ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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新しい旅立ち
自己肯定せねば生きてもいられない たむらあきこ
八 重
(画像をクリックすれば大きくなります》
「新たなる旅立ち」
斗南に移った会津藩士たちは、
厳しい気候風土の中で塗炭の苦しみを味わっていた。
この苦境を脱するべく、柴家の長男・
柴太一郎
と
川崎尚之助
が、デンマーク領事で商人でもあった
デューク
から、広東米を調達しようとするが、
仲立ちの日本人貿易商が契約を
履行しなかったためにデュークから訴えられ、
両名が責任を負って、獄に繋がれる悲劇も起きた。
拒んでも逃げても追うてくる氷雨 中井アキ
佐 久 み ね
(画像をクリックすれば拡大されます)
それでも
容保
や
容大
を中心にまとまって、
こっくべんれい
なんとか開墾を成功させようと刻苦勉励する
会津の人たちであったが、明治4年7月14日、
廃藩置県となり藩主は東京に、また藩士たちも、
身の振り方についてそれぞれ決断を迫られることになった。
座布団に化けているけどオニヒトデ 井上一筒
八重一家は藩の消滅と
尚之助の悲運に沈んでいた丁度その時、
死んだと思われていた兄・
覚馬
の無事の連絡が入る。
覚馬に京には京の妻がいると知った覚馬の妻・
うら
は
会津に帰ることを決心、うらを残して
八重
と母・
佐久
、
そして姪・
みね
の3人が覚馬の住む京都を訪ねる。
水たまり母をしのぶにことかかぬ 森中惠美子
それから・・・明治5年、覚馬は女子教育充実のために、
京都に
「新英学級及女紅場」
を設立。
八重はここで女子寮の監督をしつつ、
機織・裁縫や礼法などを教えた。
女紅場の補助金の増額を、
京都府知事・
槇村正直
に直接掛け合うこともあった。
さらに、若い頃には体重が83キロもある偉丈夫だった覚馬が
外出する際にも、力自慢の八重が手助けをした。
忙しい中からひとときを摘む 立蔵 信子
兄が人力車を乗降する時には肩を貸し、
歩く折には兄を背負った。
覚馬が東京で
木戸孝允
や
岩倉具視、江藤新平
ら要人を,
訪問した折にも、八重は兄に同道した。
八重は新たな環境で実に生き生きと、
積極的に兄を支えるのである。
※ 女紅場=女子に裁縫や礼法、読み書き、英語・数学などを教えた。
この花が咲くまでせめて散るまでは 河村啓子
そんな時、八重は会津戦争で新政府軍を撃ち倒したことを、
隠そうともしないし、
かつての敵である
木戸孝允
や
板垣退助
らも、
八重の勇気に感嘆はしても、
それを遺恨とするようなことは全くなかった。
また八重には、相手が要人でも平気で口を利き合えるような
肝の据わったところがあった。
「言いたいことをはっきりと言い、やりたいことをやる」
その彼女の考え方、生き方が、
苦境を撥ね返していくバイタリティーの源になっていた。
夢が風なのか風が夢なのか 山口ろっぱ
[3回]
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y2013/08/10 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
八重・会津戦争を語る
しのぶ夜の雪の重さが背なにある 森中惠美子
断髪・男装の八重
(画像は拡大してご覧下さい)
帯刀し銃を携えた八重と開城時に残した和歌。
「八重ー会津戦争を語る」
私の実家は、会津侯の砲術師範役でございましたので、
ご承知の8月23日、
いよいよ城内に立て籠もることになりました時、
私は、着物も袴も総て男装して、
麻の草履を穿き、両刀をて手挟んで、
元籠七連発銃を肩に担いでまいりました。
弟の
三郎
と申しますのが、その春、
山城国・鳥羽の戦で討死しましたので、
その形見として着物と袴がつきましたから、
―私は、弟の敵を取らねばならぬ、私は即ち三郎だ
という心持で、その形見の装束を着て、
一は主君のため 一は弟のため、
命のかぎり戦う決心で、
城に入りましたのでございます。
やわらかく押しているのに赤い湯気 岩根彰子
わたし
入城後、妾は昼間は負傷者の看護をしていましたが、
今夜襲撃と聞きましたので、
そっと支度をして、
「大小」
を差し
「ゲベール銃」
を携え、
夜襲隊と共に正門から出ました。
門を出て暗闇を進んで行くと、
敵の姿がちらほら見えたので、
ソレッとばかり斬り込みました。
