衰えた飼犬の
八房が姿を見せた。八伏は白犬だが、身体に「八所の斑毛」があるので
「八伏」と名付けられ、義実は里見の飼い犬とした。八伏伏姫の遊び
相手として育ち、可愛がられて、伏姫17歳になるころには、逞しい猛
犬となった。義実はいじらしい八伏に、何気なくつぶやいた。「こんな
時にお前が敵将・安西景連を啖い殺してくれたらなあ。その時は恩賞は
望む通りにするぞ。魚肉はふんだんに喰わせる」と。八伏は背を向けて
こばむ様子であった。つい戯れて、「しからば官職を与えんか、領地を
与えんか、それとも我が娘婿にして伏姫と娶わせんか」と言った。八伏
は、尾を振り頭をもたげ「わわ」と吠え、それを望むかの様子を見せる。
 
 


白い月犬歯じんじん疼き出す  太田のりこ




 
八房はその夜、安西の陣営深く忍び入り、安西景連の首を啖えて戻って
来たのである。はじめ義実らは、八伏が飢えのあまりに戦死者の人肉を
喰ったかと思った。しかし、首を洗ってみると、まがうことなく敵将の
安西の首である。大将を討たれた安西軍は総崩れになった。武将は逃げ、
士卒は里見方に降参、帰順した。滅亡必死であった里見軍は、一匹の犬
の大功のため、労せずして宿敵を自壊させ、義実は安房一国の国主とな
ったのである。



無無・空・般若心経みたいな日  下谷憲子





長槍で八伏を殺そうとする義実の図




さて、そうなると問題は、八伏への恩賞でえあった。相手は犬である。
義実は考えうる最高の待遇を八伏に与えた。山海の美味、八伏専用の
居室や布団、犬養部の役人設置など…。八房は牡犬である。八伏はその
恩賞に見向きもしなかった。ひたすら義実が口にした伏姫の婿にすると
いう約束の履行を迫るかのように見えた。義実は困惑し後悔した。犬に
姫を与えることなど出来るものではない。すると八伏は狂暴化し始めた。
そして伏姫の居室に乱入して、姫の袂を押さえ離さなかった。激怒した
義実は、ついに自ら長槍をとって八伏を殺そうとした。その間に割って
入ったのは伏姫であった。



惨劇の始まりというバナナ  蟹口和枝





牛に乗った童子の図




八伏は狸に育てられた犬であった。は異名を「玉面」という。
和調で「タマツラ」と読むならば、玉梓の名に通じる。八伏の災厄は玉
梓悪霊の仕業であったかと、義実の悔やみは尽きない。伏姫の伏の字は
「人にして犬に従う」と読む。これが伏姫の運命だったのか。伏姫は、
わが命を八伏に与える決意のもとに、犬と共に暮らした。
「八伏、お前に申しておきます。一端、義によて伴われて行きますとも、
人畜の区分婚姻の分は守ります」こうして伏姫は、読経の日々を過ごし、
八房に肉体の交わりを許さなかった。ある日、伏姫は山中で牛に乗った
笛吹き童子から、八房玉梓の呪詛を負っていたこと、読経の功徳によ
りその怨念は解消されたものの「八房の気を受けて種子を宿したこと」
が告げられる。



吹雪襲来わたしがなにをしたという  夏井せいじ





       伏姫切腹の図




犬の子を懐妊したと疑われた伏姫は、遺書を認め、自死を決意し、心静
かに最後の読経を始めた。ちょうどその頃、対岸に伏姫の婚約者・金碗
大輔が狩人に扮して鉄砲を構え、狙いを定めていた。大輔八伏
を富山に連れ去ったことを知って、八伏を殺し、姫を奪還しようと富山
の洞窟に近づいたのである。同じころ義実もまた伏姫の身を案じて山に
入っていた。山の霧が晴れた頃、大輔は対岸に八伏の姿をみて狙撃した。
弾は八伏を倒し、同時に伏姫の乳の下を射た。大輔伏姫を誤射したこ
とに驚き、腹かき切って詫びようとする。そこへ義実が辿り着き、伏姫
誤射は「逆に畜生とともに死のうとした伏姫の立場を救うことになった
と、大輔の自害を制する。誤射は、伏姫を掠めただけの傷であったので、
気絶していた伏姫は、やがて目覚め、父と大輔をみとめ懐胎を恥じ泣いた。
そして身の証しを立てようと、懐剣を腹につき立て真一文字にかき切った。



遠ざかるサイレン犬が泣いていた  月波与生





八犬士髷歳白地蔵之図




八犬士髷歳白地蔵之図の八人の童子は、服装も髪型もさまざま。中に女の
子が2人いる。八犬伝は八人の男犬士の物語でなかったか。犬塚信乃
坂毛野である。余談はさとき。
 伏姫割腹の瞬間、創口(きずぐち)から、一朶の白気(白く輝く不思議
な光)が閃いて、姫の襟に掛けていた水晶の数珠が虚空に舞い上がった。
数珠は空で千切れ、その一百は連なったまま地上へゆっくりと落下したが、
空に遺った八つの珠は、燦然として光明を放ち、どこへとなく飛散してい
った。伏姫はこれを見て「よろこばしや我が腹に、物がましきはなかりけ
り。
の結びし腹帯も、疑いも解けたれば、心にかゝる雲もなし」
と末後
の心を吐露する。感極まった大輔は、姫の血刀をとって再び割腹しようと
するが、義実は叱咤して止め、出家を命ずる。大輔は君恩に感じ、「犬」
の字を二つに裂いて「ゝ大」(ちゅだい)法師と改め、飛び散った八玉の
行方を探し、廻国修行の旅に出る。即ち、ゝ大「仁義礼智信忠孝悌」
の八つの徳目が刻んだ珠を所持する八人の犬士を探す旅にでるのである。


徘徊と思われそうで犬連れる  ふじのひろし

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