無論、喊声を揚げずに勝手次第に斬りこんだので、
敵の周章加減は話しになりません。
まるで子供の打撃に遇うた蜂のすの如く右往左往散乱し、
中には刃向かう者もあり、
また同士討ちをしている者もあったが、
敵に増援隊が来ると、漸く静まり猛烈に逆襲してきました。
水際にまだ留まっているあした きゅういち
ケーベル銃
しかし勝手を知っている城兵が各処に出没して、
縦横に斬って廻り、また火など放ちました者ありて、
随分、敵をなやましたようであります。
妾も命中の程はわかりませんが、よほど狙撃をしました。
散りざまのいろいろ花も人間も 内藤光枝
別の日には、次のようなこともありました。
妾一人にて出撃せんと、
夜暗に乗じ御台所門より出て太鼓門に来ると、
11、12歳の子供等10人ばかり、
いずれも手頃の長さに切りつめたる槍を携え
えらい元気で集合していました。
そのうちの一人が妾を見て、
「ぜひ夜討に私共を同行を」
と頼みますので、妾も、
「こんな子供も君のために命を捨てる覚悟か」
と思い暗涙を催しました。
生え際からいや耳朶から透きとおる 酒井かがり
妾一人なら格別、子供等を同伴することは一応、
「殿様に御伺いせんければならぬから」
と子供等を待たせて、
黒鉄御門に至り此由を申しあぐると、
殿様は、
「一同の健気な志は褒めて遣わすが、
女や子供のみを出撃さしては、
城中兵なき事を示すが如きもので、
かえって城中の不覚となるから差し控えるよう」
にとの仰せなれば、
その旨、子供等にも懇々と申し含めて解散させ、
妾も止む無く出撃を中止しました。
(一番印象に残っているのか、この場面を八重は幾度も繰り返し語った)
〔山本(新島)八重子刀自の断片〕
歯周病なれどイワオコシを齧る 井上一筒
[3回]
y2013/08/07 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
覚馬と時栄
あきらめのよい女が好きといわれても 森中惠美子
一つの道は斗南、一つの道は京へ
(画像は拡大してご覧ください)
「小田時栄と山本覚馬」
蛤御門の変で負った
山本覚馬
の目は、徐々に悪化し、
視力を失いつつあった。
長崎でオランダ人医師・
ボードイン
に診察を受けたところ、
失明は時間の問題との診断であった。
そのとき覚馬と親交のあった
小田勝太郎
が、
目を悪くした覚馬の為に、
13歳の妹・
小田時栄
を世話係に就けることにした。
川という象形文字に流される 原 洋志
覚馬が幽閉中に書きあげた「管見」が、
薩摩の
西郷隆盛
や
小松帯刀
らに認められ、
覚馬は幽閉中の身でありながら、優遇されていた。
時栄は、薩摩藩の許可を得て薩摩藩邸に通い、
幽閉中の覚馬の身の回りの世話を続けた。
三センチあけて座っている二人 三村一子
「新政府かくあるべし」
という提言をまとめた
『管見』
が、
西郷隆盛はじめ薩摩藩士や
岩倉具視
らを感服させ、
明治2年に覚馬は釈放される。
幽閉されてから1年が経過しており、
すでに会津若松城は落城し、会津藩は降伏していた。
釈放後、覚馬は時栄と同棲を開始する。
覚馬は42歳で、時栄は16歳。
(明治時代に淫行条例のような法律は無いので罪には問われない)
どうしても泡にする気の泡立て器 筒井祥文
明治3年、覚馬が京都府の顧問に就任後、
長州藩出身の槇村正直が京都府の大参事に就任し、
覚馬
は
槇村正直
と共に、
京都の産業復興に力を入れる事になる。
明治4年、京都府の顧問となった覚馬は、
京都府の槇村正直の自宅の隣にある豪邸に引っ越した。
引っ越した先は、江戸の町火消し・
新門辰五郎
の旧邸である。
(ちなみに新門辰五郎は徳川15代将軍・徳川慶喜の妾・お芳の父親である)
焼酎の湧く井戸 米を降らす雲 井上一筒
新門辰五郎の旧邸に引っ越してからまもなく。
会津から
八重
と
母・さく
と娘の
みね
を京都へ呼んだ。
覚馬は両目の失明に加え、
軟禁生活の影響もあって足が不自由になっていた。
そのため会津戦争の混乱の中で、
米沢に移り住んでいた家族の行方を捜しきれず、
ようやくその無事がわかったのが明治4年だった。
八重は26歳になっていた。
好き嫌いみんな憂き世の風のせい 大海幸生
川崎尚之助から届いた離縁状
覚馬の京都における生活状態を知った覚馬の妻・
うら
は
なくなく会津に残った。
うらとの決着がついた覚馬は、
晴れて
時栄
と結婚をした。
徳富蘆花
の失恋小説・「黒い眼と茶色の目」
≪時栄と覚馬の間にできた子・久栄が徳冨蘆花の恋の相手である≫
アフリカの土に還そうキリンの骨 新家完司
[4回]
y2013/08/03 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
萱野権兵衛
生き延びて陰に廻れば風神雷神 墨 作二郎
日新館天文台跡
會津藩校・日新館の施設の中で、
戊辰の役の戦火から唯一残った「天文台跡」。
さかのぼれば藩祖・
保科正之
は
渋川春海
を重んじ、
会津藩と天文学の縁は深い。
日新館では、天文学の授業も行われていた。
基底 12間余
(21.71m)
、台上部 5間半
(9.9m)
、高さ 3間半
(6.4m)
(画像をクリックすると拡大されます)
不連続線というけどずっと雨である 田中博造
「萱野権兵衛ーエピソード」
萱野権兵衛
の自刃の時刻がせまる。
権兵衛は保科家、松平家の家臣たちに別れをつげ、
静かに別室に入る。
しばらくして介錯人・
沢田武司
が帰ってくると、
「事は無事おわりました。死に臨み従容自若、
顔色すこしも変わらず、
誠に立派なご最期でございました」
と報告した。
声がした気がする散りぎわの椿 片岡加代
自刃直前に権兵衛は沢田に語りかけた。
「腰のものは、貴方の常に差している刀か」
権兵衛の問いに、
「実は保科家から忠臣をもてなす道として、特に下されたもの」
と沢田が言葉を返すと、権兵衛は、
「見せてもらいたい」
という。
そして権兵衛は、その刀を沢田から受け取り、鑑定しながら、
「貞宗の名刀ではないか」
と言い当てたという。
さざれ石なってからはよく喋る 一階八斗醁
その後、権兵衛は、丁重に刀を沢田に返すと
「最期に臨んでよい目の保養をした。見事にお願いする」
といい、神色自若、一糸も乱れなかった。
権兵衛と最後まで一緒だった
浦川
も
「その朝も言語・動作すべて平生と変わらず、
いま死地につく人とは思われない静かな表情で、
別に遺言する事もないと述べられた」
と述懐している。
権兵衛享年四十一歳。
戒名は報国院殿公道了忠居士。
≪権兵衛の遺族には
、松平容保
から金五千両、
のぶのり
自刃見舞いとして、銀二十枚、
喜徳
からは銀十枚、
照姫
から銀二枚を下賜されている≫
右心房一拍おいて右心房 酒井かがり
[2回]
y2013/07/31 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
会津人夫々の戦い
雲梯になってしまった豆の藁 河村啓子
降参の会津城 (
画像は拡大してご覧ください)
「明治の会津人」
鶴ヶ城の開城後、生き残った藩士たちは猪苗代に送られた。
老人と婦女子は許されたが、八重はあくまで、
「自分は三郎」
と言い張って、猪苗代に同道しようとし、
途中で女だと見破られて追い返されている。
その後、藩士達は明治2年
(1869)
1月から、
東京と越後高田とで、謹慎するが、
同年9月に
容保
の罪が許され、
11月には容保の嗣子・
容大
が青森下北半島に
三万石の地を賜った。
窓を描く息がしやすくなりました 竹内ゆみこ
容保が帰国後謹慎した御薬園
会津人たちはこの地を
「斗南藩」
と命名し、
翌年から移住が始まる。
しかし斗南は、気候と土地柄の厳しさから、
実質は七千石ほどであり、
着のみ着のまま移住した藩士達は、
たちまち飢えと極寒に見舞われて
塗炭の苦しみに叩き落とされるのである。
上を向き夢を追ってた飢えの日日 山森一弘
斗南の暮らしを柴五郎が次のように回想している。
「この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、
まこと流罪にほかならず。
挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」
『やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、
薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生きぬけ、生きて残れ、
会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ』
と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ、
犬肉の塩煮を飲み込みたることを忘れず」
(柴五郎著、石光真人編著『ある明治人の記録』)
それも誠だ火葬場がそこにある 筒井祥文
この苦境を脱するべく、
柴家の長男、
柴太一郎
と、八重の夫・
川崎尚之助
が,
デンマーク領事で商人でもあった
デュース
から
広東米を調達しようとするが、
仲立ちの日本人貿易商が契約を履行しなかったために、
デュースから訴えられ、
両名が責任を負って、獄に繋がれる悲劇も起きた。
わが片隅あおかび咲いてゐたるかな 大西泰世
容保と家臣たち
(立っているのが容保)
それでも、容保や容大を中心にまとまって、何とか開墾を
成功させようと刻苦勉励する会津人たちであったが、
明治4年
(1871)
7月14日に
廃藩置県
となり、
旧藩主は東京に住むことを命じられる。
容保一家が東京へ移ると、旧藩士たちも身の振り方について
それぞれ決断を迫られることになった。
騒乱に泳ぐワラにすがりながら 山口ろっぱ
広沢安任
彼らはなお
「逆賊」
として白い目を向けられており、
進める道は限られてもいた。
しかしそれでも会津人は、
不屈の魂
を決して失わなかった。
斗南に残り、開墾を進めた人々もいた。
代表的な人物が、
ひろさわやすとう
幕末に京都で公用方として活躍した
広沢安任
であろう。
彼は斗南藩の小参事を務めた後、
「野にあって国家に尽くす」 の信念を貫いて、
斗南に
洋式牧場を開設
・成功させ、
日本の牧畜業の発展に大きく寄与した。
思い切り自分のために笑うんだ 山口美千代
山川 浩
もう一つの流れは、東京などで活躍した人々である。
佐川官兵衛
は明治7年、時の大警視・
川路利良
に乞われ、
旧会津藩士300人と共に警視庁に奉職する。
明治6年の政変で
西郷隆盛
らが旧薩摩藩士を引き連れて
下野した穴を補うためであった。
また、
山川大蔵
(浩と改名)
は、斗南藩で権大参事を務めた後、
日光口で戦った土佐藩の谷千城の推薦により、
明治6年に陸軍に出仕している。
明治10年の西南戦争では、両名とも九州に出陣した。
朝日がのぼる進軍ラッパ吹きながら 足立千恵子
官兵衛は警視庁の隊を率いて攻撃中に戦死するが、
警視庁の会津人たちは奮戦を続け、
「戊辰の仇」
と叫びながら薩摩藩を切り崩していった。
一方の山川浩も、薩摩軍が攻囲する熊本城に救援部隊として
真っ先に突入する武勲を挙げている。
この戦争に臨んで浩が詠んだ句が残る。
ますらお は
"薩摩人みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きが鈍きか"
あと出しジャンケン 八重の桜咲く 高島啓子
白虎隊士から東大総長になった山川健次郎
武ではなく文で身を立てた者もいる。
山川浩
の弟・
健次郎
は戊辰戦争を白虎隊士として戦ったが、
後に政府派遣の留学生に選ばれ渡米。
人一倍の熱心さで物理学を学び、
帰国後は東京帝大教授に就任。
やがて東京帝大、九州帝大、京都帝大の総長を歴任する。
よく売れている折り畳み式の虹 井上しのぶ
活躍したのは男性ばかりではない。
山川浩の妹・
捨松
も政府派遣留学生として渡米。
帰国後は薩摩の
大山巌
と結婚し、その洗練された身のこなしと
教養から
「鹿鳴館の花」
と称された。
また、
「看護婦育成や女子教育の発展」
にも大いに尽力した。
うりゅう いわこ いぶか とせ
実は瓜生岩子や井深登世、さらに
山本
(新島)
八重
など、
会津出身者で看護婦として活躍した女性は多い。
美しき人の名で呼ぶ庭に立つ 森中惠美子
思案橋事件
もちろん会津人の中には、
明治9年
(1876)
の
「思案橋事件」
を起こすなど、
新政府にあくまで抵抗する者たちもいた。
だが、明治以後も
「藩のため、国のために尽くす」
という
人生の目的を見失わず、自らの務めを誠心誠意果たし、
社会に大きく貢献する人物を数多く
輩出していることも確かである。
思案橋事件=萩の乱に呼応しようとした旧会津藩士たちが逮捕された事件
輪郭線なぞって答えたしかめる 山本昌乃
ちなみに八重の兄・
覚馬
も、
京都の薩摩藩邸幽閉から釈放された後、
その見識が認められて京都府の顧問となり、
八重や母・佐久を呼び寄せて、
ともに京都の近代化に大きな役割を果たした。
「ならぬことはならぬ」
の精神を堅持し、
会津武士の誇りを失わず、あくまで
「公」
のために尽くす。
それも
「逆賊」
の汚名は正当なものなのかを天下に問う、
会津人の生涯をかけた戦いだったのではなかろうか。
(歴史街道)
世が世ならばと記念硬貨が鼻ふくらます 岩根彰子
[6回]
y2013/07/27 09:30 z
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